はてなキーワード: 語源とは
堀口 英利 | Horiguchi Hidetoshi
パソコンを買いに出掛けたものの、プラットフォームに入ってきた電車を見ると「いま飛び込めば楽になれる」との考えが浮かびます。
https://note.com/hidetoshi_h_/n/n2f4ac24b100a
暇空茜
@himasoraakane
https://twitter.com/himasoraakane/status/1763161646720274593
なる
@nalltama
これカタカナ語ではなく完全に英語だから、英国留学生が間違えることはないと思うんだけど
https://twitter.com/nalltama/status/1763167318908227830
《「プラットフォーム」とも》
1 演壇・講壇などの壇。また、舞台。重量挙げで、競技(試技)を行う場についてもいう。
2 電車・列車への乗客の乗り降り、貨物の積み下ろしのため、線路に沿って築いた駅の施設。ホーム。
4 車台 (しゃだい) 。シャーシー。また、自動車の異なるモデルで共通して使われる車台を中心とした基本的な構造のこと。プラットホームを共有することで、生産費用を圧縮できる。
5 オペレーティングシステムやハードウエアなど、コンピューターを動作させる際の基本的な環境や設定。
6 報道機関が配信したニュースをまとめて読むことができるウェブサイトやサービス。従来のポータルサイトのほか、ニュースを掲載する専用のニュースアプリやソーシャルメディアなどを指す。
7 商取引や情報配信などのビジネスを行うための基盤。→プラットホーマー
8 ⇒卓状地
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/
プラットフォーム(platform)とは、元々の語源からすると“平らな(plat)形(form)”という意味ですが、現代では様々な場面で様々な意味として使われています。
例えば、駅でプラットフォームと言えば、乗降場を指す“ホーム”という意味ですが、政治の世界では“演壇や演説の場”という意味になります。
一方で、ITの世界では“基盤となるハードやソフトなどの環境”を指しますが、ビジネスの世界では“商品やサービスを集めた場”を指したりします。
https://www.nttdata-value.co.jp/glossary/platform
「プラットホーム」とは、複数の要素が組み合わさって機能する基盤や仕組みを指す言葉である。コンピューターやインターネットの分野では、ソフトウェアやアプリケーションが動作する環境や、サービスが提供される基盤を指すことが多い。例えば、WindowsやmacOSはオペレーティングシステム(OS)としてのプラットホームであり、スマートフォンのiOSやAndroidも同様である。また、鉄道では、電車や地下鉄が停車し、乗降が行われる場所を指す。
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0
この曲には殺意が足りない!ので、演奏中私が常に中指を立て続けてあげます。
なあ、パンクスにとって中指は、ふわふわな世界から身を守る鎧なんだ。今なら期間限定でもう一着無料。
だから私がヤクザに入って出る時も中指は詰めない。な。で、つまり、ヤクザを入って出て入って出て入って出て入って出て入って出て入って出て入って出て入って出てを八回できるわけであって、まあこれが七転び八起きの語源です、今からなるんです。
ベースはハッパで捕まったし、ドラムはポン中、ギタボはギンギンの眼でコンサータを夢見ている、ギターは死んだ、じゃあ私は誰って話です。
だから、これが「ぼっちざろっく」って話だったよね後藤さん。え?なんかキマッちゃってるね?
