はてなキーワード: 梅雨とは
なんだか雨だとションテンが下がるような気がするけど
空調が多少効いてる事務所は多少は快適というかションテンを上げていかなくちゃって思う反面
ミランダカーばりに思うんだけど
いい加減本当に街は緊急事態解除して酒解禁にならないとみんなイライラしてると思わない?
もうさ、
あのレジ横のわくわくコーナーってあるじゃない
いろんなおもちゃとかお菓子とか未だにわくわくして止まないコーナー。
そのお客さんメントス追加して会計しようとレジの人がやってくれてたんだけど
お客さん曰く
伝票と金額が違う!って言い出すじゃじゃな。
さらに追い打ちをかけて、
それ言ってなかったらさすがにレジの店員さんも分からないじゃない。
私も気を付けなくちゃって思う反面
いまや、
これって厄介なお客が多いからタブレットでなんとか店員に割かれる時間を割くためのタブレット注文作戦だと思うのよね。
要は厄介なお客さんが多いからいちいち店員さんが対応出来ないって意味だと思うのね。
それのタブレット開発費は私たちが食べるお食事代に上乗せされてるだけで
厄介なお客さんが多いと
結局はお客さんにそれのツケが回ってくるっていうこのなんとも言えない切ない仕組みだと思わない?
話の分かるいいお客さんばかりだったら、
そんなに厄介対応しなくていい注文だってサクサク取れちゃうと思うから
で私たちも比較的リーズナボーな料理の提供を受けられるってわけで、
タブレットだタブレットだーわーい!って喜んでばかりもいられない、
そう言う開発費は結局私たちに跳ね返ってくるということをもっと私たちは理解するべきであり理解することが必要なのよドイツの精神みたいに。
そこで流石に炊飯器やホットプレートを持ってきて作ろう物なら店始まるな勢いでドン引きされそうよ。
多くを望みすぎてもいいけど結局はそれ私たちに跳ね返ってくる
あのオムロンの卓球ロボットは何でもどんな玉でも跳ね返して打ち返すようなフォルフェウス君みたいに返ってくるのよ。
ちょうど今オムロンの低周波治療器の貼り付けパッドの吸着力が弱くなってきたから
いい加減買い替えようかなって
ビリビリ牛乳一気飲みデスマッチでもしようかとそこまでは考えてはいないけど、
一度ビリビリは試して欲しいわね。
うふふ。
美味しいサンドイッチを方バルのが朝のリッチタイムのテイストね。
雨だけどご機嫌さんです。
キープだけに雨の日もって何もかかってないけど。
適当なメーカーの強炭酸をラララと謳っているものを初めて試してみたけど
言うほど強炭酸ではない感じがして、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
梅雨はまだまだ続くのか?
あと雨合羽。
これを読んでる人らもそうではないだろうか。
あとは趣味のアウトドアとかでしか雨合羽を着ることはないと思う。
濡れないという点では傘より有利な雨よけであるのになぜ今ひとつ利用されないのか?
冬場はともかくこの時期に雨合羽を着るのは蒸れる。
GORE-TEXだとかなんだかんだと最新の蒸れないといわれる衣料でも結局は蒸れる。
この欠点を解消する方法があるとすれば、あの扇風機付きの服と合体させることだろう。
雨合羽の何処かに防水仕様の送風機を仕込んでうまく処理すれば蒸れなくて濡れないハイテクノロジーな衣服の出来上がりである。
これで問題が解決するはずなのだがそういうものの存在をあまり聞かないのはなぜだろうか。
人間考えることは同じだな。
思い出と強固に結びついた曲があるんですよ
大学一年の梅雨ごろの、小雨が降ってる夜に、好きな子と出かけた(というほどのもんではない)ときの記憶とメチャクチャ結びついている
当時入ってたサークルは、基本的には陰キャの集まりで、キャンパスの隅でジメジメしてる感じだったんだが、6〜7月にかけてだけ、他の大学のサークルと合同でコンサートをやるっていう謎のイベントがあった
それに向けての練習がちょくちょくあったんだけど、その練習に参加する気概があったのが、新入生だと俺と彼女だけだったんだよな
あんまり知らん先輩に連れられて、電車に乗り、全然知らん街の全然知らん大学のキャンパスまでいき、小雨が降っているので傘を差し、街灯に照らされた好きな女の子の後ろ姿を眺めていた
そういう思い出がすげーある
暖かめの夜に小雨が降ってるとき特有の湿っぽい匂い 明かりが濡れたアスファルトに反射している感じ その辺の感覚をよく覚えていて、実際彼女となに話したかは全然覚えてない
そういう思い出がある曲です
私は高齢者でも医療関係者でもなく,優先接種の対象でもない,ただのおっさんです.なのでワクチン接種は,今のペースだと,よくて8月以降だろうなーと思ってました.ところがどっこい,私の街(人口100万人)で,高齢者枠の予約に空きがあるからってことで,予約していいよってことになりました.その後に計画されている,大企業枠の前倒しみたいな感じでした.その通知を受けたのが2日前,で今日ワクチン摂取してきました.早!
