はてなキーワード: 他力本願とは
安部政権最悪だって多くの人が言うけど実際どれだけの人が行動してるんだろね。行動って言ってもデモとか署名活動?ぐらいしか俺のない頭では思い付かないけど。まあ俺も特に何か行動してる訳じゃないんだけどさ。こんだけ政権が過去類を見ないほどにイカれてるんだから何か、ネットで意見言うだけじゃなくて何かもっと具体的な動きをしないといけないなと思ってるんですよ。デモでも何でも。
もう他力本願で危機を呆然と眺めている場合じゃなくなってるでしょ。これは危機なんだよ。イカれたおっさんが権力振りかざして国をめちゃくちゃにしてんだよ。マジでやべえよ。健全じゃねえよ。事態が由々しいよ。
仮に、安倍晋三が総理を辞めたとしても、どうせまた別のイカれたおっさんが国をおもちゃにするだけだなんて言う意見もあるかもしれない。でもそしたらまた声を挙げるんだよ。戦わなくちゃいけないんだよ。決して悪に屈してはならないんだよ。イカれた政権をイカれてると認識しながら何もせずただ眺めている俺達もまたイカれてるんだよ。
あー深夜のテンションでへんなもん書いたわ。寝よ。どうせ朝んなったら忘れてんだろ。言うは易し行うは難しとはよく言ったものだよね。こーいうところが日本人のダメなところなんだぞ!(自戒)
賛否両論の西野ジャパンの作戦だが、以下の点を分けて議論したほうがよいと思う。
日本はこのままカードをもらわず1点差負けならグループリーグ突破、ポーランドはこのままなら今大会初勝利、両チームの利害が一致して無気力試合になってしまった。まあ確かにあるべき姿ではない。
ちなみに、同点のまま終盤を迎えた場合もおそらく日本は時間稼ぎをしたであろうが、ポーランドはいちおう勝利が欲しかったはずなので、無気力試合にはならなかったと思われる。この手の時間稼ぎも望ましくはないのだろうが、サッカーではまったく珍しくないことである。
時間稼ぎ自体がよくない、という考え方もあるのだろう。仮に勝っていても、時間稼ぎをしてはいけないという考え方。
グループリーグ云々よりも、まずは目の前の試合に勝つことを目指すべき。まあ(特に当事国でない)観客のことを考慮すると正論である。さらに正論を推し進めると、引き分けもよくない(勝ちを目指さないと)、という考え方もある。
ちなみに、ポーランドが真面目に試合を続行する可能性もあったと思う。レバンドフスキはW杯で1点くらいは取りたかったろうし。その場合は無気力試合にはならず、そこまで見苦しい試合にはならなかっただろう。ただし、10分間カードをもらわず1点差負けを維持するのはそれほど簡単ではなかったと思われる。
もう1試合のコロンビア対セネガル戦にて、コロンビアは1点しか勝ち越していない。もしセネガルが同点に追いついて日本が敗戦した場合、日本はグループリーグ敗退してしまう。あまりにも他力本願すぎる。日本はこの試合で引き分け以上ならば、もう1試合の結果に関係なくグループリーグ突破できるのに。
ちなみに、コロンビアがもう1点入れて2点勝ち越した場合は、日本は得失点差で余裕があるので真面目に試合を続けたと思われる。
仮に日本が1―2で負けていた場合は、総得点でセネガルを上回っているので、結局無気力試合になったと思われる。フェアプレーポイントがなくてもこういうことはありうる。
ちなみに、フェアプレーポイントも同点なら抽選で決めるのだそう。そういう状況だったら、日本は真面目に試合をしたと思われる、たぶん(まあ試合が劣勢なら抽選に賭ける手もあるだろうが)。
他国のチームが同様の状況に陥ったときも、同様の作戦を採用するチームは少なくないと予想する。ただ、他試合の結果次第のギャンブルになってしまうので、採用しないチームもあるだろう。
仮に1点差負けなら他試合の結果に関係なくグループリーグ突破できる状況だったとすれば、ほとんどのチームが無気力試合をやっていたのではないかな。
もし、日本チームがこの試合で調子が良ければ必死に攻撃してもよかったと思うが、特に後半は得点しそうな気配がまったくなかったからなぁ。
私は今回の西野さんの作戦を支持するが、仮に真面目に続けて玉砕していたとしてもそれはそれで支持していたと思う。
――ここまで書いて思ったけど、よくある「××派」みたいな分岐図を書いてもよさそう。「時間稼ぎも許さない原理主義派」みたいな。
社会に変わってほしいって要望は特定の一部にだけ税金をつかってほしいってお願いだよ?
