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はてなキーワード: 演繹とは

2024-11-23

anond:20241123145835

あの本、ちゃんとしたモデルの構築がない(社会学系は概ねそうだが)ので、どこまで行っても結局は私はこう思うの範疇を出ないんだよね。それにキャッチー名前けが加わるくらいで。

それがあったら外的なデータを使った検証とか、そこまで行かずとも演繹結果の現実に対する説明力で妥当性がチェックできたり、将来予測一助とできたりするんだけどさ。

2024-11-03

anond:20241103141500


一見何事か考えてるようで実はボヤっと連想してるだけなんだよなあコレ。

帰納演繹のようでその型を薄っすらなぞってるだけ。

往って来い論法」とでも名付けておこう

まあお前らレベルだとコレでも目一杯頑張ってるほうだけどな

2024-10-25

射精って脳みそ機能金玉移管されて、股間ユニットが「全弾発射」と命令を下す様子に例えられますが、

女の子オーガズム意識骨盤を補完する球体に宿りエクストラ・アクメ・ドクトリンを発布して腰背骨を経由し脳にアクメ機能とドクトリンが逆伝播し、脳、脊椎及び脳の支配する全感覚器が命令遂行するいわば「フェスティバル」とされる点について、

なぜ私はこの1人には知り得ない2つを科学論理演繹を経ずに肯定するかというと、私が2つの主観を持ち得るもの、つまり、神であるから

2024-10-06

anond:20241006002345

帰納演繹比較実験がないものは「科学」ではないの

葉っぱの生える角度がX度だ!つまりフィボナッチ数列関係するんだ!ってなんの実験もなしに言うのは

ワクチン感染拡大だ!とか波動!霊体!とか言ってるのと変わらん

2024-10-03

anond:20241002123447

すべての行どころか全ての単語突っ込みどころしかないトンチンカンコメントですね

そもそも文章をキチンと読んでないよね?

斜め読み安易他人を蔑む自身幼児性を省みてはどうかと。

 

では解説

 

・いい歳して

愚痴

一般化して

自己肯定図るのやめな?

【いい歳して】

増田に年齢は書いてない。勝手な推測だよね。それはいいとして、

いい歳したら愚痴を放ってはイカンの?

なんで?

不平不満を押し殺しポジティブ思考や行動に昇華すべき

このような社会通念は存じているが

匿名日記愚痴で発散しパブリック場所では愚痴を糊塗するのも一つの手法ではないか

嫌なら読まなきゃいい、コメントなどせず黙殺すりゃいい。

 

いい歳して、のワードには上から目線も感じる

「いい歳してネットマウント取って自己満足図るのやめな?」

 

愚痴を】

上述とかぶるが、ネット愚痴を放っちゃイカンの?なんで?

そもそも元増田愚痴解釈するのがわからん

元増田

あなたの子供が私みたいな大人になりませんように。」

と締めており、知見の共有を試みているに過ぎない。

文章全体を読んでもそのようにしか俺は解釈できない。

今更話しても無駄過去の不平不満恨みつらみを羅列しているいわゆる愚痴には俺には読めないのだが。

仮に元増田愚痴だと認定したとしてもだ、匿名日記愚痴を書いてなにがイカンのだ?

キミがトンチンカンコメントする自由もある、同様にくだらない愚痴だろうが書き散らす自由もある。

しかしながら元増田には転勤族の子供は精神を病む可能性がある、という知見共有の意義が認められるのに対して、キミのコメントにはなんら価値を感じない、それこそ無駄ネットノイズ

 

一般化して】

一般化の意味辞書で調べましたか

アナタ恐らく誤用してます

端的に言えば元増田一般化などしていない。

どこをどう解釈し「一般化」と指摘したのだ?

 

仮に、誤用ではなく文字通り一般であると強弁するならそれもよかろうが、

一般化してなにがイカンのだ?

元増田体験事例から因果を導き出し、それが他者にも適用される可能性があることを言及しているにすぎない。

世間に知見を広める事はイカン事なのか?

なんで?