予約:
来場~摂取まで:
接種後の注意:
接種後の容態変化:
接種7分後以降の容態:
それでは皆様,ごきげんよう.
接種後,7時間立ちました.
外に出ると、庭のナンキンハゼの木が「アツイ アツイ」と言っていたので、もうすぐ夏がくると思った。
空を見上げると、太陽が「申し訳ない」というように両手を合わせていた。
さて、と私は思った。
庭の隅に小さな家庭菜園がある。4月にトウモロコシと里芋を植え付けて育てていた。
先週、実をつけ始めていたトウモロコシが夜の間にタヌキに食べられて全滅した。ネットを張っておくべきだったなと思ったが、もう遅い。
トウモロコシには悪いことをしたと思った。
里芋の方は順調に茎を出し葉を伸ばしている。
一週間前までは手のひらより小さかった葉が、今はもう顔くらいの大きさになっている。
10株ほどある里芋の一つ一つを見て回り、「大きくなったなあ」と呟いたら、その一つが「ソウカモネ。」と返事をした。
私は、家庭菜園の野菜たちにはある種の愛情のようなものを持っている。
しかしその一方で、この愛情は食べる側からの一方通行の愛情に過ぎないと思うこともある。
ライオンを好きになるインパラがいないように、人間を好きになる里芋もいないのではないか。
私のことをどう思っているのか。聞いても答えてくれないだろう。
朝まで降っていた雨の名残の水滴が、里芋の葉の窪みに溜まって、キラキラと光っていた。プールみたいだなと思った。
一通り見回ったので、家に戻ってアイスコーヒーでも飲もうかと思った。
庭の小道を歩くと乾いた砂利がザクザクと砂糖のような音を立てた。
ナンキンハゼの木は相変わらず「アツイなあ、アツイアツイ。」と言っていた。
空を見上げると、太陽が両手を上げて吹っ切れたようにゆらゆらとダンスをしていた。
もうすぐ夏がくる。すぐそこに来ている、と私は思った。
冬の弱い日差しが好きなんだ
冬特有の、かなり均一で真っ白な空
真っ白いんだけど、分厚い雲って感じでもなく、ただすげえ白くて、よくわからんあの天気!
