はてなキーワード: 存在意義とは
トップブコメにもある「子どもだから」「自我が確立してないから」仕方ないみたいな態度は子どもを軽んじてるし、そんな素振りを見せるのは逆効果だから絶対やめたほうがいいと思う。
読書感想文や作文が書けない子はとどのつまり褒められたいんだよ。大袈裟に言い切ってしまうと、書けない子は人から承認されうることがないと自分には存在意義がないと思う傾向にある。
変わった趣味を持ってて周りと話が合わなかったり、おっとりしていて出し抜かれがちな子。そんな子ほど周りより目立って称賛される立場でないと釣り合いがとれないんじゃないかと考えるのでは?と僕は思う。
もはや自分の思考なんかに興味を持つ人間なんていないというぐらい悲観的な子も中にはいる。現に自分はそういう小学生だった。
幼稚で平々凡々なものを提出して「自分は人より劣っているのでは?」「取り柄なんてないのでは?」という不安に苛まれること。それは彼らにとってのアイデンティティクライシスであり避けなければならない事なんだ。
そして本をよく読む子ほど文庫本の解説や雑誌新聞の書評といった「洗練された感想文」を目にしているため、自分もそういうものを目指して書こうとする。
評論や解説というのは対象をよくリサーチしそれで得た情報を整理していく作業。なので「かっこいい文章を書きたい」と手段と目的を倒錯させて取り掛かると当然うまく書けない。
この場合だと読書感想文のための読書になってしまうので本をちゃんと読めていないんだ。本を読んでいても、先生を唸らせる様な独創性がありかつ思慮の深い自論をどう構築するのかみたいなことばかり考えている。
(流石に小中学生でそれを明文化できるほどのメタ認知ができる天才なら苦もなく文章なんて紡げるので、本人は自分のそういう感情をはっきり把握はできていないだろうけど)
僕個人の体験からいうと「エルマーの竜の続きを考えよう」とか「ごんぎつねを一人称視点にアレンジしよう」みたいな課題は楽しく書けてた。そういう二次創作は対象を読んだときの解釈等で個性は出るけど、ベースは原作の世界観や設定を引き継ぐので気持ちが楽。
万が一「それは変だ」と指摘されても、「課題の物語がああなんだから仕方ないだろう」「自分の勝手な想像なんだから自由だろう」というダブスタで煙にまける。卑怯かもしれないがそうでもないと自分は書けなかった。
なので物は試しで増田もお子さんに課題図書の続きを考えることを一度進めてみてはどうだろう?
それですらすら物語を紡げる子ならなんとかそれを書き留めておく。そんで休み終盤でにっちもさっちもいかなくなった頃合にそれを基に読書感想文を完成させることを勧める。
自分の経験だと親に変わったアプローチを勧められると、どんな評価が下されるかわかったもんじゃないと反発していた。おそらくその案を採用するしかないというところまで追い詰められてないとすんなりそれを飲んで書き進められなかっただろう。だからあえて終盤まで書くことを意識させない方が却っていいかもしれない。
早い段階から取り掛かってしまうと「先生ベタ褒め完全無欠の読書感想文」を休み中ずっと追い求めるという地獄にのまれる可能性もある。それで苦手意識を強めるのもよくないので、そのためにも一旦読書感想文の存在を忘れさせてあげるのもいいのではないか。
「なぜ読書感想文を書くことが苦痛なのか?」という切り口の作文にスライドさせてけみたいなブコメもちらほらあるね。でも本の感想というテーマ設定があっても書けない子に、より自由度の高い作文は茨の道だろう。
