はてなキーワード: 浪人生とは
http://anond.hatelabo.jp/20160930221521
へ。
僕も浪人生だし、同じように早稲田に落ちた。浪人していることとマイナスとか考えてしまうけど、こういうたぐいの考えは抱かない。僕の周りで遠くへ行ってしまって、地元を批判する人はあまりいない気がするし。それはそれで新天地と地元を比較する意欲に欠けて問題だって意識高い人に言われそうだけど。なんだかんだ遠くで大学生活送りつつも、地元もいまだに好いてる人が多い。
いい大学に行こうが行くまいが、そもそも大学自体に行こうが行くまいが、自分に属する属性を、自分が味わっている苦しみを知らぬもの─この場合は先に抜けた、か。─にああだこうだいわれて不快になる権利は十分にある。
それはそうと、たぶんこの増田の周りの問題って、浪人したこととかではなくて、周りの人が「地元批判」をしてるからってだけでなのではとかおもった。地元を批判されて腹立つって気持ちは、マイナスを埋める優秀さがあろうとなかろうと別に普通に持って良いものだと思う。自分らが新しい環境にいるからと言って、古い環境適当に馬鹿にすれば、そりゃあ馬鹿にされた方は怒る。べつに当然のごとくあって良いことだと思う。そして、怒って当然のバカにされ方をしたら、それを覆すような自分の利点を探したくなるのも、また自然だと思う。
大学に行った人は、現役で行こうと浪人で行こうと、「別のパラダイム」へと渡ったものだ。特に遠くの大学へ行ったもので、そこでの大学生活が大変楽しいというのならば、その時の「現在」を無条件に肯定し、それまでの自分、すなわちまだ「楽しい大学生活」となっていないものを否定しがたるということではないか。そして、かつての地元を、「古き批判すべきもの」の記号として消費しているのではないか。「商品は記号体系を表すだけで、現実を示してはいない。」消費者がキティちゃんという「記号」を消費するように、また古き悪しきものと、「別の環境に行けたもの」がやってるんだろうなあと思う。
でも、キティグッズが「現実からかけ離れたもの」であるのと同じように、この地元批判もまた、記号としての価値があるだけで現実的に地元に敵愾心があるわけでもないんだろうから、まあそうやって捉えて気にしないでおいて置くべきだと思う。「古き悪しきものの記号」としての批判であって、地元そのもの、「増田そのもの」への攻撃のつもりではないんじゃあないだろうかなあと思う。
昨年度は、東北大学の法学部に入学しようと頑張っていましたが、二次試験で不合格でした。
夏休みに、現役で大学に進学した友人たちが地元に戻ってきました。
数か月ぶりに会う友人たちは、大学生活のことを色々と話してくれます。
東京に進学していった友人は、地下鉄の何線が混んでいるとかなんとか言いながら、地元を馬鹿にしていました。
この話を聞くのが4月であったなら、悔しくて悔しくて友人に悪態をついていたと思います。
しかし、さすがに落ち着いたのか、話を聞いても悔しいという気持ちはなく、逆に、「来年はお前より良い大学に行くしなぁ」という感じで内心何故か優越感に浸っていたのでした。
振り返ってみると、どう考えても強がりでしかなく、悔しい悔しいと机に向かう方が健全であるように思います。
しかし、頭の中ではわかっているのに、そして事実浪人しているにもかかわらず、俺の方が優秀だという気持ちがぬぐえないのです。
浪人したことのマイナスを補う価値が俺にはあるという気持ちがあるのです。
この気持ちとどう付き合っていけば良いのでしょうか。
平日の昼過ぎ、カップルやイケイケの同年代などに囲まれて、君の名は。を観た。
友達がいないので、スマホを持っているがLINEもしないような人間が、上映前の数分間、覚悟してたが、それはそれは居心地が悪い時間だった。そもそも、あの新海誠の作品が一般に広く受け入られて大ヒットしていることを驚いたことが劇場に足を運んだ理由だった。
いままでそんなこと思ったことがなかった。
自分にとって中学校時代の漫画、アニメ、ゲームの"消費"は、いわゆるリア充である校内の主流派になじめない自分への言い訳だった。
「小2でラノベに触れてしまった。小3で深夜アニメにはまってしまった。小4でエロゲに手を出した。」だから「普通の人と私は違ってしまった」
本当はそんな因果はないのだが、そうしなければ自分を維持できなかったのだと思う。
いつもニコニコ気だるげな受け身の人間、関わってくる人を拒絶せず、自分からは他人に関わろうとしない。
そんな3年間だった。
