はてなキーワード: 羞恥とは
エロ表現規制の話になると、それが犯罪を助長するかどうかっていうのが争点になりやすいけど、十一歳ぐらいからネットに触れ始めた元少女の私としては、エロ表現自体に傷つくんですよということを言いたい。
エロに慣れてる人は(今の私もそうだけど)気づきにくいよね。あれ、無垢な子への衝撃としては猟奇グロと同じだよ。
グロがなぜ一般的に受け入れられないかというと、なんか残酷で痛そうで怖い、っていうのがだいたいの人の感覚だと思うのね。
もちろんグロ愛好家はいるしそれは全く悪いことではない。何故なら彼らは基本的にはそれを誰でも見られるところにばら撒かないから。
ツイッターとかで突然グロ絵にいきあたってビクッとする、って経験はしたことがない。
でもエロは何故か大手を振ってあちこちに進出するし「むしろ性欲をこれで解消できるんだから犯罪を抑止してる!」とか言い出すんだよな。
「このエロ絵に描かれてるのはあくまで絵の美少女でお前じゃないのにどこがセクハラなの?」とか言う人は、「この四肢切断されてるのはあくまで架空の人なのになんでお前が怖がるの?」って言うんですか?
ホラー映画猟奇映画で怖がってる人に「ナイフで切られてるのはお前じゃないのに『痛そう』ってww」って言う? だいぶ無神経だな。
エロ絵の場合、エロいめにあってる属性が女の子で自分は安全圏にいるって確信できるから嫌じゃないだけだと思う。
私が小さい頃にネットでエロ絵を見てしまったときは、とにかく凄い衝撃を受けて、強い悪意を感じた。
今思えば別に描いた人に悪意はなかったと思うけど、なんだろう、なんか、人間をモノとして見れるんだな、っていう気づきを得たというか。体の部位に対する執着が可視化されてるのが怖かったのかも。「鶏のモモ肉はぷりっとして美味いよね」みたいな。「女の胸はぷりっとしてエロいよね」。
あと女の子の感情が見て取れる場合羞恥とか絶望が多いのも大分キツかった。総じて人格を無視して『肉の塊』にされてる感じ。
露出そのものというよりは意図が嫌なんだな。裸のマネキンには何も思わないし。
成長してからは自分の中で区切りがついて、エロ絵を自分から見に行くこともあるけど、でもやっぱり『エロ見たいとき』『エロ見たくないとき』というのがあって、見たくないときにエロ絵が出てくるのはめちゃくちゃ嫌。
情緒発達中の子どもに見せるものではないし、大人だって見たくないときはある。
ゾーニングはしてください。
昔からYouTubeは利用していたが、ゲーム実況などはそんなに見たことが無かった。
リモートワークを機に、家で手が空くようになり、ひょんなことからガッチマンVを見ることがあった。
(侵入経路は牛沢のBotW→TOP4の4人実況→キヨ・レトルトの全身ラジオ→ガッチマンVの雑談枠、といった感じ。)
ホラゲは怖いのでガッチマンの実況は見ていない。
が、彼の雑談が妙に面白く、雑談配信や他のVとのコラボの切り抜きなどを見ている。
そこで諸兄に頼みたいことがある。
雑談やラジオが面白い、オススメのVtuber(またはYoutuber)を教えて頂けないだろうか。
SHOWROOMなどの選択肢もあるとは思うが、YouTube上で見られる方だと有難い。
Vtuber界隈からしたらガッチマンVなんて異端児でアンチも居るだろうが、長い年月を配信者として過ごしてきた彼の発言に面白みを感じる。
それでいて軽い口当たりであったり、諧謔味や羞恥が見られるのを楽しいと感じているのかもしれない。
あとは、彼のちょっと懐かしい話題(古いアニメやゲームのネタ)も他ではなかなか聞けないので嬉しい。(増田自身は牛沢と同い年)
如何せん引き出しが無いので、雑にオススメしてくれると助かる。
【追記】
みなさん色々ありがとうございます。
vtuberがyoutubeに限らず様々な媒体にタレントとして出演するようになり、今や批判の有無は別にどこに現れても不思議ではない状態になっている。