最近はてなのホッテントリでよく見るんだけど、トランス女性(MtF)が男湯に入るか女湯に入るか問題。個人的には男性器を切除していれば女湯、そうでなければ男湯に入るべきと思うが、どうもこういう考え方をするとトランスフォビアとレッテルをはられて聖戦を宣告されてしまうらしい。でもいくら考えてももやっとするのでなぜそう思うかを書き留めておきたい。
根本的な問題は、「なぜトランス女性は女湯に入りたいのか」ということだと思う。この問いに関して、いろいろな理由のつけ方はあるだろう。「女性と一緒に扱われたい」とか「自分の性的志向の対象に囲まれているのは落ち着かない」とか。ただ、結局究極的な理由としては、「自分と違う性別の人と裸で一緒に風呂に入りたくない」ということに帰着できるのではないか。もし見落としがあったら教えてほしい。これはある意味そもそもの男湯・女湯の存在意義であるだろうから、自然な感情ではあろう。
しかし、ここでどうしても気になるのは、「それって女湯に入ってる女性もそうなんじゃないの?」ということだ。もしトランス女性の外見が一般的な男性と同じであれば、女湯に入っている女性たちは「少なくとも自分と違う性別の見た目をした人と裸で一緒に風呂に入っている」ことになる。つまり、結局女性側の希望と、未手術のトランス女性側の希望がコンフリクトしている。しかし、なぜか「マイノリティに配慮してトランス女性側の希望**だけ**を認めろ」という方向に議論が進みがちである。ここが全く理解できないのだ。
例えば同性婚であれば、これを認めることはLGBTにとって大きな利益となろうが、異性愛者にとっては少なくとも直接的な不利益とはならない。こういう、ある意味「誰も損をしない」事柄は積極的に認めていくべきだと思う。しかし、女湯問題は、トランス女性と「非トランス」女性の利益が真っ向から衝突している。こういう時は多数が少数に配慮しつつ落としどころを探っていくしかないが、その落としどころも、「手術済みトランス女性は認める」以上は正直難しいように思える。もちろん、ホルモン療法で見た目を近づけられるとかそういうことはあるので結局は気持ちの問題ではあるのだろうが、人が本当に何を考えているかは他人にわからない以上、誰もが認められる客観的な基準を不可逆な手術に置くのは明確な基準になるだろう。しかし、どうもその考え方だと「LGBTに無理解な滅びるべき前時代的な人」になってしまうらしい。それはあまりに暴力的な主張に過ぎないだろうか。
自己肯定感とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり、自尊心、自己存在感、自己効力感、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる言葉である。 (ウィキペディアより)
自己肯定感が高いほうが幸せになれるだろうし、低いほうが生きづらいのではないかと思う。できるだけ高いに越したことはない感情であろう。
そういうわけで私も自分を肯定しながら生きていきたいのだが、人生そううまくもいかないのが常である。
妖怪こと私の上司が、事あるごとにめちゃくちゃのバッキバキに自己肯定感を破壊し、蹂躙してくるのだ。
あなたが頑張ったってしょうがない、誰も聞いてない、あなたがやってることに意味なんてない、そんなこと考えてなんの意味がある、ーーだとか、そんなことを言われる。妖怪ババアに。
うまくいったら私以外のスタッフのおかげ、うまくいかなかったら私のせい。
うまくいくように私が裏でどんなにアプローチしていたとしてもそんなの意味ないのであると。
みなさんの周りにもいませんか。こんな妖怪。
ほぼゼロだった私の自己肯定感を高めてくれたのは推しだった。少しずつ少しずつ、大事に大事に育ててやっとふつうくらいになった。このご時世、コロナのせいで推しには会えない。職場の妖怪にしか会えない。私の自己肯定感は蹂躙されるばかりで復活される気配はない。久しぶりにこんなに死にたい気持ちを味わった。とにかく今がつらい。
