はてなキーワード: 拒絶反応とは
AppleはAppleだけが儲かればいいと考えているような印象を受ける。
例えば、お色気アプリの削除やFlashの否定とか。(いや、お色気アプリやFlashを否定する正当な理由があるにせよ、Appleの市場ではApple自身がサードパーティを敵視している印象なのはあまり否定できる人はいないのではないだろうか)
Intelといい、MSといい、Googleといい、Amazonといい、米国企業のサガなんだろうか、「みんなで幸せになろうよ(後藤隊長)」という思想がすっぽり抜けている感じがする。ある市場を独占して、一社だけがデタラメに儲かり、言い訳用の当て馬程度のライバルを生かさず殺さずみたいな勝ちパターン。
アメリカってやつは、共存共栄、即、共産思想へのアレルギーになり、それへの拒絶反応が凄いのかも知れないが、資本主義の限界ってやつがそもそもの今回の不況の原因であるとするならば、待っているのは自滅だけなんじゃないだろうか。
それならば、(悪い評判も多いが)君臨すれども統治せず、ともに共栄しようの楽天の方がまだましというか、一つのアンチテーゼとして存在すべきなのかも知れないとも思う。
もっとも、そもそも、インターネットというか、PCの思想がアメリカ製である以上、その呪縛からは逃れられないのかも知れないが、それでも、共生関係、共存関係、ウィンウィン(勝間和代)の方に時代は流れているような気もしなくもない。
あと、このままだとiPadもコンテンツ制作者が儲からない市場になるんだろうな、という直感は正直ある。その辺は、任天堂が陥っている罠にも共通する物があるのかも知れない。
だったら、なぜそこまで決めつけた過剰な反応をするのかなという疑問が残る。
http://anond.hatelabo.jp/20100212085929の物言いに対してそう思ったんだけど、これ元増田じゃないの?だったらごめん。
http://anond.hatelabo.jp/20100212083423に対しては、主張の内容がよくわからないので拒絶反応以前の問題だよ…。
やっぱり、こういうこと言う人は元増田に拒絶反応を覚えた人なんだろうなと俺は思ったよ。
ただ具体例が分からなかっただけで、「俺が基準と思ってる」と判断するなんてどう見ても過剰反応。
私も経験したので行為そのものを生理的に受け付けなくなるというのは良く分かる。
妊娠中に一度切迫流産で入院して以降、子が乳離れしてしばらくするまでパタッと性欲そのものが完全に消えうせるどころか拒絶反応みたいになってしまったし。
でもその間、私の場合は夫がどうしてもってことで出すのを手伝ってあげていました。
体が受け付けなくなってしまったっていうのを小町やらはてなに書き込む人って、大抵の旦那さんはいい人じゃないですか。家事やってくれたり子の面倒見てくれたり。
そこまでしてくれる旦那さんに労いの意味も込めて、肩をもむ感覚で、おちんちんをしゃぶってやることぐらいはできないんですかね。
お互い慣れて巧くなるとほんの1,2分で射精まで持っていけるようになるんだけど。
1、2日に1回それするだけで夫もへんな店で病気もらってくること無いし、風俗で消えるところだった小遣いで家族を外食につれてってくれるし。
それとも触れるのも嫌になっちゃってるんだとしたら、旦那さんそうとう可哀相。
(トラックバック先が不適切だったようなので消しました)
http://anond.hatelabo.jp/20091212010518
一晩明けたら思いがけずブクマがついててびっくりした。
でも、ブコメにあった
>恋愛とか関係無しに自分のルールと相容れない他人のルールがあるってのを許容できず自分のルールにだけ固執したいように見える
>「この人は同じ言語を話す人間だ」と思ったのは恥ずかしいくらいに錯覚だったって話だな。
このへんがすべてのような気がする。核心が突かれた、という気がした。
