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2017-05-26

http://anond.hatelabo.jp/20170526191214

自分のためだけに頑張るってことは、逆に言えば自分我慢できればいいってことだから自分が許せる範囲までどんどん堕落していくってことだよ?

信仰なんかもそうだけど、自分の外側に基準を設けないと、人間はすぐに楽な方に流れて行っちゃうもんだと思うよ。

http://anond.hatelabo.jp/20170526135052

色々あるだろうけど、日本人は何らかの信仰を持ってる人に出会うと結構人生観が変わると思う。

観光海外行くとき都市部に行くことが多くて(特にアメリカ)、そこだと無神論者同然の拝金主義者(つまりどこにでもいる日本人と同じ思想の持ち主)ばかりなので、「なあん外人日本人と変わらんな」となりがちになる。

田舎に住んでる貧乏人なんかは、金・社会的成功美人の奥さん・完璧子どもよりも大事ものがあると本気で信じていたりするので、結構びっくりすると思う。

2017-05-23

自分の髪くらい好きな色に染めさせろ

ツイッターにてとあるツイートを見かけた。

男性から見て、女性の髪色は

黒髪が好き:茶髪が好き=8:2

というツイッター上でのアンケート結果。

それに

日本人女性のみなさん、殿方の本音をご覧ください」という文言まで付随していた。

女の私からすれば

「だからなんなんだ??」

と感じる。

黒髪の方が茶髪に比べて好み、ということに関しては、個人趣味からあいい。人の好みを否定はしない。

だが自分の好みを他人押し付けようとするな。



殿方の本音?知るか。そもそも顔も名前も知らねえ男共の好みに女がハイそうですかって従うわけねえだろ馬鹿か。

女がみんながみんな、男の気を惹きたい一心で生きてると思うなよ。自分の髪一番見てるのは、周囲の男でもなんでもなく、自分自身のものなんだよ。自分の好みの色に染めるに決まってんだろ。

百歩譲って自分好きな人の好みに寄せたりすることはあると思う。だがその人以外の大多数の意見など知らん。最低でも顔も知らんような相手意見など知らん。

これは私の主観だが、

黒髪信仰処女信仰は似ている気がする。

黒髪が良いんじゃない、要するに処女性を求めているんじゃないか

黒髪しろ処女しろ、それを相手の「個性」ではなく「ステータス」としてしか見れない男は、残念ながらもう周りから敬遠されてると思う。

相手を一人の人間として受け入れるのではなく、相手自分好みに仕立て上げる方向にしか頭が働かないんじゃ、女どころか誰も近づかないんじゃないか…。


話がかなりズレたが、つまり私が言いたかったことは、

男ウケなどと言って自分意見をあたかも周囲の総意のように見せかけて押し付けようとするな

ということだ。そんなに黒髪が好きなら黒髪女優が出てくるAVでも見てオナニーしててくれ。

ネット右翼に活気があった時代を生きていた人が羨ましい

私の政治運動デビュー2009年4月4日ネトウヨ旋風の時代だ。ちなみに生まれ1985年2月27日

当時の愛読本小林よしのり漫画だった(今は左翼転向してしまった)。

そういう生い立ちがあるので社会人2年目くらいの頃からネット右翼について興味があって、ネトウヨについてよく調べていた。

私の世代は、2ちゃんねらーサブカルからって特別ネトウヨに詳しい人なんて居なかった。ネトウヨについて調べていたのなんて私くらいだ。別に右翼思想に興味があるわけではない。参加者やそのバイブルについて興味があるのだ。

こう言うと不謹慎かもしれないが、ネット右翼ロマンを感じてしまう。2ちゃんねるとある板の不気味な感じとか、デモ行進をそこらじゅうで起こしていたこととか、右派なのに左翼スタイルで行動していたこととか、不気味な出版物原稿料印税を稼いでいたこととか、薄暗くて、どことなく惹かれるところがある。ほかの人がカルト宗教とか左翼過激派とかヤンキー暴走族に惹かれるのと似たようなもので、私はネット右翼ロマンを感じる。

