はてなキーワード: 存在意義とは
32歳腐女子と30腐女子の友人を読んで、てっきり腐女子のお悩みかと思って読んでみたら、
ざっくりいうと、人生におけるお金の使い方が違ってきた、だから離れたっていう話だった。
これって、腐女子、オタクに限らず、きっと子持ち、既婚者、独身者でもよくある話だと思うんだよね。
子持ちは人生において、子供の割合が、既婚者は配偶者が、独身者は将来の不安が。
それぞれに、それぞれの人生で悩んだり。
子供供にお金をかけるか、配偶者との生活のためにお金をかけるか、自分のためにお金をかけるか。
お金をかける割合が変わってくるから、話は合わなくなってくる。
まあ将来を考えて、貯金とかないのはどうかとは思うけど。
それはオタクだからというわけじゃなくて、個人の性格の問題で、
たぶんオタクじゃなくなっても何かしらにお金を使っちゃうんじゃないかなと思ったり。
そして、結局の所、みんなオタクというのに劣等感を抱いているから、いつまでもオタクでいられないと思っているし、
特にオタク趣味にお金をかけすぎてしまうタイプ、欲望が抑えられないならなおさらの事。
そんなふうに思ってしまって、あんな文章になるんだろうな、と思う。
根本の問題は主にお金の使い方、そこから派生して考え方や行動の話なんだけど。
まるで原因は腐女子(オタク)だから駄目、ってなってる気がするなー。という。
まあ、ある意味ステレオでみんなが想像しやすい『痛いオタク』が大人になった。
本当はこの日記のタイトルも腐女子にしたほうが良いんだろうけど、あえてのオタクっていうひとくくりにしてみた。
タイトルに対する前置きが長くなったけど、とりあえず、そろそろ自分はアラフォーでゴリゴリのオタクだ。
人生に置いてオタクであることは、拠り所でもあるし、正直なところ、作品に浸るという行為はとても幸せだからだ。
だから相変わらず漫画もゲームも小説も映画も見るし、お金を使う。
ただまあ、将来のために貯金をしたり、仕事もそれなりに、そこそこ頑張っている。
年齢を隠してSNSなどで交流をしてみたりすると、若い子たちは本当に元気だし、創作意欲に圧倒されたりして面白い。
好きだからこそ、それだけが『逃げ道』だったり『存在意義』にならないようにしている。
きっとオタクと呼ばれない趣味を持っている人間も、似たようなものではないのかな、と思う。
1発ヤりたいな〜と思ってた男性に「彼女がいるから」と拒絶され、無理になってしまった。
男性の言い分はごもっともではあるが、じゃあなぜ彼女持ちのくせにインスタのDM送ってきた?飯誘ってきた?下心丸出しでちんぽ勃てながら、いやむしろ勃てたちんぽの先でLINE打ってただろ。それでメッセージ送ってきたくせに、今更人の顔してんじゃねえよ。
といったことをLINE上でまくしたてたら返事が来なくなったので、おそらくブロックされたと思う。腹立ったので私もブロックした。インスタもブロックした。
向こうのLINEから察するに、私は彼に「彼女持ちの男に惚れた女」みたいな認識をされてたと思う。だからめちゃくちゃ申し訳なさそうに彼女いることを告げられた。
は?なに?だから?彼女いるからなに?下心丸出しで近寄ってきてなに?罪悪感あるから会えないってなに?今更じゃない?女と会って散々連絡取り合って、何が今更罪悪感だよ。私の事ちょっとでもエロい目で見てるから罪悪感出てきたんだろうが。クソが。黙ってちんぽ入れたら良かったやろうが。
私は、女としてのプライドがずたずたにされて、本当にいま立ち直れない。
つらくてつらくて仕方ない。もう女としての自信失くした。といっても過言ではないくらいいま男の人と関わりたくない。
自分のことちょっとだけ可愛いと思ってて、自分のことがめちゃくちゃ好きだから、異性に否定されると本当に死にたくなる。なんで私じゃダメだったの?こんなに可愛いのに?おっぱい大きいのに?パイパンだよ?乳首舐め手コキめちゃくちゃ得意だよ?ピル飲んでるし性病検査もクリアしてるから、生がいいならゴムだっていらないよ?
