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2024-04-10

ネット限界

池内友次郎 著 『和音構成音』の序文にはこのように書いてある。

和声法は,適宜な和音連結により,固有の調を確立しつつ,それを強唱敷衍するための手法である

この"強唱敷衍"という言葉説明できる人は今の音楽界にはほとんどいないようで、検索しても結果は帰ってこない。

2024-03-17

anond:20240317094854

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互関係支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて

現状追認するならまず序文のこれ消さないとな

2024-03-01

anond:20240301143624

その手のなら「プログラム言語理論への招待」って本が分厚くてしかも訳わかんない数式だらけで(序文いわく数学科3年レベルはないと理解できないらしい)で、誰も読んでなさそうって思いながら読んで10ページで挫折したわ。

2024-02-16

天使の輪が死人を表す漫画表現になっているのって変だな

人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教世界観においても

この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう

どこかで発想の飛躍があったのかな

気になるねえ、ぐぐりましょうねえ

天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか

天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方

発想としては仏教の後光と同じか

まだ足りない

天使聖人を描いた絵画???漫画表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと

なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな

勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな

天使聖人を描いた絵画パロディで、天使を例えば政治家差し替え風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか

それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?

うーん、あくま根拠のない憶測

こういうのは英語圏情報を探さないといけないな

一応、英語圏イラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……

日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画いか

……手塚治虫がやってる気がする

あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか

ってことはディズニー作品でもなんかあるような気がしてくるな

うーん、探し方が下手

wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな

英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか

うーんアメコミにもヘイロー使用あるかもだが、アメコミに詳しくない

調査頓挫する予感

ここまで調べたというメモ

なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ

今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果

日記

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ポップカルチャー宗教序論」という論文を読んだ

こういう路線で調べていくのがよさそうか

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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋

漫画記号表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーアニメにも、ヨーロッパカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。

http://www.cartoonstock.com/cartoonview.asp?catref=amc0009

ふーむ、やっぱり古くから定番なんだな

この回答者によるとディズニーでもやはり使用されていると

人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー

人間死ぬ天使になります

アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーちゃんお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそば翼を広げて飛んでいますよ」。

死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式教理として教えられることはまれですが,映画テレビ連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます

あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書のものが何と述べているかを調べてみましょう。

うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか

それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?

ドラゴンボールの影響がどのくらい大きいか、気になるな

っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな

何より先に原作コミックを読んだほうがいいのかもしれん

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天使とは何か キューピッドキリスト悪魔

天使と人の文化史

ここら辺の本があるいは参考になるか

だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題から、そこに期待が出来る

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英語圏情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない

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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチエピソードがあった気がする

ネズミ取り必勝法』か、これ大好き

プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない

オチはやはり爆死で……天使になってるな、これ

やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ

翼とヘイローがあってハープを持っている

ネズミ取り必勝法』は1944年11月23日に公開

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ってことは

天使聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストアニメ天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた

……か?

まだ足りないぞ

「死後に天使になる」って発想がどこから来たんだって

キリスト教教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう

ヘイローは聖なるもの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?

でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい

まだまだ調べないと納得できないな

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ひょっとしたら演劇ミュージカル側の文化関係している可能性もある

死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない

一応留意して調べる事

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「池にコインを投げる風習はいから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな

これも同じパターン可能性がある

聖者記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない

しかあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう

あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず

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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ

①「死後に天使になる」という考えの源流を辿るルート

漫画表現で死者が天使となった描写漫画表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート

こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで

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次にやる事

守護聖人絵画での描かれ方を確認する

→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか

:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む

→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い

 →でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって

  →だとしても体系的な土台の知識が無いと何も始まらないだろ!

   →はい、おっしゃる通りです、すみません……

第一次世界大戦風刺画ヘイロー描写が無いか探す

第一次世界大戦1914年7月28日1918年11月11日、ちょうど探したい年代

キリスト教素養がない私がヘイロー描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える

→やっぱり基礎の勉強しましょうね~

そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる

→基礎(略

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②についてだが「ゲームドット絵キャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた

流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ

しかし調べるとっかかりとしては魅力的

ヘイロー関係ないけど「ゲーム戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう

棺桶幽霊化、ヘイロー付与etc……

また別の機会に調べよう

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Heaven Cartoons」というジャンル風刺画があるらしい

画像検索してみるとなるほど確かに天国天使なんやかんやする種類の一コマ漫画

いつ頃から描かれているかちょっと調べてみたがなかなか難しい

Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない

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星新一アメリカ一コマ漫画蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入

これにアメリカ一コマ漫画挿絵掲載されて……いない!

権利関係問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ

しか天国ものについてのエッセイは変わらず掲載がある

数少ない挿絵の作者は……Sidney Harris

漫画家としてのキャリア1955年から

うーん、トムとジェリーのほうが時代が古い

もっと挿絵を見たいか挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは

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Cartoon of the politics of the Second Empire (Bonapartiste Regime) directed by Napoleon III (Charles... | bridgeman images

やっとひとつ見つけた

ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画1868年1869年?に描かれた、ってところか

翼があり、ヘイローもしっかり完備

トムとジェリー1944年よりだいぶ古い!

しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議

なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するとき天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない

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トムとジェリー以前のオールカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体全然見つけることができていない

ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった

翼だけ背中にあってヘイローなし

実写映画も調べる範囲に含まないといけないか

オールカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画文脈だと思うんだけどな……

うーん、難航している いよいよ調査が行き詰まりそうだ

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マーク・トウェイン天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ

天国観の変遷について言及がある

絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ

18~19世紀文学作品天国描写しているものを探すべきだな

ここらへんは先行研究論文を探しやすそうだ

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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説アメリカ1868年刊行されめちゃくちゃ売れたらしい

当時の人々の天国観に影響ありそうに見える

その小説で語られた天国観は

In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.

カルヴァン主義伝統とは対照的に、フェルプス天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである

とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳

うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする

カルヴァン主義の事よく知らないからそこは調べないといけない

マーク・トウェイン天国建設の旅』という論文序文あたりに19世紀半ば以降に天国もの小説流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする

なぜ流行たかというと南北戦争の影響やろなあ

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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイロー写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい

なので宗教美術において死者(例えば聖人殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか

一度断絶しているのでは?という疑問を持っている

ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画カートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている

あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな

記号として復活させたとしても参照元は必ずあるわけで

19世紀アメリカで人々が見ることが出来た美術絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……

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自分確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法

オールカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないかもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)

キャラ死ぬ描写そもそも全然ねーんだわ

トムとジェリーがどんだけ過激なことやってるかって話ですよ

幽霊は沢山出てくるんだけどねえ

ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいか

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キリスト教教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)

19世紀半ばにスピリチュアル小説流行り、人々の天国観を変えた

→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった

→死後に天使のような装いになる認識が生まれ

たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞挿絵風刺画漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった

→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画カートゥーンアニメビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくま天使など聖なる魂的な存在専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧表現)と同じ装い)

日本キリスト教文脈無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号表現となる

……という流れだという仮説を立てることが出来た

うーん、自信ない

18世紀以前に普通の死者も天に召されるとき天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない

印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ

探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)

また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない

しかし、とりあえず一定レベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ

18世紀19世紀の米英のキリスト教史を調べないともうちょっと正確な認識ができるのだろうけれど、それは今後の宿題だな

西洋世界文化史キリスト教歴史は不可分だから体系的に勉強したい

2024-01-30

アニメスナックバス江」から見る映像化の難しさについて

アニメ放送以降、アニメスナックバス江」監督によるX(旧twitter)の投稿でそこそこの焚火が燃えているが、最近起こったドラマ原作者自殺に絡めた投稿でまた一ボヤ起こっている。

 

そもスナックバス江とは北海道札幌北24条辺りにある架空スナック舞台としたギャグマンガで、スナック従業員女性たちと様々な客(常連から異世界から紛れ込んだ一見さんまで)たちとの掛け合いを軸としている。

テンポのいい掛け合いや踏み込んだ突っ込み、ルビ芸のワードセンスが特徴の漫画で、ネットでは否定的意見を見たことがないほどだった。

作中メタネタ的にアニメ化したら~とか自分声優はこうだ~とかキャラ自身が出すことがあったのだが、昨年本当にアニメ化という話が出た。

個人的にはすごいよマサルさんギャグマンガ日和シリーズ的な感じのギャグアニメがようやく来るなととても楽しみにしていた。(+チック姉さんはまだあきらめていない。)

とても楽しみにしていたのだが、待望の放送を視聴したところ困惑するような出来だった。

 

