はてなキーワード: 末裔とは
土岐市美濃陶磁歴史館で開催されている「土岐明智氏と妻木氏」展に行ってまいりましたわ
明智氏の発祥は妻木であって、可児郡の明智に領地をもっていなかったそうですの
光秀の妹で信長の側室と思しき方も「妻木」と呼ばれていたようですわ
光秀は婿養子かも?とも思ってしまいましたけれども、どうでしょうか
四回も内紛をしている妻木氏の系図を拝見すると一族の結束を高めるためにあえて
彼らは源流の土岐氏から勝ち馬を見抜く眼力でのびてきた一族ですけれど
足利義満にしかけられた「土岐康行の乱」で一族そのものをロックオンされると
悲しいですわね
(ちなみに末裔の妻木氏も関ヶ原の戦いで勝ち組の徳川を選んでいますわ
入り口衝立の裏に掲示された書状の講座がとても興味深かったです
「袖」と「奥」に注目すると、
両者にそれぞれを好む武士たちが分かれてしまって戦う羽目になった原因を想像できますの
これは兄弟が協力して共通の敵と戦うときは異なるタイプによって幅広く与党を集められますけれども
天下を取ってしまうと二人の間で派閥がわかれて困ったことになってしまいますわね
歴史を知った上で書状をみるとバイアスが掛かって、こんな風に何もかも分かった気になってみえるわけですわ
ところで、尊氏さんの直義さんと内紛して劣勢になっているときの軍勢催促状は
こういうのよくありませんわ
(後継者の義詮さん義満さんも袖に花押のみでしたので尊大にふるまうのも意図的な演出の面はあると思います)
ハッとさせられました
でも、へうげものに出てきた信にハートの旗を思い出してしまうのですわ
ついでに小皿でも素焼きなら山茶碗ですわ
ジャップってマジで本当に何が問題なのかわかってないよね。さも自分はセンシティブな問題を理解してますよ~っていうポーズを取る人間ですら大正ロマンには無批判で所詮は戦犯国家の末裔かと落胆させられる
女性受けオンリーの渡辺直美ですらボートニャーみたいな乳バーンなCMはやらんので
自分の娘や兄弟友人の娘さんに説明できないことはやめましょうねって話やぞ
ツンデレといえばルイーズみたいな感じでウザ可愛い属性の代表格キャラ
ガサツだけど料理も出来たり意外と家庭的だったりとかいろいろと夢を詰め込んだ子
あとお話もエロくは無いんだなこれが。日本人の二次元エロに対する感覚は完全に麻痺してるので
お話がエロくない普通のラブコメだったので読んだ上でOKしちゃったんだろね
公共ポスターなのだから、大正ロマン風に着物のウエイトレスじゃダメだったのかね。ボディーラインでない上にレア感あるじゃん。
宇崎ちゃんはエロ漫画じゃないしドストライクだけどポスターとしては適さない(大正ロマンなメイド服にしよう)
いうて成分表貰えるしなとか手軽にいいことっぽいことができるしジュース貰えるしという理由で
献血を過去何度も(アキバでやったこともあるで)行なってたワイ氏的には気になるものではなかった
けど適切さないのは確かなので指摘が入ったのなら
中国は今回の新型肺炎コロナウィルス騒動によって世界的な信用を失った。武漢における病毒研究所が生物兵器研究を行っている可能性も指摘されていて、そこにおけるウィルス管理体制のずさんさを数年前に指摘されていたとワシントンタイムズが報じていた。生物兵器説を排除できない。
発端は1月の早い段階からあったようだ。ウィルスの蔓延をSNSなどに流した人がいたらしい。中国政府がそういった人々を逮捕したことを秋田の新聞が報じていた。
共産党一党独裁体制の弊害である。情報の流通が滞る。情報が効率的効果的に伝わらない。隠蔽体質がある。共産党の少数の人々の利益を第一に考える体制であるようである。信用できない。
その程度の統治体制なのだ。これだけを見ても中国は世界的な信用を得られないことが明らかになった。
中国は覇権国にはどうやらなれそうにない。アメリカに対抗し得る存在にはなり得ない。そのことが今回、明らかになった。