高校に入学し、その言い訳はさらにひどくなった。"消費すら"を辞めたのである。理由は単純。そこそこ偏差値が高め、だがパッとしない私立高校へ入学したところ、周りにオタクであることを公言する人間が一気に増えたからである。
野球部イケイケしかしオタク。そんな奴がごろごろいた。もちろん世間から典型的オタクと呼ばれるような人間もたくさんいる。
最初はそんな彼らが羨ましかった。前者の人間だけでなく後者の人間すらも。みんな楽しそうにめいめい自分たちの感想を述べている。いままで自分が感じたものを共有することができず、何より他人と考えを共有しようともしなかった自分は彼ら彼女らが本当に羨ましかった。
しかし、交わることができない。そこでコンテンツの消費すら辞めた。
「私はテレビも見ない、本も読まない、一緒遊ぶこともないから出来事を共有することがない(高校から家が遠いことを理由に誘いはすべて断っていた)」だから「普通の人と私は違っている。なじめない。」
そんな考えのもと、他人が楽しそうに生きているのを見ることを趣味をしていた時期があった。
そんな高校生活前半だった。
後半は更にひどいものであった。部活の先輩に言われた言葉がきっかけである。
「○○(私の名前)って今この瞬間、この部の誰かが死んでも何も思わなさそう」
面と向かって言われて、確かにその通りと思った。実際、中学時代の同級生の通夜か葬式かに出た時も同じ部活の同級生だったが何も思うことはなかった。(中学時代の人間とは誰とも連絡先すら知らないような仲だったが帰り道に斎場があり、声を掛けられて出ることになった。)
自分はそもそも何にも興味がないのだろうとそれから思い始めた。
「私は何も楽しめない」だから「普通の人と私は違っている。なじめない。」
何もせずゆっくりと生きていた。
そのまま1年間の浪人生活に入った。人と関わりたくない自分は研究室は向いていない、センター試験後にそう思い絶対安全と言われた国立大学を落とした。浪人生活中にできる限り人と関わらずに卒業できる近場の大学と学部を探した。ゼミ無しで卒業できる文系学部に現役時とほぼ変わらない成績で入った。
親の金を浪費し、予備校までの電車を終点から終点まで行ったり来たり、本を読んで過ごした。そもそも行ってないのだから、当然、予備校の人間に知り合いは一人もいなかった。
ただ自由な時間ができたことで再び漫画、アニメ、ゲームを楽しむことができた。
大学に入った、予定通り人と関わらず過ごしている。
バイトも役を演じればよい塾講師、友達も作らず、飲み会など行ったことなどない。
とても満足していた。
大学を卒業したら家を出て一人で静かに暮らすのだろうと、そのうち専門業者とでも契約して死んだ後の処理をしてもらえるようにして適当に暮らそうと、そう思っていた。
それが「君の名は。」を見たときに自然と「青春をしたかった」と思ったのである。
君の名は。を見て感じたのだからだれか他人を求めているかもしれないが、そもそも家族にすら演じている自分を見せている自分が何ができるのか。人との付き合いの方法など分からない。
どうすればいいのか。どうすることもできないのか。誰にも聞くことができない。聞き方すらわからない。どうすればいいのか。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160713-00002526-besttimes-soci
ホリエモンこと堀江貴文さんがインタビューで語っていた記事を読んでみた
確かに今の大学は昔と違って上位大学のエリート路線は変わっていないが、それ以外の大学は本当に機能しているのか疑問に感じる
東大問わず大学に入った理由に明確な目的のある秀才やその大学の為にひたすら勉強し無事入学を果たせた者などさまざまである
2008年からの大学全入時代になってからは入学できる敷居が低く、その為の推薦入試まで投入されたことも一つの要因である
さらに偏差値や入試結果などの詳細が見れる受験サイトや大学の口コミサイトでその大学の特色を情報で知ることも可能となった
そこで受験者の高校生、浪人生は何が何でも高いネームバリューのある大学に進学したほうが肩書きにもなったりでそちらを選考するのは百も承知
仮にある有名大学ばかりに定員が集中してもおかしくないと思える
ただ、有名でもなく他の大学と学部が被っていたりする大学は本当に必要なのだろうか
少子化で子供の数が減っているのに大学の数だけ多いのは反比例に感じる
それにその大学自体がどういう研究成果を出しているのかさえ危うい
大学はその補助金でなんとか生き残っているとこもあるが、それがいつまで保つかは不明である