会話のテンポがすこぶる悪い

1話放映後、噴出した意見

Xでも指摘している人は少なくないがバス江で求められているのは強みであるギャグを引き立てる軽快な掛け合いだった。

しかアニメでは現実でもありそうな場末スナックでのうだつの上がらないおっさんがする間延びしたトークテンポで、現実スナックを描いた作品だったらあり得る会話劇だがギャグマンガにおいては致命傷にもなりうる遅さ。もともと内容がある話ではないので、アニメスナックバス江」のかみしめる様な会話の遅さだと全部素材が死んてしまう、というか死んだ。

個人的には3話まで見てから評価するようにしているのだが、待望の3話でバズった小ネタが出てきたが演出のせいで不発に終わりだめだこりゃと悟った。

 

話の順番の改変

スナックバス江の第一話はスナック行ったことがない真面目そうなスーツ姿のサラリーマンスナックへ入るところから始まる。

そわそわしつつ入店して目に入るのはチーママママを酒瓶で殴りつけた直後と思われる流血沙汰の現場で、リーマンとチーママは目を合わせるもののそこに一切の会話がない。

面白無視で読者までガツンと殴りつけるような導入だったのが、アニメ第一話導入ではカラオケboxで歌っている途中店員が入ってきたら気まずいという毒にも薬にもならないあるあるネタ

カラオケネタ前後の話があったり登場人物関係性が出来上がっていたからこそ、そこそこ面白かったのだが導入としては正直弱すぎる。

最初の指摘と合わさって監督バス江についてどの程度理解しているのかが露呈してしまった。

 

スナック文化偏重

監督はXでの投稿を見るとスナックテンポ雰囲気大事にしたい様子だ。確かに漫画では背景はほとんどなくキャラが酒をあおるシーンやカラオケするシーンは会話のアクセントでたまーに入るくらいだったがアニメ版は違う。

背景はスナック感マシマシでちょいちょいグラスの氷の音や酒をあおるシーンが出てくる。おまけにムーディなBGMが流れしっとりとした雰囲気が出ている。

酒を飲みながら視聴したらさながら自分スナックにいるような雰囲気を味わえそうだ。

しか原作ファンが求めていたものはそれではないのだ。

 

都会で評判のいいチャーシューメンマスタンダードと思われる具材が乗った大衆ラーメンを食べに行ったつもりが小皿スープと麺がこじんまりと乗ってジャズだかクラシックが店内で流れている意識高い系ラーメンをお出しされた感覚だった。

実際好きなギャグマンガ原作アニメではなくよくわかんない長尺FlashアニメとしてならBGM代わりにできた。

好きな原作だしということで食べたら食べたでまあまずくはないけど、求めているのとはまったく違う。もんじゃ焼きとゲボぐらい違う。

 

Xの指摘の傾向と自分感想とどの程度近いかいかはさておき、バス映像化について監督

「あえての表現

「わからない奴はわからんでもいい」

スナックの良さを引き出している」

といった感じの主張をした結果ボヤ騒ぎ。個人的に主張はわかるんだがそれをバス江を使ってやらんでくれと思った。

そして序文の話。

どうやら今は投稿が消えているみたいだがドラマ原作者非難した視聴者原作者自殺に追いやってしまったとし、視聴者たちを非難する投稿をしたようだ。

趣旨としてはクリエイターもっと大事しろというように受け取ったが、これは監督バッシングということがあってということなのだろうか。

いずれにしても独り相撲クリエイターSNS自己弁護たらこうなるという好例をみることができた。

 

原作ファンの求めているもの」と「監督が出したいとするもの」が違う事例は良くも悪くもほかの作品にも言えることで、特に監督の力が強そうな実写化では顕著に出ていると思う。

成功した感じなのはデスノートとかるろうに剣心とかカイジアニメも)とか、逆に上手くいかなかったのは進撃の巨人とかデビルマンとかだろう。

特殊なのは庵野氏によるリバイバル作品で、ゴジラウルトラマン仮面ライダーを見たいというよりは庵野解釈のそれを見たいということでおもしろいかまらいかはさておき原作レ〇プみたいな話にはならないのだろう。

そういう意味では映像化するにあたり見せたい相手監督ファンなのか、原作ファンなのか、その辺りをわきまえているかどうかがカギになると思う。

スナックバス江についてはほかの監督リバイバルされるか、原作者による供養(映像クリエイターが本編に登場する回)をしてもらうことを期待したい。

2023-05-31

ニッチ音楽が好きなオレ

俺は「プログレッシブロック」(以下:プログレ)っていうジャンル音楽が好きだ。高校生の頃出会ってからずっと好き。特にKansasJourney from Mariabronnていう曲が好き。(現在29歳)

でもこのジャンルって、世間的には"ニッチ"って言われる。小難しいとか、インテリ音楽とか言われてるのをネット記事なんかでよく見る。

言わんとすることはわかるし、たしかにイマっぽいポップミュージックとは一線を画すことは認めよう。

しか世間というものは広くて、そういう音楽愛する人っていうのが一定層いる。

と、思っていた。

しかしこれは罠だった。ここから愚痴なのだが、俺は本当の意味プログレを好きな奴ってのをほぼ見たことがない。

あいつら、プログレファッションにしてやがるんだよ。ニッチジャンル攻めてる俺。っていう。偽者だらけよ。俺はカンがいいから、そういう偽者がすぐわかる。

ジャズ畑とかにも多いんだけど、通常のポップミュージックをお前ら、ちょっと下に見てるだろ。それだよ。俺が引っかかるのはそれ。

から言われせれば、プログレは通常のポップミュージックと変わらない、すごくわかりやす音楽だ。そういう仕組みになってる。

わかりにくくみえているのは、お前らが今まで社会から受けてきた音楽洗脳のせいである。つまり、「これが曲というものですよ」っていう洗脳が染みついちゃってるわけ。構成とかね。

(松本人志お笑い問題に似ている)だから、その構成に沿わないものを耳にしたときに「これは曲じゃない」ってなっちゃうの。オートでね。俺はその洗脳教育が終わるか終わらないかのところでたぶん、出会えてたからこそ、プログレを「わかりやす音楽」として認識できるんだろう。

ちょっと勉強たからわかったんだけど、ホンモノのプログレってのは(Yesとか)かなり綿密に構成が練られている。これは、ホンモノじゃない「なんちゃってプログレ」と聴き比べるとわかる。なんちゃってプログレマジですぐ飽きる。それは構成が練られてないから。

このあたりを理解できてないやつが「狂った音楽」だの「玄人向け」だのわけのわからんことを言い出す。

実は今のが序文なんだが今日はここまで。

2023-03-03

Google Fonts のサンプルテキスト

https://fonts.google.com/noto/specimen/Noto+Sans+JP

いつもは当たり障りのない文例が使われていたんだが、今見ると文例が世界人権宣言序文になっていた。

太字で言われると圧が強い。

人類社会のすべての構成員の固有の尊厳平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由正義及び平和の基礎であるので、 人権無視及び軽侮が、人類良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、言論及び信仰自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、 人間専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権保護することが肝要であるので、 諸国間の友好関係の発展を促進することが肝要であるので、国際連合諸国民は、国連憲章において、基本的人権人間尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会進歩生活水準の向上とを促進することを決意したので、 加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由普遍的尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、 これらの権利及び自由に対する共通理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要であるので、 よって、ここに、国連総会は、 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身人民の間にも、また、加盟国管轄下にある地域人民の間にも、これらの権利自由との尊重指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通基準として、この人権宣言公布する。

2022-07-31

どこで自家発電してもバレない最強の方法

飲む。これだ。

この方法に気づいたとき、私は思わず感動した。

こんなにも合理的で、どこでも、誰にもバレない方法が未だかつてあっただろうか……と。

なぜこの方法に至ったのかを、振り返っていこう。

まり寮生活である

寮生活で、寝るところが共同だと、果たす場所としてはほとんどの人がトイレを選ぶ。が、このトイレも意外とバレやすい。

「隣からめっちゃくちゅくちゅ聞こえてきた」とか

「明らかにタマジャクシが着水する音がしたんだが」とかたびたび噂になる。

ここで、トイレとは個室の洋式トイレであるという認識統一をはかっておく。

変態でない限り、くちゅくちゅ音は防げるとして、こくまろみるくの処理をどうするかは、ひとつ問題となってくる。

方法はおよそ3つ思いつく。

1、立ちション姿勢で着水させる。

2、トイレットペーパーを束にして、その上にクリームトッピングする。

3、てのひらに手水をいただき、それをトイレットペーパーで拭き取る。

しかし、どの選択肢にも課題があることに、私は気づいたのだ。(ちなみに序文解決策が思いつくまでは、1の方法を改良し、腰を落としてほとんど着水音が出ないようにしていた)

それぞれの課題についてまとめる。

まず1、立ちション姿勢で着水させる。について

こちらの方法の良い部分としては、事故が少ないことであるトイレ本来動線に沿っているため、子羊たちが道に迷いあわや散開するという事故にはなりにくい。

(真性包〇でないという前提のもとではあるが)

