はてなキーワード: 寄進とは
イギリス、BBCの受信料制度廃止するかもしれないってよ
うむ、公共サービスだからといってサブスク強制できる時代は終わっていってくれ
年金保険料も受信料も強制徴収という方式に頼らずに同じような成果を達成できる道を模索していくべきだと思うね
税金というのもある意味究極的な強制サブスクと言えるが、その形も変わっていく余地があるだろう
消費額や所得額などに対して一律に強制徴収して何かよく分からん事に使われるんじゃなくて
もっとこう技術とか駆使したら税金を投入したいプロジェクトごとに適切なところから適切なだけ寄進を半強制くらいの勢いで十分集められるようにできたりしないのか
クラファンとかふるさと納税みたいなのを進化させていい感じにリワードを設定すればイケると思うんだよ
しらんけどな
22世紀を見ようぜ
個人崇拝推し進めて僧侶に盾突いて扇動してたら破門されるのは当然なんだよなぁ。
僧侶は信仰の内容を500年後1000年後に伝えていくのが使命だし、その為の仏教って概念に対する人身御供な所あるし。
在家の一個人がどれだけ教学に秀でてても、僧侶より偉いんだなんてやり始めたら、信仰が歪められちゃうからね。
以下wiki
大石寺第67世日顕の代、2000年4月に着工し、2002年10月に完成し落慶法要が行われた。 この場所には、かつては創価学会の寄進(御供養)により建設された正本堂(1972年完成)が建っていたが、
創価学会が破門(1991年)されたことを契機として、同会員が日蓮正宗の信徒資格を喪失(1997年)した翌年の1998年に、本門戒壇之大御本尊を奉安殿に遷座した上で正本堂を解体し、跡地に建設した建物である。
①社会的地位を利用し、断りがたい立場の人に狙いを絞り、お金は38万必要だ
が とてもいい話が聞ける。この様に誘われることすら、得がたいことであ
り、行けば必ず納得してくれるだろうと、教団名、宗教であることを隠して
勧誘する。
②京都へ行けば、2日間にわたり、念仏宗・無量寿寺信者としての(かなり洗
このとき、念仏宗の秘儀というものも教わるが、(太陽を裸眼で見る方法、
化仏、化菩薩を見る方法等で、この秘儀を伝えられたことにより、極楽往生
が決定し菩薩の仲間になったと教え込まれる。) これは普通の生活では経
験していないことを教えるだけで、同じようにすれば、誰でも見える。また
徹底した秘密 主義を誓わせ、たとえ家族のものであれ念仏宗無量寿寺で聞
③釈尊本来の仏教というよりも 浄土系、密教系の複合したもので 開祖、久
世太郎(本名 福井真尚、別称 戸倉貞和)教と呼ぶべきものである。ちな
みに開祖の前歴は占い師で詐欺による訴訟を神戸地方裁判所にて起こされた
こともある。
④念仏宗 無量寿寺の会員(同行という)になると、3人を済度(信者を勧誘
すること)するノルマを与えられる。
⑤学術的文献によれば一般に 「隠し念仏」と呼ばれている。浄土真宗側から
仏教歴史学によれば、秘事法門と呼ばれ、 布団被り、御蔵法門、御杓子講
空也派、天王寺派等、が存在するようだ。念仏宗が、どの派に近いのか、ま
た、混交したものであるのかは不明である。 いづれにしても 善智識と呼
ばれるものを立て、自宗の奥儀として儀式を秘匿し、門外に他言すれば地獄
におちると 信者に言い含めるのが特徴としてみられる。
⑥2チャンネルの「念仏宗無量寿寺」掲示板や、「知りたい。。。」掲示板の
元信者、現信者家族の書き込みに寄れば 無量寿寺への入信が原因で、離婚
や、家庭不和、鬱病に悩まされているという報告が数多く寄せられている。
また、念仏宗の幹部、であり、回向相伝を授けられた土屋 悟 氏が(2001
護持費(会費)1口 2000円・・毎月支払い、口数は各信者の自由意志
その他、地方会費(各地区の別院、檀信徒会館、等施設維持のため)として
信者1人当たり1000円 ~5000円/毎月)の支払いがあるようだ。
回向 (先祖供養等) 一体1口 10000円 (1年に先祖1人につき6回必要)
集中回向 一体 100000円
法名 100万円
仏像 一体 100万円
本堂の柱 寄進 1本 1000万円
⑧念仏宗無量寿寺は昭和54年に宗教法人としての認可を監督官庁から受けた。
平成4年に 日本の仏教 第14宗として監督官庁に認可されたと、無量寿寺
の月刊誌に書いてあるそうだが、監督官庁が認可した事実は無い。
⑨開祖の久世太郎は 真言宗第195代 琳真大僧正の6番目の末弟というふれこ
みだが、真言宗に確認してみると そのような事実は無いとの返答であった。
⑩念仏宗・無量寿寺 信者として、六大祭事(初詣、大涅槃会、観音祭、降誕
⑪これまでに5回 世界仏教サミットを開催しているが、これは念仏宗のお手
盛り、宣伝的なイベントであり、 日本の仏教会からは 全く無視されてい
る。
日本の仏教会は、全日本仏教会という組織(日本仏教会の9割以上が参加)
があり、これまでに20回以上も 世界仏教徒会議というものに参加している
を受けるに当たっては 五具足相伝に300万円、回向相伝には1000万の冥加
金を支払わねばならない。
念佛宗では信者が儀式の際に使用した上記のものを死後8時間以内にこれら
を身に付けさせ、蝋燭を燈さなければ輪廻の輪から解脱出来ず、極楽浄土へ
向かう事が出来無いとしている。
胎内にいる間に、仏との縁を結び、無事にこの世に生まれさせていただくと
いう儀式 いわゆる、安産祈願、不退は産まれてくる子が 真実の道、浄土
へ向かう道から外れないという意味を含むようだ。この儀式を受けたあかち
ゃんは臍のおが白いと云われるが、元、念仏宗信者の言によれば、他のあか
開祖の久世氏をはじめとして、法主:宮川氏、善智識:郡氏、清水氏の4名
かと思われる。清水氏は企業セミナーの講師もしているとの情報あり。
⑯念仏宗・無量寿寺 同行となったものは 精進しなければならない。(具体
的には、本山、 別院、檀信徒会館、王堂 関連の 維持、管理、世話等の
仕事が順番に回ってくるらしい。)
そもそも半世紀以上の間デスクトップ/キーボード/タイピングオリエンテッドの2本腕のコンピューティング操作がのさばってる状態のほうがおかしいだろ
音声指示/文章理解/フィジカルジェスチャの時代が次のこの10年だろ?
”なんか家計簿つけたいから情報取って記録できるようにして。ペイメントとか銀行口座の認証いるなら要るとき声かけて”
ってコンピューターに声かけたらコンテナ構成とかかき集めてくれて3分でサーバー建って記録が始められるとかそういうのでいいじゃんお前なんか介在してくれなくていいわ。
なんで村の長老とか呪術師みたいなオヤジに頭下げて何やってるか分からん祈祷みたいな呪術文を書くのに金銭を貢いだうえに有難がらないといけないのかがサッパリ分からんわ
おまえらの仕事を守りたいために面倒にしてるだけだからいまコロナで批判されてる自称医者や官僚と振る舞いとしては何も変わらんよな
村の脳筋老いぼれマウント爺を太らすくらいなら遠い海の向こうからやってきたと神の生まれ変わりを祖とするらしいなんか凄いっぽい宗教の伝道師とやらに寄進したほうがよっぽどご利益あるし、実際に最新の土木とか治水とかも教えてくれるし。
近くのしきたりに縛られて馬鹿に頭下げるくらいなら、遠くの神に全てを預けて天に召されるまで信心してるほうがよっぽどマシだわ
狩野英孝が「スパチャ面倒(意訳)」言って一瞬バズったけど、まぁ確かに面倒だよね
自分もスパチャした人の名前いちいち言って流れ止める配信者と自分は一銭も出さないくせに「ナイスパ」とかゴミ書きこんでチャット欄進ませるゴミクズは嫌い
確かにシステム的に金額で出来ることや持続時間が違うので高額だと長い時間チャット欄に滞留できるし目立つ。でも、そんなのいちいち拾う必要はない。御礼くらいで充分。名前とか要らん
スパチャなんてお賽銭だと思えばいい。入れる金額は自由だし、加持祈祷とは違っていちいち住職がお礼や名前を呼び込むことはない。ましてや賽銭箱の隣で「賽銭入れたね!」なんていちいち言うキチガイとかありえない
神社仏閣にアピールしたいならお賽銭じゃない方法で寄進して柵や鳥居、もしくは酒樽と一緒に名前張り出されればいい
というかスパチャ数万しようが名前とか覚えないぞ。金よりアイコンに気を使え。キャバクラだってイケメンじゃなきゃ財布以上には決してならないし、財布は決して名前を覚えられない