女性の尊厳がどうこうってフェミの皆さんは言ってるけど、私はこうやって異性に拒絶されると女性の尊厳が踏みにじられた気がするよ。社会的立場なんかじゃなく、男性から「お前とはヤれない」と言われたときの方が女としての自分の在り方を問うよ。
私は性的な部分でしか自分の女性としての存在意義を感じられないからなんだけど、異性からの拒絶は自分そのものを否定された気がしてしまって、立ち直れなくなる。いま本当に死にたい。別に相手イケメンとかじゃないけどタイプの人だったから1発ヤりたかった。付き合いたいとか全くなかった。わたし彼氏いるし。下心丸出しで餌に飛びついたのは私もそう。でも彼女大切にしてる男が寄ってくると思わないじゃん。こんなトラップってないよ。ひどいよ。据え膳食わぬは男の恥って知らないの?
元
https://anond.hatelabo.jp/20200703193938
https://anond.hatelabo.jp/20200704211736
https://anond.hatelabo.jp/20200705112649
これを読んでいつも思っている話が何となくよぎったので少し書いてみる
上のブログでは、「対価システムにとらわれるコミュ障」の話がメインで語られている。非常に面白い考察なので是非とも全編読んで欲しいのだが、簡潔に言うと「自分に自信のないオタクはもともと自己評価が低いために、相手に対価のあるものを提供しようとしてなんとかコミュニケーションをとろうとするが、特に相手はそんなものに興味はなく普通に人間として交流できる人が欲しいため、コミュニケーションをとれずに終わりがち(最悪の場合は相手に対価を求めてすらしまう)」みたいな話である。
自分もこの「対価システムにとらわれるコミュ障」側の人間なので「わかる」という気持ちなのだが、これに加えてこういうタイプの人間には「人間性への興味の欠落」が発生しているのではないかという思いがある。わかりやすく言うと、七瀬は綾瀬の作った作品にしか興味がなく(本人が自覚しているかどうかはともかく)大して綾瀬という人間には興味がもててないのではないか、という話である。
「いや、七瀬は綾瀬のことをかっこいいとか言ってるし、ツイッターでの日常ツイートとか見てるかもしれないだろ」という意見もあるかもしれないが、結局は綾城を「神作品を作ることができるマシーン」としか捉えていない。「神作品を作ることができるマシーン」がどういう日常を送っているかには興味があっても「自分なりの人生を送って、こういう性格をしていてこういうものが好きで、創作をしながらも日常を送っている綾城」に一切の興味がないのである。なんならさらにいえば「自ジャンルの神創作をする綾城」にしか興味がない。いっぽうの中島は、きっかけは綾城が神作品を作ることかもしれないが、きちんと綾城という人間に興味を持っているように見える。だからこそ中島は綾城に一人の創作を楽しむ人間として色々なジャンルをお勧めできてともに楽しむことができるし、友川は綾城を自ジャンルにどうにかして引きずり戻そうとするのである。
自分の観測範囲では、こういう創作者を「創作者」としてとらえて人間性への興味をなかなか持てないタイプの人を特に創作界隈でよく見かける気がしている。(そして私もそうである。)
こういう場合、コミュニケーションが創作を通じてのみになりがちである。具体的に言えば推しの話や創作をする際の悩みの話、そして自分の作品のみでコミュニケーションをとるのである。
もちろん、それが悪いとは言わない。なんなら創作界隈なんぞ「推しの話をせずになんの話するんだ」「ごたごた言わずに作品で語れ」みたいな界隈なのでどこもかしこも大なり小なり上で書いたような空気はあると思う。が、上で言うような人間性への興味がかなり欠落している人は、「それでしか」コミュニケーションをとらないということになってしまいがちなのである。そしてそうなると往々にして息苦しくなることが多い。なぜなら、その界隈での自分の存在意義を「どれだけ良い作品を作れるか」「推しへの熱量」のみによって測るようになってしまうからである。
