はてなキーワード: 証左とは
ハイキューが最終回を迎えた際、Twitterで感想を漁っていたら、「なんでバレーしてるだけなのにこんなに泣けるんだろう」というファンの投稿が目に入った。自分はハイキューで泣けるほどの感受性はとうに持ち合わせてなかったが、そこから数えて24年前にほとんど同じ気持ちを味わっていた。
井上雄彦の作品に通底するのは徹底したリアリズムである。彼が本作で行ったのは、本気でバスケットボールに挑む人間の思考と感情をつまびらかにするだけで面白くなるということの証明と、人気が出なかった時のため不良路線でも行けるような作風を選んだことだけである(当時バスケットボールがマイナースポーツであったことに留意したい)。この結果、フンフンディフェンスを除くあらゆる要素が後世のスポーツマンガにリアリティの基準点をもたらすこととなった。
桜木花道がバスケットマンに変貌するたった4ヶ月の物語は、命のやりとりや世界が終わることよりも一本のシュートの成否の方が遥かに切実で重要な問題になりうることを、今なお我々に伝えている。
講談社は1970年代末期には後発のジャンプにマンガ業界の盟主の地位を明け渡しているわけだが、それを奪い返す最大のチャンスが90年代後半に訪れた。DB幽白スラダンといった作品が終了した暗黒期のジャンプを、金田一はじめの一歩GTOを擁するマガジンは苛烈に追い上げ、ついには発行部数で逆転したのである。
その中で強引に看板作品に祭り上げられ、ジャンプの屋台骨を支えることになったのが本作だ。後に和月伸宏は「次につなげたい」という気持ちで描いていたと語っている。明治という激動の時代の中で不殺の剣士・剣心が刀を交える相手は、旧時代に未練を持つ者や、新しい時代の荒波に飲み込まれた者たちであった。黄金期と暗黒期の狭間で奮闘した本作のありようは、皮肉にもそこに重なって映る。
ワンピナルトが出てくるまでを空白期間にせず、少年マンガ誌の代表というジャンプのアイデンティティを守りぬいたのは同時代の誰も比肩できない功績だ(幕張や封神演義やBOYSにこの役割を代替できたか考えてみてほしい)。現代のジャンプ読者はもっと、もっと本作に感謝すべきだと、佐藤健の超人的なワイヤーアクションを眺めながら思うのである。
連載終盤、もはや燃え尽きる寸前だったといううすた京介は後年、「マサルさんはシュールではなく、ベタをシュールに見せていただけ」と語っている。自分を含め、多くの読者は同意しかねるだろう。彼が未来永劫に参照点となりうる新たなベタを作り上げたことに疑いの余地はないからだ。
本作はギャグマンガでやってもいいことの範囲を大幅に拡大した。キャラクターの行動原理なんてなくていい。話の展開は唐突でいい。絵柄は毎ページ変わっていいし上手くなくていい。読者が知らなさそうなパロディだって入れてよいのである。現代の観点では至極当然と思える要素を2年弱、全7巻に惜しげもなく詰め込んだ。
彼の次回作(ピューと吹く!ジャガー)ですらも、ついにその革新性を更新することはなかった。90年代にうすたに憧れ新人賞に応募した有象無象のワナビー達も誰一人として出来なかったことを考えれば少しは気が休まるだろうけども。
闇の人格を持つ主人公によるダークヒーローものというコンセプトで始まった本作は、ほどなくしてマジック&ウィザーズという架空のTCGを中心にした物語に変化した。この変化が、数十枚の紙束を並べる行為を、玩具・ゲーム業界において最も存在感のあるエキサイティングな遊びに位置付けることになる。
コナミでは社内の遊戯王関連の部署をしばしば「造幣局」と呼ぶそうだが、紙を刷って売上1兆円に到達するコンテンツなど他に存在しないことの証左である。こうした状況に、高橋和希の優れたキャラクターデザイン、ストーリー構成が大きく貢献したのは言うまでもない。ゲームが友情を育むツールになりうると示し、メディアミックスの力を世に知らしめた功績は間違いなく彼のものだ。
