はてなキーワード: 入門書とは
クルアーンの注釈書(『タフスィール・アル=ジャラーライン』)を買って読んでる。
・キリスト教勉強してたら、そらぁイスラムも気になるわな、という感じで買った。
・その辺に売ってるイスラム本は入門書ばかりで、肝心のクルアーンの注釈書がどこにもない。
・と思ったら、日本ムスリム協会というところで注釈書が格安(1冊3000円で3巻セット)で頒布されていた。
・Amazonだと買えない。
・メールで注文した際、後払いで良いと言われてびっくらこいた。善良というかお人よしというか。信仰の為せる技なのか。
・本のサイズがクソでかいのには面食らった。A3サイズ?携帯は不可能。
・このサイズで1500頁ぐらいあるので、トータルで約1万円ってのはやっぱ安い。
・『タフスィール・アル=ジャラーライン』ってのは「2人の著者によるクルアーンの注釈書」ぐらいの意味らしい(?)。
・著者のマハッリーさんとスユーティーさんは大体1400年代(!)の人。
・この本はめちゃくちゃ簡潔なのが特徴で、簡潔すぎてわけが分からないので、”注釈書の注釈書”があるとのこと。
・その”注釈書の注釈書”のうち、ジャマルさんという人のものを、日本語訳者が適宜織り込む形で出版されたのが本書。
・ちなみに日本語訳者は中田香織さんで、有名な中田考さんの奥さん。
・あとクルアーンの全訳(?)も付いてるので別途クルアーンの日本語訳を買う必要は無さそう。
・1400年代の本が読めるのかって感じだったけど、割と易しく書いてあった。
・ただ途中で気づいたんだけど旧約聖書の知識があることを前提に書いてあるので、何も知らんとキツい。
・聖書の人物の名前がアラビア読み(?)になるので一瞬「誰だよそいつ」ってなる。イエスはイーサーで、ダビデ王がダーウード。
彼らは、「ユダヤ教徒、またはキリスト教徒でなければ楽園には入らない」と言った。それが彼らの望みである。言ってやれ、「おまえたちの証拠を持って来い、もしおまえたちが正しいのであれば」。(2:111)
・ただ多神教(≒不信仰者)disはもっとすごいので、それよりかはマシぐらいの感覚なのかも。
・アラブの人たちが日常生活で直面する困難や疑問に対して神の言葉が下されるという形で書かれた章節が多いので、最初のほうからやたらと具体的。離婚したら慰謝料払えよー(2:241)とか、アナルセックスするなよー(2:222)とか。
・これは良いなぁと思ったのは、人の善行が神に対する「貸し付け」となって、死後何倍かにして返されるよ、みたいな言葉。これはキリスト教にない発想よね。
アッラーに良い貸し付けをする者はだれか。彼はそれを倍加し、数倍にもなし給う。アッラーは締め付け給い、また気前良く広げ給う。そしておまえたちは彼の御許に帰らされるのである(2:245)
長くなったので以上。
芸能人の大学受験が最近話題になりましたね。ただ、これから研究する人が増えるかというと難しいかもしれないです。他の欲はもはや満たされたと思う人も少ないでしょう。また、学問でも労力を使いますし、娯楽が目と鼻の先にごまんとありますから。例えば社会人講義だとか学術書ではない入門書だとかテレビメディアでいうとクイズ番組や検証番組など、学問と娯楽のあいだのものはまだまだ増えるかもしれませんね。あとは余生の嗜みとして。
娯楽が形と色を変えたくらいのパターンの繰り返しであれば、学問はそうはいきませんので、そういう点でこれからも発展していくと思っています。
10年くらい前にアメリカのITの人がブログで、面接にきた技術者のほとんどがFizzBuzz程度も書けないって書いて、それでネットで流行ったんでしょ。
http://www.aoky.net/articles/jeff_atwood/why_cant_programmers_program.htm
あれは「ひとは棚に並んだ既刊よりも平積み完全新刊を求める」という習性に乗っかった商売だ
本当は「Cの定番入門書2017」みたいに年次改定すりゃいいんだけどそうすると2016が売れなくなるだろ(技術書は3年くらい前の発行はよくある)
