はてなキーワード: Saoとは
現代ライトノベルの価値観から言えば「ブギーポップは笑わない」「ロードス島伝説」「イリヤの空、UFOの夏」などを挙げたい。
まずブギーポップは作品の評価そのものは一段落ちるが、当時ファンタジー全盛の商業文学ジュブナイル業界においてこのような作品が許される、という前例をぶち上げた点として小説そのものと電撃文庫合わせて評価されるべき作品として推薦できる。奈須きのこや西尾維新が打って出る決心に影響を与えた功績もある。
次にロードス島伝説。ロードス島“戦記”ではなく“伝説”である。よく名作として戦記が挙げられるし、お題としては知名度の観点から戦記の方が適切かもしれない。しかし今一度読み直せばその評価が思い出補正に過ぎないことは明確だ。そしてその思い出は伝説で具現化されている。完成度の高いファンタジー小説の一角として推薦した。
最後にイリヤであるが、青春小説として読後感もよく、完結作品として非常によくまとまっている。ただ感性が若く豊かでなければ素直に評価しづらいという部分はあるのは否めない。中学生までに読むことができたかどうかで評価が別れる(個人の感想です)僕は中学生の時に読めて幸せです。
そして「ソードアート・オンライン」
これは間違いなく、誰もが認める名作扱いしてもよいだろう。だがちょっと待ってほしい。この作品はライトノベルか?
別に定義論争をシたいわけではない。僕は「あなたがそうだと思うものがライトノベルです」派だ。その立場から言わせてもらう。
SAOはWEB小説です。異論は認める。WEB小説としては「無職転生」に並ぶ誰もが認める名作だろう。だが断じてライトノベルではないのだ。これだけは主張したかった。
次点として「銀河英雄伝説」「デルフィニア戦記」といった有名作品、ややお題からずれるところとして「星の大地(冴木忍)」「傾物語(西尾維新)」「帝国の娘(須賀しのぶ)」「聖刻シリーズ(千葉暁)」「とある飛空士への追憶(犬村小六)」「ROOM NO.1301(新井輝)」など推薦したい。
またライトノベルとWEB小説は別の文化であるということを踏まえた上で、WEB小説側としては「ソードアート・オンライン」「無職転生」「本好きの下剋上」、次点として「異世界迷宮の最深部を目指そう」「レジェンド・オブ・イシュリーン」を挙げたい。
20日に幕張新都心のATOMOS URTILA環境で見てきた。
再現不可能なのはわかっていたのでその点については言及しない。
ただ、中盤は少し盛り上がりにかけるのと終盤の場面転換が頻繁に行われる点は多少減点される感はある。
それでもタイトルコール、サナカン戦、最後の軌道エレベータのシーンはキリイのテーマとあいまって昂揚した。
あと重力子放射線射出装置かっけえ。
作者がインタビューなどで言っていた面白い方向に振っていくという試みはそれなりに成功していたし楽しめた。
また3DCGが昨年のFF15、Gantz:Oに続いてキャズム(この言葉にあんまり良い印象ないけどw)を越えてきた感じがある。
TVシリーズではわからないが、映画規模の予算と尺であれば十分に鑑賞に堪えうる作品が日本のアニメ業界でも見れる土台が出来てきたと感じる。
もともとゲーム業界であればそれなりのCGは作れていたのでポテンシャルはあったと思うのだが予算がつくことで遂に壁を乗り越えてきた。