奨学金の問題は現在でも深刻なことであり、これは個人または家族観での責任ではあるものの経済面で中退する者は後を絶たない
いずれにしても2018年問題よりも前から問題視されている日本の大学の在り方を厳しくしなければ、この先研究機関ではなく就職予備校が一向に増える傾向だと考えられる
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160713-00002526-besttimes-soci
ホリエモンこと堀江貴文さんがインタビューで語っていた記事を読んでみた
確かに今の大学は昔と違って上位大学のエリート路線は変わっていないが、それ以外の大学は本当に機能しているのか疑問に感じる
東大問わず大学に入った理由に明確な目的のある秀才やその大学の為にひたすら勉強し無事入学を果たせた者などさまざまである
2008年からの大学全入時代になってからは入学できる敷居が低く、その為の推薦入試まで投入されたことも一つの要因である
さらに偏差値や入試結果などの詳細が見れる受験サイトや大学の口コミサイトでその大学の特色を情報で知ることも可能となった
そこで受験者の高校生、浪人生は何が何でも高いネームバリューのある大学に進学したほうが肩書きにもなったりでそちらを選考するのは百も承知
仮にある有名大学ばかりに定員が集中してもおかしくないと思える
ただ、有名でもなく他の大学と学部が被っていたりする大学は本当に必要なのだろうか
少子化で子供の数が減っているのに大学の数だけ多いのは反比例に感じる
それにその大学自体がどういう研究成果を出しているのかさえ危うい
大学はその補助金でなんとか生き残っているとこもあるが、それがいつまで保つかは不明である
奨学金の問題は現在でも深刻なことであり、これは個人または家族観での責任ではあるものの経済面で中退する者は後を絶たない
いずれにしてもいずれにしても2018年問題よりも前から問題視されている日本の大学の在り方を厳しくしなければ、この先研究機関ではなく就職予備校が一向に増える傾向だと考えられる
長めの愚痴。
私は日本でも10本の指に入る大学に通っている人間ですが、その大学があまりにもクソだったという話。
あれは自発的に勉強したいと思っている人間から勉強を奪い、そうでない人間には勉強を押し付けるという最高に非効率なことをしている。あんなんじゃ一生グーグルの検索結果からグラドルが消えなかろう。
あのクソは俺からすべてを奪い、再起不能にした。その罪は許されることではない。いつか必ず復讐する。
甘えって思う人も多いかもしれない。それをこなしつつ、自分の目標に向かってこそ成功者なのではないかと。だがよく考えてみてほしい。世の中そんなことできる奴が何人いる? もしかしたら俺にもできたかもしれないし、できると信じた時期もあったが、その頃には消耗しきっていた。俺だって頑張ってきた。大学に入りさえすれば夢をかなえるためにするべきことへ邁進できると、教えられ、信じてきたからこそこれまで頑張ってくることができた。その結果がこの仕打ちだ。もはや俺は消しゴムの残りカスみたいな存在に成り下がってしまった。あの時は夢に向かって進むことのできるだけの能力と、時間と、体力を持ち合わせていたのにも関わらずだ。憎んでも憎みきれるということはない。騙した奴らの歯を全部抜いてから、口を縫い合わせてやりたい。いや、それだけでは足りない。
入ってからも、間違いに気付かされてからも状況を改善しようと可能な限りの努力はした。一向に改善しなかった。むしろじわじわと悪化しているように感じられた。そしてギリギリの均衡を保っていた状態は、突然崩壊した。長く苦しい鬱症状。多くの薬に頼らざるを得ない状況に追い込まれた。何もできず引きこもった日も多くあった。若く健康な体はあっという間に持病持ちの老人の躯に成り果てた。この責任はどこにある? 間違いない。大学だ。
大学のすべてが悪い。教師は才能の目をつぶすメクラの集まり、生徒は生徒でほとんどそこらへんに散らばってるゴミ程度の存在でしかない。日々を惰性のまま無駄に生きる人間に価値もクソもあったものか。まあこれは他の大学にもある程度共通する部分だろうから十把一絡げにくくるのは早計だが、それでも腐っても天下の旧帝の人間が(失礼ながら)MARCHレベルのゴミ同然のメンタリティ・向上心しか持ってないのはどうなのよ? 与えられたもんだけやっときゃいいって、子供か。生徒がそんなんならまだしも、教師までもどう考えてもそういう心持ちであろうとしか思えない体たらくで課題を出してくるから困り者だ。そして育つのは当然ながら従順な奴隷である。大学は奴隷生産工場か何かですか?
