はてなキーワード: エビデンスとは
社会学って偉くなると、論文の査読をうけたりエビデンスの提示を求められなくなる文化らしいから、フェミもエビデンスとか求められても意味が分からないんじゃないかと思う。
なんでこの私がエビデンスを求められるの?失礼な。みたいな。
差別と表現規制の話題を,人工知能学会誌表紙,キズナアイ,宇崎ちゃんポスターと追っているが,フェミニスト側の立論の雑さが目立つようになってきた.フェミニストによると,これらの表現は
という.
この2点について,多くの規制反対論者が「エビデンスはあるのか」と問うてきたが,フェミニスト側は真面目に答えようとしてこなかった.ここでは,市民にエビデンスを提供することが期待されているであろう,社会学者たちがいかに知的不誠実な態度に終始してきたかを見ていきたい.
ここでいう「エビデンス」とは evidence based medicine (EBM; 根拠に基づいた医療) や evidence based policy making (EBPM; 根拠に基づいた制作決定) におけるエビデンスで, 単なる「根拠」「証拠」より強い意味を持つ.例えば,EBMにおいては下記のようなエビデンスレベルというものがあり,一口にエビデンスといっても質の強弱がある:
I | システマティック・レビュー/RCTのメタアナリシス |
II | 1つ以上のランダム化比較試験による |
III | 非ランダム化比較試験による |
IVa | 分析疫学的研究(コホート研究) |
IVb | 分析疫学的研究(症例対照研究、横断研究) |
V | 記述研究(症例報告やケース・シリーズ) |
VI | 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見 |
もちろん,社会科学分野では完全なランダム化比較試験は難しいという事情はあるだろう.それでも,行動心理学の研究や,具体的な事例の紹介はできるはずだ.以下で指摘するのは,表現規制の議論において,社会学者たちが,質の高いエビデンスを提示せず,最も低い「VI 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見」相当の論考しか提示してこなかったという怠慢である.
宇崎ちゃん事件の発端となったのは弁護士の発言であったが,しばらくして,牟田氏による下記の論考が出た:
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185
女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。
たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。
上のエビデンスレベルに照らすと,条約や所見は最も低いVIに該当するであろう.もちろん,所見を作成する上で何らかの質の高いエビデンスが参照されている可能性はある.残念ながら,そのようなエビデンスがフェミニスト側から提示されることは現在までない.
と,有害性は明らかであるとする.自治体のガイドラインは炎上しないためのHow toであり,これに抵触したからといって即時に性差別にあたるわけではない.例えば,日弁連のポスターですら,形式的にはガイドラインに抵触することが指摘されている:
https://togetter.com/li/1425795
こういう立論の雑さが「お気持ち」と揶揄される一因になっているのではないか.
キズナアイ事件の発端となったのは千田氏による下記の論考である:
https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/
「相槌」がなぜダメなのかと思うかもしれないが、社会学では「権力」は相互作用の場面からもつくられていくと考えられている。コミュニケーションの場において、どのような言葉が交わされ、どのように会話が達成されるのか。コミュニケーションは当然、社会システムのなかで行われ、そしてまたその社会システムを再生産するのだ。
このNHKのサイトで「キズナアイ」に割り振られた役割は、基本的に相槌である。それは、従来「女性」に与えられてきた役割である。ある意味で、性別役割分業を再生産していると言えるのだ。
「性別役割分業を再生産」というのが上の「1. 現実の性差別・性犯罪を助長する,あるいは直接女性を加害する有害性を持ち」にあたるだろうが,この点に対してエビデンスは示されることはなかった.問題になっているキズナアイのイラストのように,ポルノとは言い難い軽度の性表現がどの程度人の行動に影響を与えるのか,質の高いエビデンスを示してほしい.
https://twitter.com/chitaponta/status/1047386005139906560
ズナアイは可愛いし、別に愛でてくれていいし、ノーベル賞のサイトから引き上げてくれとか要求もしてなくて、今後、同様の企画を作るときは、少し考えてくれと言っているに過ぎないんだけれど、「誰も傷つけていない」「考えすぎ」というのは少し違うと思う。思春期の自分は、やっぱり傷ついたから。
自分が年をとると快適で、性的対象として見られることがときに女性をいかに傷つけるか、想像もつかないことは理解できる。自分の趣味にケチつけられたら、腹も立つだろう。
ここでも,氏の言う加害がどの程度普遍的に通常人に成立しうるのか,なおかつ公共空間から排除すべき加害性なのか,提示されることはなかった.もちろんこれが社会運動なら,こういった「共感」に訴えるだけで事足りるだろうが,当該分野の専門家としての発言が「共感」に終わるだけでは,なんというか残念.
