はてなキーワード: ひったくりとは
統計に基づく推論は後で記しますが、自分の考え(思い込み)としては「女性の方が男性よりも普段から恐怖を感じている」だろうと思ってます。その恐怖が少ない方が「安心」して暮らせるでしょう。
厳密には「安全」と「安心」は意味合いが違いますが、一般論で話してしまうと、このあたりは混同されるし、「安心感」があることを羨んでいる点が話の基になっていると思うので、この点「ただ男性であるだけで女性より安心感が強い」という考えを自分は肯定します。
法務省の犯罪白書をパッと見ると確かに被害件数における女性の割合は33.8%で女性の方が少ないという数字が出ています。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/64/nfm/images/full/h6-1-1-02.jpg
ただこの数字の85%が窃盗で、さらにその内65%が自動車泥棒や車上荒らし、万引きなど、被害者の性別関係なく行われるものが大多数です。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/64/nfm/n64_2_1_1_2_1.html
言及元のツイートでは強盗を例に、強盗が男性1,314件/女性797件に対して、ひったくりは男性674件/女性2,817件です。合計すると女性の方が1.8倍の件数です。※警察庁の犯罪情勢より
ただこれを以て「女性の方が安全でない」と強く主張する気はありません。犯罪の大多数(85%)を占める窃盗のうち、手口別のさらに被害者男女比が見つけられなかったからです。
ただ、性犯罪の他ひったくりの女性被害者率が高いということは、道を歩いていたり通勤していたりした時の女性がターゲットにされる率が高いという可能性がないでしょうか?
被害者の男女比のカウントも謎です。たとえば万引きや強盗の場合店長や社長、世帯主が被害者になるのなら男性が多くなるでしょう。
コインチェックはなぜあれほど責められたのだろうか?不思議に思う。
コインチェックは要するに、無防備だったから犯罪に遭ったのである。それで責めていいのか?
それで責めていいなら、
もちろん露出の多い服を着て夜道を歩いていてレイプされた女の子だって、責められて当然である。それでいいのか?
それで責めていいなら、
もちろん自転車の前かごにカバンをいれてひったくりに遭ったおばさんだって、責められて当然である。それでいいのか?
それで責めていいなら、
私は思う、そんな社会にしてはいけない。無防備だからって責められてはいけないと思うんだ。
そんな会社だって、どんな個人だって、人間がやることなのだから無防備になることはある。
無防備だから犯罪に遭った、そうやって責めるのはセカンドレイプっていうんだよ。
犯人だけを責めようよ。
被害者を責めるのはやめようよ。
http://conia617.hatenablog.jp/entry/town-for-woman
私はしない。
差別的でない、とは言いきれない。
思わない。
同じ女であっても、さまざまな要因で性犯罪に対する恐怖心や触れる機会というのは違うので。
私は地方の出身なので、制服で満員電車に乗るという経験をしたことがない。
私は中高とスポーツをしていたこともあり、身長が170cm近くある。
以前、身長150cm前後(つまりは平均身長)の女の子数人と街を歩いていて、
同行の女の子たちが見知らぬおじさんに付きまとわれていたことが何度かあった。
そういう人は、私が近づいていくと半分以上はすすっと離れていく。
だいたい、私より小さい男性は私が近づくと逃げていくな、というのが実感としてある。
(私が見上げるくらいだとそうでもないこともある。それは頑張って振りほどく)
ただ身長が思い返すと共通してだいたい平均からちょっと小さめだったな、というだけ。
そういうもので性犯罪の身近さってずいぶんかわると思っている。
それだって一応人並みに警戒はしている。
ひったくりや空き巣なんかの犯罪よりも性犯罪をずっとリアルなものとしてとらえていて、
それに日々怯えていたとして、
どうしてそれを責められるだろう。
見える世界が違うことがある、と気づかないといけないと思う。
身長が5cm違うただそれだけでも。
電車内の痴漢を止め被害者のジッパーを上げて逃がした女性が犯人の男二人により電車から工事現場に連れ込まれ殴ったり鋸で脅され強姦された御堂筋線事件だ
犯人は「付き合っていた女に逃げられ、ムシャクシャしていたから」と証言
弁護人は「女性にも落ち度があった。逃げようと思えば、逃げられた」「周囲の人間が見て見ぬふりをしなければ、犯罪に至らなかった」と弁護
裁判官は「前途ある青年である」「同情すべき成育歴がある」と減刑した
梅田駅で小さな暴力、迷惑行為をなくすようスポットアナウンスでPR活動を行った
もし、めいわく行為の被害にあったら、ためらわずに大きな声を出してください。
勇気ある協力を……
すり・ひったくりにもご用心!
