はてなキーワード: 画一的とは
大勢にとっての「美」というのは、建前をどう取り繕おうと厳然として存在していて、ミスコンが無くなろうが表現を法律で規制しようが、消し去ることは不可能だ。
「建前から始めずに何から始めるんだ」というが、臭いものに蓋をするやり方では本質的な解決には決して至らない。
統計的に「大勢の人が美しいと感じる容姿」「大勢の人が不細工と感じる容姿」は確かに存在するのだから、それを単にオープンにしようという行為を圧力で規制するのは、それこそが「統計的な美の基準であっても公表すべきではない」という価値観の押し付けであり固定化だとさえ言える。
大切なのは2つ。
「統計的な美の基準」のもとで「評価が劣る者」が、不当に差別されることのないようにしていくこと。
そして、「統計的な美の基準」とは異なる「個人にとっての美の基準」を正当に評価していくことだ。
私たちの社会は先天的な能力の優劣に応じて、得るもの失うものが異なる社会を肯定している。
それこそ知能に応じて、その後の人生が人それぞれになるのは周知の通りだ。
しかし一方で、極度に知能の劣る者(知的障害を抱えたもの)に対する不当な差別は肯定されていない。
能力が劣るものでも、ある一定水準以上の生活を行うことは基本的人権の範疇として保障されているし、例えば「運動能力に難があるから頭脳労働であっても雇用を拒否する」などといったような因果関係のない不当な扱いは一切認められないとされている。
「統計的な美の基準」において劣ると評価されたものが、優れると評価されたものと異なる人生を歩むことは肯定する。その上で、特段に外見が醜いとされる者であっても極端な不利益を被らないよう適切な保護を行っていくこと、容姿の美醜とは因果関係のない事柄についてまで容姿の劣る人間に不当な扱いを行わないようにしていくことができる社会を目指す方が、よっぽど直截的でしかも現実的だと私は思う。
また、元増田が危惧している「統計的な美の基準」が「個人にとっての美の基準」を侵食して価値観が画一的に固定化していってしまうリスクについては確かに存在すると考えられるが、これを防止するため「統計的な美の基準」の公表(表現)自体を規制しようという発想は、如何にも筋悪だ。
問題の本質は個々の人間自身が「自身の価値観がマジョリティのそれと異なっていても良い」という自信を持てず、安易にマジョリティの意見に流されてしまうことの方にこそあるのだから、マジョリティの意見を覆い隠してしまっては、自分の価値観に自身の持てない人間は、実態の不明瞭となったマジョリティの価値観と自分の価値観の食い違いを今以上に恐れるようになって、今以上に「空気を読む」ことに神経を使い、自身の価値観をマジョリティのそれと一致させようという忖度を誘引するキッカケを生むことにさえ繋がる可能性がある。
「統計的な美の基準」と「個人にとっての美の基準」が異なっていても良いのだと啓蒙すること。そのために必要なのは「統計的な美の基準」の実態を隠蔽することではなく、それを明らかにした上で個々人の価値観を尊重することの大切さを知らしめていくことにこそあるだろう。
美を追求するコンテストを廃止するなんて美を賞賛する事もダメなのか!
知識量を決める事と何が違うのか!
みたいな知性のかけらもないブコメ並んでてブクマカって馬鹿しかいねえな〜と思った次第。
馬鹿には分からんかもしらんが、一応説明すると人の外見において、何が「美しい」ものなのかってのがもう人に決められるもんじゃないって時代に来てんのよ。
自分の美、の基準は自分で決めよう、自分のありのままの姿を自分で認めよう。
他人が優劣をつける事はやめようって話ね。
背が低くても足が短くても、美人。
ニキビがあっても、肌がきめ細かくなくても、お尻にセルライトがあっても、それも美しいじゃない、って話よ。
もちろん建前でもあるよ?
大っぴらに
肌がきめ細く色白でニキビもなく足が長く髪がサラサラで艶があって額が狭すぎず広すぎず姿勢が良くてお尻が垂れてなくて二重で目が大きくて鼻が高くてどこかに気になるアザも大量のホクロもないって子
を、美人として優劣をつけ評価する事は、そういう美の基準を作るって事になるんだよ、分かる?
