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2013-06-13

経済政治問題中二病

日本オワコン化がとまらないということは何度でも確認しておこう、見せかけの希望に騙されないために

http://sencha77.blog.fc2.com/blog-entry-282.html

↑こういうの

いや、こう言いたくなるのは分かるんだけどさあ、10年くらい前からずっと言われてるんだよ、これ。

日本に色々問題があるのは分かるんだよ、でもね、そういう問題をパッと解決する必殺技なんてないんだよ。

言っておくけど格差化は日本よりアメリカの方が酷い事になっているぜ。ノーベル賞経済学者スティグリッツが言ってるじゃない、アメリカ1%の富者と99%の貧者の社会だと。

ユーロユーロ失業率絶望的に高い。若年者失業率20%とか30%とか、仕事を学ぶのに重要年代失業して過ごさなきゃならない人間がそれだけいるって事だ。ユーロ10年後に良質な労働者になる可能性のある人材無駄にしている、そしてそれはユーロ圏の長期的な成長力を弱める事になるだろう。

もちろん俺は「他の国の方がよほど酷い」なんて言うつもりはない。

この手の話ってのはネット社会のそこら中にあふれている。

でも、たとえば反貧困活動をしている湯浅誠氏や病児保育NPO法人フローレンス駒崎弘樹氏のように、よし、俺がやってやると活動している人はどれくらいいる?

せめて政治家と話をしたり嘆願書くらいは書いているのか?

重要なのは、よし、問題は分かった、で、君はどうするのか、という事だ。

2013-05-26

http://anond.hatelabo.jp/20130526200924

まぁ、橋下の発言を日本政府が肯定するようなら、政治問題になるんでない?

現状の「一地方自治体の長 vs 米軍」の状態なら、政治問題って言っても小規模なものだろうけどさ。

つーか、最初から政治問題だと思ってたけどね。少なくとも、橋下の発言は乙武の発言のような「一個人の私的な独り言」では済まないだろう。

http://anond.hatelabo.jp/20130526200238

人権侵害の実態ではなく「国際世論で騒がれているかどうか」だけが問題だったら、そりゃ人権問題じゃなくて政治問題だろう。

で、「慰安婦問題ってぶっちゃけ政治問題だよね」と言ってしまっていいの?

2013-02-14

興味無いのと客観なのは違うことだろう。

http://anond.hatelabo.jp/20130213151614

女は自分から遠い話題に関してはものすごく冷静になれる。

男性がどうでもいい政治問題とかにムダにヒートアップするみたいなことはまずない。

興味が無い・理解できないっていうのと冷静・客観的は似てるけど違うと思う。

例えば「俺はAKBに対して興味が無い・理解できない」のであって、そこの自覚をキッチリしたい。

まり「俺はAKBに対して冷静だ」とか「俺はAKBに対して客観的だ」とは思わないようにしている。

多分違うから


ここを混同すると、

例えばよくわかりもしないのにAKBファンに変な優越感を持ってdisったりするようになる。

冷静とか客観的というのはたいてい、

のものをよく知悉した上でなおかつのめりこまない高度に知的ポジションのことで

単に興味が無いとかよくわからんという人のことではない。


単に興味が無いとかよくわからんという状態が「冷静」「客観的」なのであれば

物知らずで何事にもコミットしないという人間が冷静で客観的だということになる。

実際にはそんなのは大概知能の低いデクノボウだと思う。


女性の知能を低く見るような無根拠なアレには断固反対だが

お前個人で言えば明らかに知能が低いし学歴も低いように感じる。

2012-10-13

村上春樹ファンへ 「売れっ子芸人小説家ってなんで政治を語りたがるの?」

村上春樹氏本人や春樹ファンの方は気分を害すると思うので、ぜひとも読んでください。

私、朝日新聞の一面の村上春樹の論説について怒っています

というのは、村上春樹氏というただの小説家であって、政治外交素人の論説をまるで

専門家見解のごとく新聞の一面に載せて、国民啓蒙しようとしたからです。

春樹氏の主張もド素人の一意見に過ぎないという意味では、

TVタックルで怒ってる大竹誠の発言と同レベルなんです。

なぜ、そんな人の外交に関する論説を朝日の一面に載せるのでしょうか?

大竹誠が政治問題を語って、朝日新聞投稿したら

新聞の一面に載せますかね?

普通に考えたら、載せませんよね、載せるほうがおかしいです、ええ。

しかもこれって春樹氏側が論説を反日デモの翌日に朝日新聞投稿したんですよね?

「ぼくが書いた論説のチカラで国民の目を開かせてあげたい、正しい道を示したい。だからおたく新聞の一面にこれ、載せてよ」

ってことですよね?

何様もツモリなんでしょうか。

春樹氏の意見が正しいかどうかは知りませんが、

春樹氏が小説家ではなくタクシーの運ちゃんだったら、

その論説を載せましたかね?

小説家見解 = 専門家見解であるかのごとく

新聞に飾るのやめましょうよ。

大江健三郎さんもそうだけどさ、あなたたち、ド素人見解じゃないですか。

文章が上手で読みやすかったけど、主張自体はそんなに価値のある論説ではなかったでしょう?

文体ごまかしてますけど、その主張の根拠もあやふやだったり、根拠そのもの存在しなかったりしてましたよね?

私、知ってますからね。

あなたの論説の中に 主張をささえるべき接続詞 Because がほとんど出て来なかったこと。

ずるカシコい人だなあ、と軽蔑しましたよ。

----

旧帝卒 サラリーマンアマチュア小説家より

2012-01-07

日本メディア間の隔絶について 続き

元記事

http://yorogame.blog137.fc2.com/blog-entry-513.html

9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。

また、ネットTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネット人間TVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。

そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上である憲法重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。

現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法理念に基づいた行動というのを国民意識するようになったら、憲法解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。

そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民ポジティブ意識モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。

そしてネットTV新聞世界を繋げるために、政治家TV希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。

大阪政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。

また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国海外で人気があり日本でも知名度の高いこの文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。

私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットTV新聞がどのような役割果たしているかということある

TV新聞といったオールメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネット日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。

まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である

という見知でこの文章では、各メディア(主にネットTV新聞)の主張を捉える。

そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民感情について考える。

まず、311地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。

この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。

私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。

当然である原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。

そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。

私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。

その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織善意ネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTV比重が大きい人間に、ネット情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。

だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本ネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネット情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。

原発科学情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的効果を最大化させるために取り得る方法は何か。

国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民政治希望と期待などのプラス感情モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。

当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付け全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。

それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。

病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダー全然アクセスしなかった。

それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当blogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福志向する事の美しさみたいなものを学んだ。

話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットblogにも情報は届くからだ。

そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。

その方法論を私なりに書きたい。

まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。

また、ネットTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネット人間TVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。

そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上である憲法重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。

現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法理念に基づいた行動というのを国民意識するようになったら、憲法解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。

そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民ポジティブ意識モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。

そしてネットTV新聞世界を繋げるために、政治家TV希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。

大阪政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。

またこれらの考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国海外で人気があり日本でも知名度の高い蒼井そら社会理想希望について語りながら、性的な事を行う映像を創ることもまた効果であるといえる。

その理屈を使って、ネット上で論じられる著作権問題を憲法が持つ全体の利益という視点を重視して、多少厳密さを欠いたうえで語るなら、インターネット上の無料コピー日本人が一般的に思っているほど、あまり悪いこととも言えないという理屈も導ける。

ネット上の無料コピーによる、著作権侵害違法であるといっても、動画サイトで見るのは良いが、ツールを使って落とすのはよくないとかそういうのは根本的に考えたら些末な問題でやってることは本質的には同じとも云える。それを差異があるように演出しているのはあまり社会を善くするという意味は無いと云う事もできる。なぜなら、どのような方法であれネット上で無料コピーにより著作権侵害するという行為によって逮捕される人は現状、全然居ないに等しいからだ。なのでこのような違法としていて一部はそれを遵守せよ!と感情的になっているがその視点は近視眼的ということもできる。そういったあまり根本的に考えなていない意見によって脅迫をかけるような同調圧力と化していると思う。全体の利益という視点を重視したら、違法としててもろくに取り締まりもおこなっていないやったもん勝ちみたいな、現状の無料コピーに対する意識というのは不自然です。赤信号場合によっては無視してもいいという意識は誰でももっているように、無料コピーにしても、目立つ形でやった人間以外ととても運の悪い人以外には、取り締まりなど無いに等しいから、やるのは個人の判断で赤信号を渡ることと似たようなこと。という意識を多くの国民がもっていたほうが国家としては健全だと私は思う。その国民意識に応じて法を変えれば良い。

そのようなそこの浅いときに、脅迫的ともいえる同調圧力意見というのはネットにはありふれていて、その思考方法を変化させるためにも国家はどうあるべきかという形を分かり易く国民全員に伝えなければいけないと思う。

(終わり)

日本メディア間の隔絶について

日本メディア間の隔絶について 日本のおけるネットオールメディアの最適な関係の構築方法模索

この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。

私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットTV新聞がどのような役割果たしているかということある

TV新聞といったオールメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネット日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。

まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である

という見知でこの文章では、各メディア(主にネットTV新聞)の主張を捉える。

そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民感情について考える。

まず、311地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。

この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。

私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。

当然である原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。

そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。

私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。

その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織善意ネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTV比重が大きい人間に、ネット情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。

だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本ネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネット情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。

原発科学情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的効果を最大化させるために取り得る方法は何か。

国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民政治希望と期待などのプラス感情モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。

当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付け全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。

それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。

病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダー全然アクセスしなかった。

それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当blogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福志向する事の美しさみたいなものを学んだ。

話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットblogにも情報は届くからだ。

そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。

その方法論を私なりに書きたい。

まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。

また、ネットTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネット人間TVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。

そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上である憲法重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。

現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法理念に基づいた行動というのを国民意識するようになったら、憲法解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。

そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民ポジティブ意識モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。

そしてネットTV新聞世界を繋げるために、政治家TV希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。

大阪政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。

また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国海外で人気があり日本でも知名度の高い

この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。

私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットTV新聞がどのような役割果たしているかということある

TV新聞といったオールメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネット日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。

まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である

という見知でこの文章では、各メディア(主にネットTV新聞)の主張を捉える。

そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民感情について考える。

まず、311地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。

この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。

私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。

当然である原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。

そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。

私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。

その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織善意ネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTV比重が大きい人間に、ネット情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。

だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本ネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネット情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。

原発科学情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的効果を最大化させるために取り得る方法は何か。

国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民政治希望と期待などのプラス感情モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。

当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付け全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。

それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。

病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダー全然アクセスしなかった。

それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当blogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福志向する事の美しさみたいなものを学んだ。

話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットblogにも情報は届くからだ。

そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。

その方法論を私なりに書きたい。

まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、 Permalink | 記事への反応(0) | 04:44

2011-08-23

http://anond.hatelabo.jp/20110823024723

この抗議活動一般について僕は積極的立場ですね。

ただ、思うに、そういう政治重要事案じゃないからこそ、これだけ多くの人が集まったのかな、とも思う。

韓流ゴリ押し反対」というのは、政治的なようでそれ自体は政治問題ではなく、「公共的な性格をもつ国内民間企業への批判」にすぎない。だからこそ、特定の政党に関与したり変に利用されることなく、これだけの人を動員できたということはあるだろう。日本人の多くが「政治」より「テレビ」に関心を持っているという事実も、今回の動員に味方した。

 

「もっと重要なことがある」と言っても、「もっと重要なこと」にはどうしてもキナ臭い政治が絡んできて、ネット上でさえこんな大きな潮流を作れないだろう。その意味では、対韓国政治問題のとっかかりとして大きなデモを行うには、むしろ今回のテーマベストだったとすら言えるのかもしれない。