あとはまあ、初心者ほど「解説が完璧にIDE最新版対応じゃないと戸惑う・不快に感じる」という面があるにはあるよ
毎年のように(下手すりゃ半年で)IDEのメニューとかツール画面とかコロコロ変えるIDE頒布側にも問題はあるのだけどね
いちばんいいのがコマンドプロンプトでCの基礎を学ぼう、みたいなのなんだけど、黒い画面(あ、今は青い画面か)では売れない…
その人の人生経験とかで何が刺さるか変わってくるからな社会科学は。
だから一概には言えんが、やっぱマルクスが入り口として良い。最近は入門書が山ほどあるし(池上彰、ハーヴェイ、不破)、何より単純に面白い。
そっからケインズとか読んでも良いし、現代思想に進んでも良いし、キリスト教に行っても良い(マルクス主義はキリスト教の異端なので)。
哲学ならサルトル、ニーチェ辺りがやっぱ分かりやすい。マルクスと合わせて読むとジブリ映画の意味が良く分かる。
でもやっぱ行き詰まるので、結局ここでもキリスト教を勉強せざるを得なくなるが。
法律学は暇な理系大学生がなぜか勉強してたりするんだけどお勧めしない。
俺はADHDだ。すべてが直前にならないと出来ない。
他人に迷惑をかけたくなくて、色々なADHD本を読んだ。入門書、医療書。だけど、どの本も書いてあることは同じ。
「定型発達者の助けがあれば、ADHDでも社会の中でやっていけます」
これ、意味ないんですけど。「定型発達者の助けがあればやっていける」って、要は、「他人様に迷惑かければやっていける」ってことと同じだろ?
世の中が定型発達者だけだったら効率よく社会がまわるのに、効率悪い仕事でミスするADHDが入ってきて、しかも定型発達者にも協力という名の迷惑をかけて、さらに社会の効率悪くするの?ただでさえ人手不足なのに?
結局、ADHDは生まれてくる価値がありません、定型発達者に迷惑をかけるだけの存在ですって言ってるのと同じじゃん。生まれてこなきゃよかった。
これを読んでいる人の大半は定型発達者だろうけど、あなた方は我々ADHDを自殺に追い込むべきだし、そうすることが社会のためだと思う。
定型発達者がADHDを殺すことが出来るようにすると、社会が混乱する。だから、それは出来ない。だけど、自殺はこの国では罪がない。社会に迷惑をかける存在である我々ADHDは、生きていることが迷惑で、死ぬことで社会に貢献できる存在なのだ。何もしなくていい、何も努力しなくていい、ただ自殺すれば社会の中の「迷惑」を減らし、社会に貢献できる。
我々ADHDは死ぬために生まれてきた。だから、定型発達者はADHDの自殺を歓迎しなければいけない。あなたがどのように思おうと、我々ADHDの自殺を喜ぶのが、この社会の正義なのだ。定型発達者は我々の自殺を喜ぶべきだし、我々は喜んで社会のために自殺するべきなのだ。定型発達者がどう思うか?そんなことは聞いていない。我々は生きるだけで迷惑な存在だ。それが消えてあげようといっているのに、なぜ、その流れを妨げようとするのか。
正しいことは誰がどう思うおうと正しく、間違ったことは誰がどう思おうと間違っている。人を殺すことは、誰がどう思おうと間違いだ。違うか?だが、自殺することは罪ではないし、人の死を歓迎することも罪ではない。罪ではないということは、許されているということだ。間違っていないということだ。
だから、我々が自殺することは間違ったことではないし、我々が自殺することによって社会から迷惑を減らすことを、定型発達者が歓迎しても罪にはならない。
それで社会の迷惑が減らすことができるならば、それは歓迎されるべき善なのだ。ADHDの自殺は善行、ADHDの自殺を定型発達者が歓迎することも善行。
とにかく手を動かせ系のひと完璧に老害だと思うんだけど、なんでかっていうと俺は18才の時にjavaっていう完璧に終わってるプログラミング言語の入門書の、やさしいjavaっていう全く楽しくない参考書のサンプルプログラムを訳もわからずWindowsのメモ帳に書き写して実行してたことがあるから。あの頃は間違いなくとにかく手を動かしていた
とにかく手を動かせばいいとか言ってる奴は本当にヤバい。実害がある
