はてなキーワード: センターとは
自分に精神障害があるような気がして相談窓口を調べていたら、女性専用がやたらと目についた。
女性のための電話相談、女性のためのSNS相談、女性家庭センター、女性なやみ相談など。
>メジャーな球技だと、開放されている公営施設を借りて5,6人のネットで集めた初めましての人と週2時間だけやる、みたいな続け方ができるけど
意外と吹奏楽でも出来るよ
地区センターで音出し出来る部屋は割と安く(5人くらいの部屋なら1時間1000円とかで)借りられるし、お仲間を募集するネット掲示板みたいなものもあちこちにある
すごく面白く見たのだが、企業の対応にはとても違和感があった。
「自社が発送した荷物が爆発する」という企業イメージを揺るがす超巨大トラブルが発生しているのに、
基本的に配送センターのセンター長ともう一人の正社員の2人だけで対応に当たっているのが、私はとても変だと思った。
過去、自分の勤め先で世間に報道されるような大トラブルが起こったときは、さまざまな部署からわらわらと人が集まってきて対応を議論し、トラブルの震源地となった部署のマネージャーは権限を取り上げられ、ひたすら情報収集・整理と上が決めた対応の実施に徹していた。
『ラストマイル』では基本的にトラブルのあった配送センターのセンター長がすべてを決定し、社長のホットラインで報告していて、関係者が少なすぎるように見えた。
企業としてのプレスリリースもセンター長の一存で社長に許可とって出しているように見えて、ああいうときのプレスリリースなんて経営陣や法務、広報などを駆け巡ってどんなに頑張っても当日即出るものではないんじゃないかと違和感があった。意思決定が早いってことなのかもしれんが。
私も数社しか知らないので、自分の感覚がどのくらい一般的なのかもわからない。
近所に免許センターがなく最寄りの警察署で更新するのだが、適性検査+講習で2日分時間が取られる。
この際、2日取られるのは諦めてるのだが、講習場所がその警察から遠い、遠すぎる。まあみんな車持ってる前提の制度なので多少遠くてもいいのだろうが、自分みたいな普段自転車か原付き位にしか乗らない準交通弱者からするとやっぱり遠い。その会場は電車が通っておらず本数の少ないバスか自家用車くらいしか選択肢がない。
実は5年前も同じだった。5年経てば変わるだろうと思ったら何も変わってなかった。
もう少しなんとかならんのか?
三井のすずちゃんのCMを見てると広瀬すずよりも取り巻きポジの別の二人の女の方が魅力的に感じ応援したくなるだが、こういうのって珍しいのだろうか?
アイドルで言えばセンターよりも脇の子を判官贔屓的に応援するような感覚だと思うのだが、広瀬すずほどの人間を無視して別の女性に同情や応援の気持ちが湧くのはさすがに変かね?
秋に少し時間ができそうなので石川県の災害ボランティアに参加できるかもと思って情報収集を始めた。が、県のボランティアセンターの募集枠は各エリアで数十人程度しかなく、基本的にはすぐに満員になる様子。あとは民間のボランティアキャンプがちらほら。ボランティアとして行く時点で満足な寝床がないことは覚悟してたけど、民間かつキャンプとなると身の安全に若干の不安を覚える…。
そもそも公式のボランティア募集枠が少ないのなら人は充分足りているのかとも思うけど、年明けからの報道を見るにそうとも言えなさそうな予感もあり、どうするべきか迷い始めてしまった。
酷暑で被災家屋の片付け、ボランティアは「ヒーロー」…常連の男性「ここでしか得られないものがある」 : 読売新聞オンライン https://www.yomiuri.co.jp/national/20240827-OYT1T50170/
人が足りてないなら気軽に参加してもいいなと思ってたけど、女が中途半端な気持ちで参加したら逆に足手纏いになりそう。石川県にゆかりがあったからなにか力になりたいと思ったけど、普通に募金や観光に回す方がいいのかな。率直な意見を聞きたい。
タイトルを見た段階で「ゾッ」とした人は多いと思う。すみません。
しかしながら、わたしも文言を打ち込んで、改めて「ゾッ」とした。
この「ゾッ」という感覚にどうしようもなく支配され、打ちのめされていた時期を、わたしは忘れることができない。
