はてなキーワード: 拒絶反応とは
http://anond.hatelabo.jp/20130118205137
の元増田だが、そもそも、欧米って、究極のエリート層である王室からして、
「オーストリアから嫁いできたマリーアントワネット」てな感じで、
国際結婚がごく当たり前に行われている。
仮に天皇家の男子が外国の嫁を貰う、なんてことすれば、国民からものすごい拒絶反応喰らいます。
天皇家ほどでなくても、例えば「徳川家の末裔」とか「細川家の末裔」「島津家の末裔」が、
アメリカ人とかフランス人の女性と結婚する、というケースは聞いたことないし、
もしあったとすれば、非常に違和感感じる。
※「国際結婚するな」と言っている訳ではありませんので、ご了承を。
もうちょっとブレークダウンして、いわゆる経団連企業の社長会長って、もう60歳台の人が多いでしょうから、
そろそろ息子娘が結婚する年代になるのですが、これら経団連企業トップの子供の結婚相手って、
恐らく95%は日本人でしょう。
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/20130115/1358256185
とか読んで。
(だから、上の記事に対する直接的なレスとはとても言えないのだが)
まおゆうを取り巻くアンチの言説は、まおゆうという作品に対していろんなツッコミをする。それは、
(たとえば、1年で農業改革なんて出来ねぇよ、とか)
おもにこの2方向に集約されると思う。
(あとは、ファンや作者に対する人格批判なんだが、その話はこの文章後半に持ち越す)
上記の2点はたしかに疵である。結果物語は駄作になり得るレベルの疵かもしれない。
が、それは要するに、究極的には小説としての巧拙の問題なのだ。
ここで言う巧拙っていうのはやれ台本形式がどうしたとか文章のレベルがどうのこうの言う最近のラノベ語りではなく、物語の展開から隙を取り除く程度の意味合いだ。
巧拙の話で言えば、ダメな作品が世の中にあるのは当たり前だし、むしろ良いことだ(母数的な意味で)。
それがメジャー化したところで別段何の問題だって有りはしない。「それ以外の選択肢」があふれた現代なのだから。
しかし巧拙の程度の問題に対して、どうも、アンチの人は常軌を逸して過激なように思える。
Twitterでは焚書を促したりする人や、ファンにたいして自殺を勧めるような表現まで見えるわけで、それはどうにも違和感がぬぐえない。
上のURLも楽しんでいるだけのファンにガソリン放火をして自分も燃えながらゲラゲラ笑っている絵面に見える。
ここにはなんかもっと、個人のアイデンティティを賭け金にしたなにかがあるのを感じてしまうのだ。
まおゆうにおいて経済がどうこうとかいうのはテクスチャであるというのは見れば判るわけだけど
そのテクスチャを通して、あるいは取り除いて、まおゆうという物語の言っていることはほぼ1点に集約される。
それは「人間は自らの努力で社会を(自らの生活を)改善することが出来る」ということ。これだけだ。
まおゆうに激しい拒絶反応を示す人々は、どうも、まさにこの部分が受け入れられないように見える。
「人間は自らの努力で社会を(自らの生活を)改善することが出来る」という考えそのものが受け入れられない。
もっといえば「人間の努力で何かが改善できる、何かが為せるだなどといった欺瞞を高所から語るな」と憤ってるように見える。
それが良いのか悪いのか、とくに、そんなもん世間様に開陳して良いのかどうかは横に置く。
彼らがそういう憤りを感じているのは、現代社会において、リアルだととても強く感じるのだ。
いま思えば、初期にまおゆうを礼賛した人々は「人間は自らの努力で社会を改善することが出来る」ということに感動を覚えていたようだ。
まおゆうがそれに値する作品か? という話に接続したいわけではない。
どう感じるかは個人の自由なのだからその感想自体はまったく間違っていない、という話だ。
しかしその一方で、「人間は自らの努力で社会を改善することが出来る」という作品や、それを無邪気に礼賛する人というのは、
ある視点から見たら、どうしようもなく無神経で、脳天気で、生かしておくわけにはいかないほどいらだたしさを持つと言うことも、理解出来る。
この問題はとても深く、大きい。それは圧倒的な断絶だ。
(こう書いてしまうと作品のコアファンや作者には申し訳ないけれど)もはや、まおゆうは、どうでもいい。
まおゆうに描かれている作中の問題提起であるとか、作品の疵であるとか、小説としての上手い下手であるとか、そんなものを越えた問題がここにある。
こう例えると卑近になってしまうかもしれないのだが、
それは、小中高とよい大学に入れば幸せになると言われ多くの時間を苦痛な勉強に費やし、大学に入っても就職のために歯車的なロールを強要され
しかし実際ふたを開けてみれば、終身雇用も崩壊し経済はガタガタになり、どんなに働いても給料は高齢者の年金で吸い上げられ自分はもらえないと知ったような。
いわば、洗脳に近い価値観インストールを受けたけど、それらはみんなうんこでした――みたいな人間が、
「人間は自らの努力で社会を(自らの生活を)改善することが出来る!」なんて朗らかな事を言われたら殺意を覚えても仕方がない。
その殺意の前には、作中が中世に近いファンタジーで、いま実際の現実は21世紀なのだなんていう「歴史オタ」のいいざまはなんの意味を持たない。
まおゆうを認める派と認めない派の対立というのは、おそらく、すでにまおゆうとは関係ない次元にあるように思う。
この問題点に接続したことが、まおゆうの最新の価値であるように思う。
2013/01/16:誤字なおしたよーごめんよ
日本人はとりわけこの傾向が強いのだが成功術や幸福術に対して猜疑的と言えるほどに否定・反発する風潮が広くみられる。