世界で最も多く発行された単一作者によるマンガ作品について何か語るべきことがあるだろうか?まだ言及すべき余白が。本作のように自然にカテゴライズを避ける作品というのは極めて少ない。友情、夢、自由、強さという最もありふれたテーマに挑み、ついにそのすべてを超然と飲み込み描き切ろうとする本作を何らかの箱に入れて理解するのは難しい試みに思える。
毎週月曜日にワンピを読んで喧々諤々と考察できる世界に我々は慣れ切ってしまった。30年間マンガ業界の頂点に君臨する男がいるという現実に。一定の年代以上の人間にとって、本作の終わりがジャンプという雑誌の終焉に見える人がいても無理のないことだ(今ワンピの次に長寿連載しているのはハンタを除けば2019年連載開始の夜桜さんである!)。ルフィと尾田栄一郎という二人の男の、幼少期から練り上げた夢の果てを世界中が見届けようとしているのだ。我々がこうした光景にふたたび立ち会えるかは疑わしい。
幽白は極めて質の高い作品でありながら、冨樫義博が抱える巨大なアイデアの数々を収めきれた作品ではなかった。それでも仙水編と、その後に異例の月一で掲載されたレベルEで前人未踏の領域に踏み込んだ彼は、自身4作品目の連載においても既視感のある展開とご都合主義を執拗なまでに避け続けた。彼の描くキャラクター達は自身が取れる最善の選択を積み上げた末に、我々が期待する最善以上のドラマを生み出す。幾度もの休載を挟みながら。
「今週の『HUNTER×HUNTER』は休載いたします」の表記(今はこれすらなくなったが)を昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ平常心で見られるようになってもなお、自分に限ってはこんな感じであった───「HUNTER×HUNTERの最終回を読める可能性があるというだけで、どんなクソみたいな人生でも生きる理由が生じる」
いまや冨樫は少しずつ体調を取り戻し、我々は一時期とは比べ物にならないほどコンスタントに彼の創り出す世界に触れることができる。何百何千もの作品がジャンプにおいて連載され、本作に近い作品、それ以上のものを期待し続けてきたが、その度に彼の偉大さを突き付けられるだけなのだろう。
前例のないテニスマンガでの成功、女性読者の流入、クールで生意気で強い主人公像、菊丸が分身して以降のテニヌ...といった誌面上で読み取れる新規性だけでは、本作のもたらした文化のごくごく一部しか語りえない。
1000曲近いキャラソン、出役としての役割を求められる声優たち、2.5次元文化の源流かつ若手俳優の登竜門としてのテニミュ...現代における狭義のオタク文化の根を辿れば、必ずテニプリが残した功績にぶち当たる。「推し」という文化が、人間を描くあらゆるコンテンツに侵食して久しいが、許斐剛が生み出した世界は、ジャンプで築き上げられたあらゆるファンダムの中でもっとも複雑で永続的な強度を保ち続ける、史上最も「推す」に値する文化であり続けている。
すみませんほんとに書くことが思い浮かびませんでしたでも世界的にマンガ文化を広めた功績は鳥山に並ぶと思ってますマジで
あまりに多くの言及がこの作品になされ、そのどれもが口をそろえて言う。「描き分けが上手い...絵の引き算が上手い...ルビ振りのセンス...久保帯人は中二病...ストーリーが薄い...」これらすべてはもちろん真実だ。
連載中、ワンピナルトブリーチの三枚看板の最後尾というポジションが崩れることは一度もなかった。果たしてこの評価が妥当だったのかは分からないが、少なくとも我々ネット民は久保帯人のセンスをバカにし過ぎたことに対し大いに反省すべきところがあるのではないだろうか。海賊、忍者のような明確なモデルがいないのに、久保帯人はどうしてあれほどまでに洒落たキャラクターとセリフ回しを無尽蔵に生み出せたのか、系統立てて説明できる理屈は未だ見つからない。もしその答えが彼の脳内にしかないとするならば、我々は本作を源流に大いなる歴史が作られていく可能性を認めなくてはならないだろう。
デスノートという作品は複数の点で極めて例外的な成功を収めた。肉体的攻撃を伴わない心理戦、一切の引き伸ばしをしない、公権力、宗教的崇拝、欠点の無い主人公、ゴシック的キャラ造形、ダークヒーロー、死亡エンド...