 

演繹的か帰納的か

社会の発展は、社会を観察し欠陥を見つけ次の社会モデル模索する、この繰り返しなわけだが

まり演繹帰納を交互に繰り返すしかない。

 

転勤族の子供が精神病みやすい」これは現状では一般論とは言えない、社会的な合意は無かろう。

しかし、その可能性を指摘し議論するのは無駄ではない。

マクロ統計を取り、転勤族の子供の幸福度所得犯罪率、生存率を長期追跡してみるのも面白いだろう。

そこで有意差が出て、社会的に看過できないほどの差があるのか、あるいはまったく差がないのか。

差があるとしたらどこまでケアすべきか、社会的にどう対応するかの議論になる。

そのきっかけは最初は小さな幾つかの事例から帰納的に仮説を構築していくしかない。

 

演繹的な結論のみ取り扱うなら社会は変わらない。

 

保育園落ちた日本死ね!!!」が国会で取り上げられ待機児童問題が劇的に改善されたことも追記しておく、キミに言わせりゃアレも無駄愚痴なのだろうが。

 

自己肯定図るのやめな?】

これまたワカラン

どこをどう読んで元増田自己肯定を図ったと解釈したのか。

私はゲームイラスト制作など立派なオタク方面に進み、それで今一応ご飯を食べています

(中略)

インターネットの中が故郷だと言うと気持ち悪いと思われるかもしれませんが、そうやって安定を得た人間がここにいます

ここあたりか?

これを?w

自己肯定?w

 

いや、うん、まぁ、そう言われればそうかもしれんが

で、なにかイカンの?

なにか問題

あれか?ネットにおいてポジティブ自己肯定発言他者にとって不快、みたいな?w

ネガティブ愚痴ダメ

ポジティブ自己表現ダメ

そういうこと?

なにも書くなと?

事実の羅列のみ許されるみたいな?

 

でもキミのような他者を蔑むワンセンテンスコメントは許される

みたいな?

むちゃくちゃだなw

 

一行で論理破綻とかすげぇよ

2024-09-24

anond:20240924105154

その通りである数学はしばしば「数字計算」と同一視されることがあるが、実際にははるかに広範で深遠な抽象的な学問である数学の主要な役割は、論理的構造パターン関係性を扱うことであり、数字や数値に限定されるものではない。

数論のような分野では確かに数そのもの主題となるが、例えば集合論位相幾何学群論代数などの分野では、数字というよりも抽象的な対象やその間の関係性を追究する。これらの分野では、数値を超えた抽象的な概念が扱われ、そこでは形式的な推論や証明が重視される。

また、数学の核心には公理的なシステムがあり、それに基づく論理的演繹を通じて真理を明らかにしていく。この過程において数字は時に一つの「具現化された例」に過ぎず、多くの数学的な議論証明においては、数値そのものが登場しない場合も多い。

したがって、数学は「数字計算」を超えた、論理的かつ抽象的な概念を探求する学問である

2024-09-13

anond:20240913101600

数学における論理公理から演繹

現実社会での論理は前提から演繹なので、前提が変われば結論も変わる

この当たり前のことを理解していない層がいるので、「論理的に間違っていること」と「前提が異なること」を区別できていない

もし「論理的に間違っている」だけなら、単に一緒になって演繹改善すればいい話で、人格攻撃(例えば「バカ」)する理由はない

2024-09-07

牛角の「女性半額割引」が男女差別である理由

映画館レディースデー男性専用サウナ等、男女を理由サービス提供内容を変えたり制限する例はいくつでも見つかる。

最近ではレディースデー男女差別の誹りを受け廃止される流れにあるとはいえ、結局のところプランの内容自体会社経営方針戦略に過ぎず、

学生割引といった年齢による優遇などとさして変わりはない。法律が裁かないにしても、もしそれが不公平なら、自由経済が裁きうる範囲の話だ。

ただ黙ってやっていればよかったものの、牛角広報で大っぴらに次のようなことを言ってしまっていて、これは明らかな男女差別である

食べ放題での注文量が、女性男性に比べて肉4皿分少ないといった背景からスタートした本企画女性だけの利用はもちろんのこと、男性も含めたみなさまで、お得な焼肉食べ放題を心ゆくまでお楽しみください。

この一文で牛角広報は、食べる量を理由不公平感を減らそうとしたのかもしれないが、かえってこの一文こそが、これがまぎれもなく差別であることを示してしまっている。

なぜなら、もし本当に食べる量が根拠なのだとしたら、女性より食べる量の少ない一部の男性からも二倍の料金を徴収する事態という矛盾した状況を生じさせてしまうからだ。

男性女性より多く食べる傾向にある」というデータ自体客観的ものであるが、すべての男性から二倍の料金を取るというこのキャンペーン実質的な内容は、「ゆえにすべての男性女性より多く食べる」という差別判断のものである

