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はてなキーワード: 文官とは

2024-02-28

なんで天皇とき列島全域(広域)を支配できたんだろうな

今の天皇見ても文官系やさおにしかみえないけどなあ。

戦争するのに将自体が武がすごい必要はないっていうけど、それは王権継承確立してからの話で

いちから人を束ねて戦争で勝つまで行くには、喧嘩番長的やルフィな、それこそ力でねじふせて仲間を増やして、戦うとき自分前線に出て無双したうえで生き残る必要があるだろう。じゃなきゃ地域同士の大戦争できるレベルの人を束ねるカリスマは得られない。

やっぱ天皇血筋は何度も途絶えてるのかねえ

2023-10-17

anond:20231017163450

伝統校なら〇〇中学校から県立〇〇高等学校に変わっただけで名前制服も変わることはない

俺の高校からは何人もの卒業生海軍兵学校海軍官立高等学校帝国大学→高等文官へと進んでいった超名門校。俺の曽祖父祖父も親父も母親もみんなそこ出身

ただ不思議なことに戦後、新制の高等学校になってから地元駅弁工学部教育学部防衛大学校に輩出するのがやっとで東大駅弁医学部なんて夢のまた夢になっているがな。

2023-06-02

anond:20230602204839

若い頃の孔明は自らを管仲楽毅比肩する才能があると自負していたようだけど、実績からいうと政治・軍略いずれにおいても孔明の才は両者に遠く及ばなかった。

三国志演義に描かれる時代はとくに傑出した人物がでなかったおかげで小競り合いが長引いて、物語の脚色上ろくに実績のない武将文官まで英雄扱いされてしまっているだけで、

他の戦乱期と比較してみればスケールの大きな人物ほとんど輩出されない小者だらけの時代だった。

創作世界では三国志最強武将として扱われる呂布も一時期曹操を苦しめていたのが過大評価されてるだけで他の時代の名将たちと比較して華々しい戦歴があるわけではないし、

あくま三国志前半の物語を盛り上げることのできる特異な経歴をもったトリックスターであったということだけが呂布の強みであり値打ちだった。

2023-03-14

anond:20230314060049

飛脚大工職人農民に活気があり、独身男性文化が華開いた結果が江戸。そしてそれらに支えられた経済力明治維新原動力

一方の朝鮮王朝はみんなが文官学者に憧れ、肉体労働者や農民最初から人生放棄路上物乞い。その結果は日本植民地

どう思う?儒教意識を変えた方がいいぞ。

2023-02-10

岸信介戦犯だと勘違いしていた

はてブでやたら戦犯戦犯言われてるから東京裁判有罪になった戦犯だと思ってたけど

よく考えたら文官の岸がなんの罪で起訴されたんだ?って気になってWikipedia見てみると不起訴になってるじゃねえか。

戦勝国一方的に決めた戦犯基準に乗っかってレッテル貼りするのおかしいだろとか以前の話だったわ。

2022-12-10

anond:20221210114318

ええと…田嶋氏が育成現場にいた時の選手たちは当時、「谷間の世代」と言われていて、どの世界大会でもイマイチな戦績で途中で変わってる(大熊さんだったかな)んですよね。彼の講演で、U世代監督をやっていた時に長谷部招集しなかったか自分監督や強化の才能はないと思うって笑わせるのがお約束なので、ご本人が言ってることです。ちなみに谷間の世代と言われた選手たちは南アW杯で欠くべからざる戦力になっていますから、戦績が良くなかったのは選手の質に問題があったわけではないでしょうね。

田嶋氏自身も、いろんなところで喋っていることでもあるのですが90年~2000年代あたりはとにかく人材が足りなくて、「サッカー仕事をする」と決めた諸先輩方は、殆どの人が育成現場仕事を担っている期間が長くあります。田嶋氏はむしろ監督などの現場方面キャリアを積み上げるのをやめて、現場を上がって「文官」になるキャリアを選んだ人なんです。

そもそも育成こそがJリーグ設立の最大の理由で、そのためには普及は当然ついてくるわけで…田嶋だけがそう言っているわけじゃなく日本サッカー草創期を支えた人たちは、そして今現在サッカーファミリーみな同じ理念を持っています