本作に散りばめられたこれらの要素は、すべて従来のジャンプ漫画では邪道、あるいは不要とみなされてきた要素であった。このような野心的な作品がメディアミックスにおいても成功を収め、国民の誰もが知る作品となったのは驚異的だ。この作品が出たことは心理戦を描こうとする後世のマンガ家にとっては悲劇かもしれない。夜神月ほど賢く、悪どく、魅力的なキャラクターを矛盾なく作れる人間は大場つぐみくらいしかいないのだから。
2010年代にジャンプを購読していた人間はみな共通してうすぼんやりとした不安を抱えていた。「ワンピの連載終わったらジャンプってオワコンじゃね?」
ジャンプの終わりという、週刊少年マンガ誌という形態の終わりと同義に思える未来を避けるべく、集英社は読者以上に血眼になって後継者を探し求めた。しかし我々の期待も空しく、トリコ暗殺教室ヒロアカソーマブラクロ約ネバドクスト呪術といった平成末期の傑作たちすらも、尾田栄一郎が築き上げた領域には辿り着けなかったように見えた───ただ一つの例外を除いては。
「家族、友人への愛」「困難を乗り越える強さ」という普遍的なテーマにフォーカスした吾峠呼世晴の連載デビュー作は、あらゆる世代へ届く成功を収めた。特に、劇場版『無限列車編』は社会現象化し、国内の興行収入1位を達成するなど、経済的にも文化的にも大きなインパクトを残すことになった。
出版業界の衰退、コロナ禍、趣味の多様化といった逆境の中で、マンガが世界的なムーブメントを引き起こすことがまだ可能であると証明した本作は、令和を生きる日本人の心象風景に残る新たな「国民的マンガ」として、時代に選ばれたのだ。
ひとりのスターの存在がプラットフォームの価値を定義することは古今ジャンルを問わずあることだ。ダウンタウンの登場がお笑い養成所という存在をメジャーにしたように、米津玄師の登場がニコ動の文化をオーバーグラウンドなものにしたように。
2014年に創立したジャンプ+というプラットフォームの目的である「紙とデジタルの垣根をなくし才能を育てること」が名実ともに達成されたのはいつだったのか?それは初めて本誌とジャンプ+両方でスターとなった人間の登場によって定義付けられる。
かつて秋田の片田舎から新都社に「長門は俺だ」という名前で投稿していた少年は、その衝撃的なストーリー展開で我々を魅了する存在となった。ファイアパンチ以降、ジャンブ+はあらゆるWebコミックサイト、いや雑誌を含め、もっとも野心的な作品を読める場所のひとつとして認知されるようになった。
藤本タツキの本誌への到着は新たな才能の鉱脈をインターネットに求める時代の始まりを告げ、媒体の違いというものがマンガの面白さになんら本質的な影響を及ぼすことはないという事実を我々に突き付けたのだった。
歩道がないようなちょっと狭い道路を歩いている時、すれ違う相手が車道側に避けないことがいつも納得がいかない。
例えば道路の左側を歩いている時、自分から見て相手の右側を通るということは車が走る側に避けるということになる。
それって当たり前にそれだけ危ないわけで、なんで他人のために自分を危険にさらさないといけないのかということに納得ができない。
それでも駅とかで左側通行が多いからか、都内で歩道を歩く限りでは左側通行の歩行者のほうが圧倒的に多い。
かといって自分が右側通行すれば車道側に避けないで済むかというとそれも別。
もちろんぶつかるのは嫌だから自分から避けるのだけど、こちらが避ける仕草を見せないと歩道側の建物にへばりつくんじゃないかの勢いで避けたりする。
これって自分がぶつかりおじさん認定されてるんだろうなって思うのだけど、それも到底納得ができない。
あほか。
一度、子どもと女性とがすれ違うときにどうするのかを見てたことがあるけど、当たり前に女性が歩道側に避けて子どもが車道側に出てすれ違ってた。
これはどうやって説明するのだろうね。
男性もそうだというならそんなことはない。現に自分は車道側に避けてるし、男性同士ですれ違うときは大体5:5ですれ違えている。
でも、若い女性や年頃の女性がアラフィフ男性より弱者ってことはないですよね。
なんであなた方は当たり前のように「守られる側」の態度を未だに取っているんですか?
それってもしかして、自分が歩道側を歩く権利が優先されるって勘違いしてるからじゃないですか?