誰もが常に創作を続けられるわけではない。日常が忙しくなったり、色々なジャンルに興味が出ることもあるだろう。そもそもとして人によって使える時間、お金は違うし、ジャンルにかけることができる熱量も違う。一つのものに熱を注ぐ人もいれば色々なジャンルをくまなく漁る人もいる。にもかかわらず、創作の質や量、そしてジャンルへの熱量のみで自分の存在意義を測るのならば、ちょっと忙しい時期が続いたりスランプに陥ったりするだけであっという間に居づらさを感じることになってしまう。
普段から創作の話やジャンルの話しかせず、リプライも推しの話か創作の悩みの話のみしか交し合わない。それでいて自分がジャンルに時間や熱量を(やむを得ない事情で)あまりかけられなくなると、「自分は界隈での存在意義がない・・・」とか一人で勝手に病みだすのである。傍から見てると自業自得のただの面倒くさいやつである。
こういうことは人間性によってコミュニケーションをとり、関係性を築いてる要素が多少にでもあれば起きづらい。普段から「△△な作品を作る○○さん」ではなく、「○○さん」という形で多少なりとも人とコミュニケーションを取るようにしていれば、創作に多少熱量が避けなくなっても「自分の居場所を失ったように感じる」ことは少ないだろう。なぜなら自分自身の存在が存在価値になっているからである。(もちろん完全に不可分というわけにはいかないと思う。でも、創作をしている自分100:自分自身0という状況に比べれば、90:10とかにしておくだけでもだいぶ変わるだろうという話である)
だが、人間性に興味を持てないオタクはこうすることができない。上で述べたように創作を通じたコミュニケーションしか取れない。そうするとやはり熱量のみでしか存在価値を確保できないし、それが少し減るだけでとあっという間に居場所を失ったように感じるのである。
補足だが、これはすべて自分から見た視点での話である。界隈の他の人が自分を自分自身としてみてくれていてもあまり関係ないのである。大事なのは自分自身が他の人とどういう風にコミュニケーションをとろうとするかである。「創作を通じてのみでコミュニケーションをとろうとしている人間」は「創作ができない自分自身はコミュニケーションをとることができない」と「勝手に自分で感じて」、「勝手に居づらさを感じている」のである。ただただ面倒くさい。
この話は「自分自身という人間に価値を感じることができないので、代わりになんとかして対価を出す」という話と外からは同じように見える。なんとかして対価を出すことによって存在価値のない自分が相手とコミュニケーションをとろうとしているとみることもできれば、相手という人間に興味を持つことができないので、コミュニケーションをとる方法が創作しかない、とみることもできる。おそらく多くのこのタイプの人は両方の側面があって個人個人によってそのウエイトが変わるだけだと思う。あるいは、例えば自分という人間に価値を感じないので、相手という人間に対してどういう風に興味を持てばいいのかわからないのかもしれない(たぶん自分はこれ)。
どうするべきかわかっていれば正直自分もそんなに困っていないので、個人的には結構難しいイメージがある。特に、相手という人間に対して興味がないならば興味を持てるようにすればいいじゃないか、とぃう話にも見えるが人に対して興味が持てるならこんなにこじらせてないし、もっと人生楽に生きることができると思う。相手という人間への興味を持てないからこんなに面倒くさいことになっているし、自分自身の存在を承認してもらい、社会や界隈とどうにかしてコミュニケーションをとるために手を動かし続けているのである。
その中で個人的に大事だと思っているのは、「自分を自分として見てくれる人からの言葉を否定しない」である。創作でしかコミュニケーションをとれず、創作が進まないために人とやり取りできなくなっている時に「あなたはあなたのままでいい」と言ってくれる人がいたら、そこで「いや、自分なんてなんにも出せてないし語れないし・・・」と卑屈になるのをぐっとこらえて素直に受け取るようにするのだ。そういうやり取りを少しづつ積み重ねていくと、そのうち「相手が自分のどういう人間であるところに興味を持ってくれているか」がわかるようになってくる。そうすると、今度は自分という人間への興味の持ち方が少しづつわかるようになってくる。そうすると、そのうち相手の人間性に対して興味を持つことが少しづつできるようになると思う。
