はてなキーワード: 齟齬とは
ここ最近「作家の好みを捻じ曲げて売れるものしか描かせない編集はクソ」みたいの見るんだけど、まともなプロから見るとそんな事は無いと思う。
そもそも編集が付くという事は仕事で、出版社なんかから依頼があって、お賃金を貰って描くのだ。
仕事なんだから「こういう女の子描いて」と言われたらそういう女の子描くし、「こういうメカ描いて」と言われたらそういうメカ描く。それだけ。
売れるか売れないかを判断するのが編集の仕事であって、それが最終的に売れなかったら編集としてクソだ。
むしろ「なんでも好きなものを描かせてあげる!」とか言って連載会議が通らず2年経ったりするほうがクソだと思う。
で、なぜか、世の中では「企業からお金を貰って、好みじゃないけど売れ線を仕事として描きました!」みたいな事言うのはタブーだ。
僕は爆乳より普通乳ぐらいの女の子の方が好みなのだけど、やっぱり大きな胸部の仕事の方が多い。でも人気なのはわかるし、仕事だから大きくする。
で、それが世に出たとき「僕は普通乳の方が好きだけど仕事なのででかい乳描きました!」とか言うのはダメ(だと思う)。
僕はあたかも産まれた時からそうであったかのように「巨乳の女の子最高です!!」と嘘をつかねばならない。自分の好きな普通乳を貶めてるようで結構辛い。
多分、絵を描くという仕事は夢がある仕事だから、作家には皆揃って描きたいものを描いて、お賃金より大事なものを見ていて欲しいんだろう。
でも真実そんな事はない。僕の周りには「ムキムキマッチョが描きたい」といいながらムチムチ女の子を描く人や
「可愛い女の子が描きたい」と言いながらガチムチのオッサンを描く人がいます。なんでかって、仕事だから!!
「好きな事が仕事になっていいね」という人とはそこに齟齬があって、
好きな事っていうのは僕にとっては「普通乳の女の子を描く事」だから、僕としては全然好きな事を仕事にしていない。
ネタバレなので、気になる人はプロメア観てきてからこれ読んでね
と言う訳で観てきました。CGも頑張ってたし、グレンラガン知ってたら、色々なところで嬉しくなるシーンが多かったし、何よりカミナが主人公というのが良かった。
んーでも、内容を評価すると70点ぐらいです。及第点よりちょっと良かった、くらいの程度
まぁカミナが出てきた時点で、この話はグレンラガンにある多元宇宙の話の一つであろうという事は予想された事だし、中盤にかけて展開される話がいちいちグレンと重なってきながらも異なる話というのにワクワクしていき、後半の怒涛の展開とかは結構楽しめました。CGがちょっと荒くて、画面の流れが掴みづらかった。モーションブラーが欲しかった。あと、カミナが特に最初の方、物語としての立ち位置がかなり滑ってる感じがするんですね。本来のカミナであればもっとぶち切れる展開であるはずが、事態を抑える役目として振舞ったりする。え?カミナってそんなキャラだっけ?、と。後半になるとぶち切れるシーンもたびたび出てくるんで、カミナらしさも出てくるんだけど、それでも抑えるシーンも出てくるので、どうにもカミナというキャラを上手く生かせてない印象を全般的に受けてしまうんです
で、改めてグランラガンで描かれていた話からプロメアを考えてみようと
グレンラガンは螺旋の力とその抑制の話、また引き継がれる遺志の話です。螺旋の力は人の成長、そして可能性を示す力です。一方その力は、制御が出来ず、結果大惨事になりうる、という事も示されています。そしてそれを抑制する力では節制を求め、結果一部の人々に犠牲を払わせる事も示されています。物語上、カミナは螺旋の力を戦う力、そして可能性を主人公のシモンに遺す立場でした。後先考えずに物語を前に進め後の仲間に遺志を残した推進剤でした。一方プロメアではバーニッシュが扱う力が中盤になると次元の力という事が判ってきます。これが物語を推進する力です。ですがこちらもその力を抑制する流れの中でグレンと同じように犠牲を伴う事が示されます
この螺旋の力、次元の力が2つの物語の核であり、違いになってます