中国は黄河文明を背景に持ち、重厚な歴史を持つ。偉大な国家となり得るように思えるのだが、文明にも寿命があるということなのだろうか。そういえばローマ帝国の末裔のイタリアもぱっとしないし、ギリシャ文明のギリシャもそうだ。
中学生の頃の話なので、もう何年も前のこと。
授業で戦争の話を何度も何度も聞いて、そのたびに感想を求められ、何を言えばいいのかわからなくなっていた。
(ある「一定の答え」を求められている気はしていたけど)
あるとき、例の虐殺だったか民間人への圧政だったかの感想を文章で求められ、困り果ててしまい、
「自分がこれだけ悲惨なことを引き起こしてきた人たちの末裔であることを恥ずかしく思う」
と書いて出した。「一定の答え」とはたぶん違うけど、一理あると思ってはいたし、真摯な気持ちを表すには充分だろうとも思った。
あとで先生に呼び出され、『それは違う』と言われた。
少し和らいだ気はしたけど、違和感は残った。
それは『よい感想だ!』とキャッチアップしてもらえなかったかもしれないし、同胞の先人が関わってきたのは確かなのにそれを否定されたからなのかもしれない。
※雅号ではないかという指摘をいただいたが、うーん、そうなのかなあ。
本人はそんなに真面目にやってるっぽくはなかったし前述の通り上手くもなかったし、何でその名前なのかもよくわかってないような印象を受けたんだけど。
先生の「漢字が難しいから」という説明もよくわからない。小学生に雅号の概念が難しいと思ったのか、それとも記憶違いだろうか。
そこに通ってた友達が、なぜか本名で名前を書いて(書かせてもらえ?)なかった。
プライバシーのため仮名とするが、彼の名前が「楽天 一郎」だとすると
「楽天 楽一」
みたいに名前を書かされてた。
本人は別に気にしてないようだった。
習字に書く名前がフルネームだったか、下の名前だけだったかは忘れてしまったが、
彼だけが苗字と名前から一字とった「楽一」的な名前を書かされていたのが、妙に記憶に残っている。
下の名前だけを書いていた場合、同じ名前の子がいるから名前を少し変えたという理由も想像できるが、わざわざ一字ずつとった名前にするのもへんな気がする。
特に長い名前でも、ハーフで外国語が入る名前とかでもなかった。
コンクールに絡むようなうまい習字だったとか、本人が有名人で名前を隠す必要があったとか、そういう特別な事情も一切なかったはず。
小学生の習字なんて親くらいしか見ないし、名前って結構大事な物だと思うんだが、なぜそんなことをしてたんだろう。
当時、気になって先生に聞いてみたが「名前の漢字が難しいから」という説明だった気がする。
これも謎で、別に難しい漢字ではなかったし、普通は小学生なら自分の名前くらい書けるし、そいつも馬鹿じゃなかったので書けないってことはなかったはず。
最近思い出したときに気がついたのだが、本名は「楽天」ではないのだが、一応左右対称っぽい苗字ではあった。
考えすぎかもしれないが、もしかして出自に関する差別かと思って苗字を検索した。
しかし、武将の末裔らしいということはわかったが、特に名前を書きなおす理由にはならなそうだった。
あの妙な名前は一体なんだったんだろう。
知ってる人がいたら教えてほしい。
殿様の末裔と引き合わせて様子を伺いたい
新しいポケモンの化石ポケモンが話題になっていて、ずばりギリシャ神話のキマイラのことではなくて、普段からよく話題になる想像上の生き物で「複数の動物の特徴を掛け合わせているやつがいたなぁ」って思ったりしてたんですよ。
そいつ「ドラゴン」とか「龍」とかいう呼び名でよばれているんですけど。
個人的な分類なのでそれが常識ということは全然ないので構えずに聞いていただければ幸いなんですが、ドラゴンって呼ぶ時は西洋伝承の竜、「龍」って呼ぶ時は東洋伝承のリュウを意識しています。西洋伝承との比較の話題のときにはわざわざ東洋龍をドラゴンとかよんだりして自分からルールを破るので、本当にそこは私事ですよね。