大事なのは徹底したリサーチと目標設定と、あと最後の1つとして手を動かすこと
リサーチで納得のいくものを見つけだせない限り手を動かす必要はない
とにかく手を動かしてるだけじゃ自分が終わってる方向に進んでることに気づけない
このへんの話。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170907/k10011129891000.html
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20170908/p2
事情に詳しくない人からすると「なんでそんなにカタルーニャは熱くなってるの?」って感じだろうと思うので、簡単に解説したあとで補足説明をつけます。
背景を説明するためには、時代をいっきに40年ほどさかのぼる必要があります。
1975年に、スペイン総統フランシスコ・フランコが亡くなりました。その結果スペインは王政復古し、現国王の父であり当時国王だったフアン・カルロス1世のもとで民主化への道を歩んでいくことになります。この王様、退位前の数年間はひどく評判が悪かったんですが、民主化に反対する軍将校が起こしたクーデターを鎮圧したことで即位直後は民主化の守護者としてたいそう人気がありました。ちなみに現国王のフェリペ6世は当時10歳にもならない子供だったので深夜に行われた国王とクーデター首謀者との会談の席ではおねむだったのですが、船を漕ぐたびに「おまえは王様になるんだから王様のつとめをよく見ておきなさい」と父君に優しく揺り起こされていたそうです。なにそれ萌える。
閑話休題。このフランコ政権ですが、典型的な「スペインは単一民族国家だもん!」派の政権でした。彼が在世中はカタルーニャ語やバスク語をおおやけの場で用いることはひどく抑圧され、内戦前のカタルーニャ州政府首脳陣は殺されるか投獄されるか亡命するかという感じでした。そのフランコが死んだことで、亡命州政府のトップがスペインに帰国し、民主化が進展します。このとき、フランコ体制下で抑圧されてきた「スペインは多民族国家になるべきだもん!」派が一気に声をあげはじめます。
(ここでいう「民族」ってのは、英語のネーションにあたる、スペイン語のnación、カタルーニャ語のnacióのことで、「自分で国を作れる権利や能力のある集団」みたいな感じなんですよね……うまく説明できないんですが。なので移民とかは勘定に入れてません。この文脈だと「国民」と訳した方がいいのかも。「スペインは単一民族国家だよ」というのは「スペインにいるのは『スペイン国民』だけであり、カタルーニャ人もバスク人もひとしく『スペイン国民』だよ」ということで、カタルーニャ人たちは「スペインには『カタルーニャ国民』や『バスク国民』もいるんだ」と主張してるわけですね)
民主化したからにはちゃんと民主的な憲法を作らないといけませんが、これが紛糾します。単一民族国家というのはフランコだけの思想ではなく、熱心なスペイン・ナショナリストはフランコ死後も消えてなくなりはしなかったわけです。彼らは頑強にスペインの統一、つまりスペインが単一民族国家であることを守ろうとします。一方でこれまでさんざん煮え湯を飲まされてきた地方の側もそれでは収まりません。そんななか、妥協として制定されたのが1978年憲法でした。条文の英訳をウィキソースからコピペします。
Section 2
The Constitution is based on the indissoluble unity of the Spanish Nation, the common and indivisible homeland of all Spaniards; it recognises and guarantees the right to selfgovernment of the nationalities and regions of which it is composed and the solidarity among them all.
