はてなキーワード: 信号とは
朝、信号で止まってたら近くのポール?にカメラが括り付けられてるのを見た
ピースしようか迷ってそのまま前の車進んだからピースせずに終わったんだけど、帰るとき近くを通ったら折り畳み机におじさんたちが並んでたから防犯カメラではなくねずみ取りだったのかなあと思った
同情することで一体そこでなにが起こったのか?っていうのを想像する手がかりになると思うんだよ。
自分と全く異質の存在がやったんだって思うと、何か普通には起こり得ない特別なことが起こったから想像つかないってなってそこから考えが進まなくなっちゃうと思う。
自分の思い当たる節から想像を膨らまして考えるくらいしか今の段階ではできないけど、もしかしてうまくいけばもう少ししたらもっと詳しい情報とか対処法が共有されるかもしれない。
それまでは、あるいはうまい対処法が見つからない場合には引き続き私たちの想像力でできるとこまでそういう悲しい事件を未然に防げるように、どんな状況からそうなるのか考えなきゃなんないと思う。
同情されることで子殺しのハードルが下がるか?っていう問題だけど、同情されるからいいかって考えられるほど冷静ならまだ余裕があるし、
普通に考えてそんなことする時って極めて異常な状態にあるだろうしそんな時は世間からの同情があるかないかとか関係ないんじゃないかな?とは思う。わかんないけど。
それよりは世間の母親に同情が集まったら、そんなことになる前に手助けされたり危険信号を感じ取ってもらえる機会の方が増えるんじゃないのかなって思うけどどうだろうか。
フルボッキできる時点で交感神経と副交感神経のバランスは正常だから、今回の話とはちょっとズレてるかな
仰る通り、人間は単純じゃない。単純じゃないから、ストレスが多大にかかる状況でも逃げ出さない。これ野生動物はすぐ逃げ出すらしい、ストレスは「ここにいてはいけない」という信号だから。
危機察知→ストレス発生→交感神経が優位に→体が逃げ出したり闘ったりする準備ができる という順に体はストレスに反応する。闘ったりする準備というのは、呼吸が浅くなったり血流が早くなったりする身体反応と、思考回路が問題解決に集中しそれ以外のことを考えなくなる頭脳の反応など、いくつかある。
しかしこれはあくまで非常時の反応で、長期間この状態になることは設計上想定されていないんだ。
人間はストレスを感じてもすぐに逃げ出したりしないよね?仕事でストレスを感じても、仕事を放りだして帰ったりしない。翌日もちゃんと出勤する。こうしていると交感神経が優位な状況が長引き、さっき書いた闘う準備状態がずっと続くことになる。すると余計なことを考えず目の前の問題のことばかり考えるようになる。
どうしてこうなった!思ってたのと違う!こんな感想を得た人も多いのではないか。かく言うところの筆者もそう思いました。新潟駅の不思議ポイントを確認していってみましょう。
新潟駅に関する違和感というか、歩いていて苦痛に感じるポイントはまずここです。階段の段数が約50段と多いです。通常の建物の3階相当の高さを2階としています。これは上越新幹線開業から新幹線コンコースの高さです。在来線の跨線橋はこの高さよりも低く、跨線橋から新幹線コンコースまではスロープで接続されていました。通常の駅の階段は30段くらいです。
4階建ての新潟駅の旧駅舎ビルの高さと上越新幹線ホームの高さが同じくらいなので、上越新幹線ホームの高さは5階相当の高さになります。新幹線は毎日乗るものではないので、苦ではなかったのですが、新幹線に乗るときはエスカレーターや階段が長いと感じていました。
在来線ホームの高さを新幹線ホームに合わせてしまったため、5階相当高さにホームが上がってしましました。富山駅、金沢駅、福井駅の新幹線の高架はもっと低く、アンダーパスする道路ギリギリの高さの設計になっていると思います。2階がそれほど高くないのです。オープン当初の新幹線高架下の新潟駅の2階に出店していたヨドバシカメラは、店内に階段があり、上の階がありました。やはり新潟駅の新幹線ホームは4階建ての建物の屋上相当の高さにあるのです。この高さが高い高架橋は総工費が大幅に高くなることを意味します。