しかし、ここで気付きます。カミナはグレンでは物語を推進させる側だったのに、プロメアでは制御する側に立っているのです。そりゃカミナが立場を慮ってカミナらしくない行動をしなきゃならない訳です
後半につれ、バーニッシュの首魁リオとカミナは組んで物語を進めて行くのですが、リオがどんどんぶち切れて物語を前に進めていきます。カミナは抑える側に回ります。これもキャラと立ち位置がおかしいです。リオは力の行使を好んでません。でもバーニッシュの力、次元の力が溢れる事でリオが物語を進めていきます。物語を推進する立場のキャラが力の行使に積極的でないのです。でも映画の画面ではその力が物語を進めてる。物語を進めるべきキャラが物事を収める立ち位置に、物事を進めたくないキャラが物語を推進する立ち位置に居る訳です。そりゃ序盤の物語の展開に齟齬を感じる訳です
そして次元の力です。これがこの映画では単なる力の暴走の源としてしか描かれていません。これが非常にもったいない。話の核になるモノが単に暴走する力、ではプロメアという話に何の寓意も示されません。溢れる力を一度暴走させて次元を切ってしまってはいおしまい。で、これは何の話だったの?と
違うでしょ、と。次元の違う世界をもっと掘り下げてくれないと。多元宇宙とは、グレン26話にあるように、今の世界からさまざまな分岐点があった時にそのそれぞれを選んだ世界、つまり、あらゆる可能性が開かれた世界です。多様性の世界とも言って良い。プロメアではバーニッシュは弾圧されている世界です。これは持つ者持たない者が分断された差別のある世界です。次元の力はこれを飛び越えます。自分がバーニッシュである世界、そうでない世界、それぞれの立場を知る事ができるからです
#クレイが力を暴走して捕まった世界、リオが女になってカミナと付き合ってる世界のシーンは欲しいなぁ
相互理解によって、これからの世界を良くしていく源泉となる力です。ここがプロメアにおける着地点でしょう
また、次元の力がそういうモノであれば、カミナがグレンの世界より大人なキャラである事も理由付けできます。暴走気味だったカミナがどこかで次元の力に触れ、暴走した先の世界を学んでいた、とか
次元の力というのが、あらゆる可能性に対して想像を得られる力、とすれば、バーニッシュの人々のキャラ付けも変わっていくでしょう。強い夢を持つ、夢想家である、想像力が強い、共感力が高い、新しい事に挑戦したがる、発明家、注意散漫である等です。だとすると、カミナのところにいるエンジニアとかは実にバーニッシュっぽい人です。そういう作りの方が判りやすかったでしょう。話が進む中でエンジニアがバーニッシュであったから捕まった。それを救う過程でカミナはリオと同調し、バーニッシュ側の立場に近くなっていく、自然な流れです。カミナであればそのままバーニッシュ側に付いてもおかしくないと思います
更に言えば、そもそも何故プロメアの世界では次元の力が暴走を始めたのか、ここにも理由が欲しいです。次元の力の暴走はグレンで言うならスパイラルネメシスです。螺旋力が暴走する状態です。と、するなら、これはこちらの世界のシモンが起こした事ではないか、と。こちらの世界のシモンが次元の力を暴走させようとしていた、それをカミナが食い止めた。そしてシモンは次元の力を制御するに至った(或いは制御出来ない分の力は次元を閉じて封じた)。着地するべき場所へ綺麗に着地した、美しい結末です。やはりこちらの世界ではリオがその位置に付くでしょう
俺は鬼滅の刃が大好きだ。
連載開始時には、好きだけど終わっちゃいそうな作品だなぁと思った。でも応援してたし、修行編がいきなり始まって、「JUMPで修行編…大丈夫か?」一人で気を揉んでいた。
炭治郎が岩を切ったときには、お話しの構造がセンス良すぎてめっちゃ好きになった。終わってほしくないと思った。
その後いろんなキャラが出てきて、炭治郎は優しくて、その内人気が安定して掲載順が上の方になっていって心底安心したんだ。
戦闘シーンでは敵も味方もしっかり思考していて、ちゃんと考えた抜いたやつのほうが強いとこが好きだ。