太字にしたところはテストに出るので覚えておいてください。ここではスペインがひとつのネーションからなり、不可分であること、そしてネーションの他にいくつものナショナリティが存在することが謳われています。ナショナリティっていわれると普通は「国籍」って意味なんですが、この文脈では「準ネーション」みたいな意味だと思ってください。つまり、ネーションはひとつしかないけど、準ネーションっぽいものはいくつもあるよ! ってことですね。
(ところで、この憲法からもわかる通り、スペインは連邦制国家ではありません。連邦制かと見紛うばかりに地方に権限委譲がなされてはいますが、それでも「連邦制=国の集まり」ではなく「スペインは不可分のひとつの国!」ということになっているのです。これを専門用語で「自治州国家体制」といいます)
この憲法にのっとってカタルーニャは自治州の地位を得、フランコ体制下で迫害されていたカタルーニャ語を復活させるための政策に着手します(これを「言語正常化」といいます)。使用が弾圧されただけでなく、工業化が進む中でスペインの他地方からの移民が来て、カタルーニャ語を解さない州民が増えていたのです。また、なにせ相手は数億人の使用人口を誇る言語ですから、話者数数百万人のカタルーニャ語など放っておいたら自然淘汰されてしまいかねません。州政府は公教育にカタルーニャ語を導入し、様々な場面でカタルーニャ語使用を義務づけ、カタルーニャ語の使用に助成金を出し、結果として今ではほとんどの州民がカタルーニャ語とスペイン語の見事なバイリンガルに育つようになっています。
(助成金は、たとえばパソコンのOSのカタルーニャ語訳とかに出されています。数億人が使ってるスペイン語は経済的にペイするのですぐに翻訳されて、なおかつ州民はみんなスペイン語ができるので、放っておくとみんなそっちを使っちゃうんですよね……)
ところでこの憲法、実はもうひとつトラップがあります。それは公用語について定めた条文です。
Section 3
C1. Castilian is the official Spanish language of the State. All Spaniards have the duty to know it and the right to use it.
C2. The other Spanish languages shall also be official in the respective Self-governing Communities in accordance with their Statutes.
C3. The wealth of the different linguistic forms of Spain is a cultural heritage which shall be especially respected and protected.
そう、カスティーリャ語(つまりスペイン語)は、スペイン市民(たとえバスク人やカタルーニャ人であっても)にとって知る「義務」があり、使う「権利」がある唯一の言語なのです。逆に言えば、それ以外の言語を使う「義務」を州が課すことは違憲になります。
この時点で、たとえばカタルーニャ州が州内の教育をカタルーニャ語だけで行おうとしたら違憲です。カタルーニャ州が州民に高度なバイリンガル教育を施しているのは、理想が高いのではなくそうせざるを得ないということです。またカタルーニャ州の言語政策も、たとえば「お店のメニューにカタルーニャ語を使う義務」「商品のラベルにカタルーニャ語を使う義務」「企業の広報活動でカタルーニャ語を使う義務」といったものを法で定めたりしていますが、これは個々人に対する義務ではないのでギリギリ合憲ということになっています。なっているはずでした。
ところで、カタルーニャも極楽ではなく、何をするにも先立つものがいることには変わりありません。つまりお金です。ところが、スペインの自治州には基本的に徴税権がありません。バスク自治州とナバラ自治州には歴史的な事情(ありていに言うとスペイン継承戦争で官軍についた)によって徴税権があり、その一部を国庫に納入していますが、カタルーニャはあくまで国が徴税して配分するお金を受け取る立場です。そしてカタルーニャはスペイン全体でみても豊かな地域であり、多くの税金がカタルーニャから徴収され、多額の税金がカタルーニャに還元されています。
しかし、その収支が赤字だということが大問題なのです。カタルーニャから徴収される税金は、カタルーニャに交付されたり還元されたりする際に8%ほど目減りしています。しかも、これだけ払っていながらもインフラ整備は後回しにされているのです。カタルーニャだけ高速道路は有料で列車の老朽化も放置、EUから勧告されたカタルーニャの高速道路整備も中央政府は拒否っておきながらマドリードなどカスティーリャのインフラはしっかり整備しています。他州より高く払っているのに他州より低いサービスしか受けられないのは何事だと、カタルーニャ州民が怒るのももっともです。
こうした状況を受け、2000年代に入ると自治憲章(要するに自治州の憲法ですね)改正の動きが活発化します。自治州議会は、徴税権やカタルーニャがネーション(nació)であることを盛り込んだ憲章草案を可決しますが、中央政府(当時は左派の社会労働党)との交渉で徴税権は削られ(かわりに公平な交付金の支給を約束。結局実施されてませんけど)ネーション条項は前文のみ。妥協のすえ2006年にようやくスペイン国会を通過して新自治憲章が成立します。