いいや、次の曲はFlower Travellin' BandのSatori (Part I)ピーーーーーーーー(水平になった心電図の警告音)
https://www.youtube.com/watch?v=M5qYBhacTLo
死ね!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
多くの日本人にとって宗教は「必要のないもの」という感覚が共有されているように思う。
しかし、本当にそうだろうか。
あるいは、「宗教は必要のないもの」という認識が宗教問題について冷笑的な態度を生み出し、本当にその問題について考えることを無意識的に避けてしまうのではないだろうか。
もともと、この語源となるラテン語における「Religio」は、「(精神的な)深い絆や繋がり」を指す言葉であり、もしくは今日においても「Religious」が指すように「信仰深い態度」そのものを指す言葉として使われていた。今日における「○○教」といったような言葉は、単に「○○の弟子たち」あるいは「○○の後を追う者」といったような言われ方がされてきたし、日本においても「茶道」「武道」などの言葉に残るように「仏道」など「○○道」という言葉があてがわれていた。近代に入るまで「信じる」ということが、より実践的な行為と不可分なものとして扱われていたことがうかがえる。
私なりに「宗教」という問題が何を指すのかを考えてみるところ、それはおそらく「生き方(a way of life)」そのものなのだ。
このように言うと、「ならやっぱり必要ないじゃないか。現に私たちは宗教に頼らずとも、自分たちの生き方に不満がないのだから」と言いたくなるかもしれない。それもひとつの「生き方」だ。
しかし、もう少し俯瞰してみると、これには以下のような構造が見て取れる。つまり、日常生活においては必要のないものもいるかもしれない。しかし、自身の生きる目的や指針などが根底から揺らいだ時にも果たしてそうだろうか。宗教的契機は必要なときに必ずや立ち現れるものなのかもしれない。
少したとえ話をしよう。
人類史における長い間、「地球は平だ」とする見方が優勢だった時期があった。しかし、当時に生きる人々はそもそも、大半が一生を自分の村で過ごす農民だ。たとえ貴族であっても交流の範囲は限られていた。シルクロードを通じて、遠くから物品が運ばれてくるとしても、それは「遠くから運ばれてきたもの」であり、具体的にどのような道を通ったのか、その間に地平線を意識することもなければ、時差について説明する必要もあまりなかったはずだ。つまり、「丸いと考える必要がなかった」のだ。
しかし、時代は移り変わり大航海時代。領域国家なども生まれ、人々の交流範囲がどんどんと全地球規模に発展していった。その過程で、例えば「他国より手短にインドに行ける方法」を知らなければいけなくなったし、「離れた地域の人と連絡を取る方法」を考えなければいけなくなったし、「大規模な航海を行う必要」にかられた。その過程で、新たな発見を迫られ、徐々に「地球は丸い」という考え方が受け入れられてきた。
これは、地動説VS天動説にしろ、アリストテレス目的論VSニュートン力学にしろ、ニュートン力学VSアインシュタイン量子力学にしろ、パラダイムシフトというのは、往々にしてこのように「新たな問題に気付き、これを解決する過程で、認識全体が変容する」ことによって起こってきた。
宗教においてもおなじことがいえる。
つまり、「宗教」というものも、そのようにより深い、目の前の生計や、人間関係、さらには政治や技術、そういった問題を超えた「自分自身は何のために生まれて、何のために生きているのだろう」「この世界は何のためにあるんだろう」といったような問題に対処するための、プラグマティックな実践論といえる。
そして、「自身の生き方に行き詰ったとき」「自身の生き方を見直さなければならない時」に、必ずこうした宗教的問題に取り組む契機が訪れるのだ。
