はてなキーワード: 多義とは
こういうときに限って計画的に買い物してて冷蔵庫パンパン状態!
ねえねえあなた冷蔵庫ベジータって名前だって!私これが良いわ!って
グッとこないわよねああいうの。
誰ターゲットなのよ!って
確かにペルソナを作成してターゲットユーザを明確にするのは大事だけど、
ベジータって、
とりあえずもう処理しきれない野菜。
これでも召し上がれ!!!
早く寝た分よく寝てしまって、
それはそれで良いのか悪いのか?
とりあえず洗濯干して
それも味気ないので、
手間は掛かるけど、
煮出してしっかり抽出した麦茶はなんかテクがいるんじゃないかって。
もろきゅうにして食べちゃったわ。
うふふ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
Just Because …多義性が顕著な現代英語の生きたイディオム。「なんとなく」「ただそれだけで」「ただそれだけのために」などさまざまに訳される。アニメでは物語の進行にあわせてこのイディオムのニュアンスが変容する。あるいはこのニュアンスの変容こそがメッセージとして物語に書きしるされたのかもしれない。
In Unison : 一斉に みんないっしょに
第一話内、勇気とか元気とかあたたかさとか決意とか、そんなものが音になったような応援歌にのってJust Becauseの意味に変容の予兆があらわれる。
第一テーマのつぎのドラムソロ。マウンドちかくにつむじ風がおこり、瑛太の目に決意がともる。
高校三年の3学期という意味をうしなった待ち時間に風がふき意味が芽生える。
第8話 High Dynamic Range
Just Because のニュアンスが大きく変容する。
瑛太のセリフには「しょうがない、こうしかできない」といった消極的なニュアンスが目立つがじっさいには夏目の後を追いはじめている。
瑛太は転校初日に陽斗になげかけたのと同じ問いを小宮から受け、気づいてか気づかずか、第一話の陽斗そっくりの答えを返す。
夏目はなんとなく決めた進路の必然性を問われ自己の未来と対峙する。
陽斗は瑛太を負けるなと励ます。瑛太は勝ち負けじゃないというが陽斗はそれでも負けるなと励ます。
ここでもう一度In Unisonが流れる。タイトルと同様、第一話に呼応している。ただしここでながれるIn Unisonはブラスバンドのちからづよい合奏ではなくピアノだけのひかえめな主旋律で、しかも第一テーマの後半部が一度きりだ。もう応援歌の役割を終え、それぞれの場所へ一斉に旅立つみんなをやさしく送る曲になっている。第一話で位置についたものたちがみんなそれぞれの目的に立ち向かい、それをのりこえたからだ。
第一話冒頭では「なんとなく」程度だったJust Becauseのニュアンスは物語のなかで力を増強し、ついに「ただそれだけのため」「ほかに理由なんかいらない」といったつよい意味を帯びて最終回へといたる。みんな一緒に、それぞれの目標にいどみ、そしてのりこえた成果だ。かれらはいっせいに走りはじめ、つぎのステージへと向かう。
このアニメが受験シーズンに放送されたことは偶然ではないだろう。元気をもらった受験生も多かったはず。わたしの受験はとおい過去だが、それでもこのアニメからはたくさんの元気をもらった。わたしにとって、いまなすべきことは受験勉強ではなく研究開発と制作と執筆と介護だ。吹奏楽部員だったこと、全国大会を目指したこと、野球部を応援した夏、写真学科の受験、絵をさがしてカメラかついで原チャで街をまわったこと、みんなみんな遠い過去だ。でもいまだってつまづくたびに立ち止まり、休み、そして前へ出る。生きる限り前へすすみ、高くとびつづけたい。
今回は裏サンデー
