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2024-06-18

発達障害水泳平成不況リーマンショック、30代

・これは何か

私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である

なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。

・なぜこれを書いているか

私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである

精神科に通いつつ、投薬とカウンセリング治療をおこなっている。

そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。

(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなた言葉あなた感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)

正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。

水泳のこと

3歳から高校2年まで水泳をやっていた。

早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。

当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。

楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合母親ほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。

行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。

でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまタイプ人間だった。

父親も叔母もスポーツ学生時代成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。

それが母親成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。

長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。

ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。

こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。

極め付けはようやく出来始めた友人関係破壊されたことだった。

中学に上がると、小学生選手育成クラスから中学クラスに上がって、ここがジュニア女子選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子さらにその上澄みだけが入る、一番練習ハードクラスがあった。

いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイト連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。

(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲーム一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)

けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。

私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスちゃんと私の記録は伸びていた。

だけど母はその伸びでは満足できなかった。

母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。

私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。

そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。

私はかなり嫌がった。もともとジュニア女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。

母は私に、「あん肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたダメになってしまう」と言った。

嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。

中学1年の女子高校生の男子クラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。

私が苦しんだので、母の不安は解消された。

そして、精神とはうらはらに、私の肉体はそれに応えた。

実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。

注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたこである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナス感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。

あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから

この頃から試合合宿遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。

体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。

しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。

だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻きブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。

ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてから予備校漬けになった。

受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業自分特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。

大学には簡単合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。

とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。

ここから水泳を辞めた後の話に入る。

友達が作れない、学業に身が入らない問題が出る大学1年目

ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。

ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。

1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。

とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。

漠然と、卒業したら死のうかな、と思っていた。

就活ができない問題が出る大学3年生

学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリラインだった。

振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。

就職留年

このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショック東日本大震災の影響があった時期で、特に女子就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。

でも、留年したのに就活全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親マイナビリクナビエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。

面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。

卒論が出せなくて2度目の留年

このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。

結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶ぼんやりしている。

ひとり暮らしの家を引き払い、実家カンヅメになって母親監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。

ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。

この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。

新社会人として

もう一度実家を出てひとり暮らしをはじめた。

働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。

本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。

この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分価値ボロボロと溢れ落ち、人生ダメになっていくことについて、母親への不健全復讐欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。

この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場経験した。就職先は人売りのSESだった。

コロナ禍でリモートワークが開始する

これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。

この現場が4年くらいで終わり、本社に戻ることになる。

本社に戻る。眠気の問題ふたたび

リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。

自社開発の案件アサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手全然からず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴スポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミット全然出ないの?

年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。

社長から新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。

そうやって通院治療を開始したのが、2023年10月ごろ。

日中の眠気、夜の不眠、集中困難、ゴミ屋敷などの問題が主訴。

これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始休みを挟んだ後、ボツボツ休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。

心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解ワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。

この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。

現在は、投薬治療カウンセリングを受けている。

・総括

概観してみると、今の私を状態説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。

特性を持って生まれ子どもが、いわゆる体育会系世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援 Permalink | 記事への反応(21) | 22:15

anond:20240618153103

困ってるなら薬飲もう。ADHDの診断ちゃんと受けな

メール書くのがしんどい

元々ADHDっ気があるんだけど、スケジュール管理破綻してそのまま送れなくなったメールがたまっていって辛い

ディスコードとslackはいけたけどだんだんしんどくなっってもうスタンプも押せない。

助けて欲しい。

アメリカ人(アジア系を除く)って2人が1人ぐらいADHDなんじゃね

2024-06-16

anond:20240616000007

弱男ものというより底辺ものかな(anond:20240616011041)

阿武ちゃん主人公普通を追求する話だよ

群の中に入って目立たないと危険度が下がって合理的から阿武ちゃん普通になりたいらしい

 

作中では言及示唆もされないが、阿武ちゃん河原もどっちも発達障害っぽい

 

2024-06-15

発達障害の私がちょっと気付いたこ

かに話すのも難しいのでここに置きます

文章が下手なのにはご容赦ください。

簡単自己紹介を。私はASDADHDを併発してるタイプ発達障害者です。

色々な紆余曲折を経て、現在は特例子会社障害者枠で働いています

私が今回お話したいことは「誰かに自分気持ち意図をしっかりと伝えることが可能である」ということ自体に、高校生になるまで気づけなかったことです。

色々自分障害特性について考えていて、「ああ~、そうだったんだ!」とさっき気付きました。

私は昔からマイペースのんびりしてる」と認識されてました。小学校では徐々にハブられて、小学校高学年頃から中学生頃にはいじめられました。幸いにもちょっかい程度のいじめであって、私自身でやり返したり、言い返したりして不登校には至りませんでした。むしろいじめっ子くらいしか関わってくれなかったので、つまらない学校の良い刺激として捉えていたかもしれません。

