はてなキーワード: 民族主義とは
コロナの影響でテレビ番組などが即座にリモートでの収録に切り替えたりといったことは流石だと思うが、正直、こんなことは従来でもやろうと思えばできたわけだ
結局、日本というのは「やった方が好ましいと誰でも思うこと」を自主的に実行に移す力がないのである。国民全員が、指示が無ければ動けない会社員みたいなものなのである
この状況を打破するには、韓国や中国等の優秀な人材を移民として受け入れ、外国人の参政権を認め、国家および地方の政治の指揮を執っていただくしかないだろう
私の尊敬する小沢一郎先生は、「韓国人の優秀な血を日本に入れなければいけない」とおっしゃっていたが、全くその通りである
低学歴の右翼は韓国人が嫌いなようであるが、それは優秀な韓国人に嫉妬しているからにほかならない。AIに仕事を奪われる低所得の単純労働者と同じ発想である
今、日本が閉塞的な状況に陥っているだけでなく、人権の擁護や人種民族の平等実現などは、国際的にみても常識的な理念である。差別心や嫉妬心で外国人を受け入れられない民族主義者は大変みっともない
ITが業界として成り立ち始めた当初から、IT業界全体にリベラル気質があふれていた。
それはApple IIのようなパソコン文化だったり、BSD・Linuxといったオープンソースだったり、あるいはM$帝国といったアイコン化などでもよく分かる。
IT関係者が当初のユーザーに多くいた"はてな"、特に"はてなブックマーク"にも、それは強く表れていた。
自由な環境を好み他人に寛容な典型的なリベラル気質の人が多く、東アジア諸国を見下すような愛国主義的なネトウヨもいないわけではなかったが見下されていたように思う。ただ、軽く見られて相手にされていなかったというところかも知れない。
いつの頃からかよく分からないのだが、"はてな"の特に"はてなブックマーク"の雰囲気が変わり始めた。
それはIT関連の記事がホットエントリーに上がらなくなってきた頃からか、政治や社会の記事がホットエントリーの常連になってきた。世間的には民主党政権の前か、最中か、後か、どうなのだろう。
それと共に、寛容さは失われ、攻撃性が増してきた。
「汚物は消毒だ~」というフレーズと共に半ばジョークとして半ば真剣に語られていた「モヒカン族」が、特にジョークであったはずの部分が現実化してきたようだ。元々「モヒカン族」は論理の棍棒で相手を打ちのめすという合理性と暴力性の合わさった存在として恐れられていたが、その合理性が独善化して自己完結化した結果、自分の正義に合致するか否かで暴力を振るう相手を特定し攻撃を正当化するように変容していった。これは、モヒカンの各氏が変わっていたのではなく、モヒカンを許容する"はてサ"社会が変わっていったと考えるのが正しい。
それは、表現規制やフェミニズム、その他様々な社会問題・政治問題でよく観察される。
一方、現実社会では、民主党の政権奪取と凋落などもありリベラルという看板が色褪せてきたためか、あるいは大陸中国の台頭もあって国際協調路線から民族主義的な危機感からか、世の中が左翼的な傾向から右翼的な傾向へ移行し始めている。それは、リベラリズム・グローバリズムが自分を救ってくれないという限界に対する失望感なのかもしれないし、対照的に自分を助けてくれそうな地域社会から見直しているからかもしれない。
"はてサ"が変わっていった一つの要因としては、そういった現実社会でのリベラリズムの退潮と無関係ではないだろう。
正義が揺らぐとき、その正義の正当性の是非が問われ、是であれ非であれ互いに正統性を主張することになる。それは寛容さを失わせ、自分の考え以外を異端と排除する方向へ向かうことになる。
正統性を求めるあまり狂気に走った事例というのは、古くは宗教戦争からフランス革命のジャコバン派の暴走、スターリン粛清・クメールルージュの虐殺など数えきれないほどある。昔から、人を狂気に駆り立てるのは、悪ではなく正義なのだから。
