はてなキーワード: カルチャーショックとは
餃子の神は白い髭を蓄えながら、宙に浮いている。杖を携えているが、こういうときの神は何故か西洋系だ。
「お前は餃子の無限性を理解している。しかしじゃな、餃子が宇宙であることまでは理解しておらん」
なんだと、この爺は俺に説教しようというのか。餃子の無限性を体得したこの俺にだ。餃子技が無限であるゆえにその手から繰り出される餃子もまた無限、これ以上の餃子マスターはいまい。粉、湿度、油の温度、油の種類、粉の練り方から寝かせ方、刀削麺の技術も参考にして完全無敗(?)の技術を身に付けた。ひき肉は鹿児島県産の黒豚と黒毛和牛を5:5でコネ併せた、そのままでもハンバーグの名店に引けを取らない、口の中で溶けるひき肉を用いている。その上にんにくも――。
しかし神は考えを読んだのかファファファと笑ってみせる。FFか。
「やはりわかっておらん。餃子は変幻自在、変幻自在であるがゆえにこのような餃子が出てくることを考えておらぬ」
そういうと餃子神は、目の前に一皿の餃子を出現させてみせた。そして悠揚とした面持ちで食うてみいという。
俺は餃子神を睨(ね)め付けながら差し出された餃子を一口に含んでみた。じゅわっと広がる衣の油と、さっくりとした菓子のような生地、たちまち広がったのは衝撃的な味だった。
「なんだ、あんこか!?」
この野郎、と俺は思った。
たしかに餃子の生地を使っているが、中身は餃子とは似ても似つかない物が入っている。名古屋名物のマネでもしたつもりか。俺は叫んだ。名古屋人になったつもりで叫んだ。
「大うつけが! これはスイーツであって餃子ではござらんみゃー!!」
大うつけ信長をデコレーションしながら叫んだ。我ながら完璧な名古屋人だ。
とはいえ不覚だった。餃子の名所は宇都宮であって名古屋ではない。できるなら宇都宮の著名人も声真似として入れるべきだった。しかし細かすぎて伝わらない。そんなことを考えているうちに、神がまた笑った。
「今まさにお主がゆうた答えそのものよ。お主は餃子お考え方を自ら狭めておる」
神は笑顔だ。勝ったつもりでいる。こいつ、俺のいったことを理解してないのか。
そんな俺を見抜いているかのように神が指差す。
「半分だけ食べてみよ」
俺は上目遣いのまま餃子を半分だけ食べてみた。
「これは……!」
半分だけになった餃子とあんこの中から肉汁が垂れだしている。こいつはスイーツと肉を融合させていたのだ。
俺は雷に打たれたような衝撃と気持ち悪さとカルチャーショックに震えた。西野カナよりも震えた。しかし瞬時に負けたことを悟った。甘みのコクとして肉を挟む手法は、パインと酢豚並みではある。しかしパインと酢豚は気持ち悪さと引き換えに、肉を柔らかくする技法を隠し持っている。そしてあんことひき肉の融合も、程よい塩分にとコクによってあんこの異文化交流を果たしつつ、刺激的な出会いをもたらしている。そして餃子の型を崩していない。俺の顔が苦渋に歪んだ。敗北感と先入観による気持ち悪さと、案外美味しいという悔しさからだ。そんな俺に餃子神は突然いう。
「ま、餃子ではないがな」
はあ? と思った。一体なんなんだこいつは。新しい餃子の可能性を示したのではないのか。
「お主のそういうところじゃ。餃子の無限性を説きながら、全く餃子を広げようとはしておらん。お主は餃子の型から離れることがない。餃子の究極は餃子にして餃子にあらず。餃子の型ありて餃子の型なし。餃子そこにありてどこにもなし。わかるかな?」
わからん。ただ、餃子の道がまるでタオのように深遠なる世界であることだけが伝わってくる。俺はその時はたと気づいた。それはすがる気持ちに似ていた。
「餃子の構成は原子、いや量子だ。世の全ては餃子ということなのか。変幻自在こそ餃子の本質だというのかッ! 完成された未来の餃子は決められているとでもいうのかッッ!?」
その悲痛な声を聞いたのか聞いていないのか、餃子神はゆったりと姿を周囲に溶け込ませながら頷いた。
「宇宙の宮と呼ばれる場所へ赴きなさい。そこは餃子の聖地……」
神に伸ばした右手がキッチンの壁に触った。神の影は薄まり、立ち消えていた。打ちひしがれて呆然としていた俺の中に南京鍋のフチで咲く炎のような闘志が湧き上がっていた。聖地宇都宮、待ってろよ。餃子の宇宙を掴んでやるぜ。
(つづきません)
「日本って人口多いのに日本人としての意識が強すぎない?」ってアメリカ人に言われて答えに詰まった。中国人も「そうそう、そいういう国あまりないよね、都市国家みたい」って参加してきたので、「中国は違うの?」と聞くと「戸籍格差って単語聞いたことない?」って鼻で笑われてしまった。
