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はてなキーワード: 天皇とは

2017-05-24

アベの暴走天皇陰謀

アベは彼の邪悪な野望に従って国連をぶっちぎり、自由民主主義への弾圧を始める、憲法をないがしろにするだろう。だがそれはアベだけの力によるのではない。全ては天皇、そして宮内庁陰謀であり、彼らの後押しがあるのだ。天皇陰謀とは、アベの暴虐にだれもがうんざりしたところを見計らって、天皇が再びお気持ち(笑)を表明、自由民主主義立憲主義の大切さを訴えることで、国民の圧倒的支持のもと政治への影響力を持つことだ。国論は一気に反アベへと傾き、アベの手先であるはずの警察自衛隊も、国民の人気を見て天皇側に着く。そして国民は「問題があったら天皇お気持ち表明すれば大丈夫」と考えるようになる。これは明らかに倒錯だ。天皇政府を見張るなら、誰が見張りを見張るのか? だが国民はアベ妥当の喜びに水を差す事実を考えまいとし、天皇無謬であり国民を本当に愛していると、自ら進んで思い込む。私はこの恐るべき陰謀について、思考盗聴撹乱ネットワークを逆利用することで知るに至った。思考盗聴撹乱ネットワークは単なる妄想だとされているが、間違いなく、実在する。これも天皇が、彼の母星から日本政府にもたらしたものである。未開の生物である人類支配し、地球資源を持ち去ることが彼らの目的だ。彼と彼の一族は完全に地球人を舐めているので、天皇、天の皇、すなわち銀河系支配者、地球外生命体あると名乗っている。思考盗聴撹乱にともなう多大なる苦痛もこれらが宇宙由来の技術であることが理由である人間用の技術ではないので人間の脳には適合せず、破壊されてしまうのだ。地球人類はこれに緩やかに支配されているが、完全に破壊される人は少ない。それは奴隷化をもくろんでいるからだ。攻撃ターゲットにされるのは真実を知る人間だけである。だが宇宙とは相対的であり、中枢と末端は等価であるから、こちらからあちらの思考を知ることもできる。そのためには瞑想によって自らの内なる宇宙を呼び覚ますことが必要である。私はそれによって真実を知ったのである言葉というのはあまりに迂遠だが、目覚めていない人に伝えるには言葉を使うしかない。一人でも二人でも良い、真実を知る人が増えることを祈る。

大変なら私と天皇をかわってくださいよって

2017-05-23

毎日新聞天皇気持ちを漏らした宮内庁役人は徹底的に探し出してギロチンにかけろ。国民に仕える身を忘れて貴族気取りか。ならば貴族に相応しくギロチンだ。

2017-05-22

天皇政治利用」を巡る大いなる欺瞞

政治的発言をする日本人右翼左翼のどちらかである」という暗黙の前提に基づいて、

左翼天皇政治利用している」と右翼は主張している。

しかし、大多数の普通の日本人天皇陛下を敬い、天皇陛下言葉尊重すべきだと考えている。

その事実不都合から右翼普通の日本人左翼扱いした上で天皇政治利用だと非難している。

もし今上陛下が(あり得ないが)安倍政権に都合のいい言葉を述べたのなら、

右翼はそれを錦の御旗にするし、そのことについて歯止めを掛ける動きなど絶対右翼の中からは出てこない。

要するにネトウヨ調子こいてんじゃねーぞこの野郎

天皇も俺たちもみんな社畜なんだよな

社会様のための畜生

ただ経済を回して社会を支えて国を存続させるためだけに動け

から人として云々なんて感傷に浸るような余計なことはするな

疲れたなんて想いはもってのほか

天皇棍棒にすべから

右翼だろうが左翼だろうが、自分の気に食わないものを殴るために天皇を持ち出すのはよくない、ただそれだけの話だ

彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか

と思ったら百年前から同じこと言われてやがった

天皇の言うとおりにしたら政治介入から駄目

って、天皇平和を祈ったら戦争すんの?