次に来る漫画大賞いつまでも取らないのを眺めながら友人と「もう来てるしな」って話してた。
だからこそ、アニメ化が決まったときは嬉しかった。しかもあのufotableだ。
作画めっちゃ良くてヌルヌル動くことで有名なufotable。めっちゃ期待してた。
PVも発表されるたびに見に行って、作画と雰囲気の良さに友人と色めきだってた。
映画「鬼滅の刃-兄妹の絆-」も見に行った。大画面でいきいきと動く鬼滅の刃キャラクターたちは大迫力で、めっちゃ作画良かったね!って友人と興奮して帰ったのを覚えてる
なんか、めっちゃ、間、長くね?テンポ、悪くね?って。ギャグとシリアスちゃんと分けすぎじゃね?って。
セリフが全体的に微妙に間延びしてて、原作にあったテンポ感が消えてる…よね?
お堂の鬼戦も、炭治郎がリアクション芸人みたいになってて必死感なかったよね?
鬼滅の刃って、人と人との会話の間に生まれる齟齬がキャラのリアクションで明らかになるとこが面白いじゃん。
会話って日常場面より戦闘場面の方が切実に必要になるじゃん。そんな場面だからこそ生まれるズレが面白いじゃん。そのすり合わせが面白いじゃん。
それって、シリアスな場面でギャグみたいなリアクションする面白さじゃなくて、ズレたことによって人間性が深掘りされるから生まれる面白さじゃん
昔のアンジャッシュのコント(今どきの少年は見たことないかもしれないけど)の面白さってさ、今のアンジャッシュ児島の「児島だよ!」の面白さと違うじゃん!
今アンジャッシュがコントしたとして、「大島だよな?」「児島だよ!」ってやられたら、なんか嬉しいけど違うじゃん!俺はズレた設定のコントが見たいんだよ!ってなるじゃん!!もうアンジャッシュコントなんてやんねーだろうけどさ!!
ここまで書いてみて気づいたけどこれ、ただのこじらせた原作厨だわ。
アニメageして吾峠呼世晴先生の絵が汚いとか雑とかいうコメント目に入って悲しくなって。
あーあ、アニメの絵と原作絵比べて「漫画はちょっとなぁ~絵がな~汚いのがな~」ってやつ全員に「違う違う違う違う」っていって大量の血液注入してくれねえかな無残様。
シンデレラガールズ総選挙と私の好きだった佐久間まゆの話をします。
私は、シンデレラガールズの中でも佐久間まゆというアイドルが好きでした。
誤解を招いてしまうかもしれませんが、未だに彼女のことは好きだし、未練があるからこそこんなものを書き綴ってしまうのです。
一昨年も去年も、モバマスとデレステの方で投票券をかき集め、無課金で出来る範囲ながらも彼女に投票していました。
今年はしていません。
ユーザー達がプロデューサーと呼び合うようなコンテンツなので、引退と書かせてはもらったものの
本当にプロデューサーの仕事をさせてもらえる訳では無いので、事実はただの1ユーザーがゲームを辞めただけの事です。
大きな理由として、シャイニーカラーズに触れたことがとても大きかったと思います。
シャイニーカラーズに触れたことの無い方にも説明するとシャイニーカラーズではアイドルがユニットごとに固定されており、個人のプロデュースではゲーム内プロデューサーとアイドルとのコミュが展開されていたり、アイドルグランプリ優勝を目指すストーリーの流れになっています。
自分の好きなアイドルが、佐久間まゆが、このコンテンツ出身のキャラクターならどんなに幸せだったか
適切な距離感と、大人としての節度のある対応のできるゲーム内プロデューサー。
当時、183人もアイドルを抱えているのだから仕方ない、仕方ない、とまるで我慢できない自分たちが悪いと思ってしまうような空気の中。
シャニマスとデレマスでは土台が違うのだから比較しても仕方が無いと思っても。
「嫌ならやめろ」その通りです。どうしても佐久間まゆのことが好きで、きっと彼女の物語をもっと見せてくれると、いつか、信じていました。
そんな時新アイドルの追加というニュースが飛び込み、モバマスサービス開始から追っていただけあって、何かがぷつりと切れました。
既存のアイドルたちに充分な展開がなされないまま、新しく増やす?