「ゾッ」とした感覚を忘れることはできないが、今、わたしは精神的に健康に、明るく過ごせている。
今、わたしが精神的に健康で、明るく過ごすことができているのは九分九厘、飼い猫が元気に過ごしてくれているおかげである。
「飼い猫の断脚」から約四か月が経過し、現在の猫の様子も加味して、ようやく「飼い猫の断脚」に対する重圧が軽くなってきた。
そこで、「飼い猫の断脚」についてのあれこれ(事の顛末、断脚前後の猫の様子、それに伴う人間の情動の変化、現在の猫の様子など)を、ここに記しておく。
このような活動は、とてもじゃないが精神的な負荷が軽くなければできない。現在とても健康的に暮らしている飼い猫に感謝しながら、この日記を書きたいと思う。
今年十五歳になる飼い猫を、仮に「じじ」と呼ぶことにしよう。
じじは約三年前、様々な理由から実家で面倒を見る人間がいなくなった猫だった。そこで、引き取り手として名乗りを上げたのがわたしの家庭だった。
同居している家族や先住猫は、じじとは殆ど面識がなかった。だが、幸いにも我が家の住人とじじは打ち解けるのが早かった。
じじは我が家にやってきてすぐ、他の猫に交わってリビングの中央に横たわり、堂々と眠るようになった。その眠っている横を通りすがるとき、じじの頭をひと撫ですると、尻尾をぱたん、と床に打ち付けて返事をする。
人間に対しての愛想は良い。人間とのコミュニケーションを恐れず、友好的に人間に接する紳士的な態度は客人から気に入られることも多かった。
じじは十歳を過ぎたおじいちゃん、且つニューフェイスにして、瞬く間に我が家のアイドルとなった。
だが昨年、十年以上病気知らずのじじに変化が訪れた。
ある日、わたしがじじの歩く後姿を眺めているとき、気がついた。左後脚の関節が、コブができたように腫れ上がっていたのである。
町の動物病院へ連れて行ったところ、「うちでは原因を究明できません」と断言され、腫瘍科のある医療センターに紹介状を書いてもらった。
じじの体を蝕んでいる病は、悪性リンパ腫だった。所謂、リンパ腺のガンである。この病気に罹患して一年以上生存するケースは稀らしく、脚の関節に腫瘍ができるケースは更に稀だという。
獣医療の中でもケースが稀ということは、適切な対処がまだ正確に確立されていないということだ。
脚の関節にできている腫瘍は関節を取り囲むようにして癒着しているため、腫瘍のみを切除することは難しいという。
対処としては薬物療法か、放射線治療か、断脚か。前者二つの治療法を実行したとしても、副作用は重い。
いずれにせよ、肥大化した腫瘍を完全に消滅させる見込みはなく、そのままではいずれ歩けなくなることは明らかである。断脚を行うなら早めに。
※かなり要約したが、主治医は徹頭徹尾、いずれかの治療法を強く勧めるようなことは言わなかった。どの治療法にもメリットとデメリットがあることをわたしたちにきちんと説明した上で、飼い主がどの治療法を選択するか、丁寧に寄り添い、真摯に向き合ってくれた。
つらい時期だった。
こういった、重い決断が目先に迫った場合に採りがちな「様子見」という選択が、このときばかりはできなかった。
猫の脚を切るか、重い副作用がある治療を猫に受けさせるか、病に蝕まれるままに猫の命が尽きるのを待つか。
いずれも、人間のエゴイズムによる選択であることには変わりない。
結局、タイトルにも記した通りの選択をした。断脚を選んだのだ。
主治医から「猫ちゃんは三本脚になっても元気な場合が多いです。じじちゃんの場合年齢の割に元気ですし、手術を乗り越えれば生存する確率は高いと思います」と告げられたのも、救いの光のように感じられたからだ。
「残りの命を少しでも健康に、楽しく生きてくれるなら」という祈りのような、賭けのような思いで、断脚手術を決断した。
断脚手術を経て、変わり果てたじじが我が家へ戻ってきた。
以前からやせ細っていたじじが、脚が無くなって更に軽くなった3kgの体重を、三本脚で支えながらよぼよぼと歩いている。
便意や尿意を催すと真っ直ぐ猫用トイレに行く。とても賢い。だが、ぎこちなく動かすしかない一本の後脚をトイレの中に入れられず、トイレの外で何度も粗相をした。
泣かずには、落ち込まずにはおれなかった。ああ、自分は選択を誤ったのかもしれないと、粗相の後片付けをする度に思った。
