はてなキーワード: 根付とは
あれ、わざわざ片側空けてるの、スペースの無駄でイライラするって人多いけど。
その昔、まだ“急ぐ人のためにエスカレーターの片側を空ける”という習慣がなかった頃、みんなどういうふうにエスカレーターを使っていたかというと、左右バラバラに乗っていて、詰めて乗る人なんてほとんどいなかった。
もちろん、2人連れの人は一段に二人で乗ってることもあったけど、一人で移動する人はそれぞれ一段に一人で乗って、右か左を開けていた。
普通の人は、パーソナルスペースを確保したい生き物なので、見知らぬ他人と、あの狭いエスカレーターの幅で隣通しに立って移動したくはないのだ。
女子高生の隣にキモいおっさんが立ったりしたら、ちょっとしたセクハラ扱いされかねないし。ま、昔はセクハラって言葉もなかったけど。
だから、自分が子供の頃は、“みんなもっと詰めて乗ればいいのに、それぞれ一人一段を確保するので、エスカレーターに行列ができている”といつ光景はよく見たものだ。
つまり、昔もほとんどの人はエスカレーターの片側を開けていた。ただ、同じ側を開けていなかったので目立たなかっただけだ。
やがて、“欧米では急ぐ人のためにエスカレーターの片側を空けるのが常識。日本は実に遅れている”という話がどこからかひろまって、ああ、さすが欧米の人は合理的で進んでいるなあ皆で見習おう、ということになり、現在に至っている。
そういえば、昭和の頃は駅の階段にはあまりエスカレーターがついていなかった。
やがて、どの駅にもエスカレーターが整備されるようになり、階段がなくてエスカレーターのみ、なんてところも増えた。ちょうどその頃には、“急ぐ人のために片側を空ける”という習慣が根付いており、エスカレーターしかなくても、急がない人は片側でのんびり立ち止まり、急ぐ人は片側を歩くという、階段がなくも実に合理的に人をさばく方法が成立するようになっていた。
なお、自分は“片側が空いてるエスカレーター”をみてスペースが無駄だとおもったり、イライラしたことはない。
あらゆるエロに対する絶対的な規制こそが絶対に正しいと言い続ける奴らを早く説得したほうがいい。
このまま「エッチな絵はどんな理由があっても許されないことを世界に知らしめねば!行動に移せば絶対皆納得してくれる!」といったノリをヒートアップさせれば最後には美術館や博物館が襲撃される。
人類の作り出してきた創作物なんて土偶の時代からエッチなシロモノばかりだ。
あらゆる時代に根付いたあらゆるエッチな創作物も、人類の文化・風俗史の十代な資料だ。
だが、だからこそ奴らはそれらを破壊することで世界の目を覚まさせてやろうと行動に出るだろう。
やはり危険性が高いのは最古のエロフィギアたるオッパイ土偶と世界一有名なエロ絵であるミロのヴィーナスだろう。
危険だ。
対応を急いだほうがいい。
このままヒートアップし続ければタイムリミットは長くて数年、下手したらもう数日まで迫っているかも。
今すぐフェミ界隈過激派のトップを逮捕、ないしは再生産不可能なエッチな創作物の厳重保管をするべきだ。
新たなテロとの戦いはもう始まっているんだ
廃棄されてた海老の頭とうどんの端材を使ってせんべいにしましたって。
お値段12枚で1400円。
いや…バカなのか?安くしろよ。パッケージとかデザインとかどうでもいいから、『安くしろよ』。
SDGsをブランド化して商売するならやめろ。誰だよ値付けしたの。学生は無賃金だろ?材料は端材だし、その値付けになる意味がわからない。
大量生産できないからコストが下げられない?ウソつけもっと簡易包装にしてやりなおしてみろ。
SDGsだっつーんなら企業側は身銭切ってでも最初は安くしろアホ。SDGsを付加価値にするな。フェアトレードで高くなるのは分かる。しかし端材利用は安くしろクソボケ。そういうことやってる限りSDGsなんて根付かねーよ。単なる値上げの付加価値扱いするならそんなことやるな無価値だから。