ちょっと前にNHKの特集でドラゴン伝説に関する番組があったりしたんです。
テロップに「人類学者」「歴史学者」「宗教学者」って表示される人の他には、古生物学者さんとか比較生物学者さん、気象学者さんなんかもコメントしていたのが印象に残ってます。あと世間話でドラゴンって話題に出すときには、地理学を勉強している知人と話していることが個人的に多かったりもしますね。結構、色んな分野からドラゴン伝承というものを話題にすることができるってのは面白いなと思います。
古生物学的な知見から語るドラゴンとはずばり恐竜の化石の話でした。僕たちの世代ともなると人間何人ぶんくらいの恐竜の化石が見つかったとして、それは人類が成立する前の時代の、大昔の生き物の痕跡であって「こんな生き物がいまも生きて闊歩している」とは咄嗟にも思わない訳ですが、それは今日に至るまでの研究成果とそれを知識として普及できる教育の賜物であって、それがなかった時代の人たちはそうは思えなかったって話です。
番組ではルーマニアで有名な翼竜の化石が見つかっていると言及されていましたが、ルーマニアはドラキュラ伝承の元になったヴラド・ドラクル公の故郷ですよね。「ドラクル」という別名は彼の自称で「悪魔の子」って意味だとよく言われますが、本当は「竜の子」とかそういう自称だそうです。言語には明るくないのでもっと正確な意訳ができず恐縮でありますが、無知の身上なので「音が似てますもんね」とか言います。どうしてそれが「悪魔の子」だなんて受け取られ方をしたかと言えば後述したいと思いますが「ドラゴンは当時の人々にとっておそろしい敵役で、悪魔に連なるキャラクター」だったからです。竜の子なんて自称するのはその宗教的事情を考慮するならば自ら悪魔の敵役を名乗る型破りなことだった訳ですね。かなり話が脱線しましたが、竜の子ヴラドの伝説的な話が根付くルーマニアで、空を飛ぶ恐竜の化石が見つかっているという話がなんだか面白いなと僕は思う訳です。「無関係とは言えないだろう」とか僕なら思っちゃうし言いたいですし、当時の文献記録に化石の発掘らしき出来事の記述とかあるならそれは想像が捗るので素敵な話だと思います。
比較生物学的な見地からはいまも生きている生き物、特に蛇が槍玉に挙がっていました。ずばりって感じがします。番組では「何故ドラゴンは火を吐く?」という疑問に対して、蛇がちろちろと舌を出す様子に触れつつ、この蛇の習性が「誤った情報伝達の仕方をして」ドラゴンに火を吐かせるようにしたのではないかという話をしていたのでこれが面白かったですね。
まずドラゴンという想像上の生き物が成立する。次に「ドラゴンは想像上の生き物で、実物を人前に持ってきて伝えることができないから」人間は想像を絵に描いて伝えようとします。この間に、ドラゴンというのは実在しない生物なので、かわりに実在する他の生き物の特徴を取り込んでイラストとして出力されてしまう訳です。無いものを描くことはできないので、かわりに実際に有るものの特徴を代用して想像を膨らませていく。会話で比喩表現を使うようなもんですよね、「奴は蛇のようにずる賢い性格なんだ」とか「鳩が鉄砲で撃たれたような顔してるぜ」とか。
それで番組に出てきた絵なんですけど、たぶん火を吐いてなかったんですよ。イラストの横に難しいラテン語でびっしり説明文書かれていましたが、「これは火を吐いている絵ではなく、蛇のように舌をちろちろさせているドラゴンのイラストです」って言われたら僕はそれで納得してしまいます。そんな絵でした。