それに…、ヒロミが「代表Jリーグ」ってことも認識が間違っていますヒロミ代表チームの技術委員長やっていたでしょう?JFAの偉い人もずっとやっていましたし、彼自身Jリーグ代表を担う人材を育成するリーグである、と言っています。ただ、恐らくヒロミと田嶋では、「代表を担う人材をどうやって確保するか」の方法に、それぞれ少し異なる意見を持っているのかなと思うことはあります

邪推ですが)

田嶋は集約的に少数精鋭にエリートを育てたがる(Jリーグ集約プレミアリーグ化)傾向があって、

ヒロミは、エリートを狙いすまして集められるわけがいか富士山の形みたいに裾野を広くしたい(Jリーグを拡大)

という違いです。どちらも会見やJリーグYoutubeスカパーやダゾンの番組で田嶋、ヒロミが言っていることですね。

田嶋氏についてはやはりアンチ的な批判をする方が多いのではないかと思います。ただ、サッカーに興味がない人が多いのかも知れないとも思います

これも、むしろ間違ってると思いますよ…。

サッカーに興味がない人は、なんなら田嶋のことを知らないと思う笑。ポイチや反町さんは知ってても(A代表、U代表監督経験者だからね)。

田嶋への批判をしている人達は、主にJリーグ大好き勢だと思います私たちJリーグ大好き勢は基本、日本サッカー全般が大好きです。Jリーグも見にいくし代表戦も当然応援する、自分のところの選手や、日頃の対戦相手Jリーグを巣立ってぐんぐん成長してる選手応援するのは至福の瞬間だからです。

そしてJリーグが好きだからドイツ式代表特定クラブ代表選手を集約)をやろうとしたり、プレミアリーグ作ろうとしたり、秋春制を導入しようとする田嶋は、私たちJリーグ大好き勢とっては「なに言ってんだ、こいつ敵だな」となるのです。これらのアイデアは「Jリーグもっと良いリーグにする=発展拡大させる」ことと反対になりうるから。

批判をしているのは、めくらめっぽう、ただ叩きたいからではなく、とても現実的な、私たちと利害が反することを言っているからです。

サッカー知らない人」は田嶋のことなんて知らないと思いますし、「代表戦だけ見る人」、「代表専サポ」さんは、たぶん、むしろ田嶋に、我々Jリーグ大好き勢ほど悪意は持ってないと思います

なぜなら、田嶋のアイデアは直接的に(そして短絡的に)代表を強くしたい、という理由で出しているものからです。スター選手を贔屓するのも代表ファンスポンサーにとっては嬉しさしかないですしね。代表けが強くなればいい、Jリーグには興味がない、という人にとっては田嶋は良い人に見えると思います

ただし、代表専サポさんって実際にはあんまりいないんですよ(少なくとも私の知り合いには居ない)。多くの人が、どこかのJクラブJFA地域クラブを熱烈に支援応援してる人を兼務しているので、田嶋のことは批判的に見る人が多い印象です。

eternal_reflectionさんは、あんまりサッカーを観戦したり、どこかのサッカークラブ応援したりはしていないのかな?と思うんですが、どうでしょうか。だとしたらこの辺の理屈が見えてないのかなと思いました。

アンチはすぐ田嶋を叩けばいいと思って!」と、まず思い込んで、そういう目で見ているから、私たち毎日考えている(サッカー馬鹿なので毎日サッカーのことを考えてるんですよ、馬鹿から仕方がない)ことが、見えなくなってるんじゃないかな…。

2022-12-03

anond:20221203213030

麻呂って江戸時代の城とかにいる文官のことやな

毒麻呂ってのは毒親みたいな嫌なタイプ文系ってことやろ

2022-08-26

anond:20220826141838

世代っていうより、増田さらに親世代である戦後世代の影響だろうな。戦前は「努力権威」みたいな感じでいか努力して高等文官士官になったかみたいな話が持て囃されてた。戦後はその反動学生運動の影響で「努力ダサい」みたいな風潮ができた。今の若者冷笑主義努力嫌いの親世代反動努力好き。

2022-07-31

進路相談パラレルワールド

現在大学生

中学校内地の県立中学出たんだけど、父親外地勤務が多く今は家族みんな朝鮮いるか内地高等学校には行かないで京城帝国大学予科を経て京城帝大に進んだ。モテたくて海軍兵学校とも迷ったんだけど、台湾有事とかで物騒だし文官の方がいいかなと(てか政府はもう台湾手放して中国に返せば良いのに)。

そんで高等文官試験を受けて内務省に入るのが第一希望なんだけど、東大派閥が強いらしいから高等文官司法科を受けて司法官補になろうか迷ってる。

どう思う?