これは極めて大きなポイントだと僕も思います

ノンポリ、シラケ世代というものが出てきて、私たちは政治にリアリティを持つことができなくなったのではと思います

振り返れば60年代70年代の闘争にあって、おそらく政治はよりリアリティある身体感覚を実現できていたであろうと想像します。

そうであればこそ文化の領域において『特権的身体』なるもの標榜するアングラなんかがでてくる。現状に対する違和感自分たちの手で具現化しようとしたと。

ところが闘争の祭りが終わって、この違和感は消費活動と直接的なスペクタクル提供するテレビによって解消されるようになっていったと。

で、政治を知る私たちの大きな手段もテレビで、つまりは私たちは、どんどんどんどん、自分の身体で政治に触れることがなくなった。

劇場的な政治みたいな言葉も一時ありましたね、小泉政権ぐらいから。

もう私たちにとって、政治現在を私たちの身体でもって変えようという(身体)感覚は極めて遠いものになってしまったんでしょう。

(ネットコミュニティにおける暴力性も、こうした極端な受け身の立ち方の裏返しと考えられるかも。)

で、今回の抗議活動は、主題がどうあれ、積極的かつアクチュアルな身体でもって、そこに行き、歩き、語った。

これは極めて健全社会活動の在り方だと思います

先日、南欧ポルトガル革命後数年の国内状況に関するドキュメンタリーを見ました。

そこで衝撃的だったのは、貧困にあえぐ農家の老婦がかたる、「政治は関係ない。私たちの生活を何も変えない。革命も何も変えなかった。」という言葉です

本来政治に無関心になることは、これだけの絶望にあって初めて現れるべき姿だと思います

全くまとまりのない文章ですが、リアクションとして。

フジテレビデモに出くわして色々考えさせられた

1974年に開館した「船の科学館」が、今年9月末で本館展示を休止する。

近くの日本科学未来館には3回ほど行ったことがあるし、お台場メディアージュの中にあるソニーエクスプローラサイエンスにも1回行ったのだが(どちらもオススメ)、船の科学館は一度も行ったことが無かった。

ので昨日行ってきた。

 

原子力平和利用」という言葉意味が変わってしまった今となっては複雑な思いで見る、原子力船むつの1/50模型。 

スクリュープロペラを持たない(!)超電導電磁推進船なんて研究があった(日本が完成させ、そして消えていった)という驚きの事実

「バルバスバウ」といえば某バーチャロンを思い出すけど、本当はそれは船首構造名前だったということ(http://p.tl/mNmu)。

ラジコン模型しか知らない水陸両用ホバークラフトの実物が、人を乗せて航行/走行している映像

 

駆け足で見たのだけど、船に詳しくない私でも色々と興味を持って知識を得ることができて、とても面白かった。

休止前の特別料金で、ふつう700円のところ200円なので、興味と時間がある方はぜひ行くといいと思う。

 

それはともかく。

 

 

いったん本館から出て南極観測船宗谷」を見学しようとすると、道路側にとんでもない数の(何百人単位の!)人が集まっていた。

ぽつぽつと日の丸を持っている。

 

そう、噂の「フジテレビ抗議デモ」が、今まさに出発しようとしていたのである

まりの人の多さに呆気にとられて、私は宗谷の甲板からデモの列を最後尾まで見届けてしまった。5人1列に並んで、最前列スタートしてから最後尾がスタート地点を通るまで、30分以上。どう少なく見積もっても1000は下らない人数だ。

 

主催者発表では参加者は6000人、デモに好意的でないスポニチ報道

でも4000人が参加したとされている。

 

とにかくそれだけの人数の人たちが、

フジテレビ偏向報道をやめろー!」『やめろー!!』

韓流ブーム捏造をやめろー!」『やめろー!』

「私達はK-POPなんて聞きたくないぞー!」『聞きたくないぞー!』

シュプレヒコールをあげながら行進しているのである

 

この光景は衝撃的だった。

 

どんなデモにせよ、多くの大人が団結して主張をしながら行進するのはそれだけでインパクトがあるのかもしれない。でもその主張が

冤罪を許すなー!」とか

日本農業を守れー!」とか

米軍基地移転反対ー!」とか

原発を止めろー!」とか

そういうものならまあ、そういう主張の人が頑張っているのだな、と理解できる。でも今回は違う。

 

もちろん、一般に偏向報道はよくない。私もアナログ停波以降はフジテレビを(テレビを)見てないし、フジテレビが善良なテレビ局だとも思わないし、『HEY!HEY!HEY!』をたまに見ると必ず韓流懐メロの特集をやっていてつまらないなあとは思っていた。それに、普段から韓国製」の買い物は避け、できるだけ国産を買うようにしている。特に韓国製のCD-RDVD-Rは非常に質が低いのだ。韓流スター名前ペヨンジュンしか知らない(KARAメンバー石川梨華パロディみたいな顔の子がいるのは知ってる)。言うまでもないけど、竹島日本領土である

 

けど、ポイントは「フジテレビ韓流ゴリ押し」なのか?

それに反対するために、何千人もの人がお台場デモ行進をしてるのか?

しかも、多くは外見的にごく普通の老若男女が!

 

ネット情報を「テレビでは報道されない真実なんだ!私たちが立ち上がらなくちゃいけないんだ!」と盲信した中高生が集まっちゃうならまだ分かる。でも私が見た限りでは、参加者は本当に老若男女で、300人に1人くらいは、私と同じくらいの年齢(20代)の、おしゃれな今時の女性もいた。おじさん・おばさん・お兄さん・お姉さん・そして親に連れられてきた子供も。

 

そのデモでの主張が、「フジテレビ韓流ゴリ押し反対」でいいのか?

日本は、大丈夫なのか??