あの白い空越しに、どの辺にあるかはわかるくらいの、ゆるい輝きをみせている太陽
ああいうのが好きなんだ
気温はなんかよくわからんけどそんなに低くなく、かといって別にあったかいわけでもなく、フツーに冬の日って感じなんだよな
そしてそういう中行く場所っつったら、これはもう植物園しかないですよ
あんまりしっかり整備された、シャキッとしたところよりも、ちょっとくらい綻びがある方がいい
あそこは基本的にシャキッとしてるんだけど、ハーブ園のあたりだけ滅んでる感じがあり、それが冬の弱い日差しとベストマッチ
雑草なのか植えられた草なのかわからん、ヘチョイ感じの草がまばらに生えた、微妙な花壇
実が一個だけなってる謎の柑橘類
全体としてファンシーな、欧風庭園って感じの雰囲気と、漂うオフシーズン感が絶妙なんだよな
ちょっとは咲いてる花もあったりして、そういうのの匂いを嗅いだりしつつ、あの冬の太陽のぼんやりした光を浴びるんだ
そういうことが俺はやりたいんだ
中野区中央は狭い敷地に同じような家が同じように建ち、みっしりと並んだ区画が続く。歩いているうちに自分がどこへ向かっているのかわからなくなる。東京の住宅地はそんなものだといえばそうだが、中央と名乗るからには、もうすこし街らしい華やかさがあってもよさそうなものではないか? 中野区中央は、その種のにぎわいとは無縁な場所だった。
べつに好き好んで中央まで歩いて来たわけではない。職場の寺元さんがこの1週間ほど出勤せず、連絡もとれない。社長に渡された住所のメモと住宅地図のコピーを頼りに寺元さんの居所を探し、様子を探るよう、依頼を受けて来た。他に社員は私しかいなかったからそうなったわけだ。
ファート商会という会社が私たちの職場だった。本社は中野にあり、放屁の気体用保存容器を製造販売している。このシリンダー状の容器に放屁を閉じこめておくと、どれほど時間が経っても、栓を開けさえすれば、気体が肛門を通って出てきた瞬間のフレッシュな臭気を嗅ぐことができる。このような器具にどれほどの需要があるものかと、最初私は半信半疑だった。が、細々と着実に注文が入り、会社は今まで生き延びてきた。
中野では誰もがその日を生き延びるのに精一杯だった。いちど中野駅で電車が止まれば、もう中野を出て行くことはできなかったからだ。
もう何年も前の話だ。夕方、私は仕事を終えて秋葉原から総武線に乗り、荻窪のアパートへ帰ろうとしていた。電車は中野で停まり、ドアが開いた。もともと中野での停車時間は不自然に長かった。新たに乗り込んでくる人はおらず、車内に放置された乗客は、列車が再び動き出すまで忍耐強く黙っているのが常だった。だがその日の停車時間は長すぎた。15分を過ぎた頃から、いらいらと外の様子をうかがったり、ホームへ降りたりする乗客が出はじめた。それでも列車は動く気配がなかった。30分が経過した頃、当駅で列車は運行を終了する旨のアナウンスが流れ、乗客は全員が外に出された。それ以来、私たちは中野で暮らしている。
中野は孤絶している。東京の他の区からも、日本の他の地域からも隔離されたままだ。新宿よりも西に向かう列車を選択的にブロックするよう、政府からJR東日本へ命令があったとかいう噂だ。感染症の拡散を防ぎ、テレワークの普及を急ぐためらしかった。通勤を控えるようにこれまでさんざん忠告したのだから、都心へ通勤した輩はもう帰宅させなくてもよろしいというわけだ。だが噂は噂で、なぜ中野以西への鉄道運行が突然終了したのか、本当のことを知る人はいない。少なくとも中野にはいないと思う。
中野で足止めされたら、人生を中野でやり直すしかなかった(生き続けていくのであれば)。テレワークをしていなかった乗客は一瞬で路頭に迷った。中野で住みかを見つけ、仕事を見つけ、生活の糧を得ていくしかなかった。
練馬、杉並、新宿と中野の境界には有刺鉄線を張ったバリケードが設置され、高いコンクリート壁の建設が始まっていた。20式小銃を抱えた警備隊が昼も夜もバリケードの前を行き来していた。こうした措置に抗議したり、やけを起こしたりして境界へ突入する人はときどきいたが、その場で「管理」され、戻ってくることはなかった。「管理」されたくなければ、望んで降りたわけでもない中野で生きていく他はなかった。