だれも賛同しないよ?
知ってほしいとか要望があったら認知されるすべを試行すべきだよ
おわらいで世に広まってそれ笑うべきものじゃないというところからポリコレにもちこむとか
大成功したときに壮大に哲学や理論でもちあげられたピコ太郎って音楽芸人がいたけど
一時大成功を喫したけどいまや存在の有無の記憶すらあいまいな現状をみて
むしろ社会に助けてもらわなくてもよいように独立した助成方法を確立するほうがいいんじゃないかな
社会人になって数年経って実家で父親と飲んでいて、その前段で何を話していたのか忘れたけれど父親が唐突に泣きだした。
自分の人生を憂いてのことだった。自分が能動的に人生を楽しんだことがない、というようなことを嘆いて泣いた。正直親父がそのようなことを考えていたとは知らず、突然の父親の涙に狼狽した。
別に実家は貧乏暮らしだったというわけではなく、私を含んだ子供らもみな大学を出て就職している。父親は安定した職業に就いており、涙を見たのはそれを退職する前だったと思うが、自分の人生のあまりの普通さを嘆いて涙が出たのだろう。何かにのめりこむタイプではなかったと思う。
パチンコも自分が物心つく頃には止めていて、株で少し損をすることなどもあったが、家計を圧迫するということはなかった。大した倹約家で、いくら貯金があるのか知らないが、出不精もあって今後生活に困ることはないと思う。
そんな父親が「俺の人生って何だったんだ」、と酒の席で泣いた。家も子供も妻もいるのに。
父親のやりたいことになんて思いをはせたことはなかったが、何か夢があったのだろうか。
自分も今人生が終わります、とか言われたら、親父と同じことを考えるのだろうか。
タスクをこなしていく人生。自分にはぼんやりとやりたいことがあって、それと現状を比較して、今の自分がずっと宙に浮いている。やりたいことをやりたいということは非常に大きな覚悟がいる。自分の人生もかなり他力本願で走ってきたところはある。
今の仕事が面白いかといわれればそんなことはない。田舎者なので、といえば偏見になるが、田舎者にありがちな卑屈さを発揮して何とかお目こぼしといくばくかの、かなり多い給料を毎月もらって過ごしている。けれどちっとも楽しくない。自分はこうやって、年を取っていくのか、と思うと、少し悲しくなる。何か無茶をやったほうがいいんだろうな、と思う。
どうしてそんなに他力本願なの?
"自殺するなら辞めりゃいい"
よく過労死や過労に伴う自殺などで聞くフレーズ。自分もその領域に近づくまでそう思っていたしそう言っていた
あと一歩まで到達したものの何故か生きて"おれは しょうきに もどった"んで、過去を振り返り今思うとヤバイと思った症状をメモ代わりに書いておく
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■趣味に対しての興味関心が大きく薄まる
やってる・つぎ込む時間がただただ無駄と感じて手を付けなくなった
>
■食に関しての意識が雑になる
食べる行為に時間を掛けたくなくなり栄養食品だけ貪る生活を続けていた(元々肥満体質なのも有り約1年前と比べ15kg体重が落ちた)
燃料を注いだら人間は動けないかを本気で考えた。ライターオイルを飲もうとした(すぐ吐いたけど)
>
■目的も無い散財を行う
大してやりこんでも居ない某ソシャゲに一月分の給与を数時間でつぎ込んだ
>
■日記を急に書き始める
ありとあらゆる方面に対しての憎しみが書き綴られている。黒歴史ノート
たぶん当時は死んだ時に拡散してくれるのを願っていたんだと思う
>
■意味不明な行動を取り始める
朝6時に車に到着して取った次の行動は帰宅。帰宅して我に帰り上司に遅刻の電話を入れ再出社
帰宅した後身支度を再び整えて会社から数百メートル地点で車内泊
>
■死を願い始める
そう起こるはずもない他力本願による死を願い始める
俺の運転する車に突っ込んでこないか、前を走る車両の荷台から物が落ちてフロントガラスを突き破らないか、出先で通り魔に刺されないかetc