また、より一般的な話になるが現代人に広く見られる傾向として、絶対的価値観に対する無条件の反発のようなものも広くみられる。
ひるがえって、近代科学が知識人たちにもたらした仮説思考とは、集めた情報、持ちうる情報から検証を重ねて一定以上の確率で正しいと推論される主張を「さしあたり」支持するというものである。
だから、何もその主張を絶対的に支持するわけではないが、「さしあたっては」絶対的に支持しているような「素振り」をとっている、と言えないこともない。
そういったものに対しても、「自分の考えを正しいと信じて疑わない」「自分以外はみんな間違ってると思ってるよアイツ」みたいな言い方を平気で出来てしまうのである彼らは。
いわば、絶対性アレルギーとでも言うか、「絶対なんて絶対ない」から感じる滑稽さに近しいものを感じざるを得ない。
むろん、彼らも絶対的に絶対性を否定しているわけではなく、あくまで「素振り」であると断じてしまうことは簡単である。
しかしながら、素振りであるにしても、幸福術に対するアレルギー反応を観察していると、これは人生簡単にいく方法なんてないから簡単な方法を否定しているといった人生の構造そのものの難しさにだけ帰着できる問題というより、
もはやこれはアレルギー反応を起こす人々に特有な精神性に問題があるのだなあと私は考えるのである。
バイト先の近くのローソンに過剰なサービスを提供するありがた迷惑な店員がいるのだが、最初それは店側の意向なのかと思っていた。
通常おかしな店員がいれば他の店員が注意したり客が苦情を申し立てたりするはずで、とっくに修正されているはずであるから、店側の方針と考えるのは自然なことである。
だが、その店に通い詰めるにつれて、明らかにその店員だけ特殊であることに気づき、これは誰も注意しないだけなんだと判明した。
すると不思議なのが何故注意しないのかである。その店員がおかしいと思っているのは俺だけなのか?いやそんなはずはない。では何故注意しない?
結局導き出された結論は、誰もがそんな些細なことはスルーしているのだ。彼は法をおかしているわけでもなく、あからさまに害を及ぼしているわけでもない。ただちょっとウザイだけである。
仕方ないのだ、そういうキャラなんだから。たまには迷惑そうにする客もいるだろう。実際、おかしな顔で彼をにらんでる女性客を見かけたことはある。「なんだこの馴れ馴れしいヤロウは」みたいなw
だが、否定派の俺が見ても彼はイケメンだから注意する女性も少ないのかもしれない。結局、ハルヒじゃないが最初は「なんだこいつ」と思う人が多いだろうが
「まいっか」の精神で最大公約数的な答えに落ち着いているのだろう。思えば世の中にはGCMを計算してくれる既成のプロパガンダやプロパガンダ機能を有するサービス・機関があふれかえっている。
「こまけーこたぁいいんだよ」とばかりに様々な無数の懸念事項を隅田川に勝手に不法投棄し、東京の街は成り立っている。
表向きは綺麗に見せかけているが水中では足をばたつかせている白鳥のように、クローゼット突っ込み整理術のように、強引に人々の心のゴミを片付け、夢を見させる。
言うなれば、その延長に絶対性への拒絶反応や幸せに生きる方法に対する無条件な否定や猜疑的反発や神経症的激怒があるのだろう。
心のどこかでは幸せに生きたいと願いつつも、その思いは叶わないから「ゴミ」であって削除されなければならないのだ。彼らの中では。
そこで手っ取り早くゴミを片付けて(結局それは先送りしてるだけで片付けには成功してないのだが)夢を見させてくれる既成プロパガンダにしがみつく。
そしてテキトーに組み合わせて自分のためのつぎはぎだらけの不格好な体系をこしらえる。それが彼らの声帯なのだ。
なぜこれが深刻な問題にならないかというと人々はそれなりに幸せだと思い込むことが出来ているからである。いろいろ不平不満を表面では言いつつも、実は大して彼らは困っていない。
しかし、こうも考えられないだろうか?中には本当に困っている人もいると。あるいはまた、困ってはないがもっと幸せになりたいと願っている人もいると。
だから日本に生きる人たちは気をつけないといけない。自分がその該当者だとしたら現実から目を背けてインスタントなツギハギプロパガンダの夢を見るのは得策ではない。
そういった人たちが既成の幸福術を実践したところで、ツギハギプロパガンダの悪影響を強く受けてしまうから失敗に終わることが多いのだ。
そして明日には二の轍を踏むかもしれない人間が平気でそういった人たちをつかまえて、だから無理って言っただろと非難する。そういう構造になっているわけである。
科学を篤く信奉する我々は、彼らの永遠なるごっこ遊びを真似してはいけない。毅然とした大人の態度で、GCM計算から一歩置く必要がある。
絶対なんて絶対ないと言いながらGCMのトリコになってる彼らとは違う。科学者の言う相対主義とは、仮説思考であり、方程式の適用限界の確認である。
ほにゃらかほにゃらかだと念仏のようにとなえるだけではだめで、直接話法を使いなさい。「「おっぽれだからほにゃらかだ」と思う」と言わないとダメ。カッコつけずに括弧をつけろと高校数学で習っただろ?
近未来。通信技術と描画技術の向上によって、オンライン空間に、アバターを使った完全な過去が再現された社会。
身体感覚をなくしているために、年齢制限が掛けられているものの、ほぼすべてのアバターが十代の容姿をしているため、本人確認において問題が生じている。
また痛覚がないために、過激な娯楽に興じるものも現れていて、アバター同士が武器防具を装備して戦うコロシアムや、重火器を扱った本格的なサバイバルゲームも催されている。
どれだけ刺激的な死に方を表現できるか競う殺害ストリーミングと呼ばれる映像ライブもあり、この娯楽においては自殺の部や拷問の部なども人気がある。