2022-07-27

郅都

郅都(?) -?) 前漢時代河東郡楊県(現在山西省宏道県東南部)の出身である。 漢の文帝の時代には、漢の役人を務めた。 警部補時代法律を厳格に執行し、権力者を寄せ付けなかったため、「鷲」と呼ばれるようになった。

内容

1 バイオグラフィー

1.1 生まれから最初の数年間

1.2 強力なもの抑制する

1.3 強者に挑む

1.4 皇太子妃の不興を買う

1.5 閻魔大王総督

1.6 イーグルの死

2 評価

3 関連項目

4 参考文献

バイオグラフィー

最初の数年間

漢の文帝の時代、志杜は文官となり、次いで文帝の家来となった。 景帝の時代になってから将軍に昇進した。 その勇気ある助言によって、大臣たちを説得することができたのだ。

ある時、景帝に随行して上林宮に行った時、随行していた賈詡トイレを使っていると、突然イノシシトイレ突入してきたことがあった。 皇帝は志杜に、その目で嘉吉を救うように指示したが、武器を持った志杜は皇帝の体を守るだけで、行動を起こさない。 景帝が自ら武器を取って助けようとすると、子都は景帝の前にひざまずいて、「一人の妾を失えば、また一人が宮入りする、世に嘉吉のような女が不足するだろうか」と言いました。 陛下がご自身安全を軽視されるのであれば、国や皇太后をどこに置くというのですか?" 漢の景帝は、志杜の言葉を聞いて、賈賈をおいて、結局、イノシシは誰も傷つけずに、便所から逃げ出したのです。 この出来事を聞いた皇太后は大喜びで、志都に金百枚を褒美として与え、漢の景帝はそれ以降、志都を重用するようになった[1]。

強者への抑圧

前漢の初め、宮廷黄蓋の術によって国を治め、何もせずに治めるという方針をとった。 済南県には300余りの謝氏一族がいたが、彼らは強大で狡猾なため、済南の将軍は何もできなかったので、景帝は志都を済南の将軍に任命し、地方の有力者を治めるように命じた。 彼が済南県に到着すると、謝氏一族悪党の長をすべて処刑させ、他の謝氏一族は恐怖に震え、二度と法を犯すことを恐れなくなった。 済南県に赴任して1年後、県内には一切の残骸がなく、周辺の十数県の知事たちは皆、彼を上官のように尊敬していた[2]。

強力なものを避けるのではなく

その後、中尉に昇進し、北軍と都の警備を担当することになった。 有力者の顔色をうかがうことはしなかった。 宰相の周亜夫(しゅうあふ)は傲慢(ごうまん)で横柄(おうへい)だったが、彼に会うと頭を下げるだけで、ひざまずかないのだ。 文帝と景帝の時代には、民衆搾取が減り、平和で満足な暮らしができ、法を犯す人もほとんどいなかった。 法律王族親族貴族執行し、法律を破った者は官吏や人に関係なく、法律に従って厳しく罰せられました。 王室からは嫌われ、恐れられ、横目で見られ、陰では「鷲」と呼ばれ、その激しい法執行比喩とされた[3]。

皇太后陛下のご不興を買う

紀元前153年、漢の景帝の長男である劉栄が皇太子に任命された。 紀元前150年、劉協の母・王耀が密かに大臣を唆して景帝に李自成を皇后にするよう依頼し、景帝は激怒して劉協を臨江王として退位させた[4]。

紀元前148年、劉栄が勅令違反して菩提寺土地を流用して宮殿を建てたため、景帝は劉栄を呼び寄せて謁見させることにした。 劉栄は江陵現在湖北省江陵県)の北門から出発し、乗り込んだ馬車が壊れてしまったのだ。 江陵の人々は皆、目に涙を浮かべながら、「私の王は帰れない」と内心で言っていた[5]。

