はてなキーワード: 負け犬とは
http://ascii.jp/elem/000/000/643/643497/index-2.html
↓はその通りだと思う。
このような日本の新陳代謝とグローバル化の遅れの背景には、日本企業の組織特性がある。日本の製造業が戦後、高度成長したときは、欧米の技術をまねて、低賃金で生産することができた。
「首相の決断」により郵政民営化も、原発の上からヘリで水を撒く事も出来た。首相レベルの決定権は今も強大なものが有ると思う。
官僚が優秀であるとはいえ、ここを縦横無尽に使いこなせるような立場にある政治家など近頃では皆無に見えてしまう。
誤解を恐れずに言えば、なぜ決定権を持つ人間が決定できなくなってしまっているのかというのが、
現状の「女性の風潮」に逆らえない
婚活に勝ち残らなければならず、
村のようなコミュニティは破壊されたので一人で子育てせざるを得ず、
旦那の給料を【未来永劫として確固としたもの】に仕上げさせなければならないプレッシャーが有り、
ご近所様からも【ちょっと上の立ち位置を築かなければならぬ】プレッシャーすら有る中で、
まだ高度経済成長期に築かれた【幻想・成功神話】を再び旦那に具現してもらわなければ困るのであり、
ゆえに日本社会的に【挑戦】してもらっては困る世界が出来上がる。
(近所やら知り合いに偉そうに出来なくなるから)
「寝た子を起こさない」発想から「協力」というコミュニケーションとして高い次元へ進まなければ
今、勝ち組でも10年後に負け組と同一の立場に置かれてしまうかもしれないという算段を持って今後の方向を検討出来る場が欲しいと思う今日この頃でした。
(1/2:コメントに返信追記)
さっきFacebookを見たら、知り合いの女の子が梅田で数人ではしゃいでいる写真がアップされていた。
率直な感想が、「うわ、うらやまし」だった。
というのも、その間自分がしていた事は家のパソコンで一人画像を見ながらオナニーだったから。
このギャップ。現実のギャップに落ち込む。リア充への憧憬は隠せない。
これは確かなことだ。嘘はない。でも、なんか違うんだよな。本当のことを言うと、違う。なかなか理解されないけど、この憧れというのは、「自分もその場に居合わせたい!」という願望ではない。「自分も女の子と一緒にはしゃぎたい!」というのとは、実際は違う。そこに落ち込んでいるのではない。リア充と僕の隔絶は、そこではない。
僕は、リア充にはなれない。それは、「土曜のこの時間に女の子と一緒にはしゃいでおらず画面を見ながらオナニーしてるから」ではないのだ。そして、僕がリア充に憧れているのは、今の自分のこの状況に悔やんでいるからではない。では、なんなのか。
今まで何度も経験したこの感じ。大学の人達と飲みに行ったとき、朝までカラオケをした。6人か7人ぐらいで、ノリがいい男2人と僕と、女の子4人だったかな、忘れた。飲みに行って、その後カラオケ、よくある事だ。その後にも何度かあった。
ぜんぜんたのしくないんだよな。
女の子が不細工だとかそういうことではない。曲が合わないとか会話に入れないとか、そういうのも関係ない。そんなに言うほど仲いい人たちじゃないとか、そういうのも違う。男ばかりだったらとか、女ばかりだったらとか、そいうのも関係ない。ただ、こうやって集まって盛り上がるとかが鬱陶しい。自分は一人で居るほうが気が楽だ。本当に、経験するたびに思う。そういう自分に気づく。でも、誘われたら行く。なぜなら、リア充に憧憬があるから。でも、そのたびにまた現実にぶち当たる。馴染めない。
自分がリア充になれないのは、そういう環境に身を置けないからではなく、その状況を良いと思えないことにある。
僕が憧れているのは、僕が羨ましいのは、「その状況を楽しいと思えることそのもの」だった。
(コメント返信追記)
今頃ブクマがなぜ伸びてるのか謎すぎるけど、ブクマコメントを読んで思ったことをいくつか。
結構誤解されてる方が多い。俺はカラオケのくだりで断って書いたつもりなんだけどなあ。なかなか理解されていない。リア充リア充言うから余計に誤解を招いたかもしれない。
