はてなキーワード: 大袈裟とは
国語の偏差値が70云々という、はてなブックマークの話題を目にして「高校生の頃の偏差値をよく覚えているなあ」と感心した。私は自分の偏差値を忘れてしまった。センター試験の自己採点で国語・数学・英語がいずれも190点超えていたことは覚えている。しかし、わざわざそれを他人にアピールする機会も意味も、私には無かった。
アピールする意味が無いのは、自分の頭脳は良くないと自覚しているからである。大学生になったは良いものの、私はイプシロンデルタ論法についていけず大学の数学に挫折した。数学以外も似たようなものであった。ペーパーテストではない、実験や研究という大学の活きた学問は、まるでダメだった。地方国立大学に入学できる程度には受験勉強が出来たし何とか卒業もしたものの、大学の本格的な勉学に挫折した私は、平凡な人間であった。
それで今更の話なのだが、現在の私は数学を勉強し直している。別に仕事に役立てようとか、そういうつもりは全く無い。全くの自己満足である。では、自己満足の欲求の源は何処かといえば、それは私の両親である。
私の両親は、高校中退者である。私の両親の世代では、地方の低所得者層に生れた子が、生家の経済的な理由から学業を断念せねばならないというのは、珍しくない話であった。珍しくない話ではあったものの、やはり両親にとっては心の傷だったのだろうと思う。
父は、一冊の古い辞書を大切に持っていた。私が小学生の頃には既に、ページは手垢で黒ずみ、ボロボロの状態だったのを覚えている。母は、横溝正史や松本清張の文庫本を何冊も持っていて、これまたページはボロボロであった。学業を不本意に断念させられたことの埋め合わせだったと、私の両親は言っていた。本物の勉学を経験した人たちから見れば、たかが辞書や推理小説を読む程度で勉学の埋め合わせを名乗るなどお笑い草かもしれない。しかし、私の目には、両親の姿が尊く見えた。親馬鹿ならぬ子馬鹿と言うべきであろうか。それでも構わない。私が今更ながら数学を勉強し直しているのは、明らかに両親の真似である。
就職して幾許かの金を自由に使えるようになった私は、両親の欲しいもののリクエストに応えて買い物をした。平家物語を読みたいと言うので、古語辞典と一緒に買って送った。お経や論語も読んでみたいと言うので、これらの本や漢和辞典も買って送った。母はアガサ・クリスティ作品を読みたいと言うので、これも買って送った。父は写経したいと言うので、筆や硯も買って送った。いずれも大した額の買い物でもないのに、両親は大袈裟なぐらい喜び、何度もありがとうと言っていた。
むしろ、ありがとうと言うのは私の方である。家族共用の本棚に、子供向け百科事典や児童文学のセットを置いてくれて、子供の私が本を読むように育ててくれた。それに、私の読書の趣味に決してケチをつけなかった。国語の試験の偏差値は忘れたけれど、本を読むことの楽しさならば私も忘れないだろう。本を読むことが楽しいと私に教えてくれて、ありがとう。
蛇足だが、数学の再勉強でノートをとりながら「どこまで理解できているやら。これでは写経だな」と思い、父子で写経好きというのが何だか可笑しく感じた。
これは病気だと考えたこともあるがうつ病等精神病の診断基準には到底当てはまらず、思春期だからと言う結論に至った。
だが思春期に効く薬はない。規則正しい生活をしろと書いてある。そうしたらこの苦しみは消えてくれるのか、睡眠だけは得意分野だったので毎日日付が変わる前には入眠した。
特になにも変わらなかった。
関係ない話だが、親にも数少ない友人にも相談せずtwitterに垂れ流し、本当に精神を病むと人はどういう思考になるのか興味を持ち観察していたら悪化したのでそれはやめた。
地を這うような気分で数年、ただ生きて過ごした。
日常生活に支障が出る程では無いので大袈裟かもしれないが、気分的にはそうだった。
気分が沈んでもやり始めさえすればなんとかなってしまう。なんとかなってしまうなら病気ではないのだ。
死のうと思ったとして本当に死ななければ、死を企て実行にうつさなければそれは「誰でも少しは考えること」であって正常の範囲内なのだ。
なおこれは全て自分に対する思考であって他人に向けたものではない。
およそ思春期であろうと思われる時期を過ぎた辺りで少しずつ死にたいと思う頻度は減った。