後半の漆原と心葉のやり取りがディスコミニケーションのお手本みたいで、不覚にも笑った。
円滑なコミニケーションにおいて重要なのは、多義に渡りやすい言葉の解釈を当事者たちで同じにしたり、軌道修正を細かにすること。
やり取りをする人たちで個人の事情だとか価値観だとか、前提の共有が成されている必要があるんだけれども、それをすっ飛ばすとグダグダになりやすかったり不和を生じやすい。
大雑把に言えば、伝える努力と理解する努力の両立が大事なんだよね(もちろん当事者たちがコミニケーションを求めていなければ話にならないけれども)。
漆原と心葉は互いのバックボーンを知らない上、その状態で話を進めたもんだから、ああなるのは必然だった。
モデルの件で心象が悪くなっているから、解釈の軌道修正をする余裕が心葉にはなくなっているし、漆原は言葉足らずなせいもあって逆なでするような発言を繰り返すし。
ラブコメっぽい感じは出しつつ、妙な警戒心を抱く描写がちょいちょい入るのは、あくまでスカしだってスタンスで読んでいいのだろうか。
穿った見方をするなら、ラブコメの差別化を図った結果よく分かんないことになっているのかと邪推してしまう。
そのあたりの方向性が定まっていないせいなのか、テーマと構成は一貫しているのに、表現だとか演出に何だかチグハグさを感じる。
当然、意図してさせているってのは分かるんだけれども、そのキャラがなぜそういう喋り方かっていう説明がないから軽薄だと感じてしまう。
例えば、吹き替えとかで日本の地方の訛りで喋っている登場人物がいたら、その役者や登場人物の元の喋りが訛っているが故の意訳とか、そういう妥当性はともかくにしても何らかの理屈が欲しい。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
3割YESかな。
そりゃあ、好きかと聞かれれば好きだと答えるかもしれないが、それは体裁を気にした結果の応えだからな。
他人の好き嫌いが千差万別であるのに、わざわざそれを発露するということは別の目的があるからだ。
つまり、そーいう対象を好きだと言える人間は遠まわしに自分が好きだと言いたいということさ。
対象が実存している必要もないから、何なら漫画やアニメのキャラクターでもいいかもしれないな。
個人にとって何でもいいわけではないし、理由や目的は多義に渡るだろうけれども本質はソコさ。
仮に嫌いだと言っても、自分のことが嫌いだと言える自分が好きなのだ。
是非がどうとかではなくて、自己愛とそのために発露をする手段を工夫して生きていくことは人間の本質で、それとどう付き合っていくかという話さ。
不特定多数の人間がいる場所で、不特定多数の人間が正しく理解できるわけがないことを、何の実益もない条件で書く。
それだけでは孤独感と作業性が増すのだから、潜在的な自己愛を糧にすることは重要なことさ。
承認欲求よりも、発露する行為そのものに主な目的が付加されているパターンだな。
言い方を変えれば「呟き」で、そこに特化するなら今はツイッターもあるが、また別の機会に踏み込もう。
いずれにしろ本質の前には、その他の目的や理由は食玩のオマケさ。
まあ、お菓子か玩具、どちらがオマケかで自己との対話の余地はあるかもしれないがな。
その点で、私は極めて緩やかな意味合いで匿名ダイアリーにYESと答えたわけだ。
もしここが無くなったら、有名人の死に対してファンが言いそうなセリフや文章を書くだろう。
有料サービスになったら、無料信者のそれっぽい文言を吐き捨てて、別の媒体で手を変え品を変えて活動するさ。
ブクマが貯まっていたので、二度と読まないものは星の皆無に関わらず削除したかな。
いや、他にも役割や目的も勿論あるだろうけれども、私にとっての本質は「栞」だよ。
読まない本に栞を挟んでいたって仕方ないだろ?