持って生まれたアザやチリチリの髪や短くて太い手足を否定して、その昔ながらの美の基準を目指そうって価値観自体がもう古いって話。
そしてそれこそそうした価値観から遠い人が傷ついて苦労して来たって話ね。
もちろん芸能みたいな商売はまだまだ利用すると思うけどさ、それとこれは違うやん?
あんな人間を売り物にするような業界自体が普通じゃないんだからさ。
知識とか運動みたいに明らかに多い少ない速い遅い強い弱いで優劣がつくもんじゃねえんだよ、美ってのは。
誰かが勝手に決めてきたもんなんだ。
んで苦しんできたもんなんだよ。
その水原希子もケツのセルライトを修正せずに出して一部ではなんで汚いものをって言われたんだよ。
それが美だよ。
まあ水原希子だって顔小さいし足長いけど、そうじゃない子だって少しずつモデルとして活動出来てきてるじゃん。
それを認める事なんだよ。
何であんなのが、って言うのは間違ってんだ。
そうなんだよ、もはやモデルって何って話で良いんだよ。
いやそれでもそれなりに色々あるだろうけどね。
リスクがあってもね。
それを否定は出来ないよ。
でもな、そうして整形願望を持つ子たちの根っこには、過去に形成されてきた画一的な美の基準があって、それに伴う世間の評価が存在してるからなんだよ。
ありのままの姿でずっと評価されて認められてきてそれが世間で当たり前になってりゃそんなリスク犯さないんだよ。
鼻が高いのが可愛いよねって価値観が男女共になければ、そんな事しなくて良いんだよ。
よくよく考えるとさ、健康を害してまでウエストを締め上げたコルセットの時代からまだそこまで進歩しちゃいねーんだよ人類。
だから少なくとも大っぴらな美の基準を固定化する行為は否定されて然るべきなんだよ、わかる?
ちなみに俺は高校生の時に学校のミスターコンテストで優勝した事あるけど、この流れは素晴らしいと思う。
これは冗談で言うけど、おまえらブサイクブスばっかのくせになんでルッキズムの片棒担いでんだよ。
というかそこにコンプレックスあるやつほど執着すんのかもな。
あれだけ従わされてきたルールが突如変更になるって、俺私のこれまでは何だったのって。
でももう楽になろうぜ。
そんで自分達の子どもの代では過去の美の価値観から解放してやろうぜって思わんのかね。
追記:アノニマスでもなんでもないけど読んでくれてあざす。
だいぶ煽ったおかげで読まれた気がするけどもその部分の反発やご指摘は仰る通り。
自分の云々は蛇足だしどうせ僻みだろみたいな反応への予防線なんか張る必要なかったし馬鹿だったと思う。
多分自分がブコメするほうでもそこ一言嫌味入れると思うしのっけから馬鹿だなんだという部分で不快になった人には申し訳ない。
ただ揚げ足取りや内容への言及なしなものが大半になっちゃったのも否めずなんつーか諸刃だった感もあって。
全部いちいち注釈入れて全方位配慮型で中庸に仕上げた文章読まないでしょ?という気持ちは今もなくはない。
重要なのは美の基準の話だけど、生理的なレベルの好き嫌いに関しても俺は後天的なものだと思うんだよね。
生まれた時から周りに自然にいる人に対して自発的に生理的嫌悪は起こさないんだよ。
いわゆる顔面うんたらみたいな障害持ってる人とかも、出会ったことがなければ衝撃を受けるのは自然な事だけど、仮に身近に当たり前にいれば生理的嫌悪も起きないわけよ。
現代の美的感覚も西洋の文化からの受け売りのものが多数であって、心理的なものですら必然的な現代生活の刷り込みあっての後天的な環境要因あってのものだと思うわけ。
現代文明に触れてないジャングルの奥の少数民族が同じ美的感覚持ってると思うか?って話。
だからそれらも刷り込みであって、その土壌を作ってきた1つの美の様式を小さなとこから解体していくべきと俺は解釈してるわけ。