代わりに死んでしまえという声が聞こえるようになった。
自己肯定感とやらが足りていないらしい。ごく普通の親を持ち、いじめ等もなく平凡な学校生活を送ってきたはずだ。
まあそれはどうでもいいとして、日々をやり過ごしているうちにわかったことがある。
気圧がどうの変わり目がどうの、そういったものは噂には聞いていたが、なるほどその通りで驚いた。
増田が利用したいと考えている某Webサービスでは次のようなユーザ登録フローとなっていた。
以上である。
私が懸念している点は、恒常的に使用可能なパスワードが平文でメール送信される点である。他にも桁数が極端に短いとかあるが、平文パスワード送信のインパクトがなんといっても強い。このWebサービスでは住所、氏名、TEL、メアド、その他特定を避けるため明記はしないがセンシティブな情報を扱っている。サービス自体は便利なものなのでぜひとも利用したいと考えていたのだが、現状では怖くて使えずせっかく登録したが退会も考えている状況である。
懸念点については当該サービスの問い合わせ電話窓口より伝えたが、予測はしていたものの、一般的な「ご意見ありがとうございます」に留まる対応であり、いつどこまで対応してもらえるかは定かではない。
そこでIPAの脆弱性情報届出( https://www.ipa.go.jp/security/vuln/report/ )より当サービスの脆弱性を届け出ようと思うのだが、正直増田はセキュリティの専門家ではないためこれが本当に届け出に値する脆弱性かどうかの確信がなく、はてなの有識者諸兄のお知恵を借りたいというのが本増田の主旨である。不足している情報があればご指摘いただけるとありがたい。
ちなみに決してマイナーなサービスではなく、名前だけならきっと多くの人が聞いたことのあるレベルの著名サービスだし、利用者も数十万単位でいるのではないか?
だからこそ過去誰も指摘してこなかったのかという点と、実は俺が大袈裟に考えてるだけで実はこれ、セーフなのかという疑念もあり、その意味でもご意見を頂戴できるとありがたい。
会話する時に話を遮っておふざけを挟んでくるのが嫌だ
大袈裟な相槌を打つだけで中身のない彼の返事も
チェリー、ロビンソン、空も飛べるはずぐらいしか知らずにいたんだけど「紫の夜を超えて」が発売した時にSNSで史上最高の曲!とか大袈裟に言ってるファンを見てコロナ禍で暇だしと思って聴いてみた。そしたら結構良かった。よく考えたらワールドトリガーって漫画の影響で「夜を駆ける」を購入して以来聞いてないなと思ってそれも聴いた。
とりあえずApple Musicではじめてのスピッツってプレイリストをここ三ヶ月ぐらい聴いてみたんだけど自分が思ってる以上に知らない曲が殆どだった。春の歌とか正夢とかギリギリサビがわかるくらい。全然知らなくてびっくりした。んでびっくりすると同時にすげえ良くてびっくりした。もっと早く出会ってればなとかも思ったけど、コロナ禍で暇だしってのがキッカケだからタラレバはないなとも思う。
それでようやくはじめてのスピッツのプレイリストが耳に馴染んできたんで掘り下げたいんだけどここから先は曲数が多すぎて中々選択が難しいとずっと足踏みしてる。スピッツ好きな人いたらおすすめの曲教えて。
ちなみにはじめてのスピッツのプレイリストで特に気に入った曲は「青い車」と「魔法のコトバ」です。割とアップテンポな曲が好きで、猿でもわかるJ-POPみたいな曲の方が好きです。歌詞はあまり気にしないので歌詞の出来は問わん。
Twitterで「ワクチン 迷ってる」というキーワードで検索していたところ「一生迷ってる」という表現を複数の人が使っていた。
気になったので今度は「一生迷ってる」で検索したら山ほどヒットした。
何か元ネタのある流行り言葉なのか? わざと大袈裟な言い回しをする面白さを楽しんでいるのか? などと思っていたところ、22歳の方のコロナ体験記にこのような表現が出てきた。
熱が下がってから3日経てば感染の心配はなくなるらしく、それまで病院で過ごす。最終日にやっとモニターも外れる。そのまま退院。結局声は一生出ないままだった。
シリアスな記事にも関わらず「病院で死んじゃったんかい!」と突っ込みたくなってしまったが、もしかして若者は誇張の意識すらなく当たり前に「一生」を「ずっと」という意味で用いるのか???