千田氏自身は,法規制を求めているわけではなく「市民的公共性」から自主規制を求める立場であるとする.なるほど,権力の介入を避け,市民の議論によって線引がなされるべきというのは同意できる.その上で,学者として,市民の議論の補助となるエビデンスを提示してもらいたい.
今年の4月,フェミニストから称賛された上野氏の祝辞があった.
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
上野氏は祝辞という限られた環境ながら,種々の研究を紹介し,数字を引用し,現在の社会にある男女差別を提示してみせた.統計の扱い方には色々と難があるし,私とて上野氏の思想で同意できるものの方が少ない.しかし,ここで注目したいのは,エビデンスを提示しようとする上野氏の姿勢と,表現規制でエビデンスから逃げ回る社会学者たちの姿勢とのコントラストである.
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/morningmanga/status/1195223667275231233
私は多くの人のように、「フィクションに食いつくな」とは言わない。メジャーな作品であればあるほど、誰もが気付いていない視点から問題を指摘することには大きな意味がある。「登場人物の思想と現実は別だ」とも言わない。フィクションの登場人物の思想が現実に大きな影響を与える場合は充分考えられるし、作家もしばしばそれを望んで作品をつくる。たとえば、キャプテン翼が世界中にサッカー小僧を作ったように。そして、フェミニズムに意味が無いとは言わない。声なき弱きものの剣として、それは数多くの偉業をなしてきた。
だが、最初のブクマの中でゾーニングゾーニング叫んでる人々には一切同調しない。誰でも思いつきそうな、殴り返してこなさそうな安易な一件に噛みついて騒ぐだけで、何の目新しい視点もない、追及する意義の極めて低い、単なる弱い者イジメだ。こんなツッコミ無益どころか有害でしかない。「表現の自由」というもののありがたみ、「表現を規制する」ということの重みを余りにも軽く考えている。
先日来の、自分の望むような内容のフィクションを作れとか(自分で作れ)、自分が望むような内容でない自分向けでもないフィクションの内容にケチを付けるとか(余計なお世話だ)、創作物どころか人間の多様性まで認めようとしない。他人が成熟しているのしてないのと人の精神の内容を傲慢にも審査した上で、価値の優劣までつけようとする。紛れもなくおぞましい悪魔の発想で、この世で一番権力をもたせたらダメな連中だ。
「さえない中年が少女に思いを抱く」というテーマに拒否反応を示す人が一定いるのは理解する。何人か「恋は雨上がりのように」を例に挙げている人がいたが、正直私自身はあの作品にあまり感心していない。ああ高齢読者をヨシヨシする作品だなあと冷めた感情を抱いている。だがだからといって、あの作品に感動する人がいてもそれはそれで当然だとも思うし不健全だと指弾するつもりもおきない。あの作品が中年と少女の恋愛を推進するから規制すべきとも思わない(仮にそれが実証できたとして、の話だが)。
それよりも、このテーマの作品を全否定するような人たち全員に言いたいが、あなたたちが殴っているのはたとえばこういう作品だ。
https://blog.goo.ne.jp/fuwafu-wa/e/5e3b2574e5fa6db55d8ddefe128ee492
私は大島弓子を優れた作家だと今も思っているし、この作品は彼女の短編の中でも構成、語り口等含めてレベルが高いものの一つだと思う。今回の一件を聞いて、私はすぐこの作品のことを思った。そして、多くのブックマーカーがこの作品を含めて全否定するような論調で話をしていることに、大きな危惧を抱いた。
そもそも作品を評価するか否かと、自分がそういうことをするか否かとは全く別の問題だ。別の人の人生、物の見方、世界の捉え方を知り、考えられるのがフィクションの素晴らしい点なのだから、たとえ主人公が殺人鬼であろうが何の問題もない。その作品を評価することと殺人を評価することとは、全く別のことだ。なるほど、流血シーンやグロテスクな表現が多用されるのなら「ゾーニング」は肯定すべきかもしれない(ただそれも、そのようなシーンが明らかに悪影響を及ぼすことが確かなエビデンスによって実証された上での話だ)。だが、そのような規準なしに、表現に対する規制を声高に述べることに、どのような正当性も見出せない。まして、あまりに粗雑な定義によって、あまりに大きなものを殴りつけるとなると、その行為は無意味に多くの人間や表現を傷付けることになる。
