はてなキーワード: イスラエルとは
いいたいこと、2050年におごりおごられ論争しててほしくない。
もちろんおごりおごられだけじゃなくあらゆる対立する意見があるのでそれだけで相手を決めるわけじゃないよ。
イスラエルはパレスチナにやられたからやり返してるだけだ派も嫌だよ。
なぜ避けたいかというと、子どもへの教育というか考え方を伝えるときに自分と同じような考え方に誘導してほしくないから。
まだ子どもはおらず、これから生まれたらその子どもは2050年ころに結婚を意識する可能性があるわけだが、
もし娘が生まれたとして、おごられないと人として尊敬できないとかいう人間になってほしくない。
今おごってほしいと言ってる女性は自分と同じ性別の娘側に(はっきり言葉として伝えるかはともかく)どっちで伝えるんだろう。
おごられることを重要と考える→2050年にもおごりおごられ論争が続く
おごられることは重要じゃないと考える→自分の行動を棚に上げすぎできつい
男はおごろうが割り勘だろうがまあ好きにしてください。どうせおごられる側になるようなことはないので。
まあおごりおごられ論争があってほしくないのですべて割り勘であってほしいが。
→第二次世界大戦勃発で内敵を増やしたくなかったイギリスはアラブ人に対する宥和政策を開始
→移民を制限されたユダヤ人が武装組織を作ってイギリス現地機関を攻撃
→大戦に勝利するも大きな被害を受けたイギリス軍はユダヤ人武装組織に対抗するのを諦めてロクに引き継ぎせずに撤退
→権力の空白でイスラエルが建国され、それを認めないアラブ諸国が介入。組織力が弱いアラブ人側が敗北し、ヨルダン川西岸とガザ地区に押し込められる(第一次中東戦争)
→イスラエルがヨルダン川西岸のヨルダン軍とガザ地区のエジプト軍を追放し、事実上の勢力下に収める。余勢を駆ってシナイ半島まで制圧(第三次中東戦争)
→エジプト軍が反撃。痛み分けに終わるがイスラエルはシナイ半島から撤退(第四次中東戦争)
→イマココ
俺は元増田に完全同意だけど、これが「ウクライナは停戦を」はさすがに言い始めてるから「領土割譲を」だったらブクマカ絶対こんな表現の自由擁護しないしなー。
なんなら侵略国家ロシアを擁護するヘイトスピーチぐらい言うヤツ大量にいるだろう。
パレスチナ虐殺反対もイスラエル支持者にとっては自衛権の否定なんだよね。
欧米見ても「川から海まで」がイスラエル破壊のヘイトスピーチって言われるのに、イスラエルが使っても大して問題視されない。
イスラエル企業との取引やめろだって反BDS法があるところだったら、十分ヘイトスピーチになる。
だから表現の自由はヘイトスピーチだと言われるような表現であっても、表現の自由としては最大限擁護(ヘイトスピーチが行われることの取り返しのつかなさとの綱引き)しないといけないんだけど、ブクマカぜってぇしねぇだろなっていう。
表現の自由としては認めるが、博物館の利用規約には反している。
みたいな話にはなるんで、その覚悟があるかどうかだよね。
「それは体制派による抑圧だろ」にはできない。
それ言い出した時点で、逆に言ったやつも抑圧者なのよ。
イスラエルの民間人を標的にテロを行った時点で、ワイは完全に今後のパレスチナへの共感を失ったんよ
まぁ表現の自由戦士を自称した覚えは無いが、表現の自由を尊重する人間はどうもそう呼ばれるらしいので、勝手にすればいい。
そんなことは兎も角、国立西洋美術館での虐殺反対パフォーマンスは当然表現の自由の範疇内だと思う。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/protest-nmwa-news-202403
私自身パレスチナでのイスラエルの虐殺行為は一刻も早く止めるべきだし、日本政府もその立場を強く打ち出すべきだと考えているが、
例えそうでなくても、つまり主張の中身自体に同意でなかった場合でも、今回の様なパフォーマンスはやはり表現の自由だと思う。
そして、例えばああしたパフォーマンスを「ゾーニングすべきだ」などという主張にも与しない。他者から押し付けるゾーニングとは聞こえのいい表現の抑圧に過ぎない。
更にまた「TPOを守るべき」といった別の保守的な抑圧、「過激化・チキンレースは自分の首を絞めるだけだ」「より厳しく規制されるだけだ」といった自殺すれば殺されずに済む的理論、検閲の正当化や(今回のパフォーマンスを不当だとするようなガイドラインやルールがあった場合)ガイドライン等の絶対視等にも与しない。
今回(勿論今回に限らないが)の件での表現の自由はそれらより優先すべき基本的人権である。
加えて美術館は公共に開かれた場だと考えているが、そうであればこそ、より広く多様な表現について表現の自由が尊重される必要があり(何故なら公共とはより広く多様な人々に開かれてなければならないから)、当然今回のケースを「公共」を理由に抑圧する態度にもまた与しない。
上に挙げたような表現を押さえつけようとするいくつもの言動をもう一度それぞれ見ていってほしい。いずれもよくよく目を凝らせば保守的な恐怖や嫌悪や拒絶に基づいた保守的抑圧に過ぎない。
もし私と同じ表現の自由戦士(私と同じく、自称でなくても)に今回のパフォーマンスの自由を尊重しない人がいたら、考え直して欲しい。
その考えはあなたの思想を裏切っている。別にパフォーマンス自体に賛意を示さなくてもいい、支持しなくてもいい、しかしその表現の自由だけは認めるべきだ。
また同様に、表現の自由戦士でない人の場合も、いま一度考え直して欲しい。他の件も併せて考えて、上に挙げたような表現の抑圧が不適切かどうか、考えて欲しい。