そんなvtuberは架空のキャラクターでありその名前は奇をてらったものであったり一目で専門分野が分かるものであったり、あるいは「かわいい」を突き詰めたものであったりと、その命名はリアルのアイドルやタレント的ではなくどちらかと言えばオタクカルチャー的なキャラクターの命名の流れのうちに思える。
変な漢字の苗字+既存の単語か変な響きのひらがなorカタカナ の名前を見るとあ、またvtuberかなと思ってしまう。
https://www.hololive.tv/member
私はvtuberにぜんぜん詳しくないので深入りしないが、彼らがyoutubeを飛び出すとそこはひとつの人格というか成人のタレントとほぼ同じように振舞うわけですな。(魂が~とかはよく分からないし生身のタレントも素全開なわけではないから振る舞いに差はないと思う)
つまり今までの大人や事務所なら付けないような芸名の人たちがタレントとして様々な場所で見かけるようになった。
今の私の人間への命名感では「きもちわるい」と感じてしまう。もうしょうがない。
たとえば哲子の部屋で「今日のゲストはドラえもんさんです~」とかなってもああなんか特番の宣伝かCGを使った変わったことをするんだな的な特殊フォーマットとしてみることができるが、
「今日のゲストは白銀ノエルさんです~」なんてなっても白銀ノエルはvtuberという成人タレントだから通常の哲子の部屋回と変わらないわけで、哲子が白銀ノエルを連呼したり苦労話を聞きだしたりしていたら視聴に堪えないと思う。
vtuberの命名センスは芸人の、なんだろうな「もう中学生」とか「鉄拳」とか「ザコシショウ」、そんな流れのyoutuberの「ヒカキン」とかアーティストの「きゃりーぱみゅぱみゅ」とは違う現実に居たらおかしい痛ネーム、DQNネームなわけで。(田中のおっさんとか当然ある例外も多少存じてます)
正直昔はテレビに初音ミクの文字を見るだけでもじもじしていた。それにようやく慣れて市民権を得たある意味魂が入ってないクリーンでバーチャルなアイドルとして受け入れることができてきた。
しかし今後はテレビも「見る」しゲームも食事もするいち人格の人たちが「はあと」や「ちょこ」や「オウガ」さんとして知覚することが多くなるのだろう(vtuberに詳しくないので参考にホロライブメンバー表だけ見て適当に挙げてるが個々人や所属に他意はない)。
どうすればいいか?どうするもなにもない。受け入れて慣れるしかないのだ。vtuberは無罪である。
このネーミングセンスは生きている人間に、あるいは芸名につけてもおかしくないものだと自分に言い聞かせるしかない。苦痛を受けないために。
そうすると畢竟、今まで痛い名前と思ってきたアリスちゃんやらぶちゃんやぴかちゅうくんも笑えなくなるのだ。何も不思議を感じなくなるはずだ。
一般人の名前を笑ってはならぬ。自分でつけたわけではないのだから。今まで私のDQNネームへの嘲笑は現代社会でそれをつけるにいたった両親へ向けられていた。それがなくなることは善いことなのだろうか。少なくともDQNネームをつけられた本人はいいだろし、命名への変な同調圧力がなくなるのもまったくよろしい。が、何かを見落としてしまう気もするのだ。
いやしかし、人の名前から何かを見出すこと。これは人の箸の持ち方をもってその人の人格や両親の教育に難癖をつけるに近しいものかもしれない。よくないことかもしれない。
vtuberによってDQNネームは市民権を得て、生身の人間の名前をなんとも思わない日が来るかもしれない。
表現に対して規制より自由・許容を求める自分はそれを良しとしている。
オタク的カルチャーな何かが大々的に大衆に周知されることを恥じる古の自分はそれを恥じている。
思慮が足りない人物の行動をエンタメとして消費しているゲスな自分はそれを寂しがっている。