横断禁止の個所を渡る人が絶えないとニュースになる新バス乗り場。駅ビルのCoCoLoの1階部分が高架下を貫くバス乗り場によって分断されています。50段の階段で2階へまわれとか、150m先のなかなか青にならない信号渡れとロックな設計になっています。設計コンペの勝者のイラストと比較すると大幅に規模が小さくなっています。コンペのイラストのバス乗り場は、高架下の道路の両側ではなく、道路の車線の間に島式ホームのようにバス乗り場が集約されています。電車と違ってバスは、両側に扉がないので、バスは島式ホームのローターリーに侵入するときに右側通行に入れ替わって侵入することが想定されます。島式ロータリーから道路の両側にバス乗り場に変更することで、高架下のバスが占有する面積を大幅に縮小しています。この変更によって、バス乗り場が行き先によって分断されたため、とりあえずバス乗り場に行ってから、目的のバスを探すことができる構造から、バスの行き先を判断してから、道路のどちら側に行くかをあらかじめきめなくてはならないスタイルに改悪されてしまいました。
古町・市役所方面からきたバスは、高架下に入る前の降車場で乗客を降し、高架下をくぐって、南口側に出てUターンして、高架下バス停に出発を待ちます。南口方面から到着したバスは南口側の降車場で乗客を降し、高架下をくぐって、万代口側に出て、Uターンして、高架下のバス停で出発を待ちます。高架下を直通するバス路線はわずかです。
※イメージイラストは、「設計コンペのプランからなくなったもの?!」の項を参照してください。
多くの市民が感じた違和感は市街地の南北が分断された状態を解決するというお題目がほとんど解消されていないことです。この目的を解決するには、万代口の東大通と南口の弁天線がつながらなければなりません。駅の高架下はバス専用となったため、南北をつなぐ道路で増えたところは、八千代橋から続く道路が線路の反対側につながったところくらいです。以前の踏切個所の米山踏切と天神尾踏切は、高架をくぐる道路として残っています。一部の市民は、市長の家の近所のガードだけが開通したので、このルートを篠田さんの功績を称えて篠田ガードと呼んでいます。
https://www.zaikainiigata.com/?p=8248
計画では駅西線と駅東線という2本の道路が開通する予定でしたが完成に至らず、大幅に計画が縮小されています。駅東線は歩行者と自転車用道路に格下げされて計画されています。駅西線は、代ゼミのところから南下し、高架下をくぐりLEXNビルに至る道路です。
駅西線の予定地では、新幹線利用者向けのパークアンドライドサービスの新潟駅西駐車場(215台)を貫いています。このパークアンドライド用の駐車場は、高速バスターミナルとタワーマンションでなくなる予定です。もうひとつのパークアンドライド用駐車場のCoCoLo駐車場(826台)は、この春のCoCoLoリニューアルオープンに伴って、3000円のお買い物で1時間無料、新幹線割引き廃止、24時まで3000円というレートになりました。梅田駅や秋葉原駅のほうが安いです。セレブな駅駐車場になりました。この変更で新幹線出張族が大打撃。電車やバスで駅に行けない利用者が多いのが新潟の現実です。新潟駅西駐車場(215台)は、朝8時前に満車です。ちなみに上越新幹線で使われているE7系の定員は924人です。
駅に中に城下町のような見通しの悪い丁字路が多い印象がです。電車で新潟駅の高架在来線ホームに到着すると電車は、ホームの中ほどに停車します。階段やエスカレーターは、ホームの両端にあるため、階段やエスカレーターと電車の間のホームの狭いところを歩くことになります。降りた乗客は進路を絞られて譲り合いながら進みます。階段やエスカレーターは隙間と通った後にUターンする導線になります。先が見えません。約50段の階段を降りると反対側のエスカレーターが正面にあり、方向を変えて、出口もしくは、乗り換え先のホームを探すことになります。この高架橋の柱は5階の高さを支え、耐震を考慮していてとても柱が太いです。見通しがよくないのです。乗り換えのときは、新潟駅の発着ホームはランダム設定のため、何番線からどこ行きが発車するのか確認が必要です。