電車内での痴漢はもう許さぬ―社内暴力の追放を進める大阪府警は、痴漢一掃のポスター=写真=をつくり、二十九日からJR東海道線などで車内つり広告を始める。キャッチフレーズは「あなたの勇気 ありがとう」。
と記事にしている
当時はエロい中吊り広告は許されていたが「性暴力追放を主眼に作成したものですが、性を前面に出したくない。又放送にしても同じことです。よろしくご賢察願います」という理由で痴漢ポスターで性をイメージする単語を使うのが御法度だった
痴漢は犯罪ポスターは当たり前の事を何故主張すると思うかもしれないが
事件をきっかけにして出来た性暴力を許さない女の会が何度も鉄道会社に要求し
口頭での陳情に対しては、「僕も酒の席では女性の肩に手をかけることもある(から大したことではない)」「男性のお客様に不快感を与えるため掲示できない」「痴漢の対象になるので女性駅員は配置できない」、さらには「痴漢もお客様だから」といった説明を受けながらも何年も頑張り掴み取った物だった
https://togetter.com/li/1173944
とお怒りの方々が記事から散見されますが、大概の人は被害者を被害者して慮る形跡が皆無だし、中野弁護士もその1人。
「痴漢=尻をそっと触るだけ=相手を傷つけてない」という論理で性犯罪を軽視するからこそ、被害者の叫びと抵抗が行為に釣り合わない暴言と暴行にしか見えない人達です。
本当に身体的な暴行面を考えてるなら「死ねジジィ」に文句なんか言いませんよね。叫んだだけなのだから。
「もし認知症だったらどうすんだ」という難癖は裏返せば認知症が免罪符になると思ってる証拠だし
そもそもお前、ひったくり犯や強盗犯に対してもそれ言えるの?という話で
自覚なく性犯罪の女性被害者限定でどうこう言うなら、間違いなくその人は痴漢予備軍だと思います。
あと日本の弁護士は普通に加害者寄りで被害者を二次加害する側。
社会ぐるみでグルじゃなきゃ日本はこんな痴漢大国になってない。児童性虐待文化もここまで育たなかったはず。
弁護士を盾にしてウダウダ抜かす前に、寄ってたかって痴漢被害者の女性を責めずにはいられない日本の現状に疑問を持ちましょう。
チャイニーズマフィアとヤったけど、万札のチップ出されて、職業病(天使病)でダメですこんなにいただけませんー!って脱ぎたてチャイニーズヒョウ柄マフィアパンツの上に置く拍子に「まずった、受け取っときゃよかった」って思った。チャイニーズ金色(こんじき)マフィアベルトが巻かれたズボンのポケットから100万円の半分ぐらいの束が、ニュルっと顔を出してた。裸で入れててもはした金だし、チャイニーズマフィアすぎて誰もひったくりなんかしないしな。気性の荒い人だから「何かあったらすぐに部屋に入って殴ってでも止められるように」的な意味で、側近丸出しないでたちのムキムキチャイニーズマフィアヤングマン側近がドアの前で待機してたし、人いっぱい殺してんだろうなっていうのは正常位んときに間近で見た目でわかったよ。濁りきってて奥の方だけ異様に光ってる、いや、日中極道友好のお仕事お疲れ様です。受け取っときゃよかったのは、気に入られないほうが無難っちゃ無難だから。下手な真似しなきゃよっぽど下っ端のチンピラ紛いでない場合、一般人をあれこれせんけど、やっぱ相手が相手だし気に入られないのが無難だった。そりゃ性欲解消はしたいだろうし、気に入ってくれたからまあ日中友好の期間中来るんだろうけど、「お忍び」っていう概念ないんか。数珠みたいなのを外すとか…側近にパーカー着させるとか…ないんか
大阪の女の人の「あの通りはちょっと暗い」って言葉のニュアンス分からなかった。
今日は、道を聞いてみて、
- 流行っていない。
- 痴漢が出そう。
- ひったくりが出そう。