衰弱の末に浮かぶ感情が"死にたい"ではなく"殺してほしい"であったからまだ生きているのかもしれない
>
死にたい奴に死は降りかからないし、手持ちの案件も一段落したんで今が死に時とおとなしく自分で死ぬことにする
蒐集品の処分。部屋の片付け。手元の端末からできる範囲での契約周りの解約・解除手続き。ホームセンターでロープとブルーシートを、コンビニで酒を大量に購入
よくある自殺の絵である天井から首くくるのを自分でもやりたかったがそんな環境が無いのでドアノブを使って首締める予定だった
>
>
あと1手、首に縄を巻き体重をかけるだけだったけど出来なかった
準備に時間を掛けすぎて冷めたのか、まだまだ世間一般の自殺者に比べて追い込まれていなかったのか、自殺も出来ない半端モノだったのか…
しかしドラマおっさんずラブについては、周りの腐女子界隈で大盛り上がりを見せているだけでなく、
中年のおじさんもはまってそれこそ女子のようなブログを書いていて注目されていたりと、
なんとなく世間中で評判がいいような気がしていた。
放送日だけでなく毎日のように投下されるキャストのやりとりや情報で萌え転がる日々だった。
しかしここに来て、ゲイ当事者である人達の意見でおっさんずラブはキツいという話を見かけて、芋づる式で批判的な声に出会い、要は腐女子ホイホイ的なクソドラマといったような批難がされているのを知ってしまった。
最終回への高まった気持ち急に水をさされた気持ちになってしまっている。
ただコメディにしてはいけないようなものまで「笑える」ものと演出されている所に、
またはターゲットであるBL好き女子に受ければいいといった安っぽさが見えるらしく、
良いと思える面もかき消されてしまうらしい。
勿論ゲイの人たちもそれぞれ性格のタイプも違えば考え方も違う。
ただ怒っている人たちの言葉を追っていると、
どんどん自分の感覚は間違っていたんだろうかと悶々としてくる。
わりと賛否両論のドラマにすら触れているのにおっさんずラブをスルーしている事まで
何か意味がある気がしてくる。
他力本願だが、できれば誰か頭のいい人に、
どこがどう悪かったのかをリストアップして
できるたけ優しく説明してほしいと思ったりしている。
おっさんずラブに夢中な友達たちには聞けないし、聞いても答えは出ないだろう。
ああ、牧春のことだけを考えていたかった。
近年、同調圧力に屈しない事が正しいこととして扱われる傾向があるように思います。
飲み会への参加を断るだとか、学校での同調を迫る雰囲気に辟易して学校へ行くことをやめるなど様々な場面で同調圧力への抵抗が現れています。
話を進めるに先立ちまず前提として言っておきたいのは、わたし個人としては同調圧力が悪しきものだと考えているという事です。
同調圧力に抵抗する事には大抵、抵抗した者を排除する作用が伴います。そして日本においては集団からの排除を受けると、実社会生活が満足いくような形で立ち行かなくなる可能性が高いと言えるでしょう。
そのような意味で圧力に抵抗するということは、個人の意思決定の自由を実質的に奪ってしまうと言えるといえます。
そして人間は皆、自由な内心に従った意思決定をし、その意思決定に基づく行動は社会的法規範および他人の人権を侵害しない限りにおいて、許されてしかるべきだというのが私自身の根本的な思想なので、上記のように同調圧力自体は悪しきものと考えています。
話を戻しましょう。
では同調圧力に抵抗する事は正しいのでしょうか。
もちろん、同調圧力により強い精神的苦痛を受けて死を選ぼうとする人は同調圧力から逃げる事を選ぶべきでそれが正しい手段でしょう。
宗教的な議論はあるにせよ、死んでしまえばそこで何もかも終わりになってしまうのですから、命を終わらせる前にまず同調圧力から逃げてみるべきだからです。
しかし、そのような段階に至る前において同調圧力に屈しない事が正しいと言えるでしょうか?