性に関する娯楽は、初期においては参加型が流行ったものの、身体感覚の制限があるために次第に下火になり、現在ではプロによる演劇のような提供型の娯楽が一般的になっている。
そんな中、身体感覚が再現されてしまうバグがあるという都市伝説が流行る。通信会社にもその情報は入ってきていて、事実現実社会に帰還した利用者からも苦情が届き始めている。
バグの調査にあたることになった主人公は、アバター空間での聴きこみの最中に痛覚を感じていると証言する女と出会う。女は調査に非協力的で、ものすごく冷ややかな応答しか示さない。
不審に思った主人公は、女の素性を確かめるために強引に女の登録情報にアクセスを試みる。途端に、何重にも掛けておいたセキュリティを破壊されて、主人公も痛覚のバグに感染してしまう。
会社へ連絡しようとするも、女に阻止される。曰く、アクセスした途端に、本幹にまでバグが広がりかねないのだという。
救援要請の手段を失った主人公は悲嘆に暮れる。様子を鼻で笑われながらも、仕方がなく女と行動を共にすることになる。危険が迫っているのだそうだ。
証拠に、女は常に周囲の目を気にしながら、ひっそりと行動し続けた。誰とも会話せず、目も合わせず、限りなく接触を断つようにしているのである。
様子に、主人公は過度な対応じゃないかと疑問を抱く。事実、どこにも危険な様子はないではないかと。隠れ家に辿り着き、何とか一息入れた時に、女から説明を受ける。
アバター空間に慣れるための適応期間のことを覚えているかと問われて、主人公は頷く。身体感覚を徐々に鈍らせていき、精神との繋がりを隔てることによって、開放的な娯楽を楽しめるようになるだ。
百をいきなり〇にしても、拒絶反応が起こる。実際、初期実験では過度の精神的ストレスによってショック死する事例も報告されていた。その解決策が、適応期間の導入というわけである。
主人公は通信会社の社員だ。一通りの経緯は知っていた。しかし、それとこれと何の繋がりがあるというのだろうか。
疑問が顔に現れていたらしい。女は渋面を作り、あんたは人を信じすぎていると吐き捨てた。人間ってのは、際限の効かない好奇心っていう化物を宿しているのだと。
女が言うには、彼ら彼女らは、もうすでに既存の娯楽に飽き始めているのだそうだ。実際に、先鋭化した一部のアバターは、クローズドサーバを用いて、新しいショーを楽しみ始めているのだという。
主人公にはいまいちピンとこない。すると女は憐れむように微笑んで、実社会におけるバグの報告件数を訊ねてきた。返答すると、あまりにも少な過ぎないかと畳み込まれてしまう。
嫌な考えが脳裏を巡る。まさかと戯ける主人公に、女は実社会で最近不審死が相次いでいないか問い詰める。確かに、長時間接続機に横たわっていた利用者が死ぬ事例は増えているのが現状だった。
けれども、利用者は自主的にログアウトできるはずだと主人公は反論する。長時間利用しての死亡事故は、あくまでも過労死だと。
だからこその、クローズドサーバなのだと女は告げる。サーバ主によって閉鎖された空間においては、主の許可無くログアウトすることができないのだと。
そんな馬鹿な。怒鳴る主人公に女は肩を竦める。わたしだって事実を全て把握しているわけじゃない。あくまで推測なのだと。
ただし、わたし達を狙っている奴らはいる。確実に。念を押す女に、主人公は息を呑んでしまう。嘘だと思うだろうけど、多分ライブされてるストリーミングの幾つかには身体感覚を有した人間がいる。
わたしが感染させた友達が映っていたのだから間違いない。発言に言葉も出なくなってしまう。演技だよ。そうかもしれない。全部作りものさ。否定はできない。問答が力なく続く。
どうすればいい。主人公は問う。俺はどうしたらいい。あんたは俺にどうしてほしいんだ。
仕事をするしかないんじゃないの。事が大きくなってからじゃ、会社もクソもあったもんじゃないから。
ってな感じで、バグの原因を突き止めようとする主人公だったが、実は登場している女は仮想現実に現れたゴーストのようなもので、現実社会には存在していない。
なんて言うか、コンピュータからの反逆というか、人間性への疑問提起みたいなのが表現できるのかもしれないと妄想する。
実社会における身体感覚を有しているとの苦情も、コンピュータが主体となって行ったもので、実際に感染し暴行ないし陵辱を受けた人々の意見はフィードバックされていない、等々。
……しっかし、ありふれたネタだなあ。後半部分、話ばっかで面白みに欠けるし。
まあ起承転結の承までって感じ。序破急の序? クローズドサーバの主に迫っていく部分が破で、女がゴーストだったてのが急になるのかしらん。
ああ、あと、アバター間における世代格差みたいなのとかもいけるのかも。
実年齢相応のアバターは同年代の若いアバターから容赦なくオヤジ狩りにあってたり、背伸びしている実年齢が若いアバターが被害にあってたり。
老いも若いもなくて、ただひたすらに娯楽だけが満ち溢れている、綺麗な綺麗な完成された過去が舞台。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/08/post-468.php
色んな人が言ってるけどこのナントカって奴の暴言に女達が脊髄反射的に(ヒステリックに)不快感を示すのは
この部分じゃない。
オバマ大統領がこの発言を受けて「レイプはレイプ」って真っ先に反論して女達から支持を受けた事実が示してる。
やっぱり色んな人が言ってるけど、「まともなレイプ(legitimate rape)」なんて存在しない。
女達が不快感、というか嫌悪感を抱くのはこういう「人間のオス」達が「レイプありき」で物を言ってるからだと思う。
どんなに医療技術が発達したって女にとって妊娠出産は命がけ。10割安全確実な出産方法は未だに確立されてない。
暴行され命の危険に晒されて強姦されて妊娠させられ、さらにまた命を危険に晒してまで犯罪者の子供を産まなければならないのか。