これは「黒人白人より平均IQが低い」という客観的データ根拠に、「ゆえにすべての黒人白人よりIQが低い」を演繹してしまうのと同じ愚行であり、

もし食べる量が本当にその根拠、あるいは背景であるなら、食べた量そのもの個人差によって料金を調整すべきであり、この論理に則るならば、わざわざ性差を迂回して料金を決定することにはどんな正当性もない。

もし「女性男性に比べて肉4皿分少ないといった背景」がこのサービス正当性裏付けられると思っているのならば、少なくともその発想自体は紛れもなく差別主義であると言わざるを得ない。

問題は、けして男女に対して別種のサービス提供すること自体にあるのではない。ある人の発想が、性差上の差異個人差異とそのまま結びつけてしまとき、そこに差別という決定的な問題が生まれているのである

すくなくとも牛角広報が放ったこの一文は、当然のように受け取られるべきではない。

2024-09-06

anond:20240906103336

半額が妥当になるくらい白人黒人より食べないということを、統計的に示せれば合理的差別として日本では通り得るね。まあ、実際にはそんな差はないので偽名題から演繹という無意味な話だけど。

2024-07-18

7月18日

本日は、チャールズ・サンダース・パースプラグマティズム特にその認識論的基盤と論理学的側面に焦点を当てて考察を深めた。

パースプラグマティズムの核心は、彼の提唱した「プラグマティック格率」(pragmatic maxim)にある。この格率は、"Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object."(我々の概念対象が持つと考えられる、実践的な影響を持ちうる効果考察せよ。そうすれば、これらの効果についての我々の概念が、その対象についての我々の概念の全体となる)というものだ。

この格率重要性は、その認識論的含意にある。パースは、概念意味をその実践帰結に求めることで、形而上学的な思弁を排し、経験的に検証可能知識の基盤を提供しようとした。これは、ウィーン学団論理実証主義に先駆けるものであり、20世紀科学哲学の発展に多大な影響を与えた。

パース論理学への貢献も看過できない。彼の提唱した「存在グラフ」(Existential Graphs)は、命題論理と述語論理視覚的に表現する革新的システムであり、現代計算機科学におけるグラフ理論の先駆けとなった。また、パースの「関係論理学」(Logic of Relations)は、フレーゲの述語論理と並んで、現代論理学の基礎を築いたと言える。

さらに、パースの「アブダクション」(abduction)の概念は、科学発見論理を解明する上で極めて重要だ。アブダクションは、演繹帰納とは異なり、新たな仮説を生成する推論形式であり、パースはこれを「驚くべき事実の観察から出発し、この事実説明しうる仮説を形成する」過程定義した。この概念は、後のハンソンの「発見論理」やクーンパラダイム論にも影響を与えている。

パース記号論(semiotics)も、彼のプラグマティズムと密接に関連している。特に、彼の提唱した記号三項関係記号対象解釈項)は、意味の生成過程理解する上で革新的視点提供した。パース記号を、"Something which stands to somebody for something in some respect or capacity"(ある観点能力において、誰かに対して何かを表すもの)と定義し、この定義現代記号論研究の基礎となっている。

また、パースの「連続主義」(synechism)の概念も注目に値する。これは、実在連続的なものとして捉える形而上学立場であり、量子力学における波動関数連続性や、現代複雑系科学における創発現象理解にも通じるものがある。

パースプラグマティズムは、後のジェイムズやデューイらによって発展させられたが、パース自身晩年自身思想を「プラグティシズム」(pragmaticism)と呼び直し、他のプラグマティストたちとの差異を強調した。特にパースは真理の客観性を重視し、単なる有用性や成功還元されない真理概念を追求した点で、ジェイムズらとは一線を画している。

今日考察を通じて、パースプラグマティズムが単なる哲学的学説にとどまらず、論理学記号論科学哲学認識論など、広範な領域に及ぶ包括的思想体系であることを改めて認識した。明日は、パース思想現代認知科学情報理論複雑系科学との接点について、さらに掘り下げて考察を進めたい。

2024-06-11

正規分布の端に生まれ

アドラーの本を途中まで読んだ.

