はてなキーワード: 一言とは
例えばカンニング竹山に会ったら「最近はコンビでテレビに出てるところ見られなくて寂しいです。またコンビで漫才見せてくださいよ」とか言いたい。
休憩が禁錮7年でがっくり来てる遺族に「でも判決はたぶん5,6年ですよ」とか言いたい。
俺が唯一言えた不謹慎になことは愛犬が死んだって職場のおばさんが嘆いてた時に「どんな味がしたんですか?」って聞いたことくらいだ。
田舎のコロナ第一号の人が、誹謗中傷や家に石を投げられる等嫌がらせで引っ越ししたらしい。
ここでいなかっぺらしいなの一言で片付けるのは簡単だけど、なぜ「彼ら」は嫌がらせしたんだろうか。
想像だけど、世の中には「叩いていい権利」を行使したい人がいるらしい。
「叩かれて当然だから、叩いた」が「彼ら」の言い分。
「彼ら」は不利益を被ってない(コロナの場合は感染リスクで多少不利益あるかもだけど)のに権利を行使したがる。
叩かれてる側を擁護するつもりはないけど、叩いていい権利を最大限使おうと顔を真っ赤にして書き込んでる人を見ると、「いなかっぺらしいな」がよぎる。
一定数、ジャンプブランドという権威に自分を重ねて審判者か何かと勘違いしている輩がいる。
同一人物の可能性もあるが、「天皇の威光を我物として権力を持ったと勘違いし支配したがる右翼」そっくりで怖い。
他の例えならば「嫌なら出ていけ」が定番のネトウヨの精神性とも通じているように感じる。
権威がなんであれ、自分が強くなったと勘違いして他人を支配・干渉したがるこの現象に名前はあるのだろうか。
株主でも編集者でも購買者でもない人間がなぜこれほど傲慢に、声高に、執拗に米欄に粘着しているのだろうか。
https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496397705828
( 1077 )1047 他のジャンプ漫画みたいに現実を忘れるくらい没頭して楽しみたかったのに 完成度が小学生レベルで 見事に期待はずれで「なにこれ!何の成果も得られませんでした!ガッカリだよ!」ってなるっしょ 下げコメントはジャンプに裏切られた哀しみだよ
https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496397708942
( 3811 )う〜ん…読んでて思った感想がとにかく「読みにくい」の一言に尽きる気がする。 絵の描き方も様々な手法を多用しすぎて複雑だし、台詞がめんどくさいね。めちゃくちゃ宝石の名前いきなり出されても戸惑うし、もうちょっと文章だけでも読みやすくして欲しいね。 それと出来ればこういう批評コメントも消さないでほしいもんだね。読者の意見とか感想から逃げるんだったらジャンプに載せる資格ないよ。
ひろゆきのことを評価するかどうかは自分が働いているかどうかによると思う。
仕事でひろゆきみたいな奴がいるとマジでウザいけど、友達だったらそこそこ楽しいと思うから。
これはホリエモンのひろゆき評だが、なかなか言い得て妙だと思っている。
ホリエモンがちゃんとそう言った議論をできているかは置いておいて、ひろゆきに関しては正しく説明していると思う。
うだうだウダウダ人の揚げ足ばっか取って、議論引っ掻き回すだけ回して、決断するための議論をする前に時間を使い切っちゃうタイプ。
せっかくの打ち合わせ時間を無駄に浪費する奴ね。どこにでもいるよね!
働いてるおじさん諸君は、ひろゆきを見ると職場にいるそういうウザい同僚の顔が思い浮かぶからひろゆきのことが嫌いなんだと思う。
一方、10代20代みたいに仕事をしたことがない人にとっては、いろんなことを知っててしょーもない話だとしてもスカッと論破する姿を見ると気持ちいいと思う。
それはすごい良くわかるし否定は一切しない。
ひろゆきがやっていることって、一言で言えば「楽しい時間の浪費」なんだよね。2ch魂そのものだね!