しかし、残念なのはあの時代をもう経験できないことだ。

ネット右翼系の出版物がそこらじゅうにあっていつでも新品を買えた時代桜井誠掲示板で討論していた時代大学2ちゃんねるなどでネット右翼オルグしていた時代ニコニコ動画愛国動画が乱舞していた時代日本人胡散臭い過激思想を大真面目に信仰していた時代。あの歪んだ2000年代を、私はもう経験することが出来ない。1日でいいからあの時代の空気経験してみたかった。

あの時代経験したあなた達が羨ましい。

http://anond.hatelabo.jp/20170523075532

個人的には誰がどこで飯食ってても別にみっともないとか思わないんだけどなー。

便所飯は不衛生かなーと思うし、気分よくなさそうだからやらないけど。

歩きながらパスタくるくるとかしてたら、この人すげーなって思うかもしれないけど、それをみっともないとは思わない。

歩きながら抱えた紙袋からとり天を取り出してはそばのようにスルスル飲み込んでいく巨漢とか見たことあるけど、壮観だなと思った。

歩きながら焼肉してたら、油とか鉄板とかが危ないからそれは嫌だと思う。

前に移動中の乗り換えの間に駅のベンチでパンを食べてたら、通りかかったおじさんに「歩きながら物を食うな!」と怒鳴られたことがある。

や座ってるし、なんで?と思いつつ、迷惑をかけているわけではないのになぜダメなのか、それとも迷惑をかけたか?と聞くと、不快だという。

他人の食べる姿が不快?お店とかは大丈夫?と聞くとそういうことではないと怒られた。

もしかして自分も食べたいのを我慢しているのに、食べているのを見せられて不快なのかな?と思って、

よかったら食べます?と食べかけのパンの口を付けてない側をちぎって差し出したら、もういい!食べ物を粗末にするな!と怒鳴ってどこかへ立ち去って行った。

あのおじさんにパンを与えるのは食べ物を粗末にすることなんだろうか?と混乱してしばらく悩んだ結果、

しかしたら「食べ物はきちんと態勢を整えて有り難く頂くべき」という食べ物感謝し大切にしよう的な思想が背景にあるのかもしれないと思い至った。

まあ、それならそれで、俺はどこで食べても「いただきます」と「ごちそうさま」をちゃんと言っておいしくいただけばオッケーという宗派だしそれを曲げる気もないので、

今のところ、信仰が違うんだから多少の衝突は仕方ないよね。と結論付けている。

2017-05-22

詠み人知らず信仰

自分名前は知られずに作品とか功績だとかだけが末代に残るみたいなのって憧れる

名乗るほどの者ではございませんみたいな

http://anond.hatelabo.jp/20170522145545

マナーってつきつめていくと信仰区別がつかなくなってくるんだけど

それを自覚せずに他を律しようとするとはたから見れば狭量で面倒なヤツになるし本人も生きづらくなるんよな

2017-05-20

オウム真理教があった時代を生きていた人が羨ましい

俺の誕生日1995年3月20日地下鉄サリン事件の日だ。

実家上九一色村に隣接する市町村にある(今は平成の大合併で同じ市町村になってしまった)。

そういう生い立ちがあるので中学生くらいの頃からオウム真理教について興味があって、オウムについてよく調べていた。

俺の世代は、上九一色村の隣だからって特別オウムに詳しい人なんて居なかった。オウムについて調べていたのなんて俺くらいだ。別に信仰に興味があるわけではない。起こした事件活動について興味があるのだ。

こう言うと不謹慎かもしれないが、オウム真理教ロマンを感じてしまう。麻原彰晃の不気味な感じとか、バイオテロ化学テロをそこらじゅうで起こしていたこととか、宗教団体なのにパソコン屋や飲食店経営していたこととか、隣の村に不気味な施設を建てていたこととか、薄暗くて、どことなく惹かれるところがある。ほかの人が心霊現象とか超常現象に惹かれるのと似たようなもので、俺はオウム真理教ロマンを感じる。

しかし、残念なのはあの時代をもう経験できないことだ。

オウム真理教経営してるパソコンショップがそこらじゅうにあっていつでも行けた時代ビートたけし麻原彰晃テレビで対談していた時代。隣の村にサリン工場があった時代テレビアーナンダが水中クンバカをしていた時代エリート胡散臭い宗教を大真面目に信仰していた時代。あの歪んだ平成一桁を、俺はもう経験することが出来ない。1日でいいからあの時代の空気経験してみたかった。