なお、べつに私自身がワクチンを打とうか迷っているわけではない。おじさんに迷う余地などない(特別な事情が無ければ)。
増田講座を参考にしてリンクを貼ったんだが、「自由なタイトル」という部分を削り忘れてしまった。恥ずかしい……。ブログ主さん、すまない。
なるほど、格闘ゲーム界隈由来っぽいのか。
上の世代の多いオタク界隈が使っていた言葉をオタクでない若者が使い始めるパターンを見掛けるようになったことにも、時代の変化を感じてしまうおじさんである。「スパダリ」とか。
しかし「昨日 一生」で検索してみたところ、やっぱり単なる「大袈裟な言い回し」で済まない意味の変化が生じてるっぽいんだよな。
追記2
この記事が、病み上がりの方に余計な心労を与えてしまったことは申し訳ない。若者の「一生」を考察するにしても、配慮に欠いた例示だった。
中田翔のあれ。怒って批判している奴ら多いけど、正直なところ大して悪いことしてないと思う。少なくとも野球部では日常風景。
悪い点があるとしたら、登板回避レベルのことをやってチームに迷惑をかけてしまった(結果としてバレて問題になった)ことであって、「暴行」「暴力」は大袈裟すぎる。あんなのは「暴行」「暴力」のうちに入らない。あれが「暴行」「暴力」に入るんだったら、大多数の野球部は出場停止になる。
そもそも軽い暴力を含む「いじめ」「いじり」なんて、中高の野球部を経験した奴だったらほぼ全員洗礼を受けている(ただし大谷レベルの突出した天才だけは例外)。中田だって下級生や若手の頃は平田やダルビッシュの「被害者」だったわけで、それを受け止められない豆腐メンタルなやつは、ほとんど高校1年の春までにやめているし、真面目な話向いていないのでさっさとやめたほうがいい。中田翔はやりすぎな面は確かにあって、チームの雰囲気をだらけさせるまでやってしまった点は反省すべきだけど、それ自体は野球部にとってはごく普通のことだよ。
中田が試合前の円陣で言ったと思しき「日サロ行きすぎだろ」発言にしたって、そもそも公の場での発言じゃないし、少し前までダウンタウン松本あたりが普通に言っててみんな笑っていたような冗談にすぎない(ただ試合前の円陣としては弱小チームのダラけたものだったという意味で問題)。頭のいい連中はいつも差別とか、問題を大袈裟にしすぎなんだよ。
断言するけど、野球選手はほぼ全員「みんな似たようなことやっているのに」「運が悪いだけ」としか思っていない。だからこそ、プロ野球界全体が驚くほどあんなに素早く動いて中田を救済しているわけ。批判しているOBがいるとしたら、「嘘つけ」という感想しかない。広岡のようにみんなから嫌われている年寄りだけは認めるが。
一部のキモオタにミソジニー文化があるというのはツイフェミの定説で(ツイフェミが嫌いな俺もそこは同意)
それはネット掲示板にそういう言説が増殖して文化になったんだよ。
増田が言ってるようなこともそうで、夫や義父母を滅茶苦茶憎んで罵って意気投合するネットクラスタに実際にあるじゃん?