おけけパワー中島のムーブをぐっとこらえて素直に受け取っておくようにすれば、そのうちおけけパワー中島が自分を救ってくれるかもしれない。
感想要約
『天気の子』は"子どもたち"(陽菜さんと帆高さん)が自然災害と対立する話ではなく,実際には"大人たち"と対立する話であるという視点が大事だと感じた。
『天気の子』では"大人たち"や社会は,"子どもたち"と"世界の仕組み"のふたつを無視していることが描かれる。
そして偶然にもそのふたつを兼ね備える子どもたち,つまり世界の仕組みを担っていた子どもたち(陽菜さんと帆高さん)が,今度は今まで自分たちを無視してきた社会を無視するという決断をする。
この決断が天気の巫女をやめて東京沈没を選ぶということだった。
①自然災害は無慈悲かつ強力なので人々は受け入れるしかないが,天気の子を人柱にするなどの方法はあった。(これが"世界の仕組み")
②しかし世界のことに興味を持つ"大人"はほとんどおらず,大人の多くは自分の生活を優先していた。
同様に子どもたち(帆高や陽菜さんたち)を優先する大人もあまりいなかった。
児童保護施設は陽菜さんたちがあのまま暮らしたいという意思を無視した。
須賀さんも家出した帆高が東京で暮らすことを手助けしていたが結局は娘のために帆高を島に帰らせようとした。
③大人たちが良識的で常識的な対応を続けた結果,帆高たちは追い込まれてしまった。
帆高は一度は手に入れた3人暮らしの幸せをもう一度実現するために,人柱になった陽菜さんに対して帆高は自分たちが幸せに生きるために社会のことは無視しよう,と伝える。
④数年後に帆高が東京に戻ると,何人かの大人たちは東京沈没を受け入れている様子が見られた。(もともと海だった場所を埋め立てた土地がまた海に戻った,など)
これは①の自然災害は受け入れるしかないものという態度が一貫している。
帆高はこれで本当に良かったのかと自問する。そして自分たちならきっと大丈夫だと確信して終わる。
改めて,帆高と陽菜さんの決断はよかったかと考えるとあんまりよくはないだろう。
最も良い可能性とは大人たちが子どもたちのことを理解し,世界の仕組みを知り,一致団結して自然災害と対峙することだった。しかしそうはならなかった。
じゃあ陽菜さんの命と東京とでどっちが大事か,とか聞かれてこっちですとか言える人もあんまりいないだろう。それはつまり帆高のやったことが間違ってると言える人もあんまりいないということである。
そもそも帆高たちには人柱と東京を選ぶトロッコ問題のスイッチがたまたま与えられただけで(陽菜さんにとっては自殺か東京かを選ぶスイッチである),彼らは別に英雄や総理大臣とかじゃない。彼らが人々を助けなきゃいけない理由も特にない。
だがしかし陽菜さんは一度は晴れを届けるという形で人々と関わることを自分の生き方の形として納得していたので,陽菜さんにとって人柱になることはそういった生き方の延長線上にはあったかもしれない。
帆高の言葉は,そうやって新たに獲得できたばかりの天気の巫女というアイデンティティも捨てて生きていこうという提案だったわけだ。
この辺は前作の『君の名は。』より話が一段階難しくなっているなと感じる。『君の名は。』では,三葉は隕石から町を守るにあたって父親(大人たち)の協力を得られなかったが,結局子どもたちだけでうまく問題を解決することができた。
一方で『天気の子』では東京沈没はうまく回避できなかったし,世界の在り方だけでなく,これから陽菜さんたちはどう生きていけば良いのかという彼ら自身の問題まで提示されている。
『君の名は。』の話を出したので,『天気の子』含めこれら2作における"世界の仕組み"観についてちょっと振り返る。
これら2作では何か神様のようなものがもつ絶対的なルール(黄昏時とか入れ替わりとか天気の巫女とか)と,自然が持つ絶対的な脅威が関連している。
これらは新海誠監督の美しい自然の描写や生々しい街の描写によってより説得力を持つものになっている。
まず世界に都会(東京)と自然があり,そしてその両方を支配している絶対的なルールがある,というのが世界観の基本にある。そして2作ではその絶対的なルールに巻き込まれた若い男女がテーマとなっている。
都会と自然の中に同じ神秘的な仕組み現れるというのは現代のアニミズム的な思想を感じる。