後出しになるんだけど、「適当に誤魔化した」くだりは、僕は「友達はいいもんだよね」というようなことを言って、
相手には「どういう人と付き合いたいの」「もし私と貴方が付き合ったらどうかな」という話をすごく沢山された。
僕は今の関係で十分楽しいと思っていたからなんで「付き合ったら」という話をされるのか、というのが嫌だった。
http://anond.hatelabo.jp/20091212121540
確かにものすごく屁理屈っぽい短絡をしてしまったと思っています。一緒に話してて楽しかったのは間違いないのに。
「人と一緒にいることは訓練」て何かで読んだけど、こういう性分をなんとかしないと誰かといい関係を築くことはできなくなる一方だと思います
http://anond.hatelabo.jp/20091212150230
(多分)というところに、僕もなんだか勝手に親近感を抱きました。
僕も性欲は薄い、というか性欲→作業的に処理、で終わって「恋人が欲しい!」にあまり繋がらない
あと、僕はたった二人の友達のうち一人に、かつて告白されたことがある。
告白される少し前から彼に「俺は同性愛者なんじゃないかと思う」ということを相談されていて、
そのうちに「実は好きなのはお前のことだ」と泣きながら言われた。
ただ、彼はその前から友人関係にセクマイの人が多くて偏見が無く、その直前に付き合っていた人(女性)と別れる時にかなり揉めて、
ものすごい中傷を周囲に振りまかれて、他にも色々とトラブルが続いて精神的にまいっていた時期だったので、
「たぶん付き合うこともセックスすることも出来ると思うけど、
君は今女性全体が怖くなって混乱してるんじゃないか、落ち着いてからまた考えよう」ということを言った。
結局、それから少しした後に「俺はやっぱり女が好きだったよ」と笑いながら言われた。
それ以来、お互い「セックスしようと思えばできる相手」という認識をしつつも何事もなく現在まで友達付き合いが続いている。
(彼は、そのあと他の女の子と付き合いはじめて、今も同棲中。たぶん結婚するんじゃないかと彼らも周囲も思っている)
でも、なんだか今になって、「あの時も友達だと思っていた相手に恋愛感情を示されて僕は逃げ出したのではないか」と思い始めた。
「好きだ」と言われたのに「錯覚じゃないのか」と返すなんてものすごい失礼なことをしたと今更ながら
(だからそれでも友達でいてくれている彼は感謝しなくてはいけないし、有難いと改めて思った)
もう一人の友達は女の子だけど、たまに「ここで付き合っちゃえばいいのにね」みたいなことを言ったりもするけど、
互いに冗談だと分かってるのでゼミで知り合った子みたいな拒絶反応は出たことがなかった。
結局のところ、僕は自分のことをよく分かっていないのに、依怙地なのが問題なんだと思う。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1348005.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1348005.html
このブクマを見てて思ったのは
(富野を一般人とするのはおかしいのだが、しかし指摘する部分は一般の考えと変わらないだろう)
私はオタクの反論は凄く正しいと思っている。
萌えアニメは萌えだけじゃなく中身だってある!どこみてんだよ!
という意見、それは本当に正しい。
しかし、それは結局の所、オタクが萌えアニメを外見から判断して視聴した結果発見した中身である。
と言うことに気づかなくてはいけない。
「人は見た目が9割」の本のような話はは極端だが、みんなもかわいい子が好きなように、まず外見から入るのが普通だ。
あなたは放送直前までストーリーや設定しか読まない?本当に?
オタクにしても、萌えアニメの中身より、外見から目に入るのが普通だろう。
咲を純粋なマージャンアニメを期待して見たひとはいるだろうか?