ホームから改札口へ向かう人、改札口からホームへ向かう人、乗り換えの人が改札内の一か所に集められて混沌となります。その人波をかき分けて階段の上に表示されている行き先を確認する必要があります。新幹線と特急いなほの対面乗り換えの5番線が後付けの設計のため、階段の位置に違和感があります。これも改札内コンコースを複雑にしている理由の一つです。改札を出る場合は、東、西、新幹線の3つの出口を判断して、東か西から出ます。階段を降りて進むと正面が新幹線乗り換え改札で出口どこってなります。太い柱が邪魔で先が見えないです。改札を出ると共有の通路ではなく、エキナカの店舗が両脇にある通路を進みますが、外へは店舗を抜けないと駅を出られません。この店舗との駅外への導線の区別ないところがよりわかりにくくしています。グレーと黒を基調とした色調なので、黒い服を着るといい感じで風景に溶け込みます。
敵襲があったときには、敵の判断を鈍らせることできる設計になっています。なかなかの軍司がかかわっていたものと思います。
土地が誰の持ち物なのかを調べてみるとこの駅のちぐはぐな点が浮き彫りになってきます。
高架下は東日本旅客鉄道さんの土地なのです。駅前の広場は新潟市。新たに広場になる部分は、東日本旅客鉄道さんから新潟市が買ったのではないかと思います。市の玄関口なので、きれいな広場を整備しましょうということなんでしょう。南口の広場も国鉄清算事業団から買いました。旧国鉄側は上手に土地を売り抜けているように見えます。大幅に規模が縮小されたなんちゃってペデストリアンデッキは、新潟市の土地に建設されます。高架下の建物は東日本旅客鉄道さんのものなので、そこにお願いして接続させてもらっている体になります。バス乗り場部分が東日本旅客鉄道さんの所有地だとすると駅下の一等地を提供したくなかったのかと妄想が捗ります。バス乗り場で分断されても店舗面積を稼ぎたいその気持ちもエキナカ運営者の立場としては当然かもしれません。高架下の駅舎の中は持ち主の東日本旅客鉄道さんの気持ちがあふれた設計になっています。
2002年の設計コンペは、堀越英嗣氏のグループが選ばれました。次のxに上げられた画像を見ると堀越氏の想いはいずこへ。
新潟都市再生 @ryuto_niigata 10:50 PM · Mar 11, 2020
https://x.com/ryuto_niigata/status/1237737592889544704
万代口のマルタケビル、ブラザービル前まで横断歩道を渡らずに行ける予定でした。メンテナンスが難しそうな雲形のデザインの歩道の屋根に置き換わっています。このペデストリアンデッキは、斜めに走っている補助路があり、人間の近道をしたい心理をうまくついていました。
先ほどふれましたが、バス乗り場の面積が縮小されています。バスを一覧しやすい乗り場という設計者の配慮は無になりました。
木造風でした。
高架下の道路として予定されていた駅西線や駅東線に車寄せやバスのりばの入り口を設けたものがアイデアとしてよかったです。このアイデアを実現しようとすると東日本旅客鉄道さんのエキナカの店舗面積が減ってしまいます。
駅前広場が丘になっていて、丘の上も丘の中も歩けるというのもよかったです。雨風に強いプランは天候がよくない新潟向きです。
新潟都市再生 @ryuto_niigata 2:35 PM · Mar 12, 2020
https://x.com/ryuto_niigata/status/1237975437415874560
https://www.kochi-tech.ac.jp/library/ron/2002/g5/M/1035010.pdf
この高知工大の澤田さんが作った資料は今となっては当時のコンペの条件を伝える貴重な資料です。
新潟駅から西に1.4㎞に西跨線橋、東に0.4㎞に東跨線橋があります。この2つの跨線橋は高架化後も残存しています。西跨線橋付近はそもそも90年代の計画時点で高架化の範囲から外れており、駅から西跨線橋に向けて下り坂になっています。越後線が西跨線橋をくぐると白山駅手前の信濃川を渡河する橋梁があるため、登り坂になっています。???