都に入った劉栄は、裁判のために尉官室に呼び出された。 劉栄は恐れをなして、景帝に礼状を書こうと筆と剣を求めたが、景帝はそれを許さなかった。 魏斉の侯爵、斗英は人を遣わして劉栄に静かにナイフペンを渡した。 長男の死を知った皇太后激怒し、法律を厳格に執行して甘受しようとしない財津を憎んだ。 景帝は彼を故郷罷免したが、その後、使者を送って延門県知事に任命し、近道で直接赴任させ、県の事務を処理する特権を与えた[6]。

燕門総督

漢の景帝の時代匈奴鉄騎兵が長年国境を侵し、国境の県は長い間未開拓のままであった。 彼の清廉潔白の名声を慕っていた匈奴は、彼が燕門の総督に任命されたことを知り、恐れおののいた。 匈奴の騎馬隊は退却し、燕門から遠ざかった。 死ぬまで延門に近づく勇気はなかったという。

匈奴はザイドゥの形をした人形を彫り、匈奴騎兵が馬上から撃つための標的として設置したのです。 ザイドゥを恐れて、匈奴騎兵は誰も目標を達成することができませんでした[7]。

イーグルの死

景行が再び財津を利用したことを知った道太后激怒し、直ちに逮捕を命じた。 景帝は「宰子は忠臣である」と宰子を擁護し、釈放の準備をした。 孫の劉栄の死も忘れず、斗太后は「臨江王は忠臣ではなかったか」と言った。 彼女仲介で、ついに志杜は殺された。 彼の死後まもなく、匈奴騎兵隊が燕門に再侵攻した[8]。

評価

彼は忠誠心が強く、公正で正直な官吏で、内部では権力者や有力者に立ち向かい、外部では外国侵略から身を守り、匈奴の神経をすり減らすほどの勇気を持った人物であった。 親族を倍加して仕えれば、政府の下で死んでも妻にはこだわらない」という有名な言葉があるが、これはまさに彼の官僚としての生き様を表している。 後世の人たちは、財津を高く評価していた。

司馬遷は『大史記』-巻122-「涼官伝説」の中で、「彼は素直な人であり、天下を争うほどの人であった」と賞賛している。

漢の成帝の時代大臣の顧雍はメモで志都を論じ、「趙に連波と馬遂がいて、強い秦は井戸を覗く勇気がなく、近漢に志都と魏商がいて、匈奴は砂幕に南下する勇気がない」と述べている。

唐の古書』巻194には、唐の中宗皇帝時代に、右補奇人陸遜が「漢が宰子を祀ると匈奴国境を避け、趙が李牧を任命すると臨湖は遠くに逃げた」と発言したことが記されている。

上記名前から、志都は戦国時代の趙の連波、趙奢、李牧など、「戦国武将国家の手先」とされた名将と肩を並べることになる[10][11]。

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%83%85%E9%83%BD

www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

2022-07-14

anond:20220714223836

ドストエフスキー罪と罰登場人物

ジオンロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(ロージャ)

孤独主人公学費滞納のために大学から除籍され、サンクトペテルブルクの粗末なアパート下宿している。

ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ (ソーニャ、ソーネチカ)

