はてなキーワード: 球技とは
早生まれで学年の中では体つきが小さく、割と性格もおとなしい方だった。出身は関西の田舎の方にある小規模の都市で、中学だとクラスに何人かはヤンキーがいるようなところ。そういう土地だと、体が大きかったりスポーツができたり、ハッタリでもいいから悪ぶってたりする人がとにかく幅を利かせているから、自分みたいなタイプは割と居場所がなかった。あと、子供はほとんど全員が小学校まで、野球かサッカーのチームに入っている(地方の人はわかると思う)けど、自分はより田舎の郡部の村から小学低学年の頃に引っ越してきたこともあり、どちらも入っていなかった。こうなるととにかく居場所がないし、舐められるし、劣等感ばかり募る。
生きる術として、絡まれにくい目線の外し方とか、自虐とかで笑いをとる最低限のコミュニケーション能力があったから明確にいじめられたことはなかったけど、ヤンキーだけじゃなくてたくさんの同級生に舐められてるな、と思うことは何度もあった。中学では運動部に入ってないからとか、体が小さいから、悪ぶってない(学ランの第一ボタン、第二ボタンを外してない)から、というのでよく下に見られることが多かった。高校では偏差値が上位の公立校に入ったのでヤンキーはいなくなったけど、場の雰囲気は変わらないどころかもっとみんなマウンティングし合ってるような感じになった。高校では、球技が苦手で球技大会とかで活躍できないことも理由に加わって、見下されたり、ということが多かった。気にしすぎなんだと思うけど。
その後、大学から東京に上京してきて、就職して今に至るが、いまだに当時の価値観や劣等感を引きずって幸せになれない。誰かに見下されてるな、とか舐められてるな、という感覚に異常に敏感で、常に頭の中で憤ってしまう。そうじゃない人から見たら本当にバカだと思われるだろうけど、頭の中で常にいろんな知り合いが自分を見下して馬鹿にして、それに何も言い返せなくてもがいている感覚。
東大を出て公務員系の仕事についたから、お金はないけど会社の名前はインパクトがあるということで、高校とか中学の地元の元同級生と、誰かの結婚式とかで再会すると、同じ価値観を引きずってると思しき人からちょっと卑屈な感じで言葉をかけられたりすることがある。「おれはちょっと勉強舐めててサボりすぎたわ〜」とか、「お前の職場なんか天才ばっかりなんやろ?」とか。逆に同じ東大に入った別の地元の同級生からは、よく海外出張に行ってることを自慢げに話されたりすることもある。(そんな小さなことでマウンティング合戦をするのが当然の価値観の中でみんな育ってきたのだ)
高校までそればかり気にして生きてきたからか、誰かが誰かを見下すとか見下されるとか、そういう価値観が本当に苦手で、そういう言動に触れると本当に嫌な気持ちになってしまう。自分のおとなしい性質が地域の雰囲気に全く合わなかった結果の不幸だと思っている。
また、他人の言動を聞くよりももっと嫌なのは、内心では自分もその価値観(人を上とか下で見る価値観)にどっぷり浸かってしまっていて、地元に残った元同級生で、昔は威張っていた人なんかを、心の中で無意識に見下して溜飲を下げようととしているのを感じる時。
とにかく人と接するとそんなことばかり延々と気にしてしまうから、とにかくコミュニケーションを取るのがほとほと嫌になってしまった。どうすればいいですか、神様。
俺が小2から小3まで握り続けた雲梯は土台ごと消えていた。雲梯なんて危険な遊具が今日生きながらえることなど土台不可能なことなのだろう。なんせ雲梯には高さがあり、背中から落ちると呼吸が一時止まる。俺自身1年間で2度止まったのだから間違いない。
それにとどまらず、滑り台も随分コンパクトになり、バリアフリーのスロープかと見間違う。遊び方が最後まで分からんかった丸太組の三角形も無い。代わりにこれまたよく分からない、ねじれた綱が置いてある。精々2m四方のねじれた綱で何をしろというのだろう。
ずいぶんシンプルで、システムエンジニアから見るとトラブルのない理想の公園だろうが、球技もできない50m四方はあからさまに味気ない。うん、俺が押し付けられた複雑怪奇なC++/CLIのシステムも、こんな味気ない公園に比べれば可愛げがあろうというものだ。