かわいい子がマージャンするなんて萌える!と思ったんじゃないだろうか。
ブクマの中には、萌えアニメに中身なんていらないという人もいて、そっちのほうが素直に解釈していると思う。
同人誌の現実は大半がエロ漫画なのに、そこを批判されると、それ以外のモノだってあると
普段は気にもしていない本を代表例に出す。
これも今回の話と同じだと思う。
結局のところ、反論のための論理で、君たちの普段とかけ離れていて、反論になっていないと思う。
外見は大事である
実際萌えアニメをまず外見で選んでいるのだから。
外見は大事だからこそ、富野の指摘も正しいと思うべきだ。彼もまた一般からみた外見論なのだから。
http://anond.hatelabo.jp/20081004025141
この1年前の記事に関する自分の考え方がどうも間違っているらしいんです。
自分にとって
「見ているうちに「見ていること」に嫌になって別なことをしたくなる作品」
というものが質のいい作品とは思ってない、ってことなんです。
自分にとっていい作品っていうのは
「迷った時、疲れた時読み直す作品」
っていうもの。大山倍達にとっての「宮本武蔵」が理想形でしょうか。
「こういうこと言う奴がいたら嫌だな」という仮想敵の人格が
話が進むにつれその発言の裏にある立場や思慮が理解でき
脳髄の一部を支配されることに拒絶反応をしない、ってのがいい作品だと思ってます。
オタクは二次元・三次元ってカテゴライズをするけど、一般の人って、そんなのあんまり気にしないんだよね。
よくロリコンを公言してて「俺は二次元にしか興味ないから」っていう奴いるけど、
一般人からすれば、リアルの代償として二次元にハマってるようにしか考えられないのを、理解できてない。
ロリ・ショタは比較的人数が多いようだけど、一般人からすれば基本的に共感が得がたい性癖であるということをまず認識した方がいい。
もちろんそれは「偏見」だろうが、偏見を持たれざるを得ない趣味であるというのは、自覚すべきだ。
平均、普通が大好きな日本人は、「マニア」には冷たい。いつか何かやらかすと思っている。
銃マニアが、改造して実弾を撃てるようになった銃で人を撃ったら「やっぱり」となる。
まして同人なんて、集めるだけでなく自分で作っているわけだから、
「現実の欲求をマンガという形で昇華している」と誤解を受けても仕方がない。
その背景には、おそらく「言霊」に近い「嗜好・思考は現実化する(現実を支配する)」という考え方があるのかもしれない。
はてなハイクをやってるけど、ロリショタネタで盛り上がってるのを見ると、複雑な気分になる。
子持ちの方も少なからずいて、今日の子どもというキーワードもあるくらいなのだが、
そのキーワードにエントリしている親たちは、ロリショタネタをどう見ているんだろう。
ハイク内では、ある程度オタク文化に理解のある人が多いように見受けられるので、
「二次元と三次元は違う(三次元には興味がない)」という「オタクの論理」も理解しているかもしれないが、
横から見ていて居心地の悪さを感じ得ない。
元増田の例のように、ロリショタを公言してる奴が児童関係の仕事についたら、
それが例え誤解とはいえ、絶交されるくらいは覚悟をしておけよ。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1293536.html
日の丸を切って貼ってした民主党旗で激昂している人たちがいる。
「やってもうた」という話しではなく一部にせよ意図があった行動であるのだとは思う。
それに案の定釣られたのは恐らくは靖国問題がどうの南京がどうのと騒いでいる人たちと同じ層だとおもわれるので、民主党の大多数の支持層とは最も離れたところにいるのではないかと思われる。
彼らが騒げば騒ぐほど、おそらくは逆効果だ。
日の丸どうこうでそこまで拒否反応を示すその固執っぷりは傍からみれば奇妙にも感じる。旗だけにな。
+++
そもそも日の丸が加工されることについてなぜここまで神経質になるのだろうか?