マルメラードフの娘。家族飢餓から救うため、売春婦となった。ラスコーリニコフ犯罪告白する最初人物である

ポルフィリーペトローヴィチ

審判事。ラスコーリニコフ心理的証拠だけで追い詰め、鬼気迫る論戦を展開する。

アヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワ (ドゥーネチカドゥーニャ

ラスコーリニコフの妹。美しく芯の強い、果敢な娘。

兄や母の事を考え裕福な結婚をするため、ルージンと婚約するが、ルージンの横柄さに憤慨し、破局する。

以前家庭教師をしていた家の主人スヴィドリガイロフに好意を持たれている。

アルカージイ・イワーノヴィチ・スヴィドリガイロフ

ドゥーニャ家庭教師として雇っていた家の主人。ラスコーリニコフソーニャへの告白を立ち聞きする。

マルメラードフの遺児を孤児院に入れ、ソーニャ自身婚約者へは金銭を与えている。

妻のマルファ・ペトローヴナは3,000ルーブル遺産を残して他界

ドミートリイ・プロコーフィチ・ウラズミーヒン

ラスコーリニコフの友人。ラズミーヒンと呼ばれる。変わり者だが誠実な青年ドゥーニャ好意を抱く。

セミョーン・ザハールイチ・マルメラードフ

居酒屋ラスコーリニコフと知り合う、飲んだくれの九等官の退職官吏ソーニャの父。

仕事を貰ってもすぐに辞めて家の金を飲み代に使ってしまうという悪癖のため、一家を不幸に陥れる。最期は馬車に轢かれ、ソーニャの腕の中で息を引き取る。

テリーナ・イワーノヴナ・マルメラードワ

マルメラードフの2人目の妻。良家出身で、気位が高い。肺病と極貧にあえぐ。夫の葬儀ラスコーリニコフの援助によって行われた。

ポーリナ・ミハイローヴナ・マルメラードワ (ポーリャ、ポーレンカ)

マルメラードフの娘。ソーニャの妹。

アマリヤ・フョードロヴナ(イワーノヴナ、リュドヴィーゴヴナとも)・リッペヴェフゼル

マルメラードフ一家に部屋を貸している大家

プリヘーリヤ・アレクサンドロブナ・ラスコーリニコ

ラスコーリニコフドゥーニャの母。

ピョートル・ペトローヴィチ・ルージ

7等文官弁護士。45歳。ドゥーニャ婚約者。ドゥーニャ結婚しようとするが、ドゥーニャ支配しようとする高慢さが明らかになり、ラスコーリニコフと決裂し、破局する。

ラスコーリニコフへの当て付けにソーニャを罠にかけ、窃盗冤罪かぶせようとするが失敗する。

アンドレイセミョーノヴィチ・レベジャーニコ

役人サンクトペテルブルクルージンを間借りさせている。ルージンのソーニャへの冤罪を晴らした。

アリョーナ・イワーノヴナ

高利貸しの老婆。14等官未亡人悪徳なことで有名。ラスコーリニコフ殺害され金品を奪われる。

リザヴェータ・イワーノヴナ

アリョーナの義理の妹。気が弱く、義姉の言いなりになっている。ラスコーリニコフ殺害される。ソーニャとは友人であった。

シーモ

医者。ラズミーヒンの友人。ラスコーリニコフを診察する。

プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナ・ザルニーツィナ (パーシェンカ)

ラスコーリニコフ下宿大家。8等官未亡人

彼女の娘であるナターリヤ・エゴーロヴナ・ザルニーツィナはラスコーリニコフ婚約していたが、病死している。

ナスターシヤ・ペトローヴナ (ナスチェンカ)

ラスコーリニコフ下宿女中

ニコジム・フォミーチ

ラスコーリニコフが住む区の警察署の署長。

イリヤペトローヴィチ

ラスコーリニコフが住む区の警察署の副署長。かんしゃく持ちで、「火薬中尉」とあだ名される。

アレクサンドル・グリゴリーウィチ・ザミョートフ

警察署事務官。ラズミーヒンの友人。

ニコライ

殺人嫌疑をかけられたペン職人。彼の予想外の行動が、この事件をこじらせることとなる。

2021-11-14

「屍山血河」の由来についての推測

https://anond.hatelabo.jp/20211113201646

横田だけど、ちょっとググったらそれっぽいストーリーが立てられたので共有しておく。



三行でストーリーをまとめると

・「屍山血河」という言葉を考案したのは大日本帝国陸軍文官で、陸軍教授地位にいた樋口石城なる人物である

・「屍山血河」は、旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を邦訳する際、邦題として発案された。