雲梯で鍛えた割にはあっさりと夢を手放してしまった手を少し握り、サニタイズされた50m四方の心の虚を胸ポケットにしまいこんだ。
詳らかに書くと万一加害者にこの増田を見られた時に身バレの危険があるからざっくりとしか書けないのが残念だ。
俺はその部活内で虐めに遭っていて、加害者はその虐めの主犯格の一人だった。
性被害に遭った時はたまたま俺と加害者だけが部室に居合わせてしまったんだよね。
俺が着替えてたら加害者が勃起したペニスを露出しながら近づいてきて俺にそれに触るように促した。
俺は当時苛烈な虐めに遭っていたせいで無気力状態だったので嫌々ながらも特段抵抗もせず加害者のペニスの先に触れた。
ヌメっとした感触がとてつもなく気色悪かったのをよく覚えてる。ダラダラに濡れてたんだよな。今でも思い出せるよ。
それで加害者は満足したのか、それとも発覚を恐れたのか、あるいは両方かもしれないけど俺に強く口止めして行為は終わった。
俺は校舎の玄関口の脇にある水道で何遍も何遍も繰り返し加害者の性器に触れた手を洗ったよ。
それから俺に不思議な現象が起こったんだよね。後遺症と言ってもいいかもしれない。
増田の場合は男性に対する恐怖心と女性に対する性的モノ化が強迫的に発現したみたいだけど、俺はそれとは全く違う現象に見舞われた。
俺は自分が同性愛者なんじゃないか?っていう疑念に苛まれたんだよね。
もちろん俺は同性愛者ではないはずなんだけど、同性からの性被害体験を経て以降の俺は、事あるごとに自分が実は同性愛者なんじゃないか?という疑念を覚え苦しめられた。
こういうことを書くと同性愛者に対する差別感情を疑われるかもしれないけど、そんなものは抱いたことはない。
ただ異性愛者だと思って、というかナチュラルに異性愛者の世界観に馴染んで生きていた自分が暴力的で未知の同性愛的行為を受けて懊悩し、苦しんだってことだと思う。
実は俺は自分が同性愛者なんじゃないかという疑念に一時期屈服して女性ホルモンを服用していた時期さえあった。
それは10代後半の一時期のことだったけど、某個人輸入代行業者を利用して女性ホルモンを服用していた。あまつさえ母親に「俺はゲイだと思う」とカミングアウトすらしてしまった。
でもさ、この時期もそうだし、なんなら今に至るまで俺は一度も”男で抜いたことがない”んだよな。当時の俺がどれだけ倒錯していたかわかるよな。女に興奮して女でオナニーしてる癖に自分はゲイだと確信して女性ホルモン服用して母親にもカミングアウトしてたんだよ。完全にどうかしてた。
そんな俺の妄信を解いてくれたのが意外なことにWikipedia先生だったんだよね。
ゲイになっても(便宜的にこう表現するけど後天的にゲイになるということはあり得ない、はず)なお過去の性被害に苦しめられていた俺はGoogle検索で「少年 性被害」とかそんな感じの検索ワードで検索を試みた。たぶん。正直ここら辺は記憶が曖昧。「少年時代 同性 性被害」とかだったかもしれん。
それで検索結果に表示されたこの記事を読んで俺のゲイという性自認は倒錯だって気が付けたんだよね。
具体的にはこの部分だね
加害者が男性の場合は男児が同性愛であれ異性愛であれ自分自身の性的指向や性的同一性に危機をもたらしやすい。
この疑問が激しくなりやすいのはどちらかというと異性愛の男性である。さらに、虐待時どれだけ自分の性的指向と性自認について自己認識がはっきりしていたかを考慮すると、この問題に関する議論はさらにややこしくなる。かなり低年齢の場合性自認に疑問を持つことが多いが、ある程度年齢が上がり性自認の自己認識がはっきりしてきたときであっても、今度は性役割のほうに不安を持ったりもする。たとえ性自認が安定していても、自分が主に同性愛か主に異性愛かがよく分からないときに虐待を受けた場合には自分が本来的に同性愛か異性愛か両性愛かとか様々に疑問を持ちやすい。
性的虐待を受けた男児が必ず同性愛者ではないかという誤解は本人と社会に共通のものだが、これは誤解である。だが性的虐待を受けた男児は異性愛であっても、被害を受動にし、同性愛に結びつけた結果として自分自身の性的指向の認識に著しい混乱をきたす。虐待の最中に勃起や射精が起こった場合、この混乱はより激しいものとなる。ペニスを挿入され前立腺を刺激されれば本人がどんなに嫌だと思おうと勃起する事が多いのであるが、こうした常識が日本に浸透しているとは言いがたい。
