はてなキーワード: スレスレとは
例えば、日本社会に迷惑をかけるくらいならニートの方がマシだ、という考え方がある一方
合法なのであれば経済を回している方が偉い、という考え方もある。
ビッグモーターは全て違法かのように言われているが、違法じゃない強引な手口はもちろん合法で、
そーゆーのは不動産の営業だったりレオパレスみたいなマンション投資だったり、保険の営業とか、まぁ詐欺スレスレの商売ってのはいっぱいある訳だ。
女性は不幸にはなってるけど、合法の範囲内であれば、何人泣こうが、最悪自殺や家庭崩壊しようが、何も悪くない。
そんな人間よりは、働かないニートの方がマシだ!という意見は当然あるし、
という価値観もある。
これはねぇ、相容れないよ?
話を大きくしてしまうが、ポリコレのアップデート早過ぎ問題は、本当に深刻だと思う。
第1に、アップデートについていけている人間と、ついていけてない人間に社会を分断する。ついていけてない人間は、「馬鹿にされている」「いつも怒られているように感じる」とルサンチマンをためるようになり、もともとリベラル寄りだった人までアンチリベラルに向かわせてしまう。実際そうなっているように思う。
そもそもアップデートについていけてない人は、学歴や情報アクセス、年齢などにおいて相対的に「弱者」であることが多い(高齢者が弱者であることを忘れている人が多いが)。それに対してアップデートを呼びかける人は、大学教員、弁護士、ジャーナリスト、アナウンサー、国会議員など、「立派な肩書き」の人が多い。なので、アップデートの呼びかけが強まるほど、これらの「弱者」は感情的に反発して社会的分断が深まる結果になる。
第2に、アップデートが早過ぎて、どこに「地雷」があるのかわからない状態となり、「何も言えなくなった」と感じる人が多くなる。結果として、フワちゃんのように「無礼な振る舞い」をすること以外に何の芸のないタレントがやたらに重宝されたり、石丸のような思想も政治的実績も中身のない人物を、「忖度せずはっきりものを言っている」と魅力を感じる人が多くなってしまう。
トランプ現象も、アップデートの加速化で「何も言えなくなった」と感じる人がアメリカで多くなった結果である。結局これらの人間も最終的に「地雷」を踏んで破滅する可能性が高いのだが、地雷スレスレで歩いている政治家や芸人が過大評価される傾向は、これからもますます強まっていくのだろう。
一担当・一係長が背負ってはいけないような案件を次々に背負わされていく。
ある事業における致命的な要素の決定権をごく一部だけ握らされ、その上で上司連中からは「早く何とかしろ」「絶対なんとかしろ」「俺はよく分からんからやり方は任せる」ばかり言われる。
現場の調整先からは「マジで困ってるんですけど?」という電話がしょっちゅう来るし、頼みの綱と思っていた業者からは「いやーこの納期じゃ無理っすねー」という断りがバシバシ入る。
そんな案件を自分の担当分で10個、部下達の分も入れれば20、30と抱えさせられる。
仕込まれた爆弾の数々は予算不足を旗印にトリアージを繰り返されてきた致命傷である。
「予算が足りないなら優先順位をつければいい」というちょっとだけ経営者感覚を齧っただけみたいな発言の元に何度もやってきたコストカットの影響が出ているわけだ。
「5年後に影響が出ますよ」を「じゃあ俺が別の部署に移ったあとに問題になるってことだから俺とは無関係だな」と考えられる奴だけが公務員の世界では出世する。
多分だけど、民間でも同じだとは思う。
民間との違いは民間は自分の会社が潰れないために今その瞬間を死物狂いにならないといけない所があるけど、公務員は潰れることがそもそも出来ないという現実に対して「20年後、30年後も俺達はこの業界でこの仕事をしている」という視点で物を見ないといけないってことだ。