集まりの内容なんて関係ないんですよ。オフ会であろうが趣味の集まりであろうが大学の飲み会であろうが会社の打ち上げであろうがオタクの集まりであろうが、集まりそのものが苦手、で、楽しくない。全然盛りあがれない。知ってる話題でも楽しくない。詳しいと余計に喋りたくない。関心のある内容はこんな場で話したくないし話題にもあげないで欲しい。話し振られると適当にごまかす。鬱陶しい。早く帰りたい。メンバーとか内容は関係ないんです。その辺を勘違いされてる方がブクマコメントで多数お見受けできるので、再度確認のため断っておきました。
本当は全レスしたかったけど面倒だからトップ10へレスさせてください。年始暇なので。
その間ってのはフェースブック見てる間じゃないぞ。知人のフェースブック画像で抜きながら落ち込んでるとかテンションが病気。
neogratche
一人でいる事の方が楽なのに、「それは負け犬の人生だ」って社会が否定してくるから苦しい、っていうのはあるかもしんない 2011/12/31 26
一人でいるのは楽だけど別に楽しくはないんですよね。かと言って、人といて楽しいかとういうとそうでもないにもかかわらず、楽しそうにしている人を見ると自分もそうなれるのかもしれないと期待して現実を知る。その繰り返しでした。
fromdusktildawn
「数人で盛り上がって楽しむ」ということができないのは、単に感性の問題だと思ってる人がときどきいるけど、スキルの問題が大きいんだ。「数人で盛り上がって楽しむ技術」というのがあってそれをマスターすればいい 2012/01/01444 clicks 21
めんどくさいっすね。そんなめんどくさい技術ならいらないっす。よく、頑張ったら頑張った分だけ喜びも大きいとか言う人いますけど、私はそれ全く理解できないです。むしろ頑張った分だけ割に合わないと感じる方なのでそういう努力はしません。
y_u_s_u_k_e
オナフェイス充
xevra
要するに他人に興味が無いんでしょ。他人が喜ぼうが悲しもうが死のうがどうだって良いんだろ。だからつまんないんだよ。圧倒的な自己中が非モテの特徴。/大勢が無理なら異性とデートすればいいだろう。捗るぞ 2012/01/0114 clicks
大勢の場で他人に興味抱いてる人って気持ち悪い。そんなのどうでもいいに決まってんじゃん。村社会かよ。自己中ってのは他人の迷惑を顧みないとか、自分の都合で他人を動かそうとするやつのことで、俺は他人に関心がないだけで文句つけたり迷惑かけたりはしてないから、それに対して文句言われる筋合いはないんだけどなあ。一応ある程度空気読んでるから。
rin51
よう、おれ / 学生の頃 男女6:3くらいで山へドライブへ行って目的もなくダラダラ過ごしてるのがツラくて「おい、とっとと帰ろうぜ」と駄々こねたのがオレ 2011/12/31
じゃあ行くなよ!まあ、何か楽しいことあるかなって期待もあったんだよな。無かったら帰るのが正解。
feita
俺も、人間としてぶっ壊れてることへの敗北感と優越感を感じます。中二病的な意味で。/まぁぶっちゃけ単に自己中なだけなんですけどね。こっちからアクションしてあっちからレスポンスないだけでストレスがマッハ。 2012/01/015 clicks
君のそれと俺のそれは全然違うように思える。ぶっ壊れてないし、羨望はあっても敗北感はないし、優越なんかどっから湧いてくんのって感じ。自己中でもない。俺は人に場に合わせるから。俺はレスポンスなんかなくていい。
AmanoJack 本題無視
ROM専腐女子として別に何か書きたいことがあるわけじゃないけど書き手になることに憧れる、みたいな……私もそんな風に萌えてみたいよ……オタ充爆発しろ……みたいな 2011/12/31
みんながみんなそうなら分かるんだけど、みんな楽しそうにしていて自分が全く楽しくないのはなんなのでしょうね。みんな嘘ついてるようにはとても思えない。ていうか嘘ならフェースブックにわざわざ書かんやろ普通。
nymc
価値の無い集まりにしか参加したことがないからそう思うんじゃないかと思う。自分にとって価値ある、楽しい集まりはお前自身が作れ。他人に頼り過ぎ、任せ過ぎじゃないか? 2012/01/0216 clicks
これを読んでいたらもやもやしてきたので書く。
4つだけは本当だということじゃない。
8つすべては「真実」に近いと思う。
実践できれば楽に生きれると思う。
それがいいとか悪いとかいう問題じゃない。
ただ、この理論だけでは結果的に不十分だとおもう。
いったいなにを欺いているのか?