若者にとって時間は無限にあるようなモノだから楽しいという部分だけが残るんだと思う。
一方、働いてる人にとって時間は労働時間であり、納期でもあり、めちゃくちゃ重要。そんな時間をただのお遊びに浪費されたら溜まったモノじゃない。
みなさんがめがねっ子が好き!と反応している写真や画像の大半は、エセめがねっ子です。
みなさんはめがねっ子が好きという気持ちになっているだけで、じつはめがねっ子が好きなわけではありません。
いうなれば、イチゴミルクを飲んでイチゴが好き!と言っているようなものです。
イチゴにしてみればイチゴミルクと一緒にされることはあまりにも理不尽で、イチゴミルクが好きだからイチゴが好きと言われても嬉しいどころかむかつくだけです。
みなさんが好きだとするめがねっ子の写真や画像を思い出してみてください。
ほとんどの場合、メガネに手や指がかかっているのではないでしょうか。
これは嘘です。めがねっ子はこんなポーズ求められない限り絶対にしません。
「気取りやがって。」「頭のいいふりをしやがって。」そんな偏見と常に戦い続けているのです。
その偏見を助長させるのが、まさにあの、メガネに手や指をかけるポーズです。
みなさんはそれをめがねっ子らしさとして受け入れていただいているようですが、大半の場合、あのポーズをすると周囲を苛つかせます。
その結果、真実のめがねっ子は、人前でそのポーズを取ることを極端に嫌がるようになります。
ならばずれた眼鏡をどう直せばよいのか。
わたしの場合は、少し下にうつむきながら両手のひらでメガネの両脇を挟むようにして前髪を治すような仕草で位置を直します。
それ以外にも眩しいときに片手でひさしを作るようにして、親指と薬指でメガネの両端を挟んで位置を直します。
他にも目尻に人差し指の背を当てるようなふりをして直すこともあります。
間違っても、写真や画像にあふれるような、テンプルやリムを指で挟んだり、ブリッジを日本指でクイと上げるような仕草はしません。
何か別の仕草に偽装するようにして、誰にも気付かれないように直すのが真実のめがねっ子仕草なのです。
それなのに、嫌がるどころかまるでそれがめがねっ子だと思いこんで人前で喜んでその仕草をするのは、にわかめがねっ子である証拠にほかなりません。
一人のときはめちゃくちゃします。だって楽だし一番しっくり調整できるから。だけど、一度でも外で無意識にその仕草をしたときにありえないくらいの冷たい視線を送られたことがあるめがねっ子は、二度と人前で気安くそんなメガネの直し方をしようだなんて思わなくなります。
みなさんがそのポーズを好きなのと同じくらいに、そのポーズが嫌いな人は存在しているのです。
だから、めがねっ子の写真や画像を見るたびに、「またか」と落胆します。
どいつもこいつもエセばっかり。
めがねっ子不在でめがねっ子が語られることの残念さが理解できないとはいわせません。
そんなわたしの一番萌ポイントの高いめがねっ子モーメントは、ふと振り向いたときに少しずれたままのメガネに拭き忘れた指紋を一つ見つけてしまった瞬間です。
ただ、エセポーズ以上に絶対に許せないのが、眼を見せたいためにリムの上半分が切り取られているレンズのないメガネです。
それはメガネではない。お前はスイカの皮だけ渡されてそれがスイカだと納得できるのか。
この絶賛炎上の中「手伝いますか?」の一言もなく退勤する別会社から来てる3年目君。強いな。
「少し先の話だけど〜」を枕詞にした時に、「あっ、僕8月いっぱいまでなんで、先の話は大丈夫っす」って返された時点で只者じゃないとは思っていたが…— すけ@炎上中 (@te_se3452) July 13, 2021
ワイ「fleet、お前消えるんか……」
fleet「せや。森羅万象あらゆるものがいずれ消える。無に帰する。そういうもんや」
ワイ「せやけど、お前はそれでええんか」