ところで遠い土地に住んでいる人に自分の描いた絵はこういうものだと事細かく説明できますか? 僕はそういうのが得意ではないので、しばしば伝言ゲームみたいになっちゃうんですよ。これが誰もが当たり前にまだラテン語を読めなかった時代で、聖書の記述すら読み書きの技術を持つ教会の神父様に読み聞かせていただかなればならなかった時代となると、もっと大変だったと思います。もちろん、そういう誤解が広がらない為にバチカンの偉い司祭様たちは色んな対策を立てたと思いますが、果たして「悪魔の姿形まで全員の意見を一致させようと手を回す余裕があったのか」はわかりません。イラストというのは文字や言葉より強烈です、写真の無かった時代ならそれは写真の代わりすらつとまったほどに。それでもやはり限界はありますよね。実際にあるものを観察して正確に描いたものなら兎も角、空想の風景を自分が見たことのある風景に喩えながら暗中模索で描きあげたらしいドラゴンのイラストですから尚更。もちろんそれを見せる相手が目の前にいたなら言葉にして説明できたでしょうが、その絵が本に載って遠い土地にいる人たちの手に渡った時、そして彼らが字を読み書きできないとかそもそも違う言葉を喋っている人たちだったりしたら、蛇の舌の絵が火を吐いているように受け取られたりしても即座に訂正したりできないのでそのまま広がってしまいますよね。
ここでちょっと本旨に触れていますが、空想上の生き物は実際にはいないのでそれが絵や銅像といった形にされる際、実在する動物の特徴をつぎはぎにして成立する時がある、というのが比較生物学的な知見で言いたかったことであるように思います。
恐竜の化石にしたって、伝説に語られるファブニールやヒドラそのものにしか見えない代物が発掘されている訳じゃありませんから。そもそも恐竜の化石から想定した想像図が最近すこしずつ変わっているらしくて、僕が映画で見たティラノサウルスはコモドドラゴンじみた堅そうなウロコに覆われた姿でしたが、いまは鳥のように羽毛が生えていたのではないかと言われているそうです。ここはもう少し言及すると、恐竜の末裔はいまも空を飛んでいる鳥、特に渡り鳥である、なんて話にも波及していきそうですが、僕はそのへん浅学なので触るだけで容赦していただきたく思います。
最後に歴史学、人類学、宗教学、あとすごく恐縮なんですが地理学から見たドラゴンの話をしたいな、と思います。ここがすごく自分が興味ある分野になるので話が長くなりそうなんですが、そのほとんどが他の人からの受け売りの知識・聞きかじりの知識であることを先に明言してから話したいと思います。この話を僕にしてくださった皆様に限りない御礼と尊敬を。
まず、先程までドラゴンが火を吐くのは、蛇の舌の特徴を取り込んで描いた想像図を見た別の人が、その絵の様子を「火を吐いている」と誤解して広がったからではないのか、と話題にしていました。さらにここを掘り下げて「何故火を吐いている姿に見えた(誤解した)んだろう?」という話をしようかと思います。
ドラクル公の話にも戻りますが、西洋ドラゴンは悪魔に連なる存在であり、人々にとっておそろしい敵役だったと言います。これは特に難しい理由がある訳ではなくて、人間より大きく、翼を持っていたり、人間の頭を咥え込める大きな口にずらりと牙が並んでいたり、ずばり「人間に噛みついて攻撃してくる蛇という生き物が人間よりでかかったら食べられそうで怖い」という恐怖心が、当時の宗教的道徳観で形成されている独特の恐怖心とつよく結びついた結果だと思います。恐竜は人間を食べそうだから怖い、ドラゴンは人間を食べるから怖い、悪魔は地獄にいて人間に悪いことをするから怖い、というのが全部同じ話になってしまった時、「ドラゴンは悪魔の手先である」という話になるんですね。そこにバチカンの神父様まで話を合わせはじめるともう誰も待ったをかける人間がいなくなる。恐怖とは使い方があるのです。「食べ物を粗末にすると目が潰れるからしてはいけない」なんて言い回しが日本にはありますが、本当にそうなのか?といえば絶対にそんなことないですよね。それが本当の話になってしまうと、目が見えない障がいと向き合って生きている人たちはみんな「食べ物を粗末にした」罰でそうなったという理屈が通じてしまうので大変失礼な話になります。ぶっちゃけこの言い回し、嘘か本当かで言えば嘘の話ですよね。