ブコメが自分が信じれないものは全部釣り認定とか頭まで派遣になってて草。日本は広いんだぞ、これに近い環境の女性なんて一定数は存在するだろ。あんま狭い認識だと派遣になるぞ。
うーん、雑な釣りを援護してくれてありがたいところだけど、釣りです。皆さん雑だ雑だと仰いますが、個人的には釣りは釣りと見抜ける程度の雑さが大事かなと思います。ネットは広いので、増田de真実しちゃう不思議な方も沢山いますしね。ヘイト煽りの嘘は釣りの範疇を超えますしね。
余談ですが、一応モデルの女はいますね。わたしではありませんが。彼女は超ストイックで優秀で、おっとりして見えるのに性格がすごく悪かったですね。性格……というよりは差別的な人と言った方が正しいかもですね。身内にはとっても優しいいい子なので。
後半に縦読みを仕込んだのですが誰にも気付かれず無念です。
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ストレートに言えばエリート。高学歴だし、自分で言うのもなんだが顔は良い。
元が良い分努力も惜しまない。帰国子女だから英語ができるのは当然、英語だけじゃなくてスペイン語が話せる。中国語も日常会話程度ならばマスターしている。出世コースを走っているし、かつての同僚も今では部下。
メイク、スキンケア、ヘアケア、ファッションにも、女として全力。金も時間もかけている。
いくらお金が稼げるからといって、家事ができないのはつまらない。高校時代にそう思い立ち、共働きの両親に変わって家事をしてきたので1人分以上の家事も難なくこなせる。更に、趣味が高じてかよった料理教室のおかげで、今では普段の食事からちょっとしたフルコースまで自在に作れる。
顔よし、頭よし、稼ぎよし、家庭的と、四拍子揃っており、条件的には完璧な人間だろう。ここまで読んだ人ならわかるだろうが、性格は理想的ではないだろう。
自分が完璧主義な分、恋人にも完璧を求める。だが、わたしは求めて良い人間だと思っている。それに見合った努力をしている。
もちろん、普段の生活でこのような考えを表に出すことは決してない。バリキャリで嫌味な女として生きるのはつまらない。「人当たりが良くおっとりして自信なさげ、だが実は出来る子」、を演出している。個人的にはこれが一番理想的な人物像だと思っている。
そのせいか、一昨日派遣の男に告白された。以前から食事に誘うなど鬱陶しい態度を取られてはいたが、まさか告白してくるとは思わなかった。驚きすぎて、告白された瞬間「は?」と口に出してしまった。告白すれば私が付き合うとでも思ったのだろうか?なぜ?
わたしは今の地位につくまでに膨大な時間をかけて努力をしてきた。中学生の時から夢に見ていた第一志望の会社だ。企業の就職は、医者のように資格さえあれば済むものではない。採用は運も大きい。それでも、「運悪く不採用だった」なんて言い訳せずに済むように、すべてを磨いて生きてきた。頭だって学歴だって顔だって言葉遣いだって体系だって少しでもいいほうがいい。初めは希望の部署に配属されず、何度も移動を希望して、やっと今、好きな仕事を出来るようになったのだ。
それを、派遣社員!派遣社員だ。健康なのにフルタイム派遣で働く意味がわからない。何が楽しくて派遣になるというのか?美容師ならわかる。美容師に憧れてなる仕事だ。派遣社員は違う。派遣社員で仕事に情熱が持てるのか?楽に稼ぎたいならもっと良い仕事はいくらでもある。なりたくもない仕事について、人に使われて、人生を棒に振ってる。労働は人生の半分だ。その半分を安く買い叩かれ、ピンハネされていて何故我慢できるのか?