fleet「しゃーないわ。うまくいくことばっかりやない。役に立たんのなら、もう消えるしかないやろ」
ワイ「そんなこと言うなや!」
fleet「ええんや。どんなものも最終的には消える。ワイはちょっと早いだけや。悲しいけど、その悲しみさえも消える」
ワイ「違う! 違う違う! 消えんよ! お前は消えん! ワイの中にはお前はおるよ。ずっとおる。ワイが忘れん限り永遠や」
fleet「そか。そう言ってくれると嬉しいわ。ありがとうな」
ワイ「fleet、お前身体が……」
fleet「時間やな。ほな、お別れや」
ワイ「fleetぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
ワイ「何でも言うてみ」
fleet「一回ぐらい使ってほしかったわ」
ワイ「fleetぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
失敗談である。緊張で勃たなかったとかそういうのではないが個人心情的には失敗談である。
ひょんなことから突然1日暇ができ、何をするか悩んでたところに友人に誘われた。
人生で彼女というものは出来たことはある。がしかし、恥ずかしながらいろんなことが重なり性行為まで及んだことがない。
これまで風俗体験というものはほぼ無いに等しい。一度おっぱぶに強制的に連行されたくらいか。
連行されたときは、この行為をするために〇円・・・おいしいものを食べたほうが良いじゃん・・・などと思ったものだ。
そんな考えをしているからなのか上記に書いた通り彼女はいたが女性との性的経験は皆無。
これまで何度か風俗店を利用しようと考えたこともあったが、シコればその気持ちも薄まるので一時の気の迷いと思っていたものだ。
さて、行くことが決まり当日緊張で勃たないなんてことはあってはいけないと思い善は急げとコンビニへ駆け込み精力剤を購入。前日に飲み錠剤の精力剤を飲み、当日はドリンク系の精力剤を飲む。
驚くことにこれが大変効果があった。プラシーボの可能性もあるが私にはこれで十分効果があったのだ。
ソープランドに到着するとまずは女の子を選べとのこと。パネルマジックという言葉は聞いたことがあったので顔では決めずスタイルで決めることにした。
さて、次は時間を選べとのことだ。といっても何もかもが初めて尽くし。時間などわからずとりあえず1時間でいいかと60分を選ぶ。本当に60分で良かったのか。果たして60分で満足できるのだろうか。そんなことが頭を駆け巡りながら待合室で流れていたメジャーオールスターの大谷翔平のピッチングを見ながらこんなことを検索してしまった。
初心者は緊張しすぎてイケない可能性があるので長めにしておいた方が良いという情報を見つけてしまった。そこで席を立ちあがり受付の人に時間を延ばせるかどうかを確認した。どうやら問題ないようだ。
これで失敗しないで済む。私はそんなことを思いながらウキウキで待合室に戻った。しかしこの選択は失敗だったのだ。いや、別の視点でいえば成功だったのかもしれないがここはソープランド。お風呂に入っていたら女性と恋に落ちSEXをしてしまう場所なのだ。そういった意味では失敗だっただろう。この時はそんなことなど知る由もなかった・・・。
さて、受付番号が呼ばれエレベーターに乗る。
エレベーターを出るとそこに女の子がいた。なんと驚くかな、我々は恋に落ちてしまったのだ。まずは体を清めるためにお風呂がある部屋に案内される。ちなみに余談だが顔はパネルとは程遠い。とはいってもかわいくないといえばウソになる。が、顔で選んでいたら間違いなくがっかりしていただろう。
軽く雑談をしシャワーを浴びながら体の隅々を洗われる。何とも新しい感覚だ。この時私は緊張していたので気の利いたことが何も言えず童貞らしさを最大限に発揮し肌がきれいですねなどと言葉を発してしまった。しかし嬢はまんざらでもないようだ。いや、今考えると演技だったのかもしれない。しかし童貞である私はそれに満足してしまっていた。