理解が全く追いつきません。
佐久間まゆのことが本当に好きでした。
なので私は思いました。
こんな舞台で、こんなコンテンツで、総選挙で、1番を取ったって何も嬉しくなんてないな、と。
8は横にすると永遠の∞ タグをつけて彼女のために頑張っている人達が沢山いました。馬鹿にするつもりは全くありません。でも、無駄なのにな と思わずにはいられませんでした。
仮にその8と∞の文脈につられて、浮動票が集まり、シンデレラガールを勝ち取ることが出来ても
どんどん、どんどん シンデレラガールズにも、総選挙のシステムにも、何か洗脳から醒めるようにして、魔法が解けていったのです。
声をつけるためにユーザーが頑張るなんて良く考えたらそんなこと本当はする必要がないのです。
好きだった気持ちまで嘘にしたくはないです。
なので、佐久間まゆには1票も入れませんでした。
文章を書くのは苦手なので、見苦しいところもあるかもしれません。
シンデレラガールズを辞めたユーザーの、未練がましい独り言です。
佐久間まゆが好きな皆さんも、頑張ってください。
なんなら自分は無意識に抽象化させて相手を困らせて迷惑をかけるときもある。
抽象化させると相手に文脈や状況の理解を把握した上で返答を求めることになるので、
とはいえある程度は抽象化させていかないと言葉と時間が圧倒的に足りない。
住んでる国によって内容が変わるわけだ。
そんな時に「日本で蕎麦を食べる時は」という主語を明確にすれば、
ある程度明確になる。あとは会話する人同士の環境の差だけだ。
抽象化されたものが主語だと環境の差、知識の差で齟齬が大きく発生する。
これ自体がコミュニケーションコストで歩み寄りがないと、コミニュケーションは破綻する。
日本人は「遠回しに表現する文化」、「阿吽の呼吸、以心伝心がある文化」だから尚更コストが上がる。
そしてのこの文章でも「環境」と「知識」って曖昧な言葉を使ってる。
面倒臭くなってきたのでまとめてくと、
抽象化する方が余計なコミュニケーションコストが発生する場合があり、
相手に負担がかかって、結果全員辛いんじゃないっていう話が言いたい。
だからある程度答えを具体化させてないと話は進まないから正しく明言して行こうぜという話。
でも日本人こういうの得意だったはずなんだよな。
まぁそうなんだよね。
でも一方で、家庭内の労働を効率と合理性オンリーで回すこと自体に、かなり無理が出るという気もするんだよ。
例えば「超ホワイト企業夫×激務&収入少ない妻の共働き世帯with Kids」を仮定した場合、効率の良い家事分担プランは50/50~夫の家事負担多目になると思うんだけど、それが”本当に最効率の分担”だったとしても、夫に不満がたまってくることは十分ありうる。「自分は若い頃から努力してホワイト企業の座をゲットしたというのに、妻のキリギリス・リスクを背負わされている」みたいな寝言を言うやつはざらにいるご時世だし、この寝言がまんざら間違ってないケースも存在したりする。そもそも単純に、家庭内もろもろ負担力に傾斜がかかり続けるのは、合理性や効率性では解決できない。
こういう理不尽な家庭内不満を昇華するためには、効率とかライフハックだけじゃなくて、もう1周ぐるっと回って回帰して、愛情とか人生の目標が同じところにあるとか、そういう抽象的でクサい理念なんじゃないかなーとか、最近思っていて。双方が一蓮托生感を実感できなきゃいっそ結婚しないままのほうがいいんじゃないかとかね。離婚のハードルもすごく下がってるし。子供がいたとしても離婚しても全然、社会的に白い眼で見られるみたいなことよほどじゃないと無くなってるしね。
だからこそ元増田と元増田夫のような、恐らく二人の人生の目的が異なってそうな、そして夫がこの結婚に消極的だったような、そういう二人の間でこういうなまぬる~い齟齬が起きてるのかなーとか2周回って今時だなーというか。