二人から話を聞くと、住んでいる都市によって法も違えば許されること許されないことが違うのは世界的には普通のことらしい。日本にも条例があると言い返してもそういうレベルではないらしい、日本でいう憲法だけが国全体で同じで法律は場所によって違うくらいの感じらしい。私が実家に帰っていいのかいけないのか国で決めて欲しいと愚痴っていたのはカルチャーショックだった、という。広い国に住んでいる二人からするとそういうことは国で決めることではないそうだ。「日本は狭いからね」と誤魔化すとそれも誤解で日本は長いのだからアメリカの北部と南部くらいの違いがあってもいいという。
日本sugee的なものは苦手だしそういう感覚薄いと思っていたけど、言われてみるとまず日本という単位でモノを考えることが染みついているのは正しいように思う。アイデンティティが住んでいる土地より日本の優先順位が高いのだろう。私だけじゃなく似たような人が日本で多数派だとすると変わっているというのもわかる気がする。
色々と違うのに同じだと信じている。一億総中流という在りもしない幻想を大勢が信じていたことに似ている。なんだかとてももやもやするわ。
Twitterで話題になっていた「同人女」に関するマンガを読んだ。面白かった。
大分流行に遅れてしまったけれど、このマンガにまつわるエピソードを語りたい。
https://twitter.com/sanada_jp/status/1269465337675698176?s=20
まず、「面白かった」、というのは「ギャグマンガとして面白かった」という意味だ。
ラストもその執念がちょっと空振りする感じ(うまくいえないけれど)がギャグ的に楽しかった。
Twitterで流れてきてサクッと読め、クスリと笑えるマンガとしては最高のバランスだ。
わたしは、これを「ギャグマンガ」として読ませていただいた。作者さんのファンになった。
Twitterで巻き起こったこのマンガに対する「語り」は、別次元に発展し、
同人女たちが共振し、ときには己の古傷を語りだしたありさまは、魔法で裁判にかけられた人みたいだった。
特に、わたしがタイムラインで見た「おけけパワー中島」への「心乱され感」がすごかった。
といった嫉妬・憎悪方向への共感があったことに驚いてしまった。
特に、
といった、冷静と情熱のあいだ、みたいな言及が、私にとっては恐怖そのものだった。
おけけパワー中島は、悪くはないのに人の心を乱す……?
ヒトノキモチ、ワカラナイ……コワイ ……
同人に参加する多くの人はアマチュアで、「作品が好き」という気持ちが昂ぶった帰結として、
「大金を使って本を出す」という狂気の趣味だ。意味がわからない。
この愛に狂った感じが心地いい。
結婚や出産・昇進、病気……理由は様々だが、自分では本は出さなくなった人もいる。
同人活動も生身の人間がやっているものなので、対人・金銭トラブル等の噂は耳にするものの、
基本的には「自分が作品に狂っている活動」を粛々と行っているように思えたので、
こうした「他人へのイラつき」みたいなものをカジュアルに表明されるのに驚いてしまったのだ。
私にとって「おけけパワー中島」は、初読のときには「神作家のフォロワーに一人はいる軽いノリの人あるある」程度だった。
私の経験でも、ものすごく上手な同人作家さんはなんとなく気軽に話しかけづらいものだが、
たいてい一人は非常に仲の良い人がいるので、楽しそうだな~と思いながら眺めているのが常だ。
もしリアルの友人が同じことしていたら
「ちょっとストーカーっぽい思考だから、しばらく同人から距離おいたら……?」と言う。
もしくは、
「そんなに仲良くなりたいんだったら、まずは挨拶とか萌え語りとかしてみないとスタートラインに建てないんじゃない? 」と言う。
七瀬さんは仲良くなりたいわけではなさそうなので、地雷を踏み抜きそうだなとも思う。
でも、千と千尋の神隠しで、「カオナシ」が千尋に金を差し出して気を引こうとしているのを眺めている気持ちになってしまう。
クソデカ感情の一方通行現象は、同人誌の中だけでお腹いっぱいだ。
「人に認められたい」「人に見られたい」というのは、ときには苦しいものなのではないかと思う。
承認欲求というのは自力では解決できない側面があり、努力で100%解決できるものではない。
"地獄になりやすい欲求ランキングトップ3(私調べ)"なので、
趣味である同人に持ち込むととてもじゃないがやってられないだろう。
そんなこじれた感情は、思春期で経験して割り切っていてほしいものである。
七瀬さんに対しては、「相互フォロワーになることと、pixivのブクマを超すことだったら、後者だけに絞れば?」とも言うかもしれない。
ブクマ数は努力という自分の責任になり、他人をコントロールしようという衝動から逃れるすべだとおもうからだ。
そんな価値観を持つ私は、
おけけパワー中島に心を乱される同人女の人とは、仲良くなれないと思っていた。
でも、そうではなかった。
Twitterで仲良くしてもらっていた人も、実際に経験していたようだし、
その気持を表明できる程度には、よくある話なのかもしれない。
いや、もしかしたら心を乱されないほうの人が少数派なのだろうか?