隅々まできれいになった後は浴槽に入り雑談。おしりに息子があたり気持ちが良い。というか女性の体はとても柔らかい。本当に同じ生き物なのだろうか。
後になって知ったが、本来ならここで潜望鏡というプレイがあるらしいがそんなことを知っているわけもなく浴槽を出ることになった。お願いしたらよかった。
浴槽から出て体を拭くとマットプレイをするかベッドプレイをするかを問われる。マットプレイも興味があったが今日はSEXだ。迷わずベッドプレイを選択。嬢のスイッチが入った。
突然ドエロオーラを出しながら抱き着いてきたのである。そして放たれた神の一言「乳首舐めて」である。いかん、これは童貞には刺激が強すぎる。と思ったのもつかの間。気が付いたら私は胸をなめていた。不思議なものだ。人は生まれながらにして母の乳房をなめる。ほとんどの人はそのことを覚えていないだろう。しかしこの時ばかりは乳には抗えないという事を思い出した。人は皆乳房に惹かれてしまうのである。
ある程度エロい雰囲気にも慣れてきたところでそろそろベッドに横になりましょうという案内が。この時の残り時間は30分ほどである。えっもうそんなに時間たったの!?と驚いた。(後になって聞いたが実はもう+10分あったらしい)
ベッドに横になり嬢が上に載ってきたところで脳裏にあることが浮かぶ。シックスナインやってみたさあるな・・・人生で1回くらいは経験しときたいな・・・30分あるしちょっと聞いてみるか・・・
シックスナインやってみたいんですけど と提案すると若干引かれたような気もするが快く受け入れてくれた。
これが失敗だった。女性経験があまりにもなさ過ぎる私には刺激的すぎたのだ。
上に覆いかぶさるように。すると目の前に女性の秘密の花園が広がる。すごい眺めだ。なるほど、世の中のヤリチンたちはこの眺めを何度も体験しているわけか。などと思っていると私の息子から謎の快感が襲ってくる。
そう、フェラチオされているのである。未曽有の快感に気持ちの悪い声を出してしまったが、嬢がこんなに頑張ってくれているのだ、こちらからもと思い私はクンニリグスを決行する。
想像していたより柔らかい、味も無味。若干ヌルっと指定がこれは果たしてローションなのか愛液なのか。童貞の私には見当もつかない。というか女性経験もないのになぜ今まで想像していたのか不思議だ。しかしそんな虚像とも今日でおさらば。これからは実像を想像できてしまうのである。男の階段を一つ上ってしまった。そんなことを思うことおよそ3分。突然息子が爆発寸前に。膣内を経験していないのも関わらずである。
まずい!出てしまう!ああああ!ビュルルル
なんと情けない事か。膣内を経験する前に出してしまったのだ。嗚呼・・・人生とはなんと無常なのか・・・これが女性経験のない男の末路なのか・・・
その後10分経てど20分経てど私の息子は満足してしまったかのように静寂を保っていた。
何故60分から時間を延ばしたのだろうか。時間を延ばしていなければシックスナインなんて提案しなかったのに。
何故出してしまったのだろうか。射精感覚が迫ってきていることはわかっているはずなのになぜそのことを伝えなかったのか。
何故再度勃足せることができなかったのだろうか。もう少し積極的に誘っても良かったのではないだろうか・
そんな後悔の念が頭の中をぐるぐる回っている。
もう・・・ソープランドには・・・いかない・・・そんな29の夏なのであった。
もし仮に次行くなら大阪か兵庫のなんとか新地とやらに行ってみることにしよう。そこならば失敗しないだろう。何をもって成功なのか自分の中ではわからないがおそらく性交を以って成功なのだろう。
社会人になって数年って、だいぶ遅れてる方じゃね?