でもいま食卓に並んでいる食べ物を、少なくないお金を支払い、少なくない労力を駆使して調理し、なんとか苦労して食卓に提供し続けている親からすれば、それを子供に台無しにされるのはひどくつらいことであるしその悪癖を矯正しないまま大人になっても子供のためにはならないからなんとかやめさせたいと思うのは当然なわけです。しかし、突然の家庭不景気に陥れば金銭交換ままならず明日にでもご飯が食べられなくなるという話を、お金の単位すら知らない無知の子供に納得してもらうまで言い聞かせるのは大変な交渉スキルと言語センスを必要とされます。これが「何故人が人を殺してはいけないのか?」「何故人が人から物を強奪してはいけないのか?」というレベルから説明しなければならないとなれば途方もない気分になってきますよね。なのでそれを説明する側は、悪いことをしてはならないという理由として「悪いことをすれば怖い目に遭う」と方便…つまり一種の嘘を用いるという苦肉の策を導入することにしました。これが日本で言えば「目が潰れる」とか「人攫いにあう」とかで、キリスト教が国教である場所では「悪いことをすれば悪魔のいる地獄に落ちるぞ」とか言われるようになる訳です。ドラゴンに食べられるのは誰だって嫌ですよね、僕はジュラシックパークでティラノサウルスに食べられるレベルから嫌ですしサメだって怖いですから、悪行に対する応報としての悪魔、地獄で罪人を責め苛む悪魔がドラゴンを操るなら当時の人たちにとって2倍の怖さになる訳で、時の宗教家たちはおそろしいドラゴンを悪魔に与えることでみんなが神の御言葉をもっと信じて慎ましく穏やかに生活する世界(=悪人が悪魔とドラゴンをおそれて悪行を思いとどまったり、間違えてからでもそれを悪いことだったと反省して償いをする世界)が形成されることを期待したわけです。なので実は違う種類の複数の恐怖が、宗教道徳という枠組みの中で融合するのは全然難しい話ではないってことですね。ドラゴンが英雄に退治される話が多いのも似たような理由です。人間の勇者が悪いドラゴンを退治して財宝と美しい伴侶を獲得して幸せに暮らす…というのは敵が強いぶん本当にそれを乗り越えられるならば素晴らしい成功であるように思える訳ですね。実際に、ドラゴン退治の伝説は宗教に組み込まれた結果、聖ジョージのドラゴン退治など、有名な宗教説話としてたくさんの人々に親しまれています。強いドラゴンが悪であったほうが都合がよかった時代や場所があったということです。
この長い前提があって、ドラゴンが火を吐く話が続きます。まず多くの宗教において死者の国・地獄とは地下世界に想定されます。そして程度の差はあれど、地獄とは炎の世界で、罪をおかして死んだ者はその炎に焼かれてずっと苦しむと説かれます。これはキリスト教も例外ではないというか、悪魔が住む地獄とはその典型例であるように思いますね。何故地獄が燃えているかと言えば、人間が火に焼かれる痛みを強烈に忌避する話の他に、古い時代の街並みが火災に弱いというのが挙げられます。日本でも江戸時代の平屋づくりなんか想像してくだされば分かりますが、木材を含む家屋が道の両脇にずらりと並んでいるのは火災に脆弱なんですよ。火災の真の恐ろしさとは「燃え移る」「燃え広がる」ことです。デマゴーグが人々の間であっという間に拡散して個人の名誉毀損の度合いがもう取り返しがつかなくなってしまう様子を「燎原の火」などと喩えますが、あれは草原に火を放つと一瞬で更地になるほどの規模の火災になることのようだと言っています。この草が家に置き換わったようなことが頻発しやすい都市計画というのが密集した家屋群にあたります。隣の家同士の距離が近ければ近いほど深刻だという認識で間違いないと言えます。対岸の火事なんて言い回しもあるんですが、実は一つの川を挟んだ対岸で火事が起こっているとしても、風向きと風速次第では火の粉が飛び火してきて火事になることも珍しくないらしいです。キリスト教の地獄の話をしているのでその圏内にある国の歴史を話題にするなら、ロンドンのテムズ川を挟んだ両岸の街々が飛び火が原因の大火事の被害に見舞われたことがあるそうです(これはNHKのドラゴン特集の受け売りです)。