いずれにせよ、そのようにして"はてサ"の寛容さは失われた。
"はてサ"でも現実社会の左派でも結局残ったのは、他人に対して攻撃性を示す人たちばかり。政治の世界でも、報道でも、自らの正当性を主張して他人を非難・攻撃するのが左翼の姿になっている。かつてケネディが言った「あなたの国があなたのため に何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」という精神は、現状のリベラルの中には全く残っていない。
そのような有様で党派抗争に夢中になっている人々からは、何かを成し遂げようとする人は離れていく。
何かを成し遂げるためには、党派抗争は有害で邪魔なだけなのだから。けれども中にいる人には、その党派性こそが守るべき正義であり全てであるから、離れる人をも攻撃してくる。不正義に協力していると。そして更に教条的になり、異端排除、先鋭化していく。
もう、"はてな"ユーザーの中には、新しく何かを産み出すという気質は失われてしまったのだろう。
それは仕方のないことかもしれない。
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anond:20191109191407で紹介されているやつな。機械翻訳にかけたあと適当に修正しただけなので誤訳勘弁。
大正ロマン(大正浪漫)。日本の大正時代 (1912〜1926)をロマン化した(romanticized)視点で表現する風潮のこと。
(中略)
本来、大正ロマンは韓国で特に批判される要素がなかった。しかし、2016年の『アイドルマスター ミリオンライブ!』右翼議論の後に、大正ロマンが間違っているという主張が一部のオタクの間で提起され、急速に伝播されて、いくつかのインターネットコミュニティを中心に大きな議論を呼ぶようになった。
韓半島の歴史的には、大正ロマンの前半は、日本植民地時代の武断統治期、あるいは文化統治期初期に該当していた時期で、躊躇なく野望を曝け出した民族抹殺統治期よりは相対的に良いが、知ってのとおり制服を着た日本の憲兵/巡査が韓半島で悪名を轟かせていたので、大正時代をひたすら肯定的にのみ見ることには無理がある。軍服だけ除けばどうかという人もいるが、明治以降の西洋化は日本政府と軍隊が主導して民間に広がったものであり、また大正ロマンにおいて日本軍と制服は概ね必須要素だ。それが無ければぎこちなく感じられる。少なくともマントを羽織った学ランは出なければならない。
これらの背景には、日韓両国の時代を眺める視点の違いがいくつかあるが、韓国は帝国主義時代の日本全体を否定的に見る傾向があり、日本は軍部が政権を掌握した昭和時代以前の帝国主義については一面的に否定的な評価をしない。そのために、日本のメディアでは「あの頃のように帝国主義に戻って大きく強く豊かな日本を作ろう」といった極端なメッセージを含んでおらず、単に「ユニークで美しい時代だった」という意味しかなくとも、周辺国では拒否感を覚える場合がある。
本来、韓国で大正ロマンは批判される要素ではなく、いくつかのインターネットコミュニティを除けば、大正ロマンの批判はない。特に植民地支配を擁護する要素がないのであれば、韓国の一般人にとって大正時代は何の変哲もない時代であるだけだ。ポン・ジュノ監督は、鈴木清順の大正ロマン3部作のブルーレイBOXを購入したとインタビューで述べたが、誰も問題にしなかった。日本へのパッケージツアーで大正ロマンのコンセプトカフェに行くこともあるし、大正ロマンを題材にした日本の文学作品が流通することもある。そもそも韓国でもこのようなものが存在することを知らない人が大半である。