20代の頃から、北陸地方から関西地方へ進学を機に移り住んだんだ。
改めて、文化的な背景が分からないので、意味が分からないことが多い。
ホント、関西でも、大阪の人ってなんか、自分たちが世界の中心にいる
(その割には、大阪の人は京都の風習や静かな雰囲気を嫌うという)
(兵庫県、京都府との違いの落差は段違いに大阪は違う印象。抜きんでている)
自分が、東京が日本の中心だと言う考えがしみているせいかと、思う。
不合理なような判断をすることがある(ように思う)ので、
例えば、なんか、スーパーの安売りとかの為に、自転車走らせるのに、ブランド品や服・持ち物にはお金掛けている感じ。
すごく、人が密集して、ゴミゴミとしているし。(東京も一緒だけど。)
たぶん、10年ぐらい関西に住んでるけど、この文化については、一生、理解出来ないのだろうな。
社会生活を送る上で山盛りの支障があるにもかかわらず、どうにも自分は他人から信用を得たいとか、信頼されたいとかいった感覚がまるでわかっていないような気がする。
当然何かと相手のご期待に応えられず「信用を失うことが怖くないのか!」といった形で叱責されることが年を重ねるごとに増えてきたのだけれど、
こちらとしては、えっ、私のこと信用なんかしてたんですか?ダメですよポンコツなんだから信用したら。期待しないでくださいよ間抜けですね。ってな感じだ。
なぜこうも信用に対して無頓着なのか、自分の思考はどの辺りが歪なのか、その辺をもう少し掘ってみようと改めて考えてみた。
そもそも相手に対して信用があるかないかで対応を変えるものらしいということは知識としてはわかっているし、
現代の人間社会におけるコスパの面で、信用というのがかなり優れていそうだという事も頭では理解しているのだけれど、自分としてはまるで実感が伴わない。
「虫嫌いの人は虫を近づけられるのがイヤだ」という感覚が、自分は虫が好きであるがゆえに「知ってるけどイマイチわからない」のと同じ感じだ。
この辺のちょっとしたことに関する実感の伴っていなさは、抱えている発達障害由来のものなのかもしれない。
基本的には過去の膨大な失敗や知識から得たパターン学習を基に頭でワンクッション考えてから行動することで相手に沿った適切とされる対応ができる場合が大半なのだが、
自然とわき出てくる感覚としての実感がないので、未経験の応用パターンを「少し考えれば当然わかる事」として求められるとたまに失敗してしまう。
例えば「虫嫌いの人~」を応用して「虫嫌いの人に虫の図鑑を見せにいってはいけない」というのは、子供の頃なかなか納得できなくて飲み込むのにかなり苦労した。
だってこれ絵じゃん、というのと、詳しく理解すれば恐怖心も薄れるだろう。という発想だったのだが、まあ、ズレている。
現時点で自分は、信用というものの評価を心の奥底で「ある方がいいけど何か無理してまで得たいとは思わない程度のどうでもいいこと」としか捉えていない気がする。
では、なぜ頭の中でコスパのいい要素だと知っていながら、信用をどうでもいいと感じているかの理由を考えていると、
そもそも自分が誰かを信用していないまま、コミュニケーションを円滑にするために相手を信用しているポーズを意図的に発信し続けているために、
信用などなくても表面上は特に問題なく生活ができるものなのだと学習してしまっている。という可能性に辿りついた。
自分が他者を信用する感覚について特に意識したことはなかったが、改めて考えてみるとどうやら他人のことをろくに信用しておらず、
他人の感情や思考を真に理解することができない以上、あらゆる他人は常に次の瞬間自分に敵対する可能性を持っている。
とごく自然に考えて、それをベースに生きているぐらいの殺伐エンジンが根底に横たわっているように思えてならない。