 

 

…これが、私の第一印象である

しかし第一印象はそれが正当なものである吟味されねばならない。

 

 

(1)「もっと重要な問題があるだろう」

 

彼らへの評判をネットで探してみた。よくあるのが、「テレビがどうこう言う前に、主張すべきもっと重要なことがあるだろうよ」というものだ。

 

でも、この批判って、既に他の「もっと重要なこと」のためにアクションしている人にしか、言う資格はないはずだ。

自分twitterとかネット勝手なこと言ってるだけなのに、実際に体で活動してる人を言葉だけで「それをやるならこっちをやれ」というのは、単なるネット弁慶じゃないか

 

はいえ実は私も、その批判に共感しないではない。

というのも、正直、民放の放送内容がどうこうよりも、領土問題だとか、人権侵害救済法案外国人参政権という、それこそ韓国とも関係大ありな政治問題のほうがずっと重要だと思うからだ。

 

ただ、思うに、そういう政治重要事案じゃないからこそ、これだけ多くの人が集まったのかな、とも思う。

韓流ゴリ押し反対」というのは、政治的なようでそれ自体は政治問題ではなく、「公共的な性格をもつ国内民間企業への批判」にすぎない。だからこそ、特定の政党に関与したり変に利用されることなく、これだけの人を動員できたということはあるだろう。日本人の多くが「政治」より「テレビ」に関心を持っているという事実も、今回の動員に味方した。

 

「もっと重要なことがある」と言っても、「もっと重要なこと」にはどうしてもキナ臭い政治が絡んできて、ネット上でさえこんな大きな潮流を作れないだろう。その意味では、対韓国政治問題のとっかかりとして大きなデモを行うには、むしろ今回のテーマベストだったとすら言えるのかもしれない。

 

(2)「嫌なら見なきゃいい」

北野武さんや岡村隆史さんはこういう批判をしたらしい。

これに対する再反論は、もうすでに定式化されているようだ。

作家・深水黎一郎さんが簡潔に整理しているが、簡単に言うと、

 

テレビ局は<公共の>電波を独占して使っているのだから勝手な偏向放送をしておいて『嫌なら見るな』は通用しない」

 

ということ。

嫌なら見なきゃいい、と言われる前から私は確かに見てないのだけど、見てもらってる側がそれを言っちゃいけない。放送法という後ろ盾もあるのだからテレビ局にはそれに基づいた良心的な経営が求められるのは当然だろう。ただし、ただでさえテレビ不遇の時代に、自局グループの商売を有利に進めようとするのは営利企業としては当然で、そのへんは線引きが難しいところではある。

 

 

(3)陰謀論

フジテレビ抗議デモは、原発から目をそらすための陰謀だ!」。

こういうツイートmixi日記は複数あった。どんなところにでも陰謀論はあるものだ。面白い

 

 

(結論)

デモを批判する理由は私にはない。

しかし「韓流ごり押し」に対しては、私はどう考えるべきなのか?

政治的問題に関しては比較的冷静な狼板をのぞくと、「ブームってそういうもんだろ」という書き込みを目にした。

確かにそうだと思う。

韓流ブーム捏造、なんていうけど、ブームなんてたいがい作られるものだ。

結局今回の問題は、それが誰の目にも「行き過ぎ」「ごり押し」と捉えられるほどのものになってしまったという所にあるのだろう。

私としては、前に書いたように、「竹島は守るべき」「人権侵害救済法案危険」と思っているし、他にも例えば、「在日外国人犯罪者の偽名報道は反対!!!である。その点だけについて言えば右翼であるのかもしれない。

ただ「反フジテレビ」については、何とも言えないのだ。

だってフジテレビから韓流を引いたからと言って、番組面白くなるとも企業体質が良くなるとも全然思えないのだもの

それに私は、そもそもフジテレビがあっても無くても、まったく困らない。

とりあえず現段階では、「フジテレビがこんなにバカなことをやってるよ~」とネット上に確かな情報拡散させておけば、それで十分という気もする。

デモに参加する気には、とてもなれないのだ。

 

 

追伸

今回のデモを妨害しようと、大音量で君が代を流していた右翼街宣車がいたが、ああいう品位のない国歌の利用には大反対だ。

2011-08-17

高岡騒動は日本の三流俳優の失職対策活動

自分フジが媚韓とか、高岡嫌韓だとか、という話題にあまり関心ないのだが。

言っては悪いが、この問題、「売れない俳優である高岡某」が発言している、という点を軽視してはいけない。

彼にとっては、フジ韓流に走るというのは、「純粋経済問題」なのである

それをネトウヨが「政治問題」にしようとするから、話が変になる。

まり

韓流ドラマが増えれば増えるほど、日本国製作ドラマの本数が減り、日本俳優の出演頻度が減り、

 高岡が喰いっぱぐれる」という因果関係である

高岡の発言は自分のクビが掛かっているのだからネトウヨが「文化政治的に嫌韓運動している」のとは、

質が根本的に違う。

あと私見だが、日本人口が減少し、特に視聴者メーンターゲットであるF1層M1層が激減しているのだから

ドラマ制作本数が減るのは「自然摂理」だと思うし、日本製ドラマで埋めきれない時間帯を砂嵐にしないための「埋め草」に

韓流ドラマを使うのも、自然摂理だと思う。

F1層M1層の人口減少、という現実直視せずに、失業したくないからと言って韓流批判する

高岡某は、少し「違う」と思う。

2011-06-22

http://anond.hatelabo.jp/20110621171226

いや、受け入れていると思うよ。たとえ火力発電所大事故があったとしても、「火力発電所建設を中止しろ!」という動きにはならないと思う。

はい

歴史知らなさ過ぎるだろ。

ダム闘争とか石油危機とか知らないのかよ?

そういったものが発生したから、国は原子力発電へ舵を切ったんだぞ?

放射線の問題さえなければ、事故コストはおおむね事故地域に集中するので、全体としては許容できるリスクと考えられている。

ぶっちゃけ田舎人間が被害を被る分には、最悪切り捨てれば済むだけの話だが、放射線被害になるとそれだけでは済まなくなる。

その放射線の問題だって、量的問題なんだがね?

現状、急性放射線障害に掛かった民間人ゼロ

避難地域ですら、現状100mSv/Y付近の値で除洗すれば確実に下がるんだよ。

もはや避難解除は疫学的問題ではなく、政治的問題に過ぎない。

政治的問題と疫学的問題をごっちゃにして、未だに疫学的に問題があると思い込んでいるのが精神衛生の問題になると、

国連チェルノブイリフォーラムでは91年に予言されている。

からIAEA日本原発事故の後処理は大変すばらしいとかわざわざコメント出してるんだよ。

それでも、「自動車事故による死者をゼロにするために、自動車をなくせ!」という意見が通っていないのは、社会自動車事故の死者を織り込んだ上で利便を受け入れているから。

高齢者免許返還制度とか、普通免許での中型車の運転が禁止されたりとか、制限は厳しくなっていってますけど?