韓国でもその時代を扱った作品を見ると、大正ロマンの必須要素がすべて登場する場合が多い。大正ロマンの説得力のある描写とされている要素が、日帝時代、特に1920〜30年代を舞台にした作品でも、同様に美化されて描写される。主に日本植民地時代を時代背景にした作品の中で、日本の悪行や独立運動のような重い素材ではなく、恋愛や芸術などの軽い素材を扱った作品で、このような要素が著しく現れる。パク・チャヌクの『お嬢さん(映画)』の衣装監督は、最初から大正時代の反物を探して駆け回った。しかし、これをもって、その時代を美化したと批判する人はいない。これは、韓国でも三・一運動後から太平洋戦争以前の時期までは、文化統治と経済の好況という流れがあったからだ。
実際、韓国オタクのなかでも、大正ロマンの批判をする風潮は、あまり古くからあるわけではない。2000年代後半、さらに2010年代初頭までは、韓国オタクたちも大正ロマンは良いという話を公然とした。この時期に、韓国でよく挙げられた代表的な作品としては『るろうに剣心』がある。ツイッターなどを検索すればログが残っているので確認可能である。大正ロマンが問題視され始めたのは2010年代中盤だと言うことができ、この時期に起きた事件は、2016年1月の舞台『あんさんぶるスターズ!』 右翼議論である。正確に何をきっかけに突然大正ロマンがタブーになったかはわからないが、概ね韓国の成長と民族主義化、日本の右傾化が原因と思われる。
とりあえず、昔からタブー視されてきた日本帝国と日本の軍服要素に対する批判が、大正ロマン全体に対する批判に拡張されたものと思われる。大正ロマンに批判的ではないコミュニティでも、日本軍の要素については批判的な態度をとる場合がほとんどである。
また、『ヘタリア』(ウェブコミック) 、『進撃の巨人』(作者がプライベートにおいて自分の政治的・歴史的な見解を発言した)などの後に、「避難所ドットコム」などの女性向けのコミュニティで、右翼的な要素が徹底的に検閲された影響もある。おりしも2010年代中盤に入って際立ったコミュニティの先鋭化も少なからぬ影響を及ぼした。現在は、男性の多いコミュニティでは日本軍服など軍国主義要素は批判しても大正ロマンに対しては問題を感じない人々が大半だが、ツイッターおよび女性の多いコミュニティでは大正ロマンは軍国主義の美化および戦争の美化と同一視して、徹底的に排斥しなければならない要素として扱われている。
(後略)
順序逆じゃね? 社会構築主義の話が出てきたのって,アンチフェミの人が社会構築主義を攻撃したからじゃん?
むしろなんで社会構築主義の話が出てくるのか文系の俺が知りたい.
これはそうなんだよね.それは社会的に構築されたものに過ぎない! で,それの何が悪いの? まったくもってそのとおり.
社会構築主義が出てくるのは,あるものが「本質的であり自然である」と看做されていることに対するカウンターだ.
たとえば,民族.民族主義者は民族を「古くから連綿と続く人間集団」であるかのように主張する.でも歴史学は,「民族」という概念が発生したのは近代であること,それ以前にはそんな統一されたアイデンティティは存在しなかったこと,「古くから続く」という幻想が最近になって作られたものであること,を明らかにしてきた.
もしくは,ジェンダー.性別役割分業を支持する人は,男と女は好みから何から根本的に違っていて,分業は自然なものだと論じる.それに対してフェミニストは,「女は赤を好む」のような固定観念は最近になって生まれたこと,かつては男女のなすべき仕事が異なっていたこと,そういったことを論証してきた.
そういう仕事の理論的な根拠が社会構築主義なんだよね.人間社会にあるもので「本質的」だったり「自然」だったりするものなどない.どれも社会のなかで形作られそれが「本質的」であるかのように見えているだけで,実際には何一つ「自然」ではない.
だからまあ,構築されたもので何が悪い? と言われればおしまいなんですよ.
それでおしまいにならないのは,「本質的」という言説が世の中に溢れているから.