リンク先で語られている内容よりも
語られなかった内容に注意してほしい。
1、今に生きる
過去を悔やんでたらればを繰り返したり、起きてないことをあれこれ憂いたりするのは時間と労力の無駄遣いで非生産的。
2、人や社会に期待をしない
求めたり「こうあるべき」とイメージを持ったりすれば、現実との差異にがっかりすることになる
自分が見ている他人は、他人という物質に反射して映った自分だと考える。
その出来事を通して味わいたい思いや学びたいことがあるからそれを引き付ける。
こうしなきゃ、こうでなきゃ、というのは自己満足であって、大抵の場合は不必要
6、ワクワクするものごとを選ぶ
選択の連続の人生で、自分の心がワクワクする方を正直に選ぶのが一番スムーズ。これができないと葛藤やジレンマに苦しむ
7、自分の行いは必ず帰ってくる
きちんと受け止めないでぶつかった時に、痛いと言って責任転嫁しようとしても事は進まない。
自分が受けたい言動をとればそのまま返ってくる。
8、物事は全て中立
「悪い出来事」「縁起の良い場所」なんてのは本当はなくて、全て中立な物事に自分が意味付けをしてるだけ。
たとえば同じ場に居合わせて災害にあったとしても、ある人はたまたま見舞われたと感じるし、ある人は自分の宗教の教えを遵守しなかったからと捉えるかもしれない。
ぐうの音もでない。
いろんな本を読んだり、テレビを見たり、人と話したりすれば
わりと納得できる考え方だなーと。
(というかこれがわからないとしんどい)
しかし、正しいということとそれが妥当であるということはまた別の問題だと思う。
でも、とりあえず
ということはほぼ間違いないと思う。
世界じゅうの人がみんな
この方法を身につければ
きっと生きやすい世界が目の前に広がると思う。
ちょっと想像してみよう。
(親、兄弟、親戚、同級生、上司、同僚、社会のしくみ、政府、日本、テロリスト、なんでも)が
もし、これらの特性を身につけたならと考えてみよう。
こりゃパラダイスだ!
ぼくたちはお互いがお互いを認められるような
真に寛容な社会を実現できる!
誰と遊んでいようが楽しい!
よーし!あの丘の上まで競争だ!
これらの方法に従うことで楽に生きられると思う。
でもそれは「従うことができれば」の話。
実際、どこの場でも目にする。
「人生論」でも、「大往生」でも、「論語」でも、「エセー」でも、「徒然草」でもなんでもいい
長く広く読まれている「人生の教え」的な本を読んでると
最後にはだいたい前の8つくらいに収まる
(代わりにどっかの社長の話を聞いてもいいし、テレビで美輪明宏さんの話を聞いてもいい)。
昔の人は偉いなあと思う。
そういう感じの本はいろいろ読んだ気がする。
もちろん、まだまだ読み足りない。
なにせぼくはまだ今年から活字に触れはじめたばっかりだ。
きっと死ぬまで読んでも読み足りないのだけど
個人的には、ぼくの考えを
そういう本が「間違っている」と指摘してくれることを期待して
今のところ、ぼくの考えを「否定してくれる」本は見つからない。
いや、正確に言うと、否定してくれはするけども
それが納得できないのだ。
ぼくの読解能力がないだけならそれでいいんだけど
もしヒマならちょっとぼくの考えを聞いてほしい。
まず1つめのウソ。
ぼくが言いたいのは
すべての人間がこれらの方法を実行するのは不可能だということだ。
古今東西のえらい人がみんな同じ結論にたどりつくなら
さっさとそれを実行すればいいのに
なんで同じ内容の本ばっかり書かれていくんだろう。
それが人間全体に広くみられる普遍的な問題だからじゃないかなあと思うけど
じゃあ、なんでその普遍的な問題が
大昔から今まで解決されないままなんだろう。
般若心経の新訳を読んだ。
ぼくらはなんで2000年も前の真理がいまだに実行できないの?
そりゃあれじゃないの?