これは、「既存の伝統宗教や新興宗教は信じるに値するか」といったような問題とは異なる、より根本的な「宗教的契機の構造」の話をしている。その上で、「どんな信仰体系がその個人にとって意味があるのか」は、その個人のマインドセットや、置かれている社会的・文化的環境によって異なってくるだろう。もちろん、その人が置かれている社会的・文化的環境によっては、特定の信仰体系が反社会的であるとされることも容易に想定できる。それこそ、人々が宗教的契機に恵まれる、「自身の生き方の根底が揺さぶられるショック」を受けた状態に、巧みな言葉を投げかけ、献身的な信者を作ろうとする商業主義的宗教は、必ず唾棄されなければならないと考えているし、宗教のもつ「強固な集団形成力」が誤った方向に向けられ多くの不幸を生み出した事例は人類史を見ても枚挙にいとまがない。伝統宗教に価値を見出すとすれば、それは「長年生き残ってきた風習」であることに意味を見出す保守主義的観点からだと言えるかもしれない。いずれにしても、それが「生き方」の問題である以上、ひとりひとり、さらに状況によっても異なって当たり前だし、多様な実践が見られて当然だろう。
「宗教は我々の生き方(a way of life)を根底から見直すときに必ず立ち現れる根本的な認識論であり実践論である」
この遊行女婦は宮仕えの男性を相手にした、教養を持った売春婦とされている
もともと、遊行女婦は女性だけで組織されていたのだが、いつの間にか男性に支配され、今で言う管理売春組織になった
なので、管理売春された売春婦を当時遊女と表現していても、現代人が遊女と呼ぶのは間違いだと考えている
言葉は悪くとも、吉原などの遊郭や飯盛旅籠で働いていた女性は淫売とか女郎の方が適切だろう
ただ、残念なことに世の中そんなことを知っている人はあんまりいない
吉原で太夫とか花魁という言葉がいつ使われていたのかも知らないと思う
知らないなら使うな、とは言わないけれど、知ろうとしてほしいと考えている
そして、知ろうとするきっかけは沢山あった方がいい
「本当のぼっちなので学食で一人で食ってるww」→「エンカ!🍻」
「弱者男性なので女に一人も相手にされない」→体面に女性がいるカフェの写真
「ブルーアーカイブしかやってない」→「友達と大会出てXXX入った!」
俺も友達作ろうとしたんだけど全くできない
ほとんど数分で切断され、誰とも仲良くなれない
本当に何もなかったのでエピソードがないが、5chで1回だけ晒されていた(しかも晒しすら誰にもレスされていなかった!)
自分はゲームのパーティー募集に参加して友達を作ろうとしていた、何度か募集に応じて何とか通話に漕ぎつける
その後2回ほど通話してゲームしていたんだが、相手が引いてるときになぜか後ろの人を蘇生しようとして呆れられる
さらにスモークの位置がおかしすぎてキレられ、抜けられる→その後ブロックされる
イラストを上げながら、配信の感想をつぶやき、同じファンをフォローしていた
しかし半年間たってもフォロー300/フォロワー0で友達どころかFFすらできない
その後、お絵かきスレで「半年イラスト上げてもフォロワー0なんやが」みたいなスレを立てて、フォロワーが6になる
本当に友達ができない、ツイッターを8年ほどやっているが累計のフォロワーが200にも満たない
その上小中時代は先生に嫌われており、テスト満点で挙手しまくっても成績が〇(3段階中2)や4-3(5段階中)だった
思えば中学時代や高校時代、ずっと授業中寝てたり、約束破りまくるやつばかり友達がいたり、先生から気に入られていた気がする
社会へのコストだけ(勤勉な労働や勉学)ばかり支払って、リターン(友人や収入など)を一切得られないような人生が続いている
みんな俺には見えない何らかのチャネルを用いてコミュニケーションを行っているのか?
本当にどうすればいいんだろう
友人をリターンと表現している部分にやたら噛みつかれてるけど、「頑張っても何も嬉しいことがない」、ということをちょっと変わった面白い文章にするためにそう表現したに過ぎず、他者に時間や労力を使ったら自動的に友好関係が結ばれるべきという価値観の表出ではない
またなんか言われてるけどリアルではこんな変な表現はしない、ネットの匿名コミュニティで文章を伸ばすためにはツッコミどころや変な表現を混ぜると良いという経験から変わった文章を出力しているだけ!
エンカとは?