「生」は生物という意味もあれば、生き方という意味もある。「金」はゴールドという金属も指し示せば貨幣一般も指し示す。漢字は連想性を高め、発想力や想像力を強化する。
「停留所」ならたった3文字で「乗り物の乗降車する場所」を表現可能。表音文字なら「ていりゅうじょ」で7文字もかかる。
【可視性の大幅な向上】
漢字なしでずっとひらがなやローマ字が続く文章を読むことは苦痛である。漢字、ひらがな、カタカナの融合は可視性を大幅に高める。
【未知の概念に対する強さ】
表音文字のみで「ていりゅうじょ」と書いた場合、その単語の知識がないと音や語感、表音記号だけではさっぱり分からない。まるで暗号のようにしか見えない問題がある。
しかし、「停留所」なら「停まる」「留まる」「所」という漢字1文字1文字が持つ意味から類推が容易である。
これは新しい単語を理解する、記憶する際に大きなアドバンテージになる。
日常ではそんなに新しい概念と出会うことがないが、学問をする場合は常に新しい概念や知らない概念だらけである。
これが意味のない音の連なりばかり(外国語直輸入のまま)であれば理解や記憶が苦痛になる。
「パーソナルコンピュータ」や「ソーシャリズム」、「ニューロン」が分かりにくく覚えにくいのに対し、「電脳」や「社会主義」や「神経細胞」が理解も記憶もしやすいのは当然である。これは漢字という過去の財産から知識データベースを引っ張り援用できているということである。
これだけではまだ常識が邪魔をするので、「ハニベニ」という単語で考えてみよう。前後の文から想像するにしてもチンプンカンプンな単語だ(いま私が適当に考えたので当然だが)。
でもこれが「埴紅」ならある程度想像もつくのではないだろうか。埴輪に塗られた紅色とか、類推しやすくそう大きく間違っていない場合が多いはずだ。
(そもそも漢字には部首があるのでそれだけで大まかな属性の判断が容易だ。「さんずい」なら液体などに関連した漢字だと即わかる)。
さらに停留所のような具体的物質の場合はまだマシだが、表音記号だけだと抽象的言葉の場合の説明がこれがまた非常に困難だ。
「ソーシャリズム」を説明するために「生産手段の共有化や社会福祉制度でもって平等な社会を実現しようと言う思想、体制」と漢字のように簡単に解説しにくいからである。
表音記号だけだと「タイセイ」とはなんぞや? 「フクシ」とは? 知らない言葉だ、とまた解説が必要になってしまう(知らない難しい単語が現れると類推もできないのでまたそこでつまづく)。
漢字だと「社会主義」と言うだけでも社会に関する約束事の考え方なんだなとある程度、理解できる。
しかし表音記号の場合、子供でも知っているような簡単でなるべく具体的、物質的で同音異義語の少ない言葉でないと、複数回の解説が必要になってしまうのだ。
具体例として言うと、「みんなでたべものや、せいひんをうみだし、みんなのもちものにするかんがえかた、みんなでこまったひとを、たすけあうやりかた」といった、幼稚な表現が必要になってきてしまう。そしてもちろん、これでは社会主義を上手く表現できたとは言い難い。
②そのトラは(他のトラに比べ)大きい。 →内的限定
theという定冠詞の役割は、ある特別な、特定の、唯一の存在を指すために使われる冠詞である。
外的、内的の前提として、「この世に存在あらゆる種類、あらゆる状態のトラ」(=tigersだな。これは。)の円をイメージする。
この円の外に更に、「動物」というカテゴリーの円(=つまり、animals)をイメージする。
①の外的限定は、動物というカテゴリーの中で特に、「tiger」という「特別な、特定の、唯一」に限定してるんだと思う。
で、結果として、他の動物(ゾウ、イルカ、サルその他なんでも)との対比というニュアンスが生まれる。
「トラ(=tigers)」の円の外との関係で、theの「限定」という本質的意味を受けてるから、これを「外的限定」という名前で個人的に呼ぶことにした。
②は、逆に「トラ(=tigers)」の円の内部で、ある種類、またはある状態のトラに限定している。
tigersの内部である「トラ」に限定しているから、これは内的限定と呼ぶのが俺は良いと判断した。