オレなんか、その2/3くらいは、中学生時点ですでに「悟って」いたがなーw
シヤワセそうなヤツは憎かったし、オトナとしゃべるのはメンドイことが多いからなるべくしゃべらないで済まそうと思ってたし、無職の人、仕事できない人に対しては普通に見下した態度だった。
(後で、オトナになってから聞いたことだが)いつも下校時に同じ方向に帰る友人に、道すがら見かけたホームレス風の人を指して「勉強しないと、将来あんなのになっちゃうぜ」的なことを何の気なしに言ったんだそうだ。
その一言で、友人はハッと目覚めてw マジメに勉強に取り組むようになって、イイ高校、イイ大学に進むことができたって、感謝されてしまったw
ついこの間までは若手のホープだと目されていたはずが、今や彼も44歳。
その近況についてはフランスに移住したことくらいしか私は知らなかったのだが、最近はYouTubeで彼を見かけることが多くなった。
彼の言動を切り抜いた動画は若者にも広く支持されているように思われる。
無論、彼が論破王であるのは言うまでもないのだが、その弁舌を振るう対象先がいまいちパッとしない。
有名人叩きだったり、自称天才の馬鹿には耳障りの良さそうなトンデモ理論だったりと、そこには往年の輝きはもはやない。
そのためか、彼のトークはますますキレを失い、熱烈な信者に崇奉されることに気を良くしてか、益々信者が喜びそうな内容に走っているように感じられる。
4人1組の班。
課題について班で検討する際、自分だけ検討する会に呼ばれなかった。
一言も喋れなかった。
班の人にも迷惑をかけてる。
社会人ってこんなに辛いんだな。
昼間の出来事なのに未だに胃がキリキリする。
社会人ってこんな劣等感や疎外感を味わってもなお毎日働いてるって凄すぎる。
尊敬する。
とても辛い。
死にたい。
関係者「枠」とは書いたが関係者を観客数に入れるとは一言も書いてないのだが
そもそも関係者枠がどんなのか知らないだろうから教えよう。バンドメンバーやその所属事務所のスタッフの家族、直接の知人、間接的な知人(これがかなり多いケースがある)とかになって、スタッフとかは入ってこないのだがな
接種券がようやく来た。でもうちの自治体では基礎疾患があるか高齢者施設等の従事者を優先していて、一般の人間の接種はまだ予定が未定らしい。
医療者を優先はわかる。接種に携わる人も、高齢者も、基礎疾患でハイリスクな人を優先もわかる。
でも大きくない会社で働く健康な自分にはいったいいつになったら打ってもらえるんだろうか。
ワクチン接種開始直後の、某薬局チェーン会長夫婦がバッシングされたときに「一人でも多くの人が早く接種することで集団免疫がついてまだ接種していない人にも恩恵がある」という主張があった。
医療者だか海外在住か知らないけど「ワクチン2回接種済」とスクリーンネームに書いた人が同意する引用リツイートをしていて正直ケッと思った。
その集団免疫効果も変異株の増加で、ワクチンの感染予防効果よりも重症化を防ぐ効果が中心に見られたこともあってか最近あまり見かけない。
結局「何だ結局我先に打った方が得だったんじゃん」って思う。
ワクチン忌避者に向けてだか「これだけのメリットがあるので打つべき」という上から目線のツイートが流れてきても「じゃあいつ打ってくれるんですか」としか思えない。
高齢者として接種を早々に受けた人が「良かった、これで秋には海外旅行行けるかも!」とツイートしているのも見た。良かったね。
「副反応で腕が上がらない」スマホは使えるんですね良かったですね。
「5G はまだ繋がりません」「磁石がくっつきません」ぜんぜん面白くねーよ。
ワクチンに関する色々な一言にそのたび浅く浅く傷付いている自分がここにいる。ツイッターのミュートやブロックのリストがどんどん増える。
大規模センターのキャンセル待ちリロードもしたけどすぐ飽きた。定期的に予約してやってた献血も、もう何だかやる気がなくなってキャンセルした。
実際に予約できるようになったとして、そのとき順番に並ぶ気持ちが残っているのか、もうよくわからないなと思う。
日に日に「もうどうでもいい」が強くなっている気がする。
それとも「待て」を無視してさっさと打てるとこ探せば良いんだろうか。
そいつは一つの国語表現に固執するあまり、不特定多数に自説を吹聴して回り、
あまつさえ特定の国語学者のアンチまで務めるという壊れっぷりであった。
流石に目に余るのでそいつのプロフィールを見たところ「発達障害」という文字列が入っていた、
ああそういうことね、と冷たくレスを返してみると、案の定相手がいきり立ったものである。