しかし、今しばらく、今しばらくは現実に見かけるDQNネームに対して、youtubeなどの配信環境外で見かけるvtuberの名前に対して、気持ち悪さと羞恥をもって接することになるだろう。そしてその頻度は緩やかに上がっていくのである。
これは恥ずかしい。共感性羞恥で読んでいる私が恥ずかしくなった。
元増田に投資=ギャンブルという前提があり、金融所得課税の意味を知らないくせに、人に対してギャンブルをしてはいけないと説教したい欲望があるから、自信たっぷりに誤ったことを書いてしまうんだろうな。
株式にしろ投資信託にしろ、金融所得課税は利益に対して支払うんだ。具体的には以下の2点だ
【2】において肝心なのは、売却益は購入時と売却時の差額であり、売却益が無ければ税を支払う必要が無いってことだ。そこがギャンブルにおける控除率との大きな違いだ。
元増田は投資=ギャンブルと考えており、金融所得課税の税率の数値が公益ギャンブルの控除率の数値に近いから、一緒に考えてしまったんだろうな。
単に投資の経験が無いだけなら特段恥ずべき事ではないが、以下の発言が恥ずかしい。
もちろん何の根拠も無い元増田の勝手な思い込みだ。しかし、元増田は人に対して説教したい欲があるから、その思い込みを他人を説得させる為の理論の様に語ってしまったのだろう。投資経験の無い元増田が上記の文章を書いた時の表情を思うと、私が羞恥に耐えられなくなってくる。
お前の言ってるのは男女雇用機会均等法における「職場のセクハラ」な。
今回
第5条 何人も、正当な理由なく、
人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為であつて、次に掲げるものをしてはならない。
(1) 省略
(2) 次のいずれかに掲げる場所又は乗物における人の通常衣服で隠されている下着又は身体
を、写真機その他の機器を用いて撮影し、又は撮影する目的で写真機その他の機器を差し
向け、若しくは設置すること。
イ 住居、便所、浴場、更衣室その他人が通常衣服の全部又は一部を着けない状態でいる
ような場所
詭弁だな。
税率aの範囲を(0≦a≦1)と定義した以上、手取りがマイナスになる訳ないだろ。
a=1(つまり税率100%)の場合に手取りが0になって、それ未満の数値(税率)の場合には手取りは必ずプラスになるんだから。
累進課税の場合税率は所得に比例すると勝手に決めつけて謎の変数bを設定し、全く関係ないx-x^2のグラフを提示したとて、手取りがマイナスになる訳ないだろ。
どうせ、現在の所得税の最高税率に近い数値を適当に入れただけだろ?
税率が50%超えると手取りがマイナスになるのか?そんな訳ないだろ。
例え税率が90%を超えたとしてもマイナスにはならねーよ。
1974年の所得税の最高税率は75%で、住民税の最高税率は18%で合計93%だったんだぞ。
税率93%が適用された人は手取りがマイナスになったのか?そんな訳ねーよな。
お前の書いたことは単に間違っているというだけではなく、見た人に対して累進課税の上限を高くすることはできないという誤った認識を流布するので極めて迷惑だ。
それも嫌だというなら一向に構わん。
「羞恥を感じるかどうか」で相対化してるだけだぞ
小さい事なのでみんな忘れてしまっているが、官房長官時代に2014年のフランス、アングレーム国際漫画祭で幸福の科学が後援する「論破プロジェクト」(主催も同教信者)のブースを撤去した事に関して主催者を批判する談話を発表した。
ソ連崩壊後のロシアなどで与党議員がそういう「自由な」行動をして破綻国家だなと思わせる事はあったのだが、一国のスポークスマンが公式にやるのかよ、バナナリパブリックかよ、と頭が痛くなった。
このブース設置などはなんつーかもう単純に数を集めた政治廚の迷惑行為で、更にテキサス親父日本支部などの随伴者が沢山居り、同チャンネルはブース撤去した会場責任者の携帯電話はやっぱりサムスンですね!とか動画にしていて、要するにその頃大量にあったYoutubeのヘイト動画の飯のタネだったんで随伴したんよ。やってる事は迷惑系Youtuberそのもの。因みにこのチャンネルはその後なんJでBAN祭りが盛り上がった時にBANされてる。