こういった性的虐待の場合には性的指向のセクシュアリティが揺らぐことが多いが、これは本人に激しい苦痛を与える。だが、性的指向を二分法で捉えがちな社会の常識に反し、実際には性的指向のセクシュアリィは複雑で多層的であるとアルフレッド・キンゼイは主張した。
俺は被害当時13歳で、かなりの低年齢ではないにしろ、自分が異性愛者である、という確固たる自覚みたいなものは持ち合わせていなかったし、オナニーだってしたことがなかったくらいに性の知識に疎く、言うなれば性自認が未分化な状況だった。
その様な状況下で鮮烈な同性愛的性被害を受けてしまったことで、俺はその後何年間も自分が同性愛者なのではないか?という疑念に苛まれる羽目になったわけだ。
ということで今では女性ホルモンも服用してないし完全に異性愛者っていう自覚を持ててるし母親にも気の迷いだったって説明することで解決を得てる。
俺は増田みたいに男性に対する恐怖心はあまり抱かなかった。幸いなことだったのかもしれない。でもその代わりに性自認が揺らぐっていう特殊な体験をした。
こうして増田の投稿にかこつける様な形で自分の性被害体験を語るのは本来あまり快いことではないかもしれないけど、もしかしたら俺みたいに同性から性被害を受けたことがきっかけで「自分が同性愛者なんじゃないか?」と悩んでる人の一助になるかもしれない、と思って書いてみた。
1位 野球
2位 サッカー
上位ふたつはまあ異論が出なさそうで、
バスケ、バレーボール、テニス、卓球と、青春球技しばりで某サイトがキャンペーンやってるんだけど、
球技だったらゴルフもそこそこ多そうで(青春系はさすがに少ない)、球技縛りを解いたら……ボクシング?
なんか資料あった。
https://blog.rcn.or.jp/highschool-clubactivities/
バトミントンとか、幽霊部員というかとりあえずって気がするけど。それか女子目当てとか?
現時点での連載作品で見たらまた違うだろうけど。
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%BC%AB%E7%94%BB%E9%9B%91%E8%AA%8C
ほんまにお前ら少年向けか? ってのが多数混じってる気がする。
20年分ぐらい上位4誌ぐらいで……みたいなの纏まってるとこないかなぁ
いや、そもそも少年とか青春とか関係なく漫画になってるスポーツの順位
これが知りたいんですが。
アラフォー独身男なんだけど結婚相談所に登録しに行ったら趣味の事で突っ込みが入った。
プロフィールの趣味欄にはサイクリング、登山って書いたんだけど、これはよろしくないらしい。
相談所の担当さんいわく、今まで紹介してきた男性で自分のような趣味の人間は仕事が嫌いな傾向があるという。
女性会員から「紹介してもらった男が想像したより稼いでないし、自分の趣味に金を使うので困ってる」と苦情があるそうな。
確かに自分は仕事中は早く休みにならないか死んだ目をしてるし、ボーナスは道具や旅費に消える。
同僚みたく鬼のように仕事をして「休日はやることないから家にこもってる」とか言って貯金ばかりしてる男のほうが、結婚相手としては理想なのかもしれない。
テニスなんかはお金が掛からないので良いでしょう ってお薦めされたけど球技苦手なんだよな。
つづき。
子どもが何で悩んでいるのか。これを把握するのが一苦労だということがとりあえずわかった。
まず、自分で説明などしてくれない。というか、まだできないのだ。
自分の感情に向き合い、起こったことをできるだけ客観的にとらえ、筋道立てて説明するなど小学生に期待するほうが馬鹿げている。
彼らは「眠い」を「あいつムカつく!なぜこんなにイラつかせてくるのか」と変換して伝えてくるような生き物だ(そこが可愛くもあり厄介でもある)。
どうなれば安定するのか、何を目指すのか、ということを親がああでもないこうでもないと探り続けていく。それしかない。
そういうわけで、各方面から色々探ってみて、今日ふと気づいた。
