日馬富士のニュースを目にする度にややもやもやとするのは、多感な時期に彼を育ててきた人々、彼を指導してきた人々のことを考えてしまうからだ。
引退の会見の場でさえあれは指導だったと主張していた日馬富士だが、彼のその考え方を育んだのは周りの人々だったのではないのだろうか。
虐待の連鎖ということがよく言われるが、暴力を伴った「指導」を受け続け、それが必要なことなのだと納得させられて育ってきたら、「指導」には暴力が伴うという「常識」を持った人間に育つのではないか。
もちろんこれはただぼんやり想像しては嫌な気持ちになっているだけだ。
しかし日馬富士について正論でもって糾弾する人々を見る度になんとなく、例えばそれは搾取だから安いものを買うのはやめなさいと主張するハリウッドスターを見たときのような、例えばそれでもここまで育ててくれたのだから家族には感謝しなさいと諭す健やかな人を見たときのような、例えば毎晩両親が怒鳴り合う家の子どもに勉強ができないのは努力していないからだと叱る人を見たときのような、もやもやした気持ちになってしまうのだ。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ7-1)