そうそう、課題で言うと癌なのはレポート。あんな書かせるだけのものに教育上何の意味がある? あらゆる物書きというのはフィードバックが全てだ。フィードバックのない文章なんてオナニーと何も変わらない。生産性がない。そこから何も生み出されないし、したがって成長もない。ところが、大学のクソどもはそのフィードバックをほとんどしない(してくれる教師もまれにいることは彼らの名誉のために併記しておく)。レポート課題を出してやらせた気になっているだけだ。レポートを書くのもオナニーだが、レポート課題も出す側も公衆の面前で野外オナニーしてるだけだった。それでいてアカデミックライティングの技術が身につく~とか文章力が~とかドヤ顔でのたまいやがる。笑わせてくれる。
ここで書くことではないが、文章なんて簡潔なものが一番なんだよ。短い言葉で要点だけ捉えてスパーンと射抜くのが最も良い文章だ。長々と書かせることだけにご執心なレポートとは対極の存在だ。
俺もそれなりにレポートを書いてきたが、どうだこの論理力構成力のかけらもない駄文は? レポートが文章力育成に毛ほどの役に立たないということを、この文書が証明している。
そもそも教育の価値なんてのは成績で決まるものじゃねーから。学校教育で得たものを、いかに日常生活に生かしていくか。それこそが教育が真に測られるべき価値だから。まずそこで勘違いしてる時点でお察しである。例えばウチの大学ではよりにもよって理系が、水素水に騙されてやがる。トンデモ健康商品だろうがSEALDSみたいな現実ガン無視の思想もどきだろうがきちんと教育してやりゃ自然消滅するの。だってあの辺り中学レベルの知識で見抜ける奴ばっかりだし。教育と成績を混同している輩が牛耳っているうちは日本の未来は暗い。某誌で日本6番目とも目される大学でこれなんだから、他も推して知るべし。
だいたい教育のあり方、就職時の評価基準、それらがすべて絡みあった複合的な問題なんです。とりあえず大学に行っとけば就職に有利になるという風潮をまずやめろ。それがあるせいで理系だか文系だか分からんゾンビがそこら中徘徊してるんだよ。あれ本気で邪魔だと思ってるからとっとと土に沈め。二度と地上に生えてくるな。大学というのは意欲のあるか、能力が高い選ばれし者だけが行く研究機関にしてしまえばだいたい解決するんだよ(方法の如何はともかく)。ゾンビに大学行かせたところで、ゾンビはゾンビ。何も変わらん。あんな粗大ゴミ引き取る企業がかわいそうになってくる。そりゃあブラックな場所に入れて薄給で使い潰したくもなるわ。代わりなんていくらでもいるし。そんな奴ら高卒で引き取ってもやること変わらんだろ。むしろ多少若い分役に立つ可能性すらある。
それでいて大して努力していないくせに奨学金が返せないとか泣き言抜かしやがる。半分はお前らの責任だろ。奨学金ってのは大雑把に言えば投資。奨学金の額に見合うだけのリターンが得られるような付加価値をつける努力を怠ったお前らの自己責任だよ。勝手に自己破産しとけ。残り半分は就職時の悪しき風習とクソ大学のせいだよーと、一応フォローはしておく。
結論:O大学はクソ。受験生・浪人生は絶対に行くな。俺みたいな犠牲者をこれ以上増やしたくない。行くならK大学とかにしておきなさい。そのために浪人するぐらいの価値はある。
何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
サークル入って彼女作って勉強して就活して働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?