それはある種文化を壊すことにもなるけどそれがあるべき人間の進歩には間違いないわけよ。
海外の流れがそういう考えを元にしてるとは思わんけど、自分の美の基準を自分で決めるべきってところを掘ってくとそういう話にもなるわけ。
今までの基準を壊していく事、刷り込まれてるものを一旦全部リセットしてっていう。
ファッションだって黒人がヴィトンのショーを数日前にやって、ストリートの手法がどんどんラグジュアリーにも本格的に受け入れられて、まあそっちはマーケットベースで動いてるけど、そういう一連の流れと多様性と価値観の進歩は全て共鳴してんのよ。
藝大みたいなとこは、って言ったのはアートとかそういうのは価値観を先に進め時代を牽引するものであって、だからこそ表のミスコン?にはそういう意図があった中、保守的な従来型のミスコンをやるってのがそりゃ違うでしょってなるのは必然って話。
あと運動能力や知識量は明らかな勝敗がつけれるものであって、生まれ持ったものに左右されるのは確かだけど、美の基準が後天的に作られてるっていう前提からすると同列には語れない。
それも比較するな、となったら努力を否定する事になるってのは分かるけど、運動能力や知識量は目指すべき方向性が決まってる。
それに対して美への努力は何を持って美とするか、を誰かが決めるものではないって話。
あと芸術点のある競技の話に関して鋭いツッコミあったけど、これは競技に限らず芸術作品、文芸、ファッション、音楽とか全てにおいて権威が評価を決める事への反発の動きもあって時に変動するからこそ基準に対して流動性があって良しなわけ。
それにそれらは人が作った競技だから基準を人が作っても良いわけよ。
でも美人の基準は流動性がなく(ほんとは若干あるけど、流行りの顔とか。でも生理的なものとか言われるくらいだから根底はあんまずっと変わってない)、なおかつ人の外見なんか人が生み出した競技ではなくその美の基準だけ人が生み出して、それで苦しむ人がいるわけやん。
んでミスコンはそんな外見の優劣なんて競技に参加したつもりもない人間を判別する基準を制定する事になる行為だって話。
だから取りやめる事は必然であって、他の競技も出来なくなるとかつまらない時代とかって批判はおかしいっしょっていう。
この辺が話の本題で本質ね。
ブコメが本質の話にあまり至ってないのは俺の責任でもあるけど、少しでも気にかかった人はこの追加まで読んでくれると真意は伝わると思う。
再追記:タイトルや煽りで損してるのも分かってるけど敢えて改変はしないつもり。
キモい、とかそういう内容に言及しない批判はどうでも良いし、的外れな批判を取り上げて持論を補強する卑怯なやり方もしないっす。
でもブコメの意見がめちゃくちゃバラバラでそれは良いのかなと。
勢いで書きなぐったのでまとまってないのは申し訳ない。
誤解を生むのも自分のせいかなと思うけど、未だに「黄金比みたいな美の基準は決まってる」みたい論は、それ後から決まってきたものであって、例に出してる現代文明に触れてない人間には通用しないんじゃない?=文明の影響で黄金比を感じる土壌が出来てるのであって後天的なもんだからそれを普遍的な美だと決めつけて人様の顔に当て込んで評価するのやめようぜって話。
で、そうした美の基準は多様で良いって前提なら従来型の画一的な美の基準に照らした評価を継承するミスコンは無用で過去の価値観を補強し定義する害悪って言ってる。
美以外にも努力は否定してないし、ただ美の努力の方向性を勝手に誰かが決めてくのは終わりって話よ。
肌が綺麗とかどーとかよ。
ありのままでええやん、が本旨。
何回も言うけど、他の運動や芸術などのコンテストや競技は競技自体を作ったのが人間であり、何かを行ったもの、を評価するものだから評価基準を人が作って良い。