それと音響に関しては、ATOMOS URTILAで見たというのもあるかもわからんが一流と言って良いと思う。
君の名は、声の形、この世界の片隅に、SAOなど一連のアニメ作品を続けてみてきたけど
音(音響・劇判等)に関しては和製アニメ作品は実写邦画とはもう比較にならないレベルまで到達してる気がする。
もちろん、それだけで映画の評価が決まるわけじゃないから全体としての評価はまた別なんだけどさ。
話の流れの作り方とかカット割とか指摘はできるとこはあるけど全体で見ればまぁ俺も8/10点くらい(ちなみに俺は評価あまめだと思う)
最近は最強主人公が減り、オタクが感情移入しやすい主人公が増えてきてますね。
そんな現在のアニメの傾向に、僕はオタクに媚びすぎでは?と思ってます。
SAOや劣等生、ノゲノラに代表される、いわゆる俺tueeeストーリー。
(正直この言葉自体インターネットの気持ち悪い部分が出てるのであまり好きではない)
この手のストーリーでは視聴している最中、視聴者が主人公に感情移入し、気持ちよく視聴することが出来ます。
実際、僕も中学生の頃はこの手のアニメにドップリハマっていた時期もありました。
しかし、この感情移入が生み出した負の遺産があります。それは「中二病患者」です。
古代の文化「萌」を嗜むオタクであれば、俺tueeeではなく、ヒロインに目が行くので中二病にかかりにくかったはずです。
しかし、問題は、俺tueee時代からオタクになり始めた世代です。オタクになり始めた初期は特にストーリーに影響されやすいため、インパクトの強い「俺tueee」で人格が形成されていきます。これが「中二病」に繋がっていくのでしょう。
しかし、中二病というのは一時的な病気で、熱が冷めると突然今までの自分の行動が「黒歴史」に変わっていきます。この世代の感情の変化が現在のアニメの傾向につながっていると僕は考えています。
エロ漫画先生、俺ガイル、冴ヒロ2期、これらのアニメは現在のアニメの傾向を良く表していると思います。
中二病を卒業すると流石に「俺tueee」が「痛く」思えてくるので、アニメの好みも変わってきます。
そこで制作側は次のジャンルに切り替えてきます。それは「主人公がオタク」という新たなジャンルです。
表面的なアニメとしてのジャンルは変わりませんが、主人公のキャラクターが大きく変わっています。
中二病患者はSNSで群れを作り、様々なオタクとコミュニケーションを取っているため、オタクの特徴を熟知しています。
その中二病時代の感覚をくすぐり、感情移入しやすい「オタクキャラ」は一定層のオタクに好評でした。
また、この頃からオタクの定型句のようなものが固まってきたためそれをアニメ側が使う様に成りました。
これが気持ち悪い
オタクとアニメの間には明確な壁があり、両者が客観的な視点で互いを見るべきだと僕は思っています。
オタクがアニメに近づこうとしたり(中二病)、アニメがオタクに近づくと(主人公オタク化)現実の世界観やアニメの世界観に大きな影響を与えてしまいます。
そのため、純粋なストーリーとしてアニメを見ることが出来なくなってしまうと僕は感じています。
互いに不干渉であった「萌」はその点今よりも良かったのでは無いでしょうか?