1つの事故で何百万人単位健康被害に対する不安を与え、経済被害が国家予算規模になり、諸外国から輸入制限をくらってしまうような事態を引き起こすのは、現状、原発くらいしか考えられないので、特別扱いは当然だろう。

はい

宮崎県口蹄疫とか、アメリカ狂牛病とか、まさに、

1つの事故で何百万人単位健康被害に対する不安を与え、経済被害が国家予算規模になり、諸外国から輸入制限をくらってしまうような事態を引き起こす

事態になっていたと思うんだけどね?

そんな、ほんの数年前のことすら忘却の彼方で考えられないとか。

今回と同レベル事故が発生したときに、どれだけの人的・経済的被害が発生するか

現状すでに、事態は疫学的問題より政治問題であるため、人的・経済的被害は算出不可能だろ。

疫学的問題だけで行くのなら、避難地域の除洗と低レベル放射線廃棄物の処理で事が足り、震災復興費用の数%振り分けるだけで済む。

食品の輸出・生産も避難地域外のものモニタリングにより安全に行われており、そのための宣伝費用は必要かもしれないが、国内広告業界資本が流れるのであれば問題は無い。

どのみち、震災の被害に比べたら被害は相当少ないんだよ。

震災被害と、事故被害を混同されたら困る。

「何十年かに1回大規模な事故が起こったとしても、経済的にペイできるからいか」と国民が納得すれば、国も原発と共存できるでしょ。

そして、重要なことだが、今回と同レベル事故の発生を防ぐために最大限の注力を払うことだ。

事故ってものは起きないではなく、起こさない。なんだよ。

スリマイルチェルノブイリ福島第一と事故発生時の共通する要因として「完熟した作業員の不足・不在」が挙げられるため、

原子力事業において作業をするものは全て一定の有資格者とすることが望ましく、そのための組織設備を作るとか。

発電設備の電源規格の統一を政府(保安院)主導で行うとか、打てる手はまだまだある。

そしてこちらのほうに事故対応以上の資金が必要になるだろう。


ここまでやって何故原子力に固執するのか?

ダム闘争で水力の自然環境への影響が懸念され、

石油危機で火力の国外依存度の高さが懸念された。

どの発電システム採用しようが、日本は狭く資源が無い。

から、火力・水力・原子力に電力ソースを分散させることにしたんだよ。

自然エネルギーに転換といっても、高緯度のために風雪被害や四季があり気性が安定しない日本では限界がある。

「火力・水力・原子力自然エネルギー」とはなるが、「火力・水力・自然エネルギー」とはなりえない。

から、現状の日本には原子力の安全性を一層高め、上手に付き合っていくしか道が無いんだよ。

2011-04-29

http://anond.hatelabo.jp/20110429191457

ナチスは巨大組織だったが、ニュルンベルク裁判では幹部だけでなく

組織ごと(つまり末端の構成員まで)犯罪組織と認定され、今なお社会的な非難対象だが。

から欧州では著名人がかつて親衛隊突撃隊に所属していたことが

発覚するとスキャンダル政治問題になる。ヴァルトハイムギュンター・グラスのように。

東電も同じ。原発事故の規模と影響を考えれば、幹部だけでなく一般社員も断罪されるべき。

2011-03-28

http://anond.hatelabo.jp/20110328004236

原発の是非について最終的に政治問題として決着せざるを得ない以上

民主主義採用する我が国ではバカをすら引きつけられる努力をしなければいけない

バカを見下し相手にしないという態度はそれ自体敗北宣言なのだ

2011-03-26

http://anond.hatelabo.jp/20110326103130

原発推進論者が対話できるのは、原発建設容認も視野に入れている、科学とか数値のことが話せる相手。

当然そこでの議論を進めて、推進論者が自ら建設を諦める可能性も考慮するのが前提。

原発推進論者が対話できないのは、政治問題化や感情だけで「なにがなんでも反対!」と固執する相手。

これが相手だと、もうなにがなんでも安全だと押し切るしかはない。

向こうが自説を曲げる気は全くないのだから、推進派も方針を変更する気がなくなり、

対話どころではない、双方実力行使のレベル

従来の反原発活動家原発推進派に、どっちが多かったのかの検証が必要。

2011-02-13

法律は怖い。みんなもっと真剣に考えるべき

ひまなので憲法判例憲法にかんする事件について裁判所が出した判断のこと、憲法というのは中学校社会科でさんざん習ったあのギョーギョーシイ条文です)をみていますと、何でこんなよくない判断が堂々と出るのかと、ふしぎに思ってしまうものがあります

一つにはポポロ事件というのがあって、大学生大学政治のことについて研究集会をしていたら、近くの警察の人が一般人のふりをしてその集会にもぐりこんだり、学生先生尾行ストーカーしたり、盗聴(!)したりして、何を考えているのか情報収集していたそうです(ちなみにポポロとは集会を開いたサークル名だそうです)。こりゃかなり怖いですよ。なぜ警察がそんなことができるのかわからない。

これについては、憲法に「第23条 学問の自由は、これを保障する。」という条文があるので、警察学問の自由を侵害しているということで、裁判になりました

しかし、裁判所は、くだいて言えば「政治集会は実社会政治問題研究であって、まじめに真理を研究する学問じゃないから、23条に当てはまらない。なので警察が活動していたとしても、憲法に反しない」と言いました

こりゃかなりひどいですね。大体、法学政治学という学問には、真理はないと言われているし、政治そのものを研究することが学問である、と言えるわけです法律政治だけじゃなくても、政治研究することが学問と言える分野はたくさんあります経済学社会学)。なのにそれを言わずに、「政治集会は実社会政治問題研究であって、まじめに真理を研究する学問じゃない」などと、誰が見てもトボけたことを言って、警察を勝たせました。これが最高裁判所裁判所の一番上で、最高のケンリョクを持っています)なのだから、あぜんとします。ちょっと考えれば、政治集会だって学問の範囲だと思い至るのに、警察を勝たせたいがために、考えないふりをして、その一歩手前で考えるのをやめているのです