おけけパワー中島みたいに、「悪くはないのに人の心を乱す」存在はいくつもバリエーションがあるのかもしれないし、
わたしも、人知れず、誰かを傷つけたり恨みを買ったりしているかもしれない。
コワイ。
「おけけパワー中島」は、同人女のロールシャッハテストみたいなものだった。
彼女を見て何を感じ、何を語るか。それはその人の価値観や経験が色濃く反映されているのだろう。
もちろん、物語への没入能力が高い人は経験ないことにおいても”共感”ができるので、
実際に経験をしたことがなくても「おけけパワー中島に心を乱されるのあるあるだよね~」となるのかもしれない。
「おけけパワー中島」によって、
【価値観が異なる世界をまた一つ知ってしまった】という単なるカルチャーショックである。
カルチャーショックの対処方法は「そんな世界もあるんだな」って割り切ることしかない。
就職のために出てきた東京で一番カルチャーショックをうけたのは、かわいい中学生くらいの子がキャッキャとじゃれあいながら、「あなた変よー」と言ったことだった。私と彼女等との距離はほんの数メートルしか空いて居なかったのに、その間には高くそびえ立ち深く埋め込まれた壁を感じた。
きれいな言葉。擦り切れてテカっていないどころか、素人の手で洗われたことのなさそうな制服。美容院で整えられた髪。見たことのないくらい輝かしい生き物だった。後光さえ感じた。そういう子等は、子のうちから「あなた」という相手への呼び掛けを使用できるのだ。
なんのことはない、増田をブクマする際に「あなたは」と書きそうになったが、どうにも耐えられなくて「増田は」と書き直した。増田ってのは本来は「名無しの権兵衛」のような、特定の個体でありながら誰とも言えない匿名ダイアリーユーザを表す呼称だった。それなのに、なんだかトピ主みたいな呼称でものすごい気持ち悪いものにしてしまった。それでも、あなたと書くよりはマシだった。
婉曲表現というのは、皆が使うようになったら明確な拒否を表すものになる。「結構です」なんてものすごく強い拒否の言葉だが、原義としては「大丈夫ですーー」くらいのものだ。もう数年もすれば、「大丈夫」すらかなり強い拒絶の表現になるのだろう。
そのように言葉のニュアンスというのは、使用者によって日々変わって行く。それだけでも恐ろしいのに、ベースとなる言語すら違うのだ。どんなにどんなに学んだつもりになっても、この地域で正しい言葉遣いなのかは分からないままだ。
えっと、「あなた」って、 You の意味で普通に使う言葉なのでしょうか。それとも何か他の意味を含むのでしょうか。現代の三十路が使って良い言葉なのでしょうか。誰かに、正解を教えて欲しくなる。
その事をどうしても受け入れられなかった学生の話について、
聞いた内容をメモ代わりに増田へ残しておこうと思う(学生からは了承を得ている)。
また、就職の際にそういった親族や知人のツテを使って行うパターンが多いそうだ。
子どもが好き→子どもと関わる仕事→保育士になる。と考えて進学する学生が一定数いる。
保育園以外の児童福祉施設など、保育士の資格を活用できる場は色々あるものの、圧倒的に保育士を志す学生が多いそうだ。
幼稚園教諭の免許も取得はするが、ほぼ保育園かこども園に就職する。
また、就職先について休日・給与よりも保育の方針や環境を重視しがちであり、よく問題視されている低賃金の要因はここにもあるのではないかと予想される。
実際、求人でもそこまで条件は変わらなかったり、短大や専門卒の若い人材を欲しがる事業所が多いそうだ。
また、一部の教育学部を除いて保育系の養成校はほぼボーダーフリーレベルであるため、学生は行けるならどこでも良いのだとか。
進学先の決め手は皆口を揃えて「家から近かったところ」と言う。
就職や転職にわりと時間をかけた自分はカルチャーショックを受けた。
社会が問題視している低賃金や仕事の持ち帰り、就業時間の長さなども
あまり気にしていない層が多く(ここも驚いた)、