これによると,精神疾患など生きるのに役立たない道に陥るものには,幼少期から共通感覚コモンセンス)を獲得できていないという特徴があるらしい.

そして共通感覚を獲得できなかった子供いじめられたり問題行動を起こしたりする.

この共通感覚は家庭において保護者から学ぶらしい.つまり保護者共通感覚を有していなければその子供も共通感覚を獲得することが困難で,大人になってから苦しむのだ.


なぜこの世界では誰でも子供を持つことが許されるのだろうか.ペットですらちゃんと育てられないなら飼うなと批判されるのに.

あるいはせめて,誰でも子供を作る自由があるのなら,どんな子供自分で死んでいい自由を認めるべきではないか


ここまで書いて村田沙耶香消滅世界という小説を思い出した.

この物語では,子供は生まれたらすぐに親から引き離されて専門の施設集団的に育てられるというユートピアが描かれている.

作中ではこのユートピアを明示的には否定肯定もしていないが,画一的に育てられた子供個性がなく皆同じような表情をするという描写が描かれている.


個性なくしたら死んでるのと一緒だよ」

偉大なベーシストである山田リョウ氏は言っている.

消滅世界で描かれたシステムは本当にユートピアなのだろうか.


だが,本当に個性必要なのだろうか.

共通感覚を有しない"悪い個性"を持つことは決して本人のためにはならない.

個性を持つことが良いとされるのは,個々の親が独立して子供を育てる現在社会におけるナッシュ均衡にすぎないのではないか

消滅世界システムのように全員が同じ教育を受け,共通感覚を有していることこそがパレート最適なのではないだろうか.


あるいは,個性個体差環境が変化した際に種全体が生き延びるのに有利だと説明される.

だが,これは明らかにほとんどの平均から外れた個性を持つ個体にとっては酷な話だ.当然ながら平均から外れた個体殆ど環境適応できず苦しむからだ.

上のような理論を唱える者は,「お前らのような珍獣が居た方が俺/私の遺伝子が残る可能性が高まるから生きろ.そして苦しめ」と言っているのに他ならない.

現代社会第二次世界大戦前の全体主義反省し,個人幸福を最大化しようとしたのではなかったか所詮それは,正規分布の真ん中あたりにいるマジョリティ自己満足に過ぎなかったのか.

そもそも人類環境変化を生き抜くのに,遺伝子多様性必要なのだろうか.

多数のサイコロをばらまいて確率論的に変化に打ち勝とうとするその他大勢の生き物とは違って,人類は理性を持って変化を予測し,技術環境を変えて乗り越えることができるのではないだろうか.

現に人類技術天然痘という感染症を撲滅させた.


だが,とき個性天才を生み出し,その天才技術を飛躍的に進歩させる.

こういった天才を生むために正規分布の端のほうの人間も,その殆どは苦しむ運命にあるとはいえ大人になるまで生きていなければいけないのかもしれない.これによって,苦しむ未来天才に生きる希望を与えることができるから

本当にそうだろうか.電球発明のように一人の天才の発想が大きな一歩を生み出した時代とは違って,現代科学進歩過去技術を積み重ねて積み重ねて演繹的に導き出された進歩ではないか

いや,そうでもないか.私も理系大学院研究の真似事をしたことがある.今でも科学最先端では天才の発想が不可欠だ.そしてそういう人は共通感覚を有していない人が多い.少なくともそう見える.

まり現代においても正規分布の端にいる,共通感覚を有しない,遺伝子的耐用性を持った人間を生きさせることは必要なのかもしれない.


私は天才ではない.だが,共通感覚を獲得することができず,苦しんでいる.正規分布中央に行けなかった人間の中の,一握りの天才を除くその他多数の中のひとりだ.

この苦しみを終わらせるには死ぬしかない.

私の意識死ぬことがのみが正解だと確信している.だが,私の無意識が生きることを声高に主張している.そのせいで私はまだ生きていてこの文章を書いている.

理性で動く私は,なんとかして自分死ぬことが論理的に正しいのだと結論付けたい.だが,今日も失敗した.

誰か私を助けてくれ.お前はもう開放されて良いのだと背中を押してほしい.