あの時代経験したあなた達が羨ましい。

2017-05-19

親が新興宗教やってる

前提として、これは別に宗教批判するつもりは全くない。

私自身は、宗教趣味の一つみたいなものだと思ってるから、人が何を信じようがどうも思わない。ただ、世間はそうはいかないということは、きちんと理解している。

年齢も年齢だし、そろそろ婚活(合コン婚活パーティー結婚相談所、友人の紹介等々)しようかなと思っているけど、相手申し訳なくて、なんとなく積極的になれない。

だって、私の親は新興宗教やってる。彼女の親が熱心な信者ってどうなんだろう。

そもそも信仰する宗教教義では、男女間の恋愛は厳しく制限されていて、小さい頃から男の子と親密になってはならないと言い聞かされていた。その影響もあって、男性とどう距離を縮めていいのか分からない。

親がどの宗教を信じようが、それは親の問題であって、私は私だとずっと思ってきた。宗教とは全く関係のないところで、出会って結婚したいと願ってきた。

でも結局のところ、同じ宗教信仰者同士で結婚するのが一番いいのかもしれない。それを考えたら、吐き気がする。

ちなみに姉は、親の宗教も引き金となって離婚した。

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山寺院である本尊地蔵菩薩、開基は園城寺三井寺)の僧快賢である中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺[1]、心浄光院と号した。

目次 [非表示]

1 歴史

2 境内

3 文化財

3.1 重要文化財

3.2 焼失した重要文化財

3.3 重要無形民俗文化財

4 行事

5 関連項目

6 アクセス

7 脚注

8 外部リンク

歴史[編集]

園城寺三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗総本山奈良唐招提寺寺院である

中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる[2]。

江戸時代後期の幕末には京都治安維持目的活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠壬生村の八木家に置かれた。当寺境内新選組兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市三鷹市などに存在する)。

当寺旧本尊地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年昭和37年7月25日放火により本堂とともに焼失した。現在本尊地蔵菩薩立像は、火災後に本山唐招提寺から移されたものである

境内[編集]

現在の本堂は1970年昭和45年)の再建である境内には他に大念仏堂狂言舞台重要文化財)、近藤勇銅像壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。

文化財[編集]

重要文化財[編集]

木造地蔵菩薩立像唐招提寺旧蔵、平安時代

錫杖(しゃくじょう)

紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)

壬生寺念仏堂狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)

典拠2000年平成12年)までに指定国宝重要文化財については、『国宝重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録名称索引統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

焼失した重要文化財[編集]

木造地蔵菩薩半跏像 旧本尊鎌倉時代

木造四天王立像 鎌倉時代

金鼓 正嘉元年(1257年)銘 - 「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと

以上3件は1962年火災で焼失した。[3]

重要無形民俗文化財[編集]

壬生狂言

壬生六斎念仏踊り(指定名称は「京都の六斎念仏」)

行事[編集]

壬生狂言

毎年節分春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財指定されている。公開は2月節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照

壬生六斎念仏踊り

年中行事として、かつては毎年8月9日精霊迎え火、16日の精霊送り火23日の地蔵盆壬生寺で上演されていたが、現在は9日にの実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照

地蔵盆時の出開帳

壬生寺は、地蔵菩薩本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵石仏を貸し出す、俗称レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。

京都でも新興住宅地などでは地域地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

鎌倉時代僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派

一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。

以後、同寺を本山として東北関東尾張近江に一向の法流と伝える寺院分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係宗派として存在している事が記録されている。

一向と一遍智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己教義確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏のもの特別宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。

浄土真宗本願寺八世の蓮如北陸地方活動の場を求めた時に、布教対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗時宗支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗民衆蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺門徒一向宗名前を使ったもの破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派混同されている。

江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺総本山とする単一宗派時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗から独立を求めたが実らなかった。

明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]

大半の寺院時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。

ゆかり寺院[編集]

番場蓮華寺滋賀県米原市

佛向寺(山形県天童市):現在でも踊躍念仏を伝える。

浄土真宗の「一向宗」[編集]

浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である

「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏名号を称えることと解釈され、親鸞宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。

したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗門徒一向宗自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。

こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。

江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。

anond:20170518204136

自分炊飯器別に買えば。

小型ので3合くらい。

寝る前に炊いて保温か電源切で2日くらいで食べきる。

自分でカビさせないよう食中毒にならないよう管理する。

 