エッセンシャルワークとはそういうものだと思うが、その現実を頑なに受け入れない人間ばかりが上に行き、ソイツラが放りだした責任を結局は現場が取らされる。
どれか一つの案件にだけ注力できるならやり甲斐はあるだろうが、それを10も20も並行してやらされると、結局自分自身もトリアージを繰り返すことぐらいしか出来ない。
ヒト・モノ・カネは当然のように足りず、思いつきでつけ足され続けるセキュリティ制度のせいで業務効率は日々悪化する。
俺も全くそう思う。
就職先に悩んでいる時に町中の公務員スクールにフラフラと吸い寄せられ「公務員っていうのは基本的なことが身についている人ってイメージが強いでしょ?だから転職も有利なんだよ」とスクールの勧誘に騙されたのが良くなかった。
頑張って勉強した果てに通ったんだからと辞めるタイミングを逃し、流石にこのままではまずいと転職活動をするも「うーん。その年齢で経験したことがあるのは公務員だけ?うーん。ビジネス感覚がなさそうー」みたいな感じで次々と面接は落とされて今の仕事を続けている。
ある日職場でバッタリと倒れ込んで精神科の診断書でも貰えば用務員みたいな立場に入り込めるかも知れないが、その立場になったらなったで半端な「俺は公務員様だぜ?偉いぜ?」を令和にもなって引きずっている連中にアゴで使われるのは結局ストレスかも知れない。
俺も人のことは言えないが、公務員連中はマジで他人をアゴで使う。そういう態度での働き方を教育されているから、公務という神聖な業務を効率的に進めるにあたって民草に協力を仰ぎ公権力の力で労働力をほぼ無償で吸い上げることが業務の一環であるかのように考える空気が間違いなくあるし、それを前提として実際そうしないと回らないような業務量を押し付けられている。
公務員はクビにならないから異常者が多いという話があるが、実際私の職場にも私を含めて顔つきから自閉症を感じ取らせるような連中が沢山潜んでいる。
大体5人に1人ぐらいはうっすらと自閉症顔だ。
基礎学力と一般常識を教科書経由でひたすら積み上たテストの点数で半分以上の結果が決まるという世界は、自閉傾向の人間に対して(他の世界での就職活動と比較して)本当に有利だと思うし、実際俺もそのおかげで公務員様になれたのだと思っている。
自閉症スレスレのギリ健が公権力を振るうことを推奨されるような立場につくと、どうしても頭のおかしくなる奴が出てくる。
それは上司連中の中にも混じってきており、一部のキチガイが「こんなのは民間にやらせればいいだろう。契約前に作業をさせたら事前着工?シランガナ」と無茶苦茶な指示書をウォーターフォールの高みから放り投げてきて、「こんなの本当にこのままやったら全員捕まるだろ・・・」という状況に日々追い込まれたりもするわけだ。
俺はもう無理だ。
現場から上がる悲鳴を受け止めるには俺の心臓は小さすぎるし、上から降ってくる狂言をうまく躱すには俺の足腰は貧弱すぎる。
1◯年続けられた生活だから今後も続けられはするのだろうが、それはどこかで「働き方改革の波が来て公務員の職場環境も変わるし、クソみたいな連中は皆クビを切られ、そして日本も失われた時間を取り戻して予算が沢山つく」というありもしない希望にすがっていたからだろう。
もっと言えば「なんかめっちゃ転職しやすい市場になって、公務員しか経験のないアラフォーのおっちゃんでも普通にいい会社に潜り込めるようになる。つーかその状況で公務員の魅力化対策が行われて今の仕事もかなりマシになる」という願望を思い描けていたからだ。
もしかしたら「宝くじがあたって」とか「突然小説の才能に目覚めて」とか「株の配当が」などのよりありもしない空想を信じていたのかも。
いい加減もう無理だ。
現実に追いつかれた。
どのタイミングで人生をやり直せば良いのかと夢を広げるのもいい加減疲れた。