大笑いしながら観ていた。
その中の一作で寅さんの「おいちゃん」が
実は若い頃は文学をやりたいと思っていたと話すシーンがある。
おいちゃんは父親にこう言われたらしい。
「団子屋に文学なんか必要ない」
団子屋が文字を読む必要がないなら、
本なんてまったく読まない人がいてもおかしくないんじゃないだろうか。
これは団子屋だけの問題か?
かなり多く存在してるんじゃないのか?
それでなんの不自由もなく生きていけたなら
感覚だけで生きていくことを恥じることもない。
それどころか、論理的なことをバカにさえするかもしれない。
難しいことはわからない。
バック・トゥ・ザ・フューチャーを何十回も観てるのに
なにがどうなっているのかいまだに理解できてない。
でもそれがどうした?
バック・トゥ・ザ・フューチャーの理屈がわからなくてもなんの不自由もない。
熱心な仏教徒や
わかりにくいな…。
その最初の救いを信じていたら
いつのまにか犯罪者の仲間入りをしていたことだってあるみたいだ
(オウム真理教の元信者のそういうエピソードを読んだことがある)。
「念仏を唱えれば救われる」って
そそのかされただけじゃないのか?
バック・トゥ・ザ・フューチャーがわからないお父ちゃん。
念仏を唱えるだけの百姓。
そういう人たちがいるかもしれないと思ったことは?
つまり、ぼくが言いたいのは
読めない人がいるかもしれないということだ。
読んだ人に待ち受けているのは
でも、読んでない人はどうすりゃいい?
で、その論理を理解できなかったら?ほったらかし?
そりゃあもう素晴らしいことになるとおもう。
でも、現実はそうじゃない。
何を語っていないかをもっとよく考えたほうがいい。
この人生訓がなぜいいのかということを
絶望的なまでに理解できない人がいる。
そういう人たちは人生訓が提示されるたびに足場が少なくなっていく。
要するに勉強ができない、感覚で生きている人たちをないがしろにしているのだ。
このたぐいの人生訓すべてが。
掛け算までしかわからない子どもに、方程式の素晴らしさを説いているようなもんだ。
上から目線で「こうしたらいいのに」と言ってしまってることになる。
いつまでも掛け算のところでつまづいて
文句ばっかり言ってる子どもはほったらかして先に授業を進めるべきなの?
掛け算のところに戻って教えなおしたほうがいいんじゃないの?
やっと言いたいことの一つが終わった。
冗長になりそうだけど
もうひとつ言いたいことがある。
更に絶望的な想定だ。
さて、こんな文句をどこかで見たことがあるだろうか。
(まちがってたら言ってください)。
なんかさぁ…
内容自体はそんなに変わらないのに
急にうっとうしくなった気がしない?
どこかで見たことあるなあ…
これどこで見たんやろう…
ああ、そうか
「これ、うちの経営理念やわ」っていう人いる?
その時どんな気分がした?
殺したくなった?
泣きたくなった?
正義づらした誰かに強制されるのだ。
それが「楽に生きる」とは真逆の事態を連れてくる。
この想定のたちの悪いところは
その大義名分が「間違ってない」というところだ。
誤解なら間違ってると指摘することはできるけど
ほぼ正しいと思う。楽に生きるためならね。
え?
間違ってないなら実行できない人が無能で怠惰なんだから仕方ないって?
wikipediaによると2009年の時点で日本のニート総数63万人
彼らがみんな死んでしまえばいいと思うの?
賢くて強い人だけ生き残ればいいと思ってるの?
ニートだけじゃない。実際働いている人でも
(実際これだけの説教レパートリーがあれば人格を破壊するには充分すぎるとおもう)。
(統計を出すつもりはないけど)。
1つめのウソで言及しているような
感覚で生きていて、なおかつこういう人生訓に苦しめられている代表選手は
2つめのウソで言及しているような
こういう人たちはまとめて死ぬべきなのか?
損する人のほうが多くないか?