「彼女が好きなものはホモであって僕ではない」がNHKでドラマ化したら「腐女子、うっかりゲイに告る」になった件。
タイトルの理解は正しくなくて、「僕」から見たら主人公は「ホモ」だけど、「腐女子」から見たら「ゲイ」だということで、なんの齟齬もない。
むしろ原題をそのまま使うのは難しいことから、彼女目線のタイトルに変えることで作者の意思をうまく尊重したのだという考え方すらできる。
それでも、という話。
この作品の主人公はどこまでも「ホモ」で、「ゲイ」じゃない(肯定的な意味でも否定的な意味でも)。
何の違いか、というのを端的に言うと、ゲイとしてゲイコミュニティに何の違和感もなく馴染めるゲイとそうじゃないホモということで、
(原作者はBLで目覚めて後からゲイパレードを始めとするゲイ文化を知り、愕然としたというバックグラウンドがあるらしい。
BLの対象となる「ホモ」と現実に存在する「ゲイ」という対比、ニュアンスもある、はず)
ヘテロにとっちゃどうでもいいことだろうと思うが、いわゆる「新宿二丁目」なゲイ像を男性同性愛者の全体が受け入れているということではない。
むしろ、ああいう雰囲気を移されないようあえて遠ざけているという人間さえいる。
作者のこだわりというが、自分もとても共感していた部分だったのでドラマの原題が最終的に「ゲイ」になったのが残念でしかたない。
もちろん、ホモなんて言葉を入れるわけにいかないことはわかっているけども。
「ただの同族嫌悪と何が違うんだ」「選民思想に溺れているんじゃないか」と謗られても説得力のある反論は思いつかない。
「そんなつもりじゃない」ぐらいしか言えない。
実際、自己肯定なのか自家中毒なのかわからない執着を抱えながら「ホモ」で居続けることが素晴らしいことだなんて思わない。
それでも、「ああ、一括りなんだな」という残念さが消えない。
女を「ババア」と呼んで勝手に親近感を持ったり、オネエ言葉を使ったりすることはアイデンティティとして受け入れられないんだよ。
一緒にされたくない、というのが偽らざる本音だ。
会議の内容が頭に入らない。
なんでみんなあんな早い会話を全て聞き取って対応できるのだろうか。
特に他人同士の会話ってなんで自分の耳にあんなに入ってこないのだろうか。
あとで聞き返す事でリカバリしてたけど2年目になって許されない空気が出てきた。
上司から分からないことがあったらその場で聞けと言われたけど、多分僕が全部分からないことを聞き返していたら会議の時間は1.5倍になる。
そもそも聞こえてないことに気づかなくて重要な情報を聞き逃していたりする。
多少聞こえなくても仕事に追いつくために残業してたら残業時間が長すぎて怒られて。
ある新人を指して「あいつだめだよ~やる気が無いよ。自分で考えようとしないんだもの。」とぼやくので、
しばらく観察していると、確かに指示通りのことしかやってこない様子。
しかしこの新人、人事に聞いた話では学生時代はガンガンリーダーシップを飛ばしていたと聞いていて、
当時の作品なども見せてもらったことがあるのだが、確かにレベルの高い作品を仕上げていたようだった。
そこで今度は同僚の方をちょくちょく観察してみると、
具体的にこういう色にしてみろとかこういう印象がほしいと言葉にせず、
「もっと明るく」「もっとコントラスト上げるとかさあ」としか言わない。
それを聞くと新人くんは明度を上げたりコントラストをあげたりして持ってくるのだが、
同僚は「だめだよこんなの!」と言ってその場で自分で直してしまう。
んで「ほら、こういうふうにしたいわけ。今度からは自分でやってね」でおしまい。
この同僚、個人の能力としては高くて、ソフトの扱いにも長けているしセンスもある。
だから少人数のうちの会社では重宝されていち早くリーダーを任されたわけだけど、