声をあげようとする人を敬遠しているようだ。
学生について尋ねた。
新型コロナウイルスに世間がざわつき始めた3月に強行された1日8時間休憩30分の実習、
上記の実習終了後に当日分の日誌を全て手書きで記録し翌日に提出せねばならず、
園によって日誌上の表現が異なるため、時には重箱の隅をつつくような指摘をされる。
それを平日と土曜を含めて10日間過ごす。
それでも周りの学生はそれが当たり前だと受け入れるのだそうだ。
「保育ってそういうものだから」と担当教員から何度も何度も言われてもう疲れた、と学生は呟いていた。
その学生は将来なりたい職業があり、児童福祉施設での実務経験が必要であるため保育士を目指していたが、
「学生の実習のうちから弱音を吐くようでは保育士になってから苦労するよ。」とはとても言えなかったし、思えなかった。
1日あたりの実習時間を短縮したり、せめて日誌の記入時間を実習時間に含めることはできないのか?
世の中にはこんなに飼い主に愛情をたっぷり注がれているインコもいるのだなと軽いカルチャーショックを覚えた。
私の家で飼っていたインコも、ああいう飼い主の家で飼われていたらもっと幸せだったのかもしれない。ごめんね。
飼っていた9年間、動物病院に連れて行ったこともなかったし、爪切りしてあげたこともなかった。
顔まわりを指で撫でると喜ぶということすら知らなかったよ。
ケージの交換も止まり木の交換もオモチャの交換も一度だってしてあげなかった。ヒーターだって付けてあげたことがなかった。
エサの殻をフーフー飛ばしたりはしてたけど、水の交換が面倒で何日も変えないこともザラ。水の容器がぬるぬるしてるのを洗うのも面倒だった。
小松菜をあげたときはいつも喜んでたね。テンション上がると首振りダンスをしたりよく喋ってたりしたね。
放鳥して一緒に遊ぶのだけはよくしてた。懐いてたと思う。
でも買われたのかうちじゃなかっならもっと快適に幸せに過ごせてたのかもしれない。私の誕生日に買ってもらったのにロクに世話もできない飼い主で本当にごめんね。天国で幸せに暮らしてるかな。
最近よその家族とご飯を食べたが、私の知ってる家族と違いすぎてカルチャーショックを受けた。
そこのおうちのお嬢様がお母様に「そういう言い方はよくない」と注意する。
お母様もそれを聞いて「そうかもしれないね」と受け止める。
実家では親に進言するとこうだ。機嫌がいいときは「いいこちゃんぶって」と嫌味で返され、機嫌が悪いときは「子供は黙っていればいいんだ」といわれる。
そもそも30歳近くなってもまだ子ども扱いで、一人旅に行きたいので親の許可を撮ろうとすると引率の大人がいないならダメだといわれる(無視して行った)。昼食のラーメンに入れるネギを小口切りにしたかどで全裸でベランダに締めだすというしつけを受ける。
大学卒業を機に一人暮らしをして1,2年に1回帰省するだけだがそれすら最近は我慢できなくなってきた。早く死ねばいいのにと思われている家にどうしても帰りたくない親不孝者だ。
よそのおうちでは顔色を窺わなくてよい、大きな足音や物音で不機嫌アピールする人がいない、そもそもイライラしてる人がいない。
ゆっくり過ごしてほしいということだったので通された仏間で甘えて横座りだが足音がしたので跳ね起きてすぐ正座した。そこのおうちのご令息はごろごろしたままだった。足音だけで部屋に入ってくることはなかったが、この家の人は足音を恐怖に思ってないんだと愕然とした。親が一見したとききちんとしてないと叱られることはここの家ではないのだ。
小学校低学年の女児が「この遊びがやりたい」と口に出していた。
家族でできるボードゲームだったので家族みんなでやりはじめた。
一時期豊田真由子の怒声がテレビをにぎわせていたがあれが話題になっていたのは異常だったからだ。
母のしゃべり方は豊田真由子そっくりなので私は報道を正視することができなかった。
職場の人は笑い話のように豊田真由子の話をするが私には笑えなかった。子供のころからああやって怒鳴られていたから。