最近は「飲み会なんて行く必要はない」「学校なんて行きたくなければ行く必要はない」と言った発言がよくされており、このような発言には肯定的な意見がよく寄せられています。
結論から言うと私はこのような考えは「現状では」間違っていると思います。
何度も述べているように、同調圧力は悪しきものです。しかし、実社会に目を向けて見ると、飲み会に参加する人の方が職場での居心地が良くなる傾向があるでしょうし、学校にしっかり行っていた人の方が将来的な選択肢が広がる(すなわち自らが望む進路に進む事ができる可能性が高くなり、その中で報酬としての金銭を得る事ができる)傾向があると言え、同調圧力に抵抗しないほうが良好な生活環境を維持しやすいでしょう。
私たちは社会の中で生きる存在ですから、このような社会傾向から目を背けることはできません。生活にはお金が必要であり、お金を稼ぐには働く必要があります。そして異論はあるにせよ、一般的には良好な生活環境には良好な人間関係を築く必要があると言えるでしょう。
社会的に大多数の人にとっては良好な生活環境を維持する事が重要でそのための選択が「正しい」選択と言うべきでしょう。(自分の信念を貫く事が重要であるという人もいますが、そこまで強い人はなかなかいないものです。)
「現状において」この両者を実現するためには基本的に同調圧力に従うほかないのです。
なぜなら「みんないやいやながらも同調圧力に従っているから」です。
これには他人が辛いからといって自分までその辛さを受忍する必要はないというという批判があるでしょう。しかしこれは綺麗事にすぎません。このような発言は基本的に他人と同じ辛さを受忍させられる側から出るものと言えるでしょうが、人間は聖人でもない限り自分が辛い時に辛くない他人を恨めしく思ってしまうものです。
すなわち、「現状では」同調圧力に抵抗しない事が自身の生活の質を上げるという意味において正しいのです。付け加えるなら、同調圧力に抵抗しつつ良好な生活環境を維持したいと「他力本願的に」望むことはむしろ自分勝手で無責任が過ぎると言うべきではないでしょうか。
では同調圧力に抵抗する事が正しい事だと言えるためにはどうすれば良いのでしょうか。
そんな事できないよ、という声があるかもしれませんそしてその通りかもしれません。
しかし、同調圧力に抵抗し、かつ良好な生活環境を手にしたいのならば、少なくとも社会傾向を変えるなんらかのアクションを起こすべきです。わたし自身はどのようなアクションを起こすべきかについての明確な答えを持ち合わせていませんし、もしかしたら同調圧力に抵抗する事自体がその答えなのかもしれません。それ故、ここまでのわたしの主張もまた無責任なものかもしれません。
しかし、現在の、同調圧力には従わなくても差し支えないだろうという風潮が社会的に広く認容される可能性もありますが、これ以上広がらない可能性もあります。とすれば、仮に後者のようになってしまった場合、結局同調圧力に抵抗した人は良好な生活環境を維持する事ができなくなってしまうことになる可能性が高いでしょう。このように考えるならば「現状において」同調圧力は屈しない事が正しいとは言えないのではないでしょうか?
この問題はわたし自身の「同調圧力は悪しきものだ」という考えと、「しかし同調圧力に従う事が現状正しいのだ」という相反する考えが衝突する場面でもあります。
後者は現在の社会的風潮とは異なるものかもしれませんが、同調圧力に反対する者として、「同調圧力に従わないことが正しいのだ」という「同調圧力的風潮」に抵抗する事が、現在の社会的傾向を変えるための私なりの答えです。
将来への不安、死ぬ事への恐怖、結婚できるかどうかとか、そういったものだけを普通の人は「つらいきもち」として認識しているらしいことにここ数年やっと理解が至った。自分の場合はそれとはまた別の正体不明の「つらいきもち」も存在していて、これも含めて一般的な「つらいきもち」だと認識していた。みんなもそうなのかなぁと思っていたけど、違ったっぽい。これじゃ普通の人とは微妙に話が噛み合わない上に誤解されるわけだなぁと。
自分も自分で、なんでそんな斜め下の解釈するんだと腹が立つ事がよくあったけど、その「斜め下」の解釈がむしろ一般的であって、自分が運悪く例外的な経験をしてきた事で認識が違ってしまっていたらしい。