『君の名は。』では神秘的な存在というのは,神の領域としてしか現れず,つまり肉体(?)を持つ神様のようなものが目の前に現れるということはなかったが,『天気の子』では雲の魚や龍のような存在が描かれていて,神秘的な存在の具体的な描写が新しく行われていると思った。あの龍みたいなやつかっこいい。
ちなみに雨が続くやつは台風ではなく巨大な寒冷前線(真夏に雪が降ったのも特徴)として描かれている。これは非現実的な災害として描かれていた。
『天気の子』の大人たちについて,彼らの対応が極端に間違ってたかというとそうでもないだろう。一応,陽菜さんが空に消えた夜に多くの人が陽菜さんが泣く夢を見たらしいが,それでも天気の巫女とか信じて行動するのは難しいだろう。
とくに刑事たちの働きぶりは淡々としていて彼らの思想が見えてこないと最初は感じたがむしろ仕事に内面が出ないというのがまさしく大人らしい態度だったのだろう。
高井刑事が帆高にイラついたり,安井刑事が泣いている須賀さんに声をかけるというシーンは彼らの人間味を出しているが,しかし彼らはとくに雨や天気の巫女については言及しなかった。(つまり世界の仕組みを認知していないあるいは興味がなかった)
その一方で,世界のことに興味があり,また就活中の身でありながら帆高や陽菜さんを助けるためにバイクでお尋ねものになってくれた夏美さんは"大人たち"には全く当てはまらない人物として描かれていると感じた。
夏美さんのこの作品における存在意義,特に就活に失敗するような描写がなんの意味をもっていたのか,夏美さんが持つ就活の問題が帆高たちとの関わりでどう変化したのか,あるいは変化しないならなぜそんなシーンを入れたのかを結構不思議に思っていたのだが,こう考えるとあのシーンは夏美さんが大人たちの側の人間ではないことを描写していただけだったのかもしれない。
ついでに帆高が銃持つ必要あったのかという疑問もあって,最初は陽菜さんの天気の巫女の力と対比するための帆高の力として与えられたのかな〜〜くらいに思っていたがあれもやはり帆高と社会の対立を深めるための舞台装置だろうと思っている。
『天気の子』は大人たちと子どもたちの対立を強調しているが,これらに当てはまらない大人も当然いた。
天気の巫女と人柱の仕組みについて知っている老人や,雲の上についてはしゃいで話す研究員などは世界の仕組みに関心のある人たちだった。また立花さんや天気の巫女の一環で関わった人たちのように,誰もが帆高たちの邪魔をしていたわけではない。
須賀さんについて振り返ると,家出の理由を明かさないがとにかく東京で暮らしたいという未成年の帆高の意思を初めて尊重し仕事と住処を与えたひとだった。しかしやがては帆高を匿うことのリスクを考えて,万札と帽子を渡し帆高に帰るように伝えた。
帆高の家出の理由は最後まで明かされなかったが,深刻な事情があるかないかに関わらず意思を受け入れるというのは尊重の仕方として正しい形だろう。
須賀さんは最後は帆高のもう一度陽菜さんに会いたいという心に,妻を亡くしもう一度会うことが叶わない自分と通ずるものを感じたのか,警察と対立し帆高を解き放つ選択をとる。
ここは帆高解放連盟のなかでも夏美さんや凪(先輩)たちとは全く違う動機を持っている感じがする。須賀さんはなんというか常に帆高を対象として動くキャラだなという感じがした。初対面でビールをたかるシーンからは想像できないキャラクターの広がり方だった。
そんな感じで『天気の子』はどうにもならない話だったという感じがあるが,帆高はまだ未来があると確信してたので今後に期待大。
帆高まとめ
発端の感想屋さんの話題に乗って現れた有料感想屋さんとかとにかく話題の瞬発力が爆発している
TLが賑やかなので黙っておけばいいのに隙あらば自分語りがしたくなった
自分は自己愛が強いけれどコミュ障を言い訳にじっとり人を妬む型の字書きだった
内容云々よりもお手軽に読める文が更新頻度が高かったがために存在できた
書けるから書いていた
テンプレネタでも内容がない短文でも書いてさえおけば読んでもらえる立場だった
(後に5ちゃんで支部連投は嫌われると知ったが後の祭りだった)
当然ネタは常に枯渇していた
そんなときに現れてくれるのが多分傍から見たら「感想屋さん」と見なされるような存在だった
拙い文に感想をくれる人を私は求めた
そんな人たちは熱い感想文をたっぷりくれてそれに対する返信を重ねると自然と萌え語りが盛り上がる