こう考えると、これまで自己評価的には、素直で人懐っこくて純朴な性格だと自分のことを思っていたのだけれど、
「敵」か「今は敵じゃない」かの二段階だけで区別しているせいで、とりあえず敵じゃないと判定して、
一般的に信用しているとされるポーズを発信し始めるまでがかなり早いだけのことだったのかもしれない。
これは思い付きの仮説だが、そういった他人を信用しない姿勢に加え、色々な感覚過敏がある事が、
他者とのコミュニケーションや人の多い環境で異常に体力・精神力を疲弊する遠因の一つになっているのかもしれない。
自然と視界内の他人の体の動き、歩調、視線、呼吸、緊張とかの情報を無意識に受信、分析していて、
敵対しそうな気配があるかどうかのセンサーを全開で働かせてしまっているとしたら、そりゃまあ疲れそうだ。
そういえば一度、大阪の電気街でひったくりを遠目に目撃した際に、犯人が走り出す前から犯人に妙な違和感を感じて足を止めて注視していた事があって、
同行していた知人に後から「なんでお前わかったん?」と気味悪がられた。
まあウスノロビビリモヤシなので追いかけたりはせず、覚えておいた特徴をあとから警官に伝えただけだったが。
しかしなるほど、私はどうやら信用というものに対して大変根本から向き合い方が捻じれていたようだ。
思えば、知人友人関係どころか、家族恋人相手ですら、常に直後に相手と縁が切れても大丈夫だと思える程度の関係を保ち続けている。
進学時に学費を出してもらう際や、家を借りる時に保証人になってもらう必要があったが、なにかとても気持ち悪くて非常に落ち着かなかった。
とはいえ、自分としてはあくまで個人と個人として、相手を一知的生命体の個体として尊重して接してきたつもりだ。
思想に立ち入らず、主張に踏み込まず、追わず、求めず。それで十分だし、それ以上の関係を他者と築きたいと思ったことも恐らくまるでないと思う。
貸し借りをすることがあっても、返ってこなくても惜しくないものしか貸さないし、自分が弁償できそうなものしか借りない。
昔、恋人関係になった相手から、ものすごくよくできたロボットが自分のことを人間だと思い込んで人間のフリをしているようだ。と言われたことがある。
あの言葉は、結構核心を突いていたのかもしれないな、と今になって思った。
さて、どうしたものやら。
神戸の子なんかは、キャバクラでも奢ってくれたりして堕落してしまいそう。
大阪の人って、お金無いから結婚式出たくないわとか露骨に言う人もいるし。
東京に対するコンプレックスがある割に、どうも給与水準もよろしいとは言えそうにない。
で。疑問があるんだよね。なんで、大阪ってお金貯まらないんだろ。
また、私鉄が複数社あるので乗り継ぎ事に初乗りになって運賃が割り高い
せっかく真面目に働いても、物や金品が盗られてしまうと、これではお金が貯まりませんわ。
自転車のサドルパクられるとか、ひったくりに合う、ちょっと他の地域では考えられない頻度で起こる。
スーパーなどのトイレでは、個室のドアの裏にカバンを掛けないようにって注意書きがあったりする。
万引きは、本屋でもコンビニでも全国どこでも起こりうることなんだろうけれでも、個人が盗難に出会う頻度が高い。
あと、カツアゲとか。
横浜は、知らん。
上の1.と一緒だけど、土地が高いってのと、過密なんだよね。
目に見えない、体操着代、修学旅行代、教科書代とかが、なんか割高そう。
見た目を舐められない為に、家はボロボロでも着る物ファッションにはお金を掛けているイメージ。
東京にコンプレックスあるわりには、普通に渋谷109の支店みたいな店が、そこかしこにあるし。
なんか、お水のチーママクラスでもあんな感じになってある種の武装をしている感じがする。