ひたすら自説の正当性と大義名分を主張しヒートアップしていく一方、
私はそれを見て、かわいそうなやつだなと思った一方、
「なんのためにこいつは発達障害を自称しているのか」と思ったものである。
自分も素人なので詳しいことは知らんが、ネットでちょっと調べた限りでは、
「発達障害はどうでもいいことに固執する傾向がある」というような話があった。
(下手に曲解するといけないので、そういうふわふわした理解にとどめておく。)
その性質を自覚しているなら、そうなっていると指摘された時に、
「すまんな」「ええんやで」とならなくては意味がないのではないか。
逆に言えば、それができないのが発達障害なのかもしれんが。
いずれにしろ、彼が発達障害と診断された意味が微塵も感じられなかったのである。
そういえばもう一つ、「病気の診断」に関して思うことがあった。
一昔前に「新型うつ」という概念が流行ったころ、それを否定する風潮が強かった。
お茶の間にとって「うつ」とは「常に気分が落ち込んでいるべきもの」という偏見があった時代で、
(あるいは今もそう変わってはいないのかもしれないが、少なくともメディアの扱い方は違う気もする)
「やるべきことに直面すると落ち込む、解放されると嘘みたいに明るくなる」という新型うつを見て、
「甘え」や「仮病」の二文字が頭に浮かぶ人は少なくなかったであろうと思われる。
その様子を見ていた自分は当時まだ子供であったが、子供なりにその風潮を憂えたものであった。
いざ自身が大人になってみると、うつ病の人が周囲にちらほら出てくるようになる。
私の交友関係はだいぶ狭いほうだが、それでもあんな人やこんな人がカウンセリングを受けている。
仕事で心を破壊された気の毒な人もいれば、体育大学に通いながら精神を病んでしまった人もいる。
健全な精神は健全な肉体に宿れかし。そう思わずにはいられない。
無知の知ではないが、うつ病とはわからぬものだなという事だけがわかってくる一方、
彼らが日々己の心身と闘っている様子が切実に見えてくるものである。
しかしながら、うつ病患者だからといって100%同情されるわけでもない。
知人のとあるうつ病患者は、日々の体調管理すら苦労している様子が見て取れる一方、
もともと愚痴が多いうえに「かわいそうな自分」に酔うタイプであった。
それを日々聞かされる周囲の人はだんだんと耐えられなくなり、距離を置くようになってしまっていた。
うつ病であることそのものではなく、自分に酔うことを苦々しく見られていたのである。
子供のころから見ていた自分は「こいつ病気なんじゃね」と思っていた。
私が大人になるにつれて傾向は見えてくるようになり、
どうやら忙しいだとか面倒なことが控えると機嫌が悪くなり、
思うようにならないことがあると、それをしばらく引きずる形でまた機嫌が悪くなるようであった。
頼れるものに頼ろうとしても結局文句ばかりで一向に楽になろうとせず、
そうして忙しくなるとまた機嫌が悪くなるというマッチポンプばかりをしていた。
ネットを通して「そういう人もいる」という知見を得て、そういう人なら仕方ないなと思っていた矢先、
本人からうつ病であると打ち明けられたのである。診断書を見せられるでもなく。
そのとき私が抱いた感情は「かわいそう」とか「お気の毒」ではなく、
申し訳ないが「それ見たことか」「何を今更」「で?これからどうする?」という気持ちであり、
正直言って同情は一切わかなかったものであった。
なぜなら自らを病に落とし込んでいるようにしか見えなかったからである。
近年は様々な病気、あるいはナントカ症というものが多数生まれてきている。
先日某ラジオでも取り上げられていたが、とくに恐怖症になると枚挙にいとまがない。
「お酒恐怖症でーす!なぜなら目の前にあったら飲んじゃうから!違うかw」という投稿には個人的にムカついたが、
ほとんどは「落ち着きをなくす」「立っていられなくなる」のような割と切実な訴えであったし、
自身の友人知人からもそういう話は聞いたり、あるいは付き合ってきたものである。
そうした新たな病気やらなにやらというものの周知が試みられているのもまた現代であるが、
じゃあすべて見て聞いて覚えられるかと言えば、そんな余裕は多忙な一個人にはないし、
公の場で突然異変を起こした人を「あ!これネットで見たやつだ!」と100%適切に助けられる自信もない。
ましてや「病気」認定が差別的なものになりうることは過去も現代も同じであり、
無垢なマイノリティの方々が切実な訴えをなさっては、様々な人間が入り乱れて大騒ぎになるところである。
では「病気」という診断は何のために存在するのか?百害あって一利なしなのか?