もちろん、家族も泣いていた。一緒に泣いて、悲しんだ。じじの脚を、自分たちの意志でひとつ無くしてしまったことを、心の底から後悔した。
人間のエゴイズムで、愛する猫を不幸にしてしまったかもしれないという現実に「ゾッ」として、それがどうしようもなく全身にこびりついたまま、しばらく剥がれなかった。
じじが、二階にある寝室まで階段を駆け上がってきたのだ。しかも、ジャンプしてベッドの上に乗ってきた。
ニャン!と啼いてベッドに乗り、喉から轟音を鳴らして甘えてきたとき、感動でわたしの体は震えた。
更に、喜ばしいことは日に日に増えていった。
これまで使っていたトイレを、より広く、段差が小さいものに変えたところ、トイレが使いやすくなったらしく粗相の回数が激減した。
痩せたじじの体重を増やすために朝晩猫缶を与えるようになったのだが、味を占めたのか昼夜問わず催促し、三本脚でチョコチョコと人間の後ろを着いて回るようになった。
そして、まんまと体重も増えた。手術前よりもふくふくとしたボディラインになり、猫缶をモリモリ食べる姿が様になってきている。
じじが個体として凄かったのか、そもそも猫が凄いのか分からないが、ともあれ、途轍もない適応能力に感心しきりだ。
三本脚にする選択を採り、今までよりも不便な生活にしてしまった後悔や、「断脚」という野蛮な言葉が齎す「ゾッ」という感覚はまだ存在する。
だが、じじは健康に生き延びてくれた。
猫缶をモリモリ食べ、うんちもおしっこも毎日ジャンジャンして、家中を駆け回り、ごはんを催促してニャンニャン大声を出し、寝る前は寝室まで甘えにきて喉をゴロゴロ鳴らす。
じじは十五年間生き延びて、現在でも毎日毎日、元気で健康的な姿を人間に見せてくれている。
その姿は美しく、勇敢で、立派だ。そんな猫の姿を見られていることに、わたしは心から感動している。
今はただ、こんなに嬉しいことはないと、切に思う。
まず、自説については、さも客観的な言い方で、「全く無根拠なことではない」とか言っておく。
もちろん、そこにエビデンスは何一つなくても。
それから、相手の提示してきた客観的に正しいエビデンスに対しては、さも偏った研究結果からばかり引用してきたかのような言い方をして、「それに関しては、より広範な研究結果が求められるだろう」とか言っておく。
最後には、相手の提示したエビデンスも、「ちょっとは認めてやる」みたいな言い方をして、「自分は、反対論者のエビデンスを無根拠に否定する反科学主義者ではない」というスタンスを取りながら、結局、全否定された自説を変えることは頑迷に抵抗することだ。
なぜ言論の自由は前進と後退を繰り返すのか──『ソクラテスからSNS: 「言論の自由」全史』
https://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2024/04/12/080000#fn-3a907ef9
フェイスブックやツイッターはアルゴリズムによるコンテンツモデレーションを行っているし、それはグローバルサービスが避けては通れない国家権力の圧力を受けてのものだ。
当然、そうした規制も無根拠なものではない。人種差別、扇動にプロパガンダ、あらゆる表現が世に溢れる。2018年のMITの調査によると、虚偽のニュースは正しいニュースよりも70%もリツイートされやすいという。ソーシャルメディアにおいては、虚偽やネガティブ、誇張され、感情をかきたてられる特徴を持つコンテンツは速く、広く拡散されるが、事実に即した話、理路整然とした話は拡散されない。
では、どうすべきなのか? 著者は、SNS上でのヘイトスピーチは想像以上に少なく(全体の0.1%から0.3%)、言論の抑制はヘイトスピーチを減らすよりもむしろ増幅する効果をもたらし得るとフェイクニュースも含めいくつかの研究を引きながら書いているが、ヘイトスピーチやフェイクニュースの反乱にたいしてどのように対抗していくべきかについては、より広範な研究が求められる部分だろう。
言論の自由に負の側面があることは間違いないが、同時にそれがどれほどの発展を促し、言論以外の自由の防塁として機能してしてきたのかを思えば、言論の自由を死守する意義が、本書を読めばよくわかるはずだ。