国旗だからという回答では不十分だ。
断面が葵の御紋に似てるからという理由でキュウリを食べなかったり、包丁を入れるのを嫌がった武士にも似たなにかがある。
時が経ってしまうとバカらしいその行為も当時の当事者にしてみればいたって真剣な行為である。
そこには葵の御紋を通した象徴への崇拝がある。
それと同様に日の丸を国家の具象として忠誠を誓っているのだとしたらすばらしい事だ。
だがそれは他人にまで強いるのはいかがなものか。
キュウリまでも尊ぶような武士の前で葵の御紋を凌辱するのは明らかな挑発行為ではある。
だが、キュウリを食ったからといって町民を切り捨てて回る武士を善しとするならば国とは一体なんであろうかと疑問に思わざるを得ない。
あくまでバランスの問題だ。
葵の御紋の凌辱の裏に造反の意図をみたのであれば斬り捨てたほうがよいこともあるだろう。
だがご法度でキュウリを食すことを禁ずと規定されだしたりしたらいよいよもって末期である。
日の丸に忠誠を誓えと強いてまわる様は魂までも国家に支配されすぎだ。
+++
最近つかわれている「売国奴」という言葉も、むしろこういう事を連呼する連中こそが成長を阻害し、国益を損ねているのではないかと評価せざるを得ない。
保守的にやってうまくいかなくなった理由を内部に原因を探り粛清してまわるのは取り巻く環境が激変している現在においてはあまり意味がない。
忠誠や尊敬を法律でいくら規定したところですべての人が同じ価値観になるわけもあるまい。
日の丸を切ったり貼ったりした行動に挑発された人たちは価値観の多様性に対する拒絶、拒否反応をしめした。
自分と異端にいる人たちの考え方や行動を許容できなくなっている。
先に進もうとするひと、その場に居座ろうとする人。
どちらが良い結果になるかわからない。
それぞれが正しいと思ってぶつかるのだろう。
ただ情勢をみるに保守派は不利なようだ。
主張や考えが通らなかったといって極端な行動などに出てくる人たちがでてこなければいいがと若干心配ではある。
まるで終戦間際だな。
+++
余談。
英国国旗のユニオンジャックなどはイングランド、スコットランド、アイルランドの旗印を切り貼りしてつくられたものだ。切り貼りというと語感が悪いがパッチワークというとあら不思議!
日本でも家紋などは合成紋などあわせてつくられたものも少なくない・・・。
今回も切ったり貼ったりした行為がすなわち問題というわけでなく、それが恣意的にまったく違う意味合いのものに加工されたのが問題なのだろう。
公の場でそれが掲示されたのはやはり少なからぬ意図があるといわれてもしかたがないことだろう。
生臭いね。
どうもありがとうございます。
注意深く,繰り返して読みました。
私の拙い文章で,ここまで理解し考えてくださる方がいることに大変驚きました。
どうもありがとうございます。
疎ましいなら疎んじてくれて大丈夫だよ」
たった一人のきょうだいが苦しんでいるのは
忍びない
という部分は特に強く印象に残りました。
「そうであらねばならない」なんらかの抑圧
という指摘も,(自分でも気付いていなかった部分も含めて)はっとさせられました。
後半のご指摘についても,おっしゃるとおり,
もしかすると「相容れない幸福観」に対する拒絶反応だったのかもしれません。
せっかくこのように鋭い指摘をしてくださったのに,的確なお答えができなくて申し訳ありません。
ともかく,感謝だけは,お伝えしておこうと思います。
基本的なものは守った上で改革をする?
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090805AT3S0501K05082009.html
何が基本的で何が基本的でないかを、誰が決めるのか?
財政規律を正し、小さい政府にする、その為の第一歩として、プライマリーバランスを実現するという公約を破ったのは、誰であろうか。
高速道路は償還が終わったら無料化するという約束で始まった。無料化するための財源として、揮発油税の割り増し分と、その同額を軽油にも付与すれば良いのに、ETCを使い、指定の日時と区間を利用した場合のみ、普通車だけ1000円均一という事でお茶を濁しているのは、誰であろうか。