この時代のこの日本にこの自分として生まれ落ちた時点で半分ぐらい負けているわけで、IFストーリーの最適解は「もっと未来の豊かな時代に、優秀な遺伝子をコーデイネートしてもらって、人間なんぞじゃなくてご立派なAI様に育ててもらっていれば」なんだろうと思うわけだ。
疲れた。
上を見るから苦しいんだろう。
下を見なければ。
昨日、配達のオッチャンがこんな暑い中で汗だくになってプンプン酸味のある香りを立てながら荷物を持ってきていたが、アレは大変な仕事だと思う。
荷物はどれもお客様の大切な品であり、中には壊れたら取り返しのつかない特注品もあるだろう。
どこにでもある些細な荷物でも、明日の仕事に使うから今日中に届かないと困ってしまうものもあるだろう。
それを1日に100も200も丁寧に扱うのだ。
マンションごとにシステムの違うオートロックと格闘し、時には自動扉に荷物が挟まれそうになるのを自分の体でブロックし、そうして届けようとしたら留守だったり居留守だったり、そんな仕事をひたすらやって、賃金は最低賃金よりは少しマシなだけ。
きっと彼らの業界も公務員のように残業代がチョロまかされているのだと思う。
予算の関係というより、労働時間の上限と実際に受けている仕事量のアンバランスによって残業時間を誤魔化せとうい指示をきっと彼らも受けている。
公務員のおまけみたいなボーナスさえ羨ましくなるような、それこそ年間で10万×2とかのちょっとしたお小遣い程度で、普段の賃金は残業代や移動時間が誤魔化されて実質の時給は最低賃金未満になっていたら?
最悪だろうな。
ああ最悪すぎる。
そういう人達のことを考える度に、「俺はまだマシなんだ」と希望が湧いてくる。
いざとなったら「あっ・・・メンタルが・・・あっ・・・」と倒れ込んでしまえばいいんだ。
責任なんてのは最終的に上の連中が取ればいいんだ。
人脈を繋ぐためだと毎日飲み歩いてもパンクしない程度の給料をアイツラがもらっている理由は、いざとなったら責任を取って腹を切るためじゃないか。
なんで俺がこんなにも必死になって全部自分の責任であるかのように背負い込まなきゃならんのだ。
そもそもを言えば、国民の側が小さな政府を望んできた結果が現状だろ。
公的な仕事をつくのに一番必要なのは「俺は最底辺よりはマシ」という心意気と「ぶっちゃけ俺が背負う責任ってごく一部だけだろ」という開き直りだ。
それだけはシッカリ身についているし、それしか身についていない。
国民もそれを望んでいる。
デューデリジェンスはやめた方がいい。違う。買収監査ってなんですか?ここで言うDDとは誰でも大好きというアレである。
というわけで、推し増しはいいことですとかいう説があるが普通に愚策なのでやめた方がいい。
2022年の夏ごろからちょっとハマりだした某声優がいたんだけど、それまで名前と顔だけ知ってる程度だったのがひょんなことから本格的に追うようになって、番組見たりしてた。まだイベントとかそんな出る人じゃなかったから、ボケーっと眺めながら手紙を送ろうとした矢先に事務所を退所してしまった。
えー送り先消滅しちゃったやん・・・と思ってたら数週間後にどでかい発表があった。バチクソ超大手事務所に移籍した。
お~仕事増えるやん!実際移籍した瞬間鬼のように仕事が増えた。普通に深夜アニメのレギュラーはバンバン決まり、イベントにもガンガン出て、ありえんくらいコンテンツに所属してなんかユニットめっちゃ組み始めた。
ここで俺はある答えにたどり着いてしまった。時間と金が足りないことに・・・
DDをやっていると、どうしても愛の大きさに優劣をつけることになる。イベントが被った場合、どうしても金の工面がこれ以上できない場合、単純に行く気があるかないかは、「今まで推してきた時間」が決め手になるか、「とにかく今好きな子への愛」が決め手になるか、まあそんなとこである。