この文章の素晴らしい点は、言論の自由に負の側面があるどころか、ヘイトスピーチを減らすなど、好の影響しかなく、逆に規制は逆効果にしかならないことしか、エビデンスで証明されてないにも関わらず、「規制も無根拠なものではない」だの「言論の自由に負の側面があることは間違いない」だのと、のうのうと言ってのけている点だ。
自分たちが出している根拠は、MITの「虚偽のニュースは正しいニュースよりも70%もリツイートされやすい」という研究たった一つだけだが、これは、「言論規制は逆効果で、ヘイトスピーチを増やす」という不都合な真実を否定していない。
むしろ、言論を規制すればするほど、MITの研究通りに、虚偽のニュースがより拡散されやすくなるということが、この二つの研究結果から見えてくる。
これが、言論の自由ではなく、例えば自然保護などで、あらゆる結果から、逆効果にしかならないとわかっている政策などだったら、それが逆効果でしかないとエビデンスで証明されているにも関わらず、「広範な研究が待たれる。」だの「環境破壊は深刻で、このような措置も無根拠ではない。」だとか喚いて、逆効果な自然破壊行為を続けていたら、「環境破壊してる元凶はテメーなんじゃボケ」と、真っ当な突込みが飛んでくるだろう。
なお、こうした言論テクニックは、実際に林野庁などが、スギ植林を自己正当化して、日本人を花粉症で苦しめながら、日本の景観を破壊し続けていることに利用している。
ほかにも、同じ言論テクニックは、官僚たちの怪しい政策が、真っ当な科学的根拠によって否定されても、おそらく別の思惑によって、その逆効果な政策を続けようとする場合に、いくらでも見ることができるだろう。
そうした官僚の拙い杓子定規な使い方は、真っ当な人間に官僚不信を呼び起こすだけだが、昨今のネット叩きと、表現や言論の自由が憎くて憎くて仕方ない勢力の影響下にあるネットでは、同じ噴飯ものの反知性的言論テクニックが、拍手喝采で迎えられはしなくとも、されるべき突っ込みが起こらないというところに、最悪のポピュリズムが極まった感がある。
規制するほどヘイトスピーチが広まるのは、規制の網を掻い潜ることに長けたマスコミが、規制によって、有効な反論がされ難くなったことを良いことに暴走しているからとしか思えないが、そのマスコミが扇動すれば、こないだのイギリスのように、関東大震災朝鮮人虐殺事件を彷彿とさせるような暴動が、簡単に惹き起こされかねない状態になっているように思える。
「朝鮮人が井戸に毒を!」デマも、全ての火付け役は、マスコミだったことを忘れてはならない。
まとめブログ全盛期の頃の、悪質な大手サイトも、実際は、個人ではなく広告代理店が運営していたのだ。
マスコミの作った日本ファクトチェックセンターは、まさに「我々マスコミは事実を報道しようと努力しているので対象にしませーん」と平気でのたまって活動している連中だが、規制によってネットの一般人のファクトチェック機能が弱体化し、そうしたマスコミ製ファクトチェック機関しか残らなくなれば、また「朝鮮人が飲料水に毒を!」というデマをマスコミが拡散しても、それをファクトチェックする者はどこにも残ってはいないだろう。
マスコミが、まず在日外国人などを味方に付けるように、逆差別的な報道を繰り返すのも、明らかにこの思惑があるからだ。
「将来的には、衆愚を煽ってお前らを自由に虐殺できるように整えるけど、それまでは味方だと思わせて協力させたるわw馬鹿ネトウヨは、ただ扇動して殺し合いしてもらうだけのブタだけど、最終的には朝鮮人憎しで俺らの味方になるしなwww」
というわけだ。
実際にネトウヨが憎むべきは、逆差別的報道を繰り返したマスゴミで、朝鮮人ではないのだが、未だにマスゴミ工作員の扇動にまんまと乗せられている嫌韓ネトウヨを見ていると、彼らの工作はまんまと成功しているように見える。
2022年のある日、大阪の人気番組『なるみ・岡村の過ぎるTV』(朝日放送テレビ)を見ていたら、岡村隆史さんへの出産祝いにと、高級住宅街の芦屋でビスブラのお二人とマユリカのお二人がわらしべ長者ロケをやっていた。
他の番組でもやってるようなやつだなぁ〜と思っていたら、さすが芦屋。最後の最後で、とある社長さんがご友人の社長さんに引っ越し祝いでもらったという、よくわからな過ぎる絵画が登場したため、番組が「作家が判明できず困っております。どんな小さな手がかりでも構いません!情報がある方はリプお願いします!」と呼びかける事態に。