「私は、このような表現が嫌いだ。なぜなら…」それならいくらでも述べればよいだろう。「単なる個人の感想」は「個人の感想」として軽く流されるからこそ、制限もされにくいのだ。だが「規制せよ」というのは明らかに立派な一つの政治的主張だ。この社会で一つの政治的主張をするには、相応の合理性、責任と一貫性が求められる。合理性もなく責任も一貫性もない規制論者と規制論、それはただの差別主義者によるヘイトでしかない。ヘイトスピーチは、許すべきではない。
左派が反科学志向、右派が科学志向、みたいな話をネットでちょいちょい聞くじゃん。
まあお偉い人たちは右派もカルトやらEM菌やら親学やらに浸かってるけど、市井のSNSだと、右派が科学を武器に左派と戦ってる分野がちょいちょいあるわけ。
これについて、元々左派の方が革新とか合理性とかで世の中を変えてたはずなのにどうしてだろう、って不思議に思う人もいるだろうけど、理由の一つは浮かぶ。
左派が、合理性や効率の名のもとに切り捨てられた人々を救う方向を選んだ、というのがソレだ。
たとえば「人間を数字として扱うな」というメッセージをパッと見た時、右派の物だと思うだろうか、左派の物だと思うだろうか。
今ではおそらく、左派の主張かな、と感じる人が多いだろう。
大昔は、宗教や迷信や慣習によって物事を進める右派に対して、数字で効率を見て改善していけというのが左派だったはずだが、
今は物事が数字で評価される(少なくともそう装う)ことが標準となり、左派はそれで切り捨てられる個人の感情や物語、弱者や少数者の立場などを守れという立場になりつつある。
海老フェミは、科学的・統計的な調査ではカウントされてなかったり、カウントはされてもリソースを割く必要がないくらい少数の被害であっても、被害は被害としてあるから対処すべきってことなんよな。
西洋科学エビデンス認定からは切り捨てられる部分にも問題があるんだぞ、その「非」西洋科学的なエビデンスが私自身だ、西洋科学を唯一絶対とするな、と。
だから表題の通り、東洋哲学的なニュアンスを帯びつつあるんだよね、今の市井の左派って。
私は東洋哲学にも価値があると思ってるので、必ずしも左派が間違ってるとは言わない。
まあ、そこからニューエイジやヒッピー、代替医療、ベジタリアン、スピリチュアル、カルト、などにいっちゃうルートが色濃くあって、それはかなり左派の危うさだなと思うんだけど。
左翼思想でも右翼思想でもなく、かといってなにか確固たる信念があるわけでもなくて、ただただ極端な思想の人たちを冷笑し続けるだけの人。
なにかの議論を見ていて、どちらかから「冷笑的」という言葉が発せられたら末期だなと感じます。
相手が冷笑的であると言い出す人は別に相手が冷たく笑っているのを視たわけではなくて、
要するに自分の主張に賛同してくれない人を「冷笑的」と言っています。
「あなたの主張にはこれこれこのような問題があるのでは?」という反論や質問を受け取ったのに、
きちんとした再反論や説明が出来ず、代わりに「冷笑的な態度だ!」と言って怒りだしたり。
別に偉そうにするわけじゃないから一見実害がなさそうなんだけど、議論に首を突っ込んできてその都度矛盾点を指摘しては進行を遅らせるだけ遅れさせておいて、かといって自分の意見を求めても何かを言うわけでもない。
矛盾点を指摘されて、何故不機嫌になるのでしょうか、
つまり論理が壊れてるとか前提が嘘ソースであるとかの議論はそのまま進めても有害無益なので、
矛盾点を指摘してもらったなら喜ぶべきです。
改めてその議論をブラッシュアップするなり放棄するなりできるでしょう。
そこでただ不貞腐れた顔になるというのは恐るべき低知能仕草です。
ネットで延々政治議論してるような連中のうち誰が責任を追うような仕事をしてるというのでしょうか。
まず、彼等の御政道談義なんぞ誰にも顧みられないので政治に影響を与えません。
主張はすれども説明から逃げ、議論を避ける人間が多いのは反論を受けて立つのが怖いからです。
自説の矛盾を指摘されることにすら憤慨するあなたもその手合いではないですか?