内向的吃音の癖もある変わり者のまま中学校卒業し、知り合いが1人もいないのんびりとした高校入学しました。高校でも1人も友人は出来ず、しかスマホを与えられて急速にネットにのめりこみました。そこで私は初めて、自分がずっと続けてきた創作活動ネットに放流することを経験しました。

私はその頃にはすっかりぼっちに慣れており、好きな作品二次創作を漁って、ちまちまと創作して誰も見ないフォロワー0のアカウント投稿していました。そこで幸運にも見てくれる人に出会い動画をアップしたりする中で交流も始まり、その縁でゲームを遊ぶネット上の知人が出来ました。それまではネットでも現実でも話す相手がいない私にとっては革命的な出来事でした。そこから私は人狼ゲームにどっぷりとハマることになりました。

私はテストの点はあまり良くなく、興味がないことは全然ダメで、人狼ゲームなんて議論ゲームは全く出来ないと考えていました。しかし後に受けたIQテストでは言語系がやたらめったらに高く、私はASD傾向が強かったのです。つまり本来言語表現が得意で理論的な思考をする人間だったのです。私は1日に5回連続で村を楽しむほどにハマってしまいました。

自分考察熟練者の方に自ら欠点の指摘を懇願し、何度も何度も自分文章を見返して添削を繰り返しました。

その中で私の世界は明確に変化しました。今まで私は生きていたのだろうか?と不思議に思うほど、自分思考がしっかりと認知できるようになったのです。自分が何を見て何を感じ、何を想像して何を求めているのかを始めて自覚できるようになりました。そしてそれらを生きている人に伝え、議論を重ねることが出来るようになりました。

ただのゲームだったはずの人狼ゲームが私の自我を芽生え、と言います覚醒を促してくれたのです。

文章が長くなってしまってすみません。私は文章を書くことがその時からとても好きになりました。口に出して話すよりも迅速なので、すごく気持ちがいいんです。

今は生きるのが以前よりも明確に楽しく感じていると思います。前よりも精力的でイキイキしています

何がきっかけで人生が変わるのかわからないなぁ、と日々実感しています

自分語りで申し訳ありません、でもこのわくわく感が少しでも伝わったら嬉しいです。

【おまけ】

最後ちょっと困っていることを残します。

人狼ゲームでやっと私は自分の考えを認識出来るようになりましたが、感情認識についてはまだまだなのです。人狼ゲームは明確に何かしらの事実確率を元に構成していくものですが、感情というのはそう単純なものではありません。

例えば楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか、怒ってるとか。そういったことを「何を根拠認識するべきか」と私は考えてしまうんです。

楽しい!と伝える少し前に「おそらく楽しいと感じている!この感覚経験からすると気分の高揚である!」と一瞬考えて判断を行っている、と思います。なんというか、不安定さや微妙ラグを感じているんです。

私は昔からストレス耐性が高いと感じていたのですが、限界を迎える瞬間までストレスを感じていない可能性が高くなってきました。

かかりつけの先生相談したところ、「内受容感覚」が鈍い可能性を指摘していただきました。空腹感や動悸などの体内からくる感覚を指す言葉であり、感情の感じ方にも大きく影響があるそうです。確かに私は昔から高熱に気付かなかったり、テストストレスで気絶したりもあったので、かなりの説得力がありました。

発達障害を持っていて、私みたいな「感じ方」をしている方がいたら、「内受容感覚」について調べてみるといいと思います

私はストレスをどういう時に感じるのか、怒りや悲しみをスルーしてないかちょっとずつ勉強していこうとしています

ここまで読んでくださった方がいたら本当にありがとうございました

2024-06-14

anond:20240614003624

オセロですらっていうかオセロの方が囲碁より難しいぞ、囲碁石動かないしかなり読みやす

囲碁は有段者だがオセロは一番苦手

オセロより囲碁将棋の方が簡単

囲碁局面をあちこち広く見ないと行かないかADHDに向いてるかもしれんな、知らんけど

2024-06-10

[]