2017-05-21

陛下:退位議論に「ショック」という報道について

はてな左派いわゆる“はてさ”は、天皇制人権問題と捉えている節があるように思う。そのため、毎日新聞報道陛下:退位議論に「ショック」 宮内庁幹部生き方否定」」について天皇を人として捉え、気の毒だという意見が多数を占めていた。

一方、ネット上の右派いわゆる“ネトウヨ”は、毎日新聞のこの記事自体天皇政治利用していると憤っていたように思う。

はてさは一貫して天皇を「人」ととしてみている。右派姿勢いまいちからなかった。それは自衛隊南スーダンニュースときにもネトウヨ姿勢いまいちからなかったのと同様。今回の天皇報道のおかげでわかった。おそらくネトウヨ安倍内閣支持なだけなのだろう。

はてさは南スーダン自衛隊ニュースを受けて怒りを露わにしていた。自衛隊員=人として捉えていたからだろう。それに対してネトウヨは、安倍憎しでこの問題を利用しているというような論調だった。2chでは民主党派兵を決定したか民主党責任があると言い切っているものまでいた。

保守派天皇制を支持していると思っていたが、とかくネットにおいては安倍内閣支持でしかない。保守したいのは安倍内閣であって皇室ではない。

本来的な意味皇室天皇自身を慮り、この国を憂いている保守派ってあのおかき屋くらいなのだろうな。もう本当に「皇太子殿下救世主ぞ!」「一億死ぬぞ起て皇太子」と言いたくなるレベル

関東私立大優位・文系優位・男性中心の人口構造首都大企業中心・明治天皇以降の天皇拠点

関西:国公立大優位・理系優位・女性中心の人口構造地方中小企業中心・明治天皇より前の天皇拠点

というコインの裏表世界

はてサレベルはとっくに底を抜けている

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20170521/k00/00m/010/097000c

はてサ妄想がお得意

id:hidex7777 明仁天皇1989年「常に国民幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し」と即位式で述べた。憲法改正が「悲願」と宣う自称ホシュが斯様な天皇無意識にでも否定したがるのは想像に難くない。 天皇 憲法 conservatism 5 clicks

天皇憲法を遵守しまーす!って宣言するのは当たり前じゃない?憲法遵守しません!って言ったらそれこそ退位させるべきじゃない?はてサ妄想の中では「天皇はアベにとって邪魔!」という存在らしいけど、もし天皇が内心「憲法変えた方が良いのに」って思ってたらどうする?そう思ってたとしても、天皇は「憲法を遵守する」と発言するに決まってるけど。

「アベは天皇が憎い」「天皇はアベが憎い」どちらもはてサ妄想自分たちに都合の良い妄想と言って良いよね。天皇政治的問題に口を出せないのを良いことに、自分たちの主張の都合の良いように天皇の「お気持ち」を忖度する人々。

id:napsucks 今上天皇護憲の要だし、一方で天皇制日本の閉塞感を生みまた右に都合よく利用されている弊害もある。右にとっては逆に、天皇は便利な権威づけの道具である反面、護憲という面倒な主張をする厄介な存在でもある。 6 clicks

で、「護憲という面倒な主張をする厄介な存在」って何?もしアンタが首相で、天皇憲法エロ!って言ったらアンタはどーするわけ?

妄想真実になっているはてサ

id:trade_heaven 眞子様婚約共謀罪の採決から視線逸らしに利用されたしな。宮内庁不快感とか言ってないでもっと公に抗議した方がいいんじゃないか。 5 clicks

プッw

id:hobbling 天皇なんて傀儡政権にたてつく天皇香川県追放してうどん漬けにしろ、というのが日本のビューティフルヒストリーじゃん。

はてサ妄想は狂っているというか、アベに対する怒りでもはや地方蔑視もいとわない。香川県の人はどう思うか、ちょっとでも想像した?