そしてこれまでは、自分のこの「つらい」の正体を正確に把握できた事がなかった。何故かと言うと、気持ちの原因を思い出すことが精神的に非常に苦痛だったため。
原因というのは家庭環境、養育環境のことで、学生時代にもこれについての問題意識はあった。
ふとした切っ掛けでスーザン・フォワードの「毒になる親」と出会って実際に読もうとしたけど、冒頭の数ページ読むだけで精神的に不安定になってしまい、結局その時はそのまま先には進めなかった。大学卒業後も同じことを4年くらい繰り返していた。
でも一人暮らしを始めて2年経ち、転職をしてという直後から半年間立て続けに起きた出来事に対処する一環としての取り組みの結果、最近では「つらい」の比較的ちゃんとした輪郭と、具体的な内容と原因が把握できつつある。「毒になる親」も最後まで目を通すことが出来たし、関連する他の書籍にも手を出せている。
自分の「つらいきもち」の正体は自分の歴史的経緯から来るものだという事が確信できた。ただ、その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身だという事も段々分かってきた。
一言で表すなら「毒親の影響」ということになるけど、もう少しちゃんと表現するなら次みたいになる。(まだちょっと分析甘い)
今認識できている範囲の話だけど、これらが自分の「つらい」のキモのように思っている。
「毒親」ってワードを使うとすぐケチ付けてくる人間がいるから面倒だし、言葉が暴力的にストレートだから別の表現が必要だと思わなくもないけど、それでもこの単語は凄く的確な表現だと思う。
幼い頃から刷り込みで自己否定などの「毒」を植え付けて、親と同じ空間におらず暴言を吐かれていない瞬間でも、自主的に自己否定を繰り返すよう教育することで、大人になったり独り立ちした頃には苦しみのたうち回り…みたいな。のたうち回るような元気が残ってる人がどれだけいるのかって話だけど。
虐待によるトラウマを除くと、毒親による影響で特に大きなものは親を自分に内在化してしまうことだと思う。これにより何が起こるかというと、自己否定をデフォルトとしてしまうことが挙げられる。
この自己否定はポジション的には超自我とかにあたるもので、本来なら自己否定なんかじゃなくて規範としてどちらかと言うとポジティブな物として機能しなくちゃいけないんだけど、親が精神的に未成熟だったり自分の人生の課題に対して答えを出せていないとかで不安定な場合は、「毒」を規範として植え付けられる結果になってしまうのかなと。
それがどのようにして植え付けられるのか、憶測込みだけど文字に起こしてみると案外悲しい感じになった。
思考するだけだとそんなでもなかったけど、文字に表してみるとやっぱりこう、悲しいというか、しょうもないというか、酷くがっかりする。
休日に少しでも長く寝てたり、病欠したり、平日に休暇を取ったりすると
とか頻繁に怒鳴られてたけど、あれは完全に自己紹介だったなと思う。当時はそう思う余裕は無かったなとも改めて気が付いた。
うちの場合は問題の中心は父親だったんだけど一方の母親は何をしていたかというと、俺をかばうどころか、フォローするどころか、傍観をするどころか、「あの人がおかしな事をするのはお前のせいだ」と罵ってくるタイプの人間だったので、自分の両親は味方ではないという認識だった。問題のある人間は問題のある人間とくっつくんだな、という気持ち。
兄弟は妹がいるけど、妹は味方というよりは共通の敵を持つ他勢力みたいな認識だったな…。
去年会って話をした時には、当時俺に対して「哀れだな…」と思っていたらしい。それは俺を庇って同様の被害を被るよりずっと利口だと思うし、去年妹と会話をして結果的に問題の改善が進んだし、妹が逞しく成長してくれていてむしろとても助かったと思ってる。「こっちに来るんじゃねえぞ、そのままいけ…!」みたいな。ありがとう。
少し前まで、どんな些細なことであっても何か考える度に最終的に「死にたい…」という結論に結びついていた。
去年あたりから「自分の親は毒親だった」と認識でき始めて、更にここ1,2ヶ月は「毒親」と濁すんじゃなくて、自分が経験させられた事を「親からの虐待だった」と自分に対して説明することができるようになってきた。
昔と比べてかなり進歩したと思う。昔ならそんな認識は恐ろしくて出来なかった。自分はそんな酷い目には遭っていないと思いたかったんだと思う。