一方、顔やスタイルなどの造形は生まれた時にある程度決まっており、何かを行ったもの、ではなく存在する外見そのものを評価する事でもあるから、評価基準を人が作るべきでないって事。
努力っつっても外見に関して何に向かって努力すべきかを他人が決めるなって話。
そこからデフォルトで遠い人間がネガティブな評価を受けるから、以上。
だったら中身だけでやれって話になるので。
余談だけど俺はめちゃくちゃ性格悪い自覚はあるから言及しなくて良いっすよ。
まあそりゃ、たとえば放火欲求のある人も放火することを禁止されてる
んで幼児との性行為は現在の法律で判断できるレベルでは幼児に対する暴力になるから(仮に暴力的な意図を持たなくても、麻薬やら過失やらある種の暴力としてみなされる事例として、そう判断される)
もしそれを実行しなくてはいけないのがロリコンであるなら現在の法律で差別されてるのは
とはいえ、もちろん幼児との性行為が暴力になるという判断は画一的すぎるかもしれないから
まあ増田みたいな人が研究して発達すれば除かれる可能性もあるんではないかな
だから、やっぱり自分に責任がないってだけじゃ、権利主張にはやっぱり無理筋かなと思うね
それは権利侵害しないかどうか確認する手立てになりえないから、重大な問題を除けてない
最先端だ日本の文化だと持て囃されたそれらは、飽く迄も表現の一つとしてアニメを選んだ作品なんだよ。
それらを作った人達は、インスピレーションや教養の大元がアニメな訳じゃない。
ところが、アニメだけを見て育った連中がアニメを作ろうとしたら、そりゃあ商売としては売れても作品として評価されるのは難しい。
アニメに限らず、ラノベ何かもそう。大ヒット作者は必ず何か別の下地を持ってる。
後は単純に劣悪極まりない労働環境でアニメーターがもう入ってこない育たない。
旧時代に命を削って職人芸で作ってた人々は、多くがデジタル化の時に消えた。エヴァだのビバップだの上げてるけど、その頃の中堅が30代だったらもう50過ぎだよ。
デジタル化したおかげで綺麗で画一的なアニメになったけれど、作画担当者の色は見難くなって、個人のやりがいだけに依存するのは辛い所よ。
んだけど、はてなですらそういうの言いにくい感じが出ていて。面倒くさいなぁと。
別に同性愛だから興味が無いんじゃなくて、芸能人同士のヘテロの結婚にだって、大体は大して興味が無いだけなんだけど。「素晴らしい!」「勇気がある!」「よく言った!」みたいな事言わなきゃいけない。意識高い組合の人はそれを言わざるを得ない感じなのが、正直わずらわしいです。
「あなたの人生だから好きにすればいい」としか思わないんですよね。誰かが「人を好きになるのは性別なんて関係無い」という結論に達するのは勝手だと思うけど。「私は異性しか好きにならない」「私は同性しか好きにならない」と思っている人がいるのもその人の勝手だろうと。
なんか素敵な事言っている風なのも、本人のせいというより意識高い系周りがそういわせているのか知らないけど。
別に「積極的に妨害はしないけど、同性愛はちょっと自分的にはあり得ない」って感覚でも構わないと思うんですけどね。そう言わせない感じが好きじゃないのです。「どう思っていてもいいけど、直接的に邪魔をするのは止めよう」くらいが一番穏やかな結論じゃないかと。なんか人の考えを画一的にルール化して、それ以外を罰しようとしているように感じるんですよね。
「友情があると思う人」と「友情はないと思う人」がいるじゃん?
「友情があると思ってた人」が次第に相手のことを好きになる場合も、逆の場合もあるじゃん?
逆にセックスはしても恋愛感情は持てない、ってこともあるじゃん?