・この邦訳を読んだ人々が邦題熟語として認識。そのうち、司馬遼太郎小説内で多用したこと日本中に広がった。



「屍山血河」の由来はなにか。まず、中国語で言うところの「成語」にそれらしい言葉はない。

かといって「屍山」とか日常言語で使う単語という感じではないし、自然発生した四字熟語でもないだろう。

普通に考えたら、中国語以外の言語にある熟語を、明治以降文化人とかが邦訳するときに成語っぽく整えた、とかが一番ありそうなパターンだ。

しかし、「屍山血河」という単語辞書に載っているが、用例として記されているのは司馬遼太郎小説ばかりだ。後は三島由紀夫だが、司馬遼太郎の用例が古い。

辞書を作ったときにそれより古い用例が見つからなかった可能性が高い。

普通辞書の用例はその用法で一番古いもの採用する。だれか他の文学者創作したならそっちが採用されないのは奇妙である

もちろん、司馬遼太郎独自に考案したと考えるのは早計だろう。

司馬遼太郎勝手創作したとされていた史観や、事実関係が怪しい記述も、近年ちゃんと調べてみると「元ネタ」があるものばかりだったらしい。

もちろん、だからといって、それらが歴史的事実だというわけではなく、「元ネタ」を書いた人が勝手創作したり、誤認識していたということらしいのだが。

ともかく、司馬遼太郎は無から発想したり、自分説明なしに訳語創作するような人間ではないと思う。

用例として採用しづらい対象で、司馬遼太郎が興味を持つ題材の日本語資料で「屍山血河」を使ったものがあるはず。



この条件に合致しそうなのが "屍山血河" コステンコ 著,樋口石城 譯 [1]である

ちょっと調べてみると、これは旅順戦を記録したロシア軍人М. И. Костенкоの日誌 "Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"[2]の邦訳だ。

М. И. Костенкоは旅順攻防戦に少将として参加した後、戦後軍事法廷議長とかをやった、とwikipediaに書いてあった。

旅順戦の日誌は貴重な資料であり、ロシアで広く読まれた。これが邦訳され、1912年出版された。

しかしそれにしては邦題おかしい。おかげでググっても原著がすぐ出てこなくてちょっとイライラした。

"Осада и сдача крепости П.-Артур : мои впечатления"を機械翻訳すると、"旅順要塞の包囲と降伏:私の印象"となる。

実際、この本は1973年に田崎与喜衛に再訳されており、そのとき邦題は"旅順攻防回想録 "となっている[3]。

泥沼の旅順戦で主に大量の兵士、とくに日本兵が死んだ様子を描写して「屍山血河」と言っているのだろうが、戦闘記録の題名にするには文学的にすぎるだろう。

М. И. Костенкоが序文とかサブタイトル的な位置にこの単語を使っているのではなく、樋口石城が勝手につけた邦題である可能性が高い。

ロシア語でも Горы трупов (死の山)とか реки крови(血の川)という表現戦争表現する際、よく使うようだ。

熟語とまでは行かないが、並列して使われる例もググればそれなりに出てくる。

原著に直接この組み合わせが出てくるかはちゃんと調べていないので不明だが、本文検索してみたら、Горы труповは単体で積み重なった日本人死体表現として使われていた。

もしこの記録が文学作品だったらこの題をつけるのは適当かもしれない。



これ以降は完全に当て推量である

陸軍教授樋口石城がどういう人物なのかはググっても出てこないが、樋口季一郎の親戚とかだろう。しらんけど。

まあ、軍教授なのだ名家出身学者で、ロシア語を含む文系教養があって、仕事ロシア関連の軍事資料邦訳を大量にやらされていたのだろう。

から文学作品とかを書く暇もないので、やらされた邦訳仕事で、多少のオリジナリティを発揮してみたくなったのではないだろうか。

そこで少し文学風に気取って成語っぽい「屍山血河」という語を創り、戦闘記録の邦題としてつけたのだ。

それを司馬遼太郎資料として閲覧。そういう成語が既にあると認識戦争小説で多用。

小説を読んだ人間もそういう語があると理解し、大量の死者が出る戦争を語る際に一般的単語へと一気に昇格してしまった。

そしていざ辞書に載せようとすると、用例として明記できる古い例が司馬遼太郎以前にないことに気づく。

樋口石城の訳書も発見はされたのだろうが、題なので用例としては不適であり、スルーされた。

結局、遡れるのは司馬遼太郎小説しかなかったのではないだろうか。




無論、上記は全てネット上で手に入る資料の断片からの推測であり、だいぶお粗末なものだが、もし当たっていればなかなか面白いストーリーではないだろうか。

以上、「屍山血河」の由来について横田が調べてみました。

いかがでしたか

信じるか信じないかはあなた次第

[1]https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024298307-00

[2]https://www.prlib.ru/item/355295

[3]https://www.amazon.co.jp/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E9%98%B2%E5%9B%9E%E6%83%B3%E9%8C%B2-1973%E5%B9%B4-%E6%A8%8B%E5%8F%A3-%E7%9F%B3%E5%9F%8E/dp/B000J9FK7A