更に言えば妊娠出産は女の身体を変える。体型を変える。健康状態を変える。体質を変える。何より決して短くはない10ヶ月という時間を奪う。
物理的に見てもこれだけの苦痛を味わう事になるのに、なぜ被害女性がそんな目にあわなければならないんだ。
被害女性がそんな目にあってまで犯罪者の子供を産まなければならいなら、レイプ犯は即死刑もしくは性器切除による去勢刑を導入する、くらい言ってほしいもんだ。
実態に全くそぐわない喪女像をネタに馬鹿にされてる、っていうのも腹立つけど、
逆に、喪女を自分たちと一方的に同一視し、更に幻想まで抱いて、喪女ならいけるんじゃね?って考える喪男が増えそうで嫌だなぁと思った。
文化系女子に対する一方的なイメージの固定化に反発が起きたのと同じ構図。あとオタ女に対する過剰な憧れとか。
受け付けない男に近づいてこられたときの女の拒絶反応は喪男ならわかってると思うけれど、それは喪女も当然持ってて、
これはお前喪女の癖に男に言い寄って貰って、えり好みできる立場か?っていう問題じゃない。
「喪女で妥協するわ」とか言ってる喪男がその「喪女」の中からモンスター級の不細工除外してるのと同様の判断。
しかも、そういう近づき方するのって脱喪のために喪女利用することしか考えてないってことだから、最悪の中の最悪。
うううう。。。言いづらい。。
両親の性行為への拒絶反応を暗に示唆して部屋を分けてもらったときも物凄い勇気が必要だったのに・・・
寝たふりして許容してくれてるんだって思ってる可能性もあると思う。
寝返り打って逃げたりとかもしてるんだけど、それでも最近はかまわず触ってくるんだよね。
あんまり寝返りし過ぎたり寝相変えたりすると「気づいている」ことがわかってしまうから最終的にはもうそれすらもできなくて・・
寝たふりして蹴っ飛ばすのも、「気づいていて抵抗している」ことが悟られると思うとあまり大胆にはできないし。
私高校に入るぐらいまでは弟と一緒に風呂入ってたんだけど、
おっぱい膨らんでいるのに興味を示して「やわらかくて気持ちいい」とか言ってしょっちゅう触りまくって、
あそこやお尻も触ってきたので、ちょっとこれは危険だと思って自然と一緒に入るのをやめた。
夜こっそり体をまさぐりに来たりするようになった。
掲示板とかで相談したら「そんなの高校生の男の子なら普通」という反応が返って来た。
そうなのかな・・
宗教的経験
カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実的であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。
オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教的経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教的経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。
このように、宗教的経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教的経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。
以下、宗教的経験の検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います。
前述のように、高校三年生のときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想を指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイトに忙殺されていたのです。
そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱。悟りが気になりました。
最終的な解脱・悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己が存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。
不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在が事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。
また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子を指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教やインドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。
前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。
しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体「オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムはほとんど無名の団体でした。)
私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生のときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。