増田に書き込むような既婚女のあんたはその存在は絶対知ってると思う。
そういう他人の経験がもしどこにも明示されていなかったとしても妊娠中に酷いことされたら平時に同じことされた時よりショックが大きいし。単純に体力も落ちてる、一人抱えてるプレッシャーもある、ホルモンバランスもある。そして、酷いことされても何も思わない人もいると思う。
ホルモンバランスが酷い時に感情的になるのは仕方ないとしてなんでそれをずっと引きずるのを正当化するの?
ただ単にこう考えた方が幸せだよね?って話で、それは増田個人の考えってだけなのにそれもって他人をバカとか罵ってめちゃめちゃに否定して不幸せにしてるの、すごい違和感ある。人の幸せを願うような文章を書いているが増田の投稿によって元増田の心を傷つけているかもしれないという自覚はあるか?
馬鹿なことやってるのは「馬鹿じゃねーの笑」って言ってあげる方が良くない?
あんたも増田の非難するような行動や感情を持っててカチンと来たんだろうけどさ。
カチンと来させるのって良くないことか?
間違った行動を指摘されれば指摘が正しくても誰だってちょっとカチンとくるじゃん。
それをまた大袈裟に「心を傷つける」とか言ってさらに被害者ぶって感情の話に持ち込んで何がしてーの?
個人的には子供は2人のものだから、妊娠してるが故に自分が大好きなもの我慢しなくちゃいけない時夫が一緒に我慢してくれたのは嬉しかった。わたしの場合は寿司だった。
夫は食えるんだから好きなもん食ったらいいがな。
それで嫁の食える美味しいもの買って帰って嫁に食べさせながら腰や脚でも揉んだらええがな。
そこで手ぶらで帰るんじゃねえぞとは俺も思うけど寿司我慢してもらって嫁に何の得があるの?
自分が嫌な思いしてる時は他の奴にも同じぐらい嫌な思いをさせてそれが愛の証ってマジで馬鹿だね。
本当に馬鹿な話だね。
あんたこの先重病になったら夫や子供にも美味しいもの食べるなよ!って言うの?
そこそこ長く続いてるゲームで最近一気に人が引退するようになった騒動が起きたっていうともうひとつしかないので、簡単に特定されちゃうと思うけど。別にその騒動を語りたいわけじゃないことだけ書いておく。
友人五人と同じソシャゲを学生時代からずっとプレイしていた。そうは言っても全員ゲーム内で入ってるギルド的な組織は別で課金もバカみたいにしてる奴からキャラを選べるチケットだけ課金してる奴までまちまちで、だから当たり前に強さもバラバラで、別に一緒にプレイしてたわけじゃなかった。
ただSNSでも顔合わせてもよくそのゲームの話をして人のガチャ結果に一喜一憂したり装備の話をするのは楽しくて、もう四年くらいになるからそんなやりとりも当たり前になっていた。
ある騒動が起きて六人中三人が引退した。自分含めた引退しないことにした三人は今回の騒動にマジで何も感じてなくて、青天の霹靂どころか今もまだ友人のドッキリなんじゃね?と思っている。別にこれで話題がなくなって六人バラバラになるとか気まずくなるとかそういうことはなく、SNSのグループからその三人が抜けてそこがそのゲームを話す場所になって、新しく六人のグループができただけだ。残された三人でゲームの話するグループも六人で関係ないくだらない話してるグループも元気に動いている。これで関係が崩れたとかではない。
ただ、大袈裟かもしれないが一つの日常が終わったんだなあって実感がある。全員でゲーム始めたときからもう数年経ってるんだからみんな生活環境も変わってるが、なんとなく何も変わってないような気がした。でももう変わってるんだよな。もうコロナが明けてもみんなでわざわざ集まって人がガチャ引いたり強いボスと戦ってるところを応援したりしないわけだ。六人で集まることは変わらずあっても、別のことをしてるんだろうな。今まで引っ越して会いづらくなるとか結婚したとか色んな変化が全員にたくさんあったのに、今一番時間の流れや変化を感じている。六人で何度もリアイベ行ったりしたからかな。人間の感覚ってわかんないもんだな。
アンチフェミ、散々「フェミは二次元じゃなく実在の犯罪に文句を言え!」って言ってきたよね。