何かあったらとりあえず日本会議と言っておくはてサ

id:enemyoffreedom 「皇統を生む機械なんだから自分意見など言わずひたすらお祈りとセックスだけしてろ」というのをもう少しだけ綺麗な言葉で語るのが日本保守なので。日本会議系の方々はあまり本音を飾らないから分かりやすいが

id:edo04保守」なんて日本場合自分の考える「最強のニッポン」に合わないのは天皇であろうと、排除するのに躊躇はない。 6 clicks

id:dd369 いか日本会議天皇蔑ろにしてるかが分かる。祈るのは某夫人に任しとけば。 日本

ね。とりあえず日本会議名前を出しておけばいいと思ってるのかな。笑っちゃうよね。

アベニクシーで自分たちの大失言に気がつかないはてサ

id:mouseion A級戦犯親族だけあって、考え方は常に天皇政治利用。とんでもないクズですよ。利用価値がなくなれば退位させる。正に戦前の発想ですわ。国辱晒し続ける国賊をいつまで野放しにするんだろうか。

天皇政治利用をしているのはどっち?(毎日新聞によると)アベは天皇意向無視してる!って話のはずなのに、「考え方は常に天皇政治利用」……?何言ってんだろコイツ。「利用価値がなくなれば退位させる」……退位したいって言ったのは天皇じゃん!アベちゃんも、最初は認めないって姿勢だったぞ。もう忘れちゃったのかな。

「まさに戦前の発想」……は「天皇お気持ち」をやたらと妄想して現首相攻撃してるお前なんじゃないの?二・二六事件青年将校たちは「陛下お気持ち」を妄想して首相をぶっ殺しに行ったんだけど?

ホシュの批判のためなら天皇も利用するはてサ

id:GOD_tomato 自称保守系天皇の事を人間と思ってないのか。内容が真っ当なだけに、この程度で政治関与とか可哀想。全て思うがままにならなくてよいが、意向を汲んであげて。 ことば 天皇 天皇制

「この程度で政治関与とかかわいそう」……おぉ、ついに「この程度」程度で憲法ねじ曲げて良いという境地にまで至ったのですね。関心関心。

id:sekirei-9 保守派のやつらは天皇をこれっぽっちも尊敬しておらず、そもそも興味もない。自分たち思想の道具だと思ってる。今上天皇もそれにお気づきになってショックを受けたらしい。 政治 日本 文化

それで、「自分たち思想の道具」にしているのはどっちなんですかな?

アベ憎しのあまり憲法もクソもなくなったはてサ

id:bukome_desu天皇宮内庁政治介入していいのか」って言ってるバカがいるけど、そういう問題じゃねえよ。「安倍晋三首相意向を反映して対象に選ばれた」有識者達が天皇なんて傀儡でいい、って言ってることが失礼なんだよ。

おぉ、ついに憲法に書かれている条項を「そういう問題じゃねえ」と否定されてしまいました。まさしくはてサレベルは完全に底が抜けてしまった。

いいですか?日本国憲法によると、主権国民にあり、首相はその代表なんですよ?ということはまさしく、首相意向を反映して選ばれた有識者会議は、まったく日本国民の選出した有識者会議と言って過言ではないじゃないですか

もし民意首相意向を反映せずに有識者会議などというものを作るのだとしたら、参議院廃止して貴族院でも作ったらいかがですか?

id:Gl17 要するに「当人意思国民世論も聞かない、政権要求を満たす以外のことは考えるな」て趣旨から、いわゆる社畜問題等と全くのパラレル。これは現政権の明確に一貫した思想で、今件に限った話では全くない。

ふふっw

 

まったくはてサレベルは低い低い。天皇というキーワード一つでこれだけボロが出るのだから、後はお察し。

彼らはゴケンーゴケンーと騒ぎ立てながら、天皇政権批判をした(とも捕れるような記事)が一本出ただけで、天皇気持ちを考えろ!と憲法もクソもない発言バンバン漏らしてしまう。