十二国記には梨蓉という登場人物がいる。彼女は数代前の王を支えた高名な仙人だが性格がきつく今は洞を与えられて幾人かの下僕をいじめながら暮らしている。
下僕の一人、鈴は屈辱的なあだ名をつけられたり無理難題を申し付けられたりしながら暮らしているがある時耐え切れずに出奔する。鈴は自分を憐れむが、物語が進んで出会った一人の少年に諭される。
その内容が私はまだ受け止めきれる度量がないのだが、その挿話があるため私は十二国記のことが大好きだともいえる。
こういう親の元で育ったことを人に言われたときにどう受け止められるかがわからない。
親とすら仲良くできない欠陥品だから、人間の失敗作だから関わらないようにしようと思われても仕方ないと思う。
私は厳しくしつけを受けて育ったが、親をだまして女子高の特進クラスに入った。あまつさえ大学に進学し東京に就職して独立してしまった。いつまでも一緒にいてアップルパイを焼いてくれる優しい娘が母は欲しかったのに。地元の地方公務員と結婚して親とはスープの冷めない距離で仲良くする友達親子を期待してたのに。私はその期待を裏切ったのだ。死ねといわれても仕方がないと納得しないといけないはずなのに納得できないのが親にもたぶん透けて見えていて、さらにしつけを助長する。
不正乗車の話を見て、ふとアメリカの電車に乗った時の話を思い出したので書く。
それほど昔の話でもないし、今でも何も変わっていないと思う。
アメリカには観光でいたわけではなくて、とある地方都市に在住して仕事をしていた。
ちなみに都市圏全体で何百万人も人が住んでいる全米有数の都市である。
車社会であるから、鉄道の路線網は世界一の鉄道大国である日本とは雲泥の差であるが、一応その都市では主要な路線となっている電車に乗って通勤してみたことがあった。
駅に行ってみて驚いたのは、駅員どころか、改札も何もないことである。
券売機は、恐ろしく頑丈そうな鉄の箱で、なんと料金は一律で「一日乗り放題」「半日乗り放題」「7日間乗り放題」みたいなものしかない。
電車が来て乗りこむ。車両は海外で製造されたものだということでなかなか立派である。
日中でもあり、治安の悪さも感じなかった。乗っているのは案外普通の人ばかりである。
そうこうしているうちに電車は目的地に滑り込み、下車をするのだが、この流れでお分かりいただけるだろうか?
アメリカでは、ぷらっと駅へ行って、お金を払わずに乗って、降りてなんてことも当たり前のようにできるのである。
では、どうやって不正乗車を防ぐのか?
何度か乗っていて分かったのだが、稀に駅で非常に体格のいい黒人の男性や女性が制服で乗ってくることがある。
すると、彼らはいきなり連結部の扉の前に立ち、まるで囚人を検査する看守のような態度で誰も逃げられない態勢を作るのである。
何も悪いことをしていないのに、恐ろしい気分になってくる。
ある時は、彼らが乗り込むのを察知して、男がダッシュで間一髪電車から降りたのを見かけた。
また、勘のいい方なら気付いたであろうが、一日乗り放題券なのだから、切符を他人に譲ってもらえばそのまま使うことができる。
ある時は、降り立った駅で浮浪者に声を掛けられ、切符を恵んでくれと頼まれた。
勿論、心優しいわたくしめは不正乗車に手を貸し、喜んで切符を差し上げた。
始発の駅は、少し立派でより巨大な駐車場と、簡素な建物があった。
建物の中には自動販売機があったのだが驚いたことに、黒い鉄格子の中に自動販売機が入っていた。
お金を入れる場所や、商品を選ぶボタンや、飲み物の取り出し口に隙間があり用を足すことになっている。
駅から少し離れた駐車場の周囲には、得体のしれないその日暮らしのような人たちが常にたむろしていてとても夜は訪れることができる場所ではないなと思った。
そういったわけで、これはまさにカルチャーショックであった。
不正乗車を防ぐ地道な取り組みを含む小さな改善を積み重ねて、今の日本の当たり前が当たり前になっているのだなあと思う次第であります。