ファート商会は、中野へ流れ着いた人間で始めた会社だった。偶然に同じ場所に居合わせた三人、空き家になっていた蔦だらけの木造家屋を見つけて寝泊まりしていた三人だった。私たちは手持ちの金を出し合って米を炊き、駅前の広場で獲った鳩を焼いて共同生活を送った。放屁を保存するシリンダー型容器というアイディアを出したのは、社長の鬼澤さんだった。本人の話では、食品の品質検査に使う精密機器の会社に勤めていたそうで、その方面の知識は豊富だった。最初は中国から大量に取り寄せたシリンダーを小箱に詰め替えて転売していた(中野から移動はできなかったが郵便物は届いた)。仕入元と取引を重ねるうちに、小ロットでも自社ロゴマーク入りの製品を作ってもらえるようになった。
その頃には空き家の相続人を名乗る人物から弁護士経由で文書が届いて、私たちは追い出された(急激な人口増加のため中野の地価は上がったらしい)。駅近くの雑居ビルにたまたま空きがあったのでそこに移り、事務所で共同生活をしながら放屁の保存容器を日本中に送り続けた。事務所とは名ばかりで、中国から届いた段ボール箱が積み重なる室内には洗濯物が下がり、夕食の豚肉を焼くにおいが漂っていた。
三人がそれぞれに部屋を借りて事務所から引越したのは、それからさらに一年ほど経ってからだ。そうするだけの資金がようやくできた、そろそろ仕事とプライベートを分けたい、当面は中野から出られる見込みがなさそうだ、といった思惑や妥協が交差した結果、私たちはそろって職住同一から職住近接の体制へ移行したのだった。
鬼澤さんに渡された地図のコピーを見ても、寺元さんの住みかはさっぱりわからない。どの角を曲がっても同じような家並みばかりで、ときおり家の塀に貼ってある番地表示板だけが現在地を知る手がかりだった。ひと昔前までは、スマートフォンで地図アプリを見れば迷わずにいろいろなところへ行けた。中野に閉じこめられてから、その類のアプリはなぜかいっさい起動しなくなった。だから中野で住宅地図は貴重品になっていた。
何度も同じ所を行ったり来たりして、ようやく見つけた寺元さんの居宅は、路地の奥にあった。旗竿地というのか、家と家の間を通って行くと不意に現れる隙間がある。そこへはまりこむようにして古アパートが建っていた。鉄柵にかかるプラ板に、かすれた文字で「シャトーひまわり」と書いてある。柵のペンキはささくれ立った指の皮のように、いたるところから剥けて、露出した地金から赤錆が吹き出していた。一階の通路には落ち葉が吹き溜まり、繰り返し人が通った箇所では砕けて粉になっていた。各戸の前に置かれた洗濯機のカバーは、もとは水色だったらしいが、雨と埃をかぶり続けて黒くなっていた。
103号室には表札も呼び鈴もついていない。寺元さんの居所はここらしいが、本当にそうであることを示す手がかりはない。ドアをノックしたら全く無関係な他人が出てきて、警戒心に満ちた視線を向けてくるかもしれない。そういう可能性を考えると、ドアをコツコツとやる力が自然に弱々しくなる。返事はない。中に人の気配があるのかどうかも分からない。洗濯機の上にはすりガラスの小窓がついているが、その奥で人影が動く様子もない。小声で名前を呼びながら再びノックしてもやはり返事はなかった。
寺元さんは出かけているのだろうか。あるいは先週あたりに部屋の中で倒れて誰にも気づかれず……不意にそんな想念にとりつかれたが、辺りは埃っぽい臭いがするだけだ。やはり出かけているのだろう。
その場を離れようとして歩き始めた瞬間、背後で音がした。振り返ると、寺元さんがドアの隙間から半分だけ身を乗り出し、こちらを見ていた。禿げ上がった丸顔はいつもより青白く、無精ひげの生えた頬がこけて見えた。「田村さん、なんで……ああ、そうか……まあ、ここじゃなんなので、どうぞ……」
「散らかってるけど」
といいながら寺元さんは私を部屋に招き入れたが、中は私の部屋よりもきれいに片づいていた。ローテーブルの上にはA4サイズのポスターみたいなものが散らばっていた。猫の写真の下に黄色い枠が印刷してあり、「さがしています」という文字が見えた。