しか問題なのはやはり、着水音である

私の寮には「音姫」は着いていなかったため、トイレとはすなわち無音の空間であり、わずかな音でさえ波を打つようにトイレ全体に響き渡る。

ここまで読んだ方は、いや、別に音で分かったところで個室なんだから誰かわからないだろう。と思っているかもしれない。

しかし、このトイレの無音という特性ゆえにそれも間違いであると言わざるを得ない。

トイレが無音であるため、ちょっとした咳払いや、下手すると呼吸音でさえ、聞こえてくる。

咳払いなどはわ一緒に暮らしている仲であれば、意外と個人特定するのに十分であったりする。

また、個室でフィーバーした後に、友達トイレに入ってきて、個室から出たタイミングでばったり会うこともよくある。その際は、ふつうは「よう」などといって挨拶するだろう。

この声が聞こえることで、「絶対に隣のヤツやってるやろ……」と思っていた大便勢にとっては二択にまで絞れてしまうわけだ。そして、次、その2人のうちのどちらかが個室に入っていくのをみると、「こいつまたおっ始めるつもりだろ」と思われてしまう。

この時点で非常に残念なバイアスがかかってしまっていることになる上、本当におっ始めて、その音が聞こえるようなら、大便ニキにとってそれはもう確信となってしまうのである

以上のことから、バレない、いや疑われないことに越したことはないのである

これを踏まえて、立ちション姿勢フィニッシュする方法について考えてみよう。怪しいのは本当に着水音だけだろうか?実は着水音に加えて、この立ちション姿勢で果たすという方法にはもうひとつ致命的な音が伴う。

それは、座っている状態から、立って向きをかけるという動きに係わる、足音や服の擦れる音などである

まず、トイレットペーパーを捲る音なく立ち上がるというのはこの上なく怪しい(用を足していない人間)上、体の向きを変えるという動きに伴う音は、実際にやってみると分かるがかなり大きい。

ならば初めから立姿の状態で立姿になればよいと思うかもしれない。しかし便座に座った音は体重を預けているため、毎回聞こえてくるものである。それが聞こえてこない時点で、「あれ?今隣に人が入ったよな?人が便座に座ってる気配がないのだが」と、別に疑う姿勢を持っていなくとも、ちょっと不思議に感じるものである

実際に私が初めて「あ、やったんだな」と分かったパターンがこの事例である

私は自家発電してる奴を積極的特定しようなどと、そんなイヤなこと思うやつではなかった。しかし、個室に入ってきたはずなのに便座に座った気配がないというので、「?」と純粋に疑問に思っただけなのである

そうして隣の個室に少し意識が向いていたところ、あの「ぽちょん」というオタマジャクシが着水する音が1度だけ聞こえてきたのである

その後、水が流される音がして、咳払いをして出ていった。

「〇〇先輩……めっちゃ早漏やないですか……」

2、トイレットペーパーを束にして、その上にクリームトッピングする。

これも、実際にやってみるとわかる。

スティックトイレットペーパーにふさふさ当たる音を立てずにクリームを乗せるのは至難の業であると。

一度や二度、この方法可能性を見出したことは私にもあった。しかしその期待はすぐに裏切られることとなったのだ。

クリームの発射限界角度というのは、思いのほか広い。

1の方法でも書いたように、立つ音は立てたくないので、座った状態フィニッシュすることを想定しているが、そのとき、勢いがいい場合は真上に、スティックうねりによってはドアやズボン方向に、勢いがない場合ほとんどスティックを伝って、零れるようにクリームが発射される可能性がある。その範囲トイレットペーパーによって囲うのは物理的に難しい。

そうなると、トイレットペーパーに確実にトッピングする方法ひとつしかない。

スティックの先端にトイレットペーパーをあてがうことである

そしてこの方法実践した私は、後悔した。

まず発射直前、スティックトイレットペーパーが擦れてベタベタっと音を立てる。この時点で、ダメだ。

そして発射。トイレットペーパーで拭き取る……

拭き取……

あ……トイレットペーパーが……

トイレットペーパーが、スティックに固定されてしまうのである。そう、トッピングクリームはまさに文字通りスティックのりへと変貌してしまうのである

3、てのひらに手水をいただき、それをトイレットペーパーで拭き取る。

この方法の時点で、すでに嫌気がさす男性諸君も多いかもしれない。

一般的認識でいえば、手水も「排泄物」に変わりなく、できれば手でなど触りたくないものであると思うからだ。

しかしこの方法は、今まで紹介した中では、最も秘匿性の高く、合理的技術である

1、2、で挙がった音の問題ほとんど無いに等しい。

てのひらに乗っける分には、音はほとんど立たず、さら最後トイレットペーパーで拭き取る音が響くわけであるが、これは順番としてはふつうの大便と変わらない。そのため、あたかも通常と同じような音しか響かないのである

ただし、少し問題となるのが、トイレットペーパーをどのように用意するかである

上記の手順であれば、トイレットペーパーを巻きとるのはフィニッシュの後である

しかし、左手に今にもこぼれそうな手水をいただいている状態で、はたして片手でトイレットペーパーを巻きとることができるのだろうか?

少なくとも私にはかなり難易度が高かった。

そしててのひらから手水が零れなどしたときには、ズボンなどに付着し大事故となる可能性もある。

では、予めトイレットペーパーを巻き取っておいて、トイレットペーパーの蓋の上に乗せておくのはどうだろうか?

これはもうほとんど、正解に等しい。

トイレに入ってまず、便座をトイレットペーパーで拭くという人も多いだろうからトイレットペーパーを最初に巻きとることもそれほど変ではない。

参拝を果たしたあとは、乗せてあるトイレットペーパーの束を片手で持ち上げ、手水を拭き取り、それを便器にお賽銭すると。

トイレにおけるバレない自家発電は、これでクリアだ。

そう。

トイレにおいては。

この文のタイトルを思い出して欲しい。

「どこで自家発電してもバレない最強の方法

トイレットペーパーがなくたって……できる方法

そんなもの、あるのだろうか?

われわれはこれまであらゆる可能性を検討してきた。

結論は得られた。

しかし、トイレットペーパーを毎回蓋から落ちないように畳むことは、正直めんどくさい……

正直、トイレだけじゃなく、ベッドという本来戦場射撃したい……

妥協するしか……ない……のか?

そうだ。

分かった……

分かったぞ……!唯一無二の解……それは……!

(先頭へ戻る)

2022-06-20

薩長因縁昭和平成史(1)

序文

本稿は戦前天皇インナーサークルとしての宮中グループに焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。宮中グループ宮中側近グループなどとも呼ばれ、これまで定義としてあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループ宮中側近にいた政・官・軍を含めたエリート集団位置付け、これまで一括りに論じられることが多かったこグループ牧野伸顕中心の「薩摩宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州宮中グループ」に切り離し、対比している点を特徴としている。薩摩宮中グループ皇室との関係においては貞明皇后秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后インナーサークルとも言える。また、彼らは英米エスタブリッシュメント戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。このため皇室英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたことも特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエル薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴している。これに対して長州宮中グループ昭和天皇インナーサークルとして昭和戦争を主導した勢力である岸信介松岡洋右仲介者に陸軍統制派と手を握りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身近代日本陸軍創設者大村益次郎銅像が見事に物語っている。かつては「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあった。地政学的に見れば前者は海洋勢力後者大陸勢力となるだろう、また、明治期に医学を教えたドイツ人医師・エルヴィン・ベルツは、日本人薩摩型と長州型に分類し、それらが異なる二系統先住民に由来するとしながら、薩摩型はマレーなどの東南アジアから長州型は「満州」や朝鮮半島などの東アジア北部から移住した先住民の血を色濃く残していると考えていたことも興味深い(『DNAから見た日本人斉藤成也・筑摩書房)。前者は縄文人後者弥生人の特徴を残しているのだろうか。大陸から渡来人によって縄文人日本列島南北周縁に分散したと考えることもできるだろう。本稿では明治維新の内乱過程賊軍汚名を着せられた武士階級出身者やその子孫が数多く登場する。薩長藩閥によって立身出世が阻まれながらも、佐幕派賊軍汚名を晴らすべく、ある者は語学力を身につける過程クリスチャンとなって薩摩宮中グループに接近し、ある者は軍部を率いて長州宮中グループと手を握り、またある者は共産主義に傾斜していった。特に陸軍悲劇は、勝てば官軍東京裁判で再び汚名を着せられたことだろう。しかし、勝てば官軍は世の常であり、その最たる例が靖国神社の原点にあることを再びここで取り上げる。日本の敗北は長州宮中グループの敗北も意味した。薩摩宮中グループ戦時下において悲しいほどに非力であったが、戦後英米から選ばれし穏健派エリート集団として勝ち残ることになる。薩長明暗を分けたのは情報力の差である。これは未来永劫語り継ぐべき重要な教訓である戦後薩摩宮中グループの流れを受け継いだ吉田茂は、元祖「反ソ・反共」として、「経済優先、日米安保重視、軽武装改憲先延ばし」の吉田ドクトリンを掲げて保守本流を築いていった。この吉田カトリックとして本流らしい最期を迎えた。この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こしながら、見事に復活したのが長州宮中グループを受け継いだ岸信介である。岸も賊軍汚名を晴らすかのように国際政治舞台に復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。平成時代になって「政治優先、対米自立、再軍備自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンたすき掛けリレー小泉純一郎によって再スタートする。そして今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志につながる家系である