2021-08-28

anond:20210827110912

てか、他所の国だと大使館員って残るもんなのかな。

今回いったん出かけたイタリー大使館員が再び舞い戻って協力者の脱獄支援にあたったとかで、かっけえな、とは思ったけど。

大使館員・外交官が真っ先に逃げるのは文官とか役人から当然かと思ってた。

2021-07-29

東京裁判被告人一覧

死刑

東条英機

 近衛内閣陸相を務め、東条内閣では首相陸相、内相を兼任米国宣戦布告したが、サイパン島陥落の責任を取って辞任した。

板垣征四郎

 陸軍軍人関東軍参謀として満州事変を起こす。近衛・平沼内閣では陸相を務め、大戦中はシナ派遣軍総参謀長に就任した。

土肥原賢二

 陸軍大将満州国建国華北分離工作において中心的役割を果たした。

松井石根

 陸軍大将南京大虐殺責任を問われた。

木村兵太郎

 陸軍軍人。東条内閣陸軍次官を務めた。ビルマの戦いでは総司令官でありながら、無断で戦線放棄し、日本軍を大混乱に陥らせたにも関わらず大将に昇進した。三奸四愚の一人とされた東條の側近。

武藤章

 陸軍中将。東條の腰巾着として日米開戦の中心的役割を果たした。

広田弘毅

 文官岡田内閣外相を務め、広田三原則を決定し、華北分離工作を黙認した。二・二六事件首相となり、軍部大臣現役武官制を復活した。近衛内閣では外相を務め、日中開戦を黙認した。