鯖と錆が読みも漢字も似ているのなんでなんだろう
語源が同じなのかな
ぐぐりましょうね
こういうときは漢字の「鯖」の語源と大和言葉の「さば」の語源の両面から攻めないといけない
さば
→小さい歯を意味する「小歯」「狭歯」という説、あるいは多数で群れをなすことから多いことを意味する古語「サハ」が濁音化して「サバ」になった説
→いわゆる「わびさび」の「さび」と同じ語源か、すなわち古びたものを意味する「寂び」、これをさらに遡ると「荒び」
うーむ、「さば」と「さび」で音が似ているのは偶然と
じゃあ「靑」のつくりが「さば」みたいな読みをするのかな?……って、それはない
音読みの音が似ているならともかく
音読みなら「セイ」と読みたくなるわな
そうか、この疑問って「似た漢字の音読みが似るのはよくあるというか当たり前だけど、似た漢字で訓読みが似るのは珍しい」という発想から来たものだったのだなあ
銅が錆びると青くなるから「錆」……と思いたくなるが、どうもその説は薄そうだ
元々は金属の澄んだ音を表す漢字だった?澄んだ様子を表す「靑」が「金」とくっついた漢字ということか
それが日本で誤用されて金属の酸化したアレを指すようになったという説か←なぜ誤用されたのか?ここの疑問を掘るのも面白そう
じゃあ鯖の方の成り立ちはなんやねん
もともとは魚や肉を混ぜて煮た料理を「鯖」としていた?なんか怪しいサイトばっかでてくるな
それがサバが青々とした魚だから「鯖」という漢字をあてた……ということらしい
両方ともたまたま青に連想される性質を持っていたからってこと?
まとめると
「さば」と「さび」の音が似ているのは偶然
「さば」と「さび」の両方がたまたま青っぽい性質を持っていたから「鯖」と「錆」の漢字があてられた←「錆」の説明を端折りすぎだろ
こういうことって結構あるんだよな
なんか関連のありそうな二つの言葉の語源を調べたら全然違うってこと
「偶然なわけない、釈然としない」と言う気持ちを「偶然だぞ」と説き伏し組み伏せるパワーが必要になる
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あーそうだ、「青」じゃなくて「靑」なのは何故なのかって視点での調べ方はしてなかったな
「靑」が使われてある程度日本でメジャーな漢字は画竜点睛の「睛」くらいか
鯖と錆でつくりが旧字の青なのは同じ理由があるのか?という疑問文を作ることが出来るか
これも偶然くさいなあ(未調査)
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おすすめエントリに出てきた「帝王切開の語源のややこしさの話」って日記がおもしろかった
語源を調べるのが好きって人はやっぱそこそこの数いるんだな
「悪戯が好きな醜い妖精」の総称としてゴブリンとか、その中でも家事をしてくれたりするものをブラウニーとか呼んだりするが、ブラウニーのバリエーションとして「ホブ」という連中がいて、それがのちのち「ホブと呼ばれるゴブリン」ということで「ホブゴブリン」と表記されたのだろうと思われる。
ゴブリンは、ヨーロッパ各地の民間伝承に登場する、小柄で醜い、恐ろしい生き物です。中世の物語で初めて言及され、起源となる物語や国によって、いたずら好きな家事妖精から、悪辣で残忍な泥棒まで、矛盾するような能力・気性・外見が与えられています。彼らはしばしば、妖精や悪魔のように、変身などの魔法的な能力を持っています。類似する存在には、ブラウニーやドワーフ、デュエンデ、ノーム、インプ、レプラコーン、コボルドなどがいますが、より一般的に小さな妖精の総称としても使われます。
ブラウニーは、スコットランドの伝承に登場する家事妖精またはホブゴブリンで、夜になると家の所有者が眠っている間に出現し、さまざまな家事や農作業を行うとされています。家の人々は、ブラウニーに対して通常、炉辺にミルクやクリーム、または他のいくつかの供物を置いておかなければなりません。ブラウニーは怒りっぽく、侮辱されたり、何らかの形で利用されたと感じると、永遠に家を去ると言われています。ブラウニーはいたずら好きで、怠け者の使用人に罰を与えたりいたずらを仕掛けたりすると言われています。怒らせるとボガートのような悪意のある存在に変わるとも言われています。