なまじ自分の感覚で結果を出せてしまうから、物事の手順や技術を言語化することに慣れていないのだ。
ある日、新人くんと話をする機会があったのでいろいろ聞いてみたのだが、
学生という素人集団の中で、いかに齟齬なく情報を伝達するかということに対して、
確かに彼の言葉遣いも平易でありながらわかりやすく、地頭の良さが伝わってきた。
つまるところ、こういうことだ。
彼は指示を出すということについて同僚よりも高いレベルにあって、
それでいてメンタルは同僚に近く、誰しもが自分と同じように指示ができるはずだと思っているのだ。
それゆえに他人の指示もそれに指示を出す側すら言葉で表現できていない領域があるとは考えず、
んで新人くんにはそういうことを伝えてまあもうしばらく頑張ってみなよと言ったら、
彼も「勉強になります」と言ってたんでまあ心配はしてないんだけど、
小さい会社ながら結構業界内で立場を築いて事業を拡大しようとしてるのだけど、
それにあたって同僚のような「個々の能力は高いが指示ができない人間」に、
外注とのやり取りをさせようとしてるんだよねえ…
それを書いた人は男性に書かないなら女性も書かなくていい、というような事を書いてた。
いやそれも違うんじゃないのって思った。
男性でもキャラクターを表す上で容姿が描写される事自体はあると思う。
でも女性脚本による恋愛映画なんかでの相手役の描写には間違いなくあるはず、というかセリフにバンバン出て来る。
ハンサムだと表される役の俳優さんはまさにそう演じているように見えるし、そういう作品の女性監督女性脚本コメンタリなんか大体ずっとハンサムハンサム言ってる。
キャラクターの容姿の詳細自体は性別関係なくあるものだろうしプロットに関わるなら余計にそう。
だから問題は脚本にそういう見た目の描写がある事じゃなくて何でそれが女性に偏りがあるかって事だと思う。
創作する上で登場させるキャラクターに理想を反映させるのは珍しい事でもないし、その中で外見の描写が入る事はある意味当然の事でもある。
だから女性の容姿を讃えるような描写が多くなってるのは単純に数の偏りって面があるんじゃないかなと思う。
でもこれはたぶんそういう話ではないとは思うけど。
脚本で容姿を描写する目的のひとつに書いた人間が持つキャラクターイメージの伝達がある。
これはキャラクターを創作、脚色する上での要素だからそれ自体は問題ではない。
美しさを描く事に罪はないし、美しいとするキャラクターを作る事にも問題はない。
外見情報によって社会的にそのキャラクターがどのような立場、印象にあるかを客観的に示す要素。
問題はこっちにあると思う。
これも社会一般の印象を引用するに過ぎないわけだからそれ自体が問題ってわけではない。
それが性別で偏りがあって女性の描写で必要とされる事が多いなら、それは男性以上に女性の容姿が共通認識として印象への判断材料のひとつになっている、またそれだけ女性の容姿にステレオタイプ的な印象が紐付けされている、という事になる。
男性より女性の方が容姿の美醜が社会的立場や内面や性格を表す要素として一般的に認識されている、そういう話。
脚本という性質上イメージを伝えるためにステレオタイプな共通イメージを用いた伝え方をするのは、あくまで方法論としては仕方ない部分もあり、それは責め切れない面もある。
だけど恐らくツイートで訳されていた女優さんたちの口ぶりからは、そういう脚本家側の引用する共通認識が彼女達の考える、今意識として持つべきとされる認識が許容する範囲を越え、既に共通イメージとしては過去のものとすべきところから引っ張られたもので、そういうところに辟易しているのだとそう感じた。
だから男性を書かないなら書かなくていい、は、ある意味思考停止的な発想だな、と思った。