守るべきは道路族の利権であり、既得権益層の利権であり、天下り先であるとしてきたのが、今の自民党政権が行ってきた事であり、それゆえに、支持率を失ってきた。
その反省をせずに、日本の歴史、伝統、日本語、皇室、国旗、国歌、という当たり前の物を守れるのは自民党だけだと言う。
それらを危うくするほど日本に売国奴を増やしたのは自民党自身であるし、自民党の長老議員の中には、選挙前だから仕方なくおとなしくしているが、未だに売国する気まんまんの者すら居る。
移民や外国人出稼ぎ労働者といった非国民を増やそうとする行為を、経団連の中核企業と一緒になって進めようとしていたのは、他ならぬ自民党である。
聖域無き改革から聖域のある改革へと転換し、その聖域は自民党の中枢が勝手に決めるというのでは多くの国民の支持は得られない。
どんなしくみでも改革できない物は無い。改革できないのは知恵が無いせいである。個人の頭だけでは知恵は足りない。多くの人の知恵を借りられるのが民主主義のメリットである。
ただし、知恵を集めるには、相応の人気・人望か、相互の利益が必要であるし、そうやって集めた知恵の中のどれが最適なのかは、どこかで決断をしなければならない。
選挙で多数決という手段もあれば、実験的にやってみて、有権者に拒絶反応が無い事を確認してから本格的に導入という手段もある。
改革は不断に行うモノであって、それを怠ってきたのが万年与党体質に染まった自民党である。自民党を変える必要があるというのが、国民の認識であり、残念なことに、現在の自民党の長老・領袖クラスは、この認識を国民と共有できていない。
死者を恐れるのはなんでなんだろうね。
異界の存在だと思っているからなのかな。それとも、死者という存在が恐れを撒き散らしているからなのかな。
もしかしたら、死をにおわしているからなのかもしれない。恐怖って、拒絶反応の一種かもしれないって思った。
人は何かしらの接点がないと存在を受け付けられないのかもしれないですね。
上の文で私が言いたかったのは、「自分が存在する世界」を受け入れてみてはどうか?ということ。
そうだね。その通りだ。私が世界の一部としてあることを認めることは、ありのままの世界を受け入れることだと思う。
あとね、私はべつに消えてしまいたいわけではないのですよ?ちょっと心配させてしまっただろうか。
ただ、ね。私は受け入れることに重きを置きたいと思っているのです。だからよくよく、中道的な立場に立ちたくなってしまうわけなのね。
当事者でもないのに端から片翼に傾向してしまうのって、いろいろなことを見落とす可能性があるでしょう?
もちろん、どんな立ち位置を取ろうが見落とすことはあるだろうけれど、私は真ん中が一番広く浅く物事を俯瞰できると思うのです。
それが、私のやりたい素直なスタイルだし、たぶん「ありのまま」に一番近いのだと思う。
……いや、でも初見で抱いた感情を一度押し留めて物事を把握しようと“努める”ことは、それ自体最早作為的な行為なのかもしれないな。
力を抜くのって、案外難しいことなのよね。
言葉を発することすら出来ないかも知れないから、
自分が存在している間にやりたいこともあるよね。
うん。だから私は、誰でもいいから、ある人にとっての何かになりたい。
本当は存在しているだけで成し得る願望なんだけれど、たぶんみんなが抱いていることだよね。
そして達成するのも、達成を確認するのも、極端に難しい願い。
考えられる手段は千差万別だ。基本的願望に忠実でありたいのですね、私は。
ちょっと話が戻るんだけど、
最初に元増田が「記録に残りたくない」って言ってたのは
これまでの話で出てきた言葉を使うなら
「自分が記号だけの存在として残るのが嫌」
っていうことなのかな。と思った。
記号だけじゃない自分を見つけて欲しい。
そういう気持ちならわかるような気がする。
あの時の気持ちは忘れてしまったけれど、かもしれないなあって思った。
それに今でも私という世界が、言葉や記号による切り取りを受けずに、そのまま誰かの小さな世界の一部になれたらいいなあって思ってる。
贅沢かな?野心的かな?拒絶する人もいるのかもしれない。
でも、私は私の在りようを認めたいと思うのです。
私にだけは謙虚であったり、尊大であったり、嘘を吐いたりはしたくないからね。
早いもので、八月になっちゃった。いい加減晴れろ。