私が今まで一生懸命伝えてきた
「あなたと私は同じ人間で、対等で、お互いに意見を言い合う権利がある」という考え方と、現実社会の価値観が乖離していることが問題なのかもしれない。
いや、私なりに現実との折り合いの付け方についても話してきたつもりだった。
でもそれは単に「仕方なく折り合いをつける方法」でしかなく、同じ人間として誰とでも対等に付き合うという前提を崩すことなど考えなかった。
私の言ってることはある種理想論で、実際の子供たちの社会では、仲間意識がやたら強い子、
大人の理屈に対する言い訳をうまく用意できる子、年上・年下・男・女などの属性で対応を変える子、
相手の力量を推し量るのが上手い子などいろんな子がいる(彼らの個性を責めているわけでは決してない。念のため)。
その中で関係を築いていくには、私の教えてきたことだけでは不十分、いやむしろ「お母さんの言ってたこと全然違うんだけど・・・」と混乱させていたとも考えられる。
私は親にされて嫌だったことは絶対子供にしたくなくて、そこから出発して「じゃあ親の価値観に代わるものは何だろう」とか「とはいえ同居家族とのバランスも考えなくては」とかいうことでやってきた。
ただ、「既存の価値観を疑う」「新しい方法があればどんどんチャレンジする」が生きる理由なタイプの暴走しがちな発達障害グレーゾーンなので、このへんのバランス感覚がうまくいってなかったのだと思う。
てか、理由、私やんけ!となって、親という役割の業の深さを噛み締めている。
尊敬できる親に育てられて、その価値観をすこし現代風にアレンジするだけで大体のことがうまくいっちゃう魔法のような育児環境が2万円くらいで手に入らねぇかな~!!!とか思ってしまう(しかしもはやその人は私ではないだろう)。
「人権」とか「多様性」の概念の難しいところは、100%の正しさにたどり着くことが不可能なところだと常々思う。
より「正しい」と思える方を探して日々模索しているわけだけど、「誰の意見も否定しない」を一切例外を作らず遂行すると「レイシストにはレイシストの言い分がある」となって矛盾してしまう。
それに自分のやり方を日々ブラッシュアップし続けていると、まわりが停滞しているように見えてしまう。何世紀前の価値観だよ…と(暴走気味に)見下して優位に立とうとしたりしてしまう。
差別の芽はそこここにある。相手より優位に立とうとする気持ちと戦いつづけるのは簡単ではない。
それでも諦めたら終わりだ。特に、子供の前でそんなことは絶対にできない。
結局のところ大切なのは鈍感力とかテキトーさみたいなものなのだ。そのあたりで子供もつまづいている気がする。
いや、「気がする」とか言ってる場合じゃないな、私にできていないことを子供に求めてどうする。
私は頭の中が多動で注意欠陥なので鈍感力もテキトーさも掃いて捨てるほど持ち合わせているのだが、肝心なところでストイックさが顔を出してしまうのだ。
そしてたぶん、子供もその傾向がある。少なくともうちの兄弟の中で、あの子が一番その傾向が強い。
支援は必要だけど、特性をもつその人が「劣っている」ということでは決してない。
発達障害的な特性と向き合うとき、一番重要なのは二次障害に発展させないことだと思う。
だから今回のことはどうしても踏ん張りたい。
» 思春期は周囲の影響を受けながら一人の大人として自分を確立する時期です。仲間集団の役割は大きく、この時期の仲間関係のトラブルは大きな影響を及ぼします。思春期に見られる様々な問題行動に対応するには、子どもにとっての目標と背景要因を理解する必要があります。「両価性」は思春期を理解するためのキーワードです。
https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-03-002.html
このページで、不登校に関しては登校することというよりも、本人が何の問題に躓いているのか、どんな自分になりたいと思っているのかを把握し、それを実現できるように大人がサポートするべきだと書かれていた。
そうだ。うちの子は今、やり残していた宿題に取り組んでいるんだ、と思った。
