はてなキーワード: グローバル化とは
地方のインフラを維持する金は無いので、コンパクトシティ実現のために、地方の自動車生活は維持費がかかるようにした方がよく、
ゴミの回収についても回収車の負担が増えるのだから、有料費用を増やすべきだ。
今後、世帯数減により東京の不動産価格が下がる危険性があり、そうなれば東京の不動産価格上昇を前提に動いてる経済は破綻する。
もちろん東京の商品も色々価格上昇するだろうが、規模の経済があり、多少はましだろう。
地方交付税交付金を還元しないようにすれば、東京のインフラ更新費用にも充てられる。
地方を放棄というと反対する人が出てくると思うが、地方は何の価値を生み出しているのだろうか?
製造業が全盛期の時は、工場稼働するために土地も人も必要だった。
だがグローバル化によって、日本に工場を作る必要はなくなった。
工場で働きたいという人も少なくなっている。工場が出来たとしても周囲にお金を落として街の発展に貢献するわけでもない。
地方の農業についても、より経済拡大したり、規模拡大したりしない。
土地を大規模にしようとしても出来ず、借金をして新しい農機具を購入というのも規模拡大出来ないから購入も出来ない。
例えばお茶は静岡というイメージはあるが、今は機械化した鹿児島が迫っている。
機械化に向かない農作物は作るべきではない。技能実習制度で労働力を補う必要があるような農作物は作るべきではないのだ。
出資を募ってたとしても、そもそもグローバルで活躍できる技術を持っている人材がいない。
なにかなすわけでもなく、パチンコとガチャに多くの時間を割く。
「民芸の100年」展から、1880年代以降の近代化と工芸化、1980年代以降のグローバル化とグローカル化[^1]を比較してみたくなった。
近代ではマスプロへの対局としてローカライズが使われていたが、グローバルが一般的になった現代ではマスプロ前提でローカライズが進められている。でも、グローカルも言われ始めてから40年近く経っているわけで、世界同時発売が当たり前になっている今だとローカライズ自体に何の意味もないことになっているのだろうか。日本ローカルとしての漫画やアニメがグローバル化しつつある事象の中で、受け入れ先では独自のローカライズを施しているかを見るとまた面白いのかな。
1880年代以降
1980年代以降
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[^1]: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E5%8C%96
池袋のガチ中華のニュースに「日本アレンジしないと食べない日本人の舌は狭量」とか書いててバカじゃないかなと思った
ローカライズされた日本食しか食べないアメリカ人の舌は狭量とか言うのか?
各国ごとに料理はローカライズされるものだし、味の好みの問題だけじゃなくて食材が手に入らないから独自アレンジせざるを得ないってのを分かってない
ガチ中華とやらがどこまでガチなのか知らんが、そういう業態の店が出せる様になったのはグローバル化が進んだおかげだ
本場で使う様な食材が安価で手に入る様になったからそういう店をやれる様になったのであって、「戦後すぐの頃に先代開店しました」みたいな店が開店当時から同じ事やれたはずがないんだよ
例えば回鍋肉は本来は葉ニンニク(蒜苗)と茹でたり蒸したりして脂を落とした皮付きの豚肉を切って使う料理だ
これを陳建民さんが手に入りにくい葉ニンニクをキャベツで代用したのが広まり、豚肉の下処理を省いて最初から薄切り肉を使うレシピが日本では一般的になっている
味付けも本場の回鍋肉は結構辛い料理だが、日本の回鍋肉は甜麺醤を多用するので甘辛い味付けだ
そんなもん食うやつ次第なんだよ
四川出身のやつだって辛いの苦手な人間はいるし、日本人にも辛いの超好きで本場の四川料理が特に大好物ってやつもいるだろう
知り合いの中国人は俺が作った日本風の回鍋肉で飯を3合食っていきやがった(今でも会った時はネタにする)
飯なんて、体に害がない限り好きなものを食えばいいんだよ
飯屋は食中毒とか起こさない限り売れるものを作って売ればいいんだ
なんでも好き嫌いなく食える奴が偉いなんて言ったらはてなじゃフルボッコだろ?
味覚に狭量もクソもない
今以上に富を取られるとなったら金持ちは資産を税制面で有利な海外に移転(海外投資とかタックスヘイブンの銀行とか)するようになるんじゃないかな。
そんで結局海外投資に費やすことで利益は圧縮されて、所得に課税しても税が取れなくなるのでは?