アニメの制作方針として、視聴者を掴むための「主人公オタク化」はとても上手い方法だと思います。
しかし、それで世界観を曖昧にして、作画で誤魔化すのでは本末転倒ではないでしょうか。
「最新テクノロジーのフィクションへの導入」という観点で作品をジャッジすると、SAOの劇場版の方が『ひるね姫』より全然よかったと思うんだよな。『ひるね姫』のタブレットとSNS関連の描写にしろ、車の自動運転にしろ、なんかこー、表層的というか。日経ビジネスのIT特集とか一生懸命読んでる人の精一杯の想像力って感じ。
もともと俺、神山健治のそのへんへの取り組みって、攻殻SACの「笑い男」以降、まったく冴えてないと思ってるのだが。『東のエデン』で描かれたITベンチャーとかネットの描写って、あの段階でかなり古かったわけで。
まあ、SAOの現実とフィクションの重ね合わせがとても魅力的だったのは、俺が東京住みで、どこもかしこも複数回行ったことのある場所だったことによるバイアスもあるのかもしれんけども。
電撃は初アニメ化に対して物凄くプッシュするけど2期はよっぽどの事が無い限りプッシュ力は1期未満だし
何より続編をする気が無い。勿体ぶって時期逃す辺りは商売がヘタクソだけど何せ本数が多いから見逃されがち。
結果禁書なんて3期やらないどころか、外伝的な超電磁砲のスピンオフみたいなのをアニメ化するなど後手に回ってる。
旬を過ぎてるのにそれを認めたくない証拠だ。
そしてヘヴィーオブジェクトなんてパチモンをやって少しでも損失を抑えようとしたら当然の様にこれもコケた。
禁書を頑なに最後の切り札にしてるのか、いやいやSAOとかはたらく魔王さまとか劣等生とかもあるだろう。
でもやらない。いや正確にはやりたいけど、まだ溜められると思ってる。
それが完全に後手に回る事が分からずに。
そうしてアニメ化の機会を失ってゴミみたいな作品をアニメ化、プッシュして今に至る。
昨今の劇場アニメブームも落ち着いたかと思ったところに、先月公開した『劇場版SAO オーディナルスケール』がこれまた日本らしいエンタメ快作だった。伊藤智彦監督は、スポーツ紙にどうでも良いゴシップ解説してるだけの人じゃなかったんだと安心した。アインクラッド編以降のハーレムっぽい展開が好きになれなくて、監督の代表作は『世紀末オカルト学院』(水瀬いのり(新人)のデビュー作)と所在なげに言わなくて済むようになった。
それに引き換え神山健治の新作は、予告編をみてると、ヒロインの魅力が伝わってこないし、何より癪に障るのが主題歌の「デイドリームビリーバー」。
タイマーズやザ・モンキーズを神聖視するわけじゃないが、自分にとっては3度のCMソングは呆れるほどの商業主義の権化みたいな存在。劇場でセブンイレブンCMで清志朗の歌声聴くたびに、おにぎりが上手いとか、鮮度管理がどうとか真面目にナレーション付けてる時点で、音楽に対してまともに向き合っているとは思えない。正気の沙汰じゃない。死者に鞭打っていると思わないのだろうか。期待値は下がる一方だった。
本当は『モアナと伝説の海』の字幕版を観たかったけれど、時間が合わなくて、何故か『結城友奈は勇者である。-鷲尾須美の章』と『ひるね姫 ワタシが知らない物語』を連続でみた。
偶然だったけれど、どちらも瀬戸内アニメだった。尾道舞台のアニメはあるし、『この世界の片隅に』『うどんの国の金色毛鞠(英語タイトル Poco's Udon World)』とか流行ってんのか?
鷲尾須美は、相変わらず結界封絶+エヴァ戦闘で作画は良いけど、20年経っても日常パートと戦闘パートの整合性を考えることを放棄したセカイでおめでたいなという感じです、はい終了。
唯一良かったのは花守ゆみり演じる三ノ輪銀が予想を裏切ってきた。以下は声オタの戯れ事なので飛ばして良い。
(昨日もテレ東10時の『リルリルフェアリル~妖精のドア~』第1期最終話直前の第58話「アンチューサの花言葉」で1年演じてきたりっぷ(花咲ゆみり)の集大成の泣きの演技がやばかった。三ノ輪銀は、デレマスの佐藤心(しゅがーはぁと)や他の深夜アニメとは違って、完全にボーイッシュというかマニッシュな声だった。最近ポニキャン以外の作品が増えて推すのやめたのかと思ったけど、声オタなら劇場版はチェックしておくべき。)