スーツは安く済ませても、ダウンジャケット・コート・カバンとかは高そうなのをしてるイメージ。
京都のフリマとか手作り市とかでは、静かにお店を構えていることが多い。
大阪人と共に歩くと「見てってやー」の一言も無いの?みたいな感じで、ぶうぶう言っている。
呼び込みの様子を見てノリで、「いい人そうだったか」みたいな設定でカラオケ・飲食店に行く印象。
以上。
大阪府に10年近く税金を納めながらも、馴染めない地方出身者より。
実際に面接で聞かれたらテンプレ回答的に「いいえ」って言うのかもしれないけど、まあそれは置いといて。
しょっちゅう「私は運が悪い」「出掛けるといつも悪いことが起こる」「最初から最後まで楽しかった外出などない」と言っているような人だ。
よく言っていることとしては、以下のようなことが頻繁にあるのだそうだ。
何かと順番を抜かされる、ぶつかられる、舌打ちをされる、ジロジロ見られる、改札がエラーを起こす、コンビニで箸やストローを忘れられる、
店員を呼んでもこない、注文が忘れられる、注文を間違えられる、わざわざ念を押したオーダーも通ってない、店の予約が出来てない、
初めて入った店で案内された禁煙席に空調の関係で喫煙席からの煙が流れてきて予定より早く席を立つことになる、急ぎたい日には遅延・渋滞、
近くの席にうるさいおばさんや学生グループがくる、ひったくりや交通事故の現場に遭遇する、確認せずに行くと臨時休業や休館・改装工事中、
路肩駐車が自分の進行ルート上に停まる、路駐の車を避けようと道を渡ったら車が発進していなくなる、タクシーがつかまらない、
カバンや靴が壊れる、装飾品を失くす、捻挫や爪が割れるといった怪我をする、順番待ち中に自分の前の人がやたら長い、ふと時計を見ると毎時13分とか4:44とか、
道を聞かれたりアンケートやキャッチに絡まれてバスや電車に乗り遅れる、洗濯物を干して出かけると通り雨、洗車すると雨、黒猫が自分の前を横切る、
Webでの手続き中にエラー、通販や定期購読が予定通り届かない、同じことをして自分だけ怒られる、むしろ自分は何もしていないのに怒られる、etc...
本当にそりゃー運が悪かったねぇ、みたいなこともあれば、
何か工夫したら改善されるんじゃない?とか、気の持ちようで気にならなくなるのでは……?みたいなことまで、本当に多岐にわたる。
そして上記のようなことをとてもよく覚えていて、似たようなことがあると「あの時も、あの時も、あの時も……ほら頻繁だ!ああやっぱり私は運が悪い!」となる。
不運に遭ったことを「笑い話にする」ということがどうもできないらしい。
話を聞くに、どうも根底には幼少期から兄妹内で(親は無自覚のようだが)差別を受けて理不尽に晒され「どうして自分ばかり……」という思いを蓄積してきた結果、
「自分は運が悪いんだ(私は悪くないんだ)」というところに逃げ込むしかなくなって、些細なことも全て悪い方に捉えたり、
「ああやっぱり自分は不運なんだ」と自分にずっと言い聞かせていないと納得というか、心の安定を保てなくなってしまっているような感じを受ける。
さらに「私はこんなに不運に見舞われながら苦労して頑張っているのに、(私より人生イージーモードなハズの)アイツが弱音を吐いているのが許せん」と
他人への敵意や攻撃性に変換されたりしていることもあって、なんだかとても危なっかしい。
上にあげたような事であれば、大半はそもそも「まあ些事よ些事」と気にしなかったり、
「今日は厄日かな?天中殺かな?星の巡りがダメなのかな?」と茶化してすぐに忘れるタイプの自分からすると、
小さな不幸を探すためにずっと下を向いて歩いているような状態に思えるので、人生のエネルギーの使い方としてもったいないんじゃないのー?って思うのだけれど、