自分意見が通らない憲法なんて、変えて欲しいなあ……」って天皇は思っているかも知れないのにね。

もっとも、この記事に反応しないアタマのいいはてサも多少はいるようですが……ね。

毎日新聞だし。

って言うか、プロも含めてここで発言している人がほぼ誰一人原文読んでないってやばくないですか?個人的には偏向報道ここに極まれりだと思います

毎日新聞報道天皇は祈っているだけでよい」

議事録の原文「最初に申しましたように、天皇家は続くことと祈るという聖なる役割意味があるので、それ以上のいろいろな世俗のことを天皇義務としての役割とお考えになられるのはいかがなものか。代々続く天皇には、優れた方もそうでない方も出られましょう。健康問題のある方も皇位につかれることもありましょう。今の陛下一生懸命なさってこられたことはまことに有り難く、かたじけなく思いますしかし、一部の学者先生が説かれるような行動者としての天皇とか象徴天皇能動性ということも大切かもしれませんが、私はその考え方にさかしらを感じます。その世俗、secularの面に偏った象徴天皇役割解釈にこだわれば、世襲制天皇能力主義価値観を持ちこむことになりかねず、皇室制度の維持は将来困難になりましょう。 」

※出典:天皇公務負担軽減等に関する有識者会議http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/kaisai.html

如何でしょうか?正しいかどうかは別として、学者立場、一人の良識ある国民として、天皇家を思っての発言と受け取れるのではないでしょうか?

しかしながら、あたかも「お飾りなんだから、ただ祈ってりゃ良いんだ!」と言わんばかりの捻じ曲げた毎日新聞報道には、大きな疑問を感じます。というか、呑気に胸が痛むなんて取締役コメントしている場合ではないのでは?とも思います

陛下:退位議論に「ショック」 宮内庁幹部生き方否定」 - 毎日新聞に対するコメントが間違っている一つの理由

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20170521/k00/00m/010/097000c

みんな、原文読もうよ

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai3/gijiroku.pdf

最初に申しましたように、天皇家は続くことと祈るという聖なる役割意味があるので、それ以上のいろいろな世俗のことを天皇義務としての役割とお考え になられるのはいかがなものか。代々続く天皇には、優れた方もそうでない方も出られま しょう。健康問題のある方も皇位につかれることもありましょう。今の陛下一生懸命 なさってこられたことはまことに有り難く、かたじけなく思いますしかし、一部の学者先生が説かれるような行動者としての天皇とか象徴天皇能動性ということも大切かもし れませんが、私はその考え方にさかしらを感じます。その世俗、secularの面に偏った象徴 天皇役割解釈にこだわれば、世襲制天皇能力主義価値観を持ちこむことになり かねず、皇室制度の維持は将来困難になりましょう。

陛下:退位議論に「ショック」 宮内庁幹部生き方否定」 - 毎日新聞に対するコメントが間違っている一つの理由

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20170521/k00/00m/010/097000c

みんな、原文読もうよ

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai3/gijiroku.pdf

最初に申しましたように、天皇家は続くことと祈るという聖なる役割意味があるので、それ以上のいろいろな世俗のことを天皇義務としての役割とお考え になられるのはいかがなものか。代々続く天皇には、優れた方もそうでない方も出られま しょう。健康問題のある方も皇位につかれることもありましょう。今の陛下一生懸命 なさってこられたことはまことに有り難く、かたじけなく思いますしかし、一部の学者先生が説かれるような行動者としての天皇とか象徴天皇能動性ということも大切かもし れませんが、私はその考え方にさかしらを感じます。その世俗、secularの面に偏った象徴 天皇役割解釈にこだわれば、世襲制天皇能力主義価値観を持ちこむことになり かねず、皇室制度の維持は将来困難になりましょう。