予告編がミスリードだった。アレは一般向けにメカを見せずに毒を抜いてたと確信した。
途中3D映像が粗いところはあったけれど、現代日本(2020年)をテーマにして、現実世界と物語世界をリンクさせる点、日本の各地を進むロードムービーな点、神山作品の特徴でもあるメカを動かして活躍させた点、そして何より自動運転というテーマですよ。
現代日本のIT総崩れの中、日本が誇る最後の希望であるは自動車メーカー(あと投資会社のソフトバンクくらい)の致命的な弱点である、オートパイロットを表現することによって、嫌というくらい課題を突きつけてくる。あくまでストーリーは世代間や親子での話を軸に、オーソドックスにちゃんと動かしながら、ここまでロジカルなストーリーで映像に表現できたのは神山監督ならでは。
個人的に『君の名は。』『この世界の片隅に』のあの暴力的な(ブルートフォース)動画枚数によって、ロジカルよりも情動を刺激する感覚は確かに、日本的アニメの真骨頂ではあるけれど、そんなセンスオブワンダーにあまり頼ってほしくない。
そして主題歌「デイドリームビリーバー」がちゃんと原曲と同じ意味で作品に使われていて泣いた。
本当誰だよ。『ポッピンQ』並みだとか言ったやつ。
(追記)
SAOは原作の第一巻でゲームの終わりまで描いているから原作どおりにやったら数話で終わっちゃう。
だからその合間を短編集のイチャイチャエピソードで埋めてるってわけ。
SAOはWeb小説出身の俺Tueeチートハーレムで深夜アニメの劇場版。意識低い系の代表。食べ物に例えるならラーメン二郎。
モアナと伝説の海はディズニーの意識高い系ファミリーアニメ。食べ物に例えるならオーガニックレストラン。
まだひるね姫みたいな一般向けぽいところもある作品や「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」みたいなファミリー向けを引き合いに出すならわかるのだが。
SAOは全世界同時公開と銘打って、ほぼ同じ時期に海外でも映画を公開している。
※正確には2~3週間ほどのずれはある。日本は2月18日公開だがアメリカは3月9日公開。それでも異例だが。
台湾:初週末3日で3位、翌週も3位
タイ:初週末4位、2週目5位
メキシコ:初週末9位、2週目7位(初週興収2100万円Over)
アメリカ:初週末?位(初週興収約1億5300万円)
あまりに凄すぎたので、とにかくこのホットな感動を伝えたいという衝動に突き動かされて今これを書いている。
もう本当に凄い。
クオリティという意味でもそうだし、面白さという意味でもそうであるし、何かもうこの映画の全てを総合して凄いとしか表現しようがない。
もう色々な人に出来る限り観に行って欲しいくらいに素晴らしい映画なのだが、その中でも特にオタク達に観に行って欲しいのだ、この映画を。
何故ならこの映画は普段のディズニーアニメのメインターゲット層であるお子様達よりも、素敵なお姫様と王子様とのラブストーリーに憧れる少女達よりも、大人になってもディズニーラブなお姉様方よりも、それらのどの層よりも、何より冒険と戦いと伝説の勇者にいまだに憧れる馬鹿野郎共にこそ深々と心にぶっ刺さる熱い熱い熱い映画であるのだから。
そう、この映画は大いに感動も出来るし、ハートフルな気持ちにもなれるという普段のディズニーの看板を全く偽ることなく、果てしなく広がる海を旅する冒険と、心を奮わせる激しい戦いと、熱き血潮と筋肉と入れ墨をも同時に詰め込んだスーパーマッチョアクション巨編なのである。
しかしこのまま熱く内容についても語り尽くしたいところではあるのだが、まだ公開して一週間も経っていない今そこまでネタバレしてしまうのは気が引けてしまう。
何よりこれを書いている目的はより多くの人にモアナを見て欲しいという気持ちからであるからして、そんな未視聴の人達から初見の感動を奪ってしまうのも忍びない。
なので、大筋のネタバレを避けつつ「モアナと伝説の海」という作品の魅力をいくつかピックアップして紹介していきたい。
1.ストーリーがいい
すでに巷では海のマッドマックスだのワイルドスピードだのと評判であるが、まずモアナは決してそんなインパクト重視な部分だけの映画ではないことを強く主張したい。
確かに途中から明らかにマッドマックスだし、終盤のセーリングバトルはまさしくワイルドスピードである。