東跨線橋の下は在来線が通り、この跨線橋の上を新幹線の高架が通っていました。在来線の高架化で在来線は新幹線と同じ高さまで高度をかせぐようになりました。この東跨線橋は、予算不足のため跨線橋が残ったままです。数年後壊すことになっています。
実際のところ、街のお年寄りは新潟は踏切がない街だからといっていました。ここで指す新潟は新潟島+アルファの狭義の新潟です。狭義の新潟には、米山踏切と天神尾踏切くらいしか踏切がなかったと思います。現新潟駅が街はずれの田んぼの中に作られたこと、現新潟駅への移転に合わせて白山までが作られたためかと考えられます。
結局のところ、取り除かれた踏切は米山踏切と天神尾踏切で、それ以外の個所は線路が道路をオーバーパスしていたところが多かった状態でした。降雪時に凍結しやすい跨線橋が残ってしまったのはとても残念です。
新幹線は、在来線と道路の上下が入れ替わる状態を無視して、それらの上を行く高架で郊外の田園地帯まで抜けています。
せっかくなので、線路は高架、道路は平面というポリシーで街づくりをしていただきたかった。まことに残念です。いっそのこと新潟駅の上を高架道路で結んだほうがよかったかもしれないです。
昭和57年の上越新幹線開業時、新潟駅には、駅構内のステーションデパートのセゾン・ド・ニイガタと駅裏にあった気動車の車両基地の向こう側に長大な連絡通路を挟んだ再開発ビルのプラーカが3棟建てられました。セゾン・ド・ニイガタは、その後、CoCoLoと名前を変え、新潟駅リニューアルの核店舗となった。開業当時は西堀ローサとならんで、おしゃれスポットでした。プラーカは、プラーカ1、プラーカ2,プラーカ3と地下から地上5階までのショッピングモールが出現。セゾンよりも大規模で店舗数も多いスポットでした。東急ハンズを山下の家具がフランチャイジーとして運営したハンソン、アニメイト、ゲームセンター、多数の衣料品店などでにぎわっていました。プラーカ4?として西友の進出計画までありました。しかし、バブル崩壊後の景気低迷でセゾンはせんべいとか鮭の瓶詰を買う新潟土産屋になり、郊外の大規模モールの台頭でプラーカは集客力が落ち、テナントが歯抜けとなって破綻したのでした。無印もFrancfrancもいなくなり、今は中央に吹き抜けがあるオフィスビルになっています。このビルは第三セクターだったため、新潟市は大きな打撃を受けることになりました。
気動車の車両基地は、数年後に新津駅へ移転し、国鉄清算事業団所有の空き地が残りました。この空き地は新潟市が買い取ることになり、新潟市のひとり負けです。
2000年ごろから市民参加のまちづくりという錦の御旗の下、駅の設計に市民が参加するムーブメントを当時の市長が始めた。この動きが2003年の新潟駅の設計コンペに影響があり、プランが大胆に変更されるのかと思いきや、新潟駅の設計コンペは、新潟駅周辺整備基本構想にしたがって、設計コンペが実施されたのでした。
https://www.toshimirai.jp/ifudletterpdf/200111.pdf
新潟駅周辺整備基本構想では、駅を貫く道路はバス専用で、道路交通は駅西線と駅東線が担うことが決められていました。プランの肝心なところは、市民が参加しても変えることはできず、まだ詳細設計がされていなかった広場で、機能に関係がない見た目のデザインがとかバリアフリーがとか枝葉の部分の議論に終始したのでした。車いす駐車場から広場への歩道の導線がよくないと直したら、車寄せと駐車場の面積が半減してしまいました。完成後の混雑が必死なのか閑古鳥がなくのか興味深いポイントです。そんなことよりも在来線ホームが5階の高さの時点でめっちゃバリアです。
https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/record/31114/files/ZH_2005_963-964.pdf
http://opac.niigatacitylib.jp/shisei/koho/shiho/2005/050710/pdf/2002_08.pdf
まあでも今まではそうやって突っ込んでくる人いなかったんだろなとは思う。
バスの運転手ももちろん無罪ではないにしても、歩行者のその人も青信号は見たのに隣からくるバスは見なかったんや…?っていうのは相当なうっかりさんなのでは…
車の免許取ってみて思うんだけど自動車ってほんと死角多いし、みんなそれを想像力で補ってたんだなって思うとほんと危ういシロモノだなって思う。便利だけど。
青信号だってわかってて(音などで)前に危険がないのがわかってたら(杖などで)良いよ
前方に何があるかわからないのに突っ込んでったら視覚障害とか関係なしに事故になるのは当たり前
もう物理的な話
その前の人がありもしないベビーカーとか言い出したのでこっちも出したで出しただけ
あれだけの人数のスクランブル交差点なら視覚障害者が渡っている可能性も十分にあるのに、青信号なのに歩行者の横断を遮って走っているバスがあると気がついてくれるって違法な運転は危険だと言ってる。
(前半からの続きです。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093126
もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います。作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。
大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品はほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。
思い返せば2020年のトリエンナーレにあった「エビにSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビと水草の入っている閉じた水槽)の中でエビは酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草は二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビは生殖をしなくなる。そこでエビに生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品はエビにセクシーな格好をさせるとか、エビの秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶しています。しかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球の生態系の比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授の課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています。
2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号と出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家のメモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事が引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています。自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。