時代が昔に遡れば遡るほど消火技術というのが未熟なので、燃え盛る地獄のイメージが成立したほどの大昔となると一度家に火がつけば街一つ灰になるのも特に珍しくなくて、それが冬越し前ともなれば家の壁と屋根なしで厳しいヨーロッパの冬を耐えなければなりません。みじめなんてものではなくて、死にます。火事から助かったとしても家も財産も食べ物も燃えてしまっていて、最悪の場合助けてくれる隣人の家まで飛び火で火事になってて誰も助ける余裕なんかないとなれば、そういうのを「地獄のような風景だ」と言うのでしょう。これを避ける為に毎晩高台に見張りを立てるなどの習慣が根づいたそうです。ファンタジーでやぐらに立つ見張りといえば敵国の侵略者を瀬戸際で発見するだとか怪物が村や街に侵入しないようにする為だとかいうイメージで、もちろんそういう意味での見張りもありますが、一番怖かったのは火事だそうです。というか、敵国の兵士に火付けされることだってあります。火攻めとか言われる戦法で、この場合は侵略者と火事が同時にやってきます。侵略者は火で街の財産がすべて灰になる前に大急ぎで火事場泥棒をはたらくので容赦する時間的余裕はありませんし、火をつけられた街の住人だって火に焼かれるか人に殺されるかの極限状態ですから狂乱しています。ただの火事より、もっと大勢が死ぬでしょう。侵略者はまさに地獄からやってきた悪魔や化け物に見えたでしょうね。そうやって実際にあった大火災の惨事の記憶が、架空の風景である地獄のイメージを補強して、いまの地獄絵図というものがあるそうです。だから「悪魔の手先であるドラゴンが火を吐く(操る)のは当然だ。地獄からやってきたのだから」と言われれば、なんだかすごく話の筋が通っているように思いませんかね?
その上で更に別の解釈を交えます。地獄は地下世界にあると先述しましたが、地下にあると言えば何を想像するでしょうか。道具や芸術品の材料や貴重品そのものとして今でも生活の身近にある鉱石や宝石も地面の下から採掘される資源です。しばしばドラゴンは財宝と関連づけられることを思い出させられますね。化石も地下から現れることが多いです。ドラゴンが地獄に住まう悪魔のペットであることと、ドラゴンのイメージを形成するのにひと役買ったらしい恐竜の化石とがつよく関連づけられるような気がしますね。それで、マグマも地下には流れていますね? マグマによる火災被害、つまり火山の噴火というのはそれほど頻繁に起こる訳ではありません。少なくとも、毎日地球のどこでも火山が噴火しているともなれば人間の生存圏はもっと狭くて、地球は人間には住みづらい星だったでしょう。将来的にそうなるかもしれませんけどね。それはそれとして、噴火は頻繁に起こらないので毎日人間がマグマに殺されているというほどではないと思いますが、それ故に今でも予測して対策が立てづらく一度起こってしまえばおそろしい被害規模となる天災でもある。邦画にもなった漫画テルマエロマエの舞台くらい昔のローマにおいては、伝説的な火山の噴火によって当時の大国が大打撃を受けたらしい…そしてそれはただの伝説という訳ではなく、地質学や考古学的な研究からも実際に大災害が起こっているという史実的な話だそうです。ところでテルマエロマエという作品に触れましたが、これはお風呂をテーマにした漫画です。日本でも観光地各地が抱える温泉施設というのは間欠泉という自然現象を利用したお風呂であることは周知ですね。この間欠泉…温泉というのが、地下の水源がマグマによってあたためられて地表に噴き出す現象で、多くの温泉はそのまま人間が入浴するには適さないほど高熱だったりします、死ぬような大火傷を負うほど熱いこともあります(程度の差はあり、中には最適な Permalink | 記事への反応(1) | 14:56
うそとは事実に反することー事実って何よ?なんでそれに反したらいけないのか?