岸の血を引き継ぐ長州8人目の安倍晋三首相からこの物語を始めたい。

2022-06-03

なんかnoteがつまらなくなってきて悲しい

序文

2019年にnoteをはじめて、最初めっちゃしかった。

2020年末の例の炎上騒動あたりから過疎がはじまって、最近とくに面白くなくなってきた。

2022年のnote創作大賞が終わったあたりからさらに過疎がひどい。

「ああつまらない、面白くない」と愚痴っても生産性がないので、私はここに考察したい。

そして可能なら希望見出したい。

【1】「書き手読み手が消えた」

note公式では「ユーザー数がうん百万人を突破!」みたいなことを宣伝してますが、ユーザー数がいくら増えたところで、

実際にログインする人、記事を書く人、ページを読んでくれてる人、が大事。(それぞれ専門単語があるんでしょうけど専門家に任せます

それを考えたら、1日1人あたりのページ巡回数が明らかに減ってる。(公式では発表してないと思いますが)

代表的な方の記事を見ても、以前(2020年とか)と比較して、「スキ」の数が減少している。

まり活動ユーザー数が減っている。つまり、過疎が進行している証左

【2】「過疎が進行しているのに企業アカウントは増えている」

むかし(とくに断りがない場合は2019年~2020年)はユーザー同士がキャッキャウフフしてて楽しかった。

ほんとうに「街」のようでした。

それが現在企業アカウントが目立つようになって、おそらくnote社も企業アカウントに注力していて、

結果として一般ユーザーを見ていない=一般ユーザーはなんだか面白くない=なんだかわからないけど記事を書かない=ログインしない=過疎になっている、も一因。

看板だらけの街。広告だらけの街。

以前より整備されてきれいなはずなのに、人がいない企業看板だらけのゴーストタウン。(になりかけている)

【3】「noteコンテストって結局はステマじゃない?」

コンテストを定期的にやっている。

企業が協賛して「仕事で感動したこと」とかの記事一般ユーザーが書いて投稿して、優秀者にはプレゼントとか当たるやつ。

ふと思ったんだけど。

これって結局はステマじゃない?

noteユーザーのうん百万人がその企業名を目にして、読んで、何千人かは記事を書く。

どこにも広告なんて書いてないけど、広告だよね??

そして、この広告コンテストnote社の収入源になってるはず。いくらコンテストを開催できるのかは知りませんが。

ユーザーもうすうす感づいてるのか知りませんが、古株の常連さんはもうコンテスト投稿すらしてない。

コンテストステマを思いついたのはnoteの大きな発明だったと思います

【4】「note創作大賞で現実知って意気消沈

そして過去最大のコンテストが2022年2月に開催されました。

結果は4月に発表。詳細はnoteを見てください。

結果的に予想通りかもしれませんが、プロセミプロ当選

noteユーザーの大半を占める素人勢はかすりも(かすった方もいらっしゃいますが)しなかった。

当然私もかすりもしなかった。

そこで現実を知りますコンテストキャッキャウフフやってたけど、いざ、プロも交えて真剣勝負したら、素人なんてかすりもしない。

「このままでいいの?」

・いい人→最初からそんなたいそれた気持ちで書いてない→そんな人は残って書き続ける→でもそんな人の書く記事面白くない→面白くない記事だらけ

・よくない人→プロとの力量の差で呆然とする→noteキャッキャウフフやってる場合じゃない→真剣プロを目指す(公募チャレンジ!)→noteから消える

これですよ、現状は。面白くない理由は。note創作大賞はパンドラの箱を開けた。

第一次世界大戦が2020年の炎上騒動なら、第二次世界大戦note創作大賞。

【5】「企業広告モブキャラだけの街」

ねえ、そんな街、面白い?

スキなプロがいて、その人の記事を読みたい人は残るかもしれない。でも、私はとくに課金していないし、読みたい記事が減っている。ほぼない。

【6】「では問おう。面白記事とはなんぞや?」

インターネット面白さって「カオス」だと考える。

種種雑多な記事がどんどん更新されて「なんだかわからないけどこの人達キチ○イだな笑」が量産されたら楽しい面白い。大好き。

まり今のツイッターが一例。

noteもむかしはツイッターみたいな感じだった気がする。

時代とともに(横軸:時間カオスが減って(縦軸:カオス)あとに残るは企業アカウントの硬いステマ記事と、プロ課金目隠し記事と、モブキャラのどーでもいい日記

【7】「じゃあどうしたらいいのか?」

そろそろ書くのも疲れてきたので、改善点を列挙します。

(1)以前のように記事の1行目だけ表示させる(タイムライン題名しか載っていない=題名で読ませる変な記事が多い=1行だけでもお試しで読ませれば内容・力量がすぐにわかるのに)

(2)スキをなくす(または非表示にできる)(スキを気にしてカオス記事が書けないでしょ?)

(3)くだらないコンテストをやる(企業協賛してなくていいから、note社員が自腹でもいいんじゃない高校文化祭みたいで楽しいでしょ)

(4)ダークサイドnoteをつくる(note1がいまのnoteなら、note2をつくって、もっとカオスやばい人を集める)

個人的に1>2>3>4かな。

【8】「note社員への宿題

今週末にやること。

(1)mixiがなぜ過疎ったのか考察する(二の舞いになるよー)

(2)noteアクティブ数(滞在時間)がどの時期から減ったのか考察する(データはあるので真剣考察して打ち手を考えよう。今のようにユーザー数だけ追ってたら焼き畑です。日本人口は限られてます

(3)社員ユーザーに向けてもっと発信する(そろそろなんか言ってもいいんじゃない?「知らないあいだに大きくなって」みたいな他人事だと、心あるユーザー離れますよ)

【跋文】

ここまで読んでお分かりのとおり、私はnoteがスキだ。毎日ログインしている。でもつまらない。

このままだとある日突然、ぷつっと、ログインしなくなるでしょう。

そろそろ臨界点だと思ったので、警鐘を鳴らしたくて、この場を選んだ。

こんな記事noteに書いても読まれないし。運営黙殺されるし。

cakesが閉鎖する。炎上騒動からカオス記事がなくなったせいだと私は考える。

noteも、このままだと閉鎖する可能性がある。近い将来。

そうならないように、願いと祈りをこめて、この記事を残します。(所要時間76分)

2022-05-17

anond:20220517113920

望月ブログに例として挙げられている19世紀数学高木近世数学史談」の後半の楕円関数論や、岩澤「代数函数論」の序文の内容)を分かりやす解説できないような人が、現代代数幾何・数論幾何解説をするなんて不可能だよ

2022-03-08

anond:20220308001616

これを考えると、攻殻機動隊の「西暦2029年——企業ネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても国家民族が消えてなくなるほど、情報化されていない近未来。」という序文は秀逸だなぁ。

2022-01-05

ネットの長文を本にした

本を作った。世界で一冊しかない本だ。

私が超個人的理由で欲しいと思い、完全に自分で楽しむために作ったので、誰にも売られることはないし誰の手に渡すつもりもない。

なぜならこの本の中身は全部他人が書いたものからだ。

インターネットでバズり、有名になったnoteはてな匿名ダイアリー(俗に言う「増田」)・はてなブログ記事コピーアンドペーストし、書式設定を整えて文庫本サイズ編集した。

以前からCiNiiなどで興味を惹かれる論文を見つけてはA4紙に印刷してホッチキスで留めて紙として保持して読んでいた。

理由は3つある。

一つ目は「知識欲・好奇心から」。

二つ目は「創作活動の参考として」。

三つ目は「とにかく文章を読みたい」。

率直に言うと、今回の本に関して、前者2つの理由は全く関係ない。ただ長い文章を読みたかたから紙として本を作った。別に記事ブックマークするに留めてもよかったのだけど、やっぱり記事は削除とかもされるだろうし、そういう事態が起きたときに、どうせ別の長文を読んで満足するだろうと思いつつも、やっはりあの時読んだ文章を読み返したいと思いはするので、これは紙に印字して物理的に所持しておいた方がいいだろうなというのがあった。