2024-06-09

anond:20240609231131

普通の会話は数理とは違う、曖昧性がある

それに推論は事実ではない、事実事実の関連性を示したり、事実から想像できる未知のことを述べたりするのが推論である

理論理学では、曖昧性のある事柄は扱うことは少なく、推論ではなく演繹をするので、この場で述べられている推論とは少し違うのでは

2024-05-13

数学を学ぶ意味数学芸術である

Xで共有された動画塾講師先生が「要領が悪い奴は定数を動かそうとする、変数をどうにかすべき、だからこういうところが数学を学ぶ意味だ」とか言ってんのよ

はぁ?なにが数学を学ぶ意味だ、いい加減にしろ

いか数学ってのは公理から演繹的に体系を導き出す「芸術」だ

証明法にもエレガントさってものがあるし、第一、美しくない公理体系は見向きもされない

定数ってのは物理学の話だ。物理学にはプランク定数h、光の速度c、重力定数G、という基本的な3つの定数があるが、たしかにこれらを「動かそう」という話はしない

あるいは数学にもπやeのような定数はあるが、要領の良さとは無関係であり、動かそうという話もない

しかしそれは常識レベルの話だ、「誰も神の力を持っていない」と言うようなものから

では現実世界に「定数」と呼べるような固定のもの存在するか

線型回帰適用したら定数項が出るかも知れないが、これは変数依存しないというだけの話で、データが変われば動く

政治に対しては努力次第で影響を与えられるし、人間関係だってそうだろう

努力の大きさに見合わないほど、それを動かすのが難しい」という話をしたいなら、残念ながらそれは「定数」の話ではない、むしろ現象変数に対して持つ感度の問題である

しかし俺がいいたいのはそういうことじゃない。芸術であるはずのものを「要領の良さ」という低俗トピックに落とし込むその感性が全く同意できないのである

例えばラングランズ・プログラムの先にあるものはなにか、と考えれば、それは驚愕的な数学の繋がりを示すことであり、陳腐とも言える「要領のいい」応用を目指したものではないだろう

要領の良さというのは、要するに経済学の話であり、数学ではない

わかったか

2024-05-10

anond:20240510134310

正当化簡単で、問題解決のあらゆるリソースを掌握しているのが男性からです。

その非対称はフェミニズムセントラルドグマなので仕方ないです。「男女ともに」なんてのは平等主義理念から演繹であって、ボトムアップフェミニズムとは根本的に発想が違う。

"男が権力を握っている"と現状を規定することから出発して、その立場に留まり続けようとする方向にフェミニズム運動は働くんです。運動にも自己保存がある。

個々のフェミニストが「女性に実行能力を」と唱えて現実フェミニスト立場を変えていっても、フェミニズム自身がその前提を捨て去ることは自身の成立原理に反するから無理なんですね

2024-05-07

anond:20240507211401

統計詐欺師っていうか単純に詐欺師だなそれは

統計学が接してる領域が広くて現実被害とか詐欺の例が想像やすいだけで、数学でも詐欺しようと思えば詐欺できるでしょ

相手無知を利用して演繹の一部をちょろまかしてだますという観点からなら1=2の証明とかはよくあるし、パラドックスの類はその最たる例だと思うんだが

結局何を使っても詐欺はできてしまうし、特に統計では真実がわからないので、悪意が入るかどうかだけでしか詐欺を判定できないように思う

2024-04-25

anond:20240425193408

あなた自由意志だと思ってるもの錯覚です。

少なくとも量子より上のスケールでは世界計算式で表現可能法則相互演繹しあって動いています

2024-04-05

anond:20240405125107

中国共産党公式発表を出している。

と。

文革の誤りを認めるなら、当然の論理的帰結として共産党支配体制のものを問い直すことに繋がるはず」

......というのは自由な国で暮らす者の発想であって

権威主義体制においては公式発表が全てなんやね。字面上それに沿ってればOK、外れてたらNG。そこから演繹して勝手なこと考えてはならない。

言論を縛るということはモノの考え方にも枠をはめていくってことだから

2024-04-04

anond:20240404082847

英文法は難しくないよ

でも言語って本来帰納で覚えるから文法という演繹で攻めようとするとうまくいかないってのはある

2024-03-24

でも、性自認ってよくわからなくない?