憲法というのは、こういうとぼけた都合のいい判断が、判例100選などと言われて、権威のある書物に堂々と載っているような学問です

ちなみに、上の事件だと、学問の自由だけでなく、プライバシー権侵害にもなりますたかだか政治思想がどうのこうのというだけで、警察の人に尾行されたり、情報収集されたりするのでは、安心して生活も出来ません。あなたが誰にも見られていないと思っていることでも、この社会には本当はすべてお見通しということがあるようなのです。上の事件は、あなたには関係ないよその世界のことではないんですよ。言ってみれば、知らないうちにあなたの生活が(自室でやっていること、風呂トイレまで全て)全部見られていたにひとしいような事件なんです。「へー、そうなんだー」なんて言っている場合じゃありません。

どうしてこんな明らかに憲法違反なことが、この社会はまかりとおっているんでしょうか。みなさん、もっと真剣に考えてみてはどうでしょうか。

基礎科学好きは、多かれ少なかれ、変人奇人の集まりである。というか、変人奇人でないと、務まらない。そして、日本は昔から基礎科学に冷たい。そんなものが、何になるのか。そんなことしたって、食えないよ。はっきりとは言わないまでも、暗黙に社会がそういっている節があるのは、社会に敏感になれば枚挙に暇がない。しかも、変人奇人というのは、融通が利かないから、世間から疎外されると、折り合いをつけられずに怒り出す。大人しい人もいるにはいるが、たいていの人は怒っているのではないか。周りがポカポカした陽光の下で、法律や医術で順調に人を食っていて、社会でもそれが奨励される。そんなところで、独りだけ「自然対数の底の超越性の証明」などと格闘していても、今ひとつ満足が行かない。基礎科学ニコニコしているのは、生まれつき温和な性格な人で、ほとんどは、胃に穴を開けているのではないか

私も、そちらの方である。何だか世間がむかつく。もう「大人」だから、昔に比べたら我慢しているが、ときどき爆発しそうになる。あまり考えつめていると、ノイローゼになるから最近では開き直って、何事も自分に都合よく解釈し、元気があれば世間を変えてやろうなどと考えている。なに、人間は元々「自分帝国」の中で生きているものである。世間に合わせるというのが、考えてみれば異常な事態である自然社会では、「俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの」が正義であるし、自然たる子供の頃だって、思い出せばそんな感じだった。それが初期設定なのである社会規範を守るのは、仕方がなくてそうするのである。何も日頃から法律条文の精神を理解し、品行良くしている必要はないのだ。実害さえなければ、好きに考えていたっていい。あるときは、喧嘩も辞さない。

世間に言いたいことは、基礎科学という、変人奇人でなければ勤まらない分野があること、そうした分野が長いスパン社会根本部分を転轍(大転換)すること、金や時間といった短期的な価値ばかりに目を向けるな、ということ。

2011-02-07

いっそのこと国民投票で、大相撲の問題を片づけてほしい

今後、八百長を認めるか、厳罰に処するか。

第1回目の国民投票実施内容としていいと思う。

政治問題じゃないし

直接的に国民生活に関係ないし

2011-02-01

エジプトについてバカ丸出しな発言をしないための手引き

A Guide: How Not To Say Stupid Stuff About Egypt

(訳註:アメリカ人向けっぽいところもあるけど、そのまま翻訳

「彼らの文章がうまくてすごいと思った」

こういう発言のどこが変なのか分からなかったら、

同じことをラテン系アフリカ系に向けて言うかどうか考えてみてください。

いませんね。

からエジプト人にも言わないようにしましょう。

エジプト人8000万人のなかには、文章がうまい人も高学歴の人も多言語話者もいます。

別にすごくありませんから、わざわざ言わないでおきましょう。

考えてしまうのはしかたないかもしれませんが、口に出すとバカ丸出しです

「悲しい

悲しむべきなのは30年間の圧制と抑圧と拷問です

「サーダートのほうが好きだった」

ムバーラクもサーダートも同じ穴のムジナです

同じ抑圧、同じ人権侵害がありました

好きだったと言いたいのでしたら止めはしませんが、

抑圧が始まったのはいつだったか知っていますか?

非常事態宣言のとき

エジプト人はサーダートが好きではありませんでした

あなたはどうして好きなんですか?

ミイラにやったことは許せない」

はい、そうですね。でも、やっているのは誰でしょう?

ムバーラクはずっと「俺が地域の安定のかなめだ」と見せかけていました

エジプトといえばミイラ以外に思いつかないから、デモ隊がやったと思うのでしょう。

やったのは彼らではありません。

アレクサンドリアで彼らが図書館を守ったということを知っていましたか?

アレクサンドリア図書館声明が出ています。

http://www.bibalex.org/News/NewsDetails_en.aspx?id=3128&Keywords=&fromDD=-1&fromMM=-1&fromYY=-1&toDD=-1&toMM=-1&toYY=-1

「本図書館エジプト青年たちのおかげで無事でした図書館スタッフデモ隊その他が一緒になって図書館を略奪から守りました。私は外出禁時間にも出勤しますが、一般に向けては数日のあいだ閉鎖されます。開かれるのは、禁止令が解かれ、無秩序状態が解消され、政治問題が解決してからです。」

ムスリムブラザーズはテロリストだ」

公式サイトか、

http://www.ikhwanweb.com/

わかりやすい解説でも読んでおいてください。

http://terrorism.about.com/od/politicalislamterrorism/a/MuslimBrothers.htm

ムスリムブラザーフッドムスリム同胞団アメリカテロリスト組織リストに入っていません。

暴力行為は1970年以降していませんし、実力組織もありません。

2006年12月マーシャルアーツ演舞は少し挑発的でしたが)

それなのに、ハマスアルカイダと結びつける論が絶えません。

ツイッター革命

います。

これはエジプト人の革命です

エジプト人は30年間耐えてきました

エジプト人はムバーラクとサーダート拷問され投獄され抑圧されました

ツイッターフェイスブックは道具にすぎません。

放水砲の前に立ってくれたわけでもありません。

身代わりに投獄されたわけでもありません。

毎年夏のあいだ、デモはありました

報道されなかっただけです

そういうのを見てサラ・ペイリン的な人がバカなことを言い出さないかと心配していたかです

彼らの必死の行動をツイッターのおかげみたいに言ってしまうのは傲慢ではありませんか?