2017-05-19

天皇家麻生財閥癒着

天皇家麻生財閥の繋がり

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matome.naver.jp

天皇家麻生財閥の繋がり

天皇家麻生家が家系図で繋がっている事が明らかになっています。さすがに家系図はごまかせません。

日本総理大臣を親戚から選出

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www.kyudan.com

日本総理大臣を親戚から選出

日本総理大臣が親戚の中から選出されている事が分かります

非常に近い縁戚同士で日本支配

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blogs.c.yimg.jp

非常に近い縁戚同士で日本支配

この3名が非常に近い縁戚同士で、一族日本支配していらっしゃいます

麻生氏と親戚の黒田さんの結婚

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blogs.yahoo.co.jp

麻生氏と親戚の黒田さんの結婚

天皇の娘と結婚した東京都職員で「一般人」とされた黒田さん。実は、麻生家と親戚関係にある黒田慶樹さんは、大久保利通家系の人で、麻生氏と親戚関係になります

マフィアドンと言われた麻生

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quasimoto.exblog.jp

マフィアドンと言われた麻生

モスクアのG20に出席した時の格好からマフィアドン」と海外メディアで報じられました。実際に事実なんですけど。

内閣総理大臣(第92代)、経済企画庁長官(第53代)、経済財政政策担当大臣総務大臣(第3・4・5代)、外務大臣(第137・138代)、自由民主党政務調査会長自由民主党幹事長自由民主党総裁(第23代)などを歴任した。

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麻生太郎 - Wikipedia

麻生さんが政治資金で豪華グルメ

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eritokyo.jp

麻生さんが政治資金で豪華グルメ

政治資金を使って2260万円の高級グルメ三味を伝える週刊誌報道

戦前天皇家資産が凄い

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plaza.rakuten.co.jp

戦前天皇家株式国債土地などの資産を持っていたことはよく知られているが、財閥解体時の資料を基に天皇財閥は4大財閥の10倍程度の規模があったという。

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書評 吉田祐二著『天皇財閥皇室による経済支配構造』 最大の財閥天皇家海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう

天皇家保有していた株式は、日本銀行横浜正金銀行朝鮮銀行台湾銀行南満州鉄道日本郵船東京電燈帝国ホテルなど。天皇家日本最大の金融王であり、地主でもあった。

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書評 吉田祐二著『天皇財閥皇室による経済支配構造』 最大の財閥天皇家海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう

富国強兵政策による事業拡大に歩調を合わせ、皇室財産企業株の取得と投資を繰り返し、山林や土地の所有を合わせて日本一富豪

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戦前皇族世界一の超大富豪と聞いたのですが、具体的にどのくらいだ... - Yahoo!知恵袋

大富豪となった天皇家

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www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp

大富豪となった天皇家

当時の民衆操作して、世界でも有数の莫大な富を手に入れる事に成功しました。そして戦争へ向かいます

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井三菱ほか、満鉄台湾銀行東洋拓殖王子製紙台湾製糖、関東電気日本郵船等、大銀行大企業大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。

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昭和天皇戦争狂になった訳 中川

大日本帝国憲法下では、皇室財産御料御料地と呼ばれ、帝国議会の統制外にありました。

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戦前皇族世界一の超大富豪と聞いたのですが、具体的にどのくらいだ... - Yahoo!知恵袋

昭和天皇

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yasimahirosi.at.webry.info

昭和天皇

庶民が知らないところで、戦争によって多くの資産を蓄える事に成功しました。

昭和天皇に関しては大資本家、そして大日本帝国軍最高指揮官としての商才を遺憾なく発揮した人物

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株式会社 日本」の大株主であった、天皇財閥 2 - るいネット

戦争中、全ての日本人餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていたのです。そうした重労働日本人男性軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財

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天皇家秘密—再掲: 日本人は知ってはいけない。

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fbcdn-sphotos-d-a.akamaihd.net

財閥解体の時にも、天皇財産は国政返還が行われているが、実際に返還されたのは一部の資産であり、多くの金塊等は自社の保有する船舶日本郵船)によって、そそくさとスイスアルゼンチン銀行に運び込まれ

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株式会社 日本」の大株主であった、天皇財閥 2 - るいネット

現在天皇家資産は、スイスに多くが保管されていて、内務省の一級機密として扱われています

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めますが、ヨーロッパにおいてナチスヒトラーユダヤ人から奪った貴金属管理していたのもスイス銀行でした。