そういう面がモアナのわかりやすくキャッチーな面白さであることは否定しないが、それらに劣らぬ魅力がそんな荒唐無稽な描写を単なるパロディやギャグで終わらせない骨太なストーリー展開にある。
序盤の展開を少しネタバレしてしまうことになるが、ここで軽くその一端を語らせて欲しい。
・村長である両親や周囲の期待に応え、村を継ぐという自分の将来がすでに決まってしまっている少女・モアナ。
・しかし同時に彼女は小さい頃から抱き続ける、海を越えて旅することへの憧れを捨てきれずにいた――。
ここまではディズニーでよくある抑圧されたプリンセスという構図であるが、モアナはここからが少し、いやかなりいつもと違う。
・しかし、村長の娘として過ごす内に、彼女が暮らす島には徐々に異変が現れ始める。
・島の命が涸れていく――。
・異変の原因は、今も口伝で伝わる神話の昔に起きたある伝説に原因があった。
・伝説は嘘ではない。海へ出ることを夢見るモアナの唯一の味方である祖母は、島に危機が訪れた今こそ彼女に真実を語る。
・島の先祖達の真なる歴史、そして島の中のとある場所に封印された船達。そして幼少の頃より海に選ばれし者であった自分の運命。
・島に、いやこの世界全てに危機が迫る今こそ、少女は己の運命と先祖から受け継いだ血に突き動かされて、封印された船を駆り、世界を救う旅へと出発する――!
そう、もう完全に少年漫画なのだ。ジャンプに連載されていても違和感がないほどに完全に少年漫画なのである。
何だったら船をロボットに置き換えても通じる。
飄々とした老人が語る真実。選ばれし血筋と運命。島に封印された兵器で世界を救う旅に出る少女。
まさしくロボットアニメ文法そのまんまである。そんな作品を見てみたいと思わないオタクがいるだろうか。
俺は見たい。そして実際に見た。凄い。この序盤以降も、もう本当に自分が望むままの血湧き肉躍る冒険活劇が繰り広げられるのである。
この時代にガッチリと、一分の隙も無く見事な、全く伝統的でブレることなく王道を真っ直ぐ突き進む冒険活劇が見られるのだ。
それこそが、そんなストーリーこそがモアナ最大の魅力であると、自分はまず自信を持ってオススメしたい。
そして二つ目のポイントもそのストーリーに掛かってくる部分なのであるが、「この映画は全くラブストーリーではない」というところをそれとして挙げたい。
そうは言ってもディズニーで、一応プリンセスが主人公なんだぜ? ラブストーリーじゃないなんてことあるの?、と思われるかもしれない。
自分のようにモテない独身男が一人で観に行っても全く闇を抱えることがない程に、清々しいくらいにラブストーリー要素は一切ないのである。(一応カップリング的なものはあるが、あくまでファンの受け取り方次第である)
前年度のディズニー映画「ズートピア」も恋愛関係というよりはバディものに近い関係性であったが、モアナはそれよりも更にバディもの、なんだったら師弟もののような関係性となっている。
一応に一応を重ねて今作のプリンス的立ち位置であるマウイというキャラクターは存在するし、彼と二人でモアナは旅をすることになるのだが、映画全編通して二人の間には一切恋愛を匂わせるような心の交流は存在しない。
しかしだからと言って二人の関係が薄いということは全くなく、冒険を通じてモアナという少女とマウイという英雄の間には友情のような、あるいは兄妹のような、あるいは師弟のような、固い固い絆が結ばれることになる。
そしてそこに恋愛というモチーフが一切入ってこないというのが、本当に爽やかで気持ちよく思えるのである。
恋愛的感情の一切無い男女のコンビというと「シュガーラッシュ」の例も存在するが、デフォルメの効いたキャラクター同士であるあちらよりも一人の人間としての形を色濃くデザインされた男女二人が恋には落ちないモアナはより珍しく映るだろう。
そしてそんな関係の二人だからこそ、シンプルに恋愛だけでない複雑な魂の結びつきを感じる余地も生まれ、キャラクターとしての奥行きを生み出しているようにも感じられるのだ。
独身男の心を傷つけない優しさという点だけではなく、そういう作品的な深みを生んでいる意味としても、ラブストーリーでないということはかなりオススメ出来る点であると個人的には考えている。
3.単純な悪役のいる物語ではない