エジプト女性は勇敢だ」

エジプト女性はいつも勇敢でした

ナワル・エル・サーダウィの回想録には、サーダート時代の女子監獄のことが書かれています。

http://www.amazon.com/Memoirs-Womens-Prison-Literature-Middle/dp/0520088883/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1296499465&sr=8-3

アルジャジーラはじまったな」

アルジャジーラはずっとがんばっています。

あなたが知らなかっただけです

ブッシュの言うことを本気にしてしまっていたのですか?

当局が遮断したがるということは正しいことをしている証拠です

独裁アメリカイスラエル

Hmm, maybe they are speaking truth to power? (訳註:ここわからん

おや、アルジャジーラはどうやら権力者たちの横暴をあばいてしまったようですよ?

「ムバーラクは平和条約を守った」

から、新政権ができたらイスラエルとの戦争がはじまるとでも?

パレスチナ人の処遇の改善要求はするかもしれません。

イスラエルが主導権をにぎれなくなるかもしれません。

イスラエル平和条約への危機感を表明」

http://www.guardian.co.uk/world/2011/jan/31/israel-egypt-mubarak-peace-treaty-fears

いままでの安定は偽の安定です

不安定化を防ぎたいからといって、8000万人のエジプト人を抑圧する理由になるでしょうか?

民主主義確立した極右が台頭する」

アメリカがそう言われたら、と考えてみましょう。

最近ティーパーティ運動ブッシュ政権も、同じくらい世界の安定を乱しています。

からといって、そういう動きを摘発するような政権を支持すべきということになるでしょうか?

世界の安定を乱しているのはエジプトよりもむしろアメリカです

それにこの発言を解釈すると、ある種の国家国民宗教民主主義を与えるのが危険だということになります

これは人種差別です

人権民主主義と自由を軽視して、人種国籍宗教差別する人のやることです

エジプトはいい奴だな」

はい、そうですね。

テロリスト狂信者だけだと思っていたのはあなたくらいです。

エジプトには5000年前から都市文明がありました

あなた想像していたのは、きっと、ターバンジハードアリババテロリストと(以下略)あたりでしょうが……

アフリカ系やアジア系にこんなことを言ったらどうなると思いますか?

見下してるようにしか聞こえません。

2011-01-31

みんな僕をおいていくな

僕がインターネットを利用し始めたのは16歳ごろだったと思う。

その当時ある写真好きの学生が運営するブログと出会う。

その少年芸大をめざし、日々ファインダーと向き合う生活していた。

オレンジ色の背景のブログには屈託のない彼の文章と、彼だけにしか撮れない写真がいっぱいあった。

僕は興奮した。ドキドキした。わくわくした更新されるのが楽しみで仕方なかった。

だって、人の生活をのぞき見するってすごくワクワクするでしょ?

それが自分と同じような年齢で、なにかに挑戦しようとしていて、輝いていたら、

すごくワクワクしない?それがすごくリアルを帯びていたらワクワクするよね?

とにかく、ディスプレイ越しに見えた彼の世界は僕を虜にしたんだ。

安直な考えかもしれないが、僕はカメラを買うことにした

少しでも彼の見ている世界に追い付きたいと思ったからだ。

もちろん一眼は買えない。バイトをして程度の良い一眼ライクなデジカメを購入した

とにかく、そのカメラを持って東京を歩き回った。

秋葉原新宿お台場池袋中野高円寺下北

今までの僕なら、怖くて行くこともかなわなかったろう。

だけども、カメラファインダーを覗いている間は僕は無敵になれた。

暗闇の中にファインダーで切り取られた世界けがぽっかりと覗いている。

そんな世界を僕は歩き続けた。

同時に、flickerブログなども始めた。

きっと焦っていたんだ。ずっと追い付けないことに焦ってたね。

彼の写真はさ、奇跡的な一枚でもないし、すんごく考えられた構図でもない

人種もんだいとか飢えとか政治問題とか、そんなんじゃないんだ。

どこにでもあって、誰でも撮れそうな写真なんだよ。

ただ、その写真1枚にはとんでもないほどのエネルギをもってる。

その1枚彼のリアルがあった。


彼のブログはあっという間に有名になった。

今では写真仲間と上京してルームシェアして日々を送ってるらしい

もうブログは読めない。直視できない。

もはや、彼のブログは僕にとって憧れではなく、嫉妬の塊になりつつある。

憧れだったものが嫉妬に変わるものほど惨めなものはない。

今日も彼は、ブログの中で仲間たちとの打ち上げの報告をしている。

僕はPC前にぶちまけた飲みかけのジュースを泣きながら拭いている。

どうしてこうなったんだ。

あっという間に成人だ。ついこの間成人式に出席してきた。

みんな変わってた。みんなからお前は変わってないなと言われた。

おいていくな。助けてくれ。手を貸してくれ。

僕と君の違いはなんだ。教えてくれ。

墨田区の小さくてボロアパートの一室でやっと買った一眼を握って今日も震えている。

手に力が入りすぎて汗でジットリ濡れてるんだ。

こんなにシャッターが重かった?