萌え語りがまとまってくると私はそれを文にして公開した
更にそれに評価がつくともとの「感想屋さん」はその時点では実質的には「原案提供者」になっている
私は「原案さん」にフィードバックして更に萌え語りをヒートアップさせてしばしばそういう「二人で生んだ作品」を連載した
この内情を詳細に外部の人が認識することは出来なかっただろう
自己肯定感の根源である感想も作品の原案さえも「感想屋さん」から飛び出した「原案さん」に依存していた
生活サイクルや環境の変化である日ぷつりとメールが途切れて私はそれを深追いしない
依存しきった私はひとりで連載を続けることはない
また違う話を書き始めているうちにまた新しい「感想屋さん」が現れて次第に「原案さん」になっていく
萌え語りをしてもらってそれを文にすることが私の存在意義だった
自分が何を書きたいかなんてない機械の癖に感想を欲しがる傲慢さは唾棄すべき見苦しさだろう
今となってはジャンルもお互い知らないかつての「感想屋さん」であり「原案さん」だった何人かの人たちを思い出す
ジャンルの空気とか当時は全然考えたこともなかったけれどなんとなく昨今の流れで思い出してしまった
特にオチとかないし一度書いてお蔵入りしようかと思ったが派生の流れで「絵師でも字書きでもないROM専の人にもマシュマロで萌えツイートに対する感想とか送りたい」というツイートを見かけて
私にとっての「原案さん」たちも自分は何かを支部等に投稿していた訳ではなかったけれど少なくともその萌え語りが私を通して作品として生まれていたので
「君はロックダウンは関係ない」って言いたいのだろうが、それは後付であって、感染拡大の時は最善の措置をとるのが第一。後付での批判は害悪。
だが、敵がいないと自分の存在意義がなくなる。という維新の矛先としても使われたと。後付の批判って時点で醜悪だが、それに加えて敵を叩いてないと存在できないという醜悪さもダブルで加わる。
何よりまた再拡大起きてんだがどうすんの?って話もあるな。
そもそも新自由主義は「敵がいてそいつを叩いたら問題解決」って側面もあるからなぁ。
だから吉村知事はコロナが落ち着いて「敵」がいなくなった。敵がいないと自分の存在意義がなくなる。東京都知事選で暴れようとしたられいわ山本が出て来たった。維新の候補では宇都宮には勝てたかもしれないがれいわ山本には勝てない。
だから、接触を減らせっていう西浦教授をとにかく槍玉に挙げようとした。
ああいう詭弁強弁叩き合いの世界になれてない専門家であれば「敵」として仕立て上げても反抗はしてこないだろうにと。
かわいそうにねぇ。
当落線上でもない限り、政党に所属して大きな票田をもっている候補に自分の一票を加えてもさしたる価値はない。それよりも落選確実な泡沫候補に投票した方が一票の価値を高めることができる。そうした候補にとって、供託金没収点を超えるか否かは大きな関心事である。供託金没収点を満たさないであろう候補にとってはなおさら一票の価値は重く、身内以外に投票する人の存在は大きな励みになるはずだ。
私自身は特定の政党による恩恵を得ておらず、当然支持する政党もない。そればかりか政党の存在意義そのものを疑問視している。日本国憲法になんら規定されていない「政党」なるものが立法・行政・司法の三権に大きな影響を及ぼしているのはおかしい。国民の代表者たる国会議員や住民の代表者たる地方議会議員が、政党役員の配下として振舞うのはおかしい。(日本共産党は例外だが)政党であることそのものが政党助成金という大金を得ることはおかしい。選挙においては、政党に無所属であることがマスメディアに泡沫候補扱いされて活動が紹介されないこともおかしい。
そうしたことから、政党に所属している候補はそれだけで私にとってマイナス評価なので、必然的に政党無所属の泡沫候補に投票することになる。この観点からすると東京都民でない私にとって、多くの泡沫候補を擁し多様な選択肢がある今回の都知事選は羨ましい。反現職勢力の票が分散されるという反対意見もあるが、仮に小池氏ともう一人の一騎打ちの形になったとしても小池氏が当選することはほぼ明らかなので候補者数を絞ることに意味はあまりないだろう。それよりも反小池勢力にとっては、多様な選択肢によって小池票を一票でも減らせられる現状は好ましいことだろう。