これに待ったをかけたのが国民党(現・与党)です。彼らからしてみれば、「一地方の自治権強化はスペインの統一に反する」というわけですね。彼らはこの自治憲章が憲法違反だと憲法裁判所に提訴、これに対抗してカタルーニャではデモが盛り上がり、「我々には自決権がある」という主張が登場します。そして2010年、憲法裁判所は自治憲章の多くの条文に違憲判決を下しました。しかもその判決は、これまでカタルーニャが行ってきた自治権強化政策を否定し、自治権をより縮小する方向のものでした。カタルーニャ語を行政において優先させる規定は違憲となり、カタルーニャをネーションとした前文は、スペインにおいてネーションはただひとつとして法的拘束力はないとされたのです。そしてこの違憲判決に基づいて、カタルーニャの学校ではスペイン語で教えるべし、という判決も出されました。
ここまで妥協しても憲法違反になるのか……という絶望が、一気に民意を独立へと傾けていきます。それまで20%前後を行ったり来たりしていた独立への支持率が、この違憲判決を境に一気に30%を超え、2013年には60%に達しました。今の憲法がある限り、スペイン国家に留まっている限り、カタルーニャは自由にはなれない、と多くの人びとが考えるようになったのです。移民の子孫だってカタルーニャに暮らしているわけですから独立に傾きます。
2014年、カタルーニャ自治州は「法的拘束力のない」住民投票の実施を計画しますが、違憲とされて差し止めが命じられました(提訴したのはもちろん中央政府です)。じゃあ非公式の模擬投票やろうぜ、と言ったらそれも違憲とされて差し止め命令が出されます(模擬投票も認めないなんて表現の自由に対する攻撃だと国際的に抗議が殺到した模様)。結局自治州は非公式の投票を決行しましたが、中央政府は憲法違反の投票を強行したとして当時の州首相らを刑事裁判にかけます。ちなみに裁判期日として指定されたのは、フランコ政権によって内戦前最後のカタルーニャ自治政府首相が銃殺された日でした。煽り力高い。州首相だけでなく州議会議長まで訴追するよう憲法裁判所は命じています。民主主義とは。
このような国民党政府の対応が火に油を注ぐ結果となり、今回の住民投票実施に至るわけですが、この期に及んでなお国民党は「カタルーニャ自治州に毎週会計報告を義務付け、違反した場合は交付金を停止する」と表明したり(http://www.pressdigitaljapan.es/texto-diario/mostrar/775503/)、プッチダモン州首相を訴追する準備を進めていたりして(http://www.politico.eu/article/catalonia-independence-referendum-spain-the-carles-puigdemont-factor/)、まあある意味通常運転です。「やっぱスペイン国家の枠内では自治権保証されないじゃん……」とカタルーニャ人に思わせるだけの簡単なお仕事。こうして着々と独立に向けたフラグが立っていくのでした。
スペイン政府はオプションとしてカタルーニャ自治州政府の停止も視野に入れているという報道があります。根拠となるのはスペイン憲法155条です。
Section 155
1. If a Self-governing Community does not fulfil the obligations imposed upon it by the Constitution or other laws, or acts in a way that is seriously prejudicial to the general interest of Spain, the Government, after having lodged a complaint with the President of the Self-governing Community and failed to receive satisfaction therefore, may, following approval granted by the overall majority of the Senate, take all measures necessary to compel the Community to meet said obligations, or to protect the abovementioned general interest.
2. With a view to implementing the measures provided for in the foregoing paragraph, the Government may issue instructions to all the authorities of the Self-governing Communities.
ぶっちゃけこのオプションが採られた場合投票は物理的にはできなくなるでしょうが、まあスペイン国家とスペイン憲法へのヘイトをためるには十分すぎるほどなので、余計に独立への意志を強めるだけですよね……という辺りが現状言えることです。部外者としてはワクテカが止まらない祭り出来事ですが、楽しむためには背景知識が必要だろうと野暮を承知で解説してみました。部屋を明るくして画面から離れて住民投票をお楽しみください。
そもそもなんでカタルーニャがスペインの一部になってるの? とか、カタルーニャの栄光時代はいつだよ……ジャウマ1世の時か? とかの疑問が湧いてきた時にオススメです。住民投票は……住民投票は今なんだよ!