書いてる事が問題なんじゃなくそう書く事で伝わる共通認識があるとする、そこに問題意識を持たない事に平然としてそれを書く、その感覚が問題なんだから。
それは今後女性脚本家が増えて理想像を反映した男性の容姿の描写が増えても解決するものじゃない。
美しさの描写といっても同じように男性脚本家の理想を表した女性像の描写も、個人的な範疇のものはそこに自由はあるべきで批判すべきものでもないし、キャラクターの主観としての描写も安易に非難すべきものじゃないし。
考えるべきはその価値観が社会のどこからどういう体で引用されたものかって部分なんだと思う。
でも見てる近辺でたくさんRTされてて何も言えずに誰も見てないような増田で書くのだ。
気がちいせえ。
あとついでに言うと容姿を美点とする場合に知性や能力、性格と比較して容姿で表される事自体を問題視する人もいるけど個人的に正直それこそ問題だなと思う。
書いたみたいな容姿偏重が問題なのは分かるけど、それなら必要なのはその容姿の地位まで知性等の要素を持ち上げる事で、バランス取るために容姿を落として相対的にやるのは結局今まで知性で苦汁舐めてた感覚を容姿を持ってる女性に味わわせる事になってて、それって知性を持つ女性を掬い上げるために容姿を持つ事の価値を低く見積もり直すって事だからどうなのって思う。
突出した美しさと突出した知性はどちらも自立して価値が同じようにあるべきものなのに、今は美しさそれ単体では魅力として、特に女性の意識として認められなくなって来てる部分はあると思う。
だからこそ美しさだけで女性を表す事が問題視されるんだとも思う。
魅力ある人間とされるものを表するに足りない要素だけで、その相手を表現する事になるから。
悪意は無くても、あなたはそれしか持っていない、となってしまう。
同時に男性からは根強く美しさは魅力として捉えられる部分も大きいから、女性が知性を自立した魅力だと捉えていてもそれ以上に求められるという面もある。
その齟齬でまた女性側に容姿が持つ価値への否定的感情が増してまた男性との価値観の差異が酷くなって、となった結果また容姿の価値を低く見積もってそれを世に提示して、更にまた容姿を褒められる事への価値を低く捉えるようになってって女性の自尊心には悪循環に思える。
だからそれを止めるために男性が美しさって要素へ持つ価値基準を否定して齟齬を埋めようってなってるんだけど。
やっぱりそれも男性が高く認める美しさって要素の価値を下げさせる事によって、それ程には正しく評価されてないとされる他の面との差を縮めようというやり方で、それは魅力としての美しさっていう本来多くの魅力がそこにあるべき正しく高い位置に置かれていたそれさえその価値を失わせる結果になる、というかなってるわけで、やっぱり良いやり方とは言えないんじゃないかな、と思う。
本当は美しさもそれだけで100%魅力だし知性も性格も100%の魅力なのになって思う。
絶対値があんま変わらない相対的な差の埋め方って何にしてもよくないよほんと。
美しい事の価値を据え置かないで下げてバランスとるの求める人多くて内心悪手でしかないってほんと思ってる。
思ってるけど匿名でもないと言えないのだった。
そして溜飲を下げるのだ。
気がちいせえのだった。
よくないわ。
「これからは好きなことしか仕事にならない!」みたいな言葉に騙されて軽い気持ちでフリーランスになったはいいが、稼げなくて悲鳴をあげる人がどんどん出てくるだろう。
上の理屈は好きなことに没頭した方が技術が上がるみたいな話なんだが、それと人がお金を払うかどうかは別の話。
熱意を持って打ち込もうが、相手が金を出してでもほしいと思わないとお金は出さない。
自分が何にお金を払ってるか考えたらちょっとはわかりそうなもんだが、欲ボケした人間にはわからないのだろう。
ところでこういう齟齬が起きるのは日本だと「商売人」を見る機会が少ないからだと思う。