個人的にだけれど、強すぎる陽光の下、陽炎だけが揺らめく沈黙の中には、なぜか死者の気配が漂っているような気がする。
気のせい?錯覚だろうか?いや、刻み込まれた感覚が叫んでいるような気がする。
私はしょぼい社長業をしているが、どうもまわりの経営者連中を見ていると、苦笑いしたくなる奴が多い。
寄り合いがある時などに、講演者を呼んだりするのだが、人畜無害な人もまあいるんだけど、基本的には反吐が出る奴ばかりである。
中でも、発展途上国の貧困をリアルに伝えるおばさんを呼んだ会はとくにやばかった。まじやばい。
アフリカの子供たちの貧困を救え、とか言われたら、そりゃそうだと普通思ってしまう。反論できない。
しかし、そこには裏のメッセージが込められている。
「お前がうだつが上がらないのは、お前が努力しないからだ。彼らに比べればチャンスは平等だ。」という。
このメッセージは気付きにくいだけに強烈だ。あなたも「自分が駄目なのは努力が足りないからなんだ…」とか、思っていないだろうか。
実は実際のところ、成功において本当の自己選択可能な努力成分は微々たるものだ。一般的に『努力』と呼ばれるものは、自分で変革可能なものでは無い場合が99%だ。『努力』できるのも才能のうち、という奴だ。もっといえば、目標みつけられるのも運だし、見つける前に家庭環境から仕込まれるかどうかも運だ。
成功過程には、良い条件で生まれる運と、何かを担保にしたギャンブルがほぼすべてを占めている。(これに拒絶反応を示すなら、搾取対象として十分洗脳されている)
そして、勝ったらそれを可能な限り守る、それだけの話だ。
この事実を認めることは、成功者自身にとっても恐ろしいことだ。だから成功本の出版によって「自分の成功は人より多くの努力や工夫があったからだ…」という既成事実化と自己洗脳を行う。
しかし成功本などによる自己洗脳よりも効率的なのが、この途上国貧困層支援である。これは、世界レベルの社会貢献という形の懺悔や名誉だけでなく、自分の立場も守れるという、とてもパフォーマンスの良い行為なのだ。
直接的ないわゆる小作農である、国内貧困層に金を蒔いて救ってしまったら、自分の立場がそれだけ危ぶむことを彼らは理解している。
だから、グローバルな視点かつ盲目的に、そうした究極の貧困だけを対象とする。
幸せ観は人生ステージによって変化するだろうが、突き詰めると行き着くところは大体同じで、最大公約数を取るとかなりシンプルだ。
今でも最終的に家族に行き着く人は多い。しかし、かつての名士などになると、さらに地域の幸せまで考えたものだ。家族企業も家族の次に社員の人生を考えた選択をしてきた。国会議員や官僚は地元に利益を持ってくるために働いた。(これは職責からすると問題あるけど)
そうした隣人への貢献が、意識のグローバル化とともに、対象が寄り大きな貧困へとジャンプしてしまったと考えるとわかりやすいかもしれない。
一番貧困なのはどこかを探して、金を投入するのは全く間違い。こういうのは国レベルで行うべきスケールの話なのだ。そんなに気になるなら、JICA等、政府外郭団体はあるのだから、そこで労働力提供したほうがマシである。
そもそも、貧困の度合いをスケールにするのが間違いである。自分の身近さをスケールに貢献対象を絞っていくのがよい。その方が自分も生きやすくなるし、幸せにもなれる。
考えればもっとやることはあるはずだ。
対象を決めて、ただ金を適当に配るこだけでは問題があるだろう。
弱者層はよく『平等』を口にするが、実際は公正を望んでる人たちの方がダントツに多い。どっかの団体が無学を良いことに勝手に便乗しているだけだ。
本当に自由競争が正義だと思うなら、運が無いだけかもしれない人たちの、確率を底上げしてやらないと機能不全を起こすだろう?それを怠るのは欺瞞だよね。
「(グローバル視点で見れば)日本に格差ははない」とか、醜いこと言ってんじゃねーよ。ばーか。
べつにだれに追い抜かれようとどうでも良いだろうが。隣人さえ幸せならさ。そういうのって返ってくるぜ、自分にさ。広く種蒔いてれば、それだけ広く返ってくる。宗教っぽいな。でも人間ってそんなもんだし。結果的に再起不能も防げるし。悪いことなんかどこにも無いだろう。
http://www.sugoren.com/report/post_37.php