そう考えたら、「人生を楽に生きる8つの方法」が最後の答えだと思えない。
この考え方を否定してもらいたくてそういう本を読んでいた。
でも納得できない。
これでは救いにならない。
でもいつまでも状況に進展がない。
だれか否定してくれよ。
「おまえ間違ってるよ!」って。
1つめのウソについては別の解決策が見当たらないし探そうともしてないけど
そして、その解決策をこの場で披露することを許していただきたい。
枠組みを作ろうと思う。
ほとんど働かなくてもいいような枠組み。
楽観的な言い方をすると、これは収益を生み出せるかもしれない。
そうして、口やかましい人たちを黙らせる
http://auauai.tumblr.com/post/9080858048
これはブログでも書いてるけど
やりたいことはphaさんのギークハウス構想に似てると思う。
優しくて閉鎖的な空間だ。
個人的にはなるべく一人でいたいんだけどそのためのコストが高い。
そういう人と連帯を組むことはしたくない。
じゃあ、ぼくが怖がらずに近づけるのは
そういう人たちととりあえずお互いを認め合う。
自信を少しずつ取り戻す。
まずはそこからだ。
誰だって生きていていいんだという相互理解をつくることだ。
心底、世の中に絶望していた。
どれも納得できなかった。
共感をもたらしてはくれたけど
やっぱり現実はしんどいままだった。
山の中に草庵でも建てて住もうと本気で思っていた
(いまでもその選択肢を考えてる)。
いくら本を読んでも
現在の恐怖と、わずか数年後の不安を解決してくれるものすらなかった。
でも最近考え方が変わった。
それもやはり本を読んで変わった
(次に挙げるだめ連の本とはまた違う本だ)。
だめ連の本によると
連帯すると分散される(当たり前か)。
家賃10万円の家を10人で借りたら一人1万円だ。そういうことだ。
近隣の人の援助もあったらしい。
それはちょっとできるかどうかわからない。
でもぼくらにはインターネットというツールがある。
レゴ作って2chにスレ立てるだけでプロビルダーになる人がいたり
自分の顔を毎日撮って繋げただけの動画がYoutubeで何万再生もされたり
「ありがとごじゃいます」って歌って動画として公開するだけでテレビに出演できたり
要するに「好き」とか「やってみた」とかの
ということは
そういうしょーもないアイディアが収益化する可能性があるのだ。
ちょっとでもおもしろそうなことはなんでもやってみりゃいいのだ。
社会不適合者が集まっているということだけでもちょっとおもしろいかもしれない。
誰が許さなくても本当は関係ないんだよね。
心苦しさを飛び越えるほどの、欲求があればぼくらは動ける。
外にある楽しいことに手を出すのは怖いしめんどくさいけど
ネトゲくらいならちょっとやってみようかなーなんて思える。
とりあえずヒマならその家に集まってみて
生きるのに向いてない人がリラックスできる場をつくる。
なんかちょっとやる気出たり、アイディアわいてきたら
そういう人たちの「好き」とか「アイディア」を片手間でネットに発信してみる
(ぼくもいくつかアイディアがある)
奇しくもこの考え方は
楽しいことだけを追い求めて生きていくことが可能かどうか確かめたいのだ。
しかし、生きるのに向いてない人がラクになれる場所
(SNSでの付き合いで世界のツラさを「ごまかす」だけじゃない場所だ)
これができるだけでも意味はあると思う。
もうだから早く家借りよう。
とりあえず、ツイッターかmixiかメールかなんでもいいから連絡をください。
http://twitter.com/yukkun1986/
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=25533767&from=navi
breed0902@gmail.com
(悪いことをまったくやってないってことじゃないけど)。
たすけてくれよ。「私も怖かった」って言ってくれよ。
怖いよねー(*´・ω・`)(´・ω・`*)ネーって慰め合おうよ。
別に住まんでもいいのよ家には
慰めとか遊びとかアイディアの拠点にするねん。
もう疲れた。
もう待てない。
もう泣きたくない。
誰かが泣くのも見たくない。
きみは死ぬな。
それでも生きれるようにしたいのよ。
ぼくもきみも。
これがぼくらの「楽に生きるための一つの方法」じゃないかと思うんだ。
コメントに返事を書く!