それの排除に対して日本国政府のスポークスマンが公式に文句付けちゃう。頭がクラクラする。しかも幸福は仏政府の指定カルトで、自由国家なので活動は制限されないが勢力伸長やその活動は監視されている。
日本の漫画家が呼ばれてニュースになる度にあれを思い出してその情けなさと滑稽さに共感的羞恥を覚えると共に時に笑いが出てしまう。
他国で日本人が何かをやらかした時(記憶に新しい話題だと、トルコで猫食った日本人)、それを日本人の仕業だと素直に認めず、まず中韓の成りすましを疑う人たちが多すぎる。youtubeのコメントを眺めていると、一部とかでなく、4割くらいいる気がする。
これが自国内だけの閉鎖的なコミュニティでされる身内話ならまだしも、youtubeという世界にオープンな場で、それなりの数の日本人がそれをやってしまうという羞恥。しかも他国籍のコメントに対して直接「中韓の成りすましかもしれないんです!」とか言ってしまうこの有様。
あまりに感情的。恥ずかしすぎる。他国の日本人に対するイメージ悪化を心配する割に、そうした自らの行いがイメージ悪化を齎すとは思い至らないのだろうか。
疑いを持つことは自由だけれど、「犯人は日本人」という情報を現状確たる事実と信じるしかないのに、単なる疑い程度で「私たち日本人は悪くないんです!」なんて他国の人に言わないでくれ。頼む。そんな事言うの、たぶん日本人くらいだと思う。
他国の自国アゲの動画もコメント欄翻訳して見ることあるけど、他国民ってナショナリズムをちょっと忌避しがちな傾向で、自虐的だったりシニカルだったり、そうでなくてもとりあえずトピックに対して持論を冷静に述べているコメントが多いと思う。
それに比べて日本人、圧倒的に感情的自国アゲ。恥ずかしい。簡体字の荒らしコメントをバカにできない。せめて世界から見られる場所でそれをやらないでくれないか。
youtubeには外人による日本人アゲ動画が無数に蔓延っているけれど、そうした動画のコメント欄での日本人は特に振る舞いが恥ずかしくて見てられない。
ざっくり言うと、動画内での日本アゲにドヤ顔&日本アゲ&他国サゲをよくする。日本っていいよね、程度なら別にいい。しかし彼らは「自分たちも逆の立場にならないように省みないとね」「これからも恥ずかしくない振る舞いをしていこうね」といった風な俯瞰的視点から見た”学び”はほとんど持たない。自国アゲ動画は自身を肯定してくれる道具でしかない。
「日本人って謙虚で優しい!」みたいな動画のコメント欄にそんな高慢日本語コメントが蔓延っていると動画タイトルの否定の体現を秒で見せられた気分になる。何を隠そう、自分も日本人は謙虚で優しいなあと思っていたからこそ、コメント欄を見て「これのどこが謙虚?」と衝撃を受けた。
はじめは日本アゲの動画なんてさらさら興味なかったが、そうしたコメントをする日本人の多さに興味がわいて、コメント欄漁り目的でそれらを巡るようになった。明らかにウヨ向けなものは無視するけど、(比較的)普通のニュースでも他国と関わる且つ日本アゲの話題があるとご機嫌なコメントであふれかえる。SAN値と日本人としての尊厳がゴリゴリ削られる。いっそ気持ちいいくらい恥ずかしくなる。Mなのかもしれない。
この傾向はyoutubeだからこそだとは思う。はてなやTwitterには左右どちらも居るし議論も頻発する。youtubeの日本関連の動画にわざわざコメントする日本人は、他人の目を気にする割には、他人から自分がどうみられるか考えられない人が多いような気がしている。
生まれてこのかたカスの私は「明らかに乞食目的のクラファンページを見る(金は出さない)」という悪趣味があるのだが、その最中に出会ったVtuberが彼女(仮にV子としておく)であった。
大好きな歌を歌ってみんなに届けたい!