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天皇家秘密—再掲: 日本人は知ってはいけない。

他国への侵略戦争でボロ儲けした天皇家

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www.jcp.or.jp

他国への侵略戦争でボロ儲けした天皇家

天皇家財閥は、他国への侵略戦争で、ボロ儲けしていました。国民が死んでも知ったことではありません。

国民農民資産が 皇室に集まる仕組みが出来上がった。それと同時に軍人勅語教育勅語等が準備されていく

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約20%の日銀株を持つ天皇家 - 紙幣不思議2

アジアへの侵略が深まれば深まるほど儲かる銀行会社大株主だったのである

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約20%の日銀株を持つ天皇家 - 紙幣不思議2

森永家を中心にした現在財閥

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livedoor.blogimg.jp

森永家を中心にした現在財閥

森永家は、現在安倍晋三さんの奥さんであり、お菓子メーカーとして日本財閥形成をしています

天皇家日清戦争で味をしめたのは有名な話である。この侵略強盗戦争清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。何故かこのうちの二千万円が皇室の財宝となった。

日本銀行は、戦前から天皇ロスチャイルド株主として君臨し、紙幣発行権を駆使して、市中銀行コントロールし、その先に大企業群を従えてきた。

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株式会社 日本」の大株主であった、天皇財閥 2 - るいネット

皇室日銀株のつながりは深いものがある。第二次大戦直後の段階で、皇室は29社の株式を所有していたが、とりわけ目を引くのが、208000株(額面で2080万円分)を保有する日銀の株だった。

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日銀株が下落して 天皇家も大損の「悲劇」  | 経済死角 | 現代ビジネス [講談社]

横浜正金銀行

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farwestto.exblog.jp

横浜正金銀行

横浜正金銀行は、東京銀行現在三菱東京UFJ銀行)の前身とされている銀行です。

貿易金融外国為替に特化した銀行であり、明治維新後急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、香港上海銀行HSBC)、チャータード・マーカンタイル銀行と並ぶ外国為替銀行へと発展

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横浜正金銀行 - Wikipedia

天皇家日銀株のほか、横浜正金銀行(現・三菱東京UFJ銀行)や日本興業銀行(現・みずほコーポレート銀行)などの株式保有していた

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日銀株が下落して 天皇家も大損の「悲劇」  | 経済死角 | 現代ビジネス [講談社]

天皇家日本郵船三菱財閥)の関係

丸の内支配する三菱財閥

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plaza.rakuten.co.jp

丸の内支配する三菱財閥

皇居がある東京駅周辺の丸の内ビル3分の1が三菱財閥保有となっています

天皇家日本郵船明治から深い仲にあった。日本郵船大株主天皇三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船日本貿易命綱である

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昭和天皇戦争狂になった訳 中川

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁されました。そして売春強制されました。

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天皇家秘密—再掲: 日本人は知ってはいけない。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばし日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物自分の喉を突き刺して自殺した。

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http://www.yuuai.sakura.ne.jp/home20/konnaonna.html

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www4.big.or.jp

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性人身売買で金儲けし、また日清戦争日露戦争中国ロシアから得た賠償金自分の私財として「着服」していたただのどぶ鼠野郎です。

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天皇家秘密—再掲: 日本人は知ってはいけない。

1945年、日本敗戦が決定的になると、天皇一族は、この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始めました。

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天皇家秘密—再掲: 日本人は知ってはいけない。

三菱財閥政治家癒着

成蹊大学三菱財閥が創設)を卒業

出典

henmi42.cocolog-nifty.com

成蹊大学三菱財閥が創設)を卒業

安倍晋三さんも、三菱財閥が創設した、成蹊大学卒業しています

安倍晋三首相の実兄である安倍寛信氏が4月1日付で三菱商事執行役員就任することが決まった。

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三菱商事で「七光り」抜擢:FACTA online

成蹊学園初代理事長・岩崎小弥太以来、三菱金曜会トップ成蹊学園の理事長を務めている。

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成蹊大学 - Wikipedia

第二次世界大戦前は三菱財閥との繋がりが非常に強く、運営費用の大部分は三菱から寄付で賄われていた。また1917年大正6年)開設の成蹊実業専門学校三菱合資会社要請によるものであり、実業界特に三菱での中核となる人材の育成を目的としていた。