書式・タイトル・偉そうに序文まで書いたが、それ以外は全部他人のものだ。だから褒められたことではない。

から個人的ものだと書いたのだ。万が一この本を欲しいと思ったところで、そんなところに金を出すくらいなら自分編集して一冊印刷してもらう方がはるかに安い。製本直送で印刷を依頼した。書式はイズナを使用し、メモ帳にまとめた全ての文章を一括でpdfに変換し、そのファイルを送った。pdf並びにtxtファイルの保存はいずれも有るが、誰にも渡すつもりはない。これは本来そういうものではない。

正直、このことは自分ブログで書きたかったがやめた。ここが自分の弱みだ。肝心なところで日和るんだ。

増田であっても特定はされるだろうが、ある程度時間はかかるだろうし別にいいや。

他人感情を、わざわざ紙に印字するだけに飽き足らず、わざわざ本にまでして、わざわざそのことをインターネットに報告してしまうような変態野郎なんぞ、自分一人で十分だろ。

2021-11-15

もうだめだ…

序文で力尽きてもう何もできない

今日昼には一回出さんといけんのに

考察はまだ一行も書いてない…

泣きそう

バイトあるし昼までとか無理

2021-11-14

「屍山血河」の由来についての推測

https://anond.hatelabo.jp/20211113201646

横田だけど、ちょっとググったらそれっぽいストーリーが立てられたので共有しておく。



三行でストーリーをまとめると

・「屍山血河」という言葉を考案したのは大日本帝国陸軍文官で、陸軍教授地位にいた樋口石城なる人物である

・「屍山血河」は、旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を邦訳する際、邦題として発案された。

・この邦訳を読んだ人々が邦題熟語として認識。そのうち、司馬遼太郎小説内で多用したこと日本中に広がった。



「屍山血河」の由来はなにか。まず、中国語で言うところの「成語」にそれらしい言葉はない。

かといって「屍山」とか日常言語で使う単語という感じではないし、自然発生した四字熟語でもないだろう。

普通に考えたら、中国語以外の言語にある熟語を、明治以降文化人とかが邦訳するときに成語っぽく整えた、とかが一番ありそうなパターンだ。

しかし、「屍山血河」という単語辞書に載っているが、用例として記されているのは司馬遼太郎小説ばかりだ。後は三島由紀夫だが、司馬遼太郎の用例が古い。

辞書を作ったときにそれより古い用例が見つからなかった可能性が高い。

普通辞書の用例はその用法で一番古いもの採用する。だれか他の文学者創作したならそっちが採用されないのは奇妙である

もちろん、司馬遼太郎独自に考案したと考えるのは早計だろう。

司馬遼太郎勝手創作したとされていた史観や、事実関係が怪しい記述も、近年ちゃんと調べてみると「元ネタ」があるものばかりだったらしい。

もちろん、だからといって、それらが歴史的事実だというわけではなく、「元ネタ」を書いた人が勝手創作したり、誤認識していたということらしいのだが。

ともかく、司馬遼太郎は無から発想したり、自分説明なしに訳語創作するような人間ではないと思う。

用例として採用しづらい対象で、司馬遼太郎が興味を持つ題材の日本語資料で「屍山血河」を使ったものがあるはず。



この条件に合致しそうなのが "屍山血河" コステンコ 著,樋口石城 譯 [1]である

ちょっと調べてみると、これは旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"[2]の邦訳だ。

М. И. Костенкоは旅順攻防戦に少将として参加した後、戦後軍事法廷議長とかをやった、とwikipediaに書いてあった。

旅順戦の日誌は貴重な資料であり、ロシアで広く読まれた。これが邦訳され、1912年出版された。

しかしそれにしては邦題おかしい。おかげでググっても原著がすぐ出てこなくてちょっとイライラした。

"Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を機械翻訳すると、"旅順要塞の包囲と降伏:私の印象"となる。

実際、この本は1973年に田崎与喜衛に再訳されており、そのとき邦題は"旅順攻防回想録 "となっている[3]。

泥沼の旅順戦で主に大量の兵士、とくに日本兵が死んだ様子を描写して「屍山血河」と言っているのだろうが、戦闘記録の題名にするには文学的にすぎるだろう。

М. И. Костенкоが序文とかサブタイトル的な位置にこの単語を使っているのではなく、樋口石城が勝手につけた邦題である可能性が高い。

ロシア語でも Горы трупов (死の山)とか реки крови(血の川)という表現戦争表現する際、よく使うようだ。

熟語とまでは行かないが、並列して使われる例もググればそれなりに出てくる。

原著に直接この組み合わせが出てくるかはちゃんと調べていないので不明だが、本文検索してみたら、Горы труповは単体で積み重なった日本人死体表現として使われていた。

もしこの記録が文学作品だったらこの題をつけるのは適当かもしれない。



これ以降は完全に当て推量である

陸軍教授樋口石城がどういう人物なのかはググっても出てこないが、樋口季一郎の親戚とかだろう。しらんけど。

まあ、軍教授なのだ名家出身学者で、ロシア語を含む文系教養があって、仕事ロシア関連の軍事資料邦訳を大量にやらされていたのだろう。

から文学作品とかを書く暇もないので、やらされた邦訳仕事で、多少のオリジナリティを発揮してみたくなったのではないだろうか。

そこで少し文学風に気取って成語っぽい「屍山血河」という語を創り、戦闘記録の邦題としてつけたのだ。

それを司馬遼太郎資料として閲覧。そういう成語が既にあると認識戦争小説で多用。

小説を読んだ人間もそういう語があると理解し、大量の死者が出る戦争を語る際に一般的単語へと一気に昇格してしまった。

そしていざ辞書に載せようとすると、用例として明記できる古い例が司馬遼太郎以前にないことに気づく。

樋口石城の訳書も発見はされたのだろうが、題なので用例としては不適であり、スルーされた。

結局、遡れるのは司馬遼太郎小説しかなかったのではないだろうか。




無論、上記は全てネット上で手に入る資料の断片からの推測であり、だいぶお粗末なものだが、もし当たっていればなかなか面白いストーリーではないだろうか。

以上、「屍山血河」の由来について横田が調べてみました。

いかがでしたか

信じるか信じないかはあなた次第

[1]https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024298307-00

[2]https://www.prlib.ru/item/355295

[3]https://www.amazon.co.jp/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E9%98%B2%E5%9B%9E%E6%83%B3%E9%8C%B2-1973%E5%B9%B4-%E6%A8%8B%E5%8F%A3-%E7%9F%B3%E5%9F%8E/dp/B000J9FK7A

2021-09-09

ブルマー地帯ハンガリー代替としての野外レオタード

序文

ポーランドではブルマーを何と呼んでいたか調査が難航したため、僕は気分転換のためハンガリーについて調べた。そこで、思いがけない事実を見つけた。どうやらハンガリーではブルマーでは少数派で、レオタードが中心であったらしい。しかも、学校によっては今でも使われている形跡があるのだ。以下、ハンガリーレオタード事情について概説する。

ハンガリーの体育とレオタード歴史

Így tornázott a nagyi meg a dédi: az iskolai testnevelés története képekben - Dívány

ハンガリーでは、体育の授業は内務相や文化相を務めたKuno von Klebelsbergの時代に導入された。ウィキペディアによれば、彼は地方小学校を作り、大学近代化し、ハンガリー文化海外に紹介する機関を創設した。その一方で、彼はハンガリー至上主義者であり、かつてのハプスブルク帝国内の少数民族に対してその優位性を主張していた。また、トリアノン条約によるやブルジョア共産主義革命などの原因として、ユダヤ人非難していた。

さて、当時の体操着を見てみよう。男子制服は、写真を見ると白いシャツに短パンそれからおそらく革の靴であった。女子は、次のページを見る限り1930年代では、膝の上まであるワンピースタイプ運動着であった。初期のレオタードである

それ以降の写真を見ていると、女子は短パンになっていくように見える。

だが、次のサイトを見ると、30年間から40年前はレオタード使用されていた、と書かれている。2018年記事から1979年から1989年に該当する。

Ilyen volt a tornaóra régen! | nlc

男子ポーランドのようにノースリーブに短パンなのに対し、女子靴下ナイロン製のレオタードだった。また、お尻にゴムの跡がついて苦痛だった、男子がうらやましかった、とも書いてある。

この下の記事によれば色は青か黒、赤はめったになかった。また、素材のせいか汗をかくとべたついて嫌だったそうだ。

Ebben tornáztunk 30 éve! | nlc

学校のものかどうかはわからないが、60年代レオタードこちらで見つけることができた。

Terror Háza Fotó

以下は70年代レオタード

Május elseje régen – IV. | elekfoto

Tornaóra – 1976. – Szegvár Online

学校の外でのレオタード

ところで、次のページを見ていただきたい。

szeged.hu - Lányok, asszonyok a Tisza-parton és konflisban

こちらでは、レオタード姿の女子が外でジョギングしている写真がある。1981年のことであるレオタードが室内着だと思っていた自分は面食らった。よく、ブルマーで校外を走らされるマラソン大会苦痛だった、という女性の声をしばしば聞く。ましてや、より体型の出るレオタードというのは、率直なところ驚いてしまった。