机は現像した、干からびた写真で埋もれてる。

すぐ横で、スカイツリーがどんどん成長している。

ファインダーを覗く僕はもう無敵じゃない。たすけてくれ

2010-11-15

http://anond.hatelabo.jp/20101115175850

北海道の甜菜の方がいいのでしょうが、

消費者が高い砂糖を買わされている云々の問題じゃなく、

一種の「沖縄雇用対策」「失業対策」なんです。

「TPP受け入れてサトウキビ関税外します」とやれば、

普天間辺野古の問題で沖縄側がますます態度硬化する、ということで、

サトウキビ問題は「経済問題じゃなく政治問題」ということ。

2010-10-13

当然の報い

ここと2chを見ていれば、自分の住んでる国に一切の興味が無いことが解るな。

「こうこうこうすれば国が良い方向に傾く」という発言に対して、若者真逆左翼発言ばかり。

どういう年齢層なのかは言動を見れば解る。

俺自身も二十歳で若者の部類だが、15歳くらいで既に国の情勢について調べ尽くしてたよ。

その上で政治問題を議論してたが、若者から一切まともな発言を受けたことが無い。

手当たり次第にネトウヨネトウヨとだけ言われて話にならなかった。

とりあえずそう言っておけば合理的な発言をしなくても論破になると思い込んでいたんだろう。

右翼意味も知らないで、ネットで良く使われているからという理由で煽りに使い出したんだろう。

ゆとりという言葉過剰反応する輩は自分が使う言葉意味すら調べないからな。

そんなのが俺と同じ年代、俺よりも上の年代で凄く恥ずかしく思う。

初めは「この歳でこんなこと言ってるのか?」と愕然とした。

国の情勢なんか一切見ようとしないでネットで遊んで、合間に中傷活動をしてるだけだなんてな。

そりゃあ庶民アピールしてるだけのアホを支持しちゃうわけだ。

小沢(創価)がやってきたこと、やろうとしてることすら知らないで暢気に遊んでるんだろう。

国民も国造りに参加しているという自覚がまるで無い。

そんな若者ばかりで国が良い方向に傾くわけが無い。

全てを危ない思想家宗教団体にまかせてるんだからな。

言うのも恥ずかしいくらいの必然だろう。

俺達はいつまでも何も知らないガキのままじゃ居られないんだよ。

これから奴らが生み落としていった最悪の塊を背負って生きて行かなきゃならない。

俺らの世代が緩和して、次の世代にバトンタッチしなくちゃならない。

だがもう遅い。国の為に一切思考をしようとしない若者が概を占めている現状、既に手遅れだ。

ネットアニメ漫画ゲーム楽しいものばかりを沢山見て、親に人生のレールに乗せてもらってる時点で現実なんか見られるわけがない。

着実に日本朝鮮化しつつある。

最近では新潟中国領にすることをアホな市民の概が賛成してるとか何とか。

奴らもラストスパートを掛けてきた。もう如何することも出来ない。

現を抜かしてないで全員が国の為に動いていたら日本を取り戻せていたかも知れないな。

それで自分の居場所を失えば理不尽な発言をまた繰り返すんだろう。

当然の報いだ。文句を垂れる資格は無い。

2010-10-01

アンケート万能説

学生だった頃、「世の中の決め事を全部アンケートで決めれば良いんじゃないか」って考えた事がある。

政治問題が思いつきやすいけど、大多数が思っている理想と違う現実に対して不平不満を感じる事は多いと思う。

決める側と受け入れる側が違うから不満が出るなら、全員が決める側に立てば良いという発想。

これを思いついた時は「凄いアイディアを思いついたぞ!」と興奮したのを覚えている。

(当時研究アンケートを実際にやっていたことがかなり影響していると思われる)

その時は、「でも実際にやろうとするとお金も手間もかかるし、既得権益を守ろうとする抵抗勢力とかに潰されるんだろうな」と

勝手に作った見えない敵に負けたんだけど

最近は、仮に実現していたとしても思ったほど世の中はよくならないだろうな、と思うようになった。

理由は、自分が思ってるほど自分のことはよく分かってない、と考えるようになったから。

例えば「幸せになりたいですか?」と聞かれて「いいえ」と答える人はかなりの少数派だと思うけど

「では、貴方はどうすれば幸せになれますか?」と更に聞かれて

お金が沢山欲しい」とか「素敵な人とめぐり合いたい」とか本当に素直に回答して

運よく多数派に回ったとしても実際に幸せになれる人は全員じゃないと思う。

当たり前だけど、天から幸せはふってこないので目的を達成するためには大なり小なりの努力や対価が無いと得られない。

お金を手に入れるには誰かから集めなきゃいけないし、素敵な人に出会うには同じように出会いたい人を探さないといけない。

問題は得られる幸せに対して努力や対価が見合わないと思う人たちが

実際に決めた後から必ず出てくるだろう(それも決して無視できない規模で)ということ。

NIMBYという単語がある。Not In My Back Yardの略で、社会通念上必要である事は受け入れるが

自分の家の裏庭(身近なところ)には置きたくない、という極めて我侭な発想なんだけど、非常に人間くさい発想でもあると思う。

楽して幸せになれればいいんだろうけど、実際には何らかの苦労を伴う。

でも実際にその苦労を受け入れてみたら、「そこまでして欲しい幸せだったのか?」となってしまう。

もし未来を見ることが出来る人がいたとしても、感情まで共有できなければきっと同じ結末になると思う。

何でこう上手くいかないんだろうね。

2010-09-08

日本労働時間は何故長いか?

1.スキルに対する考え方の違い

 スタッフレベル労働生産性に関して

 日本生産性が低い一番の理由は

 スキルに対する考え方の違いであると思う。

 

 日本では特に新卒採用に関しては潜在能力が重視されるが、

 アメリカでは極めて実践的なスキルが重視される。

 例えば1週間もあれば習得できるようなスキル

 採用の決め手になるようなことも珍しくない。

 

2.社員企業利益の一致

 伝統的な日本企業正社員は、年功序列と将来の昇進によるインセンティブ

 によって、社員企業の長期的な利益がほぼ一致している。

 したがって正社員というより「給料が安くて部下のいないプチ経営者

 と表現した方が適切である。

 日本就職面接で、理不尽なほど全人格勤労意欲の高さを求められるのも

 「正社員は従業員ではなく経営者だ」と考えれば説明がつくし、

 正社員派遣社員の軋轢や賃金格差も同様に説明がつく。

 

3.非効率業務の温存

 日本では中小企業を除きの解雇事実上困難なため、

 非効率な部門や業務を大胆に削減することが出来ない。

 そのため、非常に非効率な部門で限界的な生産の向上のために多くの

 労働時間が浪費されることが多い。

 

上記の事を踏まえると、

労働生産性を上げるために日本に必要なことは、

専門性の重視と雇用の流動化だ。

 

大学の専攻が就職にも仕事にもそれほど影響しないという

日本モデルは、欧米はおろか、中韓にも遅れを取っているように思える。

 

雇用流動化は高度な政治問題でもあるし、

製造業品質改善では日本モデルが上手く機能している面もある。

しかし、制度疲労はかなりのレベルに達している。

 

http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-399.html (抜粋)

2010-08-22

http://anond.hatelabo.jp/20100822130639

リーダーだけじゃない。

リフレ派は経済問題にばかり目を向けて政治問題等閑視する。

これはリフレ派が歴史直視せず、歴史修正主義への批判を怠り、歴史の歪曲に加担する集団である証明に他ならない。

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