「先週から急にいなくなっちゃってね、ずっと探してたんだけど……」
猫を飼いはじめたと寺元さんが言ったのは半年ぐらい前だったか。ランチの時に写真を見せてきたのを覚えている。たしか、ニティンとかいう名前だった。額の毛が富士山のような形に、白と黒に分かれている猫だ。
「この近所では、見つからない感じ?」
「毎日そこらじゅうの路地に入って見て、電柱にポスターも貼ったんだけどね。今のところ手がかりはなくて……」
寺元さんは俯いたままTVのリモコンをいじくり回していた。目の下にできた隈が濃かった。
中野では孤独死が増えているらしい。突然にそれまでの生活、人間関係から切り離され、中野に閉じこめられた人々が、生き残りをかけてあがき続け、一息ついたあとに待っていたものは、容赦のない孤絶だったというわけだ。
職場への連絡も忘れ、一週間にわたって捜索を続けていた寺元さんと猫との個人的な結びつきは、どれほどのものだったのだろう。そして突然に去られたと知ったときの衝撃は……いや、仕事を忘れていたのではなくて、猫を探すために休むと言えなかったから、連絡できなかったのかもしれない。猫の存在が、どれほど寺元さんの柔らかいところに入り込んでいたか、誰にも知られたくなかったから、中野ではそれなりに気心が知れているはずの私たちにも、失踪事件とそれがもたらした内面の緊急事態について、口を閉ざしていたのではないだろうか……
「鬼澤さんには、寺元さんが体調崩して寝込んでたとか言っておくので、ニティンの捜索、続けてください」
「気遣わせちゃって、ごめん。僕の方からも、後で連絡入れておこうと思うから……」
寺元さんはアルミサッシを静かに開け、冷蔵庫から麦茶を出した。梅雨時の空気で蒸し暑くなり始めた部屋にかすかな風が入ってきた。窓の外に見えるのは隣家の壁ばかりで、申し訳程度についたコンクリート製のバルコニーの下には、古い落ち葉が厚く積もっていた。その隙間に何か、木の根か、古い革製品のような、黒に近い焦げ茶色のものが突き出ている。表面には緑の苔か黴のようなものが吹いて、時折、びくり、びくりと脈動しているように見える。
「寺元さん、そこに、何かいるみたいなんだけど」
「ああ、それ、引っ越してきたときからずっとそこにあって……え、動いてる?」
その「何か」の動きはしだいに大きくなり、周辺の落ち葉がめくれて露出した土には蚯蚓や百足が這っていた。そこに埋まっていた朽木のようなものは、地表面に見えていた一部分よりもはるかに大きかった。それは蛹のように蠕動しながら室内へどたりと入ってきた。麦茶のグラスが倒れ、中身がフローリングの上に広がった。
その「何か」は動き続けるうちに表皮が剥がれて、琥珀色をしたカブトムシの蛹的なものが姿を現した。痙攣的な動きはしだいにゆっくりと、動物らしい所作が読みとれるようなものになってきた。やがて内側から被膜が裂け、現れたのは肌だった。真白なその表面へしだいに赤みが差してきた。寝袋のように床へ残された被膜から、人型をしたものが起きあがる。
それは姉だった。間違いなく姉だった。17歳の夏の夕方、高校の帰り道、自転車ごと、農道のどこかで消えた姉。警察が公開捜査に踏み切り、全国の交番に写真が貼り出されても、けっして戻ってくることのなかった姉。落ち着いたピンク色のフレンチスリーブワンピースを着て、薔薇色の頬に薄い唇と切れ長の眼が微笑み、当時の面影はそのままに、だが記憶の中の姉よりもはるかに大人びた姉が私を見ていた。
「背、伸びたじゃん」
といいながら姉が私の腕に触れた瞬間、思わず涙がこぼれた。
「そうか、田村さんのお姉さんだったのか。だからずっとそこに……」
寺元さんは何か遠く、眩しいものを見るような目で、姉と私を見ていた。
姉は寺元さんに微笑みかけながらも決然と言った。寺元さんは照れくささと寂しさの入り交じったような顔で笑った。が、不意に真顔に戻った。
かすかに、猫の鳴き声のような音が聞こえる。涼しい夕方の空気が窓から入ってくる。
どこか遠いところを見ながら姉が言う。
「もうそんな季節か」
中野ディオニューシアまつりは毎年初夏に行われる。今年もたくさんの供物を捧げた行列が、狂乱状態の男女が、鍋屋横町を練り歩くのだろう。中野で過ごす何度目の夏になるだろう。いつの間にか、夏の風物詩を繰り返す季節の一部として、中野で受け入れつつある私がいた。