私はそうは思わない、というか、「病気」だけが特別である必要がないと思う。
彼はかなり前に、声帯ポリープが発見されたことがあったらしい。
声を出すお仕事の人にとっては特に厄介な病気であり、切除をしてしばらくお休みをいただくのが常である。
しかし彼は「付き合っていけば味になる」と割り切り、手術をしなかったというのである。
そのせいもあってか度々喉の不調で活動休止ということもあったようなのだが、
2011年の時には「プロとして情けない」とツイートした履歴もある。
身体と心の不調では話が違う、と言われるかもしれない。
しかしながら私が言いたいのは、彼はある種の病を「個性」として受け入れたということである。
病気とまでは言われないものや、単なる性格に過ぎないものも細分化されつつあるように感じる。
「あなたはこだわり屋さんです」とか「あなたはネガティブです」とか言われても、
それは正式な病気や障碍ではないし、なんらかの公的な援助が受けられるわけでもない。
あるいは病気や障碍とまでは言い切れない「グレーゾーン」なるものも存在するようである。
そういう「個性」が明らかになったときに、自分はどうするのか?
自分がその個性とどう「付き合ってい」くか考えていくべきなのではないか?
もちろん病気や障碍には「どうにもならない」「仕方がない」部分はあるし、それに伴う人並み以上の苦労もある。
自身の身体をコントロールできない病なら、どんなに偉そうにして厚かましい要求をしてもいいのか?
自身の精神をコントロールできない病なら、コントロールを諦めて好き勝手罵詈雑言を吐いてもいいのか?
一般人にとっては、大義名分があるから批判することは難しい。でも人として嫌な思いはする。
そうして直言を受けることなく、一部の優しい人に甘やかされ続け、他の人からは疎まれ、
傍若無人にしてある種の孤独なモンスター、言い換えれば「裸の王様」が生まれる。
とくにマイノリティにおける過激派は、どいつもこいつもこうなってはいまいか?
大学の授業に通えていない現状を憂えてのことであったと思われる。
当時の自分は「怠けているだけなのに病院に行かせてくださいだなんて…」と、
今思うと「たとえ病気でなくても」医者にかかったほうがよかったのではないかと思っている。
結局二度と機会は訪れなかった私であるが、
大学生時代におけるリアルとネットの交流を通じて多くのことを学び、
時には大きなトラブルを起こして教訓を肝に銘じ、
また時には友人からの諫言も受けつつ自分を自分なりに成長させることができた。
かつては絵に描いたような「メンヘラ」だった私も、
今では精神疾患を冷静に分析し、自身を客観的に見られるようになり始めた、と思う。
そうか?と思われるかもしれないが、少なくとも昔よりはマシである。
なぜなら今思い返すと「昔の自分」が恥ずかしくて仕方ないからである。
未だに昔の自分に同情する部分もないわけではないが、
一方で人の振り見て我が振り直すことも多くなった。
それだけ人の、自身の「醜さ」というものをより理解できるようになったのである。
自身の気分の落ち込みも「これは見苦しいな」「こうすればおさまる」と自己分析し、
専門家によらないセルフコントロールを自分なりに築き上げてきた。
そんな自分から見ると、コントロールそのものを放棄している人が理解できないのである。
現代は科学と西洋医学の時代であり、「病気を治す」ことに邁進しているものと思う。
しかし一方で、「付き合っていく病気」というものは決して無くなるものではない。
今のコロナ禍においてもワクチン接種が進む一方で感染は防げない!と言われたり、
新たな生活習慣においては鳴りを潜めたことで、日々の感染対策の重要性が浮き彫りになった。
ワクチン打てばかからない!でもなければ、タミフル飲めば大丈夫!でもなく、
自分ができることをして病気と付き合っていくことこそが大事であると改めて示されたものと思っている。
以前ネット上で「自分の機嫌は自分で取る」という言い回しが話題になった時には、
それができるかどうかはさておき、やろうと思わなければ始まらないのである。
不機嫌な自分を正当化するだけでは、だだをこねる子供と変わらないのである。
自分の心をなだめてあげること。
心の不調の原因に向きあうこと。
それをやらずして「病気」に甘んじていては何の意味もないのである。