お互いいい大人であり、下手に口を出すことでもないだろうと思って、そっと心療内科を勧める程度にとどめている。
「飲み会での遅刻」、米国では最大のマナー違反 http://toyokeizai.net/articles/-/98156
しまった。米国である。私は英国在住のおっさん。米国には詳しくない。短期間いたことはあるが語れるほど詳しくない。英国の職場にも米国人はいるが彼らも英国では英国の郷に従っているであろう。既にコメント欄等でツッコミが入っており記事の違和感は明らかゆえ、私は英国の話をしようと思う。
ところでこの記事、連載の3回目のようである。回が進むほど内容に違和感が増す。ネタが苦しくなって来ていると推察申し上げる。住んでいたという知見だけで文化差を語って生業にしようとすると、外国をディフォルメし日本をパターナリズムで語り、差を大袈裟に書きがちである。なんとかケンミンショーとかグルメ漫画美味しん◯で大々的に持ち上げられる郷土料理が、そんな不味いもの普通の県民は食べないよね、というのと似た構造である。ブコメで指摘されているが、タイトルは飲み会だが本文は食事会、会食である。言うまでもなく会食での遅刻は日本でもかなりのマナー違反である。何の中でか明らかにせず「最大」と使うのは品の無い書きかただが、タイトルは筆者の方ではなく編集部が付けているようにも思う。
英国人も確かに仕事の終わり時間はキッチリである。しかし仕事の管理はキッチリではない。時間が来たから帰る。仕事が途中でも帰る。それだけのことである。これは時間管理がしっかりしているなどと殊更言うような話ではない。エリートの話はしていない。中間層の話である。
上を目指しているエリートは時間もキッチリ、仕事もキッチリである。時間管理のプライオリティがかなり高い。会議は厳選、会議前のメールのやり取りで大体決まってしまえば下からでも会議の中止を言い出す。このあたりは是非日本も見習いたい。一緒に出張に行くと分かるのだが、実は必要があれば夜も早朝も仕事をしている(出張で暇だからではなく)。ただそのことは見せない。日本だと見栄の張り合いは「いやー今週殆ど寝てないわー」だが、彼ら彼女らの見栄の張り合いはいかに家族やプライベートも充実させて同時に成果も上げたかである。試験前の「全然勉強してないわー」合戦みたいなものである。違うか。いや本質は違わない。
約束の時間を守るかに関してはエリートも含め日本人より遥かにルーズである。前の会議が長引いた、道が混んだ、電車が遅れた。何か問題が?それは言い過ぎで待たせた非礼は詫びるが、自分が悪いのではなく運が悪かったので、日本人のように遅れの保険に15分前に着いておくなんてことはお客さん相手でもない。だから結構な頻度で遅刻する。5分の遅れに詫びの連絡を入れておくなんてことは思いつきもしないだろう。走っているのはひったくりくらい、というのは外国で日本人がよく言う冗談で、冗談以上としていいのかはどうかな。確かに走っている人は少ないけど、それは記事のように前もっているからではなく、単に遅れたら遅刻するだけというのが自分の感覚値に近い。ここは英国でも米国でも変わらないんじゃないかな。
ソーシャルな場でホストは15分前から応接するのは英国人もそうだが、日本だってそうじゃない?日本人ゲストは15分前をターゲットに来る人も多いから25分前から応接してよとホストにリクエストしたら日本人はそんなに早く来るのか、クレイジーだと言われたな。
ここまで書いてきて思ったのだが、少なくとも英国の場合、オフィシャルで人数が少人数以外の場合は30分前にスタンディングドリンクの談笑から始めるバッファー時間を作るから、着席スタートに遅刻ってそもそも稀だよねと思った次第である。裏を返せば時間厳守の文化ではないということだよね。