重要なことは、内的限定にしても、外的限定にしても、theの「特定にものに限定する」という本質が共に生きているということ。
実際のところ、①の外的限定は文語的、抽象的な言い方で、②に比べると実際にお目にかかることは少ないかもしれないけど。
少ないだろうけど、たまに見かけることはある。
例えば、今日のgigazineの記事中に出てくる写真内にある英文。
http://gigazine.net/news/20150908-32-hours-workweek/
The U.S. enproee averages 47 hours of work per week
この「The U.S. enproee」はtheの総称用法のはず。
たぶん、
U.S. enproees averages 47 hours of work per week
っていう無冠詞の複数形でも、アメリカの賃金労働者全体を指すことはできるし、
俺的には、無冠詞複数形ではなく、theの総称用法を使って書いてるのは、
およそ「世界中各国の賃金労働者全て」というカテゴリーの特に、「アメリカの賃金労働者は、」っていう対比のニュアンスを
出すためじゃないかと思ったんだけど。
タンブラーに書こうかと思ったんだけどやめたことがあって、コミュニケーションに関することだからそれはどうでもよくなっちゃったんだけど、ここでタンブラーじゃなくて匿名ダイアリーに書こうと思ったことに興味関心が移った。
フォロワーって初期ツイッターのころの、RSSリーダーの大量フィード購読者みたいのとは別になっちゃったなぁという。
フォロワーとなんとない空気感の中で気のせいかもしれない相互的な人間関係というものが醸成されている。あ、タンブラーはいまでも初期ツイッタ的なのかな。俺の使い方が身近な人+αしかフォローしてないから、タイムラインからそういう感じを幻想的に受け取っているだけかもしれない。
まぁなんだ、俺のフォロワー話を聞けよ。二分で済ませるから。キーボード打つ方は10分くらいかけてんだぜ。さっき新星堂で買ってきた木村カエラのベストでいうと3曲分くらいかな。Sun showerいい曲だよな。ホレ、これだよ。 http://www.youtube.com/watch?v=lIt1k9TwtTg
Instagramなんかもまぁ俺は個人的な人間関係において使っており、Twitterはアカウントによるんだがまぁ大抵飲んだことあるか飲みたいねぇなんて話してたりそうでもない方々をフォローしフォローされておるわけだが、はて何の話だっけ。
自分のタイムラインを信じる、という感覚を抱く人は居ると思うんですよ。全く何を言っているのかわからないというひともいるとおもう。たとえば1000フォローしていたらこんな感覚はないだろうし、人付き合い重視でクソツマンネことしか書かないひともフォロー外さないとか、そういう人もこの感覚はないとおもう。
そんでその上で他人の、というかフォロワー氏のタイムラインが彼を裏切らないよう、自分がタイムラインの一部として踏み外さない。いつものみんなの範疇にとどまる。いきなり文科系コミュニケーション論とかタイムラインに流入させない。少なくとも自分はそう心がけようか、みたいな。
ていうかね、パーソナルブランディングなんですよ。セルフブランディングと違うよ。ああこれ両方多義語だ。ダミだ。つまり自分で自分を操縦するための規定をおくということ。その並走として自分のタイムラインを信じられるような情報流入のコントロールをしたり、他人に流す情報の属性や質を加減したりチャンネルを切り替えるということ。
こんだけ情報発信のチャンネルを切り替えやすい世の中もないですよ。マツコデラックスだって媒体によってモードを切り替えているというし、だからみんなたまにはmixi日記書こうぜ!
http://anond.hatelabo.jp/20140625130105
女子大という名前が良くない。女性大学とでもすべき。二十歳を越えた大人の女性に、女子と名付けるのは差別的ではないか。
もしかして、「子」はchild、kidの意味しかないと思ってない?
考えてもみて。「生涯スポーツ大会 女子の部」にkidもgirlも出てないよladyの集いだよ。
孔子様はこどもなのにためになること言ってて偉いね!……ってちがうわー!!!!