でも人の間違いは生き生きとあげつらうというところ。
・相手が生き生きしているというのはあなたの主観の可能性が高い。
・じゃあ人の間違いを指摘するときは死んだような顔でやればオッケーなの?それはマナー的な話?
そんなこと気にしてる暇があるなら自分の主張の矛盾チェックでもしてなよ。
恐らくある程度頭の良い人なのだと思うけど、結局なんの役にも立ってないんだよね。
ネトウヨはその人をパヨクだと思いこんでいて、パヨクはその人をネトウヨだと思いこんでるみたいなんだけど、そうじゃない第三勢力ですよっていうことを教えてあげたいので名前をつけてあげてほしい。
どうせあの頭あったかい人達は自分らに反対する奴・賛成しない奴は全部敵でまとめて変なレッテルで認識するわけでしょ。
その内訳がどの勢力かなんてどうでもいいじゃないですか。
って書いてるうちにまさにそういうブコメがもう有るんだけど
「自称中立」かなあ。ただこういう人、言動を追ってくと基本的人権の概念が現代先進国レベルから大きく乖離してることが多く、それを考えるとネトウヨと弁別する必要性はあまり感じない。
2019/11/15
ほらね?
こういう人にはなるべく単純な構造が嬉しいし、
「自分の主張に賛成しない奴はみんなネトウヨ(パヨク)」なら自分を反省しなくてすみます。
賛同されなかった→あいつはネトウヨ(パヨク)だから気にすることなし。
批判された→あいつはネトウヨ(パヨク)だから気にすることなし。
ね?ネトウヨやパヨクって何の責任感も思考力も無くても出来るでしょ。
思想に依存する人は頭が悪いですが(元はよい頭脳でもダメになるため)、
そういうものに依存する理由は頭の悪さより性格のだらしなさにあります。
でも自分では何もしないから現状が改善していかなくて、それを周りにいるバカのせいにして気がつくとフラストレーションの塊になってるから。
客観的に周りを観察してください(その冷静さがあるうちに)。
言うことが凶暴でいつもフラストレーションの塊なのは政治思想に深入りしている人です。
対照的に例えば趣味や仕事に打ち込んで集中している人は幸福ですが
そういう幸福なクリエイター業の人でもネトウヨやパヨクになったとたん
攻撃的なtweetが増え、いつも政治のことで怒っている不幸そうな人に変貌してしまいます。
あの人達は起きている間ずっとネトウヨやパヨクや気に入らない国や政治家のことを考えており、憎んで憎んでイライラする。
自分に同調してくれないだけの第三者のことすら「冷笑派」と言って恨みだすほどです。
役に立つ人というのは自分の生活をきちんと送っている人のことです。
日々自分なりの勤めを果たし、その時々の仕事に集中し、自分や周りを疎かにせず生きる人のことです。
政治思想で頭をおかしくしてネットで憎悪合戦をしている人のことではありません
必然的に「悪い奴をやっつけろ!」という単純なアウトプットになってしまった哀れな馬鹿の群れです。
馬鹿の癖に等身大の馬鹿として生きる人生を受け入れられなかった。
身の丈超えた偉大なものになりたくて政治思想ごっこした結果の常にイライラする役立たず人生です。
亞ってなんかドム感ない?とにかく難しい漢字の手偏にガンダムどころじゃないわ!
持ってるギャグは3兆個!