はっきり言って、派遣と付き合うなんて「無い」。あり得ない。いくら顔がよくても、性格が良くても、価値観が合わなさすぎる。
もし子供ができて、「お父さん(お母さん)の将来の夢は何だったの?」と聞かれたら、派遣社員とでも答えるのだろうか?ありえない。無理だ。
派遣なのに、わたしと付き合おうとなどしないでいただきたい。わたしの好意は、わたしのように、わたし以上に努力をしてきた人にだけ贈りたい。貴方は一介の派遣としてはありがたい存在だ。会社の経営を安定させる首切り要員。社会的に存在意義のある人間だし、貴方の労働は会社に貢献している。
なぜいけると思ったのか?カッコ良くもなく、地味で不細工、喋り方もまどろっこしく容量を得ない如何にも無能そうな貴方と、わたしが?せめて敏腕派遣にでもなってからアタックして欲しい。3児の親の武田さん(仮)は、他部署が羨ましがるほど仕事ができる。貴方は違う。惰性の塊のような生き方をして、キャリアを積むべき20代を派遣として無駄にした人間だ。
生き方が違うということは、価値観が違うということだ。もしかして貴方は、会社の外では趣味に打ち込む情熱ある人なのかもしれない。だが、わたしは仕事にやりがいを見出してる人が好きだ。つまるところ、わたしにとっては、貴方は「派遣」でしかない。「派遣」がわたしにとってのあなたの半生の結果だ。あなたはわたしにとって魅力がないし、一般的に見ても魅力がないことを自覚してほしい。正直、あなたの食事のマナーには驚かされた。
リスみたいに口に食べ物を詰め込む30代のような見苦しいものを見たくなかった。断り続けるのも悪いと思ったから、これっきりではっきり断ろうと誘いにのったが、貴方が初めからはっきりしてくれれば、こちらもすぐに断れたのに。
やすみの日を無駄にした。私の時間は貴方のそれよりずっと貴重であるのに。ただの派遣なら、ただの派遣として丁寧に扱えた。派遣相手でもにこやかなわたしを演じれた。(余談だがうちの会社での派遣の扱いは酷いものである)
できればもう顔も見たくない。派遣なんだからさっさと辞めてほしい。わたしのように仕事にかけてる人間ではないのだから。仕事もできないのに、職場に恋愛しに来ないで頂きたい。……と、内心の罵倒をおくびにも出さないように生きるのは疲れる。性格が悪いのに、理想に縛られて生きているからだろうな。幸せ自慢だけど、婚約者だけが唯一の癒し。農家やってる歳下のイケメン。適度に身体動かしてるから筋肉質だし、エリート気取りでギスギスしてる職場の人なんかよりずっとさっぱりしてて優しい。農家は心の底から尊敬できる仕事だし。やっぱ百姓は最高だぜ。武士がいない現代じゃ、農工商、派遣だよね。
本を水平にして、本が開く側の角に近い位置を持つ。
手首で強くスピンをかけて、手裏剣のごとく、水平方向に回転させながら投げるのだ。
野球ボールのように手首を縦に振ってスピンをつけるのは、手首の構造上、わりと楽だが、本の場合は横に振ることになるので難しい。
そのためには持ち方が重要で、手を添えるように持つのではなく、指先だけで摘まんで持つのだとよく指導された。
なるべく本の角に近い位置を持てと言われたのも、今考えれば、手首からの距離を稼いでモーメントを大きくするためだったんだろう。
本の角を摘まむなんて行動は日常に無く、そのたびに指が吊りそうになるわけだが、練習すると痛みにも慣れてきた。
やがてスピンは良くかかるようになり、本の飛距離も伸びて嬉しかった。
あと、物体は上側45度方向に投げた場合が一番飛ぶと言われているが、本の場合、それだとバサッと空中で開いて落ちてしまう。
そのため、本を投げる場合は、水切りの石のように、水平に投げる方が良く飛ぶとも言われた。
徒然でなく、目的意識を持って水切りしたのは、後にも先にもあの頃だけだ。
指を吊ってまで本を投げるのに比べたら、それは授業で眠りにつくくらい、無意識に簡単だった。