(前回のご報告)https://anond.hatelabo.jp/20210404174804
拾ったねこなので誕生日とかもわからないのだけど、ボロボロのこねこを2000年9月に拾った時に多分生後3ヶ月くらいだった。ということで毎年6月に健康診断と血液検査をすることにしているので、今年も行ってきました。結果から言うとびっくりするくらい健康で、先生も苦笑されながら「また一年健康だと思うのでまあまた来年来てください」とおっしゃられたのですごすごと帰ってきました。明日をもしれぬいのちだと思うからこそ、一本100円もする高級介護用乳酸菌入りエネルギーちゅーるを請われるがまま差し上げて参りましたが、今後とも引き続き召し上がっていただきたいと存じます。
とは言うものの、腰とあとあしに関してはそれなりに節々が痛むご様子で、昨年まで夏季はソファの上でおくつろぎになることを好まれていましたが、今年はもうちょっと低くて登りやすいベッドの上にてほぼ一日中お過ごしいただいています。増田はあいもかわらずリモートワークの日々なのですが、日中は寝室においたデスクで仕事をしておりますゆえ、振り向けばいつでもそこでまどろむ老ねこのお姿を拝見できるというとても満ち足りた生活を過ごすことができていますし、リモート会議の際中に「すいませんちょっとうちのねこがわがままで・・・」などとうそぶきながら、これみよがしにカメラの前で抱き上げて優越感に浸るなどしています。
このように足腰がだいぶんと弱くなり寝転がるのも一苦労といったご様子のなか、トイレを失敗なさることも若干増えましたので、ちょっとふんぱつしてベルギー製の大きなものに替えさせていただきました。
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/B077S667TW/
実際レビューを見ると、大型ねこ用というよりはむしろ介護用品として活用されている方が多いようですね。ご自身の体に付着するようなことがなくなったのか、このごろなんとなく部屋がおしっこ臭かったのもなくなってきたように感じます。
長く続くコロナ禍で、こころもちが優れなくなっているという方が多いとも聞きますが、増田はむしろこのねこ一匹ひと一人の生活がとても心地よく、あまりにも満ち足りているのでなんだか申し訳なく感じることもあります。晴れた週末に老ねこを抱いてヨギボーにもたれかかると、窓ガラス越しに梅雨の合間の青空が見えます。そんなとき増田はこのアパートの一室が宇宙船となり、窓から青い地球の姿を見ている様子を想像します。ねこの呼吸と体温と鼓動を直接感じていること、そんなわたしたちだけの穏やかな空間がここにあることに深い満足を覚えながら、身体中にひっついた無数のねこ毛をコロコロと掃除するのです。
動物病院の先生に苦笑されたとはいえ、いつ儚くなってもおかしくないことは重々承知しています。ただ、その時が来るまでは彼女の日常が平穏であり、ねことして悪い一生ではなかったと思ってもらえるよう引き続き尽力したい所存です。なお、前述の先生は最高22歳までのねこの診察をしたことがおありであるとのことでしたので、ぜひ23歳のねこの診断に挑戦させてあげようと思います。こちらからは以上です。
(追記)
みなさま、たくさんのお祝いのコメントありがとうございます。うれしくて何度も眺めています。
なお、増田はみなさまがおっしゃるほど有能な下僕ではありません。増田はたまに海外のバーチャルカンファレンスを聴講したりするのですが、そんなときはよくわからない英語の発表などを夜を徹して聴いたあと明け方4時に寝たりします。ねこはそのような当方の事情など知ったことではないので、いつもどおり5時に朝ごはんの準備など下知されるのですが、そのあたりは増田もきっちりお断りした上で朝7時まで待たせるなどしています。
あと、前世が牡蠣のねこさまは私も大好きです。いつの日にか雲の向こうの彼女からそのような言伝をいただけるのではないかということを、増田はそこそこ信じています。「アオ」