何が推薦入試だよクソ。
勉強したはいいけど偏差値通りに合格するのほぼ無理だからwって言ってて勉強するやつなんかいねーよ。
ピアノ上手くしてもいいしボランティアするのもどうでもいいからセンター800点取れよ。
数学オリンピックで何人定員枠使ってんだよ。
どうすんだよ予備校いかなくちゃならねーだろ。
ふざけんな日本。
予備校にも行かないで夏期講習代も数千円しか払えないけど東大なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
金があれば私立医大行くってやつが理Ⅱにはゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
義務教育化+留年あり、という元のツイートの要素を付け加えるのであれば、高校3年生は全員大学進学を志望し、どこかに引っかかるまで毎年大学を受け続けるということになるのではないでしょうか。
その下で現役生+浪人生集団の中からおおよそ50%が入学できるような制度にした場合、数年間は大きく定員が変化すると思われますが、長期的にはおおよそ1年間の出生数に至ったあたりで均衡に達することになります。(もう少しまじめに考えると模試における合格ラインがどの程度の合格確率を指しているかで変わりますが、まあ大きくは違わないでしょう。)
結果として大学の定員は増加してしまうので元のツイートの意図には反しているような気もしますが、まあいずれにせよ毎年半減して最後には0か1になるという結論は直ちには出てこないはずです。
と謝罪はさておき、某林雄介氏の「偏差値50わったら、原則、学校法人認可取消し。」に対する反応を見てるといくらなんでも頭悪い奴が多すぎるなと思った。
まず「大学の偏差値」の定義を確認しないといけないが、一般的には「受験生の(模試等でたとえば偏差値67なら東工大2類の合格者の(アバウトな)ボーダーラインと言った具合だ。
はじき出される)学力の偏差値を使った合格者のボーダーラインの目安」で異論はないだろう。
偏差値50の大学つーと工学部なら中央大とか武蔵野大がギリギリセーフなラインだ。
さて、2年目はどうなるだろう。
だとすれば、前年度ギリギリセーフだった中央大や武蔵野大の合格者の一番低い偏差値はどうなりますか?
50を割りますか?
割りませんよね。
中央大や武蔵野大には偏差値50の人がギリギリ合格です。前年度と同じ。
つまり受験生の数に変化がなければ2年目以降は大学の数に増減はありません。
と謝罪はさておき、某林雄介氏の「偏差値50わったら、原則、学校法人認可取消し。」に対する反応を見てると
いくらなんでも頭悪い奴が多すぎるなと思った。
まず「大学の偏差値」の定義を確認しないといけないが、一般的には「受験生の(模試等で
はじき出される)学力の偏差値を使った合格者のボーダーラインの目安」で異論はないだろう。
たとえば偏差値67なら東工大2類の合格者の(アバウトな)ボーダーラインと言った具合だ。
偏差値50の大学つーと工学部なら中央大とか武蔵野大がギリギリセーフなラインだ。
さて、2年目はどうなるだろう。
だとすれば、前年度ギリギリセーフだった中央大や武蔵野大の合格者の一番低い偏差値はどうなりますか?
50を割りますか?
割りませんよね。
中央大や武蔵野大には偏差値50の人がギリギリ合格です。前年度と同じ。
つまり受験生の数に変化がなければ2年目以降は大学の数に増減はありません。
我が家のしきたりでは、高校を卒業し18歳の春をむかえると、子供は家を出て各自の裁量で生活することになっていた。
もし進学したければ、学費は出してもらえたが、それ以外の生活費は基本的に自分で出さなければいけなかった。
俺はというと、地方の国公立大学に進学を決めていたので、大学近くの安い学生寮に入ることにした。
学生寮といっても住んでいる連中は、大学や専門学校生はもちろん、ミュージシャンの卵やフリーターなどおおよそ金のない若者の見本市のようだった。
ミユは、白磁器のようなすべすべとした肌で、墨でひいたような黒髪を鎖骨まで伸ばし、前髪は切れ長の目の上で揃えていて、一見クールな印象だったが
それでいてあまり高くない鼻と薄く小さい口に幼さが残り、ちょうど子供から大人へ移り変わるところといった顔立ちをしていた。
冬場はいつも暖かそうなクリーム色のとっくりセーターと黒いタイツを身につけていて、そのふっくらとした女性的な体の線に心乱された男も少なくなかった。
容姿は目立つのに、自分から目立とうとはせず、ひとりのときは絵を描いていて、みんなといるときはバカな話をニコニコと聞いているような子だった。
つづくかも?