それゆえ、河幅はそこまで狭くなかったが、石はたびたび対岸まで跳ねてしまう。
対岸に人が居ると練習ができず、シュッシュッと口に出しながら、手首を何回も「素振り」して練習に勤しんだ。
当然、薄くて大判な本ほど、空気抵抗が弱く、回転力が増すため飛びやすい。
すると、遊びの目的はいかに厚手で小さい本を飛ばすかに移ってくる。
小さいのでいかに手早くスピンをかけるかが勝負なのだが、それにもまして、厚手になるその重量に手首が負けてしまう。
スピンでの痛みは捻るような感じなので、捻れが戻るようにそのうち消えてしまうのだが、重量による痛みはグキッと来る致命的な痛みだった。
さすがにまずいと思って重量にこだわるのはすぐ辞めたが、一度だけ、広辞苑を学校の体育館の向こうの壁まで飛ばしたときはとても嬉しかった。
今なら、鳥人間コンテストで対岸まで届いた人を見た気分とでも言うのだろうか。。
まあ、利き手(利き手首?)は1週間くらい使い物にならなくなって、ノートを左手で書いたり散々だったが。
もしくは飛距離を競うこともある。
こちちは手首への負担という点では、それほど問題ないのだが、費用的な問題が壁となる。
長く飛ばしたいとなると、体育館や倉庫でも借りない限り、飛ばす場所は野外になる。
(ちなみに、学校の廊下は長さ的に十分だったが、他の生徒にぶつかる、蛍光灯を割るなどのイベントを経て当然禁止されていた。)
すると、本は飛ばすたびに土や泥で汚れてしまう。
ある程度の汚れだと、本のページとページがくっつくので、逆に飛距離が伸びることもある。
それを「本が締まる」と呼んだりしたわけだが、それでも表紙面に付着する泥が多くなると、真っ直ぐ飛ばなくなる。
それゆえ、本には定期的な買い替え需要が発生する。
いや、野外で飛ばす人でなくても、少しでも飛ばしやすい本を求めて本を買い漁ったりする地域性なのだ。
当然、古本屋もそういう需要を見越していて、価値はわからないが、とにかく薄くて大判な本を多めに扱っていた。
それは、ブックオフで100円なのにいつまでも積まれている価値の薄い本とでも言えばわかってもらえるだろうか。
そういえば、古本屋でいつまで経っても同じ本が積まれているというのも、大学入学で家を出るまで知らない現象だった。
そういうわけで、飛ばして遊ぶだけの内容がわからない本が、家にはいっぱい置いてあった。
だから、子供の頃は、どんな家でも2種類の本棚があると思っていた。
読む用と飛ばす用と。
後者は家の外に置いておくのが普通だったが、大人になってからは、そんな習慣は世の中に無いのだと聞いて、
逆に、汚れた本まで家に持ち込むの?家の中がドロドロになるのに気にしないの?と勘違いに勘違いを重ねたこともあった。
あと、地元以外の家だと、壁に本をぶつけた傷が無いことも新鮮だったな。
あれ、窓を割らないように投げるもんだから、窓と反対側の壁によく付けちゃうんだよ。
花瓶や壁掛けの絵画なんかも、実物は大人になってから初めて見た。本を投げて壊すかもしれないから、実家には無かった。
そして図書館は、飛ばすための「道具」が揃う夢の場所だったが、当然そのような行為は禁止されていた。
「本を飛ばして遊ばないでください」なんて掲示が貼られていたのは、うちの地域ぐらいのものだろう。
図書館においてだけ、本は本来の存在意義を保つことができたのだ。
それでも、貸出を受ければ誰も見ていない。
図書館には必ずと言っていいほど、変なページで曲がり、ホコリや泥の付いた本があった。
図書館の本がこんなにキレイに管理されてる!と知ったのは、やはり実家を出てからのこと。
そういえば、実家近くの狭い公園にも同じ掲示が貼ってあったな。
野球のボールじゃなくて、本で近所の家のガラス割るっていう経験も、子供にはよくある経験だと思っていた。
そうそう、良い子は真似しないでね。
???「俺らの存在意義がなくなるじゃん」