無理だよ、画一的に当てはめるの。
しかもLGBTとかもあるしね。同性も異性も関係なくなってきた。
だから「異性同士の友情はあり得る!」って心底信じてる人(特に実体験を元にそう思ってる人)は、限られた相手の場合だけで、しかも相手もそう思ってるとは限らない、ってのを頭に入れて欲しい。
「――進級祝いだよ」
初夏も迎えていないのに油断すると汗がにじむ、春の陽気とはいい難い日だった。すこしだけ呆けていた私は、それが机上に鎮座したパソコンのことを指しているのだと気付くのに時間を要した。
「進級祝い?」
そう口にして、彼女と同じことを言っていると思った。気恥ずかしさを誤魔化すように、胸ポケットから煙草とライターを取り出す。火を点けると一瞬燐の燃えるつんとした匂いがした。
「うん、進級祝い」
そう言って彼女は愉快そうに笑った。
私は日記を書くことにした。
私のことに興味を抱く人間など希少だろうが、このはてな匿名ダイアリーという戦場では、何らかの記号がなければ、不特定多数の日々という奔流に押し流され、何事もなかったかのように埋もれてしまう。
彼女にそう言ったので、私は、ここで私のことを記そうと思う。
当時の私は大学生だった。自身の不徳から同級生より二、三、歳を重ねていたが、好きなものを持ち、夢を持ち、自由を持つ、有象無象の学生の一人だった。
大学生になる前は、モノ書きに憧れていた。
昔から文章を読み、書くのが好きだった。尤も、幼少より親交を深めていた文筆や長文という名の友人は、短文型SNSの流行によりに疎遠になってしまったことは否めない。
それでも私は期待していた。
大学生になれば、腐るほど時間を持て余すだろう。上質で心地よい文章に好きなだけ埋もれることができるだろう。そうしていつか、
だが、漠然とモラトリアムを信じていた私を迎えたのは、勉学や部活動やその他雑務に忙殺される、いかにも大学生らしい生活だった。これでは趣味を極める余裕などなかった。少なくとも私程度の容量では困難だった。
「忙しいって、充実してるってことでしょ」
「僕は忙しいなんて感情が、充実の証左たるわけがないと思う。多忙は絶対的に時間を圧迫するもので、人が創造する余地を奪い気力を追いやってしまう悪魔だよ。そんなものを充実と勘違いする奴らなんて、ハムスターにでも生まれ変わって回し車で走り続けてればいいんだ。きっと幸せだろうさ」
「でもごめんね、そんなつもりじゃなかったんだ」
図や数式に意味を見出せず、記号として扱うことが出来ない。想像したものを、今見ているものでさえも、絵という形に還元できない。運動をする際にも、関節や筋肉の仕組みを文章で理解して、やっと思考と動作が一致する。生き辛い脳の作りをしていると思う。
彼女は違った。
図だろうが数式だろうが、そこにあるものをあるがままに扱った。スケッチが上手だった。空想の世界でさえ表現することができた。スポーツなんて、見ればすぐに何でもこなした。
――勘かなあ、と。
なんでもないことのように彼女は言った。それが心底恨めしく、心底羨ましかった。
「——私は君が羨ましいな」
彼女は言語を介した思考が苦手だと言った。映画の感想を聞けば楽しかった、という画一的な表現しかできなかった。ラインのやり取りは苦手だからと電話を好んだ。読書感想文なんて本を読む気も書く気も起こらず、コピペをして怒られたらしい。
多忙という悪魔に打ち勝って、彼女との差異を埋められるだけの、創造性を再獲得すると誓ったのである。
そうしてたくさん日記を書いた。何度も筆をとり、何度も筆を手放しそうになりながら、日記を書き続けた。
ブコメもたくさんついた。批判的なコメントも肯定的なコメントも数えきれないほどあった。
創造性を再獲得できたかはわからない。大学生だろうが社会人だろうが、忙しさは私を襲い続けた。私は今も悪魔と戦い続けている。
「ただいま」
「おかえり」
相変わらず彼女は直情的というか、動物的というか、あの頃のままそこにある。泣き、笑い、怒り、喜び、日々忙しそうだった。
胸ポケットから煙草を取り出した。ホルダーにセットすると、独特の酸味臭が鼻を突く。
画面をこちらに向けていた。
「これ、君でしょう」
――僕はその喜びを、未だに言語化することができない。
腐女子初めて結構な年数が経ったけど、いまだに馴染めないのが推しキャラ=受けという常識にも似た感覚
みたいなプロフィールのひとめちゃくちゃ多いよね?