そして少しずつだけど、自分のことを大事にするという概念が掴めてきているような気がする。
自分のことを大事にするといえば、最近また新たに気付いた事があって、これは個人的にはかなり収穫だと思ってる。近いうちに効いてくるはず。
初めの方で書いた「その歴史的経緯を自分に対して現在も無意識に適用しているのは自分自身」の事なんだけど、これについての現時点での理解をちょっと整理したいと思う。
大きく2つあって、1つ目は、この記事中で何度か出てきている「自己否定」「毒」という存在の在り方と、これがそもそもどこから来ているかについて。
自己否定が起こるのは自己評価が低いためだと思う。じゃあ、自己評価が低いのはなぜ?という話になってくる。
自分の欲求をちゃんと満たしていないためだというのはあるかもしれないけど、自分の場合はそれよりも重大で根本的な問題として、延々とされ続けた親の否定的な刷り込みの存在が強いと思う。
親から虐待や人格否定を受けることで幼い子供の自己認識は「自分は無力な人間、ダメな人間」となり、それがそのまま人生脚本となり、無意識にそのように振る舞ってしまいそのような人間になる。
それを精神的に未熟な親が自己有効感を得るエサとして利用(虐待、人格否定)し、それにより子供は更に自己無力感に陥り…という、子供にとって悪夢のような悪循環が発生する。このサイクルが「否定的な刷り込み」の実態であり、毒親が子供に植え付ける「自己否定」や「毒」の正体なのだと思う。
この強い自己否定感、自己無力感は、親が自身の無力感や精神的な不安定さをカバーするために押し付けられた親自身の問題であり、こう認識してしまうともう親に対して「ぶっ転がすぞ」という気持ちでいっぱいになる。
以前は親に対してこんな認識を持つどころか「もう人生だめだ…死にたい…」となっていたのでこの気持ちも進歩だと思う。
つまり、自分に対する自分の認識は、無意識に親の自分へのニーズを反映したものであり、自分が自分を正しく認識した上で自分に下している判断ではない。
内面化した親のニーズで自分を見ていたのだ!(強調したい部分)
「毒親を内面化してしまっている」という表現は書籍やブログで何度か見かけていて、ただ実際どういう状況になっているのか全然理解できていなかったけど、この考えに至ってようやく合点がいった。であれば、ひたすらに自己否定をしてしまうのも納得がいく。親の抱える問題を解消できない限り自己否定は続くんだと思う。
親からしたら本来親自身が頑張らない限り親が死ぬまで未達だし、親が死んだ後であっても、内面化した親(のニーズ)から見て未達なので、子供は無限に自己否定し続けることになる。
自己否定の原因を正しく特定して認知を変えないと死ぬまで自分を否定し続ける。
こんなの「毒」じゃなかったら何だっていうんだ。現代の呪いじゃん。洗脳とも呼べるのかもしれない。まぁ「刷り込み」って「洗脳」の呼び方変えたようなもんだし同じようなもんか。
2つ目は、やり場のない感情とその矛先について。
ここひと月ちょっとは、過去に親との間にあった出来事と当時の自分の感情を、出来る限り思い出して言葉として書き出すという事をやっていた。
これによって狙っていた事は、自分の意思だけでは思い出し切れないトラウマ記憶に近い時系列の記憶に迫り、文字に起こして認識することで「過去の出来事、終わった事象」として自身に印象付けようとしたのと、あわよくばトラウマを芋づるで掘り当てて、当時の自分の解釈を現在の自分の解釈で認識を上書きすることでトラウマを軽減、解消する事だった。
精神的な負荷が高いから嫌だったんだけど、EMDR以外では1人で出来るもので現実的っぽそうなのがこれしか無かったので、今の自分であれば精神的に安定している時なら回復にそれほど苦労しないと判断して挑むようにしている。
結果的にはまだ解消に至ってはいないけど、認識できていなかった事を認識することが出来た。
自分で自分の感情を無視していた事に気が付いた。これ文字にすると厨二臭くていやだな。
無視していた感情というのは、具体的にはある期間の横暴を働く親とそれに対抗できない自分に対する強い憤りなんだけど、当時の自分はストレス発散の手段を親に奪われた挙句に愛玩動物の延長みたいな扱いを受けていたので、感情を解消したり発散する機会が無い状況だった。