現に、当時の苦痛を訴えるブログがヒットした。

Jobb nő - lesz - Faluság(短パン写真もあるが、おそらく例外的ものだろう)

身体を伸ばすバレエならともかく、高校の体育で伸縮性のあるレオタード不要ではないかしかも、それで市街地を走らなければならないとは。ブログの主はそう口にしつつ、じろじろ見られることを苦痛理由として挙げている。まったく、その通りだ。どうしてこんなことがまかり通っていたのかという疑問が浮かぶが、ブルマーが30年も通用していた国の人間が言えた義理ではない。繰り返すが、露出度の多い衣装強制には反対する。

しかし、だ。現在グーグルで「iskola testnevelés」(学校 体育)と検索すると、レオタード姿の女子が少しだけヒットするのである2010年代前半の記事が多い)。これが私立なのか公立なのかはわからない。おそらく例外だとは思う。上記レオタードとは色も違う。ほとんどが日本と同じようなシャツに短パンだ。だが、ハンガリージェンダー意識は、日本よりも保守的である可能性がある。

まとめ

今後の展望

気が向いたら、他の国の事情について調べる。

また、映画の中でブルマレオタードがどう表現されてきたか、についても調べたい。しかし、先日「フランス映画 ブルマー」と検索したら、なぜかフランス書院のページしか引っかからず、ずっこけた。

また、それとは別に20世紀の体育の授業を見ると、まるで軍事教練のように男子上半身裸の例が多い。このあたりの規範についても時間があればまとめたい。

それと、ウィキディア制服のページを見ると、日本統治下の台湾で、提灯ブルマーモンペ採用されているのが見えた。もしこれが提灯ブルマーならば、なぜ台湾韓国ではショーツブルマーにならなかったのか。最初からパンだったのならともかく、疑問である

School uniform - Wikipedia

服飾史、まったく沼が深くて驚いている。

2021-08-29

anond:20210829043722

で?って感じ。

作品を未読の、鴻巣評が「誤読だ」と言われていることを知らない(「うちの地元高齢者」のような)朝日新聞読者にとって「読み」が閉ざされうることには変わりない。私小説である都合上、鴻巣の「読み」を人々が真に受けると本人および周囲へのダメージが大きいため、桜庭は「必死になって訂正をお願い」している。一方で「読み方の可能性を新たに開く可能性もある」のは当然の話で、それを指摘したところで上記問題相殺されるわけではない。

・「これは解釈である」とわかる様式や内容でもって「解釈が断定的に書かれる」ことはそりゃあるでしょう。例えば「これはケアをめぐる物語だ」とか。ふつう作品自体にそのままズバリ書いてあるわけないんだから。あるいは序文とかではっきり書いてあるなら、書いてあるのだと示した方が評者にとって得。「作品に書いてあること」についてなのか「著者の解釈」なのか、区別できるように書かれていれば断定で問題ないけど、今回はそうじゃないから大変ですねって話。事前情報なしに当該箇所を読んで「おお、ここは作品に書いてあることではなく、鴻巣解釈が断定で書かれておるなあ」と確信できるとしたら超人でしょう。超能力者しか文芸批評研究」を読んではならないのか。

2021-07-25

anond:20210720233746

ショートショート大事なのは終わりやで

他の何事もそう 終わりをどうつくるかやで

始めるんはなんでもできる 簡単なもんや

じゃあ名作ショートショートひとつつくってみろって話になるやろ

そんなもん記憶を無くして海底で暮らす男とか シャーペンの芯から世界秘密をひもとく少女とか

なんぼでも「始め」れはすんねん その終わりを作れるかって話やねん

「終わり」なんやったらタイトルコールからすぐにENDってしたら終わりやろって言うやろ

それ始まってもないからな 終わりでもなんでもないやろ 終わったフリや

それこそ「そんなもんはない」の 昨今よく見受けられる「ただ否定するだけでマウントとった気になる万能感」やろ

全然わかってない」「まったく違う」「話にならん」って否定文字だけならべて始まるまえからおわっとる

その終わってない いわゆる始まる前からおわってる 始まらなかった話ってのは一般に「概念」とかゆうそれや

ピザの話もこないだホッテントリあがってたやろ ピザ概念の話 そんな話は口からだすもんじゃない

考えて終わりがないから 口から出すような話じゃない 赤い看板をみたとか交差点があるとか風がふいたとか常に言葉にしてるか

せんやろ

そういう話や

その終わりをつくってない 始まりもせんかった序文がおわるように がんばりや

2021-07-22

マルクス資本論』は何を間違えた?~商品価値を決めるのは労働

 この2018年は、共産主義の父といわれる哲学者経済学者カール・マルクスの生誕200年にあたります。出生地であるドイツトリーアで記念式典が開かれ、青年時代を描いた映画が各国で公開されるなど、話題を集めています

 先月創刊した、古典・名著をマンガ化する新シリーズ講談社まんが学術文庫」の初回刊行分にも、マルクスの主著『資本論』が入りました。近代資本主義興隆する19世紀英国舞台物語が展開し、『資本論』のエッセンス解説します。若い登場人物たちのドラマは楽しめます

 けれども、原作である資本論』が不朽の古典として扱われることには抵抗を感じます。今からみれば、経済について完全に誤った考えに基づいているからです。

 たとえば「等価交換」という考えです。マンガ版ではパン屋八百屋が売れ残ったパン野菜を交換し、その交換が成り立つのは互いの商品が同等の価値を持つからだと解説されます

 何となく納得してしまうかもしれません。しかし人が物を交換するのは、相手の物が自分の物と同じ価値を持つからではありません。もしそうなら、多くの買い物客がスーパーコンビニを出たとたん店に引き返し、不良品でもないのに、買ったばかりの商品を返し、お金を取り戻そうとするはずです。同等の価値を持つことが交換の理由なら、商品お金の交換を何度繰り返しても、人は満足するはずだからです。

 しか現実にはそんなことをする人はいません。買い物客は、払ったお金よりも買った商品価値が大きいと思うからです。一方、店の主が商品を手放すのは、逆に商品よりもお金価値が大きいと思うからです。

 つまり交換が成り立つのは、同じ物(お金も物の一種です)でも人によって価値の大小が違って見えるからなのです。

 ここからわかるのは、物の価値とは、それを作るためにかかった労働量などの客観的基準で決まるのではなく、人それぞれの主観によって決まるということです。この事実1870年代、オーストリア経済学者メンガーらによって明らかにされました。経済学の歴史上、革命的な発見といわれます

 しかし、それ以前の世代に属するマルクスは旧来の考えにとらわれたままでした。1867年に全3巻のうち第1巻が出版された『資本論』は誤った古い考えによって書かれたため、つじつまの合わないおかしな主張が多いのです。「等価交換」はその一つです。

もっとおかしな主張は「剰余価値」です。マルクスは『資本論』第1巻でこう述べます商品価値はすべて労働によって生み出され、その価値どおりに市場で売買される。ところが資本家商品を売って得た代金のうち、労働者には一部を賃金として支払うだけで、原材料費などを除いた残りは利潤として自分の懐に入れてしまう。いいかえれば、労働者が生んだ価値の一部には対価を払うが、残りの価値剰余価値)には払わない。これは実質的な不払い労働であり、不当な搾取である、と。

 これは商品価値労働によって決まるという、誤った考えから出発しています。実際には、商品市場価値を決めるのは労働者の働いた量ではありません。消費者の心に基づく選択です。私たちは買い物をするとき商品製造にかかった労働量を調べたりしません。

 もしマルクスのいうように商品価値労働量で決まるなら、大規模な設備を使い人手を省く資本集約産業よりも、サービス業など人手を要する労働集約型産業のほうが利益率は高くなるはずです。しかし実際にはそのようなことはなく、長期ではあらゆる産業利益率は均一化に向かいます。ある産業利益率が他より高ければ、その産業に参入する企業が増え、価格競争が広がって利益率が低下するからです。

 マルクス自身、『資本論』第1巻でこの矛盾を認め、あとの巻で解決を示すと約束しました。ところが第1巻を出版した後、なかなか続きを出さないまま、16年後の1883年に死んでしまます

 あとを引き継いだのは盟友フリードリヒ・エンゲルスです。エンゲルスマルクスの遺した草稿をもとに、第2巻を1885年出版します。しか矛盾解決は示されませんでした。読者が不審に感じることを警戒してか、エンゲルス序文で、解決は次の第3巻で示されると予告し、経済学者たちにこんな「挑戦状」を叩きつけます。この矛盾をどう解決するかわかる者がいたら、第3巻が出版されるまでに見せてもらいたい、と。