これまたストーリーに掛かっているポイントであるが、個人的にもこのポイントは独立したものとして強く推したかったので語らせて欲しい。
さて、ディズニー映画と言えば必ずわかりやすいヴィラン(悪役)がいるというのが御約束である。
時には極悪非道、時にはコミカルで憎めない、そんな多種多様なヴィランがディズニー映画には登場するのだが、彼らはまた必ず物語の最後には主人公達に打倒されるものでもある。
単純な小悪党というパターンも多いが、彼らは多かれ少なかれ作品内の歪みを体現した存在でもあり、彼らが単純に倒されるだけでいいのだろうかというモヤモヤを残していったりもする。
それをして作品に奥行きと考察の余地を与えたり、現代における社会問題を反映させた構図としてみせたりするのがディズニー映画の一つの魅力ではある。
それは個人的にも長所ではあるとも思うのだが、やはり作品を見終えた後でいくらかの引っ掛かりや疑問を抱えたままになるし、それがあまり気持ちのいい感情ではないことも否定は出来ないだろう。
しかし、今回のモアナにはそれが一切存在しなかった(と、個人的には感じている)。
単純に歪みと闇を抱え、倒されるだけのヴィランというものが存在しないのである。
確かにモアナの冒険の途中には、モアナ達を狙う敵達が登場したりはする。
しかし、いずれも己の信念、というよりは生き方に基づいて立ち塞がるのであり、憎み合う敵というよりは障害物に近いものとなっている。
そしてその全てが憎めなくてどこか面白い、魅力のあるキャラクター達となっているのだ。
だからと言って、モアナという作品がそんなただ優しいだけの世界を描き、テーマ性の薄いものになっているのかというとそんなことも一切ない。
作品のテーマは最後まで一本筋の通ったものが存在しているし、それは様々なことを深く考えさせられるものである。
モアナを取り囲む世界も優しさに満ちていることは否定しないが、時にどうしようもない厳しさというのも十分に描かれている。
そして、この世界におけるこれまでのようなヴィランが体現する歪みというものは、モアナとマウイを含む全ての人物が己の心の中に持っているものとされている。
モアナとマウイは冒険を通じて自分の歪みと向き合うことでそれを打倒し、誰にも押しつけることなくそれを昇華する。
だからこそ、明確なヴィランの存在しない物語というものが存在し得るのである。
そして、そんな物語の迎える結末というものが、もう本当に、涙が出るほど清々しく、爽やかな気分にさせてくれるのだ。
何の引っ掛かりも疑問もなく、ただただ爽快感だけを残してモアナという作品は終わってくれるのである。
単純なハッピーエンドではなく、みんながこれからも考え続けていかなければならない。確かにそういう作品は大事だし、素晴らしいこともわかる。
しかし、たまにはここまで気持ちよく、優しい世界を描いた作品を讃えるのもいいではないか。
さらに加えてこの作品はプリンセスの不遇を描くに辺り、誰かしらや何かしらからの悪意が存在したりしないことも個人的には素晴らしいと思っている。
物語の序盤のモアナは抑圧された状況下にあることは確かなのだが、それは全て優しさと正当な理由があってのことなのである。
だからこそ、モアナの旅立ちのシーンが本当に胸を打つものになっている。
そしてそれはプリンセスの生い立ちや状況だけでなく、マウイという存在や行く手を阻む様々な困難の全てに単純な意地悪や悪意だけで構成されているものがない。
そういった部分も、この作品の優しさと爽やかさと気持ちの良さを支えているように思う。
作為的な悪というものが存在しない点。それもまたこの作品における重要なオススメポイントとさせていただきたい。
これについては今更自分のような者が語ることはないほど周知されていることだとは思うのだが、それでも今一度ここではモアナの魅力としてオススメさせて欲しい。
そして透き通るような美しさを持ちつつも精巧な絵画のように鮮やかな色をも見せ、生き物のようにうねる、これがアニメーションで可能なのかと驚愕しきりの海の表現。
愛くるしくも時に凜々しいキャラクター達の活き活きとした表情と動き。
そして何より激しいアクション! グリグリと動きまくる格闘戦! ド迫力な神と英雄のバトル! 躍動する筋肉! 精緻な美術設定によって作られた変態改造船舶!