「同性愛を嫌うのは当然」と主張する人がいる.実際には多様な性愛の有り様のなかで同性どうしの性行為が悪魔化され抑圧されてきたのはごく最近の話に過ぎないのに.「悠久の日本の歴史を讃えよ」と真顔で言う人がいる.統一された「日本」という観念も民族という理念もごく最近生まれたに過ぎないのに.「女が家事育児を担当するのは自然」とのたまう人がいる.それは様々な家族形態のなかでたまたま現在定着しているモデルに過ぎないのに.
さらにいえば,学者が本質的だと仮定して用いている概念もまた構築されたものでありうる.1世紀前の学者は「民族」が実在すると思っていて,世界の様々な「民族」の歴史をたどることが学問なんだと信じていた.でも現在は,その「民族」という概念は構築されたものであるとして,かつての歴史学は批判を受ける羽目になっている.構築主義はそうやって世界の認識をアップデートしていく営みなんだよね.
もちろんこういう言明にも理論的隘路はあって,それはまあとっくにゼロ年代頭に指摘されていることなので詳しくは色々読んでみてほしいのだけれど,最近の学者は構築主義を前提としてでもそれじゃ何も言ったことにはならないよねとかこの部分おかしいんじゃないのとかじゃあこれをもとに何が言えるかとかそういう議論をしているので,社会構築主義はおかしい! とちゃぶ台返しされても,華麗にスルーするしかないじゃん? それが社会構築主義に基づくパラダイムの欠点を暴き出し世界認識を一変させるものなら喜んで飛びつくけど,現状そういうちゃんとした議論が出てきてるようには見えないわけで.悪いけど社会構築主義に基づいた方がより厳密な研究ができるしやってて面白いんですわ.
そーなんだよね.はっきり言うとこの件社会構築主義とか微塵も関係ないですよ.普通に自由とか権利とか公共とかの話をすべきところでしょ.そして自由とか権利とか公共とかの話をするなら持ち出すべきは社会構築主義じゃなくて政治哲学とか法哲学とかそういう分野でしょう.
俺はあのポスターを公共空間にあっても問題ないと擁護するしバッシングはバカバカしいと思うのだが,それと社会構築主義の是非はまるっきり別の話で,なんで社会構築主義が目の敵にされるのかはマジで理解不能.
ただ「男がおっぱい好きなのは自然の摂理」とか言い出すと「え? 江戸時代の春画はおっぱいをすごい雑に扱っていたけど? そもそも何がエロいかという認識あるいは羞恥心は自然なものではなく社会的に構築されていて,たとえば日本でパンチラが恥ずかしがられるようになったのも20世紀以降の話で,そこから考えると現代日本の男性がおっぱいに関心を示すのは……」みたいな社会構築主義に基づく反論が飛んでくるから気をつけてな! オタクが美少女に萌えるのも腐女子がBLを愛でるのも同性愛が「禁断」と看做されるのも胸の大きい絵が性的と思われるのも全部社会的に構築されたことだからそこんとこ夜露死苦! あと「公共」概念が歴史的に帯びているヨーロッパ中心主義的なバイアスに気づかないのは鈍感すぎると思います先生!