寄進したら神が送られてくるってすごくね?
はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。
『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。
僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああいう教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである。
ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである。日本民族がいかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的な価値観を元に記述せざるをえなくなる。
客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。
いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。
クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。
例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています。
平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。
平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。
しかし、畿内・西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏は北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国に都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係の説明が詰め込まれています。
まず、平清盛が後白河天皇を幽閉したこと、安徳天皇を即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています。
当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています。
次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団や中央の貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王と源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています。
これはまさしく因果関係に言及しているわけです。
このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価や因果関係がしっかりと述べられているのです。
そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。
なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています。
治承・寿永の乱は、一般には源氏と平氏の戦いといわれている。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏らである。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである。
彼らの動向をまとめあげ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲・源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。
教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。
他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。
【参考文献】
(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)
伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏の根拠地・鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦、千葉、上総氏などの有力な東国武士と主従関係を結んで御家人とし
頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います。
三浦、千葉、上総という武士の名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏の名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦のときに唐突に登場します。)
[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政・裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元・三善康信が就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島で平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
[]は引用者註。
この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。
鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています。
北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦いで平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国の地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原(神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇と対立したので、法皇は同年、頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経はさらに平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。
この教科書は歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。
上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏が都落ちに安徳天皇を伴ったことも言及なし。
というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります。
鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍に面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。
教科書の中では唯一、桐原書店だけが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。
(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍に面接して」という説明も省かれています)
["新恩給与"についての註]
土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。
これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!