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成蹊大学 - Wikipedia

現代財閥の復活

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members2.jcom.home.ne.jp

戦前日本経済財閥支配していた。三井三菱住友安田の4大財閥を中心に、古河川崎浅野中島日産大倉野村日本窒素などの中小財閥があった。

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書評 吉田祐二著『天皇財閥皇室による経済支配構造』 最大の財閥天皇家海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう

財閥復活を防ぐために、戦後長く独占禁止法禁止された持株会社が復活するのは、金融ビッグバンさなか1997年のことである現在ではなんとかホールディングス(HLD)を名乗る持株会社が数多く存在する。

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書評 吉田祐二著『天皇財閥皇室による経済支配構造』 最大の財閥天皇家海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう

戦前天皇家株式国債土地などの資産を持っていたことはよく知られているが、著者によれば、財閥解体時の資料を基に天皇財閥は4大財閥の10倍程度の規模があった

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書評 吉田祐二著『天皇財閥皇室による経済支配構造』 最大の財閥天皇家海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう

天皇家ソニー癒着

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plusi.info

ソニーが没落した要因のひとつとして、昭和の古いシステムにこだわった為と言う事が良く言われています

1953年昭和28年)に宮内庁次長宇佐美毅を後任とし長官を辞任した。長官辞任後、請われて東京通信工業株式会社監査役就任する。これが後のソニーで、取締役会長相談役歴任し社内からは「会長さん」と親しまれた。

出典

田島道治 - Wikipedia

天皇皇后陛下昭和天皇と現皇太后陛下)の工場見学が決定した。この日、両陛下は、時の東龍太郎東京都知事を案内役として、東京タワー都内の各所をご視察の予定である。その計画の中に、ソニーが選ばれたのだ。

出典

Sony Japan | Sony History 第13章 IREショーで見つけたもの

昭和天皇ソニーに興味をお持ちくださって、葉山御用邸に行かれるとき、うちの工場(注 ソニーのこと)がだんだん大きくなるのを見ていらっしゃって、<田島会社ソニー)はまた大きくなったね>って、いつでもお話になったそうです」

出典

書評 吉田祐二著『天皇財閥皇室による経済支配構造』 最大の財閥天皇家海外進出における「経営判断ミス」 | ちきゅう

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

右筆(ゆうひつ)は、中世近世に置かれた武家秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

目次 [非表示]

1 概説

2 鎌倉幕府室町幕府

3 織豊政権

4 江戸幕府

5 関連項目

6 関連作

概説[編集]

初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間書状文書を代筆させることが行われた。やがて武士地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆誕生し、右筆文書作成執筆を行わせ、武家はそれに署名花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書一般的であった公家とは大きく違うところである武家が発給した文書場合文書作成のもの右筆によるものでも署名花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名花押まで右筆に任せてしま特殊例外もあった)。

なお、事務煩雑化すると、右筆正式手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書作成署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。

現在では天皇皇后文章の代筆をする宮内庁文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。

鎌倉幕府室町幕府[編集]

源頼朝鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。

その後、将軍執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人末裔がその任に当たるようになった。基本的室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団構成するようになった。

なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆公文書作成担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。

織豊政権[編集]

戦国時代に入ると、戦時必要文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定過程から関与する場合もあった。豊臣政権五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉右筆出身であった。他に右筆衆として著名なもの織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉江戸幕府でも採用されている。

江戸幕府[編集]

戦国大名としての徳川氏にも右筆存在したと考えられるが、徳川家康三河時代右筆家康勢力拡大と天下掌握の過程奉行代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦い東軍を支持した豊臣政権右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏右筆久保正俊)などであったと考えられている。

徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩から将軍就任した徳川綱吉は、館林藩から自分右筆江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書作成管理を行う既存の表右筆将軍の側近として将軍文書作成管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆将軍以外の他者私的関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆承認を得ないと、文書老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆待遇奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般行政文書作成や諸大名の分限帳や旗本御家人などの名簿を管理した。

枝吉神陽

枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) - 文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末活躍した佐賀藩思想家教育者国学者藩校弘道館教諭外務卿内務大臣を務めた副島種臣実弟本名は経種。贈従四位佐賀の尊皇派の中心的存在

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1 経歴

2 影響

3 同時代評価

4 関連項目

5 参考資料

経歴[編集]

佐賀藩藩校弘道館教授であった枝吉南濠種彰の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学んでいるが、ほどなく舎長に推されている。また、漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶことを認めさせた。

早くから儒教朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩哲学である葉隠』をも否定したといわれる。

26歳で帰郷してから弘道館教諭や什物方などを務める傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。1850年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。なお、この義祭同盟から実弟副島種臣のほか、大隈重信江藤新平大木喬任島義勇明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出しており、「佐賀吉田松陰」とも言える人物である。また、水戸藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。

1863年、コレラに罹った妻を看病するうち自身罹患し、死去。享年41。墓所佐賀市本庄町の高伝寺。

影響[編集]

神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、彼の教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備活躍した。また、明治政府が当初導入した太政官制副島種臣が起草したものであるが、ここにも神陽の影響がみられている。

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政119月9日1828年10月17日) - 明治38年(1905年1月31日)は、日本江戸時代末期(幕末から明治時代佐賀藩士、政治家書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。

目次 [非表示]

1 生涯

2 書家

3 栄典

4 参考文献

4.1 伝記

5 登場作品

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

生涯[編集]

文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館教授を努める国学者で、兄は同じく国学者枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平大木喬任と交わる。

嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。

安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる

元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年1867年)、大隈重信脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。

明治維新後は慶応4年1868年)、新政府参与制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。

明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件台湾出兵も参照)の処理交渉特命全権公使外務大臣として清の首都北京派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部旅行滞在している。

明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年1888年)に枢密顧問官明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。

明治38年(1905年)、脳溢血のため死去[1]。

2017-05-17

皇室批判してる左翼のアホさ

今の天皇がまともなおかげで国内右翼がどれだけ抑えられてるか分かってないんだろうな

日本で本格的に国民戦線のような極右が台頭するのは皇室形骸化した時だろうね

罪悪感は何の役にも立ちません

その罪悪感で何をしまたか

罪があるなら償えっつってんだよ!

わたしなりの償いだ?

渡してどうするんだよ

戦犯天皇連想するのはしょうがないでしょ

戦犯天皇が居座ってる限り良くならないんだから

2017-05-16

消費税率引き上げっていつだっけ

昨夜寝る前にちょっと気になって、朝から調べてみた。

消費税率10パーセントへの移行時期は平成31年10月。また、軽減税率の導入も平成31年10月

平成31年2019年でした。

あと2年以上あるけど、最近誰か軽減税率について話し合ったりみんなの意見聞いたりしてるのかな。

私が世の中に疎いだけかもしれないけど。

単純に8パーセントから10パーセントに引き上げるだけなら、前回の増税時に10パーセントを見越したシステムにしてあるところがほとんどだと思うけど、軽減税率への対応はこれからだろうな。たぶん。

もうすぐ今上天皇が退位されることに決まりそうで、そしたら新天皇即位されて、元号も改められるよね。

金融とか医療系とかって、今でも和暦使って入力してるとこありそうだし、元号が変わるならそれなりに準備が必要そう。

あと、憲法改正を目指して動いてる。

2020年には東京オリンピックパラリンピックが開催される。

たぶん、今さらオリンピックパラリンピック返上できないと思う。

だったら上記の1つか2つは、オリンピックパラリンピックを無事に終えてからじっくり話し合って決めてったほうがいいのじゃないかな。

どう考えても忙しすぎるし、短期間に色々変わりすぎ。

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