自分が好きになるキャラの傾向と自分の受けの好みが近いとかは分かるんだけど
ぜんぜん違う、どんなキャラだろうと画一的に「好きだから受け」になるひとが謎
ていうかその「だから」って何も「だから」になってなくない?どういう道理が通ってるんだそこに…
ていうか攻めはどうでもいいんか!?ってなる
「かわいいところ」がつまりエロシーンだけを指してるならまあ分かるけどそれだけじゃないだろうし
この人は受けっぽいなーとか、受けだけどこの二人だと相手のほうが受け力強いからこっちが攻めだな、とかないのかな
私推しが必ずしも受けじゃないどころか推しキャラと推しCPが違ったりすることもザラにある…
話がそれるけど今一番ハマってるCPの攻めが推しキャラなんだけど、
妙に受けキャラ至上主義が多くて、攻めに興味ない通り越して攻めdisするひとめちゃくちゃ多くて
私は受けくんも大好きだよ…二人一緒にいてこそじゃん…なんで…私は普通にCPの萌え語りがしたいだけなのにどうして攻めdis聞かなきゃならないの…
推しキャラとそうじゃないキャラで愛の差があるのは仕方ないことだと思うんだよね
でも「受けのかわいいところが見たい」がために攻めを利用してるだけなの、ほんとにやめてほしい
要するに片方しか好きじゃないのにそいつを持ち上げるためだけに相手を使わないでってことです
推しキャラ=受けのひとが皆そうとは絶対に言わないけどなんか自CPいると心が削られる
あ、これは推しキャラ=攻めのいわゆる攻め厨のひとでも別に同じことなんだけど
単に世の中推しキャラ=受けのひとのほうが多いから、被弾率が高いので…
しかし困ったことに今のCPで数少ない攻め推しのひともそれはそれで受けくんに興味がないんだよな!!!ナンデ!?
やだよ〜〜〜私は二人の話がしたいよ〜〜〜〜〜〜
ってことを仲いいリバ民に愚痴ってたら「リバなら平和だよ」って言われたけど
私リバは苦手なんだよごめん…って申し訳なくなった
ままならねえ 偏食がなおらない
今流行っているから一番すぐれている、という解釈はちょっと乱暴かもしれん。
クルマにも流行り廃りはあるし、今のメーカーは流行ってるものしか作ろうとしない(作る体力がない)のでどうしてもラインナップは画一的になる。
たとえばステーションワゴンも一時期すごく流行ったけど今じゃ見向きもされてないでしょ。利用シーンやユーティリティ考えたら、ミニバンじゃなくてステーションワゴンで十分なユーザは今でもいっぱいいると思う。そもそもそのミニバン、3列目に人乗せたこと何回あるのかと。これが流行り廃り。
欧州車はクーペ・セダン・ステーションワゴンっていう柱が何十年もブレてなくて(最近これにSUVが加わったが)、これはこれで逆に硬直化してるような気もするけど、でもクルマへのニーズはだいたいこれで満たせることの証でもあるよね。
古文漢文がなくなったら、30年くらいで極端な日本語右翼と左翼がウザくなってくると思うんだよね。
別に100%読解できなくたっていい。現代文と全然違うけど、何となく現代文と似ている、そう実感するだけで十分教育の価値はある。
多分、コレ読んでいる人が無意識にやってるし、普通の人間ならできると思っている当たり前のことの土台に古文漢文がある。
それがなくなる。
テラワロスwが公用語になったら嫌だろ?それは会社や公共機関でそういうの使っている奴を叩いていればいいってもんじゃないんだ。
https://togetter.com/li/1107013 「現代科学の敗北リスト」が笑えるようで笑えないレベル みなさんも気をつけて
昨日と今日が同じなら正しいというのは安直だけどリスクが少ない。
日本語にはコレという型がありそこから絶対に逸脱してはならないという教条主義。
ら抜きことばは「可能」「敬意」を区別する合理的な進化だと認められない人々。
これから先、
・もっと極端な話をすれば顎の骨格の変化が及ぼす音への影響
そういった様々な要因で我々が使う口語まで変化して、それが合理的だと見なされて標準化するかもしれない。
そういうときに「これでいいんだ!」と日本人が受け入れる器の大きさ、それは古文漢文教育にかかっている。
「みんなバラバラでいい、何なら日本語から正式文法、正書法なんて概念を廃止してしまえ。一人ひとりの言葉は違っても全て公文書的に認める」
なんて主張がまかり通り
もしくは、絶大な人気を獲得した芸能人のそれや、インターネットスラング
社会が「過去から現代への日本語の進化には、これこれこういう理由があって、この用法はあくまで乱れた日本語の域を出ない」と線を引く力。
これ以上文法が乱れたら、言った言わない・どういうつもりで言った論争が終わらなくなる。