自分の意思を表現すると「立場を思い知らされる」ので、あまりの怒りと無力感から自分の机に伏してバレないように動物みたいな唸り声を上げたりしていた。趣味も生き甲斐も取り上げられ仲間とも断絶されて、ストレスから肌も顔も荒れ放題、耳は切れて黄色ブドウ球菌に侵されてリンパが垂れ、首筋もあかぎれのように切れてしまい、腕の皮も荒れて剥け落ちてという有様で、生きているのがひたすら苦しかった。
病院には行っていたけど、治癒のスピードよりもストレスによる身体の破壊が早くて当然なかなか治らなかった。鼓動が早くなっていて体温も通常時より高く感じていたので、自律神経失調症にもなっていたなと思う。これまでで一番白髪が多かったのもこの頃。友達からは「お前、なんか覚醒するんじゃねえの」みたいな軽口を言われてちょっと救われた。高2〜3の頃だったと思う。
これを書いていると、今すぐ家を飛び出し実家に乗り込んで、徹底的に仕返しをしてやりたいという衝動を自分の中に確認できる。この期間は同じく家庭環境が複雑な友達が支えてくれていたお陰で、問題を起こさず自分も生き延びる事ができた。その友達との連絡は今はもう取れなくなっている。まだ生きていてくれると嬉しい。
この記憶を思い出した事で付随する感情も引きずられて出てきて、この時に気が付いたのがここ数年ほとんど自分の怒りらしい怒りを認識していなかったという事で、なんというか新鮮な気持ちになった。感情が揺れ動くのがなんだか嬉しくて、ちょっとワクワクした。
「怒りを感じていなかった」というのが実は大問題だったと思う。
この怒りの矛先は本来親に向けて抵抗するために利用すべきだったものなんだけど、利用できていなくて、そして最近ありありと思い出せたという事は当時のフラストレーションが解消されず残っているという事になると思う。解消できていないのならそれを感じなくなってしまっていたという認識はおかしくて、じゃあ認識できなくなっていたそれはどこに向かっていたかというと、これはまだ検証中ではあるんだけどどうやら自分自身に向かってしまっていたっぽい。怒りの矛先が自分に向かうことで、自己否定を一層強化してしまっていたんじゃないかと思う。
「しんどいのは親に向かうはずの感情の向き先が自分になってしまっていたため」と考えてみるようにした所、体が以前よりも軽くなり、洗い物が出来ない、風呂に入るのがつらいなどの恐らく精神的な問題が急に改善されだしたのは大変嬉しいんだけど、ネガティブな側面として最近色々な事にすぐイライラするようになってしまって困った……。これは多分……親に向けるべきものが溢れてコントロール出来ていない的なものかな……と思ってる。
でもこれは創作活動に転用できるエネルギーだと期待しているので、自己否定の改善と併せて、またしょっぱいながら活動を再開していけるんじゃないかと自分には期待をしてる。
つまり何が言いたいかというと、動けない、簡単な事ができない、しんどいという状態は何かしらのネガティブな強い感情が無意識に自分に向かうことで強いストレスを生じ、そこから起こる精神的な問題なんじゃないかと思う。と書いたところで気が付いたけど、よく見かけるような文になったし、そんなに発見ではなかったかもしれない。でもこれまでの情報との紐付けができたので、これはこれで知見かもしれない。
最近の取り組みは方向性は間違っていないと思う。例え間違っていても、死ぬまでに目的を達成するためにも引き続き認知の歪みを直す取り組みを続けたい。
「やりたい事をやらないのが苦しい」のは当然だけど、「やりたい事をやるのも同じように苦しい」というのは異常だし、このままじゃ今度こそ気が触れるかもしれないので、出来るだけ早く絶対にこの状況を脱したいです。おしまい。
一人暮らしを始めて転職して、そしてまた引っ越した際には保証会社を使ったので住所を自分からは伝えていない。確認は可能らしいけど。
ゴミ親父は前々から借金していた事が去年発覚して、その際に出向いて縁を切ってきた。俺のこの先10年間と俺の収入を返済に充てたかったらしい。ぶり転がすぞ。
母親は発覚直後もほとぼりが冷めてからも、問題には触れようとしない他力本願ぶり。あんたは昔から自分にとって都合の悪い事はどんな些細なことからでも逃げるよな。いや、借金は父親の独断だからその点だけは間違っちゃいないけど自分が住んでる土地?家?が担保にされてるのにそれは無いでしょう。