Dockerがバズるくらいだから今どきハードウェア仮想化なんて流行らないのだろうが、Windows10 Proの安いPCを1つ購入してHyper-Vを有効化したのでCentOSとUbuntuのどちらを入れようかと考えてた時に、昔インストールに苦労したDebian 3.1 Sargeのことを思い出して本家のサイトに行ったら今年の6月にDebian 9が正式リリースされたと聞いてすごく懐かしくなり、こいつを選択することにした。
随分バージョンが上がったものだなあ。しかも今はamd64がインストーラーのリストの最初に上がってるし。昔は64は人柱用だったのに。
10年ほど前、玄人志向の玄箱というNASのOSをDebianに入れ替えて単なるファイルサーバから多用途サーバにするのが流行ったことがあった。今でも後継品のBuffalo製NASをDebian化する好事家は細々ながら活動しているが、UbuntuのベースであるDebianに最初に触れたのがその頃で、当時のバージョンは3.1、通称Sargeだった。タイミングのいいことに、Sarge対応の分厚いDebian入門書が存在していたのでレファレンスには事欠かなかった。まあそれでも、スペックの貧弱な玄箱にインストールして少しでもパフォーマンスをよくするにはカーネルを書き換えて再コンパイルしたりといった悪戦苦闘があったわけだがもう忘れた。
Hyper-Vの仮想マシンへのDebianのインストールはトラブルらしきトラブルもなく、インストールしてすぐに使えるようになっていてまあこれが普通だよなと。OSは使いこなしてなんぼで、インストールで苦労するのは不毛だと当時も思ったし。
あと、エンジニアが多いと聞いているはてな界隈でも個別のディストリのトピックはあまり話題にならないんだなというのがちょっと面白かった。
イラストの入門書だってそうだ。「入門」と書いてあるからといって、開いてみればデッサンや形のとり方を教える本などありはしない。
そう、日本の入門書とは「元々デキる人がリメディアルとして持っておく本」のことであり、「ビギナー向けのウェルカム本」ではないのである。
上級者だって最初は初心者だったわけだが、本を書くようなプログラミング大好き人間の成長なんて本当にあっという間で、自分が初心者だったときの気持ちになって考えられる人間なんてそうそういない気がする(そしてプログラミング大好き人間の「上達のメソッド」をそうでもない人が学んだとして、それは役に立つ情報にはならない気もする)。
そんな人に本を書かせているだけで「初心者向けの本がイマイチ売れない…」とか言う編集者・出版社も悪いのかもしれないが。
あと、「日本人は」と書かれているものの、じゃあ他の国の人は初心者に厳しくないの?という気がする。「ワタシプログラミングチョットデキル」の領域に達した人が初心者に優しく接し「初心者がわかるようにしっかり指導する」とかまず想像できないのだけども。
週末の書店。
プログラミングコーナーに行くと、いつもうんざりした気分になる。
何故ってこんなに入門書が溢れかえっているのに、何一つとして入門者向けの本が無いからだ。
日本の書籍小売の総本山、神保町は三省堂書店の棚の端から端まで見た所で、ビギナー向けの本などありはしない。
なぜなら、入門書を謳っている本のコードはほとんどが動かないコードだからだ。
入門書だと言うのに、ページを割くべきところに文章やイラストを割かない本が多すぎる。
例えばポインタ、コンストラクタ、インスタンス、カプセル化…それぞれの概念。
イラストの入門書だってそうだ。「入門」と書いてあるからといって、開いてみればデッサンや形のとり方を教える本などありはしない。
そう、日本の入門書とは「元々デキる人がリメディアルとして持っておく本」のことであり、「ビギナー向けのウェルカム本」ではないのである。
だからといって、誰もがpythonの専門家になる胎教を受けて産まれるわけではないし、誰もが10代で写真と見まごうスケッチを描けるわけではない。
では、その「デキる人」は誰に教わったのか?やはりデキる人たちや、海外の入門書を車座になって読んで学習したのである。
しかし、その「始祖・デキる人」がヒーローの時代とは、今とは複雑度合いも、求められるものも違う。
今は学生であっても、ある程度の高度な成果(ここでは、ネットで発表したものがネットニュースでバズった経験や、学会で評価された経験のこと)があって始めて企業の受験票でしかない。
なぜ入門者向けの本がないのか?
習うより慣れろ。仕事は見て盗め。教えられるのを待っているな。・・・
自分より出来ないやつに教えるのが大嫌いなのだ。(入門書の著者ですらそうなのだ!)