どうも、今までわりとひとりで休み時間を過ごすタイプだったのが、最近になって友だちと一緒に球技に精を出すようになったようで、今回のことはどうもそれがきっかけであったようだ。
担任の先生との話でも出たのだが、これは本人としては相当がんばっているんだと思う。
しかし自分がスルーしてきた問題なだけに、どう取り組んだらいいのか手探りだ。
まあ明日になったら「あ、やっぱ違うわ」とかいって方向転換してるかもしれないけど。
おわり
例外的に、社会人になって少しの間スクールに通っていたことから、かろうじてテニスでダブルスのゲームっぽい「ボール遊び」ができる程度。
それで、具体的に球技の何が苦手なのか考えてみると色々あるけど、その中でも致命的な問題なのが、おそらく
だと思う。
バットやラケットを使う系の球技やバレーのサーブだと「手打ちするな」という注意はよく聞くし、投げる系の球技でダメな投げ方が「女の子投げ」と揶揄されたり、サッカーも利き足じゃない方の踏み込みはかなり大事と聞く。
で、ココらへんは全て体重移動の話なわけで、自分はテニスを習うまで自覚できなかった。
自覚できなかったので、とにかくどんな球技でもボールが全く飛ばず、結果学校の体育は筆記試験と水泳でスコアを稼ぎ、なんとか通信簿の評価1を免れる体たらくだった。
でも当時は足腰の使い方の問題であるとは気づかず、腕の使い方ばっかり気にしていた。
そして結局、打球でも投球でも最低限のお約束として、利き手の反対側の足を踏み込むのが大事ということに、後で教えられるまで気づかなかったと。
まさしく運動音痴の見本だ。
というわけで、どうにかフットワークの重要性に気づいたのだが、それでもなお
「足を踏み込んだときとそうじゃないときで、なんでこうもボールの飛びが違うんだ?意味がわからん」
という疑問を、長年抱いていた。
それがようやく最近理解できたのだが、わかってみれば結構簡単(高校物理でほぼ最初に習う、基本中の基本の話)だった。
要は、ボールに伝わる力は、身体で動かした部分の質量と加速度の積であり、加速度が一緒なら、力は質量に比例する。
だから手だけ動かすのと、足を踏み込んで体全体を動かしたのでは、実のところ腕の質量と体の全質量という大きな違いがあり、それがそのままボールの飛びの大きな違いになると。
運動エネルギーもまた公式の通りなので、ボールの速さだって断然違ってくると。
なんだよ、そういうことかよ、なんで誰も早く教えてくれないんだよーと思った。
とはいえ、得意な人は多分こういう小難しい原理的な話を知らなくてもできてしまうので、教えてくれというのは無理筋だよなあとも同時に思わされた。
この日記を見ていらっときた人、批判したくなった人、意見を言いたくなった人、どんな人が現れるかわからないが、深夜4時のテンションで日頃の鬱憤を吐き出したい。
お叱りの意見が来るのは承知である。あとで見返して大反省するのも承知である。
なぜかよくわからないが、周囲の人間に限ってはこの事実の例外を見たことがない。
友達のSは絵が上手くて自頭がよく化粧やお洒落はしていないが周囲から愛される。
友達のYは友だちが多い。また頭の回転が早く旧帝大に現役合格しており、吹奏楽部も幹部で頑張ってきたようだ。
友人のTも旧帝大に楽々合格して、運動神経も良い。ついでにルックスも良い
友人のMは友達が少なく勉強も苦手なようだが球技だけはずば抜けており、最近では趣味のイラストも上達してきている。
などなど
私も良い大学に合格したくて誰よりも努力した、少なくとも勉強時間でいうとクラスで一番だった。中学の頃は友達や恋人に囲まれてる人が本当に羨ましかったし、趣味のイラストだってずっと頑張ってきてる。
でも、なぜかできない。
何を頑張っても平々凡々にしかできない。そりゃあ、勉強だって高1の頃から居残りをして沢山やってたから、担任から一橋だって行けるんじゃないかって言われてた。周りがやってなかったから。でも、学年が上がるに連れて自分の偏差値は相対的に落ちていったし、何より効率よく勉強したはずなのに、一橋どころか地方国公立でさえ落ちた。今は胸を張って高学歴だとは言えない私大に在籍している。自分が頭が悪い自覚がなかった、周りが良すぎると思ってたし今も思っている。(受験について述べ始めるとキリがないが、政経はセンター対策の参考書を網羅したはずなのに、半分知らない内容だったし、数1A2Bだって自分の中では難易度の割によくできたほうなんじゃないかと思ってたら、平均点しかなくて絶望した、英文法も分厚い王道の参考書を網羅して自身があったのに某私大の英語では参考書にない知らない文法ばっかりでひっくり返ったし、受けた奴らは皆簡単だったと言ってて暫くTLも見れなかった。)