それでいて避けない側がぶつかりおじさん認定されるのは、流石に見えてる風景が違いすぎるよ。
この間なんて、母親が子ども二人つれて横一列で歩いてきて、流石にそれを避けるのはないだろうってまっすぐ歩いていったら今度は守るような仕草で子ども達を歩道側に寄せてこっちを睨んできやがった。
いやー、それは流石に睨み返すよ。
狂ってるのはお前の躾だからね。
最近はこいつら全員頭がいかれてるんだなって思っていながら譲ってるから精神的には安定してるけど、それってもう相手を自立した人間だとは認めてないってことなんだよね。
もうChatGPTだけでええやん
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2453448
事実誤認: 中国は確実に他国との戦争や衝突に備えている国です。中国の軍事戦略には、国防の強化や領土の保全だけでなく、台湾問題や南シナ海における領有権主張など、他国との潜在的な紛争に備えた行動が含まれています。近年では、海軍力や空軍力を急速に強化しており、特に米国との対立やインドとの国境紛争、台湾問題に関する戦略が注目されています。軍事ドクトリンや装備の近代化を見ても、他国との戦争を「考えていない」というのは不正確です。
論理的な問題: 文章では、中国が他国からの侵略に備えていないと述べていますが、これは現実と異なります。中国は長い国境線を持つ国であり、特に米国やインドなどの大国との緊張が続いています。そのため、軍備は侵略に対する備えを含んでおり、特に核抑止力や大量の陸上兵力を持つことはその証左です。また、近年の海軍や空軍の近代化や、南シナ海での人工島建設による防衛拠点の強化は、侵略への備えとして評価されるべきです。
事実誤認: 中国は2013年に防空識別圏(ADIZ)を設定しました。これは尖閣諸島を含む広範囲をカバーしており、軍事的なプレゼンスを誇示するためのものです。文中では「中国は防空識別圏に対して何の対応も取らなかった」とありますが、これは不正確です。中国は確かに防空識別圏に関して初期の段階で強制的な対応を取らなかったものの、その後、米軍や自衛隊の動きを監視し、警告を発するなどの活動を行っています。また、防空識別圏は国際法上の法的拘束力があるものではなく、各国が自ら設定し、その管理に関しては自主的に行うものであるため、中国が防空識別圏に対して必ずしも強制的な行動を取らなかったとしても、それをもって「備えていない」とするのは誤解です。
論理的な問題: 文中では中国軍が「ショボい」という表現が使われていますが、これは誤解を招く表現です。中国は世界第2位の軍事予算を持ち、その軍事力は量・質ともに強化されています。特に海軍や空軍の近代化が進んでおり、アメリカに次ぐ規模の軍事力を誇ります。米中シミュレーションでは、中国が苦戦するケースもありますが、その理由は単に「備えていない」からではなく、アメリカの軍事力が極めて強力であることや、米国の同盟国が関与するためです。また、戦争シミュレーションは多くの仮定に基づいており、状況次第では結果が大きく異なることもあります。
論理的な問題: 「かつて本邦に侵略された過去から非難はするが、自衛隊や米軍による攻撃や上陸侵攻に備えていない」という主張は、過去の出来事を基に中国の現代軍事政策を論じるには不適切です。歴史的な侵略の経験は確かに重要ですが、それをもって現代の軍事戦略を全面的に評価するのは誤りです。現代の中国は、アジアにおける自国の影響力を強化し、米国を含む他国の軍事力に対抗するために軍備を拡張し続けています。
事実誤認: 中国は台湾侵攻を想定した軍備を整えており、上陸作戦を含む戦略的計画を策定しています。上陸作戦には強襲揚陸艦やエアクッション揚陸艇(LCAC)などの艦艇が必要ですが、中国はここ数年で急速にこれらの装備を増強しています。さらに、中国人民解放軍海軍(PLAN)は大規模な海軍力の近代化を進めており、特に南シナ海や台湾海峡周辺での作戦能力を高めています。「上陸用装備が充実していない」というのは、現状と矛盾する見解です。
また、中国は「民間船を徴用する」というアイデアを採用していますが、これは近代的な軍事戦略の一環で、民間船舶の利用を補完的な輸送手段として計画的に取り入れています。単に「呑気なこと」を言っているわけではなく、現代のハイブリッド戦争や多領域作戦の中で、物流や兵員輸送の多様化は非常に重要な戦術的要素です。
事実誤認: 装備の充足に関して「2040年までかかる」という主張は過度に楽観的・悲観的な予測に基づいています。中国は現在も大規模な軍拡を行っており、特に海軍や空軍においては着実に能力を向上させています。既に計画されている装備の多くは、今後数年以内に配備が進むと考えられます。2040年という時間枠は根拠が不明であり、過剰な遅れを想定する根拠も明確ではありません。
事実誤認: 中国の核戦力に関する情報は、機密性が高く、正確な公開情報は限られています。ただし、中国は「核兵器は報復のためにのみ使用する」という「最小限の抑止力(minimum deterrence)」政策を掲げており、その一環として核弾頭と運搬手段(ミサイル)の分離を行っているとされています。しかし、これは抑止力を放棄するという意味ではありません。むしろ、抑止力を維持しながらも、偶発的な核使用を避けるための慎重な管理手法です。