事実は人の意思より尊重されるべきという感覚、これは欧米+日本人の基本的な考え方だが実は地球上のありとあらゆる人にとって当たり前の感覚ではない。
人間を含むすべての物を想像した創造主がなしたことが事実だから人間より偉いわけ。
これは創造主(ヤハウェ、日本では天照大御神)が信仰の対象となっている人々の間では当たり前すぎる間隔なんだわ
ひるがえって中韓では、儒教の仁が最優先とされる。仁とは「他人に対する親愛の情、優しさ」の事でつまり他者に
そして自分の属する集団の長に近ければ近いほど仁を優先しなければならない(家族なら親)
つまりだな中韓の人々は事実ではなく、自分の属する集団の為に最大限の仁を発揮するのが正しいと思っているわけなのよ
次に法治に話を移そう
法を守らなければいけない、法を破ったら罰してもいいのはなんでだ?
法の源泉は、創造主に人が約束した事柄(戒律)なんだよね。創造主との約束をたがえたものは罰せられて当たり前という感覚
欧州には「法」王がいるだろ、アメリカも元々牧師がアメリカに渡ったときに神とその地を治めることを約束した文書から
始まっているわけだ。(法廷で証言する時にも聖書に手を置いてうそをつかないことを誓うだろう?)
さて、日本ではどうか?もうお分かりだと思うが、天皇は創造主である天照大神の末裔という神話であり
全ての法律に天皇は目を通して署名をする.日本の法王は「天皇」
天皇は、法治・事実を人より上に置く という基本的な先進国の考え方を日本人に
これがなくなるとどうなるか?
俺の友達の吉田君はマジでレスバする時に血の涙を流すんだけど、一度どうしてそんな涙を流せるのが聞いたことがある。
詳しく聞くと吉田君はキケロの末裔で、鉄砲伝来とともに日本に先祖が入ってきたらしい。
兎に角いろんな弁舌を使い生計を立てて、徳川家の弁舌役として、様々な大名の間を取り持ってきたらしいんだ。
でも徳川家、もとい自分の家の生命が全て弁舌にかけられている分、教育も熾烈を極めていたらしい。
まず2歳で言葉を話し始めた時から、今まで吉田家がやってきた弁舌を全て頭に叩き込められる。
そして毎日16時間の学習をする。そして6歳になるとある山奥の納屋に閉じ込められて、自問自答を繰り返し続けるんだ。
飲まず食わずでそれを7日間続けると、目の前にぼうっと、黒い顔をして血の涙を流す顔が浮かぶらしい。そして、そいつと弁舌バトルを繰り広げる事になる。
吉田君の兄は、その弁舌バトルに負け、今は精神病院でずっとうわごとを呟き続けているらしい。
でも吉田君は負けずに、ついに勝利したらしい。そして外に出てふと自分の頬を触ると、手に血がついている。実は問答していたのは鏡で、まさに自分自身と戦っていたわけだ。
その日から、吉田君はレスバをするとき、血の涙が浮かぶようになったらしい。でもそれは、吉田君の努力の証で、実際吉田君がレスバで負けたのは見たことはない。