(投資で生み出した富もどんんどん別の海外資産へ投資されていく)
そんで国の側は税収が減っても再分配のつじつまを合わせないといけないから国債に頼ると思うんだけど、
結局「貧乏人はすべてその日ぐらしに使ってしまう」じゃないけど、金持ちにに回収されて海外投資に使われてしまうなら、
結果的に国債を使って金持ちの海外資産を増やしてしまうだけでは?と思った。
ブコメとかで「資金が循環するから意味がある」って意見が多かったけど、
再分配は仮に経済の流れが日本の中だけで循環するんだったら完全に成り立つと思うし今も内需が強い国なので部分的には成り立つと思うけど、
経済がグローバル化してるので投資先が海外に無限にあるような状況では日本の中でそれを完結させることは厳しいと思う。
そして最も思うのは、底辺だ貧乏だといってもそれは日本の中だけの話で、世界レベルでみたら日本では貧乏の人でも世界の平均以上の経済力を持ってるということ。
じつはグローバル経済の中で日本や先進国の大企業が貧しい途上国に投資して現地の経済が活性化して貧困から抜け出すということが行われているのであって、
実際に国際的な(国家間の)経済格差は縮小に向かっているという調査結果も出ている。
日本の中での格差拡大は、このグローバル化(国家間の格差縮小)の下で日本の状況が世界全体の経済格差の状態と一致していくという流れの中で起こっていることだと捉えられるんじゃないかな。
だから日本の中での格差縮小を目指すというのは「世界がグローバル化していく中にあって、上の方のごく一部の領域の中で均質化を目指す」という行為であって、
実際には海外への資金移動の規制とかを伴うし、反グローバル化というか、一種の経済的鎖国政策ともいえるのでは。
それって経済的な孤立化を招くと思うから危険、というかTPPを批准したりしてる状態でそれが可能なのか?って気もする。
『公助は削って、福祉は家族による相互扶助を基本とする』に対して、そんなことしたら社会が貧困化するよという主張が感想レベルだからダメですかそうですか。そもそも自助や互助で貧困は防ぎきれず、その貧困への対策が共助、公助なわけなんだけども。こんなことは常識の範疇と思っていたよ。
この自助・共助・公助という3分論は、自民党の綱領(平成22(2010)年)で政策の基本的な考え方として採用されている。「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組みを充実する」とある。菅氏の発言は自民党員として、党の綱領に忠実であったともいえる。また、社会保障制度改革推進法の第2条には、「社会保障制度改革は、次に掲げる事項を基本として行われるものとする。一 自助、共助及び公助が最も適切に組み合わされるよう留意しつつ、国民が自立した生活を営むことができるよう、家族相互及び国民相互の助け合いの仕組みを通じてその実現を支援していくこと。」とあり、法律の文言にもなっている。
総理大臣になった菅氏が、この社会像としての3分論を具体的な政策の中でどのように生かしていくのかは分からないが、これまで、介護保険制度の創設と運用にかかわり、自助・互助・共助・公助という4分論を唱えてきた筆者としては、共助の主体に地域とともに家族が含まれていることと、地域以外に共助の主体が想定されていないことに若干のコメントをしておきたい。
われわれは、人生の途中で、老化に伴う日常生活上の困難や思いがけない病気、事故、災害など、さまざまなリスクに直面する。このように何か問題が生じて解決を迫られたときに、まず、本人が自助努力で対処する。しかし、それでは無理なときは、本人の身近にいる家族・友人・隣人などが手を差し伸べる。これがインフォーマルな支援、すなわち互助である。自助と互助ではカバーしきれない場合にはシステム化された地域・職域の自治組織が支援する(共助)。この共助システムではなお解決しえない場合に行政が支援する(公助)。この4分論も、いわゆる補完性の原則に基づく社会形成の考え方であるが、自助と共助の間に互助を考え、共助としては地域以外にも社会保険を想定している。
個人が直面するリスクを、その本人の自助努力だけで克服せよというのは無理な話で、社会は、何らかの形で共同してリスクを分担する仕組みを備えていなければならない。自助から出発するにしても、自助の次に互助を想定せず、家族の支えを「共助」に包摂してしまうと、例えば、いつまでたっても家族を老親介護の責任から解放できないのではないか。家族は大事だが、それに頼りすぎては家族が参ってしまう。