中国の戦略は、核兵器の即応配備を避けることで、緊張が高まった時の危険を最小限に抑える一方、必要な場合には迅速に対応できる能力を持つというものです。この戦略は他の核保有国とは異なるが、独自の合理性を持っています。「抑止力を放棄している」という主張は中国の核戦略を誤解しています。
事実誤認: IAEA(国際原子力機関)は、核エネルギーの平和利用を監視する機関であり、核兵器の使用に関する規定は定めていません。核兵器使用に関する国際規範としては、核兵器不拡散条約(NPT)があり、その中で核兵器の使用に関する制約が議論されています。中国は「先制不使用(No First Use)」の政策を採用しており、これは「核兵器を先に使用しない」という宣言です。この政策のもと、中国は他国から核攻撃を受けた場合にのみ核兵器を使用することを明確にしています。この政策が「不備」と捉えられるかどうかは、戦略的な見解の違いによります。
論理的な問題: 文中で「正直それまで中国経済持ってるの?」という懸念が表明されていますが、これは現在の中国の経済状況に基づく明確な根拠が不足しています。中国経済は現在、成長の鈍化や不動産バブルのリスクなど、いくつかの課題に直面していますが、軍事予算の増加や軍備の近代化がすぐに停止する兆候は見られません。経済的な持続性の議論は、軍事力の評価とは別に慎重に議論されるべきです。
全体的に見ると、この文章は中国の軍事力を過小評価し、誤解を招く論点がいくつか含まれています。
事実や論理に基づいた議論が不足しており、感情的・主観的な見解に基づいている部分が多いため、より客観的な視点から再評価する必要があります。
ただの事実確認の会話の取っ掛かりは幼児が「わんわんだ!」と言ってるのと同じ会話の次元でこっちは相手を幼児と思ってないから「そうだねわんわんだねぇ」とは返しにくいときがあるのだな。
幼児に「まだごはん来てないねぇ」と言われたら「そうだねまだ来てないねぇ」となるより「お店の人も忙しいんからもうちょっと待とうね」や「お店の人に確認しようねぇ」になると思うから大人同士の会話でお母さんさせないで欲しいんだよな。まぁ私もゼロではないから自戒なんですけど。
事実確認の話の取っ掛かり、よっぽど馬か波長の合う親しい人かほぼほぼ初対面の鸚鵡返し会話じゃないと成り立たない種類では。
事実確認の話の取っ掛かりは相手に話の主導権の全幅を委ねてパスしてるので、幼児ならともかく意思のある大人だと相手の意志が読みにくいのでよほど仲が良くないと上手くパスを受け取れない。という相手との仲と会話の距離感を掴めずにパターン化された会話を押し通しているという証左になってしまう。
現代社会において蔓延する「推し活」という愚行は、人間の知性を著しく貶める行為であり、その愚かさは計り知れない。自らの人生の主人公たるべき者が、他者を盲目的に崇拝し、その存在に心酔するさまは、まさに愚者の極みと言わざるを得ない。
推し活に没頭する者たちは、自らの存在意義を完全に見失っている。彼らは自身の人生という舞台で、主役を演じるべき立場にありながら、その座を他人に明け渡し、脇役どころか、単なる観客として自らを位置づけている。これほど悲惨な自己放棄はない。自分の人生の主人公は他ならぬ自分自身であるという、この至極当然の事実を忘れ去った彼らの姿は、まさに現代の阿呆絵図と言えよう。
推し活に熱中する者たちは、特定の人物やキャラクターを神格化し、盲目的に崇拝する。この行為は、理性的思考を完全に放棄した証左であり、知性の欠如を如実に示している。彼らは自らの判断力や批評能力を捨て去り、ただひたすらに「推し」と呼ばれる対象を賛美し続ける。この姿勢は、まるで中世の狂信的な宗教崇拝者のようであり、現代の教育を受けた人間のすることとは思えない。
推し活に費やされる膨大な時間と金銭は、まさに愚行の極みである。人生の貴重な時間を、他人の姿を眺めることに費やし、稼いだ金の大半を「推し」のグッズや関連商品に注ぎ込む。この行為は、自己投資や自己啓発の機会を完全に無視し、自らの成長や発展を放棄するものだ。時間と金銭という限りある資源を、このような無意味な活動に浪費することは、まさに愚者の所業と言わざるを得ない。
推し活は、現実逃避の一形態に過ぎない。自らの人生に向き合うことを恐れ、現実世界での挫折や困難から目を背け、架空の世界や他人の人生に没頭する。これは精神的な弱さの表れであり、社会人としての責任を放棄する行為だ。現実世界での自己実現や人間関係の構築を避け、空想の世界に逃げ込むことは、人格の成熟を著しく阻害する。
推し活に没頭する者は、社会的な影響力を持つ機会を自ら放棄している。自らの意見や考えを持つことなく、「推し」の言動をただ模倣し、その価値観を無批判に受け入れる。これでは、社会を変革する力を持つことは不可能だ。真に社会に貢献し、影響を与えるためには、自らの思考と行動が不可欠である。推し活は、この可能性を完全に潰してしまう。