上にあるように、ある程度デキる人でないと、その手の会社には認められない。
だからといって、大学教育で手ほどきを受けられるわけではない。これもある程度デキる人向けなのだ。
では、書籍で自助努力を、となっても、文頭にあるように、入門書向けの本など無く。
では、デキる人はどこにいる?これもやはり雲の上の大学にしかいない・・・
今はネットがある?これも難しい。
知恵袋や、teratailであっても、初心者に与えられる答えは「ググレカス」のみ。
では、ネットにジャストな回答があるか?といえば・・・ない。基本的には公式リファレンスのコピーや、動かないコードしかない。
デキる人は、デキない人の気持がわからない。何がわからないのかわからない。
だからあいつらがわからないのは、あいつらが勉強不足だから、と考える。
わからないのは、あいつらの自己責任だ。だから初心者は嫌なんだ。となる。
適性を測っている、という見方もある。
しかし、適性というものは基本的にやらなければわからないもので、やる前の教育から放棄しているのは適性を測るというより、
日本人の初心者軽視、というか教育軽視は今に始まったことではない。
「失敗の本質」でもそれは指摘されている。ということは戦時から既に教育嫌いなのだ。
職場でもそう。教えられるのを待っているな、と言っておいて、いざ聞きに行けば「常識でわかるだろ」「ネットで調べて」「リファレンスマニュアル調べて」
学校でもそうだ。
授業の勉強も予習が前提。では授業ではより高度な話をするのか?しない。教師我流の演習である。
演習するだけならば、家や図書館で黒本や赤本を解いていたほうがマシじゃないか!
学校教育ですらこうだ。
あれから数日。
月曜日の昼にはもう将棋盤が届いたので、以来毎日娘に将棋を教えている。
子供に何かを教えるのはとても大変だというのを痛感する日々だった。日常の習慣や家事などを教えたりしつけをするのも結構難しいが、なんとかかんとか教えて来れたけれど、こういうゲーム的なものを教えるのはどうしてこんなに……こんなに……。
トランプのババ抜きを教えた時もかなり四苦八苦したが将棋はこれの比じゃない。
親が子供に教えようとする事がそもそも間違いなんじゃないかという気もして来た。
ママ友達が言うには、何であれ親が頑張って教えようとすると熱くなりすぎて子供を潰してしまうだけだから、自力で教えるのは諦めて高い授業料払ってプロの講師にお任せするに限る、と。
私の周りでは簡単な読み書きや四則演算も自分で子供には教えない人が大多数。皆、やってて良かった公文式。
なんだか無理ゲーに果敢に挑戦してやっぱり大失敗しようとしているような気がして来た。
なお、うちの娘は既に読み書きが出来るが、これは私が教えたというよりワークブックを買い与えたら娘が自分でやっていつの間にかおぼえてしまった感じ(同じワークを何度か買ってあげた)。幼稚園女子の間でお手紙ブームが起こっていたので、その時流れに上手いこと乗っかっていた。
将棋も、子供向け入門書が自力で読める位の年齢、小学校中~高学年になるまで待てば良かったかもしれない。興味があれば自発的に覚えたんじゃないだろうか。
ともあれ、もう娘はやる気満々で、そう簡単にこちらから手を引く事は出来ない感じになってきた。幼稚園にお迎えに行けば第一声が
で、
と私は項垂れつつ応える。
(つづく、かもしれない)
就活でも職場でも、「趣味はなんですか」と聞かれることが多い。
多いけども、毎度毎度答えに困る。
平積みの本を見て買って読んだり、入門書を実践してみたりするが、趣味:読書とするにはあまりにライトすぎる。
神保町の古書店に通ったりするほどでもないし、月に何十冊も読むほどのビブリオマニアでもない。別にレビュー書いたりもしない。
映画もよく見る。撮ったりはしないが、ああここから第2幕で、ここらがミッドポイントだな、とか思ったりはする。
だけど別に映画.comにレビュー書いたり、試写会に行ったりするほどでもない。人食べカエルとかメタルマンの人ほどの影響力もマニアックさもない。
なんというか、趣味といえば極めろ、部活は3年間続けろ、会社は新卒で入ったら定年までとどまれ、みたいな「やり抜け思想」が強いな、と思う。
そもそも趣味なんてたかだか気晴らしだし、ましてや他人の趣味に成果を求めていたりするのは高慢というか、何故そこまで強いるのか、その神経質さは何だ、と聞き返したくなる。
就活でもそうだ。
それの趣味はうちの業務にどう結びつきますか、という意味不明な問い。(研究内容でも学科の内容でもなく!)