そんなキラキラした夢がありつつも資金が足りずPCや機材が準備できないV子は、ついにクラファンに手を出すことにしたのだろう。
高校生か大学生だろうか、少ない貯金をやりくりしてでもどうしてもVtuberをやりたいのだ、なんて健気な子なんだ。やたら顔文字を使っておりイマイチ真剣みが感じられないところにも、若さというか幼さが感じられる。
V子に興味が湧いたカスオタクは、リンクから彼女のTwitterを覗いた…のだが。
ネットリテラシーって知ってる?と思うほど、個人情報が出るわ出るわ(本名の下の名前、生年月日、血液型、身長、胸のサイズ、最終学歴、居住都道府県)!
マジ…………?
二十代のいい歳なのに、「この衣装は戦う時にはフォームチェンジして〜(以下クソ長くてどうでもいい設定)」だの、「神界生まれだからお勉強は苦手なんだ(//∇//)」だの、中学2年生がノートにまとめててもアイタタタ…となるような設定がてんこ盛りだった。
加えてその超重要(笑)な設定は徹底されておらず、普通に中の人の情報までペラペラ喋っている。神の子なのに派遣社員なんだ…しかも中卒なんだ…みたいな、赤裸々な事情が丸わかりである。
など、いやマジで社会人か!?背伸びした中学生でなく!??と壮大な釣りを疑ってしまったが、V子は至って真剣だ。毎日のようにクラファン支援のリツイートをし、達成率0.1%のまま数ヶ月頑張っている。こいつに支援するやつもなかなか勇気と根性があると思う。
さらにV子は、「専業Vtuber目指します☆」とまでのたまっている。すごすぎる。神界生まれの彼女の目には、人間界の現実など見えていないのであろう。貯金額は約10万(これもツイートしていた)、歌ってみたは現時点で全てカラオケ収録(しかも全部2桁再生)の彼女が、専業Vtuber!?
私は震えた。
人は安定を求めるものではないのか。学歴がなくとも地道に資格を取るなどして働く、結婚して家庭に入り主婦になる、など無難かつ堅実な道を選択するものだとばかり思っていた。芸事の道を選ぶものなど一握りだと決めつけていた。
けれど、V子は違う。
インターネットリテラシーも資格も金も技術もない、他人に勝るような部分は自己肯定感ぐらいの彼女が、Vtuberで飯を食おうとしている!