なげーよ。
ごめんなさい。短くしようともしてませんでした。
短く的確に書ければいいなと思います。
書いていくだけでその練習になればいいななどと虫のいいことを思ってます。
誰も強制してないし、できない奴を馬鹿にしてもいない。自意識過剰/自分以下を眺めて満足したいだけでは?/「5. 自分がいなくても世界は回る」の「自分」は語り手を選ばないからこそ「楽」につながる
味方にはなにがあっても絶対忠誠っていうのが、負け犬の特長だと思うよ
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
http://anond.hatelabo.jp/20110715021051
facebookで中高の時にいじめていた奴をたまたま見つけたんだけど、
いじめられっ子って本当に変わらねーな。
facebookだけでなくて、はてなでもブログ書いてたけど負け犬根性丸出しで。
誰かが言ってたよな「だめなやつはなにをやってもだめ」って。
「中高のとき」というからには、私立の一貫校かなあ? いじめたことに罪悪感がありそうだねえ。「性格に問題がある」って、いじめられるほうに原因があって、私の性格には問題ないってことだよねえ? でもね。世の中、どんなにむかつく性格の相手でも「いじめない」って選択をする人のほうが圧倒的に多いんだよ? いじめっ子って実はマイノリティだって知ってるかなあ? うつ病の人が昔のいじめっ子に連絡してくるって? そんなことあるわけないじゃん。どんだけおびえてんだよ。
あ、もちろん、私もいじめっ子の側だよ。他人に弱みを見せるなんて、脇が甘すぎるって考える人間だからね。愛されて育ってないから、母親に愛されてる男なんか見ると、もう、それだけで水ぶっかけていいって思っちゃうよ。さすがに、ホントにしたのは小学生までだけどね。こういう「恐怖におびえた魂」を見ると、ついつい、釣られちゃうね。特定されないように気をつけてね。
デモを「手段」ではなく「居場所」とか「晴れの舞台」にしてるクズが多すぎる。
彼等はその病的な自意識ゆえに、一市民としての淡々とした日常など1日も送ることができない。
常に政治闘争の文脈に身を置き、当今であれば一日中ネットで闘争案件にアクセスしている。
仕事や学業はおろそかであり、あやしい身分で馬齢を重ねて一層堅気でなくなっていく。
右と左に分かれて罵り合うが、一般人から見れば等しく社会の負け犬に過ぎない。
彼等とは違うまっとうな一般市民が、何か問題意識を持ってデモ参加を志したとする。
だが、デモに出かけていくと、例の社会の負け犬どもが先輩面で居座っているのである。
一般市民には全く通じないオタク用語で会話し、オタク文脈の諍いや喧嘩を自重せず、
更にはデモの名目とは全く違うのぼりを掲げたり、集まった頭数を「流用」しようとしたりする。
わかるだろうか。
まともな生活も送っていないオタクが、本来「手段」であるデモという場に「住み着き」、
先日の原発デモ関連のツイッターも、見ていると本当に吐き気がする。
オタク文脈のオタク言葉の、一般人の関心には全くアクセスしないくだらないオタク喧嘩を延々やっている。
本人達は大変重要なことをやっているつもりで終始深刻なツラである。
だがこいつらはまともな人達の政治参加を阻害するただの害虫であり
長年のだらしない実存処理の報いとして、目が覚めている間中発作が起きてる単なる精神病患者である。
デモに10回以上参加している人間はほぼ全員この精神病の害虫なので
もしこいつらがいなくなれば日本の政治シーンは劇的に風通しが良くなるだろう。
だが、そんな殺虫剤もないので、今後もデモは彼等精神病のオタクどものおもちゃであり続ける。
それがいつまでも続く。
ある日金融業者の遠藤により、かつて自分が保証人になっていた借金を押し付けられ、
法外な利息により385万円にまで膨らんでいることを知らされる。
遠藤に誘われるままタカシは、負債者に借金一括返済のチャンスを与えるというギャンブル船「エスポワール」に乗り込む。
うまく勝てば借金は帳消しだが、負ければ命の保障はないというものだった。
タカシは幾度となく煮え湯を飲まされながらも、
土壇場での閃きと思考を駆使して、生き残りを賭けた勝負に身を投じる。
エスポワールから辛くも生還したタカシだったが、借金返済はならず、その総額は600万円以上に膨れ上がっていた。
4ヶ月後、アルバイト生活に戻っていたタカシの前に、再び遠藤が現れ、新たなギャンブルを持ちかける。
今度こそ勝つと決意したタカシは会場である「スターサイドホテル」へと向かい、決死のギャンブル「鉄骨渡り」に挑む。
多くの人間が転落死していく中、2度の鉄骨渡りをタカシは唯一渡りきるが、
主催者側に勝負中の言動を後から指摘され、賞金を得る権利を剥奪される。
激昂するタカシの前に主催者側の会長・兵藤が現れ、もう一度チャンスをやろうと
これまでのギャンブルを仕切っていた大幹部・利根川と「Eカード」で対決する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まぁここまでは作り話な。
彼らに言わせれば,東北も,関東も,東日本も,もう全部が駄目なんだそうな.