それがダメならさとうのごはんで。

それか思い切って米の食物アレルギー診断をとってみるとか。

自分健康上全玄米しかたべない、2時間かかるから前日から炊いて保温してくれっていう手も。

 

心理的にとかいわれたら、

どうせ年取ったら一人一人糖尿食だの高血圧食だの違うもの食べるようになるんだから、それが少し早まるだけのことといえ。

主婦はぜひ均等給食教育から早めに卒業したほうがよい。

無駄自炊信仰多すぎ。

2017-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20170515130323

いやそこははっきりしときたいけどフェミが嫌いなだけだよ

あれは男にとっては御利益のない神の信仰強制するような無法だ

2017-05-12

日本人信仰掃除だろうね

家事の中でも極めたって金にならないものから、無理に持ち上げて誰かにやらせようとしている

欧米の「信仰による精神成熟」について

日本では道徳教育代替しているという意見を聞くが正直代替しきれているとは思えない

精神成熟健康の維持・知性の研鑽と同様生涯を通して行うべきスキルアップであり

中学までの道徳教育では代替するに不足している

信仰なき世界いかにして精神成熟させるか?

宗教ではダメ

今の日本人にもはや宗教は受け付けないだろう

宗教の代わりになる受け皿が必要ではないかと思う

日本人には日本人聖書必要なのだ

2017-05-04

宗教を立ち上げたい教祖になりたい

正確には思想家になりたい扇動したい

信仰対象日本人という概念

韓国系日本人はこれに服従する

義務でも権利でも運命でも愛でもなんでもいい

韓国系日本人純粋日本人奴隷に自らなり

神のごとく拝んで望んで命を捨てる

そういう風に生まれてきたのだと目覚める、という感じで

宗教を立ち上げたい

どうすればいい

もう本国人在日と一緒にされるのは嫌だ

連中も帰化人も皆狂って死ねばいい

2017-05-01

消防士の寄り道を許すこととアイドル恋愛を許すことは同じ

これらはどちらも日本人が持つ信仰メカニズム根本にあるからだ。

聖職という言葉が示すように、ある特定職業立場にある人間に対して徹底的に穢れを嫌う傾向が日本人には強い。

しかし、SNS全盛の今の時代において、今まではなんとか隠してこれたもの不可能になりつつある。

人間人間であり、信仰対象にするにはあまりにも脆い。

勝手に憧れて勝手理想を作り上げた挙句、裏切られて傷ついては相手報復をしていたのでは全員が不幸になってしまう。

この息苦しい世界を脱するためには、お互いがただの人間であることを認めあうことにほかならない。

それでも尚信仰対象を見つけようとするなら止はしない。ただ、そうした生き方を続けられない時代が訪れている。ただそれだけのことである

生きる必要を奪われてしまうことも、それも一つ淘汰の摂理しかないのだ。

2017-04-30

棄権白票無効票意味がない

統計微妙な扱いの差はあるにせよ、いずれにせよ当選には影響せず、現状の追認でしかない

消極的与党に入れるのもアレだし、かといって次に当選しそうな候補を探すのも、

そいつのアラに目をつぶるのも、変な奴に票を入れた道義的責任を問われるのもめんどくさい

ならばもうこうしよう、ランダム扱いになる票を設ける!

信仰とか信条とか利権とかで投票先が決まっている人以外はこれに入れたらいいのだ

そしてこの票が増えすぎると、誰が当選するか誰にもわからなくなる

趣味出馬していた泡沫候補が何かの間違いで当選ちゃうかもしれない

みんな少しは必死になるのではないだろうか

飲み会敬語スーツサービス残業

ジャップランドには信仰がある。

この国は無宗教と語る人もいるがそれは違う。

この国には伝承がある。

沢山酒が飲めて、接待ゴルフが上手くて、スーツぴしっと決めて、敬語完璧に使えて、サービス残業バリバリやって、何を言われてもイエスと答える人間こそが、理想社会人であるという教えがある。

これは立派な宗教だ。

この宗教の中で、階層を生み出すためのマクガフィンの集まりによって、この国のビジネス構成されている。

そしてこの国の日常もまた、ビジネスマナー教の戒律により侵食されきっているのだ。

民明書房中世におけるジャップランド宗教観」より

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