現代芸術の作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます。人文学、哲学、歴史学、経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。
かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家は自由に作品を作れるはずなのに、ただ社会の要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります。
しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。
トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島の原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品の面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。
しかし問題は受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケな作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります。
今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術を意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味を付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています。作品と意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います。
私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメの解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかしアニメ本編とはズレているから面白い。YOASOBI の歌はアニメのストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術も世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界をアートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います。
しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地を創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。
批判めいたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレを批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーションと環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感も理解できますが、それとは別に、芸術と資本の関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本の資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品が意味をもつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味を暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。
咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーターの解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身が作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義のマルボロの広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランスは果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーターが真剣に構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います。
要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます。
魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風のファンになり、富山妙子の画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号のオブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛けの作品が好きでした。
つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。
横断歩道や自転車横断帯に近づいたときは、横断する人や自転車がいないことが明らかな場合のほかは、その手前で停止できるように速度を落として進まなければなりません。また、歩行者や自転車が横断しているときや横断しようとしているときは、横断歩道や自転車横断帯の手前(停止線があるときは、その手前)で一時停止をして歩行者や自転車に道を譲らなければなりません。
横断歩道や自転車横断帯やその手前で止まっている車があるときは、そのそばを通って前方に出る前に一時停止をしなければなりません。
横断歩道や自転車横断帯とその手前から30メートル以内の場所では、ほかの車を追い越したり、追い抜いたりしてはいけません。
横断歩道のない交差点やその近くを歩行者が横断しているときは、その通行を妨げてはいけません。
横断歩道、自転車横断帯とその端から前後に5メートル以内の場所では、駐車も停車もしてはいけません。ただし、赤信号や危険防止のために一時停止する場合などは別です。
横断歩道や信号機のある交差点が近くにあるところでは、その横断歩道や交差点で横断しなければなりません。また、横断歩道橋や横断用地下道が近くにあるところでは、できるだけその施設を利用しましょう。
なお、「歩行者横断禁止」の標識のあるところでは、横断をしては歩行者横断禁止標識
いけません。道路を斜めに横断してもいけません。ガードレールのあるところで横断するのも極めて危険です。また、自転車横断帯には入らないようにしましょう。
https://www.fnn.jp/articles/-/709665?display=full
渋谷スクランブル交差点に黄色信号で侵入したバス側面に、青信号の横断歩道を渡っていた歩きスマホの外国人女性がぶつかり道路に投げ出された瞬間が撮影され拡散されている。
Xを見ると女性が馬鹿女当たり屋等とバッシングされ、バス運転手が同情されているコメントが多数のようだ。
あんなでかい上に人通りも多い交差点に黄色信号で突っ込む方が無謀では?