政府の発表はぜんぶ嘘.
3号機は核爆発した.
土地も食物も全てが汚染された.
喉の痛みも発熱も放射能の影響.
逃げ出せないのは今の生活を捨てられない負け犬か,あるいはただの馬鹿.
何故彼らは騒ぎ立てているのだろう.
危機を啓蒙し,有効な対策を執らせる為?
煽るような口調から,そのような意志は感じられない.
そもそも,彼らはどこにいるのだろう.
彼らの言う「危険地帯」にいるのなら,黙って逃げればいい.
もし「安全地帯」にいるのであれば,何を言う必要も無い.
最低でも一人にはそう感じさせているのだから.
彼らの発言の多くは信憑性に欠けるものだった.
きのこ雲はある程度以上の爆発なら発生する.
しかし,彼らの発言を目にする度に,その信憑性を評価しなければならない.
更に,目に飛び込んできた瞬間のストレスからはどうやっても逃れられない.
こういう事を繰り返していると,精神的に追い詰められる.
できることならそのような発言を見たくは無い.
しかし,発言は自由だ.
彼らの発言が嫌だからと言って,それを止めさせる力など持っていない.
では,現状を手放すことが出来ない,逃げ出すことのできない無力な人間はどうすればいい?
ただ,肉体的に死ぬか,精神的におかしくなるまで,苦しみ続けるしかないのか.
執着してしまう弱さがいけないのか.
自分の中で悔しいというか、本当に人生で忘れられない一日になった。
ただ無力。自分の無力さを恨んだ。
自分の無力さは当然知ってる。
それなりの幸せも感じたこともあった。
自分がどこまでできる役者なのか、力量はわかってるつもりだ。
今回は、自分の無力さを改めて感じた。
見方を変えてみる。
自分の与えられた役は、主人公の人生の転機にアドバイスする友達Aといった所か。
全くもって、仕事にならなかった。
エキストラにもなれなかった。
メールや電話でのアプローチをしたり、時には嘘をついてみたり。
下準備をしてから、この仕事に挑めたら、結果は変わったんじゃないかと思う。
本当に悔しい。
1人で部屋で焼酎を飲んでいる。
20代半ばにして、こんなの初めてだ。
彼の勢いはすごかった。
今年に入ってから、そんな印象を受けていた。
あっという間に会社を辞めた。
そういえば昔からそんな事を言ってた。
1年くらい前に飲んでる時に、「カフェの経営がしたい」みたいな話をしていた。
ただ、話していても、経営のビジョンとか、戦略はまったくないし、
カフェである理由は無かったし、カンブリア宮殿に出演するような経営者にありがちな
「情熱」や「熱量」が全くなかった。
彼が心配だったのと興味本意で。
彼の友達に会おうとおもった。
ちょうど飲み会に誘われた。
ルームシェアしている人の家で飲むという。
そこに1人異彩を放つ30代女性がいた。
彼はその場では言わなかったが、後に彼女の事を「師匠」と呼んだ。
その時は何にも知らなかったので、ただ適当にやり過ごしていたのだが
突然ゲームが始まる。
調べてみると、ほとんど同じ手口みたいだ。
そのゲームがネットワークビジネスの魅力を体験できる、いわば入り口となっている。
気になった点が3点。
一斉に、みんな示し合わせたように、机を片付け、ゲームに興じる。
複雑なルールを知っているメンバーが、知らないメンバーの横にいて、教えていく。
「師匠」が崇拝されすぎ。そして正体不明すぎる。
なんで「師匠」が自分にとって何もメリットを与えなそうなガキ共を集めて
あまりにも違和感があったので、純粋な疑問を「師匠」にぶつけてみる。
「なんであなたはこんなゲーム大会をしていて、こんなに若者が集まってるんですか?」
「お金儲けをしたいなら、僕だったら同じパイが減るんで、良い情報を教えて、ライバルを増やしたくないですけど」
「師匠」はこういった。
「えっ?何でそんな事聞くの?みんなに楽しんでもらいたいからだよ。あなた何か辛い事でもあったの??」
とんでもない。こっちが悪者かよ。
帰って、インターネットの書き込みと照らし合わせた。
彼にメールを打った。
「もしかしたらキミは騙されているかもしれない。ちょっとだけ時間をもらえないだろうか。」
彼と2人で会った。
彼に会う前に、マルチ商法(ネットワークビジネスと言うらしいが)についてネットでそれなりに調べたので、たくさん質問した。
「ああいえばこういう」という会話はこういうものなんだろうと初めて知った。
だけど、似たような出会いが、mixiを使って全国的に多発している。
1回目は集団で行うゲームに参加、
3回目はセミナーへ参加(関西で強行スケジュールで開催。ネットワークビジネスの素晴らしさを徹底的に叩き込む。)
この流れは天文学的では無い。
日本全国に起きているんだ。
作られた流れなんだよ。
何人も似たようなケースに巻き込まれて、書き込みが出回っているんだ。
彼は「インターネットに溢れているのは継ぎはぎしたデタラメな情報。負けたやつが書いているだけ」と言った。
それはそうかもしれない。
だけど、初めてその情報を見せたのに、全く受け入れなかった。
少しも、疑いの目を持たなかった。
昔のキミだったら、そんなことあったか?