この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書の解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。
このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。
ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。
「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。
突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。
オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル(修行と指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であると確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニーが自然に覚醒したのは、前世のグルの著書を読んだために、修行者だった私の前世の記憶が甦ったからだと思いました。
このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています。
突然の回心は、被験者そのものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。
漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである。
すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。
二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。
この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。
漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。
私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。
このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています。
私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。
オウムの宗教的世界観が現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニーが覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑を広瀬君から感じた。」と法廷証言しています。
こうして、オウム真理教の在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践、ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。
オウムの教義と修行の目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。
教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。
[なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人の日常的な行為はほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死に修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]
また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。
回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますます深まりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。
なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)
なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観が現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです。
現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教的経験」のほうがリアリティがあるのです。
このような宗教的経験の作用について、文献には次のように述べられています。
アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システムを概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋の伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存の宗教を粉飾する。
超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズとフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者と精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。
宗教的経験のコンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神的プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。
(A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験が西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。
(西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九)
(プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間の情報処理を一定の方向に誘導すること)
瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身の感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニーの覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想の伝統によれば、非常に深刻になるものだ。
※「輸血拒否事件」1985年6月に神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。
大麻を拒否する根拠が神の教えだからなので、理詰めで害悪の少なさや有用性を説明されても、「でも神様が禁止してることだからダメ」で拒絶反応を示す。
理由は、お前の好きな「神の教え」だ。
神事に必要だからな。
「神様が使えって言ってるからオッケー」で思考停止してんのはどっちだよw
豚肉の美味しさや栄養の良さを説いても「アッラーの教えだから食べるわけにはいかない」というのと同じなのではないかと思った。
これは、是非砂漠地帯で現地で買った豚肉食べるという愚行をしてから言ってくれ。
死ぬからw。
http://mudainodqnment.ldblog.jp/archives/1714350.html
まず勘違いしてもらいたくないが、自分は大麻を始めとした禁止薬物でラリパッパになったことは一度もない。
ヤク中の自己弁護と思われたら筋違いなので一応お断りしておく。
大麻を拒否する根拠が神の教えだからなので、理詰めで害悪の少なさや有用性を説明されても、「でも神様が禁止してることだからダメ」で拒絶反応を示す。
←(今禁止されてる大麻を使うことの是非じゃなくて、解禁してもいいんじゃないかって言う議論に対してね)
豚肉の美味しさや栄養の良さを説いても「アッラーの教えだから食べるわけにはいかない」というのと同じなのではないかと思った。
同じような例で戦前は国が鬼畜米英と言って聖戦を指示すれば善悪の区別も考えずに皆殺しにしてやると一億総火の玉になったのに、
そもそも自分は5年前にAKB48が売れるなどとは夢にも思っていなかったので、将来的に市民権が得られるかどうかは難しい予測になる。
例えばだけど、キャラクター性を排除した商品が出て、喉を壊した有名アーティストが使いこなしたりすれば知名度は上がるだろうし、
ボカロのキャラクター絵がもっと一般に受け入れられるもの(宮崎駿や貞本義行のような方向性の絵とか?)になれば拒絶反応も減るだろうし(あとはそもそもボイスのサンプリングを行った人のキャラで売るという方法もあるだろう。桑田佳祐のボカロとか出たら気になる人も多そうだ。一流のボーカリストが末期癌になったとして、自分の声をボカロの形で残そうとする可能性もあるんじゃなかろうか)、
技術が進化してもっと簡単に誰でも使えるようになれば普及が進むだろうし、声が自然な方向に進化すれば聴く側もより受け入れやすくなるだろう。
あとは単にこのままの路線でどんどん露出が増えていく可能性もあると思う。
情感などでは人間に劣るものの、声域の広さや早い発音、息継ぎが不要なことなど人間を明らかに上回る部分がある技術なのも確か。
個人的には、市民権を得る可能性はそこそこあるんじゃないかと考えてる。
それが今のボカロかは置いといて。
えーっと、アイドリングだっけ…
あれもゴリ押しっぽいけど、売れてない気がする。
ゴリ押ししても売れないもんは売れないだろう。
んー、そこに拒絶反応があるのね。
俺はテレビ問わずメディアなんて一定周期ブームを捏造する機械ぐらいにしか思ってないんで、
韓流だけに反応する人を見ると、「ああ、ネトウヨだね」としか思わない。
大ブームってほどじゃないだろ。今の日本で大ブームなんて皆無。
あとビデオレンタルで店の韓流の占有率は異常。あんなにいらんだろ。
>空港に殺到するファンはやらせじゃない
別組織なんじゃね?根拠はない。
ゴリ押しでもなんでも需要が出来たもん勝ちみたいな状況になってるわな。
俺には全くピンと来ない需要だが、来る人には来るんだろう。
脱原発を、「事故後に増えた、一般人の拒絶反応」ではなく、「昔から続く基地外の戯言」にしてしまいたい層は確かに存在して、
それらの人は、まさにここに書いてあるようなことをノタマウ。
そして、リスクの話を持ち込むと、「止めるリスク」を持ち出すようになる。
きまって、全員が、同じ反応をする。
自分たちもカルトな信仰に囚われているのに、他人の信仰を嘲る様はひどく滑稽だ。
なぜ彼らが自身の信仰に則り、他人の信仰を攻撃するかといえば、一般大衆の多くは洗脳可能だと、知っているから。
事故のショックで恐怖に囚われた大衆なぞ、原発を推進したときのように丸め込めると知っているから。
ならば方法は簡単だ。
妄執に囚われたカルトで、社会性が無い不適合者だと印象付け、彼らの言説ではなく、人格を攻撃する。
攻撃手段としては、かなり追い込まれた最終手段で、議論の場でこれをやれば、まず間違いなく総スカンだ。