ホブ(hob)は、イギリスのミッドランズ地方、北イングランド、およびアングロ・スコティッシュ国境地帯の伝統的な民間信仰における、小さな神話上の家事妖精です。彼らは家の内外に住むことができました。彼らは農場で働き、したがって役立つこともありましたが、怒らせると厄介な存在にもなりえたと言われます。
この「ホブ」の由来には二つの説がある。
まずは、英語の「ホブ」は「暖炉で食べ物を温めるための棚」を指しているので「暖炉のそばにいるもの」「家に棲み着くもの」といったような意味だという説。実際にホブ(あるいはブラウニー全般に言えることだが)の伝承は暖炉との結びつきが強く、たとえば仕事の対価として暖炉のそばにクリームを置かねばならないだとか、普段は暖炉の上の梁に座っているだとか、そういった逸話が残っている。
もう一つは、「ロバート」「ロビン」の愛称だというもので、日本でいうと河童に「太郎」という名前をつけるみたいなノリかはわからんが、神秘的なものにありふれた名前をつけることで恐ろしさを薄めている、あるいは親しみやすい名前を与えてご機嫌を取っている、という説。
たとえばイングランドの有名な妖精として「ロビン・グッドフェロー」がおり、これはシェイクスピアの『夏の夜の夢』では「パック」という妖精の異名の一つとされ、同時に「ホブゴブリン」であるとも書かれているが、その名前を直訳すると「いい奴のロビン」といった意味になる。しかしロビン・グッドフェローは陽気でおしゃべりだが、悪戯好きでよく人を困らせるので、単純な「いい奴」ではない。「ホブ」の由来である「ロビン」とはロビン・グッドフェローのことではないか、という説もあるが確証はないようだ。
「パック」はまた「グッドフェローズ」または「ホブゴブリン」と呼ばれることがあり、そして「ホブ」は「ロブ」または「ロビン」と呼ばれることがあります。これは「ロビン・グッドフェロー」というキャラクターの名前にまでさかのぼります。名前の「ロビン」は中英語に起源を持ち、古フランス語の「Robin」から派生しており、「Robert」という名前の愛称です。それは妖精を表現する際の「グッドフォーク」と同様に、妖精たちが悪戯好きでありながらおだてられやすい性格であることを利用しようとする、ある種の願望的思考と懐柔の試みを反映していました。
ともあれ、「ホブ」「ゴブリン」「ブラウニー」「パック」「ロビン・グッドフェロー」などは、もとは別々の存在だったのかもしれないが、それぞれ共通する性質を持っていて、次第に同一視されるようになっていった、ということではあるらしい。
日本のインターネットでは、しばしば「ホブとは善良という意味である」あるいは「ホブとは田舎という意味である」といった言説が見られるが、せいぜい「ホブというありふれた名前は田舎っぽい感じ・朴訥として善良なイメージを想起させる」というくらいのことであろう。「神秘的なものにありふれた名前をつけることで〜〜」というあたりの話を拡大解釈したものと思われる。まあ、指輪物語以降の現代的な「ゴブリン」のイメージからすれば、悪戯で済ませてくれる妖精は確かに「善良」と言えるかもしれないが。
ついでに、「ホブは古英語で大きいという意味」とか逆に「小さいという意味」といった言説もあるが、「Hob」の語源を確かめてみてもそのような事実はなさそうだ。
コメントで皆さんのイチオシ街路樹をいただいたのでいくつか返信兼紹介。
近所には植わってないけど隣県に行った時に見た。葉っぱもインパクトあるけど根本のみょんみょん(托葉というらしい)も趣深い不思議ちゃんな樹。
樹形と樹皮からなんとなくおじいちゃんな雰囲気がある樹。葉っぱの根本にダニを飼っているという技巧派。アボカド植えたブクマカいて笑ったけどアボカドはクスノキの仲間なんだって。
去年11月に神宮外苑で見た。白い花が可愛いらしいので花の時期にもう一度見たい。再開発後も残っているといいなあ。
樹皮がツルツルなのでこの名前。漢字で書くと百日紅という通り、ず〜〜っと花が咲いてる。街路樹より庭木として人気だと思う。
食べられる実がなる樹ってウキウキするよね(管理コストは爆上がりだけど)。旅行先で買ったヤマモモジャム、素朴な味で美味しかった。
木に圭で桂と書くから、昔から愛されてきたんだろうなと想像する。
フウと並んで紅葉が美しい街路樹。樹皮がぼろぼろなので一瞬心配になるけどそういう特徴の樹。カエデ属は羽の生えた実がなる。
街路樹街路樹と言われるけどそれぞれに名前があって姿形も違う。関東在住の増田がよく見る街路樹を紹介する。リンクはWikipediaに飛ぶ。