こうやって、漢字は多義語という事実が忘れられていくのだろうか。
みんなたまには漢和辞典ひこうよ…。
それとも、「女子」と見ると反射的に「女の子」って脳内補完してしまうのだろうか。
ならちょっとわかるよおじさんわかるよすごくわかるよ。
えーと、推薦の話から始めると
このシステムを採用してる場所はとりあえず北海道で、漁民の町として俺の地元の例を出すと。
内申点が推薦の非常に大きいポイントを占める。つまり、図工とか体育とか家庭科がイマイチだと推薦取れない。
あと、ケンカ事件を一発起こしてるならその時点で推薦は絶望的かなー、と。
そういうわけで、点数は取れてるけど推薦は取れないって状態は割と俺的には普通かな、と。
かくいう俺も「入試めんどいから推薦欲しいっす」「おまえの内申じゃやれない。一般で受けろ」って経験あるんですよ。
地域によって違うんだろうね。地域トップの進学校への推薦があったように記憶してます。
あと、高卒総合職の場合大手企業の手取りは大体14万(額面17~8が多い)くらい。ものすごいスピードで上がる。
大卒でも20万弱に抑えられてる。これに関しては、増田さんもの知らず過ぎますね。
「25は最低あるだろ」って辺り、まぁなんていうか総合職と縁のない方なのかなーって思う。
それで「儲けられない」についてなんだけど。
本文を読めば、親が サラリーマンとして稼ぐ息子の稼ぎから吸い取る仕送り>>>>漁師としてリスクを負って得る稼ぎ
として考えていることを「もうけられない」の一語に集約して表現しているように、俺には思えるんだけども。
その「儲けられない」って言葉は非常に多義的に使われてる気がするけど、俺の読みがおかしいのかな。
つまり、親にとっての「儲ける」とは「何もせずに息子から送金を得ること」であって、息子の考える「儲ける」
と全く違う概念だった、ってこと(とそれに対する絶望)がここでは表現されているように思うんだけど。
いわゆる隠喩ってヤツじゃないっすかね。まぁ、ここは解釈の問題なんでどーでもいい気がするんですが。
最後に、「親離れ」についてですが、「漁師になる」っていう親頼りの未来しか先を描けてなかった時点で、
俺は元増田さんはすんごい親離れ出来なかったアホだと思ってます。
だって、ひとりで勝手に漁師やりゃいい話じゃないですか、どうしてもやりたいなら。
それを「家業を継いで親と一緒に」ってのにしがみついてるからめんどいことになってるわけで。
親が金銭的に息子に依存している以上に、元増田さんは精神的に親に依存してる、親離れできてないガキだと思いますよ。
その後の人生崩壊も、結局そこが原因じゃないですかどー見ても。漁師になりたきゃなれっつー話です。
気持ち悪い親子の相互依存が元増田の読みどころだと、俺は思うんですけどね。
「推薦」「収入」なんかについては特に問題ないようでよかったです。
別に知らなくても恥ずかしくないワードですけど、特に意識たかいたかーいなワードでもないです。
んで、書くうちにだんだんヒートアップしてったんだと思いますが、
しかしそれは、肯定するということではない
ああ、自分にはそういう側面も居るんだなと思いたいということだ
そこの産みの苦しみがある
新しい自分を認め、産みたいのにそれには軋轢が生じる
私は、すまないという言葉が好きだ
済まないと書く、済まないだ
おれは捉えようによって、そしてそれを発言する時に込める意味によっては非常に多義的で含蓄があり、目の覚める納得を喚起する
一体何が「済まない」のだろうか
自分・相手の気分が終わらないのか、自分自身の未完成さを言うのか、失敗や責任は片付くわけではないという意味なのか
なにはともあれ、「済まない」自分がいて、「済まない」相手がいて、そこに付帯する色々な「済まない」事物がある
それをさらけ出して、認めるという意味が「済まない」という言葉にはある様に思える
それは、自分自身と相手とそこで起こってくる事に対して向き合えている事を表すのだろう
現地人に間違われることも何回かあり、
北京語で筆談しようとして漢字を書いた紙を見せても英語で返される。
街中に溢れる英語はcentreとか-iseとかイギリス式だった。
ちょっと落胆した。
同じような顔をした東アジア人、同じ漢字の知識を持つ漢字圏の人たちと、
来日アジア人学生とは日本語で話していたから気付かなかったけれども、
日本に照準を当てていない外国人とは、いかに文化的人種的に近い東アジア人であろうとも、
最近東南アジアに行ったときも、やはり現地人との会話には英語を使うしかなかった。
現地の言葉を話そうにも、「サワディー」「カムオン」ぐらいしか分らないんだから。
英語は分るのに、同じような顔をした人達の基本的な挨拶も知らないなんて!