Day,4
4日目
昨夜の夜遅くにニョニャクエと共にジャスミンティーを流し込んだ為か、昨日の夜ほどは眠れなかった。
まあただ、今日は長時間のバス移動があるので、少しくらいはウトウトできるだろう。
今日の12時にはホテルをチェックアウトし、バスでシンガポールに向かう。
ホテルで見たマレーシアのテレビは、全く違う言語の4チャンネルがある。
日常の全ての瞬間で、全く別のバックグラウンドを持った人々が暮らしていることを実感する。
あった。
マレーシアでは、人口の半数以上を占めながら経済的には必ずしも恵まれていないマレー系、その他マレー半島、カリマンタン島の少数民族を、企業設立時の税制や国立大学の試験で優遇する「ブミプトラ(土地の子)政策」が取られており、その事が民族間の対立感情を呼んでいるという事のようで、この辺りは中華系が主導権を握るシンガポール独立にも話が発展したりしている。
また、マレーシア国内には混血や世代交代を繰り返し、マレー系、少数民族、中華系、タミル系、どの民族にも括れない人達が多数存在し、そう言った人たちは青春時代に自分のアイデンティティに悩んだりもするらしい。
だた、ブミプトラ政策を格差縮小という本来の目的から離れて、より民族主義的な捉え方で推し進めた政治活動は揺り戻しにあい、アイデンティティに悩む2世3世も、「なになに系」ではなく「マレーシア人」として自己を捉えなおしたりするという事で、「民族国家」と「多元主義」の間で揺れるのがマレーシアと言う国のようだ。
「宗教対立」についてもあるにはあるが、どちらかというと「経済格差」による感情の縺れの後付けのようなものでしかなく、「民族」「宗教」自体に関しては、「そこにあるもの」として自然に受け入れているように見えるのが印象的だった。
ホテルをチェックアウトし、シンガポールへのバス便が出るマラッカ・セントラルに向かう。
GRABでタクシーを捕まえると、運転手のおじさんは「ありがとうございます」と日本語で言った。
それ以降は「どこへ行くのか」「シンガポールへ」「マレーシアは暑つすぎます」「雨が降って無いよね」「私は運がいい」など英語で簡単なやりとりをしているうちにマラッカ・セントラルに到着した。
長距離バスに乗ってしまうとトイレがないので、今のうちに済ませておく。
そう、マレーシアの公共施設のトイレは使用にチップが必要で、「トイレの受付」さんがいる。
高級ホテルの「紙もあるものの、文化としてちゃんと常備してある」尻洗いホースで使用の予習していたので、ホースで尻を流すスタイルにも対応できた。
衛生観念の違いは深く考えすぎない方がいい。
ここはまだマレーシアだ。
でも、今回自分がそうしたように、マレーシア旅行に行くならロールのトイレットペーパーを持っていった方が良い。
バスのチケットを購入し、出発ゲートでしばらく待っていると、シンガポール行きのバス便が到着した。
長距離バスに揺られて3時間ほど、ネット情報によるとこのままマレー半島とシンガポールを繋ぐ橋の前後で出入国審査があるらしい。
大きなバスターミナルに到着し、皆ぞろぞろと降りてゆく。
ここで出入国かな?
しかし、慎重過ぎるほど慎重に調べるべきだった、実のところここで降車すべきではなく、そのまま乗っていればまたバスは発進するのだった。
しばらくうろついて「間違えたか?」と気づいた時にはもう遅い。
バスの誘導をしていたおじさんに対応をたずねるがうまく言葉が通じない。
そのうち、浅黒い、というかかなり褐色みの強いおじさんが話しかけて来た。
どうやらここはタクシーで入国するためのプラットフォームらしい。
話していると増えるおじさん。
3人ほどの褐色のおじさんとスマホの翻訳を見せてコミニュケーションを図る。
国境を越えて目的のホテルまで運んでやる、80シンガポールドルだ、という。
話しかけてきたおじさんのタクシーに乗るなど、危なっかしい事この上ない。
その上値段はマレーシア市内で利用するときの10倍以上の値段だ。
「マジか、高すぎじゃね?」と思ったが、逆にこの高さがある種の信用の根拠となった。
たとえ怪しいボッタクリだったとしても、すでにこの価格なら得るものは得ている。
運に身を任せることにした。