一青窈の曲のせいでなんとなく日本の樹っぽい感じがするがじつはアメリカ原産。「薄紅色の〜」というが、街路樹で見かけるのはだいたい白い花な気がする。春と夏の間くらいに咲く花は可愛らしいけど、樹皮は結構無骨。排気ガスに強く、実も小さくて散らからないから街路樹によく採用されるらしい。
近縁種に日本原産のヤマボウシがある。こっちは実が大きめで食べられる。
実が山伏が着けているポンポン(鈴懸)に似ているからこの名前になった。スズカケノキの仲間(別名プラタナス)の中では一番植えられているらしい。
まだらに剥がれる樹皮が特徴的なので葉が落ちた冬でもよくわかる。3裂した葉っぱが落ち葉になった後も可愛い。
「生きた化石」とも言われる世界最古の樹木。増田は長らく葉っぱの切れ込みの深さでオスとメスが見分けられると信じていたが、最近関係ないと知ってショックだった。
葉っぱが落ちたあともワイルドな樹皮がカッコイイ。かなり大きくなる木なので、街路樹だといわゆる「丸太剪定」されているイチョウが多いのが残念。熊本城に生えているイチョウの巨木が見事だった。
増田イチオシの街路樹。「けやけき(一際優れている)木」が語源である通り、ほうき形の樹形となめらかな樹皮がとても美しい。
一方でちゃんと手入れをしないと樹形が乱れやすいので、けやき通りを美しく保っている剪定業者は尊敬する。
通勤途中、季節とともに移ろうケヤキ並木を見て、今日も頑張ろうと毎日元気をもらっている。
植え込みでおなじみの低木。花期になると葉が見えなくなるほど花がバカスカ咲く。子供の頃ツツジの蜜を吸った経験のある人は結構いるかもしれないが、毒があるのでやめたほうがいいらしい。
漢字で書くと躑躅。空で書ける人どれくらいいるんだろうか。最近暑すぎてだんだん花期が早まってきている印象がある。
新しく開発された地でよく見かける常緑樹。植木屋さんによると、すぐ大きくなり安いので業者側が植えたがるらしい。シマトネリコが植わっているとなんだかおしゃれな雰囲気になる。
ただ元々は暖かい気候の樹なので、関東の冬は少し寒そう。沖縄の公園で見たシマトネリコの樹は生き生きとしていた。
いわゆるモミジ(カエデ属)とは別の仲間。でも葉っぱはモミジの形だし紅葉もきれいなので、この樹をモミジだと思っている人は多いと思う。そもそも「モミジ」も分類学的な定義じゃないし、美しければいいのだ。
別名アメリカフウといい、千葉県松戸市には「あめりかふう通り」がある。もちろん全然アメリカンではない。
北海道に多い街路樹。明るい黄緑の葉っぱがきれい。北海道は他にもポプラやナナカマドなど、関東ではなかなか見られない街路樹が目白押しだ。
旅行に行ったときは、街路樹に注目してみると自分の住んでいる地域と違うものが植わっていたりして面白い。気候だけでなくその時期の流行りなどもあるので、少し足を伸ばすだけで近所にはない街路樹に出会えるかもしれない。
御台所(みだいどころ)は、大臣や将軍家などの貴人の妻に対して用いられた呼称です。奥方様の意で、「御台」や「御台盤」とは身分の高い人の食事を載せる台盤を指します。
江戸時代においては、主に江戸幕府将軍の正室の呼称として用いられていました。周囲の者からは「御台様(みだいさま)」と呼ばれました。
「御台所」の語源は、元々「台所」とは料理を盛り付ける場所だったことにあります。そして、「台所」で料理の盛り付けを仕切る、屋敷の主人の妻のことを「台所を取り仕切る人」ということで、丁寧な意味になる「御」をつけて「御台所(みだいどころ)」と呼ぶようになったと言われています。
まさに正義の味方という感じがする。
Justic(正義)とJust(公正)って語源もいっしょだしなあ。
法曹とは違ってどっちか一方の勝利とかなくて、政治と違って利権も関係ない。
https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2023/dec/231227_tokubetucyosakekka.html
Simple question - if the roles were reversed, would Brittany Alkonis be championing the person who killed her familiy members getting the same favoritism her husband has received?