もう枚挙に暇がないし言葉も足りない程に美しくて活気に満ち溢れた、そして過激かつマッチョなモアナの世界がスクリーンの向こうには広がっているのだ。
なのでこれはもう是非ともディスク化を待たずに劇場へ足を運んで、ドデカいスクリーンでこの映像美を拝んでいただきたい。
そのマッチョでマッハなアクションにはとてつもなく興奮することは間違いないし、そのあまりに美しい世界観に感動することもまた間違いがない。
特に予告編でも一部見ることが出来る夜の海を光る船団が行くシーンは本当に、本当に美しすぎて溜息が出るので絶対に劇場で見て欲しい。
そして海のマッドマックスと呼ばれる所以たるシーンも併せて是非。いや、マジでスゲーのよ。
5.挿入歌の使い方が最高
これもまあ今更自分が語るようなことではないと思うのだが、それでもあまりに感動したので書かせて貰いたい。
劇中歌の強さで天下を取ったディズニー作品と言えば「アナと雪の女王」が記憶に新しいが、個人的にはモアナのそれはアナ雪に勝るとも劣らぬ力があると感じた。
その上で、更にアナ雪よりも強いモアナの要素として劇中歌が挿入されるタイミングがとにかく最高ということが個人的には挙げられると思っている。
アナ雪で一番有名かつ作品のテーマソングともなっている「Let It Go」であるが、実は劇中での使用は一度のみなのである。
それもエルサが城から逃げ出して自身の能力で氷の城を作り上げるという、映像的には圧巻の美しいシーンではあるのだがタイミングとしてはいまいちカタルシスを感じていいのか微妙な部分で使用される楽曲であった。
対してモアナにおけるメインテーマソングである「How Far I'll Go」は、作中で数回に渡って使用される。
そして、それは主人公であるモアナが悩む時、壁にぶつかった時に、己を慰めるように、あるいは鼓舞するかのように歌い上げるのだ。
この劇中歌の流れるタイミングと、ストーリー的なカタルシスの一致がとにかく素晴らしいのである。素晴らしいシンクロ具合を見せてくれるのだ。
そしてこのテーマソングが一度ならず幾度も使用されるというのもありがたい。
作中のシーンに合わせて幾つもの曲を書き下ろすディズニーにしては珍しいしそこを欠点に感じる人もいるかもしれないが、一つの曲を大事に使ってくれる今回の方が個人的にはより好みであった。
そして何より言うまでも無いこの「How Far I'll Go」という楽曲自体の素晴らしさ。
切なくも力強いこの曲のサビの部分は、何度も使用されてこの歌を覚えていくことで作品の後半に進む程により心を震わされ、感動させられる作りになっているように思える。
更にモアナ役の吹き替え声優である屋比久知奈さんの歌声もこれまた最高で、これがあってこそと思えるものであり、この歌声と曲が合わさる相乗効果は本当に言葉にならない。
そして無論、「How Far I'll Go」以外にもモアナには素晴らしい劇中歌の数々が存在しているし、それらの使い方も言うまでもなく素晴らしい。
特に「We Know The Way」という曲はこれまた複数回使用される曲なのだが、映像と力強いメロディーとを合わせて自分の中の冒険心というものをこれでもかとかき立てられる素晴らしい曲であった。