それは、インターネットの情報は負け犬が嫌がらせで書いているだけだ、信用するなと
もっとたくさん、話をしたけども、あまり思い出せない。
自分のセリフは、「何かを盲目的に信じ込んでしまっている状態」の彼には、あまりに響かなすぎた。
「師匠」のやり口やビジネスモデルを全てわかった上で、取り組むなら、これはもう止められない。
実は、そのレベルを期待していた。
「師匠」と同じステージにいてくれれば、それの方がまだ良かった。
彼は、まだ「利用されている」人間にしか、本当に末端にいる存在にしか見えなかった。
もしかしたら、夜通しネットでネットワークビジネスについて調べた自分の方が、
情報をもっているのかもしれない、とすら思った。
ふと気づいた。
ただ、自分のやっていることって、こっち側の世界へ留まれっていう勧誘なんだ。
よかれと思って、人は宗教やマルチ商法に、周りの人へ紹介して巻き込んでいくのだろう。
悩んだ末、あまり彼について考えるのを辞めようと思った。
だが、どうだろう。
間違いなく、あらゆる手段を使っても、解決する道を探るだろう。
これから先、自分が「他人」に与えられる何かは何なのだろうか?
自分はまた、こんなケースがあった時に、「他人の人生だからさ」と少し大人ぶった、そんな態度をとってしまうのだろうか。
せっかくのGWもこんな気分では何も楽しくない。
彼へのメールを考えていた。
1つだけ、お願いがある。
キミは、たくさんの人を、ビジネスに巻き込んでいくのだろう。
個人や企業や、もしかしたらコネがなくなって、昔の友達にも声をかけるかもしれない。
そして、何かしらの商品を売るのか、仲間を増やすかをするのだと思う。
その相手の人生に、キミが入り込むんだ。
他人の人生もあるってことだ。
巻き込んだ人の、この先の人生を、真摯に受け止める責任を持って欲しい。
もしかしたら、キミの勧誘により、その人が失敗したり、嫌な思いをするかもしれない。
「あなたの自己責任だ。あなたの努力が足りないから上手くいかないんだ。」
キミがセミナーで習った、基本的な考え方のスタンスは、こういったものだと思う。
だけど、キミがその人を巻き込んだという自己責任の事を、忘れないで欲しい。
これから出会う人に、ちゃんと、良い面も悪い面も、伝えてあげて欲しい。
それじゃ、うまく売れないなら、仲間を増やせないなら。
嫌な思いをさせないような、完璧なフォローをしてあげて欲しい。
どうか、優しい心を忘れないで。
見えなくさせてしまう要素が、このビジネスにはあると思うんだ。
書いていて思うんだけど、本当にお節介極まりないと思う。
自分はもうキミとはかかわらないよ。
応援したいんだけど、価値観が全くもって違う自分は、キミの足かせになってしまいそうだから。
お互い頑張ろう。
また笑って話せる日がくると良いな。
その人生を背負うことの出来ない弱さでもあり、
その人生を自由にさせてあげたいという優しさでもある。
寛容さを持っている人間でありたいという、ただの自分のエゴでもある。
自分の人生だったら主役張ってるけど、他人の人生だったら本当にちっぽけな存在なんだ。