みたいな状態なので、実家はもうどうにでもな~れという気持ち。妹ちゃんも脱出がんば。応援してる。
早く人間になりた〜い
「そんなに嫌なら辞めればいいじゃんか」
どうして、そんな簡単に言えるんだろう。
またあんな苦しい思いをして、他人に品定めされて、働くところを、生きる価値を見つけなきゃいけないのだろうか。
何十社も何百社も探して、私とは何かを見つめて、お祈りメール貰って、面接では散々言われて
おんしゃおんしゃ。
三年も四年も前の話だけど、あの時のことはもう思い出したくない
言ってしまえば、所詮私が馴染めなかっただけで、その会社に染まれなかっただけで、私が馬鹿だっただけで、理解して動けなかっただけで、「つらい」という感情で片づけて、逃げるように辞めていいと思っているのだろうか。
他人にしてみれば、簡単なことなんだろう。他人の人生なんて、簡単なものなんだろう。私もきっと、他人がつらい思いをしていれば、辞めたらいいじゃん、と言ってあげるだろう。
言ってしまうだろう。だって、私にはその人の人生とは関係が無いから、その人がどうなったって、私には関係が無いから。
優しさで発してくれるその言葉は、ただ私に重くのしかかるだけ、
つらい、苦しいって病気の振りして、病気みたいな症状が出て、それでもまだ、私は自分が壊れかけって認めたくない。いや、認めているけど、心の底では、こんなもので、って思っている。
むしろもう壊れきっている。
みんな、苦しい思いしているのに、それらしい症状が出ているからって、そうとは限らないじゃん?
もし、病気じゃなかったらって考えたら、ただのよわっちい奴ってことになってしまう。だから、病気かもしれないってこと、認めたくなんかないし、ただの笑い話にしたい。
休日は毎回涙が止まらないのも、不正出血が続くことも、頭痛が止まらないのも、眠れないのも、自分自身を傷つけてしまうのも、ただ私が弱いだけで、構ってチャンなだけで、全然病気とかそういうんじゃないんだって。
辛くても苦しくても、どうしようもないことってあるじゃん。
人が死ぬこととかさ、別れとかさ、それが私にとっては仕事だったのかもしれない。
頑張っているねって褒めてもらえてうれしい、でもだんだん息苦しくなってしまう。また褒めてもらうためには?もっと認めてもらうためには??もっともっと、私をほめて、認めて、すごいっていって、流石だねっていって、じゃないと私はここに居る意味が無いんだよ。
それが結局、自分の首をしめて、良い人ぶって、出来る振りして、出来ないくせに、分からないくせに、嫌いなくせに。
一人暮らしを始めるために買ったもの、買って貰った家電はどうしたらいいの?実家にかえりゅ~~~って泣きついて帰って、つぎまた一人暮らしをするってなったら一から揃えるの?あほでしょ?
考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきて、考えたくなくなって、結局つらいくるしいって言って、死にたくなるだけ、
どうせ、だれも救ってなんてくれないし、結局他人事だから、親と言えど最後まで、私が死ぬまで面倒を見れるわけではないし、結局私がどうにかするしかなくて、私が稼いで、私が生きていくしかなくて、でもそれはとっても苦しくて
どうして働かなくて生きていけるの?生きているの?私には許されなかった世界で生きているの?どうして欲しいものを買えるの?どうして行きたいところへ行けるの?至極まっとうな人間になった私にはかなわないのに。
どうしてあなたは、私が望んでいる生活をして、苦しんでいるの?理解できないよ。
どうして、どうして私はひとりなんだろう
でも、他人と一緒とか今更無理だなぁって思う。
宝くじでもあてて、一軒家でも買って、一生働かなくて済むようになりたい。
週4の4時間とかなら許せる。とにかく長期間拘束されて、パソコンと電話とにらめっこして、顧客からも上司からも責められて、たまに貰う飴に騙されて。
どうしてこんなに苦しいのかも分からない。仕事を辞めてからって幸せになれるわけでもないだろう。
どうしたらいいんだろう。苦しいよ。今日もとっても苦しい。
もう私にはどうすることも出来ないってこと、分かってほしい。
誰にだ。
誰も救ってなんてくれないし、だれもわかってなんてくれないよ