互助は、自発性とゆとりと思いやりに基づく支え合い活動であって、その活動範囲も支援能力も限定的である。それは、家族・友人・隣人が無償で行う支援活動であるからである。しかし、自助のすぐそばに、この互助が息づいていることが自助の励みになるのである。老いて心身が弱っても、自分の生活に関することは自分で判断し、できるだけ自分で行おうとする個人の自助努力を尊重し励まし支援する、それが互助の意義である。自然災害のときにも、真っ先に頼りになるのは自助と互助の結びつきである。新型コロナ禍の困難の中でも自助に寄り添う家族・友人・隣人の親身な支援こそが大事である。
わが国にはシステム化された地域の自治組織として、自治会・町内会があり、近年は地域運営組織が台頭し、これらは市区町村行政と相互関係をもって活動している。この地域が共助の主体として期待されている。ただし、同じ共助のなかに、リスクを共有するもの同士で助け合う社会保険制度が存在し、国と自治体の行政(公助)が関わっているから、共助の主体は地域だけではない。共助システムである医療や介護の社会保険制度は、経費の約半分を国と自治体の公費(租税)で賄っているし、介護保険では保険者を市区町村にしているから、この共助システムは共助と公助の混合型といえる。それだけに、公費負担をしている国から、システム運用を通ずる効率化圧力が絶えず加えられる結果、公助から共助へ、共助から自助へとリスク負担を逆流させようとする動きが出てきやすい。要注意である。
共助、公助の成り立ちと役割については、このリンク先の厚生労働省白書に良くまとまっている。https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-01.pdf
(工業化に伴う人々の労働者化により、血縁や地縁の機能は希薄化した)
産業資本主義の社会では、企業が潰れたり、解雇されれば失業してしまい、また、けがや病気などで働けなくなった場合、労働者は所得を得られなくなる。その一方で、労働者が血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、それら血縁や地縁で結ばれた人間関係を基礎とする支え合いの機能は、近代以前の社会と比べて希薄化しているため、個人にとって、生活が立ちゆかなくなってしまうリスクは大きなものとなる面があった。また、産業資本主義の社会では、労働力の商品化の結果、モノやサービスの生産が「使用者-労働者」の関係を軸に展開するようになる。近代以前の社会と異なり、労働者は自己の労働力以外に機械や原材料などの生産手段を持たない。生産手段は使用者(資本)によって所有され、労働者はそれを借用しながら自己の労働力を提供する。この関係の下では、自ずと労使の力の差が生じる。使用者に比べて力の弱い労働者は、低賃金、長時間労働という劣悪な労働条件を強いられ、解雇のリスクにさらされるようになる。過酷で貧困な生活を送る労働者は増え、労働問題が大きな社会問題になっていった。労働者たちは、同業者の間で相互扶助的組織を設けるなどして生活上のリスクに対応してきたが、これらの組織に加入できたのは、経済的に多少の余裕のある熟練労働者などに限られ、多数の非熟練労働者などは、それらの組織に加入することができなかった。
(近代的な社会保障制度の創設はドイツから始まり、欧州各国に広がっていった)
近代的な社会保障制度が世界で最初に創設されたのは、大陸ヨーロッパのドイツであった。ドイツでは、19世紀終盤に、帝国宰相の地位にあったビスマルク(Otto von
Bismarck, 1815-98)により、法律上の制度として世界で始めての社会保険制度(疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年))が制定された*3。社会保険制度は、事業主の負担と併せて被保険者(労働者等)自ら保険料を負担(拠出)することにより給付の権利を獲得するという関係があるため市場整合的であるとして、多くの工業国で社会保障の手法として第一義的に選好される傾向が強いものとなっていった。そして社会保険による給付は、市場経済的な権利関係の裏付けを欠くために、社会の負担、あるいは自助能力を欠く者との差別や偏見から逃れられず、受給にスティグマ(汚名)が伴っていた恩恵的・救済的福祉の給付とは異なっていた*4。また、あらかじめ生活リスクに備える点で、それまでヨーロッパ各国で主流であった事後的な「救貧」施策から事前の「防貧」施策への第一歩を踏み出した点でも大きく評価された。
(略)