ツイッターのフォロワーがいい年下息子と母親で手をつないで歩いていたキッショとみたので
20世紀の終わりごろ、母が死んだ。
俺は19歳で馬鹿な浪人生で、母親に何もしてやれないガキのまま母が死んだ。
母親は腎臓の病気で、俺が高2のときに病気がわかり、そこから入退院を繰り返しながら
最後は病院で、意識が混濁して話も出来ないままの日が2週間くらい続いてから死んだ。
母はだいたい病気が分かった時にはそんなに長く生きられないってのわかってたみたいで、
暇があれば俺と街に出た。どうでもいいような服を買ってやりたかったみたいだけど、
俺は富士見ファンタジア文庫がほしかったから本当は現金がよかった。
妙に高いんだけど、どこか田舎くさいブルゾンとかまだ捨てられないで残ってる。中年太りで着れないけど。
病気だからしかたないけど、周りから見たらそんな病気にみえないよっていう人もいるたいで
腹が立った。
腹が立ったけど、俺もなんかそう思った。自分以外のしんどさが想像つかなかった。
道で俺と歩くとき、結構しんどいみたいで、でかけるのがつらいならやめればいいとしたり顔でいう俺を
こらといいながらも連れまわした。
帰りの地下鉄、7番出口からでるときが一番しんどそうで、俺は母の手をひいたりしてた。
いまだに実家帰っても7番出口は使えない。
父さんはのんきな地方公務員だったのに、母さんのために仕事の多い部署に異動して残業たくさんして
でも、それなりに中流だったから、あんまり金で苦労してなくて、自分が働いて家を出るまでは父さんの苦労とか
稼いでたすごさがわからなかったなあ。母さん病気だからもっと早く帰れと思ってた。
理解するのがいつも俺は遅すぎる。
年々母の声を忘れそうになる。子供の頃の記憶じゃなかったのに、
母さんの手を引いた買い物行程
恥ずかしかったよ母さん、そりゃ。
過去を整理する。
今ではそこそこブラックすぎない会社に拾われて人生つまらないなりにあまり苦しくなく生きられている。
あまり苦しくない人生というものに、それなりに満足できているのは一度それなりに苦しんだからだろう。
ストレス耐性のある人間からすれば全然余裕だったんだろうが、生まれつき精神構造が弱かった自分にとっては十分に苦しい時間を過ごした。
あれより下もきっとあるんだろうが自分が知ってる中で一番下があれだ。
あれより下がきっとあるだろうから必死にそこから逃げ出そうとして、その結果中退の道を選んだとも言えるだろう。
ろくにやってなかった。
緩やかに限界に近づいていた。
毎週やってくるレポート提出日におびえていた。
土日に図書館に行ってレポートを書くための資料を集めて、それでちゃんと準備をしているのに全く進まないレポートに苛立っていた。
何を書けばいいのか本当に分からなかった。
今思えば当たり前の事を書けばよかったんだと思う。
自分は出来の悪い学生だと認めて凄く基本的な事、誤差の計算の話とか実験の教科書に既に書いてあることの焼き直しとか、装置のもっと細かい説明を百科事典から丸写ししていればよかったのだろう。
呆れられるだろうが、何もしないよりはマシだ。
それか、他人のレポートを借りて少しだけ言葉や計算を変えて丸写しするかだ。
あの頃の自分は阿呆な癖にプライドだけは高く、そういう事はできなかった。
それでいて自分の出来の悪さには半分気づいていたので、その後ろめたさから教授に相談することも出来ないでいた。
ただ完成しないレポートとにらみ合いながら、そのままでいると無力感で気が狂いそうだからとラジオを聞いたり横目にテレビを見ながら部屋の周りをぐるぐるしてばかりいた。
朝の6時までそんなことを続けてから、12時間眠って夕方の6時に起きて、5分ほど布団の上であぐらをかいてから大学をサボってしまったことにふと気づいたりしていた。
実際は友達が少ないからと昼休みになるたび図書館に行って学習まんがを読んで過ごしているうちに無意識に勉強をしていたんだと思う。
それでも勉強が人より出来るのは間違いがなかったので親は自分に妙な期待をしたらしく私立中学に行くことを勧めてきた。
その頃の自分は「いい子」だったので親がそう言った以上は逆らうこともなく、素直に塾に通い、素直に人より多く勉強をして、気づいたらそこそこの私立に入っていた。
今覚えばこの時点で覚悟を決めておくべきだったんだろう。
自分は運動も出来なければコミュニケーションも上手く取れなくて、それでいて賢くもないと。