黄色信号は急ブレーキになる等のやむない場合だけは通っていいだけで止まれって意味だし、横断歩道は歩行者優先なのに歩行者の横断を遮って歩行者が止まるのに期待して突っ込むのも違法だし、バスもかなり悪いようにしか見えないのだが不思議だ。
渋谷の交差点で歩きスマホの女性と路線バスが接触した事故の件だけど、
「歩きスマホが悪い」
というコメントがあって「そうか?」と首を傾げる。
もちろん、歩きスマホをせずに、周りに注意を向けて歩いていれば接触はしなかったので
しかし、あくまで歩行者側は青信号で、信号無視してたわけじゃない。
あきらかに「横断歩道の時点では信号が赤になるだろ」っていうタイミングで交差点に侵入して、
「バスが突っ込んだら、たとえ青信号でも歩行者が避けてくれるだろ」っていう希望的観測で走行してる。
避けられなかった歩行者の不注意が問題だろ、って言ってる人もいたけど、
手前の歩行者も、突然侵入してきたバスにビクッとして立ち止まってて
悪いのはどう考えてもバスでしょ。
論点が間違ってると思う。
それは今回の問題点を、ドラマ制作サイドの意図が原作者に充分伝わっていなかった、つまり「説明不足」に求めているところ。
本打ちメンバーが当該原作の設定を変えようと試みたことには、それ相応の議論と積極的な理由があった。しかしながら、本件原作者の上記返信内容をみる限り、本打ちメンバーで議論した内容・意図が十分伝わっているとは思えない状況であったことがうかがえる。
いや、そうじゃないんだよ。原作が何を大切にしているかプロデューサーや脚本家を含めた制作サイドがまったく理解していない改変を繰り返すことが原因なんだよ。だから原作者が誤っている箇所とその理由を事細かに指摘し、それを繰り返しても一向に直ならない状況に絶望し、心身を疲弊させていく羽目になったんだよ。
以下なんてまさにその無理解を露呈してるよね。
原作では朱里が短大に進学した設定があるが、本打ちでは、同設定に関して、「短大に進学するよりも専門学校に進学する方が近時の10代、20代としてはリアリティがあるのではないか」、(短大進学の原因となっている)「父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」等の議論を経て、高校受験の際に、父親が勤める会社が不景気になり、母親から「高校は公立でいいんじゃない?」と言われて本当は友達と一緒に制服がかわいい私立校に行きたかったけど、「うん、そうだね」と笑って受け入れたという設定に変更する旨のプロット案を送信した。(中略)上記プロット案に対する本件原作者の返事として、かわいい制服の私立高校に行けなくなったことなどは「心底どうでもいい」ことである、原作のジェンダー要素も逃げずに書いて欲しい、制作サイドは短大での設定を避けているのか?といった趣旨の記載がなされた文章が送信された。
日テレの報告書は、調査にあたった外部有識者(弁護士)が、本件以外取引がなく、独立性・中立性が担保されているとわざわざ冒頭に記しているが、上記を見れば外部有識者が日テレの側に立っていることは明らかだ。日テレも外部有識者もこれで騙くらかせると思ったんだろうか。舐めすぎじゃないかね。
再発防止策を本気で練るなら以下以外にありえない。
日テレ側は当初(3月9日あるいは29日打ち合わせ)で「本件原作者の意見を無視するような改変はしない、リスペクトをもって取り組むという趣旨の話をした」と日テレ報告書にあるが、それがなかったのは上記からも明らかである。
リスペクトとは何か。それは原作が、畢竟原作者がその作品で大事にしていることを同じように大事にするということであろう。
原作者は一切の改変を許さないというスタンスではなく、むしろ当初は上手く料理されることを願っていた節さえある。