模試の度に反省をしてトライ&エラー繰り返してきたけど、受験を振り返ってみると圧倒的にやった参考書の量と勉強時間が足りない。の一言に尽きる。誰よりもやってきたはずなのに、自分がスマホを禁止している間スマホをやってた奴らのが成績が良かったのだ…。
私が記述数学対策を必死でやってきた中で無対策の友達に点数を好かれたら死ぬほど悔しくて、3日間睡眠と食事以外徹底的に勉強した(一日15時間以上)り、冬休みもネットやテレビを経って毎日14時間ぐらい無我夢中で勉強した
それでもセンターが近くなるに連れて周りの奴らが本気で勉強しだすので、自分の成績は上がりようがなかった、くそったれ
まぁ勉強は才能がなかったで終わり、今は就職のための新しい勉強をしているから学歴はもう良い、と最近は思う。まぁ、その勉強も受験勉強と同じく好きだけど得意なわけじゃないから就職してもできるやつに追い抜かされるんだろう。
んでもってさ、勉強以外ができるのかって言うと、違うのよ。
まず自分は圧倒的に仕事ができない。ケアレスミスが多くてレジ打ちなんてもってのほか。集中力がすごいだけで、一つのことに集中してはいけない接客業では圧倒的にハンデになる。マルチタスクがこなせない。何をやれば良いのかわからなくなってしまう。覚えたことがごっちゃになって、またそこでもケアレスミス。せめて仕事ができる人間だったら良かったのに
そして、受験が終わってから小学生の頃からずっと好きだったイラストをまた描き始めたがこれがまた成長しない。ネットで上手くなる方法を探してはトライ&エラーを繰り返し。デッサン模写も沢山やってるし、周りの友達は可愛いね、上手だねって褒めてくれる時はあるけど、上手い人と比べると圧倒的になにかが足りない。同じ18歳で絵の上手い人なんてゴロゴロいるけど、自分より絵描き歴が短かったり自分より圧倒的に描いてる枚数が少ないのにこのレベルかと驚愕することが多い。(自分は中学生の死ぬ気で絵を描いていた。)もうやだ、才能がない、辞めたい、過去絵みたら全部下手に見えてくるし、って思いながらも睡眠時間を削って大学の課題をする時間以外はずっと絵を描いている、3月から。(諦めたり、辞めたりしない、継続する根性は受験期に身についた)さっきも絵を描いていたけど、やっぱりちょっと楽しいと思う半面もう百枚以上は描いてるんだからそろそろ上手くなっても良いんじゃないかと思う。無念。
友達だって少ないし、人から愛されるような愛らしさや魅力もない。ツイッターで愚痴ると嫌われるから本性は出さないようにしてここで愚痴ってるし、中3から化粧の仕方だってyoutubeで研究してきた。見た目のコンプレックスだって拭えない。
最近よく何かがずば抜けてデキる人が本当に羨ましいと思うし、自分は何をするにも鬱になるぐらい、他の娯楽を全部我慢して睡眠時間を削るぐらいの努力をしないと”そこそこできる”のラインに到達できないのに嫌気が差してきた。
自分には何ができるのかわからないしなんの才能があるとも思えない。ちょっとかじっただけで何でもできてしまう友人が本当に羨ましかった。
一時期はこの人だって自分より努力してるかもしれないと思う時があったけど、そう思えないほど自分は精神的にも体力的も疲弊してるのに 相手のSNSでの楽しそうな投稿を見る度にこいつは自分より才能があるんだっていう認識に変わる。
これでも、頭が良くて友だちが多くて運動や音楽の才能がある多彩な人間ほどもてはやされた中学時代と違って、女子大生は才能がなくてもルックスだけ良ければちやほやされるから楽だ。自分は普通だけど。
以上、今日も徹夜でイラストの練習をしているがその合間に書きなぐった愚痴です。文章ぐちゃぐちゃ。大勢の人に見てもらいたいわけじゃないけど、深夜のテンションとたまには愚痴ってもいいよねってことで吐き出してみた。
おわり