所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世の土地支配の構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います。
なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています。
職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園の場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。
この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。
しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会と文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています。
地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益の意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利。
これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配の構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?
せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。
さて、桐原書店の教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています。
幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権を意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近衛大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。
Aについては南北朝時代の武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨・甲斐善光寺蔵)。
とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。
網野善彦の著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います。
他の教科書には載ってませんが、ピンポイントで東大入試に出題されました。
源氏と鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏の氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮(八幡宮の前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。
鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍の教科書だけです。
上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉と経済流通」というのも掲載されています。
東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います。
こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。
あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。
それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇・朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。
両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます。
関西にある政権が東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ。
平氏は安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力を回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門の壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。
この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス。
都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。
どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています。
ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西の教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇や平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)
例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国の武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とあります。さらに西国の御家人が東国の御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書の関西中心っぽい史観は独特です。
園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。
開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。
なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。
目次 [非表示]
1 歴史
2 伽藍
3 黄不動
4 文化財
4.2 国宝
4.3 重要文化財
4.4 その他
5 御詠歌
7 交通
8 周辺
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
三井寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。
三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏に就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である。円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認の正規の僧となり、円珍と改名した。その後、比叡山の規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山や熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺は修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行。青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本へ帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行の道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍に伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教、密教に加えて修験道を兼学する円珍の伝法は、これによって政府の公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍は天台宗最高の地位である天台座主に就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。
円珍の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀あまりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山を下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。
三井寺は、平安時代には朝廷や貴族の尊崇を集め、中でも藤原道長、白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力者からの寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺も荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺で僧侶として育てられていた源頼家の子公暁が叔父である源実朝を暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当に就任すると再興され、続く南北朝の内乱でも北朝・足利氏を支持したことから、室町幕府の保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺の勢力を牽制するために園城寺に対して一定の支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺の祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在の三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである。
2011日3月9日は癌を患っていた私の母が安らかに逝った命日なんだが、慌ただしく葬儀の準備契約を済ませたところに大震災が来た。
葬儀社も震災による被害を受けて壊滅、列席予定だった人たちも多く亡くなり、私の母の葬式どころではなくなってしまった。
幸いにも遺体の安置されていた斎場は高台にあったので津波にさらわれずに済んだが、生きているものが優先される中で遺体は放置せざるを得ず母の遺体はそこに放置された。
ようやく母の遺体を回収したのは一ヶ月も過ぎた頃で、腐敗が進んで酷い状態だったので、葬式もあげずにそのまま県外の火葬場へと直行して、私の手元には小さな骨壷が一つ残っただけだ。
あれから5年が経過しようとしていて、震災で亡くなった沢山の方々を偲ぶ気持ちは私に当然あるし、友人や親戚も数多く亡くなった悲しみはある。
私の母が癌で死んだことを知っている人間がもう五年も経つのかと話題に上げ線香をあげにきてくれることは無いが、震災で亡くなった人は毎年のように慰霊祭やらで弔ってもらえる。
日航機の件でもそうだが、おそらく今後数十年以上はこの慰霊祭が毎年行われて、テレビで報道され、後世の人達が震災で亡くなった方々を偲ぶことだろう。
だがそこに私の母は入っていない。
金はあるが数年後に迫った定年退職後の余生を考えると、母の墓を守る人は遠からずいなくなるだろうし、私を弔ってくれる子供や家族はもういない。
なぜ大震災で亡くなった方々は毎年弔ってもらえるんだろうか。
311が近づいてその話題が毎年のぼるたびに私の心は嫉妬にも似た忸怩たる思いであふれるのだ。
死んだ人間には何の意味もないかもしれないが、すべての人が死ぬことを受け入れた上で指摘するなら、震災で死んだ人は幸せだ。
死んだあとも半永久的に弔ってもらえるし、それが忘れ去られるには相当の年月がいるだろうから、その間はずっと遺族や関係のない国民まで覚えていてくれて弔ってくれる。
私の母は、私は、遠からず誰も弔ってくれない無縁仏になるだろう。
寺に全額遺産を寄進して永年供養をお願いしてはあるが、どうしても私の頭からもし母が震災で死んでいたら、と思わずに入られないのだ。