推し活は、人間の尊厳を著しく損なう愚かな行為である。自らの人生の主人公であることを放棄し、他者を盲目的に崇拝することは、知性と理性を持つ人間として、あってはならない行為だ。真に賢明な者は、自らの人生に真摯に向き合い、自己実現と社会貢献を目指すべきである。推し活に溺れることなく、自らの人生の舵を自らの手で取り、主体的に生きることこそが、人間としての真の価値を示すのだ。
『弱い人はずるい』
そのような感覚を一生涯拗らせて生きていくような気がする。
まぁ片親ではあるんだけど、シンプルにこのような人になりたいと素直に吐ける位には母親のこと尊敬してるし好きだし、祖父母も若いから幼い頃はしょっちゅう送り迎えだのしてもらったし、現在進行形で実家であったかい世話を受けながらぬくぬくと生活している。
友人もいるし、なんだったら恋人までいる。めちゃくちゃ順風満帆な生活してるし、仕事もまぁブラック寄りではあるけど世を嘆くほどじゃない。いや世の中はメチャクチャなんだけど、私には、なとりとキタニタツヤと米津玄師がついてるし。
なのに、弱い人は常々ずるいなぁと思ってしまうのだ。
私は恵まれてる。あったかい家の中で、優しさに包まれて生きてきた。
弱い人は、悲惨だ。
寒空の下とまでは行かなくても、親同士が仲が悪いとか、徹底的な監視下の元の教育とか、さぞかし生きづらくて生きづらくて生きづらくてしょうがないような家庭環境で生き抜いてきたんだろう。私には想像もつかない。だって、私は不幸で哀れな人間だなんて口が裂けても言えないくらいには恵まれてるから。
ないものねだりなのはわかってる。私のこの強さとズルさが恵まれて生きてきた幸福な人間の暴力なんだってわかってる。わかってても。
弱いからって他人に甘えて他人を食い物にするその姿が羨ましい。
弱いから特別に配慮してもらうのを当然の顔して受け取るその態度が羨ましい。
弱いから、守ってもらえるのが、すごく羨ましい。
他人の助けを借りなくても1人でなんとかしようとしてなんとかなったりするし、眠剤に頼らなくても夜は眠れるし、精神安定剤なんてなくても仕事に行けるし、働けるし、頑張れる。
だから、弱い人が守ってもらってる姿を見ると許せなくなってしまう。なんで、私は頑張ってるのにお前は頑張らないんだって思ってしまう。口には出さない。だって私とお前は違う人間だから。それぞれに違うものを抱えて生きてきて、お前の方が大変なんだろうことは目に見えてるから。
思ってしまうのが嫌だ。
それで、弱いのはずるいって思考になって行ってしまう自分の幼稚さと暴力性が嫌だ。
弱い人間が溢れかえるこの世の中で、自分の加虐性を抑えながら生きていくの、しんどいよ。
みんな強くなってよ。弱いところばっかり見せないで。言いがかりをつけて、追い詰めて、快感に酔いしれて、悪びれもなく開き直っていたい。
ここからは懺悔なんだけど、実際、友達に自分の中の暴力性を大いに奮ってしまって10年来の友人を3人ほど無くした。それに寂しがってしまう自分がいるのがとんでもなく悍ましい人間であることの証左すぎてマジでつらい。
いじめの加害者なんて人生ぶっ壊れて当たり前って論調の世の中で、私が生きていける余地なんてない。
弱い人間は、ずるい。
どんどんと数を増やして、マイノリティになっていく。多数派の暴力で殴っていることに気づかないままずっと不幸せそうな顔して人生を謳歌するんだろう。
早く、それになりたい。
んんwwww増田氏、高校生にして模試が簡単すぎるとは、誇らしいことですなwwwしかし、相手のレベルを見誤るのは考えものですぞwww
ベネッセ駿台共通テスト模試が簡単すぎるということは、増田氏が真に実力者であることを示す証左かもしれませんが、それに気を緩めずさらなる高みを目指すのが賢明ですぞwww量より質、模試の結果に慢心せず、自分の弱点を洗い出して対策を練ることが肝要ですなwww
そして、表紙のキャラクターがうざいと感じるとは、増田氏も世俗の煩わしさに敏感ですなwwwしかし、これもまた試練の一環ですぞwww目指すべきは、どんな小さなことにも動じず、自分の信ずる道を貫く精神力を養うことですぞwww五感を超越する一訓練として捉えてみてはいかがでしょうかなwww
これ、日本人の99%は知らないけど、たぶん鉄オタの間では有名なんだろうね。
俺はこの年になるまで知らんかったよ。
いや、実際に山手線に乗って、一周したもん! と思ったけど、不可能なんだよね。
いやー、マジで知らんかった。
でも【真実】なんて大半にの日本人にとってはどうでもいい、ってことの証左だとも思うわ。
解説は他の人に任せた。
これ、屁理屈とかじゃなくて本当にそうなんよ。「そうともいえる」とかじゃなくて。
環状線みたいなもんだよね、が真実で、だから「山手線」なんだねっていう。
ネットじゃすぐに答え出てくるし、辞書にも環状線の例は「大阪環状線」しか出てこないけど、
ほとんどの人が「デマ」の方を信じてる場合ってコミュニケーション難しいよね。
貧困支援でも難民問題でも歴史問題でも裏金でも政治の話題でも知識の差があると会話は成り立たない。
東京環状線なんてものは存在しないし、山手線に乗ってるつもりの人の大半はJRの嘘に騙されてる。
反日左翼や活動家が景品表示法違反とかでJRを訴えて裁判したりしないのかな?? 羊頭狗肉やん。
これってトリビアになりませんか?