なんて無謀なんだろう。社会人のくせに化粧もしない、貯金もないし友達もいない、やることといえばゲームかお世辞にも上手とはいえない二次創作ぐらいのV子。
可哀想に……。
Vtuberのコンテンツとしてはクソほども面白くないが、彼女の生き様は見ていて興味深い。以前バズった某メガネをかけたbotと似たようなスリルを味わえる。
男性が受けている差別として重要だと私が思うのは、警戒されることと、信頼という名目で粗末に扱われることです。
男にも女にも、男は警戒すべき存在だという感情がうっすらとあります。
同時に、男性だったらほっといても大丈夫だろう、という肯定的な信頼の形をとって、男性のことをろくに気遣う必要はないとされがちです。
だから、世間話でもマスメディアでも、男性への警戒や、過度の信頼による雑で粗末な扱いが平然と行われています。
それが積み重なった結果として男性は、敬遠されて孤独な人生になりやすく、自尊心も低く、自分たち男性自身への嫌悪も生まれ、自分の事すら粗末に扱い、次世代男性もそのように扱うので引き継がれる、などの被害を負っています。
「保護と抑圧は地続きなのでバランスが大切だ」という話をよく目にしますが、同じように、信頼と放置も地続きなのです。
家父長制は、自立したい女性にとっては抑圧という差別だけれど、自立を望まない女性には保護を受けやすいというメリットとしても働く。
それを裏返したように、男の自由放任は自立できる強者男性にとってはメリットだけれど、弱者男性にとっては助けてもらえないし悲鳴も無視される差別として働いています。
若者が遭遇しやすい実例として、バイトやサークル活動が長引き、夜になってしまった場面を考えましょう。
これを、男性の方が不安や心配事が少なく生きられるというメリットととらえることは確かにできます。
しかし同時に、「襲ってくるとしたらたぶん男だ、男を警戒すべきだ」「男の自分は、夜道で女とすれ違う時に怖がらせてしまうだろうから気を使わねばならない」「男の帰り道を気遣ってやる必要はない、男は粗末に扱っていい。自分が男なら自分の事も心配せず粗末に扱うべきだ」という認識を強めることにもなります。
実際は、男性でも深夜に一人で帰ることに恐怖を感じる人がそれなりにいるのですけどね。
でも、女性の帰り道は心配されるが男性はそうではないという現実と向き合うたびに、「ああ、俺の夜道への恐怖は認識すべきでない感情なのだ。むしろ俺は怖がる側ではなく怖がらせる側なのだ」という方向へ矯正され、やがて本当に自分でも自分の不安や恐怖に気づけなくなります。
色々な場面で、不安を感じてないことを前提とした粗末な扱われ方を重ねて、男性は自分に対しても他人に対しても鈍感にさせられていきます。
たとえばトイレ。
男だったら道端で立ちションしても大目に見られがちという自由は、性器を露出し排泄を見られたくない感情を気遣ってもらえないという粗末な扱いでもあります。
不安や羞恥を感じていた男児も、「その辺でおしっこ済ませてきな」と言われたり、仕切りのない小便器や、女性が清掃に入ってくるトイレを使ううちにその弱さを鈍麻させ忘れてしまいます。
この言葉はおおむね好意や信頼の表れですが、同時に「男の人は一人でも不安になる必要はないよね、あなた自身が男の人なんだから」という扱いでもあります。
一人で行動しても口を挟まれない自由の反面、一人は心細いという男性の感情は最初から考慮されていない。
このような扱いに触れ続けることで、「俺は男だから不安になる必要はないんだ」と自分を勇気づけ、痩せ我慢することが癖になります。
夜道にせよ、トイレにせよ、一人行動にせよ、成人男性に直接聞いてもたいてい「いや全然平気だが」と言うだけでしょう。
最初から平気な男性と、鈍麻し平気にさせられた男性と、本当は平気じゃないが痩せ我慢している男性を区別することは本人にすら困難です。…
…これは「たとえ当事者が男性差別を否定しても、それをそのまま受け取るべきではない。男性差別は存在する」という無敵論法っぽくなるので好きではないロジックですが、そう言わざるを得ない。
ここ数週間のネットでは、男性はセルフケア能力が低い、まずは自分を大切にすべきなのにそれをしようともしない、などという話も多くなっていますが、それは数十年にわたる「男性は自由に行動してよい反面、粗末に扱ってよい」という経験の積み重ねによるものであり、決して男性個人に責を負わせるべきでも、自己解決を求めるべきでもありません。