(社会保障は、個人の生活上のリスクに社会的に対応する仕組みとして求められるようになり、産業資本主義の社会と国民国家の発展を支えていった)
このように、産業資本主義が発展する中で、血縁、地縁がそれまで果たしてきた人々の生活を保障する機能は限定的なものとなっていった。それらの機能を代替するため、傷病、老齢、失業などのリスクに公助又は共助という形で社会的に対応する仕組みが必要となり、現在に通じるような社会保障制度が求められるようになったといえる。
そして、社会保障が血縁や地縁の機能を代替*8することにより、人々は経済活動に注力することができるようになったという意味で、社会保障は産業資本主義の社会、国民国家の発展を支えていったともいえる。
(世界恐慌から第二次世界大戦までの間に、戦後社会保障の構想が練られていった)
1929年には、アメリカのニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけに世界恐慌が発生した。その影響は大変大きなもので、1930年代には各国で多くの企業が倒産し、街は大量の失業者で溢れ、社会不安はますます増大した。
(略)
ケインズの理論によって完全雇用に近づければ、失業給付を激減させ、なお残る失業者に手厚い給付ができ、また、社会保障によって全国民に最低限度の生活を保障すれば、有効需要が増え、さらに失業者が減る。このように、ベヴァリッジとケインズの考えは互いに補強しあう関係にあった。これは「ケインズ・ベヴァリッジ主義(体制)」、「福祉国家の合意」などと呼ばれる。その後、ベヴァリッジは、第2次世界大戦中の1942年に、いわゆるベヴァリッジ報告(『社会保険および関連サービス』)を英国政府に提出し、「ゆりかごから墓場まで(Fromthe Cradle to the Grave)」のスローガンの下、新しい生活保障の体系*10を打ち立てた。このベヴァリッジ報告の影響を大きく受け、第二次世界大戦後には世界の多くの資本主義諸国で、経済の安定成長と完全雇用*11、国民福祉の充実を目指す「福祉国家」の潮流が広がっていった*12。
(戦後、どの先進諸国にとっても社会保障は不可欠なものになった)
(1970年代―オイルショック後の経済成長の鈍化等により、社会保障・福祉国家批判は大きな潮流になった)
(1980年代―新自由主義的な政策が採用され、社会保障・福祉国家の「見直し」が行われた)
(新自由主義的な政策は、経済のグローバル化の趨勢とも親和的だった)
(社会保障・福祉国家の「見直し」がもたらした弊害は大きなものだった)
(当初の「見直し」という目的が実際に達成されたかについても、見方は分かれる)
(1990年代以降、社会保障の重要性が再認識され、過去に指摘された問題点に応える努力をしながら、社会保障・福祉国家を再編成する時期に入っている)
(今日では、社会保障は様々な機能を持っており、私たちの経済社会に欠かせない重要な仕組みである)
今日では社会保障は、個人の視点からみれば、傷病、失業、高齢など自活するための前提が損なわれたときに生活の安定を図り、安心をもたらすことを目的とした「社会的セーフティネット(社会的安全装置)」という機能を果たしている。また、それを社会全体としてみれば、所得を個人や世帯の間で移転させることにより貧富の格差を縮小したり、低所得者の生活の安定を図る「所得再分配」や、「自立した個人」の力のみでは対応できない事態に社会全体で備える「リスク分散」という機能を果たしているといえる。
さらに社会保障は、必ずしも恵まれない人たちにも社会の一員としての帰属意識を共有してもらうことで社会的な統合を促進させる。また、消費性向が高い低所得の人たちに所得移転し購買力を高めることで個人消費を促進したり、医療、介護、保育などの社会保障関連産業における雇用の創出を通じて経済成長にも寄与する。こうした「社会の安定及び経済の安定と成長」といった機能も果たしている*20。
このように、社会保障は私たちの経済社会にとって欠かせない重要な仕組みとなっている。だからこそ、支え手である現役世代(働く世代)の人口が減る少子高齢社会において、どのようにして持続可能な制度を構築していくか、若年者等の失業問題や社会的弱者が孤立を深める状況(社会的排除)を改善するためにどのように社会保障制度を機能させていくべきか、経済のグローバル化に伴う国際競争の激化が雇用の柔軟性や流動性を要求する状況など社会保障が前提としてきた雇用基盤の変化や経済の低成長が続く中で、どのような所得再分配や雇用政策が適切なのかといった点は、先進諸国にとって、重要な政策課題となっている。