 そこから9年後の1894年、残りの草稿やメモを取りまとめ、ついに第3巻が出版されますエンゲルスはまた序文を書き、前巻での「挑戦状」に応えて多数の論者が矛盾について論考を発表したが、どれも的外れだった――と勝ち誇ります。それでは第1巻の刊行から27年もたってようやく出版された最終巻で、マルクス矛盾をどのように解決したのでしょうか。実は、解決できなかったのです。

 第3巻でマルクスは、商品価値は投じられた労働で決まるという理論と、異なる産業利益率は均一化するという現実は「一致しないかのように見える」と改めて述べますが、その矛盾解決は示しません。その代わり、資本主義が発達した国ほど利益率の均等化が迅速に進むという現実を認めるだけです。これは結局、商品価値労働で決まるという第1巻の理論放棄したものです。

 メンガーと同じオーストリア経済学者ベームバベルクは1896年出版した著書『マルクス体系の終結』で「マルクスの第3巻は、その第1巻を否認している」と指摘し、マルクス解決でなくごまかしを示したという他の経済学者の厳しい意見同意します。第1巻で述べた剰余価値理論が間違っているなら、それに基づき展開された、資本家労働者を搾取するという主張は根拠を失いますベームバベルクは『資本論』を「カルタ札で組み立てられた家」、すなわち砂上の楼閣だと切り捨てました。

 マルクスが第2巻以降を生前出版しなかったのは、この破綻が修復不能だと気づいたからともいわれます。そうだとすれば、学者としてかろうじて誠実だったといえるでしょう。

 今の世界ではこうした経緯を無視し、マルクスを見直そうと無責任な声が高まっています欧州連合EU)のユンケル欧州委員長は記念式典に出席し「平等の実現のために力を尽くした」と功績をたたえました。

 しか20世紀社会主義諸国崩壊が示すように、破綻した論理を土台に未来を築くことはできません。マルクス話題となる今、それこそがかみしめるべき教訓のはずです。

https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3064412017052018000000

すばらしいまとめ。エンゲルス隠蔽手法は百家争鳴論を思い出す。矛盾ばかりで骨格ができていない思想だったから、虐殺国家が生まれしまったのだろう。

2021-07-15

フェミニスト原則女性の権利言及していない

「[『フェミニスト原則』は女性の権利言及していない」という意見TwitterやToggeterで見かけた。

全ての人に普遍的権利を主張するばかりでこれでは"feminism"ではなく"humanism"である、と。

フェミニズムは"female"から来ている言葉だろうしそう主張するのも当然だ。

Black Lives MatterがAll Lives Matterに変わっていった時と同じ違和感TwitterTogetter活動するフェミニストの方々も抱いているのだと思う。

ここで私も『共同声明「フェミニスト原則の再確認を呼びかける」』を読んで抱いた考えを書いていく。

日本語翻訳版を上から読んで思ったことを順に書いていくのと体調の不具合言語能力が落ちているので読みにくかったらすみません

~~呼びかけ団体がLGBTQI関連団体ばかりでは?

そりゃそうでしょう。LGBTQIにも女性はいるのだから

まだ社会に広く受け入れられていないセクシャリティを持つ女性自身に向けられた差別や認められていない権利について訴えても何もおかしくはない。

「LGBTQIにはペドフィリアも居る」という意見を見かけたが、どのようなセクシャリティの人であろうと他人を傷つけてまで欲を満たすことを声明肯定していないと思う。

それはホモセクシャルヘテロセクシャルトランスジェンダーシスジェンダーもみんな同じだ。

~~「家父長制の権力と闘い、それを解体しなければならない」とは?

この部分が最も女性の権利について言及しているところだと思う。

宣言の中の「家父長制の権力」や「西洋的な二元的ジェンダー性別構造」はシスジェンダーかつヘテロセクシャル男性中心に作られた社会構造のことを言っているのだと思う。

その社会構造こそ、ずっと昔から今に至るまで女性から権利と身の安全社会参画を奪ってきたものではないか

女性から低賃金仕事を割り当てられたり、結婚出産時に転職退職を迫られたり、男性支配欲求や性欲を受け止めて当然とプレッシャーをかけられたり、ハラスメントや性暴力被害を訴えても自己責任にされたりしてしまうのも、全部全部「家父長制の権力」のせいだ。

~~「ジェンダー性別セクシュアリティ経験には均質性などなく」とは?

序文最後の方に「​私たちフェミニズムは、ジェンダー性別セクシュアリティ経験には均質性などなく、様々な人々がそれぞれのレベル差別や抑圧、特権経験していると認識することからまれる力を確認します。」とある

まり、どんな人もある場面では弱者であり、別の場面では強者にもなるということを言っているのだろう。

例をあげると、母親に比べて父親子ども保護者会やPTAなどの学校行事に参加しにくい、子どもと外で遊んでいると周りに不審者扱いされるというものがあると思う。

男性は他の場所で絶大的な権威を持っているのだから父親育児参加を妨げていると、結果的女性の不利にもなると思う。

母親ばかりが子どものために仕事休み、それを別の低賃金で働く女性が穴埋めするというのはよくある光景のはず。

実際のところジェンダーだけでなく地域人種階級信仰経済状況など色々な要素が複雑にからみ合って「それぞれのレベル差別や抑圧、特権経験」をすることになるのだと思う。

単純化してしまってごめんなさい。

あと「私たちフェミニズムは~」という一文は、同じ属性であっても同じ差別経験するとは限らないということも言っていると思う。

SNS上だと全ての女性痴漢被害経験しているような雰囲気があるが、痴漢被害に遭ったことがない女性だって当然居る。

しかし、同じ経験をしていなくても共通目的を持って「家父長制の権力と闘」うことはできるはずだ。

~~「仕事としてのセックスワーク」を容認して良いのか?

経済的困窮や社会の混乱によって女性セックスワークに就かなければいけないのは私も反対。

ましてやセックスワークをする女性妊娠性病暴力などのリスクさらされるのは論外。

ただ、心身の安全保障された上での職業選択の自由はあるべきだと思う。

それはセックスワークも同じだ。

~~「自分の法的なジェンダー自己決定できる自由」がなぜ必要なのか?

ジェンダー自己決定できる自由」が女性愛者が女湯に入るためや、男性女性アスリートになって無双するために行使されるべきではない。

誰かの自由を認めることで他の誰かの権利安全が脅かされてはならない。

そもそもの話、性自認私利私欲のために簡単に変えられるものではない。

覗きをするためや金メダルを手に入れるためにトランスジェンダーになることなどできない。

自身の持つジェンダーが法やその他の圧力によって歪められるのは誰でも居心地悪いと思う。

~~「特定の人々やグループへの、植民地的で家父長制的な医療化」はフェミニズム無関係なのでは?

宣言の第三項、ここでは主にトランスジェンダーインターセックスの人に対する手術について言及している。

女性の権利向上を目的としたフェミニズムには無関係に見える。

ただ、「特定の人々やグループへの、植民地的で家父長制的な医療化」はシスジェンダー女性にも起こりうる。

女性器切除(FGM)」というものアフリカなどの一部地域で行われている。

女性性器切除(FGM) | 子どもの保護 | ユニセフの主な活動分野 | 日本ユニセフ協会

女性器切除 - Wikipedia

「本当にそんな風習があるのか?」と思った方は上のサイトを見ていただければと思いますWikipediaの方はやや刺激の強い画像がありますが。

日本でも生理不順の治療などで使う低用量ピル承認が遅かったり、今でも一か月分のピルの値段が三千円弱したりと女性が「家父長制的な医療」に支配されている状況にある。

他にも例を挙げればキリが無いが、「誰もを受け入れ、思いやりのあるヘルスケアは、商品特権ではなく人権です。」という文言にはLGBTQIではない女性同意できるはずだ。

~~「フェミニスト権力分析は、バイナリーを超えたもの」にして良いのか?