議論がとっ散らかってるけど、この四つを許容するのならアリだし、どれか一つでも許容できないのならナシ。もちろんそれぞれ独立してるわけじゃなく相互に絡み合ってるけどね。
民間企業の行うものは差別ではないとするもの。レディースデーや保険料など。
当然、採用や給与で差異を設けることを含みうる。(辞める可能性が高いから採用しない、という判断を認めるか)
スポーツの男女分けや医大の男性優遇合格枠(事前に公表すること前提だが)はここ。
加えてその一に絡むけど企業の採用や給与、保険料はここにも該当する。
差別されている側(女性)が利益を得るものだからアリとするもの。アファーマティブアクションなど。学割も学生の所得が低いことを理由とするならここか。
実はスポーツの男女分けも元々はここに入る。
同等の権利の主体(正確には意志能力)とみなされていないので差異を設けて良いとするもの。子供割引など。
例示を見てもらえばわかるが明らかに程度問題なことがわかる。(自民党が「差別」を「不当な差別」と書き換えたときは批判一色だったが妥当な書き換えだったと思う)
そして、スポーツを除いて、性別による差異を設けることってのは世論として認められにくくなってる感覚がある。
女性枠(アファーマティブアクション)も時代遅れになりつつあるしね、時代遅れになってから採用するのがいかにも日本的。
合法だろうが差別はダメだし、そうやって社会運動は進んできたはずだ。
アホなブコメがあったので
保険料、特に自動車保険に代表される損保は一応統計的裏付けがあることになってるのを知らないって言うのはさすがに増田が適当に書いているだけって言う証左(´・_・`)恥ずかしい
そんなことはない? いや、ある。
すべて人間は、「意識してカネ/権力以外の価値観を持たなければ拝金主義/権威主義になる」のである。
「カネより大事なもの」「権威より尊重するもの」があるということである。
「コスパを度外視しても未来に投資する」「権威に逆らってでも弱者を守る」こういうことは、洗練された強い価値観を持たないと実行できないことだ。
日本人は「なんとなく平和主義」で「なんとなく自由主義」だが、「なんとなく」にすぎないので、カネと権威の強い圧力があるとあっさり屈してしまう。
拝金主義、権威主義であるためには強い主義主張を持つ必要はない。むしろ、ただ意志が弱ければ当たり前にそっちに流れるのである。
カネと権威の圧力を前にしても「平和」「思いやり」「自由を愛するこころ」を貫くためにこそ、普段からの強い意識が必要なのである。
よって、普段からきちんとものごとを議論せず、言語化できず、価値観をしっかり持たない日本人は、消去法的拝金主義、消去法的権威主義が他のどの国どの民族よりも強いという結果に至るのである。
強い価値観を持たないすべての日本人は、消去法的拝金主義者であり、消去法的権威主義者である。
日本人が「なんとなくの平和主義者/自由主義者」でしかないこの現状が続く限り、日本はどこまでも新自由主義かつ全体主義の最低国家への転落に歯止めが利かなくなるだろう。
こういうのって女は本当に頭が悪いんだということの証左にしかならんからマジでやめたほうがいいと思うのよね。
punkgame 2024/09/01 02:40
これは本当に言いたいことを隠しているのでこのような不自然な書き方になるのです。
仮に「入試で低い点を取ると東大に落ちてしまうからマジでやめたほうがいい」と子供に言ったとして、子供は合格してくれるでしょうか。
「時速30kmで走って逃げないと死んでしまうからマジで早く走ったほうがいい」と仲間に言ったとして、仲間は生き延びられるでしょうか。
足が遅かったら不可能です。
同じことです。「女は本当に頭が悪いんだということの証左になってしまうからそういうことはマジでやめたほうがいい」などと言ったところで頭が悪い人にとっては無理難題です。