社会は貧困化するの件が感想でしかないので、感想に対する反論などありません残念でした
人生に遅いということはないよ
> そこは因果が少し違うように思う。新興国が発展したから工業が流出したんじゃなくて、
> 日本や欧米諸国が工業を流出させたので、新興国が発展したんだ。
長くなります。
日本はアメリカの半導体チップの回路をそのまま顕微鏡で盗み取ってそっくりコピーしたものを作ったんです。
研究投資がなかった分、当時の人件費も含めて、アメリカよりも安く作ることができた。
その上、小型化させる技術や品質管理は、アメリカより優れていたため、日本は80年代、半導体で一世風靡した。
その結果、アメリカが激怒して、当時凄まじいジャパンバッシングが発生した。今の中国バッシングなんてこれに比べれば大したことではない。
そこで日本は譲歩して、日本はCPUをアメリカから買うから、日本はメモリを、アメリカはCPUをという棲み分けを行うことになった。
アメリカは国内にあるメモリ工業をそのままそっくり台湾に移した。
ASUSUといったボードメーカーがあるのもこのつながりです。
90年代、もはや国家の米とも言われた半導体業界に、安価な台湾製のメモリが直撃する。
グローバル化は避けられないんですよ。
グローバル化!ユニバーサル!これはモラハラセクハラ差別だ!と加速した結果
尖った面白さとか強烈な皮肉や風刺とかアングラなノリとか無くなっちゃったよね
「ただの風邪」こと旧型コロナも、恐らく出始めは老人を殺しまくり若者にもエグい後遺症を残す、covid-19並のヤバさのウイルスだったのだろう。
それが感染を重ねて集団免疫を獲得し、ただの風邪と呼ばれるまでになったと。それでも弱った年寄りなら肺炎で殺せる程度の牙は残ってるけど。
まあ江戸時代ぐらいまでなら、天然痘・コレラ・風疹・新型インフルエンザ、海外なら加えてペストと、更にヤバい感染症がゴロゴロあったから、旧型コロナは流行っても意識されてなかったろうなあ。そもそも人生50年ってぐらいで老人自体も少なかったろうし。
上記の感染症が軒並み封じ込め可能になった現代だからこそ、毒性は「比較的」低いが感染拡大に特化した嫌らしい性質を持つコロナが目立つようになったのだろう。高齢化や人流の活発化グローバル化、人口密集などコロナに有利な条件が現代社会に揃いすぎたのもあるか。
というとこまで踏まえて考えると、covid-19もまた過去の「ただの風邪」と同様、免疫を積み重ねていくしか人類に抗う術はないのだろうなあ。
いや、ものすごい悪意ではなかったにしろ、「無邪気に信じすぎ」とか「疑わなかった」ような幼稚なオツムなわけないよw
多くの庶民にはそういったストーリーを信じさせておきながら、実際は自身を含めた経営層や資本家などに有利な政策へ誘導していたんだ。
その遠因は、昭和の後半くらいからず〜っとジワジワ進んで来た「経済のグローバル化」なんだな。海外の投資家などに日本の企業(の株、債券など)を買ってもらうには、ROEだとかの利益指標を大きく上げなくてはならないので、とにかく利益率を手っ取り早く向上させるには、人件費をどんどんケチるのが一番容易だったわけ。
なので、正社員を切って非正規を増やす大トレンドが進行して、今の格差拡大に結実してるんだよw
ここ30年くらいの企業の利益総額とか配当金総額とかが5倍10倍レベルで増えてるのに対し、労働者の賃金総額は2倍にもなってないくらいだろ。労働者がもらえたかもしれないカネの多くの部分は、海外の投資家などに吸い取られてるんだなーw
なんか違うと思う。科学が発達してグローバル化したから固有の文化が消えていったのではなくて、
固有の文化を消し去った方が大量販売大量生産に都合がいいからテレビCMネットCMなど大量に打って広告業界が消し去ったわけで、
世界に多種多様の言語、宗教、文化があるのは物理的に強制的にセパレートされてるから。
科学の発達によって人々の距離が近くなり、いろんな意味での垣根がなくなっていった結果、多種多様な「文化」は消えていった。(グローバル化)
今はその過渡期。
プロとアマチュアの違いって突き詰めると資本(ヒト(時間)、モノ、カネ)の違いでしかない。
プロの仕事には莫大な時間(教育期間も含む)、高価な機材、潤沢な予算、が使われているのでその分巨額の売り上げが求められる。
マス受けするコンテンツを作らないといけない。
アマチュアの仕事はその逆なので売り上げが小さくても生きていける。
ランチェスター戦略ってやつね。