自分を恥じた。
日露戦争の時は日本人と清国人と朝鮮人とベトナム人とは、知識人であれば会話は出来なくても漢文で意思疎通が出来たらしい。
安は日本人看守に処刑前に「為国献身軍人本分」という自書を渡した。
今や朝鮮人もベトナム人も平均的な戦後生まれは漢字を理解しない。
もっとも千数百年前は当時の漢文が今の英語の立場にあったのかもしれない。
英語で世界が均質化されるということは、逆に言えば今まで交流の浅かった遠い国との距離が縮まる分、
隣国との距離が相対的に広がるということでもある。
追記:
文脈によってその指す範囲は異なりますが、本稿では、文面から、
「漢字や箸や仏教や儒教を伝統文化として擁する東アジアの国々」から「モンゴロイドを主要構成員とする東アジアの国々」
までを漠然と指している、ということを、感じ取れないでしょうか?
形式的には「中華人民共和国」という国連の基準では一つの国家の中に含まれていても、
ウイグルやカザフやキルギスやウズベクやチベットを「東アジア」に含んでいないことを、感覚的に理解できないでしょうか?
だから、そのほかの文化が滅びていくことが無念だ、というのがこの日記の主題なんですよ。
安重根の辞世の句、これは漢文だから魂が込められているのです。
同じ文句を英語で安が発言したとして、意味は通じるでしょうが、それはもはや魂のない「記号」でしかありません。
(漢文も土着の言葉を蹂躙して君臨してきた事実を差し引いてもです。)
今の韓国人は安の遺墨「為国献身軍人本文」「国家安危労心焦思」を読めません。
安の遺墨に込められた魂は漢字排斥により子孫たちから断絶されました。
私たちは、英語を汎用できる利便性と引き換えに、それぞれ固有の文化が持つ魂を失いつつあります。
英語以外の言葉を学ぶにせよ、世界中の言語全てを「平等に」習得するのは無理ですから、
何にせよ取捨選択はしなければいけませんよね。
ニコ動の「○○してみた」について考えてみる
記事でも触れられているが、今の「してみた」クラスタは、もはや多くが「してみた」ではない。
してみた、というのは一種のテストであり、そのテストは多義的である(してみることそれ自体のテスト、己の技術が評価されるかというテスト、etc)
つまり、これ自体が開拓の色を併せもち、開拓され、整備された今の環境ではそのテスト自体は殆どが後者の意味合いを持つし、ほぼ形骸したといえよう。
だからと言って、じゃあ「してみた」という名前を変える必要があるか?というと、その必要はない。今のままでいい。
むしろ気にかけるべきはそこで持ち出される「アマチュアリズム」という言葉だ。
フラット化するフラット化する、とさんざん叫ばれた電脳世界において、ニコ動が与えたのはむしろ格差の促進である。
再生数、コメント数、マイリスト数などあらゆるものが数値化され、ランキングでそれは大きな意味を持ち、ランキング動画にも影響を与えている。
ただし、そこにプロとアマの壁は存在せず、ニコ動で評価されるものとされないものという枠組みに改まった。
というのも、多くとは言わないがそれなりの仕事をしている人が参加していることは疑いなく、ならばそういう人が評価されているかといえば、そうでもない。
ユーザーに受けるかどうかが評価の差であり、技術の巧拙は幾分無視される。
そのような環境で持ち出される「アマチュアリズム」という言葉にどれほどの意味があろうか?それこそ、記事冒頭に出てきた「してみた」という言葉に対する「下手だけど勘弁して」な思考と同じ位相にある。
これは要するに「賞賛>批判」という格差を是認するものだ。一方で表現者を標榜していながらアマチュアリズムを盾にし、その口で批判は従者等と言うのだからおそろしい。