セルフケアに焦点を当てるならば、社会によって損なわれた男性個人のセルフケア能力を育て直すため、社会が反省して手厚く協力してあげよう、という話になるのが妥当でしょう。
しかし現状の男性セルフケア論では、セルフケアというスローガンと丁寧な暮らし雑誌は与えてやるのであとは自分で(せいぜい弱者男性内部で)上手くやって満足しろ、社会は手を貸す気はないぞ、という正反対の切り捨て論になっています。
男性が警戒され、気遣ってもらえない原因には合理的理由がある、という反論はできるでしょう。
腕力の強さ、性欲や暴力性の強さ、外見の悪さ(体毛が濃く皮脂が多く禿やすいなど男性ホルモンが外見に与える悪影響は多い)、コミュニケーション能力と共感能力の低さ、など。
しかし、そのようなある程度の合理性があったとしても、統計的差別であることは間違いありません。
統計的差別はどの程度まで許されて良いか、というのは難しい問題なので、別に論じる必要があります。
そして、フェミニズムと弱者男性論の共闘が難しいのはここが主要な原因でしょう。
「性犯罪は男性から女性への加害が多い(犯罪全体では男性被害者の方が多いですが)」「腕力が強くて静止が困難」「妊娠リスク」など様々な事実に基づき男性に対する統計的差別をどの程度認めるべきか、真っ向から対立しますから。
統計的差別は一切許されるべきでないと言い切る人も時々いますが、それはどの陣営であっても非現実的でよくないと思います。
もっとも「社会を運営するにはマクロ視点の統計的差別が必要なことは認めるけれど、その加減を考えましょう」とかぬるいことを言ってると、確かにそうだね考えなきゃねとは言ってもらえても実態は現状維持が続くだけであり、統計的差別を一切許すな!と極端なこと言って圧を掛ける方が新規分野の社会運動としては実を結びやすいんでしょうけどね……。
これに近い話題は、今までも男性は加害者として認められやすく被害者として認められづらいという内容でしばしば語られてきましたが、たいてい注目されるのは悲惨な女→男セクハラや暴力事件がほとんどです。
それも由々しき問題ですが、その根底にあるのは、もっと日常的でうっすらとした「男ならまあ平気だろ。ほら、やっぱり平気だった」という日々の積み重ねではないでしょうか。
特に、「男性なら大丈夫」という信頼により粗末に扱われる場面は見過ごされやすいと思います。
フェミニズムでは、「女を自立した人間と信頼して放任しろ、家父長制で口を出してくるのやめろ」というアプローチが行われていたため、その逆になっている、過度の信頼による放置という男性差別は問題視されづらいのです。
「女子供は弱いから保護して指示してあげなきゃね」という慈悲的差別に対して、男性が受けやすい「男は大丈夫だろうから心配する必要もないし勝手に自立しててくれ」は信頼的差別などと呼べそうです。
この記事は、これまで弱者男性論で強調されてきた、人間関係、恋愛、経済、ジェンダーロール、弱者男性論が不条理に否定される、などの論点と対立しません。
警戒されつつ粗末に扱われることは、親しい人間関係や恋愛関係のハードルを上げます。
経済的貧しさについては、一般的な貧困問題に加えて、男性は公的にも私的にも助けてもらいづらいし、そもそも助けを求める能力が社会により破壊されていることが困窮してはじめて露見するなど、男性特有の困難があります。
男性ジェンダーロール問題とくくられるような、男なんだから泣くなしっかりしろと言われるとか、責任を負わされるとかは、「信頼の名目で粗末に扱われる」部分です。
弱者男性論自体があまり聞く耳を持ってもらえないしミソジニストとすら言われるとか、困ってると認めてもらえなかったり、困っててもそれは受け入れるべき部分だと言われることなども、「信頼してるという名目で粗末に扱われる」ですね。
また、「男性にも弱者がいることは分かったけど、結局どうなることを求めてるんだ、要求を出してくれ」という問いがありますが、運動として歴史の浅い弱者に、的確な要求をする強さをいきなり求めないでください。
現時点では、「どうなったらいいかを、男性に肩入れしつつ一緒に考えてくれる人が増えるのが望みです」としか言えません。
少なくとも私は、男の乳首も露出NGにしろとか、男性トイレもすべて個室にしろとか、芸人のちんちんポロリシーンやハゲネタはダメだとか、「男の人がいると安心」はハラスメントだから許すなとか、そういう短絡だったり個別的すぎる議論にはしたくありません。