無理難題が解かれない限りは「女は本当に頭が悪いんだ」という結論を出すということなら、その結論はもうすでに出ています。
第二の欺瞞は、どうして「やめたほうがいい」などと心にもないことを言うのかということです。
あなたは「女は頭が悪い」という結論になると具体的になにか損をするのでしょうか。
しないでしょう。
でも、サベツはいけないという風潮にとらわれてしまったあなたは「女は頭が悪い」とそのまま口にすることに罪悪感があるので「私は『女は頭が悪い』だなんてサベツをしたくはない。でもあいつらにサベツをさせられている」と自分を騙すしかなくなってしまいました。
そして「やめたほうがいい」とアドバイスすることで善行を積んだ気分にもなれます。
「こういう人たちを見て、女は本当に頭が悪いんだと結論づけました」と素直に言うことから本当の対話は始まるのです。
brightsodaより
遅まきながらフワちゃんの件を知ってみているのだけれど、非常に混乱している。
フワちゃんのあれはイジりだいや裏アカ誤爆だと両者が両者それなりの規模居るみたい。やすこが悪い説までいくととても謎だ。
自分の主観ではあれをイジり芸とは受け取れず、(本人も言うように)裏でもリアル周囲にでもこっそりやろうとしたやつの誤爆だと思っている。
もう最近はテレビで芸人バラエティをガッツリ見ることは久しくなくて、フワちゃんすらGoogleのCMでしか存在を知らない程度の人間だけど、自分が子供のときと比べてすごくクリーンになっているのは感じる。
ダウンタウンの二人が古くてあたりがキツいなぁと感じるぐらいには感性が変わった。BPOのお叱りでいろんなことが自粛され、漫才で頭を叩くことすらもう消えそうだったと思う。
そんななか、最近?新たらしい新星のフワちゃんはクリーンな今の新時代の、さらに一歩先の変革を体現する存在、だと自分は認識している。実際に動いてるところを見たことが無いので風評になるが、そういうキャラだと思っている。失礼キャラ?に似せた新しいなにかだと。
そういう新世代のキャラがいまどきのテレビに出て、芸人として過ごす中で、「死んで」というワードを『芸人として』チョイスするかはとてもとてもとても疑問だ。
もちろん、やすこさんの「生きてるだけ」という言葉にかけて、という文脈を理解しておかなければならないが、それでもテレビ業界でのし上がってきた芸人のとっさでもない文章入力でこの辺の『危険な匂い』をいじり芸する前に気付けなかったのは不自然だ。
自分はフワちゃんを知らないが、今回の件で炎上するということは日常的に「死んで」というワードをフワちゃんがいじり芸の武器として使ってこなかったことの証左であると考える。イメージでも、今のテレビ番組で「いや死ねよ」なんてドギツイ突っ込みをしているのは、ダウンタウンなど古い世代を除いてイメージにない。
自分が学生のころは「いや死ねよ」と突っ込みする雰囲気はあった。多分してた。今の学生でもリアルではあるんだろう。でもテレビで「いや死ねよ」のイメージは、ない。「死んでください」だってフワちゃんの失礼キャラのイメージでも、ない。
テレビでしない・できない発言をラジオやネットやyoutubeでする、というのは確かにあるものの、フワちゃんがそういう発言をするキャラじゃないことはフワちゃんが一番分かっていると思う。見られ方・受け取られ方に鈍感なタレントは少ないだろうし、フワちゃんはさらに薄氷を踏むような道を駆け抜けるバランス感覚が武器な芸人だったはずだ(見てないので憶測100%)。
超高難易度の綱渡りをしている雑技団の人が、突然バランスをとるために使っていた棒をバランス無視してこちらに突き刺してきたら、「すごい!綱渡りの芸だ!」と思う人はまずいないだろう。
素人でも一目で分かる使っちゃいけないワードを使った時点で一発レッドと容易に断じられるのだが。これが同じくテレビでいじりに使わないだろうワード、「障がい者になってパラリンピックでも優勝してくださーい」でもいじり芸として認識されたのだろうか?