芦原氏は、監修者として漫画とドラマは媒体が違うので、ドラマ用に上手にアレンジするのがベストであることは理解している。全てお任せして「ああなるほどそうくるのか!面白い!」と思える脚本が読めるなら、一番良いが、「ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変」がされるなら、しっかり、原作通りの物を作ってほしい。脚本で 100 点を目指すのはもう無理だと思うので、演技や演出力で、なんとか80~90点に、引き上げて欲しい。ベストは無理だと判断したので、限りなく全力でベターを目指して欲しい。と一層の努力を求め、原作者として「作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変」は、作家を傷つけることをしっかり自覚して欲しいと要請しつつ、役者スタッフ等多数人の労苦に感謝しており、「闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階でできるベストを尽くしているつもり」と結んで本件脚本家の理解を期待した。
上記は小学館側の記載だが、原作者の当初の期待とそれが失われていった様を如実に表した一文であろう。
両報告書を読んで最も強く感じたのは原作者の孤独と絶望である。原作者は小学館を間に挟んでドラマ制作サイドと戦っている感覚だったのではなかろうか。
本来なら原作者と同じスタンスで原作によりそい、ともにドラマを作り上げていく仲間であるはずの制作サイドが敵となってしまったのは、本事件における最大の不幸である。
なぜそんな不幸が生まれたのか、制作サイドが真剣に反省し再発防止策を明文化し、プロデューサーからADに至るまでそれを徹底的に学び、実行しなければこの悲劇は繰り返される。
のではあるが…
●今回のことを受けて
・これで怖がっちゃいけない。安全にドラマを作る方法なんてない。それはみんな意見が違うし考え方が違う。その中で人間の生き方みたいなものを提示していかなければいけない。意見の食い違いもケンカもいろんなことがあって、プロデューサーが代表して、こういうドラマを世に問うんだと原作者、脚本家をまとめやっていかなきゃいけない。それを怖がっていたら面白いモノが出来なくなってしまう。そういう危険は今後もはらんでいるだろうけれども、だからこそ話し合ってコミュニケーションをとってやっていくしかない。
・放送局としてはまず第一に社員を守ることが仕事。社員を守るために早く結論を出すとか、その原作に係るトラブルの際に早く赤信号みたいなものをキャッチし、社員ができるだけクリエイティブに物を作る環境を整えるのが会社の仕事。
・若手プロデューサーの起用については、(トラブルになりやすいというのは)正直言ってあるとは思うが、それを恐れていたら駄目。失敗しないと学ばないからこそ、失敗してもフォローが出来る体制を作っていく方が大事。
銀行にいくことにした
カードもあるけどもう期限切れ
通帳しかない
めんどくせー
住所変更はオンラインでできたからよかった(はじめてオンラインこうざはいった
再発行かねかかるしなー
心配なのは新しいカードが古い住所にとどいて不正利用されてないかだけだわ
それもたしかめにいく
カード再発行されればそれ使うし通帳ありゃ引き出しもできるから別にいらんかなって
一時的に自腹ではらってあとから会社が補填してくれるような順番だけど、そこまで逼迫してないしなー
外に出ることも経費つかうこともほとんどないから10年の合計で60万くらいしか自腹たてかえしてない
そうだ
きのうのよるごはんは
菓子パンのいちごジャムパン1つ つーけどジャムパンっつったら苺ジャムしかないよね市販の
チルドの筑前煮1つ あっためるのめんどかったからそのままくったけどおいしかった でも割引じゃなきゃかえないな 150gで250円は高すぎる 弁当かえるし
あっさりカップヌードルしょうゆ1つ
べろが血豆からの口内炎状態だからもっと野菜たべたかったけどしょうがないねー
時間もはやかったから割引も少なかったしトライアルはウーバーコラボでかつ丼も高かったし
はーあ
通りすがりの床屋の入り口にいるクロネコが無防備にねてる姿を見れた
写真とればよかったなー
信号優先しちゃった