はてブトップに上がってたこ記事

https://www.sankei.com/article/20240324-2PWOH4565RKCVKFLAV2GC5BQKQ/

かに、内容はかなりアレなのだけど、ブコメを見ると、多くの人が「性自認」という概念理解できているようで驚いた。

私は前に新書か何かで解説を読んだが、正直なところよくわからなかった。

そこで、性自認理解した顔してる人たちも実はわかってないでしょと、わからせたい。

まず、性自認とは何か。先を読み進める前に一度自分言葉定義を考えてみてほしい。

多くの人は、「自分の性をどう認識しているか」という感じのことを考えたのではないか

これは実際、一般的説明でしばしば用いられる定義だと思う。少し大雑把すぎるかもしれないけれども、ここではこの定義採用する。

まず「生物学性別」と「性的指向」について思い出しておく。生物学性別とはその名の通り遺伝子レベルでの性別で、性的指向とはどの性別性的対象とする(もしくはしない)かである。ここで極めて重要な点だが、性自認一般的理解において、生物学性別性的指向とは独立にとりうるとされている。例えば、生物学性別男性で、性的指向女性に向いている場合に、性自認男性ストレート異性愛者)、女性トランスジェンダー同性愛者)の二つの場合がありうるということだ。

ここからが本題。性自認生物学性別性的指向から切り離して定義することは、本当に可能だろうか(常に切り離せる必要はないが、独立に取りうるということは切り離せる場合があるということだ)。もし可能だとすれば、どのようにして自分性自認を定めるのだろうか。例えば私の場合は、生物学的に男性性的対象女性から自分ストレート男性認識している。つまり性自認として独立した認識があるわけではなく、単に演繹的に導いた結果だ。こう書くと、「トランスジェンダーレズビアンである可能性を無意識下で排除したことこそが性自認独立して存在しうる証左だ」という主張をする人もいるかもしれないが、しかしそのような排除は恐らく私がマジョリティ異性愛規範に染まっているからに過ぎない。要するに「常識」に盲目的に従ってしまっただけだ。もし誰かにあなたトランスジェンダーレズビアンかもしれない」と言われたら、正直なところ私は反論する言葉を持たない(というか、区別する意味が分からないのでどっちでもいい)。まとめると、私にとって性自認というのは強いて答えようとすれば答えられるなんとなくの根拠しか持たないものだ。そして性自認という概念個人の内的な経験によってのみ基礎づけられている以上、確固とした性自認感覚を持たない私にはあやふや理解しか持ち得ないのでないか

そして私は、この事情ほとんどのストレートの人にとっても同じではないかと言いたい。自分ストレート異性愛者かトランスジェンダー同性愛者かを区別する確固とした根拠があるだろうか。念の為注意しておくと、そのような確固とした根拠があるはずがない、ということを言いたいのではない。トランスジェンダー当事者にはそういった感覚(というよりも強い齟齬感覚)があるということは知識としては知っており、それを否定するつもりはない。ただ私を含むマジョリティであるストレートの人のほとんどは性自認という概念を捉えることができないことを認める必要があるのではないか。そして、もしよくわからないことを認めるのだとしたら、性自認学校で教えることに対する反対意見に対し、知った顔で小馬鹿にした態度を取るのは、やめた方がいいのではないか記事に対する批判自体否定しているわけではない)。

そして最後に少し本音を言うと、このような個人感覚のみに基礎を置く概念をもてはやすことはアイデンティティポリティクス跋扈を許す危険な道なのではないか

分かってるのに正しく読めない漢字

軒並み けんなみ

市井 しい

造詣 ぞうし

所謂 しょせん

嫡子 てきし

続柄 ぞくがら

演繹 えんたく

言語 ごんご

謀反 ぼうはん

全部意味も正しい読み方も分かってるのに頭の中で読むときに間違ってしま

多分一回間違えて覚えてからずっとそれで覚えてるんだろうな

人前で言っちゃったらどうしよ けんなみとかめっちゃ恥ずかしいだろうな

2024-03-13

anond:20240313172512

まず君の言ってる研究ってどの論文

ググっても債務残高と経済成長率の関係のものしか出てこないんやけど。

データに基づきとか言ってるが経済みたいな複雑系を扱う分野で因果関係推定するのってかなり難易度高そうやけどその研究はどうなんかな。

まああとエネルギー保存則が破られないように原理的にありえないことは演繹的に否定可能だよ、永久機関否定するのにデータを取る必要はない。

万年筆マネー信用創造説明に関しては金融機関では常識レベルのことという話がチラチラ記事に出てくるがまあそんなこと言っても仕方ないか

次の国会質疑のページの信用創造検索して安藤議員藤田参考人日本銀行企画局審議役)とのやり取り読めばいいんじゃない

https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000220020191023002.htm

まああとイングランド銀行信用創造に関する説明のものとか。親切な翻訳してくれてる人がいたわ。

https://www.fukurou.win/https-www-fukurou-win-bank-of-england-quarterly-bulletin2014-money-creation-in-the-modern-economy1/