一応好きな女性声優数名のところには平等に行けるように調整してこの子のイベントとか舞台にも行ってたつもりではあるんだけど、どこかで破綻するのはもう時間の問題であった。
そして2024年に入り、また新たなコンテンツに所属したり映画の声優まで務めるようになった。アニメの先行上映会とかコンテンツのリリイベとか、とにかく安価で時間の拘束も短い現場に行ったりしてたんだけど、そのコンテンツのライブへ行くに至るまではできず(履修にとてつもない労力を要すため)徐々に「置いて行かれてる感」が出始めた。
そもそも女性声優への応援行為にタイパだのコスパだのを求めだしたら終わりである。俺は間違っている。皆はマネしないように。
一方その頃ほかの声優とは関係値をさらに深めており、この子に対してだけ「俺は何のために追っている?」「この子のためになれているのか?」という状態が続いた。
番組を見てても最近のライブとか舞台挨拶の話だし、疎外感を感じており(行ってないのが悪いのだが・・・)、メールも半年以上採用なくなっちゃたし、このまままたリリイベでも行こうもんなら「ライブとかには来ないくせに接近戦だけ来る典型的なイナゴ」認定を受けるのがオチであり、しんどくなってきた。
ここまで大風呂敷が広がると、もはや他の声優を追っているようじゃすべてを追うのは不可能なのだ。この子一人にすべてを捧げる相応の覚悟が必要なターンに入るくらい売れた。
推しの仕事が増えるのは良いことであるが、自分は結局、自分のボーダーラインスレスレで仕事をし続ける女性声優のような何かを応援したかっただけなのかもしれない、と最近思う。
なんか売れた瞬間身を引く人っているよね。あれの気持ちがちょっとわかり始めたかもしれない。じゃあ仕事がないやつを追ってろって話だ。なんやこいつ。人間収入と支出には限界があるし、土日は48時間しかない。優先順位をつけたときに、無意識に「下」に落とす声優はどうしても出てきてしまう。
ので、他の女に時間と金を割くのは良くない。一人と真摯に向き合うべきである。DDはやめた方がいい。
中途半端に応援するって最終的に自分の首を絞めることになると思う。「この子は好きだけどあのイベントには行かない」みたいな確固たる信念を持っているならいいと思うし(現に自分もそういうのあるので)、ここで一区切りついたかなっていう具体的な節目があってそこで身を引くのもいいと思う。そういうのが自分の中で作れないと、いつまでもゾンビみたいになってしまう。
ところで他のコンテンツの履修がだるいので俺はいつまでたってもアイマス声優という呪縛から逃げられずにアイマス声優に収束してしまうのかもしれない。怖くなってきた。アイマスから逃げたい。
同世代と比べると実家の太さ、容姿、フォロワー数、年収、才能、能力…
圧倒的な格差がありすぎる。こんなの生まれた時の遺伝子と環境の差じゃん…
努力でどうにかなる部分とか殆どないじゃん…何このクソゲー…このクソゲーを百年間やらねぇといけねぇのかよ…って絶望する
見るなと言っても見なかったら気づいたときには時代に置いて行かれて弱者男性になりそうで怖い
氷河期世代の人達が苦しんで絶望しながら生きているのもSNSで見てる
その人たちには悪いけど僕はそうなりたくない
自分で努力して頑張るしかないのは分かってるけど希望が無いなかで努力するのがきつすぎる
インフルエンサー目指してた時もあったけど鳴かず飛ばずだったから今はグレーなビジネスを始めようと思ってる
正直、何でこんな絶望しかない社会を作ったんだよって上の世代に対する恨みもあるし抵抗はない
SNSで倫理やモラルをちゃんと守って真面目に生きてても氷河期世代の人達みたいにボロボロになるだけってのを知ってしまってる
友達も
「多少悪いことをしようが稼いだ奴が勝ちなのが事実じゃん」