終身刑

小磯国昭

 陸軍大将。米内内閣での拓相ほか、朝鮮総督を務めた。東條の辞任後首相就任し、戦争継続した。

荒木貞夫

 陸軍大将。犬養、斉藤内閣陸相を務めた。皇道派代表格であったため、二・二六事件予備役送りになった。近衛・平沼内閣では文相を務め、軍国主義教育を推進した。

梅津美治郎

 陸軍大将シナ駐屯軍司令官として梅津・何応欽協定中国要求した。陸軍次官関東軍司令官を務めた。ミズーリ号での降伏文書に調印した。

南次郎

 陸軍大将若槻内閣陸相として満州事変を起こした。関東軍総司令官朝鮮総督を務め、内鮮一体化を推進した。

畑俊六

 陸軍大将阿部・米内内閣陸相を務めたが、辞職して米内内閣を打倒し、近衛内閣誕生させた。シナ派遣軍総司令を務めた。

大島浩

 陸軍中将ドイツ大使館付き武官として日独防共協定の締結、駐独大使として日独伊三国同盟の締結に貢献した。

鈴木貞一

 陸軍中将。近衛・東条内閣企画院総裁内閣経済顧問などを務め、戦時経済確立に貢献した。三奸四愚の一人。

佐藤賢了

 陸軍中将。東条内閣では陸軍省軍務局長を務めた。三奸四愚の一人。

橋本欣五郎

 陸軍大佐。急進派将校を集めて秘密結社桜会」を結成、三月事件十月事件企画するも失敗。

嶋田太郎

 海軍大将。東条内閣での海相軍令部総長を務めた。

岡敬純

 海軍中将。対米開戦を強硬に主張した。戦時中海軍次官就任

平沼騏一郎

 山本内閣法相を務めた。右翼結社国本社を結成。近衛の後を継いで首相就任したが、独ソ不可侵条約が結ばれると辞職した。

木戸幸一

 近衛内閣の文相、厚相、平沼内閣の内相を務めた。天皇の側近として東條を首相に推薦したが、戦局が不利になると、和平工作に奔走した。

賀屋興宣

 近衛・東条内閣大蔵大臣を務め、戦時財政を担った。

星野直樹

 満州国国務院総務長官、近衛内閣企画院総裁を務めた。東条内閣では内閣書記官長として東條を支えた。

白鳥敏夫

 スウェーデン公使として、日独伊三国同盟締結に貢献した。

懲役20

東郷茂徳

 東条内閣外相、拓相を務め、太平洋戦争回避に尽力。鈴木内閣では外相、大東亜相を務め、終戦に尽くした。にも関わらず日米開戦責任者とされた。

懲役5年

重光葵

 東條・小磯内閣外相を務めた。降伏文書に調印した。

免訴

永野修身

 海軍大将広田内閣海相を務め、その後、連合艦隊司令長官軍令部総長歴任し、戦時中元帥就任した。裁判中に急性肺炎で死去した。

松岡洋右

 ジュネーブ国連会議全権大使として出席し、国連から脱退した。近衛内閣では外相を務め、日独伊三国同盟、日ソ不可侵条約を締結した。裁判中に結核で死去した。

大川周明

 学者満州事変二・二六事件五・一五事件などに連座したほか、「日本二千六百年史」「近世欧羅巴植民史」などを執筆し、軍国主義を主張した。裁判梅毒による精神異常のため免訴された。

その他

本庄

 陸軍大将関東軍司令官として満州事変承認戦後戦犯指名されたが自決した。

石原莞爾

 陸軍軍人関東軍参謀として満州事変を起こした。日米開戦に反対し、東条英機対立したため予備役編入された。東條との対立、重病のため起訴を免れた。

近衛文麿

 第一内閣では日中戦争が勃発、近衛声明を発表した。第二次内閣では日独伊三国同盟を締結。戦犯指名されたが、服毒自殺した。

2021-06-15

anond:20210615140632

文官よりもsengoku38みたいな武官のほうがずっと強いし

武官にすごまれれば文官国民も怖くなって従う以外の選択肢はなくなる

リードって言うが小銃を持った兵隊がたくさんいるのを武力を持たない人間がどうやってリードするんだよ

裁判所だって自衛隊海保より弱いぞ

2021-05-17

anond:20210517182357

文系日本国政府を牛耳っているし

古代から文官が偉い国で科学者軍人二の次

何とか理論を知らないわけない

国民支配し甘い汁を吸うことに関係いからその理論採用されないだけ

2021-05-08

anond:20210508100330

逆におもしろそう

文官から

武断派の清正公とか福島正則はいつも叫んでそう

信玄とか家康はマジメなことばかりかいてるからまらなく思われるけど一句一句に含蓄がありそう

2021-03-27

anond:20210327201637

余計なことは考えるな。

軍人はただ文官命令にしたがっていれば良い。

国の在り方に異を唱えてクーデターとかまかりならん。

2021-02-14

anond:20210213224828

戦闘中敬礼する奴が居るかよw

ついでに言うと、戦闘中じゃなくてもお辞儀するよりは敬礼する方がスキが少なくてマシだからお辞儀じゃなくて敬礼するんだよ。(一方、文官お辞儀

2021-01-23

学者は変な人でも学力が高ければOKだろうに、格好良さで選ぶから日本沈没したのでは

コメント欄を見ていてかなり気になる

たいがいアメリカゾンビ映画とかでも出てくる学者は薄気味悪かったり変な人が多い

世界中学者はそんな扱いで

でも頭が良くて成果が出てればそれでいいのでは

しょせん学者文官から何か国家転覆的なことができるわけでもない

世間から見た評価学者を選別することにデメリットしか感じない

https://news.yahoo.co.jp/articles/d3f692ef3bbc96ee79420b04c6ffd6af44514ea1?page=2

侮辱罪だ! 謝罪させろ!」逮捕された“マスク拒否おじさん”は東大出身研究者だった《捜査相手に大暴れ》

2020-12-05

anond:20201205140534

文官の人もそれなりに体は鍛えるんじゃなかったっけ

入隊からずっと毎日ポテチ食べてるような生活はできないのでは

2020-10-20

武官ウイルス感染すると武官になります

文官ウイルス感染すると文官になります

武官ウイルス文官ウイルスの両方に感染するとほとんどの人は苦しんで死にますが耐え抜いた者は英傑になります

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