久しぶりにVCでSFCのシレンをやっていて気づいたことがある。
序盤の終わりにさしかかるあたりでがいこつまどうという敵が出てくる。名前のとおり、ローブをまとったガイコツで、直線上に並ぶと杖から魔法弾を飛ばして攻撃してくる。
シレンにはモンスターにもレベルアップという概念があり、がいこつまどうが一つランクアップした「がいこつまじん」はなかなか強烈な魔法を使う。さらに上の「まおう」になるとこれはもうバケモンで、一回ヘタに捕まると蘇生アイテムがあっても行動の手番が回ってこないままなぶり殺しにされることもある。
ひるがえって「まどう」だ。久しぶりにプレイした俺を非常にイラ立たせたがいこつまどう。
まどうの魔法にはいくつか種類があるが、ポイントはただ一つ、そのどれもこれもが基本的に無意味なことだ。
プレイヤーをフロアの別のところに飛ばしたり、プレイヤーとまどうの位置を入れ替えたり…。
こんなことをしてもまどうには何の得もない。プレイヤーにもほぼ実害がない。あえて言うと探索のテンポが悪くなるだけだ。
中にはプレイヤーの速度を倍速にする、なんて敵を利するだけのものもあって、まどうは自分で加速させたシレンに距離を詰められたあと、無残に切り刻まれていく…。
なんだこいつは。何をしたくてこんなことをやっているんだ。
シレンの敵モンスターというのは、みんな、全力で嫌がらせし、シレンを殺しにくるのだ。
ゲイズもアーマーも大根も畠あらしもみんな本気だ。そして、その本気と能力とかが見事に噛み合っている。だから、特殊能力を連発されたらデカい舌打ちが出てしまう。
特殊能力のない脳筋は脳筋なりに愚直に通常攻撃を繰り返す。こいつらにはこれしかなく、この攻撃にこいつらは自分を懸けていやがるからだ。
特殊能力を使われても痛くもかゆくもないなんてのはがいこつまどうぐらいで、ところが当の「まどう」はそのことを理解していないのか、それこそてめえの存在意義、価値があると思っているのか、やたら高い確率で嬉々として杖を振ってくる。
久かたぶりのシレンで、俺は心底こいつに嫌気がさした。こいつのあまりの無意味さに。
子供の頃は「がいこうまどう、楽勝楽勝」と無心で殴っていたが、いまこいつがムカついて仕方がない。
…。
ここからが本題で、増田を見ていると、ときどき、明らかに釣りだろうと思われるエントリに大量のブックマークがついていることがある。
自分が正しいと信じて疑わない変人の(フリをした)エントリとか。
自分がいかに恵まれているかヘラヘラしながら説明する(ことが相手をムカつかせることに気づいてないフリをした)エントリとか。
それについているブックマーク。「作り込みが甘い」とか「釣れますか?」的な、斜めから見たコメントばっかりかと思ったら、けっこうみんな本気で怒りや批判を表明していたりする…。
おいおいマジかよ? と思う。
こんなもの、公衆便所に書かれた「0X0-XXXX-XXXX。すぐやらせてくらます」とか(最近もう見ないのか)、下世話なまとめサイト見てたら表示される日本語のアヤしい「あなたは当選しました」とおんなじで、どう考えてもバカをひっかけようとして舌出しながら書かれたエントリに決まってんじゃん。
それ言ったらこの増田がそうじゃねーか、ってツッコまれたら俺には反論できねえけども。
ともかく、意味ないし、見ててムカつくからもうやめてくれよ、と思う。
苛立ちに上下なんかないし、俺がムカつきたくないからもう反応すんなってのは釣りに頭から湯気立てて反応する人たちより1mmだって上等じゃないが、あんなん相手の得になるばっかりじゃねえか。
だから、お前らはSFCシレンのがいこつまどうか?ってことだ。
ちなみにがいこつまどうと同じフロアにはモンスターのレベルを上げる能力を持つ敵が一緒にうろついていて、「まどう」もこいつと出会うと一気に凶悪な「まじん」になる。