別にたかだか気晴らしなのだから、内容や取り組み方を聞いた所で人間性が見えたりはしないし、
「とりあえずやってみた」程度のことでも趣味と言ってもいいように思う。
思うけれど、やっぱり趣味と言うには自分のはライトだなぁ、俺は無趣味だな、と自分でも感じてしまうあたり、俺も変わらないんだなぁ。
うちの長女(5歳 幼稚園年長)が「将棋を好きになっちゃったー!」とのたまっている。数日前に児童館で中学生にちょっと教えてもらったのがきっかけだ。
横で対局の様子を見ていたが、長女に将棋はまだ早い様だった。
小さい子供は基本的に相手の身になって考えるとか相手の思考を先読みするという事が出来ず、それが出来る様になって来るのは5歳くらいかららしいんだけれど、長女はまだその域に達していないっぽい。
自分が指せば相手も反撃してくる、という事がわからないので、自分の歩と相手の歩が対峙してても取ろうとしない。
そんな感じなので、指せる大人がみていると滅茶苦茶もどかしいことこの上ない状態なのだが、相手をしてくれた中学生が辛抱強くて優しい子だったので、怒ったり急かしたりしないもんだから、長女はなんか楽しかったみたいだ。
長女はすっかり将棋に魅了されており、昨日テレビに藤井聡太君の特番のCMが映る度にはしゃいでいた。
実は私も長女と同じ年頃に父から将棋を教わったのだが、その頃の私には早すぎだったし、父も、私に将棋をやって欲しいとは思っておらず、ただ私の弟に将棋を覚えて欲しくて私をサンドバッグ役に仕立て上げただけだった。
当然だが私は将棋が大嫌いになった。
いくら本人が興味を持ったとしても、与えるのが早すぎれば簡単に挫折するし、教える大人の気質や思惑によっては子供に大層な悪影響を与える、というのを私は身をもってしっている。
長女の将棋への興味には、今は知らんぷりしておいた方が良いのだろうか?
でも、折角だから子の好きなものは伸ばしてやりたい、好きなだけやらせてあげたいという気持ちもある。
だが私自身が長女を潰す原因になるのが怖い。私が直接手を下さずとも、私が長女を将棋教室などに行かせたせいで将棋を嫌いになったら?と考えてしまう。
じっさい、習い事なんて一部の天才の為にあるようなものでありあとの生徒はただの授業料搾取要員だ。よほど何か閃く物を持っていなければマトモに扱われないものである。
……と考えて、長女に将棋を教えるのをやめる、というのも長女を潰す事になるのでは、なんてぐるぐると悩んでしまった。
ちなみに、私は将棋のやら何やらで色々と父から口出しされるのが嫌になったので、大人になってから父が何故か絶対手を出さない囲碁を、自力で覚えて楽しんでいる。たぶん一生涯の趣味になる事だろう。
【追記】
https://anond.hatelabo.jp/20170624075344
「頭の悪いボンクラ」なんてひどい!と思ったけど、まあそう言われてみればそうだし、役に立つかどうかや得るものがあるかどうかというよりも、やりたいかどうか、好きかどうかが大切だろうね。
やりたいっていうんだからやらせてみればいいか、と思って取り敢えず娘を図書館に連れて行った。娘は子供向け入門書を自分で選んでニコニコしていた。
私用にも少し詳しい目の本を借りた。あとスマホにアプリもインストールしてみた。将棋盤と駒のセットも買う。
入門書をパラパラ見てみたが、詰ませ方とか守り方の図を見て、こんな複雑な事を父がやってるの見たことないな、と驚いた。ただ駒をぶつけあって飛車角をぶんぶん動かし玉を逃げまどわせるだけが私の知っている将棋だったが。
入門書を読むだけで父への逆襲が果たせそうだ。
あと詰将棋おもしろいwwwwww囲碁で頭が疲れた時に気分転換にやろう。
ずっと毛嫌いして避けていたけれど、気が少し軽くなった。