https://x.com/sugirutv/status/1526212124862648320
ただ、手がかりは、
ということのみ。なるほど、よくわからん。
しかし、大阪南港には、こんな感じのインテリアアートを販売する株式会社ユーパワーがあるのだ!ということで問い合わせたところ、正体が判明。
https://youtu.be/7OIAvbJChDY?t=73s
というわけですべて解決と思いきや、番組公式Xと下山航平PのX宛てにリプを送っても何故か反応がない。
そのまま2023年になってしまい、さすがに岡村さんも、過ぎるTVで「みんな忘れてるかもわからんけどさぁ、なんかあの、わらしべ長者みたいなんで、わけのわからん金持ちの人がくれた怖い絵あるやん。あれもだから、なんぼなん?、この絵なんなん?っていう。岡村さんにあげます言うたまま、わかってないねん」と指摘。
そこで、同日の放送中に「生き字引スタッフ #過ぎるTV」とポストしていた児玉裕佳Dにリプを送るも反応なし。
すると、偶然同じ朝日放送テレビの『これ余談なんですけど・・・』の企画でABCリブラさんから画像提供依頼が来たため、一応絵画のことを話すも、過ぎるTVはABCリブラさんではなくバックアップメディアさんらしく、過ぎるTVの担当者には伝わらず。
しかたがないので、ABCテレビ視聴者センター、共演者のすっちーさんのX、テレビ局のキャラであるエビシーのX、番組公式サイトへも、リプを見落としているのではないかと送るも反応なし。
パート1→ https://anond.hatelabo.jp/20240819184907
木曽呂はまっ平らな川口市に大宮台地が張りだした高台の地区。この木曽呂の東には川口ICがあり、その東側には人家希な地域がある。神根東と言えばいいのか。住所としては赤芝、石神という地域だ。
ここの場合は一般的な調整区域で建築制限されているのではなくて、近郊緑地保全区域という規制が掛かっている。
家やマンションが建てられないので畑をやるしかない。しかし都心から近い畑地域では花卉栽培が人気になる。そこでこの周囲では盆栽や植木が名産になっている。
しかし、植木って今は人気だろうか?あまり植木に精を出しているおじさんとかは見ない。なので下火となり、都市化によって農業自体を廃業してしまう人も多い。
すると土地が遊んでしまうし、そこに固定資産税も掛かってくる。
そういう訳で駐車場用途やヤード用途の買い手に売却、となる。緑地保全区域なのにホコリっぽいヤードだらけになるのが皮肉だ。
特に外環道川口東IC付近にはヤード類がまとまった箇所が数か所ある。
特養ホームというのは収益性が然程は高くないのに広い面積が必要な施設で、故に訳アリの土地、崖の下などに造られやすく、その為に災害で犠牲者が出る事がままある。
調整区域で特養ホームが例外に入っている場所などは当然候補地となる。
産経は近所の迷惑度を強調したくて特養ホームを入れたのだろうが、増田の場合は逆に「ああ、人家希な地域なんだろうな」と考えてしまうのだ。
増田はこの手の産経のキャンペーン記事を信用していない。何故ならクルド叩きキャンペーンは「中国人が水源地を買っている、日本の水が危ない」キャンペーンの続きだからだ。
この中国人水源キャンペーンの時は遂に具体的な売買の経緯などを取材して書かなかった。
増田含めてネットには不動産のうち、「負」動産クラスタというのが居る。不良不動産のインチキ売買や怪しい不動産ゴロの事などを調べるのが好きな人間だ。
そんな負動産クラスターズが「水源までの道路はあるのか、それは誰の管理か」「水源地の分筆は売主がやったのか、仲介の第三者取引か」「もしや嘗ての原野商法の土地を買い上げて今度は中国人騙してる原野で二毛作か」とウキウキでいたのに、結局最後まで具体性のある記事は一切書かなかった。
朝日新聞が取材して「どうやら中国人相手に原野商法しているようだ」という一定の取材記事を出したのに、アンサーは無し。朝日の件と違うケースがあるのかどうかも書かないし、一切の掘り下げも無し。原野商法は整地もせずに登記簿だけで行われる詐欺的商売で、売主が現地にも行かないという信頼?の元に為されるバカみたいな取引だ。だから地上からは一切の変化も見えず、金だけが動いてゴミを得るという事が行われる。故に掴んだ情報がどこの事かと言ってくれないと困るし、言ってくれたら登記簿取って何があったか調べられるのだ。