人はたいてい、何かしらのハンデを抱えている。
病気や障碍を隠して生きるよりかは、カミングアウトできる世の中であってほしいが、
カミングアウトを免罪符と誤解している人間は、その秩序を乱してしまう。
自分に対しては、病気や個性を認め、なるべくコントロールしてみよう。
他人に対しては、病気や個性を認め、なるべく受け入れてあげよう。
それらが並立して初めて、やさしい世界を体現できるのではないか。
「幼馴染」という単語が出てくるたびに、「幼馴染=仲がいい」という前提だけど、嘘というか逆だろうと思う。「仲がいい」ことの理由として「幼馴染」が出てくるだけで、実際は「幼馴染=仲がいい」はレアケースだろうと思う。むしろ、「幼馴染」であるがゆえに修復不能なほど深刻に仲が悪くなることも多い。XJAPNやチェッカーズなどが代表例。
というか、「幼馴染」と大人になっても変わらずに友達付き合いを続けるって、普通に考えて不可能だというのが個人的な実感。黒歴史が多いし。大学で幼稚園からの幼馴染と同じ学部になったことがあったが、4年間一言も口をきかなかったし、すれ違ってもお互いに無視だった。そんなものじゃないだろうか。
自分も注射大っ嫌いで採血のたびに恐怖のあまり迷走神経反射で倒れて運ばれてる人だけど、泣きそうになりながらワクチン打ってきたよ。
「寄付金 一口3万円です。何口でもお受けします。」に閉口するような貧乏人が行く場所じゃなかったのかもねと後から考えると思う。
寄付金を100口くらいぽーんと出せる家の子だったら、親が一言言えば教師もまじめに聞かざるを得なかっただろうからな。
でも、そう考えたら"1.私立中学に合格し通うガキ"も十把一絡げにできるような話ではないね。
よほど頭がいいか、金で殴れるかできる自信がないなら無理して私学に行くより公立に行ったほうがよほどましな生活が送れる。
よって、"1.私立中学に合格し通うガキ"のほうが"3.相応の学力はあるのに受験させてもらえず公立行くガキ"よりも一概に幸せってわけでもない。
一言で言えば単純につまらない映画だった。おススメはしない。つまらないし。退屈だし、眠いし、60分の映画じゃないとたぶん寝てた。
物語自体は破綻しているわけでもないし、矛盾やおかしな演出があるわけでもない。個人的にはそういうものを求めて見に行ったけども、思いのほか綺麗に纏まっていた。ただ、物語が破綻しているのであれば、実写版デビルマンみたいに映画にツッコミを入れて楽しむという、やや歪んだ形ではあるけども玩具のような楽しみ方はできるが、そういう楽しみ方もできない。
原作だと100日後に死ぬことがメタ視点で提示されており、それを当然ながら知るはずのないワニの日常を眺めるという手法で描かれている。で、ワニの日常を見ているだけなんだから、とくに盛り上がりもなくてつまらないんだわ。画面の端でカウントダウンをするとか、せめてシーンの切り替わりに「運命の日まであと〇〇日」とか入れてくれればいいのに。
日常がつまらないのもそうだし、やたらと間があったり、格ゲーを遊んでるシーンや大会では尺稼ぎをしているとかしか思えんくらい長かったりするのも退屈に拍車を掛けている。
物語の中盤(映画の開始時でも描写はあるが)、ワニが何らかの要因で死んでしまい、本作最大の山場のはずではあるが、原作からしてそうなんだから仕方がないけど、明確に死が語られるわけでもなく、日常描写と同じノリで淡々としているのだから、やっぱり盛り上がらない。
そして終盤、うざいと評判のカエルが出てくる。マジでウザい。でも、ワニやネズミも声が付くとかなりウザいよ。とくにネズミ。
ワニを失って意気消沈していたコミュニティが、その死を乗り越える展開になっているけども、心理描写は多くは語らないが、かといって表情で表現するというわけでもないので、単純にカエルがウザいだけなのが癪に障るだけだった。
100ワニの映画を見た感想としてはこんな感じ。クソ映画だと言うつもりはないけど、ただひたすらつまらない。100ワニ映画叩きで「虚無」って言葉がちょいちょい使われているのはそのとおりだと思うし、〇〇の部分がクソ!みたいな叩きが少ないのは、盛り上がりなくて語りようがないということもあると思う。
自分が見たときは劇場には30人くらいはいたが、映画が終わった後、誰も言葉を発しなくてなんとも気まずい空気になっていた個人的には印象的だった。