女の子の話を聞く際に気をつけたいポイントっていうが、こりゃ女の子に限った話じゃないだろうと思う
あと、この記事、ムカつく理由も多分履き違えてる。
1)「要するに」が大抵の場合ムカつく理由
要するにといってるのに全然要しきれていないから。
これに尽きるぜ、大抵の場合。
つか、「要するに」といって養子切れてることが前提でこの記事はなしてるっぽいけどそりゃ傲慢だろ。日本人はただでさえ要するのが下手だし、たいていの奴は「要するにーウンたらかんたらどーたらあーだらこーだら」で「全然要してねぇ!」なことが多い。あるいは、短くまとめても「ズレてるよ!そういうことがいいたいんじゃねーよ!」ってことが多い。
2)「結果としてどうなったの?」がムカつく理由
これは、「まあ、そう急くな」としかいいようがない。結果としてどうなったかを説明するために前の段階から話しているんだから、まず待て。なぜ、そうせっかちなのか。こういう奴に限って、じゃあと結果からいうと「なんでそんなことになったんだ、だから俺はね云々……」とか人の話も聞かないうちに勝手に語りだす。だから、待て。電車があまりにぴったりに来るのに慣れすぎてんじゃねーか(関係ねーかw)。
3)「ところでさ」がムカつく理由
はあげなくてもいいだろ。まず人が話してるんだから聞けとしか言い様が無い。これをするやつは大抵仕事できない。
4)「(興味なさそうに)ふーん」
これは「興味なさそうに」のあたりが主観的なので、なんともいいようがない。そのときどきによる。あまりに「どーでもいいですよ」な態度だったらそりゃ誰しも「あぁ?」と思う。
5)「それはないでしょ」がムカつく理由
ってこれも言わなくてもいいだろ。せめて根拠はなせ。いきなり「それはない」って何様だ?つーかはなしてる相手と友好関係を築く気が微塵も感じられない。ケンカ売りたい相手にならこれは有効。
6)「そんなの……すればよかったんだよ」がムカつく理由
後からならどうとでも言えんだよな。あと、例えば「公共の場でこんな迷惑かけてるやつがいたが、何も言えなかった」「そんなの注意してやりゃよかったんだよ」てな話題んの場合、そいつ自身、実際そんなシーンにあったらろくに言えないくせに、他者に起こった、もう過去の出来事に対してはやたら「自分はできるけど?」と偉そうになってる場合がめちゃくちゃ多い。実際お前やれねーくせに偉そうに言うんじゃねえよってのと、やれるやれないはさておき、もうその事について何を語ろうが、終わったことなので自身にそれが振られることはないと分かっていての、絶対的安全圏から偉そうに言ってるのがムカつくんだよ。極端に言えば、「戦争なんてさぁ、こうやりゃ勝てたんだよ」とか言うようなもん。
7)「俺の場合は」
聞いてねぇ。
大体「〇〇すればよかったんだよ」とか「要するに」とか、会話の主導権をこっちが握ろう握ろうと焦りすぎなんだ。自覚はない場合が多いが。そらはなしてる最中に会話の主導権を幾度も奪われそうになったらいい気はしない。
かっこつけすぎっつーか、上の立場に立とうとしすぎっつーか。(大抵「要するに」とかこの手の言葉を言ってる奴は、内心そんな俺って論理的で賢くない?って少なからず思っている。そういう自意識がもれてるのも嫌われる一因)
よく言われることだが、男は対等な会話をするのが難しいのかもしれん。(だから、こういう会話を否定されると、今度は一転して「じゃあなんでもはいはいって頷いておけばいいのか」って下手にまわるほうの選択肢しかでてこない。選択肢が、上から目線か、下から目線かしかない)
ぶっちゃけこの7つのワードって、全部マウンティングなんだよ。早まって、のっかろうのっかろうとする。相手を制しよう制しようとする。多分男は無意識レベルでそれをしてしまう。だから女は「何なの」って拒絶反応を示す。
中絶ゲームの件で、ようやく自分の中で合点がいったので、ぐぁっと書いてみる。
ロリコン野郎も痴漢野郎もレイプ野郎、そして中絶させるゲス野郎も、相手への同意がないんだよな。
それがどうしようもない気持ちの悪さの原因なんだ。
表現の自由とか云々とかじゃなくて、その行為の非対称性が人として許せないんだ。
もの凄くわかりやすい言葉で言えば、相手への思いやりがない。
オーケー、たいていのエロは相手への思いやりはないとも言える。
パンチラのどこに思いやりがある?