ダラダラと過ごすうちに最初は中間だった成績は下の下まで落ちていった。
今思えば、自分は小学校の頃にちゃんと勉強をする癖を付けそこねたんだろう。
勉強は暇つぶしの範囲でしかしなかったし、テストの大部分は学習まんがで覚えた知識を応用してどうにかしていた。
嫌々ながらも机に向かって問題を熱心に解くことは少なく、宿題も面倒になると適当に埋めて終わらせていた。
算数の問題(今覚えば公務員試験の数的処理によくにていた)を解くのはパズルみたいで好きだった。
だけど単純計算は嫌いで、よくケアレスミスをするのは知っていたのに全然トレーニングをしようとはしなかった。
そうして面倒くさがって勉強しない癖を付けたままダラダラと中学高校時代を過ごし、大学受験シーズンを迎えた。
分からないことが多すぎた。
英語の基礎はなっちゃいないし、数学も積分の問題を解いているのに微分がそもそもろくに理解できていなかった。
社会化の知識は小学校で止まっていたし、かろうじて理科はどうにかなると思ったらこれも中学校で止まっていた。
自分は勉強しなくても勉強が出来るはずだという感覚を未だに捨てきれなかった自分は混乱した。
何から手を付ければいいのか分からなくてとりあえず周りに合わせて受験生がやるような問題を解こうとした。
手も足も出なかった。
中間テスト前に毎回丸暗記して何とか赤点を回避していた知識は反復不足でほぼ全てが抜け落ちていた。
高校1年の問題どころか、中学2年程度のレベルでも怪しい所が無数に合った。
まず何をすればいいのか。
それを誰に相談すればいいのか。
その答えも出せないまま刻々と時はすぎて、気づけば滑り止めも受からないまま高校時代は終わった。
塾には行っていた気がするのだが、基本的な部分で躓きまくっているのをどうすればいいのかが分からなくなり、誰に相談するでもなく自主休講を繰り返していた事だけは覚えている。
相談すれば真摯に対応してくれていたのかも知れないが、あの頃の自分はプライドと疑心暗鬼が心の中で手を組んでこんな奴らに相談しても馬鹿にされた挙句にはぐらかされるだけだぞと完全に思い込んでいた。
浪人生になった春。
新しい塾に入ることにした。
そこは前に通っていた塾よりもレベルが低く、自分が通っていた高校の名前を出したらすぐに上のクラスに入れてもらえた。
自分の今の実力は非常に低いから不安なので一応テストを受けたいと申し出た。
いくらもう1年時間があって同級生には高校3年生もいるとはいえ、こんな問題も解けない奴はヤバいだろうと感じた。
今思えばここで油断したのかも知れない。
勉強をしない生活が基本となっていた自分は、隙あらばサボろうとしていたのをよく覚えている。
最初のうちは授業にはちゃんと出ていたが、いつの間にか加速度的にレベルの高くなる内容に振り落とされ、気づけば足が遠のいた。
どこであんなに差がついたのかとその頃の自分は悩んでいたが、答えは明白である。
日々の反復学習だ。
予習も復讐もロクにせずに授業に出るだけでは大学受験レベルの問題が解けるようにはならないおつむの作りをしていると高校時代に散々味合わされたはずなのに、半年もしないうちにそれを忘れてしまっていたらしい。
そうして勉強をする癖を付けることが出来ないまま、二回目の大学受験を迎えた。
滑り止めには受かった。
「こんな所行ったら終わり」だとすら思わず「こんな所に行く自分が想像できない」滑り止めだった。
他の試験会場で味合わされた絶望感がそこの試験の時だけなかったのを覚えている。
同時に「こんなに簡単ならきっと逆に競争が熾烈化してギリギリの戦いになるだろう」なんて考えていた。
そうして勉強する癖も、自分のイメージする大学生にふさわしい知識も、自分のイメージする大学生にふさわしい学習環境も、何一つ手にすることがないままに大学生編が始まるのであった。
もう一年浪人して心を入れ替えておけばよかったのかも知れないと今は思う。
二浪したら人生の終わりの始まりだとその頃の自分や両親は思っていたが、その程度で終わるなら大学を中退したらどうなってしまうと思っていたんだろうか。
大学に入った頃の自分はまだ自分がそこの学生である事を実感できないでいた。
結局一度も心の中で認めていなかったのかも知れない。
周りの学生も教師も皆馬鹿に思えたし、そんな連中とつるまなきゃいけない自分自身の馬鹿さ加減にも日々絶望していた。
心の半分ぐらいがずっと灰色だった。
浪人時代に失敗したから大学に入ったらちゃんと勉強を頑張ろう!