けれど、最初の切り口を原発の議論ではなく、「香山リカへの大人気ない反発」と設定したため、変に成立しているように見えてしまう。
議論に詰まったとき、外野からこうした人格攻撃が発生し、論者の言説を議論とはまったく関係ない事実から切り崩す戦術は良く見るが、
まぁ、さもありなん。
実際に「事故が起こってしまった」のだから、今更安全神話では彼らの言説を攻撃できない。
実際に「居住不可の地域が出てしまった」のだから、今更「ツナミハソウテイガイ」と言ったところで、納得も得られない。
ならばもう、彼らの人格を攻撃するより無いではないか、「原発を受け入れる人は大人」、「原発を拒否する人は基地外」とでもしなければ、
もう攻撃できないくらい、そんなところまで来てしまったのだ。
まあね。後から「実は分かってた、実は隠してた」なんてのがちょこちょこ出てるから、汚染水についてもどうだか疑わしいけども。
でもなんだかなあ。「技術的には簡単に計測可能なのに、隠してるんだ」と疑いたいなら、それだけの根拠が知りたいな。批判すべきでないトコまで東電や政府を批判したくないんだよね。なるべく原発を止める作業に集中してほしいから。
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「初音ミクがgoogle八分食らった」の陰謀論の頃から酷くなりだしたんだけどね。もう4年くらい前かあ。びっくりだ。
なんで彼らは、通常検索とかyoutubeには全然異常が無かった点を完全に無視してまで、陰謀論を展開したがってるんだろう(現在進行形)。
なんで印象操作業務の「有限会社COLORS」と、ぐるっぽを運営する別会社の「有限会社Colors」を同一視したがるんだろう。← つーかはてなキーワードも酷いな。印象操作の方の会社を紹介しやがってる。くるっぽさん涙目www
最初はただ陰謀論を楽しんでるだけかと思って、俺もノってたのに。
ネットの向こうには、どういう人間が居るんだろうか。俺が勝手に妄想してた「わりと理知的な人々」とは雰囲気が違うぞ。
ちょっと怖いなあ。
いやあ、もうインターネットが開発されてから十何年も議論されてることなんだが、twitter上の距離感が面倒くさい。
個人が自分のサイト持ち始めた2000年代前半もそうだったけど、公開・非公開の設定で公開ってしたんだったら、インターネットにつながる誰からでも見られうるって自覚を持って行動して欲しい。
アットマーク外してリプライ飛ばないようにしてても、自分のアカウント名で検索かけりゃあ一発で出るわけよ。それで自分に対する疑問へ返事したらなんでダメかなあ。
たぶんこの辺りの事情ははてブ関連の問題と非常に似てるんだと思う。はてブほとんど使わないから詳しくは知らないけど。
とにかく、特に煽ってるわけでも避難してるわけでもなく、単に挙げられた疑問へ答えただけでなんでそんな拒絶反応示してるの?そんな参照してほしくなかったらなんでtwitter設定非公開にしないの?。
そもそも突っ込まれて遁走するぐらいだったらはじめから発言しなけりゃいいだろうに。だからこそ@外したんだとは思うけど、はてな日記からつぶやいたら本人へメールが行くわけで、まあそんなことを知らなくとも本人から参照される可能性ぐらい常に想定して発言しろよ。
本当、どうしようもない。
「結婚なんて簡単」と、同僚の女性が豪語する。実際その女性、誰もが羨むような相手と5年ほど前に結婚している。
「相手の趣味をそれとなく聞き出して、それに徹底的に自分もハマればいいのよ。そして話題や価値観を共有していけば勝手にむこうから近づいてくるから」
その同僚の旦那はカメラが趣味だったらしい。なので同僚は取り敢えず安いコンデジを買い、撮影技術やらを旦那に教えて貰いながら距離を縮めていった。1、2ヶ月後には同僚はいっぱしのカメラオタクになり、半年後に入籍。今や二児の母である。カメラ趣味も続いているという。
婚活にいそしむ女性陣はそんな同僚のアドバイスにすらも目から鱗を落としたり、「旦那の趣味に合わせるなんて絶対無理」と拒絶反応を示したりしている。
処女じゃなきゃダメとか、半分ネタだと思ってるけど真剣に言ってる人がいるみたいで、
そういう人から処女じゃないとダメとか言われると、なんか違うなと思う。
「こっちもお断りなんですけど?」と思う。
それは、何? 自分が1度も経験ないから? 経験が少ないから? 素人童貞だから? 自信がないから?
それとも、自分は経験あるけど女はしちゃダメってこと? そういう考え?
もちろん、色んな男性に簡単に股を開くような女を大抵の男性が拒絶反応を示すのは分かる。
それは女だって男性に同じことされたら嫌だし、そして女のそれよりも拒絶感は強いのだろうと思う。
別にそれは自然な気持ちのような気がするし、否定はしない。
ただ、過去に人を好きになって、真剣に愛した結果、経験したんだったら良いのじゃないだろうか。
それが嫌なのかー。
一緒くたにされ、同じ嫌悪感を抱かれているところに違和感がある。
(まぁ、そういう人達の中での一緒なら、正直何でも良いけど。)
理由はどうであれ、だったら、こっちこそお断りなので、いちいち「処女じゃなきゃダメ」とか主張しなくて良いと思うな。
誰のために主張してるの? 処女の人に主張してるの? 非処女に主張してるの? それとも同じ考えの人?
お断りって言ってるくらいだから、女に対して主張してるんだよね・・、きっと。
それを聞いてもビッチじゃない非処女は「あー、あたし処女じゃない!くやしいー!」とかならないし。
処女だって、そんな主張されたところでいつかは誰かで喪失するだろうし、もしくは一生喪失しないかも。
別にその言葉で処女であるかどうかなんて左右されない気がするし。
・・・何も変わらないと思うけど?