それで小田急線で起きた女を狙った実在の刺傷事件に抗議したら、「これはフェミサイドじゃない!フェミは大袈裟に騒いでる!フェミは事件を利用してるクズだ!!」ってぎゃあぎゃあ言ったよね。
仮に小田急線の事件に何も言わなかったら「フェミは実在の事件にはだんまり!本当の女性蔑視にはだんまり!!」ってフェミ叩きしたくせに。
そしてタリバン政権が話題になったら今度は「フェミは小田急線の事件なんかよりもタリバンに文句を言え!アフガニスタンに行って直接止めてこい!!」って思いっきりゴールポストずらしてきたよね。
「小田急線の事件なんていう殴り返してこない相手よりも本当の女性蔑視であるタリバンに言え」って。
ちょっと前に言われていた「フェミは二次元オタクという殴り返してこない相手よりも実在の事件に文句言え」と類似だよね。
で、このコロナ禍に実際にアフガニスタン行ったりそこで危ない目にあったりしたら今度はこう言われるんだ。
「日本や現地に迷惑かけるな!国の恥!平和ボケ左翼のバカフェミ!自己責任!俺たちは助けない!!」って。
言う事聞くだけ無駄。
某漫画サイトのweb版米欄は通報ボタンという名の非表示ボタンを実装している。
多数決(とは名ばかりでスマホが何台もあれば一人で何度も押せる)で発言が非表示にされる。
この非表示システムが何の目的で実装されているのかよく分からん。
目の前に拳銃を置かれて、好きなように撃て、と言われている気分である。
対応しないだろうか。
ある日見つけた。
この混乱に乗じて俺も思い切って撃っていいんだな?
一人では実験できないが、実験できる環境が整ってしまっていた。
一発ずつ、全弾的中させる。
もちろん俺の書き込みもだ。
ひゃっはああ!!!
といっても、
撃ってるのはやっぱり俺だけではないのだ。
向こうも他に撃ってる人間がいることに気づいて誰だよ、と首をかしげているかもしれない。
楽しくなってきた。
非表示にされたことでなぜか漫画家が叩かれているが、俺の手は汚れてないので心は痛まない。
俺の狙いはコメント欄が複数人による多数決でコメント欄が機能しなくなった状態を作り出すことだ。
半端ではいけない。
「命には優劣がある」
「自分がいつホームレスになるかもしれないのだから、そんなことを言うべきではない」
──はぁ。
「命は平等に尊いもの。価値があるかどうかで決めることではない」
──そうかい。
「人間は弱い者を守り、人権を、法律を、福祉を発展させることで繁栄する生存戦略を選んだのだから、見当違い」
──ふぅん。
しかし。
あなたがいつか上司になるかもしれないのに、上司の陰口を言ったことはないのか? クレーム電話の陰口は? お役所の受付の陰口は? あなたがいつか誰かにとっての陰口の対象になるのなら、陰口をしないのか?
命の価値が同じなら、自分の愛娘と無縁のホームレスも同じ価値か? どちらかしか救えないのなら、娘が助かって欲しいと祈るのでは?
日本が家長制度を導入していたら政略結婚や男女不平等が正しいのか? それを嫌って現在の日本にシフトしたのでは? ならば現在の法体制を疑うことが悪にならないはすだろう?
まるで話にならない。
私は年間、数百冊の書籍を読み、誰よりも勉強している自負がある。
だからこそ、システマチックな物言いだけれども、間違っているとは思わない。
──私は、個人として、陰口を言うこともある。
──私は、個人として、生存戦略よりも個人の自由や整合性を選びたい。
「社会的影響力のある者が公の場で個人の感想を言ってはならないと主張するその根拠は?」
「普段見てもいないYouTubeチャンネルの内容にまで立ち入って、怒りたいだけ怒り、自分の主張を押し付ける行為は正しいのか?」
「私が自殺をしたら、あなた方が私をいじめ殺したことになるが、あなた方の大好きな『命の価値が平等』という主張はどこに行ったのか?」
例えば「子どもが真似してホームレスを軽視するかもしれない」というけれど、それは「模倣犯になるかもしれないから」とニュース番組を一切見せないのと同じでは?