とかって言う人ってだいたい5つぐらいのギャグのローテーションよね。
時間がないと言ってばかりは居られないので
って意気込みで今日も頑張っていきたいと思うんだけど、
一雨ごとに気温が下がってきてて
いかんせんなんだか寒すぎて
頭が回らないわ。
栄養はそこそこに足りているとは思うんだけど、
とにかく寒いので、
でもさ、
急に寒くなってきたからこれからどうなるんだろうって天気予報を注目してるんだけど、
もう何回も使ってしまったからさすがに最近は言い方を変えてるみたいだけど、
近年稀にみるとか言い方を色々変えてみる冥利につきるわね。
挙げ句の果てには
そのぐらい深刻な豪雨らしいわね。
私も気になって私の住んでいる街のハザードマップを見たんだけど、
幸い私住んでいる小高いところは浸水の危機はないようでほっと一安心とおもったんだけど、
見てよ見てよ!
JR線を境に西側は全部浸水する可能性がある地帯として水色に塗られてて、
その場所今開発が進んでいるところなので、
分かっているのに大丈夫かしら?と思うわ。
やっぱり昔の人の見知は侮れないほどのって思っちゃったわ。
何事にも理由があるってことよね。
新しい新興住宅地は今からもう浸水の鬼気迫る前の形相で住まなくちゃいけないので大変よね。
たまには見るべきだわって思ったわ。
渡る世間は鬼ばかりだけど!
うふふ。
でもこれ本当のエビなのかしらと思いつつ美味しいからいいけど、
寒いったらありゃしないので、
今回は思考を凝らして
なんとも風味豊かなホッツオレンジで
ドライの柑橘系はストックしておくとちょっとしたパーティーにも大活躍だから、
もう寒くて何言ってるか分からないわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
でも欧米の学園物の映画やドラマでは必ず体小さい子ややせっぽちが「ホモ野郎」って罵倒されて嫌われてる。
体の大きいたくましい男が「あれはホモなんじゃないか」と恐怖や警戒されてることなんかないでしょ。
日本でもそう。
ホモフォビアっていうのは根源的には
「ホモに襲われるのが怖い」んじゃあなくて
「自分がホモと関わりのある人間になる、ホモになるのが怖い」なわけ。
女性のレズへの気持ちより男性のホモへの気持ちの方が拒絶が強い気がする。
科学的に比べたわけじゃないけど。
多くの男性はホモについてつまり、出来損ないとか失敗者みたいなイメージをどこかに持ってる。
男児は父親に去勢される恐怖を持ってる、っていってた心理学者がいたけどホモ嫌悪はあれに近い。
具体的に襲われることを警戒するというより、
そのホモとの関係性が出来る、自分がホモに近くなる、自分がホモになる、
肉体的に弱いホモは嫌われる理由が少なくなってわりと寛容に扱われて
ムキムキゲイの故ビリー・ヘリントンは「兄貴」として大人気で慕われてたよね。
あれはつまりボディビルで鍛えあげた超男性的な肉体がホモという「欠陥」を凌駕して
むしろ「超オス的な英雄なのにでかい欠点のある親しみやすい俺達の兄貴」になったわけ。
ムキムキでゲイなら親しみを込めていじられることもある。
線が細くて女性的でゲイならもう救いようがなくキモいのでキモキャラかオカマキャラしかない。
これは結構世の多くのゲイ嫌悪的なストレート男性の反応として心当たりあるでしょ。
「現実的に襲われることが怖い」じゃなくて、
「男の失敗作のバイキンが移ることが怖い」。
これがホモフォビアの大部分の正体だと思うよ。
bigapple11 性的に見られることへの恐怖って女にとっては身近すぎて当たり前になっているけど、男は身近にゲイの存在があって初めて、実感として意識できるようになるんだろう
こういうのはたぶん大外れってこと。
俺の説もこの人の説もともに科学的なエビデンスはない自己研究的見解だけどさ。
痴漢に悩まされたことがある女性とかにとって「スカッとする」説なのでこんなに支持されてトップに立ってるんだろうけど、
スカッとする説が正しいかと言うとそうでもなくて、願望バイアスがあるぶん外していくことの方が多いと思うよ。
ゲイをいじめたりするのはもちろんよくないことで非難されるべきなんだけど、
非難されるべき人間の心の内訳と言うのはとかく「スカッとする」説明をされやすい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1428114