第八項のこの部分はまるでフェミニスト女性を見捨てたように感じる。

女性女性の権利のために始めたフェミニズム男性セクシャルマイノリティまで相手にし始めるのは裏切り行為にさえ思える。

この項は見方を変えれば「女性という属性だけを見てその人が経験した差別や抑圧を推測することはできない」とも読めると思う。

女性であれば誰しも」「全ての女性は」「女性というものは」といった言葉から始まる意見に反発や孤独感を感じたことがあるかもしれない。

それらの意見女性という存在理解していないのではなく、女性の中にも様々な意見ライフスタイルを持つ人が居るということを理解していないのだ。

からこそフェミニスト一人一派としてそれぞれが受けた差別や抑圧を発信していくのではないだろうか。

その発信が「「男性」対「女性」、若者 対 年配者、世界の南 対 世界の北」の対立になることは避けなければならないが。

~~最後

フェミニズム活動が「家父長制の権力」の解体目標とする限り、シスジェンダー女性以外のLGBTQIも活動恩恵が得られることは必然だ。

目標と得られる恩恵がおなじならば、フェミニストとLGBTQIが協力すればより良い社会は更に近くなるだろう。

それぞれ辛いことはあるかもしれないが、それぞれが思うことを、どこかの誰かをむやみに傷つけない範囲で、ため込まずに発信していきたい。

フェミニスト原則』はその発信をより効果的にするために必要宣言になるはずだ。

最後まで読みにくい長文を読んでいただきありがとうございます

2021-07-14

チェコ民族意識社会主義ブルマー

序文

あれだけブルマーについて調べたのだから、しばらくはブルマーに対する知的関心も収まるだろう。そう思ってはいものの、何となくツイッターブルマー検索したときに、ヨーロッパ女の子ブルマー姿を目撃し、疑問が再発した(画像はこちらフェチの人のアカウントにつき注意)。結局、東欧ブルマーの普及っていつからだったんだ?

以前の調査でも、チェコポーランドにもブルマー存在していることまでは調べたが、言語の壁もあり画像検索にとどまっていた。ならば、まとまった時間が取れたことだし、しっかり調べてみるべきではないだろうか。元々チェコ文化には文学音楽を通してなじみがあることだし。ドヴォルザークいいよね。

調査方法

チェコ体操着事情

社会主義政権下では、制服を着て体育の授業に出るのが義務であった。

体操服としての制服は、第一共和国時代(1918-1938)にはすでに一部の学校やソコル(後述)で必要とされていたが、社会主義時代になって初めて一斉に普及し、広く統一されたものとなった。

男子は白いタンクトップに赤い短パン女子は短い袖に青いスエットパンツだった。この強制され対象階級のない社会主義未来象徴だった。これは1965年チェコの3回目のSpartakiada(東側体育祭、後述)のためにデザインされ、70年代から80年代にかけてが最盛期であった。1985年のSpartakiadaではチェコ国旗三色再現するため、赤いブルマも導入されたようだ(ここは誤訳かもしれない)。

女子の短パンはお尻の周りゴワゴワとまとわりつき、ウエストは高く、太ももにはゴムが入っていた。ブルマーによく似ているが、体育の授業のたびに太ももに跡がつくくらいきつかったという。

ちなみに、この時代運動靴は後に普段使われたり、バレーダンサーがはくようになったりしたそうだ。のちに、ポーランドなどに輸出もされたらしい。

Jednotný cvičební úbor: noční můra děvčat za socialismu - ExtraStory

https://www.abczech.cz/Jednotny-cvicebni-ubor-P7035300.html

ソコル

プラハで創設された民族的体育運動協会。現チェコ国民性形成重要役割を果たしたと言われる。元々はハプスブルク家から独立を目指す意図を持っていた。

ソコル設立の動きは他のスラヴ系民族にも波及し、1908年スラヴ・ソコル連盟設立された。チェコ以外にもスラヴ諸国連盟が加入し、1912年にはプラハで全スラヴ・ソコル祭典が開催される。1926年には180,000の観客を収容可能マスゲームの上演のためのGreat Strahov Stadiumが完成。

大戦間にソコルはより発展するが、ソビエト連邦では活動禁止された。ナチス下では解散させられるが、戦後協会は再建される。しかし、共産党政権下では東欧諸国のソコルは事実上活動禁止され、協会国外活動継続した。1948年プラハで開催されたソコル祭典の集団演技には98,000人の学童と273,000の会員が参加し、2週間にわたって行われた大会の中で共産主義政権への反発が露にされた。

チェコスロバキアではソコルの活動が停止した後、社会主義的な演出を施した「Spartakiada」というマスゲームを中心とした体育大会1955年から5年ごとに行われるようになった(後述)。

なお、もともとは同じユニフォームの着用、マスゲームの参加は過去には民族主義による開放感をもたらしていたが、関心が多様化した社会ではそれらの行為は拘束として受け止められているそうである。現に、上から国民教育しようとしたこ運動はあまり成果が出ず、徐々に管理主義的になっていったという。民族自由を求める戦いも、完全にクリーンというわけでもないらしい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B3%E3%83%AB_(%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8D%94%E4%BC%9A)

Spartakiadaとは

ソビエト連邦スポンサーになったスポーツ大会であるソビエト連邦はもともとオリンピックに対抗し、これを補完しようとしていた。国際Spartakiadaは1928年から1937年に5度開催されたが、のちにこれは東側ブロックの国ごとのイベントになった。名前スパルタクスから来ており、プロレタリア国際主義象徴する。貴族的・資本主義的な(古代オリンピックとの対比になっている。

その後、チェコでは大規模場マスゲームを指す言葉にも転用された。これは先述のGreat Strahov Stadiumで5年に一度開かれた。規模は非常に大きく、1960年は75万人が国中から参加し、200万人がイベントを目にしている。

1955年から5年ごとに開かれたが、1970年プラハの春で中止、1990年ビロード革命で中断され、小規模な形で再開した。

1994年以降ソコル祭典は6年ごとに開かれているが、祭典のマスゲームパレードに参加する会員の多くは過去のソコルに馴染みが深い高齢者で占められているらしい。

Spartakiad - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Spartakiad_(Czechoslovakia):title]

結論

今後の研究


今後も調査継続したい。

2021-06-26

閃光のハサウェイ」でハサウェイが戦う理由が分からない

閃光のハサウェイ」の評判が良いので見に行った。ガンダム映画劇場最後に見たのはF91。いったい何年ぶりだろう。
しかしそれは単に「綺麗な作画」と「しゃれた会話」と「派手なアクション」だけしか印象に残らないものだった。

気持ち悪いのは、なぜハサウェイやその仲間達は戦うのか、その理由がさっぱり分からないのだ。

汚染された地球を救う?はぁ?この美しい南国リゾートのどこを見れば「人類地球から去らねばならないの」となるの???

と思って33年ぶりに原作を読み直す。
ああ・・・懐かしい感覚をふと思い出す。
そう、この30年あまりの間に日本人の心的傾向は大きく変化した。
もう現代では「閃光のハサウェイ」は理解共感できないのではないか
まりにも遅い映画化だった。

振り返って1979年ファーストガンダムが出た頃は、日本はまさに高度成長の負債で苦しめられている時期だった。


40年足らずで1.5倍に増えた人口により、食料と住宅供給が追いつかず不動産は異常なまでに高騰し、自給率は落ち込んだ。
環境規制は未熟で、悪臭のドブ川やヘドロの海、大気汚染公害病は身近な恐怖だった。
オイルショック記憶は生々しく、「石油の輸入が途絶したら日本破滅」という恐怖が意識の奥底にあった。

一方、「人類月面着陸」は、科学進歩の到達点として強烈な印象を与えた。

「増え続ける人口破壊される環境、枯渇するエネルギー源」を解決するために「人類宇宙進出する」という考えはごく自然だった。

そしてファーストガンダムから42年。原作から33年が経過した。

今、日本人口減に苦しみ、厳しい環境規制公害病過去となり、山河は綺麗になり、エネルギー供給源は多様化した。

アポロ計画から50年、人類は月はおろか静止衛星軌道の外ですら誰一人として到達できていない。

原作の「序文」に描かれた「生活圏の宇宙への拡大による地球環境汚染の救済」はまったくピント外れなお題目になってるのだ。

マフティ理想現代日本人共感できない。
いや、映画監督ですら理解できているのだろうか心配になる。

逆襲のシャア」で描かれた香港は、エネルギー枯渇と公害により貧しくなった人々の精神が荒みテロ日常茶飯事の社会であった。(余談だが、クエス・パラヤのように裕福な親から反発した家出娘が向かう先はカトマンズゴアヒッピーのたまり場、という行動様式現代では理解されにくい文脈だろう。)

閃光のハサウェイ」で描かれたダバオは、現代東南アジアリゾートの姿そものであり、その綺麗な街並はとても人口過多・エネルギー不足・環境破壊連想させるものではない。

劇中でタクシーおっちゃんが「マフティ理想なんて理解できない」と言われても、映画見ている人みんなが同意するだろう。
汚染された環境の中で、貧困の中でも明日パンのために生きざるを得ない人々と、一旦「地球を休ませる」という理想対立軸がまったく上手く描けていないのだ。
背景描写が綺麗であればあるほど、物語の背景としてのディストピア地球社会がまったく見えてこなくなる。

しか・・・この30年の社会変化をどう脚本に織り込めば、この映画における「マフティ理想、ハサウェイの野望」に観客が共感できるようになるのだろうか。

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