IT業界って昔はスキルさえあれば極限まで人格破綻でもオッケーみたいな風潮があったけど、最近は人格破綻が許される基準がドンドン厳しくなってるように思う。
それは他の分野、それこそスポーツ選手とかでも一緒で、ウサイン・ボルトや藤井聡太クラスであっても、愛されるような人間性があることで始めてそこに存在意義が生まれているような節がある。
もしもボルトがネオナチ思想や差別主義を極めていたら、世界一足が早くてもどこかの代表としては走れなかっただろう。
藤井聡太だって、もしアレが世の中超舐め腐り系で好きあらば「老人は死んだほうがいいよね」「今の人類のレベルでIQ110ない人……人権剥奪したほうがいいと思いますよ」とか毎日のように口にしてたら、もしかしたら将棋連盟が彼を追放するとかもあったかも知れない。
とにかく、現代社会で求められる最低限度の人格のハードルはかなり上がっている。
昔と今のハラスメント基準の変化なんてまさにそれで、それによって業界の表側から消えていった人はどこにでもウジャウジャいるだろう。
最初、この増田は厳しい時代になったってオチでまとめようとは思った。
でも実際書いてみて、まともな人が運悪くキチガイに潰されるリスクが減ってるんだから総合的に今の方が人生の難易度は全体で見れば下がってるんだろうなと考えを改めた。
オチが消えた?
いやいやこれがオチでいいでしょ。
最近の曲を聞いているとギターソロっぽいパートで速弾きっぽいメロディとか流れてもどうせ打ち込みなんだろうなって思うようになった。
昔はライブなんかでギタリストが前に出てきて速弾きをするとそれだけで盛り上がったものだけど、音源となってしまってはギターの速弾きには何のメッセージ性も感じられない。
そもそも楽器は人が鳴らすことが前提に作られていて、人が演奏できるものとして進化してきたのだけど、今や音はコンピューターが鳴らしていて、極端な話、ギターの音自体を使う必要自体がなくなったということになる。
言い換えれば音そのものを自由に作ることができるようになった今の環境下において、楽器の音を使うという意味がノスタルジー以外にないということになってしまう。
何もギタリストに限った話ではないのだが、速弾きを打ち込みで聞いていると一生懸命に練習していた人たちの努力が無駄なもののように感じられてしまった。
誰にでもできる仕事だと思います。中学生の頃から2ch、Twitter、ネトゲに没頭していたので、ネットに(自称)詳しい、よくいるチー牛です。
普段は高齢社員にTeamsの使い方を教えたり、ワードやエクセルの質問を答えてあげるだけの仕事をしています。分からないことは常駐エンジニアに聞きに行きます。
契約上、常駐エンジニアは社内の決められた区画以外に入室できないので、自分のような自社社員がご意見伺いをする必要があります。
契約さえ変えれば自分が要らなくなるのは自明ですし、仕事で自分の存在意義が全く見えません。
印刷したエクセルを電卓で計算し、ハンコを押すだけの仕事をしていた高齢社員も必要とは思えませんが、それでも自分より長くこの会社で勤め続けた方々です。
生きている大半の人は希死念慮とか焦燥感と孤独感に苛まれた経験がないって本当なの…?
自分の生命体としての魅力や存在意義のなさに絶望してどうしようもなくなったりしないの……?
希死念慮はあるけれど、一般的な倫理観や価値観は備わってるから、自らで生命を断つことや死への恐怖だけは人並みに刷り込まれてるから死ぬに死ねない辛さやもどかしさがつらい。
生きている理由もないけど死ぬ勇気もないからダラダラ生命活動を維持してるのは甘えなんだろうか。あ、今死にそうだって思いながらもなんとか踏んばってる。がんばりたくないけとがんばらなきゃいけない。
目に見えて分かってしまう容姿への劣等感、それによって形成される他者とのコミュニケーションや相関図が苦しい。ああ、満たされない承認欲求と自己顕示欲。なんかすごく俗っぽい悩みの種なのがものすごく嫌だ。