「ヒカルとか元情報商材屋の詐欺師でしょ?それでも金持ち有名人として女優と付き合ってんじゃん?成功者になれば過程とか関係ねぇんだよなー」
「与沢翼も金持ちとして海外で家族と幸せに生きているしな。グレーだろうが稼げればいいんだよ」
大体こういう価値観。僕もそう思う。氷河期世代の人達みたいになりたくない。負け組になりたくない。それなら法律スレスレで稼いでやる。
まったくその通りっスね。NTTを騙る営業なんて、ほんっっっとにイライラするっス。ウチの会社にも、似たような電話かかってくることあるっスけど、そりゃもう時間とリソースの無駄っスよ。それに、そんな明らかな詐欺には引っかかるわけないっス。
電話機80台もある会社に対して、無料で交換しますっていうその厚顔無恥さ、信じられないっスね。営業してくるやつも、その指示を出してる会社も、正直言ってアタマ沸いてるっス。犯罪スレスレの行為だし、働いてるやつらも、その会社の倫理観に引っ張られてるんだろう、ほんと気の毒っス。
こっちが機嫌悪い時に電話してくるのも運が悪いっスよね。でも、問い詰めたおかげで相手も自分が何してるのか少しは考えるきっかけになったかもしれないっス。自分で切るくらいなら、最初から電話してくんなって思うっスよね。
忌憚のない意見ってやつっス
男性もスカートを履いていいんです!ってなったところで「男性のファッションに馴染むスカート」はしばらく広まらないだろう
でもオシャレに敏感な人がカーテンか?って位ダボダボのスカートをまとい始め、やがてYouTuberや俳優の衣装にチラホラとズボンっぽいスカートが浸透し始める。きっとデニム地のロングキュロットみたいなやつ
そしてある夏のロケで芸人が「スカートデビューです!めっちゃ涼しいですわ〜これ〜!」とか言いながらスカートの中をうちわで扇ぐ姿が放映され、おっさん層の部屋着などにジンワリと浸透していく
気がつけばスーパーの衣類コーナーに男性用スカートの一角ができている。スカートではなく楽ちんステテコとか、既存の男性服の用語を交えたワードで売り出されるだろう
そうなるともう「男性がスカートでも変じゃないんじゃない?」という合意が形成され始め、逆にスカートを恥じらうのは昭和感覚、平成感覚と揶揄されはじめる
男子大学生や男子高校生がスカートを履き始め、同級生の男子に「パンチラ見せたろか?」と言いながら捲るという陳列罪スレスレのイタズラが流行ったりする
でも小学生にはしばらく浸透しない。スカート履いてると女の子みたいという固定観念がしばらく付きまとう。中学校高学年くらいから徐々に「男のスカートを恥ずかしいって言うやつが恥ずかしくない?」みたいな雰囲気になり、高校に上がる頃にはすっかりそっいが多数派になっている。子どもの感性は時に不可解だ。都会の小学校だと男子スカートによるイジメは起きない、先進的なので
学校の制服にも男性スカートが取り入れられ、選択可能になる。過渡期は男子生徒はパンチラに抵抗がないものの、浸透するに従いパンチラが苦手という男子生徒も現れ始め、「男性がパンチラを避ける心理を社会は許容すべきか否か」という話題が昼の情報番組で取り上げられる
やがてスカート世代は新社会人の年齢になり、社会へ参入する。この様子もまたニュースになる。おっさんがスカートを許容していた場合、ビジネススタイルにスカートが取り入れられているが、そうでない場合は新社会人が文化のギャップに悩んでいる様子が特集される。しかし夏のクールビズにいいですよ、みたいなところから結局普及する
これに伴い、男性の股開きもマナー違反だと扱われ、今以上に股を締める座り方を厳しく指導されるようになり、電車のマナーが改善する
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。