これで信用創造説明とそこから導出されるクラウディングアウト否定帰結を信用出来ないならこれ以上の説明は無理やわ。

2024-03-06

anond:20240306202442

経験科学と言って、基本的科学経験帰納)に基づくんだよ。

もちろんアインシュタイン演繹的に理論を導き出すかもしれないが、それを実証する基本は「経験」。LIGOとかもね。

2024-03-02

anond:20240302220403

から自身左翼思想を持っていると自認してる。

ただ伝統文化を守るべきとも思っているし、日本日本人を尊重すべきとも思っている。

世界科学で解明するという進歩主義に基づいていた場合も、「演繹的に」日本批判が出てくるわけではないと思うよ。

2024-02-21

[] 数学は量子物理学と同様に観察者問題がある

量子力学における観測問題についてはよく知られるように、人間主観性が量子実験の結果に重要役割果たしている。

ドイツ物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。

私たちが観察するのは現実のものではなく、私たち質問方法さらされた現実です。」

例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。

したがって実験プロトコル選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点物理学の不可欠な部分になる。

さて、数学にも一人称視点余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。

ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性真実の模範」のようである

それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。

ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理発見しただろう。

さら定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。

さて、ピタゴラス定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学声明であるしかし、ピタゴラス定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。

何が起こっているのか?

この質問に答えるには、数学定理証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。

定理真空中には存在しない。数学者が正式システムと呼ぶもの存在する。正式システムには、独自正式言語付属している。

まりアルファベット単語文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。

ユークリッド幾何学正式システムの一例である

その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。

次に正式システムのすべての文のうち、有効または真実である規定した文を区別する。これらは定理である

それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初定理証明なしで有効である宣言する定理選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。

これらは正式システムの種を構成する。

公理から演繹は、すべての数学コンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。

公理選択されると、正式システム定理構成するもの曖昧さがないのは事実である

これは実際にコンピュータプログラムできる客観的な部分である

例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである

しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。

ユークリッド幾何学定理は、非ユークリッド幾何学定理ではなく、その逆も同様。

数学者はどのように公理を選ぶのか。

ユークリッド幾何学非ユークリッド幾何学場合、答えは明確である。これは、単に説明したいもの対応している。

平面の幾何学であれば前者。球の幾何学であれば後者

数学は広大であり、どのように公理選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。

過去100年間、数学集合論に基づいてきた。

すべての数学オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。

たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。

一般的なセットとは、数学で正しく定義されたことがない。

集合論特定正式システムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。

今日数学者は、すべての数学を支える集合論正式システムとしてZFCを受け入れている。

しかし、自分自身を有限主義者と呼ぶ少数の数学者がいる。

彼らは、無限公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。

言い換えれば、有限主義者正式システムは、無限公理のないZFCである

無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である

有限主義者は、自然数リストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。

彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。

したがって、彼らはZFCから無限公理を削除する。

この公理を取り除くと、有限主義者証明できる定理はかなり少なくなる。

正式システム判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的基準...なんてものはない。

主観的には、選ぶのは簡単である

時間空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。

ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式システム(ZFC等)は、自身一貫性証明することができないと述べている。

数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。

そしておそらく、決して知ることはない。

なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式システムにおけるZFCの一貫性証明することしかできなかったから。

一貫性証明する唯一の方法は、さらに大きな正式システム作成することだけだ。

数学を行うためにどの公理選択すべきかについて、実際には客観的基準がないことを示唆している。

要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである自由意志に任せて。

公理のための主観的基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。

これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。

自分自身制限する必要がないので、無限公理を受け入れる。

特定公理のセットを選択する行為は、量子物理学特定実験を設定する行為に似ている。

それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。

これが、一人称視点とそれに伴う自由数学において正当な場所を取る方法である

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