ないね。
視線の暴力ではある。手鏡で見ても捕まるし、盗撮したら立派な犯罪だ。
「あの子のパンチラ見た」ってのと、「あの子レイプした」「中絶させた」って比べたらすぐ分かるでしょ。
比べるまでもない。
同じセックスをするにしても、同意の上のセックスとレイプでも、
結局性欲を満たす行為であることにはかわりない。
まあこの辺はまたややこしくなるから、さらっとしか触れないが、
愛情の有無うんぬんもあるが、それ以上にお互いの合意があるかどうかが重要なんだ。
レイプは無理矢理やるからレイプだけど、中絶は同意がなきゃできないだろって?
中絶にしたって女性も否が応でもせざるを得ないからするんだろうが、
法律的な話は面倒だからはしょるが、胎児に人権があるなしにかかわらず、とりあえず同意はない。
ロリコンも同じで、性的な目で見られるという意味もわかっていないだろう相手を、そういう目で見るわけだ。
百歩譲ってもうそれは仕方がないともいえるが、
耳を舐めるのが大好き、二次元にしか興味がない、何でもいい。
でもその趣味嗜好に拒絶反応を示す人がいるってことは絶対忘れるなよ。
だから、大声で話すべきことじゃないんだ。
ゲームだから何でもしていいって?そういう問題じゃない。
ゲームをしたいって欲望の裏側には、現実があるって事を忘れるなよ。
「人を殺す」ってのはゲームではあまりにもありきたりになりすぎていて、
もはや刺激がないんだが(RPGで敵を倒す=殺さなきゃ先に進めない)、
twitterなりmixiなりいろいろあるとは思うけど、それは(この媒体では)ありきたりと思うので・・・
私は酒飲みなので、それを前提にした助言しかできないけど、例えばバーみたいなところに行ってみるといいかな。
twitterとかとの最大の違いは、バーみたいな場所だと店員は「客としゃべること」も仕事なので、こっちが頑張らなくてもある程度はきちんと話題を振ってくれる。もちろん、振られたネタに拒絶反応みたいな変事をしたらダメだろうけど、笑顔に近い表情でてきとうに相槌をしているだけでもそれなりに相手はしてくれる。
後は、そう言う場所に一人で来る客は少なからず寂しいとか思ってるクチなので、ある程度慣れてきたら他の客にしゃべりかけてもいい。
もし、しゃべりかけた相手とうまくいかなくて恥ずかしい思いをしたと思ったら、もう2度とそこには行かなければ良いだけと言う気楽さが、これ系の強みかなと思う。その場限りの縁てのは寂しいと感じるかもしれないけど、まぁそれでも
なんだかんだで友達ができたりする。
この考えは、「キャバクラに行く寂しいオヤジ」ときっとかわらないな、とよく思うけど、まぁキャバクラに比べれば金も全然かからないだろうし(キャバクラがどれ位金かかるか知らないけど)、個人的には「人生そんなもんだよねー」とか思ってる。
酒が飲めない場合は上に該当するような場所は私はちょっと分からないけど、「客と話をすること」を仕事にしている人ってのは結構いるから、そう言う場所に行くと寂しさは紛れるんじゃないかなー。
一理ある。
女性中心のコミュニティは基本どこでもそうだけど、腐女子、というくくりをした時にそういう女性的な面が強調されているから鼻につく人も多いんだと思う。
あと、なんていうか分母が大きくなった分一部の目立つ分子が悪目立ちしているのもあって、そういうのに女性的な「群れ」の性質が被ってるというのか。
腐かどうかに関わらず彼女たちは自分と異質な存在というものに対して拒絶反応を起こすことも多い。
女性といっても女性=単一の意識を共有しているわけではないから個人差もあるし、みんながみんなそうじゃないんだけど。
女性が「群れる」っていうのは体力的な面なんかで男性に劣ることが多い自分たちを守るためというのも有るんだと昔何かで読んだなぁ。