そういう掘り下げを全くせずに、今度は自衛隊基地の近くに外国人が土地持ってるのが判った、日本の危機だ!と煽る方向にだけ行ってそれっきりだ。
元々産経には一般向けではない産経枠記事というのがずっとある。街宣右翼とか宗教右翼とか向けなので程度は極端に低く、社会人読者が常識的なスキルで疑問を持つという想定がされない。例えば「なんで登記簿取って書かれている買い手や司法書士や銀行などに取材に行かないんだ?」という疑問を持つ人は想定読者じゃないのだ。そういう人は一般的には社会人と呼ぶ。
書いてる記者もまともな能力がない。公害問題の時に地盤沈下が起こり井戸水の汲み上げ規制が全国で出来ていたはず、という常識やそれらにアタッチする能力もない。かなり特殊な記事群と言っていいだろう。
クルド人問題では他の新聞は医療センターでのケンカを報じるくらいで取り上げない。地元紙の埼玉新聞はたまに取り上げるがトーンや内容が全然違う。「Xで定積載の平トラックを撮影して『過積載クルド』とする盛り上がりに迎合してやはり定積載の平トラックを掲載してアイキャッチにする」なんて事は当然しないし、そういう読者を想定していないのだ。それは良識とかじゃなくてただの常識だ。
という訳でしてこの記事自体は「いつものアレ」であって、「領海侵犯」「刑事裁判での被害者の人権」なんかと同じ枠なので全く信用していないのであります。
しかし、定積載のトラック捕まえて「警察がなぜか検挙しない!1」ってそりゃ定積載だからだよなぁ。しかもその写真をガイジンの悪事として記事に掲載する新聞があるって言うんだからすげえよなぁ。しかもよく見たら読者に提供してもらってるのな。つまりXでバズってるのを鵜呑みにした情弱さんを鵜呑みにしたって事よな。
地理がよく分からずにあの手の情報に踊らされている場合もありそうなんで、川口の地理も説明したいんだが、紙幅が尽きたので今度なー。そんじゃーね。
トランスジェンダーの権利の拡大は、言論や行動に対する国家や制度的な規制の拡大と密接に関係している。 このことは、今日のトランスジェンダー活動家と、一時代前のゲイの権利運動との大きな違いを浮き彫りにしている。
ゲイの権利運動が、人々が法律に制約されずに自分の性生活を決定できるよう、国家からさらなる自由を要求するものだったのに対し、トランスジェンダーの運動はその逆を要求している。つまり、アイデンティティ・グループ以外の人々の行動を規制するための介入という形で、国家からの承認と保護を要求しているのだ。
かつて進歩的であることは、国家や制度的権威からより大きな自由を要求することであったが、今日、「進歩的」であることは、女性の表現の自由に対する制限を要求することである。
https://www.civitas.org.uk/content/files/2454-A-The-Corrosive-Impact-of-TI-ppi-110-WEB.pdf
著者ジョアンナ・ウィリアムズはシヴィタスの自由・民主主義・被害者プロジェクト・ディレクター。以前はケント大学で教鞭をとり、高等教育研究センターのディレクターを務めた。
ちょっと、お兄さん、その状況はなかなか難しいわね。でもね、何でもかんでも自己中心的に考えちゃダメよ。落とした人が困ってるかもしれないし、少しでも手助けする気持ちがあれば、それが人間としての最低限の礼儀ってもんじゃないの?
確かにショッピングセンターまで遠いかもしれないけどね、自分の都合だけを優先するってのはどうかしら?その場でインフォメーションセンターに行けなかったとしても、少なくとも連絡くらいはできたでしょ?そういう小さな努力が人間関係を円滑にする秘訣なのよ。
次に行った時に届けるって気持ちはわかるけど、それより今すぐ電話して「こんなもの拾ったけど家に置いてあります」って伝えるのがベストじゃないの?その手間を惜しむなんて、ちょっと恥ずかしい話よ。
さあ、早く行動に移しなさい。その高価なものが持ち主の手元に戻るためには、まずあなたの善意が必要なのよ。それから、何でも先延ばしにする人は魅力がないわ、覚えておきなさい。