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関西オフ

https://anond.hatelabo.jp/c

今日ガチモンのADHDと接して言いたいことがある。

ファッションADHDまじでやめろ。

そもそもそんなところにアイデンティティを見出すな。

この時間発狂するのはADHD相場が決まっている

2024-06-09

ADHDは「いったん置いておく」ということが出来ない

一般に、ADHD衝動性のコントロールが苦手だと言われている。

目先の欲に弱いので遠くの目標ではなく直近のご褒美に惑わされがちだし、身近なストレス我慢できないので問題をすぐに解決したがる傾向にある。

他人からすると「いったん置いておけばいいのでは?」という案件で何かしら必死に苦しむのがADHDだ。

これを解決するには投薬である程度の症状が緩和されるが、ADHDの半数は薬が効かないと言われているので、効かなかった場合必死自己対処するしかない。

いずれにせよ初動は医師への相談ベストだ。

https://anond.hatelabo.jp/20240606113439

anond:20240609125756

字が下手な人(adhdに多いよね)もどうしても空間の使い方の逆算が出来ない脳なんやろなあと思いながら見てる

視覚ワーキングメモリーが弱いというか

怒りの沸点が低いのでADHDだと言われる

自分自分から怒ることはほとんどない。良い意味他人に期待していないから。

嫁が掃除してなくても料理作ってなくても昼まで寝てても何も思わないしじゃあ代わりに掃除するかと思うだけだし適当に何か買ってくるかと思うだけ。

なので、逆に嫁がなんでそんなに怒るかもわからない。

ゴミ収集の日を逃してしまったり洗濯物取り込み忘れてしまったりでブチギレられるけど、それだけでそんな怒るのかって感じ。

怒る理由もわからないのですぐに謝ることもできない。それくらい怒ることじゃないだろうと思うから

でもこれを言うと発達障害ADHDだとヒスられる。

お前は人の感情がない。人の気持がわからないと。

しろ事あるごとにブチギレかますそっちの方がなにか障害だろとは思うものの、嫁いわく怒りの感情がわかないことが障害らしい。

今度知能検査障害検査行くことになった。

2024-06-08

MBTIやらADHDやらHSPやらさあ!!

自分を枠に押し込めてるわけ?

人間には外部を含めたあらゆる変数があり、一人として同じ人間は居ないんだから、お前には無限可能性があるんだが?

統計的科学的というけれど、それはあくま指標であって、いくらでも例外はあるっつーの!そもそもお前はまだ確定していない動く点なのだから、まだ何も始まっちゃいねえよなあ!

まあ確かに苦手なもんはあるかもだけどさあ、人間の脳って基本成長するし、さっきも言ったけど同じ人間は居ないし指標あくま指標なんですわ!

まり、お前自分可能性を諦めんなよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

あ~つれえ、くそ〜〜自分励ましててみても全然絶望取れないよ〜〜〜もう諦めたいよ〜〜〜ADHDでINFPってなんなんだ!!!うっせえ俺は自由意志を持つ人間様だぞ!!!!!バーーーーーカ

2024-06-07

障害者雇用にいくか悩んでいる

32歳IT土方

ADHD/ASDの併発で障害者手帳2級

クローズで8年勤務している。年収600万

発達障害由来のコミュニケーション能力のなさからどうしても組織に馴染めない。

この歳になるとマネジメントや他社、他者のやりとりが増えてきてできないことが増えた。

現場変わる旅度に新しい技術覚えるのもきつすぎる

障害者雇用にいくべきか悩んでるけど意見ほしい

普通人間じゃないやつに選挙権必要ない

子供、老人、ADHD、頂き女子弱者男性

このへんの投票は係数0.1ぐらいにしとこう

anond:20240607135435

あ、すまん。嫁はADHDも混ざってるから混同しちゃったかも。

ちょっと手直しするわ。サンクス


一応、なんか異様に正義感が強い傾向、自分の言っている言葉を汲み取れない。

人混み電車が苦手って辺りで結構、嫁に近い印象を受けたんだよね。

普通リスク考えて行動するから相手が何者かも不明なまま言い合いに発展するとかないと思うんだ。

で、嫁も同タイプなので、なんでこの出力になるか…って悩んだ時期があってこの考えにまとまった。

医者に見せたらASDADHD特に想像力能力がかなり低めだったので、やっぱりなぁって感じ

まぁ、この人の旦那さんは文面だけだから確証はないけど

自閉の特徴に当てはまってる気がしていて…できればしっかり検査受けた方がいいんじゃねぇかなって

自分はそれである程度、スッキリじゃないけど救われたか

anond:20240607134255

その内容のみだとアスペじゃなくても結構いるタイプな気がするけど、そう思うってことはアスペらしさに満ちた言動がたくさんあるんだろうか。

光とか刺激に弱いのはアスペよりadhdだったはず

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