ソーシャルゲームって、ゲームがどこまで単純になれるかを示しているんだよね。
俺はゲーマーじゃないけど、今までずっとゲームボーイやらスーファミやらで遊んできたから、最初にモバゲーやったとき激しい違和感を持ったw
だが、それは最初だけ。あぁなんだ、これがゲームなんだって至極あっさりと納得出来たよ。
食わず嫌いというか、ちょっとやっただけで拒絶反応示す人はもう少しやんないと分からないと思う。というか、分かりたくないのかもしれない。所詮情弱がやるゲームとか思ってそうだし。ゲームの面でプライドが強いんかな。
シミュレーション系が妙に多いんだけど、時間スパンが長い上にワンクリックとよく合ってるからなんだよね。確かに怪盗ロワイヤル系は明らかにどれも同じで、こんな量産型になんでハマれるんだろうとは思っちゃうけど、一度ハマればむしろシステムがそっくりなほうが安心を感じたりするのかもしれない。
ちなみにモバゲーやグリー(はちょっと知らないけど)と違い、ハンゲームの携帯版はゲーム&ウォッチみたいな(?)単純なアクションゲームが多い。かなり狙っているというか、ゲームっぽいゲームを提供してるのがハンゲームのほう。これは、PCでずっと提供してきたからなんだろうと思う。モバゲーはゲームっていうかインタラクティブな装置って雰囲気が強い。もちろんゲームに変わりないんだけど、既存のゲームとは根本的に中身の作り方が違う感じがするね
やりたいことを中心に会社を選ぶとバカをみるってことが、入社数年してようやく分かった。まさに自分のミスとしか言いようがない。IT系の会社であれば、制御系とか業務系とかの分野があることの他に、プログラミングができるかとか、上流工程ができるかとかあると思うけど、そういったものは、会社の雰囲気が明るいとか、研修がしっかりしてるとか、そういうものを捨ててまで選ぶことじゃないと思った。
会社の雰囲気が暗いとかほんとに論外。自分が会社に入るときに思ったけど、社員の人が通り過ぎても挨拶がない。社内を見学しても、誰一人としてコミュニケーションをとっているように見えない。喋っていても覇気がない。こういうのは一番気をつけなきゃならないことだと思う。
暗いってのはもう、何か精神的な問題を抱えてるに違いないと思っていい。「仕事忙しいから挨拶してる余裕ないだろ」とか思うかもしれないけど、たまに忙しいくらいであっても受付に人がいたときには会釈をするとか挨拶をするなんてことは常識の範疇。普通の人なら誰でもやる。全くそれがないなんてのは、忙しいというか仕事が楽しくなかったり、体力じゃなく精神的に疲れてる証拠。
仕事は、分野がやりたいことと一致してれば楽しいわけじゃない。コミュニケーションをとって仕事をするとか、作業の効率化を行うとか、スキルアップしてる実感があるとか、そういったものの方が楽しさの尺度としては強い。チームリーダが話の分からない頭の固い人だったりすると仕事なんて一気につまらなくなる。大体そういう感じだと悩みの相談にも乗ってくれないから効率が落ちても放置プレーにされる。やりたいことやるどころの話じゃなくなる。スキルアップも全然できなくなる。
挙句の果てに、その分野の仕事が出きると思って入ったにも関わらず、研修もまともにない上に雑用同然な仕事を割り当てられ、数年したら「何でそんなことも知らないのか」というようなことを言われる。これは精神的に辛い。
入った後で会社を変えればいいとか滅多なことじゃ考えちゃいけない。そういう正義感に溢れた人は個人的に好きだけど、既にそうなっちゃってる会社は、ほとんど誰も協力なんてしないからそこは気をつけた方がいい。会社を変えようとするほど、孤立していくのが落ち。転職する時にも、こういうマイナス印象を与えやすいことは説明に苦労する。その業界自体に拒絶反応が出ても別の分野に転職なんてできないかもしれない。こういう不景気なときほど即戦力を求められるし。
もちろんこれは一例ではあるけど、こういった会社は、やりたいことだけでは何ともしがたい雰囲気があるというか、どうにも出来ない仕組みになってると思っていい。向上心があるならば、尚更気をつけて欲しいと思う。やる気を全部剥がされ、更には体の芯を全部抜かれた感覚に襲われてしまうかもしれないから。
結婚して早数年。
結婚後に、夫がいろんな女の人と肉体関係をもっていたことが判明した。
なんか怪しいなぁとは思っていたけど、証拠ないと強気に出れず、ほぼ放置してた。
でも、他の女の人と遊んだりすることに対する拒絶反応はしっかり出してた。
それでも夫は変わらないから、この人はもうダメだと思った。
ここ数年分の肉体関係の集められる証拠を全部集めて、本人に突きつけて離婚を迫った。
ところが、夫は「別れたくない」らしい。
いやいや、ずっと私を裏切ってきたじゃないの。
彼の中で私はとてもちっぽけな存在に成り下がっていたんじゃないの?
だから、人を騙して、自分は外で楽しんでいたんじゃないの?
なんで、「あなたが一番大事なんです」「これからも一緒にいたいです」なんて言えるの?
なんで別れてくれないのよ。
女だから理解できない思考回路なんだろうか?
とりあえず、家から追い出してみた。