あなた方の子どもが、あなた方の主張する善悪の区別がつかないのなら、「歴史の真似をするかもしれない」といって戦争を教えないのか? すべてを教えて個人に取捨選択させるのが教育なのでは?
私の動画のコメント欄に呪詛を吐き出すのが正しい行為か? それを堂々と子どもに見せられるのか? 「将来子どもが何かしでかすかも」という不確定な要素よりも、他人に呪詛を吐く姿をこそ子どもに見せてはならないのでは?
もしかすると、多少の表現の不備はあったのかもしれない(否、あったとすればそれは受け取る側の浅学さ、浅薄さであるとも思う)。けれども、私が間違っているとは思えない。仮に誤っていると主張するのであれば、客観的かつ信頼性に足る根拠を示してほしい。私はいつでも謝罪し、反省し、訂正し、その正しさを誠実な態度で以て最大限に広く周知することを誓う。
勘違いされがちだが、私は基本的に論破されたがりなのだ。普段から道に外れたセンセーショナルなことを言っている自覚はあるけれども、それは新たな論理で正してほしいことの裏返しだ。それは、強がりや掌返しではなく、心の奥からそう思う。
けれども、その正しい根拠を募っても、いつまで経っても出てこない。だから私は怒っているのかもしれない。
「私のような厄介な人間に、正しさを説いてくれ!」と。
「私程度の小悪党が駄々をこねている間に、本当の悪党に対抗する武器を見つけろ!」と。
「正しさを曖昧にして二千年以上も生きてるんじゃない!」と。
そう言葉にすると、ふつふつと怒りが沸く。たかが日本のような小さな国で、数百万人の支持者を持っている程度の小悪党の暴走すら止められないのは、あなた方人類の怠慢であると──心底、怒っている。
私を否定できないのであれば、現時点において私が正しいことになる。
否、正しいかどうかはわからないが、しかし間違っていないことになる。
もし「正解」という道があるとしたら、私はその縁に立っているだけなのだ。危うい縁に。
けれども、違反でなければ過ちではない──。
◇
……と。
私は、思考を切るためにスマートフォンの画面をオフにする。今日は考えることが多い。浅い割に多いのだ。批判ってものは。
スマートフォンを手に乗せたまま信号が緑になるのを待つ。手のひらの中で今も生まれているだろう主張の嵐を持て余しながら、ほんの僅か、足元のコンクリートブロックが割れているのを感じ、身体を一歩前に進ませる。爪先が少し、車道を踏んだ。
と、深夜の街に相応しくないスピードの車が近づいてきた。物騒だなぁ、と思いつつも、スマートフォンの裏面を何の気なしに眇めていると、
身体に強い衝撃が走った。
衝撃が先か、轟音が先かはわからない。視界が宙を舞い、まるで目ヤニだらけの朝のようにぼやけたからだ。
続いて、痛み。
大きな銅鑼を打ったかのような、押して引いての波紋が身体中を暴れている。その振幅は自分の身体を越えているように錯覚するほどで、立ち上がることはできない。否、仮に足を踏ん張っても立つことは不可能だろう。なぜなら、膝下がひしゃげて見当違いの方向を向いているからだ。
次に、不快さ。
胃の内容物がまるでネズミになったかのように這いずり回る──実際には胃の方が動いているのだろうが、しかし這い上がってくる吐瀉物は鉄臭く、“血の通った何か”を飲み込んだ報いとばかりに喉を押し広げ、ほとんど無抵抗に半固形の何かが口や鼻から垂れる。
さらに、熱さ。