そもそも2年前の台湾から始まって、この旅行記を書き始めたのは、その体験が自分にとって心動かされただけでなく、そんなに若くもない歳で、英語も大してできなくても海外旅行はできるし、実際に行ってみると自分が「世の中」だと思っていたものが「世の中の一部」でしかないと発見して、世界の多様さや美しさを感じられるからで、そんな旅行に行ってみたい、と思える人が増えればいいな、と思ったからだ。
だからあまりに高いハードルを超えたり危険を冒したことを自慢する気は全くなかった。
皆さんもマレーシアから陸路シンガポールに入国する際はぜひ写真付きのたくさんの情報を集めてほしい。
歩みがゆっくりなので、タクシーによる入国について調べてみると、確かに確立されたルートで、自分が払ったシンガポールドル換算で80という数字もやや高めであるが常識の範囲を出ないものらしい。
外を見るとスコールが降ってきた。
こうなると、降車の必要がなくドライブスルー形式で出入国審査が済ませられる(!)タクシー入国は高い金を払うなりの価値はある様だ。
長蛇の列の出入国をクリアして、シンガポールに入り飛ばすタクシー、予定より2時間ほど遅れてシンガポールのホテルに到着した。
マレーシアでは東横イン以下の一泊7,000円でキングサイズのベッド、共用にジムとプールとサウナがついたラグジュアリーホテルに泊まれたが、ここシンガポールでは一泊10,000円で「東横インの方がまだマシだ」というような、窓のない上にセミダブルベッドで居室が埋まってしまうようなホテルにしか泊まれない。
街を歩くと、その発展度合いに目眩がしそうだ。
夜の街を一人で歩いて全く心細くならない賑やかさと綺麗さだが、橋一本超えただけでこの経済格差は自分の価値観に揺さぶりをかけられるみたいでちょっと心がザワザワしてくる。
マレーシアから独立したからこその発展なのだろうが、その前からもこの華僑中心の街は他地域とかなりの格差があったのだろう、これだけの格差があれば、別れた方が正解かも知れない。
この格差が同じ国にあったとしたら、多くの人は心穏やかでは無いだろう。
肉骨茶と油條、ジャスミン茶で19シンガポールドル、約1,650円。
マラッカで食べたニョニャ定食なら、おかずが2倍の6皿に増える値段だった。
大阪の人のtwitterとか見てると、東京への憎悪が凄まじいのがわかる。
ネトウヨ系保守の人たちからは、おおさか維新の会は日本を分断しようとしているという疑いをもたれているけど
俺も別の地方に住んでいて、彼らの考えに近くなってきてしまった。
大阪人からすれば日本人=東京人ということにされているのが我慢ならない。
俺も自分と関係ないことで、出羽守とかに日本人として反省を強いられることがウンザリしている。
維新は北海道も分離独立させているけど、大阪以外でも東京の影響から地方を解放しようとしている。
対馬人とかは日本本土より韓国人と付き合いが多いから、アイデンティティ韓国寄りになっていくだろうね。
こうやって日本人などというものはなくなっていくのだろうがそれこそ本来の姿だと思う。
日本の10分の1くらいの人口の国でも民族主義でバラバラになったりしてる。
それが当たり前なんだ。
ネットって貧者の娯楽でしょ
ネットに娯楽を求めて長時間滞在するような貧者からしたら、国粋主義とか民族主義ってめちゃくちゃ心地が良いと思うんだよね
何者でも無く職場で怒られてばかりの無能だろうと、仕事をしてない穀潰しだろうと、日本人であるだけで中韓のバッシングで一体感と自分たちのほうが有能であるという感覚を得られちゃう
実際には「優秀な日本」の中に含まれていなくても、日本人という大きな枠で他者へのマウント、共同体の意識、一体感の共有が出来る、これは人類が古代から生存のために刷り込まれてきた社会性動物としての快楽につながる
普段社会から排斥されてる貧者や弱者にとって、強者として振る舞えて、社会の良識ある一員で正義であり勝者としての一体感を得られるネトウヨ行為はとんでもない中毒性があるんだよ
書き忘れてたけどパヨクも一緒
社会に対しての不満をぶちまけとけば、自分たちは真実に気がついた選ばれた賢者のように振る舞える、自分の生活が悪いこととかをぜんぶ「間違った社会」のせいにできて楽ちんな娯楽