人に雇われずに暮らすっていうのがどういうことか見えにくい。
一度、東南アジアでも回ってみたらそれがわかる。
なるとしたらそれは男性差別による部分じゃなく言ったやつの相手への距離感がおかしいからだと思う
同じ言動でもちゃんと関係性を理解して言う人のはセクハラにはならない
だってそういう事を相手が受け入れる関係性をちゃんと作り上げてそれを分かった上で言ってるから
そこの過程や気遣いを飛ばして同じ言動して同じ反応が返って来ないだとか態度が違う事を一方的に理不尽に選り好みしているかのように言ってそちらに原因があるかのように言うのはストーカーの気質があると思う
それは相手によって贔屓してるんじゃなく公平に関係性によった言動になってるってだけの普通の話だから
でも外見なんかでその関係性の進度に差が出るっていうのは現実としてある事だと思う性別関係なく
男女差があるように見えるのは男性側の女性への距離意識の関係でおおよそ男性側の方が女性より異性からの色んな距離感に対して受け入れる傾向があるからだと思う
男性が女性より割合としてセクハラ指摘される方向にあるのもそれが理由だと思う
男性が問題とかじゃなく単純にハラスメントはされる側の印象が尊重されるから比較した場合に男性側の方が女性からの発言の許容範囲が広いために女性の発言がハラスメントとされにくくまたそれが関係性を誤解する結果にもなり易いという事なんだと思う
それを何か発言においての性別による社会的な絶対的許容度の差が原因の結果だとか女性が許される発言でも男性だとハラスメント扱いみたいに言うのはそもそも色んな事を理解してないんだと思う
当然男性も気の合う女性ならOKな話題でも違う相手にはなんやこいつって思う事もあると思うし
同性で下心的な含みなんてなくても立場利用して性的な話題に関して色々言ってくる人間はいるし
あと勝手に代弁するようにこれセクハラでしょ、ってやる人はおかしいのかなって本当に思う
グリンピース嫌いだから人のチキンライスからも除けてあげるべきとか言う人なのかな
いや知らんやんてなる
自分がされた時はセクハラって言えばいいけど今あなたはされてませんよ大丈夫ですかってなる
私もグリンピースきらいだから除けたいけど出来ないって言われたら除けてあげるのも私もきらいなの最悪だよねって言うのも解るけど
セクハラって定義出来る言動が自分の主観的な基準に沿って存在すると思ってる認識の歪み感がすごい
そんなものはないのに
かわいいね、もプライベートの話も見た目の話も年齢の話も肩組むのもハグも関係によっては職場でだって相手が異性だって受け入れられるよ当たり前じゃんて思う
そしてそれを受け入れる人がいるからってその行動自体が受け入れられるべき行動って事にならないのもそうだし
距離の取り方や受け入れられる言動の範囲は人それぞれだなんて当たり前の話だし
そんなの普通の事じゃんって
何で普通の事なのに急に職場だとかハラスメントって言葉になるとそれが非難する方もされる方も理解できなくなる人が続出するんだろうか
普通に考えればいいだけなのに
意味分かんないわほんと
自分は意思疎通に齟齬が生じる事が多い。あまりにも多い。そのせいで参っている。
自分が人に言っていることが伝わらないことにもストレスを感じるが、それ以上に自分が人の話を正確に理解できないことにもストレスを感じる。
どう考えても上記問題は周りの人間ではなく自分のせいなのだが、自分が言う側については一生懸命準備したり、わかりやすく話すための努力をすればなんとかなる(と信じている)が、問題は逆側。
誰かの発言を自分がなぜそう理解したのか、なんてわからないし、それを改善したいね、と考えてもどうすれば良いのかなんて全然分からん。発言の理解の仕方を矯正する方法があるならぜひ教えてくれ……。本当に参っている。