命の素がどんどん外に溢れるような、そんな感覚。身体の芯は生きる手だてを探してやけに熱っぽく、しかし手足は凍えるほど冷たい。小さな穴の開いた水風船をただ見ているだけしかできないような、取り返しのつかなさと焦燥感。何かを決定的に失う瞬間というのを久々に味わう──忘れていたのかもしれない。あるいは見ない振りを。もしくは「自分は失わない」と高をくくっていたのかもしれない。
私は、急速に死に向かっていた。
ぼやけた視界から判断できる限り、交通事故──らしい。私を轢いたと思しき自動車は、「ガードレールに刺さっている」と表現するしかないほどに大袈裟に半壊ならぬ七割ほど破壊されている。
──なお、今の私に知る由はないが、この自動車の運転手は病院へと急いでいた。
というのも、彼の愛娘が突然大量の吐血をしたため、一も二もなく最高の速度で病院へと向かっていたのだった。
皮肉なことに。
運転手は、彼の大切な命を優先したのだ。彼の咄嗟の行動に間違いはなかった。
私は助けを呼ぼうとするも、体力的な問題なのか、あるいはどこか発声に関わる器官が深刻なダメージを受けているからか、大きな声が出ない。口腔内から聞こえる「ヒュー」という音がやけに空々しい。
頭を打っていないことが幸いして意識はあるけれども、しかし長く保たないことは確かである。否、どんな仮定の話をしようとも、命を失ったことはないから“失ってみるまでわからない”──。
そんな“悠長なこと”を考えていると、ふと視界の端で動くものが見えた。それはのっそりと立ち上がり、「く」の字に曲がっていたり、すっくと立ち上がったりしている。何かを引きずる者もいる。
元々いたのか、騒ぎを聞きつけたのかはわからないが、どうやら人間のようだ。ああ、助けてくれ──!
そう口元を歪ませると、どうやら仲間同士で話し合いをしている様子だった。冷えは身体中に広がり、今にも意識を失ってしまいそうだ。早く、早く救急車を!
どのくらい経っただろうか。実際には数十秒くらいなのだろうが、その時間は誇張なく一時間に感じる。身体の中から聞こえる「ぎっぎっ」という音が何に起因するかもわからない。車が焼けているのか、瞳孔の機能が低下しているのか、まぶしくて人間たちの姿が見えない。
轟音で痺れた耳が復活した頃、声が聞こえた。
「俺らのねぐらにさ、仏さんが転がってたら良くないよな」
「な」
「他に行くアテもないし」
会話からするに、ここに住んでいる住民──ねぐら? つまりここら辺に住んでいる──ホームレスの……集団?
「仏さんには悪いけどなァ」
「な」
「すまんなぁ。でも俺らも優先するモンがあるんだぁ」
「手は合わせておこうか」
「だなぁ」
「成仏しておくれな」
な! 待て! 待ってくれ! 私はまだ生きている! ただ、声が出なくて、ア、まぶしくて、身体が、動か……なくて、そん、な死体に向けるよう、な、目を、そんな真似を、命を命とも思わない真似を、なぜできるんだ! ア、ア…考え直してくれ! 今すぐ!
くぐもったガサガサという音が聞こえる。普段寒さを避けるためのブルーシートか何かだろうか。数人の男たちが私の身体を包み始めた。
男たちの声は続く。
「口から血の泡が出てるな」
「そっか、お医者さんかぁ。……人生、何があるかわからないね」
いしゃ………? まって……。
「気のせいだろ! 見るなよ! 目を合わすと取り憑かれるって話だぞ」
そんなの……“えびでんす”が……ない……よたばなし……で……。
「じゃあ、せーので」
「うん」
「川に流すなんて、罰が当たるかもしんねぇけどさ」
「ま、許してくれなんて言わねぇよ。俺たちの“個人的な事情”だしなぁ」
「……」
「かもなぁ」
「だからさ」
「俺たちは……。
いや、誰もがみんな、間違ってないのさ。
きっとな」
(了)