どこかの自称ドクターが宣ってたせいか、「化学物質過敏症」をメンタルヘルスと断じてるネット民が多いように見える。
しかし、これもエビデンスがあるわけじゃないよね。僕は見たことないけど、どこかに転がってるんだろうか?エビデンス。
僕自身が、合成香料を嗅ぐと体調が悪くなるので、その立場から言わせてもらうと、メンタルヘルスとは違うと感じる。
通常、嗅覚には疲労する性質があり、かなりの刺激臭でもない限りは嗅覚が疲労して慣れていく。
例えば、誰かが密室でオナラをしたら、最初はクサい!と思うが、徐々に慣れていき気にならなくなる。
ところが、合成香料のニオイだと、嗅覚はなかなか疲労してくれず、いつまでもニオってしまう。なぜなら、ニオイが持続するように設計されているから。
一方で、自然界でも嗅覚が疲労しないニオイは存在する。火山ガスや燃焼ガスなどの危険な刺激臭がそれである。
嗅覚の最大の役割が危険を察知することだとすると、本当に危険な状態の時に嗅覚が疲労しないのはまったく理にかなった正常なことだと言える。
さて、そう考えると、嗅覚が疲労しない合成香料のニオイを危険物質と誤認して体調を崩すという症状があっても、それほどおかしなことでは無さそうに思える。
まあ、これも僕が感覚的に思うだけのことなので、エビデンスもクソもないわけだけど、研究アプローチとしてはそれなりに意味のある仮説なんじゃないかな。
誰か、このアプローチで研究してくれる医学者さまはおらんものだろうか。
エセ科学だメンタルヘルスだ(≒気のせいだ)言っても、事実として私のように苦しんでいる人がいる以上、解決してもらわないと困るので研究者には諦めないでほしい。
ババ引かされたのは受験生だ! 英語民間試験 なぜ国は推進した
「私たちは官僚の矜持とは、政治から、不本意な政策が下りてきた時、それが理にかなわなければ「無理です」と説得する、もしそれがかなわずとも、その政策を、広く合理的に説明できる程度までしっかり練り直すものだと思っていました。」
止めたいと思っている役人はいるけど、止められる役人はいません。
そもそも、文科省の教育施策は、科学的なエビデンスというより、
◆中教審の会長が言った(大臣と仲がいい大学の学者や民間有識者など)
で大きな方針が決まっていて、それを実現するために利害を調整するのが役人。。。。
「そうはいっても、審議会や有識者会議でも審議して決定してるんだから、一方的な意見だけじゃなくて、反対意見もあるだろうから調整されるんじゃないの?」
そんな指摘もあると思うが、審議会や有識者会議は、大きな方針を実現するための装置でしかない。
有機者会議を開催する時点で、ある程度の結論は決まっていて、何を言われようが結論は変わらない。異論が出ても最後は、役人が根回しをした座長(議長)に報告書の決定が一任されてしまうので、役所が得たいような結論が出る仕組み。
対外的には、決定された内容については「第三者で構成される有識者会議で決定されました!」「審議会で決定されました」といった客観的な意見であると主張できる。
ただ、実態は、役人が手をまわしている都合が良い内容の報告書なので、当然、それ自体が本当にやるべきことが書いてあるものではないので、科学的なエビデンスになるわけではない。
しかし、それがエビデンスかのような政策手法が横行しているのが文科省・・・。
報告書の根拠は、有識者の意見です!と都合よく解釈しているけど、その有識者を選んだのも、有識者に言ってほしいことも根回しするのは文科省・・・。
こうして、文教族の国会議員などの一部の意見に基づく施策が展開され、諸外国の動向や、教育学者の意見はほとんど参考程度。
文科省の役人は、誰かが決めたことを忠実に遂行するための整合をとったり、利害を調整することには優秀。
だけど、どういう入試制度がいいか、エビデンスに基づいてしっかり考えていないから、政治家を説得する、ということができないんだろうな。
教育分野は他の分野と違って、みんなが教育を受けてるから、ある意味、自身の体験に基づく意見が施策に反映されがち。
だからこそ、他の分野よりも一層、エビデンスが求められると思う。
再発防止策は、役人の能力向上と、役人がちゃんと考えたことを実行できるという意味で、政治からの独立性(透明性)の確保、、、だと思う。
たぶんそんな案は出てこないだろうけどw