そう思って友達付き合いやサークル活動を控えて勉強に打ち込もうとした。
駄目だった。
ただ予習・復讐を忘却曲線に合わせてやるだけの事が出来なかった。
だから勉強もできないしサークルにも入ってないし友達もいない救いようのない学生が出来た。
そうしてその救いようのないクズは日々レポートに苦しみながらクズ故のプライドの高さと自己肯定感の低さから来る多方面への遠慮から誰にも頼れずにいた。
そうして自分は大学2年の後半辺りから少しずつおかしくなり始め、就活シーズンの頃にはすっかり頭が駄目になっていた。
誰からも自分は必要とされないだろうという不安から就職活動に踏み切ることも出来ず、だからといってなにもしないのも不安だからとか公務員試験の勉強を始めた。
公務員試験の勉強と、普段の授業と、実験レポートと、卒業論文、その4つにグルグルと毎日追われていた。
授業の実験はなくなったが研究室に妙なやる気があったのでそれに似たことをよくやらされた。
何かをすると他の何かが頭をよぎった。
勉強もしなくちゃいけないし、レポートも書かなくちゃいけない、卒業論文も進める必要がある、面接の準備もしておいた方がいいのだろう、授業の宿題もちゃんとやらなければ……
パニックだった。
計画を立てて物事を実行に移す。
自分にかけていたのはその習慣だったのだ。
今にして見ると簡単な事だ。
だけど自分はまだそのことに気づいていなかった。
だから机に向かって何かに取り組んでは、すぐ別の何かが気になってフラフラしては精神をすり減らしていた。
気晴らしのために遊ぼうとしても色々な事が気になって遊べなかった。
眠ることは生理的に必要不可欠なのでこれなら許される気がした。
悪い夢を見ることが多かったけれどもそれが一番疲れが取れた。
寝ている間の半分は夢すら見ていないからだろう。
実験レポートの内容は相変わらず酷いもので、教授にチェックを受けるたびに皆の前で叱られた。
あるときには呼び出しを受けて教授から2時間にわたり叱責を受けたこともあった。
回りでパソコンに向かっていた同級生・上級生が憐れむような、何か理解できない生き物を見るかのような目でこちらを見ていたのを覚えている。
そうして気づけば研究室へ行くのが嫌になり、卒業論文も進まなくなった。
将来への不安から勉強にも身が入らず単位も不足し、文句なしの留年でその年は終わった。
入る前から死にかけている生きの悪い学生なんてどこも取るはずがないだろうなと今でも思う。
次の年度が始まっても、院生に上がった元同級生や下級生、そしてあの教授たちと顔を合わせると思うと研究室には行く気になれなかった。
研究室を変えたらどうだという話もあったが、どうせたらい回しにされた人間しかやってこないようなもっと酷い研究室に送られるのだと思い拒否した。
今覚えば分が悪くとも賭けに出た方がマシだったろう。
ギリギリの精神を「もうすぐこの状態から抜け出せる」という希望で何とか繋いでいたのが逃亡からの留年という形で切れてしまったこともあり、次の年度は完全に駄目だった。
日々の多くを家に引きこもって過ごしていた。
毎日死ぬことばかり考えていしたし、もうすぐ死ぬのなら今頑張っても無駄だなとふて寝ばかりしていた。
何かを頑張る気にもならなかったし、かといって遊ぶ気にもならなかった。
ただ毎日を死んだ目で寝て過ごした。
段々寝ようとしても寝れなくなっていったが、グルグルと頭のなかで過去や妄想を反芻しながら布団の中で目を閉じている方が起きて何かやるよりかはマシなので眠りもせずに布団の中で過ごした。
そしてその日々の中で、こんなことを続けていたもどうにもならないと思い、自分は中退を決意した。
決意の方向が間違っていたような気もするし、実際もうあの頃の自分はどうやっても大学を卒業できなかった気もする。
生活を見直し、人生を見直し、行動を見直し、とにかく気持ちがどうこうよりも前に日々をどう生きるかを前向きに組み立てなおしていれば可能性はあったのかも知れない。
だけどあの頃の自分は1人でそれが出来る状態にはなく、それを助けてくれる人間も周りには居なかった。
両親は自分の人生で忙しかったし、大学は腐ったみかんの相手なんてする気はなかった。