立場を逆にして考えてみましょう。もし米兵の家族が殺されたとして、犯人が特別扱いされたとしたら、米兵の妻はそれを支持するでしょうか?
Brittany Alkonis would never have conducted a shakedown that would make the Yakuza proud.
That's what this "aggrieved family" did. This was all about the benjamins for them. Don't be fooled by crocodile tears.
仮にそのような状況になったとしても、米兵の妻はあんなヤクザも誇らしく思うようなゆすりはしない。
それが「被害者家族」がしたことだ。結局はカネが目当てなんだよ。偽物の涙に騙されてはいけない。
https://twitter.com/mrjeffu/status/1749643059133092165
えこひいき(不可算)
徹底的捜索
間に合わせの物で作る寝床
〈米話〉〔脅して金品を奪う〕ゆすり
形
苦痛を抱えた、悲嘆に暮れた
虐げられた、不当に扱われた
名
《the ~》苦しめられる人、被害者◆【反】aggriever
〈米話〉100ドル札◆【語源】100ドル札にベンジャミン・フランクリンの肖像が印刷されていることから。
うそ(の)涙、見せかけの涙、空涙、うそ泣き◆【語源】ワニは人間をおびきよせるためにうその涙を流すと言い伝えられている
・He was crying crocodile tears at his wife's funeral. He killed her because he wanted the insurance. : 彼は、妻の葬式で見せかけの涙を流していた。彼は、保険金目当てで彼女を殺したのだ。
ゴジラ-1.0、アカデミー賞視覚効果賞ノミネートおめでとうございます。
アメリカでの公開当初、最大瞬間風速でジブリが一位、ゴジラが二位をとったんでしたっけ。ロッテントマトの評価も高く、米国で公開された非英語映画としても興行収入で歴代5位となり、世界興行収入1億ドル超え、圧倒的公開映画館の差にもかかわらず興行成績でディズニーのウィッシュに迫りそうな勢いのようです。
海外の反応を読んでいると、人間ドラマパートがよくできているという意見をよく見かけます。トラウマからの克服、家族の再生の物語……。アメリカ人には伝わってないんだな、そして、伝わらなくてもいい、それぞれ受け取り方が違ってもいい、良い映画なんだなと改めて思います。
海外で意識高い系の厄介オタクが解説とかしないんでしょうか。ゴジラ70周年にふさわしく、放射能に始まり放射能に終わる、眼に見えぬ脅威が全面に出てたゴジラ映画だと思いました。
以下は私が受け止めた個人の感想なので、間違ってても笑って流してください。
生きて、あらがって、終幕のあとたぶん二人はすぐに結婚するでしょう、でももう二人は永くはない。井伏鱒二を知る日本人にはそれがよく見えるが、海外の人には見えてない。最後の映像であえて映された典子の首筋の黒い瘢痕、そして黒い雨を浴び、あれほど高濃度の放射線の発生源に降下した敷島。熱戦発射時のゴジラなんてチェルノブイリの象の足みたいなものでしょう。たぶん健康で生きていられる時間はふたりともそう残されてはいない。
たぶんあのあと、二人を亡くしたアキコは澄子さんとともに生きていくことになる。