とまあ、とにかくモアナの劇中歌は「曲自体の素晴らしさ」、「それが使用されるタイミング」、「その曲を覚える程繰り返し使用してくれる演出」と三拍子揃ってとてつもない感動を与えてくれるものとなっているのだ。
そしてそれを劇場の迫力ある音響で堪能出来る至福といったらもう、是非とも映画館に足を運んで味わって貰いたい。それ程大きなオススメポイントである。というかモアナでも極上爆音上映とかないですかね……。
さて、以上が自分のモアナという作品で素晴らしいと感じたポイントであり、オタク達にオススメするポイントである。
いかがだろうか、正直書いてる内に止まらなくなって自分でもちょっと引くほど長くなってしまったが、それくらい情熱に任せて書いてしまえる程モアナという作品は面白かったのだ。
なので、これを読んで少しでも食指を動かされた人には、本当に是非、すぐにでも劇場で観ていただきたい。
というか今すぐ観よう、今日のレイトショーで観よう、明日のレイトショーでもいい、休日は言うまでもなくモアナで予定を埋めよう。
誰に何を言われたからでも、観覧特典のような配布があるわけでも、ディズニーから金を貰ったからというわけでもない。
ただただあの優しくも熱い冒険の世界をまた味わいに行きたいからである。
そしてこれを読んでいる皆様にも、是非ともそれを味わっていただきたい。
純粋にそう願いながら、この文章をようやくここで終わらせることにしよう。
いや、やはり最後にもう一度。
…
……
………
…………
……さて。おまけで、かなりネタバレになってしまうがもう一つのオススメポイントを書き残しておきたい。
6.特殊性癖
巨女こそが女神の姿であり、自然であり、豊かな緑であり、巨女が島となり、大地となり、命を生む!
この映画は紛れもなく巨女信仰映画であり、子供達に巨女属性を幼い頃より刷り込ませ、更に一般的認知をも拡大せんとする目的で作られた映画であることは間違いがないだろう。
主人公が画面の中で無双しているのを自己に投影することで、リアルでは弱い自分を忘れて気持ちよくなるだけの虚無な行動。
あんなのはただのオナニー、自己満足であり【俺つえー】アニメを見て喜ぶのは猿の知能レベルとなんか変わらない。
最近の話題に無理やり絡めると、けものフレンズを見てIQが溶けて喜んでいる人たちもいるようだが、脳細胞が破壊されて喜ぶ人たちの気持ちがわからない。
SAOは職場のアニメクラスタと話を合わせるために1期2期共にほぼリアルタイムで視聴した。
内容はそこそこには面白かったが、主人公キリトの【俺TUEEE】要素はあまり好きになれなかった。
今思えば魔法科高校の劣等生も司波達也が蘇生したあたりで萎えてしまったし、テニスの王子様も越前リョーマが無我の境地で相手の技をコピーし始めたあたりでギャグ漫画として捉えるようになってしまった。
長い前置きとなった。感想を書いていこう。
最終盤、ラストバトルでの盛り上がりは涙無しでは見られなくて汗や鼻水、他にもいろいろなものが出てしまった。うんこも漏らしたかもしれない。
クライマックスにおいてスパロボとテイルズとアメリカ映画の良いとこどりをしたような王道中の王道展開。
そしてキリトが最初弱かったのに強くなって最終的に【俺TUEEEE!】をする圧倒的な快感、開放感。
脳細胞が溶ける楽しさを知った。