保護者がいてよかったと思います。そして圧倒的な災害下における我々日本人の『もちつもたれつ』『困ったときはお互い様』のこころを描きたかったのかなとも思います。
ラストで悪しきものの復活を示唆するのは、ジュラシックパークなんかでもよく見たモダンホラーのテンプレですが、あれは気づかない人向けラストでしょうか。わからない文化圏、教育的素地の人にはあのモダンホラーのテンプレがラストとして機能するのかな。でも、病室のシーンで永くはないであろうことが“わかって”しまう我々には、その二人の余韻だけでもうなんかこみあげてくるものがあってたまらない。あえて首筋をじっくり映してたあたり、監督の意図はあきらかにそこにあったのではないかと思います。
全然関係ないけど25才ぐらいのとき、新聞社の仕事で特攻隊員の生き残りの人にインタビューしたことがあります。正確には予科練生。特攻に出る前に終戦になり、広島に帰ったら家も親も何一つ残ってなかったと言っていました。予科練で、次に特攻に行く人はもうだいたい訓練生のなかで決まっていて、誰が行くか!って上官が問うたときに、行かないひとはみな一歩下がる。だから行くと決めた人だけが前に出る(残る)形になる。行くか、と問われて、皆の前で行かないなんて言えるはずもない。だから実際のところ、志願と言いつつ本当の志願ではないのだと。
……このあたりはどの本でも読んだことがないからたぶん現場にいた人のなまの声じゃないでしょうか。私は聞いただけで、実際のところの真偽はわかりません。
それでも本当の志願でなくとも、『米軍が本土にきたら男は殺され女は犯され女も子供もみんな死ぬ。どのみちみんな死ぬなら、自分たちが止めるしかない』という決死の思いは共通でみな持っていたのだと言います。
映画のパラシュートは、脱出ポットに言及された伏線とコックピットを見た橘さんの目線からそうくるだろうなと思ったけれども、実際のところあの時代に実戦配備されて、パラシュートで敵陣の海中に降りても無意味だろうなとも思います。引き上げてくれる味方がいなけりゃ100%溺死するだけだろうし。人間魚雷回天とおなじく(靖国神社の遊就館で見られます)非人道的な武器であり思想であるけれども、『自分たちが止めるしかない』というかつての予科練生の想いは、そのまま劇中の『誰かが貧乏くじをひかなきゃならない』という秋津さんや元海軍の皆さんの言葉につながります。
そういえばyoutubeで見られるんですよね。当時の米軍が記録していたと思われる神風映像。私は見るたびに泣いてしまいます。
https://youtu.be/yN-zEpXwf4s?si=stYhOmHLazLrLV0o
ちなみに『男は殺され女は犯される』という言葉、戦時日本のプロバガンダだと思いきや、20世紀末に旧ユーゴスラビアで実際に起こりました。民族浄化っていいます。その後もコソボなどで起こりました。語源は第ニ次世界大戦中だとも言われています。
インタビューをしたあの方は、まだご存命でいらっしゃるでしょうか。もう亡くなられているのかな。連絡先ももうわかりません。
特攻隊や特攻隊員がゴジラと同じくフィクションの世界に住人になっていく。
でも、『自分たちが止めるしかない』『誰かが貧乏くじをひかなきゃならない』と生き方を決意した方々がいらっしゃったからこそ、今の我々が在る。
大戦後、ビキニ諸島での原爆実験を経て産まれたゴジラが、福島第二原発を経て70周年にこういう形で結実する。素晴らしい映画を映画館で見られてよかったなと思います。世界的な興行成績の成功もおめでとうございます。