いま話題になっているニュースの一つに「3600年前に滅んだ町の遺跡が、聖書に書かれているソドムとゴモラのモデルになったのではないか」というものがある。
これの真偽はさておき、聖書と考古学を結びつけて、考古学的に聖書の内容を考えようという学問に「聖書考古学」というものがある。
聖書考古学のテーマとして、ノアの方舟やエデンの園、バベルの塔の実在性などが挙げられる。
日本ではこの聖書考古学に関する情報は驚くほど少なく、マイナーだ。
というのも、日本において聖書考古学を研究している大学はとても少ない。本格的に研究しているのは一部のキリスト教系大学だけなのだ。
日本人として聖書考古学(とその問題点)を直感的に理解するのはとてもむずかしい。なぜならばキリスト教系の価値観の土台と歴史があって、やっと感覚的に理解できることだからだ。
さて、例えばアダムとイブの起源やノアの方舟の実在性などと言った話題は、われわれ日本人からすればなんだかすごくワクワクするものだ。
本当かどうかはわからないが、大昔に似たようなことがあって聖書に書かれて……という経緯があったならわかりやすいし、ファンタジーが現実と繋がった感覚がしてとても感じが良い。
しかし、アメリカやヨーロッパといったキリスト教が深く根付いた(そして克服してきた)国家からすれば、聖書と現実が地続きであるというぼんやりとした感覚は、日本より実際的な問題となっている。
というのも、あちらでは数百年前までは「聖書は単なる神話であり、現実ではない」という主張をするだけで異端と認定され、ガチで殺されたり、社会的に抹殺されることが普通にあり得たからだ。
今日では、流石に聖書がまるまる真実だと信じている層は少なくなってきてはいるが、その余波は残っている。
例えば聖書では、神は自分の姿に似せて人間を作ったとされている。それなので、人間が徐々に進化して今の形となったという進化論は、今でもあちらでは反発が強い。
ということで、宗教と科学の分離というものは、日本ではあまり逼迫的な問題ではないが、あちらではより実際的な問題なのだ。実際にキリスト教が科学を圧迫してきた時代があることは、言うまでもない。
聖書考古学はその性質上、研究に従事する研究者のほとんどはキリスト教徒となっている。
そこで思うのは、「聖書考古学は科学的なのだろうか?」という疑問だ。聖書は歴史的に正しい事実だ、という前提で聖書を証明するために研究を行うのは科学的態度とはいえない。
実際のところ、聖書考古学はこういった懸念から、主流の考古学からは「宗教的な動機から生まれる擬似科学」としてみなされることが少なくなかった。
そこでアメリカやイスラエルを巻き込んだかなりデカいドタバタ騒動(これはメチャクチャ長くなるので書くのはやめる)があった後、やはり宗教的な前提を持ち込むのはやめて、より科学的なアプローチで取り組もう、となったのが現在の聖書考古学となる。
だがやはり、キリスト教も一枚岩ではない。より原理主義的な団体もたくさんある。そういったところが、「聖書を正しいと証明するために、科学的な態度を装って」聖書考古学を利用するというケースは今でも多々見られるのだ。
もちろん、冒頭の研究については調べていないのでよくわからないが、「聖書」と「考古学」という単語が繋がって出てきた場合、少し立ち止まって考えてみてほしい。
唯一それっぽいのといえばこの記事
https://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/20210714_04.html
減収企業が74.3%とあるので、切り上げして80%の企業が減収、つまり80%減、となったのだろうか
とはいえ同じ記事に「売上高は5%減」とちゃんと書いてあるので80%減はちょっとミスリードすぎる
また、売上高が減ったとしても酒の消費量が減ったかどうかは分からない
ソースを貼るのが面倒なので調べて欲しいけれど、コロナ禍以降では日本酒の消費量がガクンと落ちている
日本酒やワインは封を開けると飲みきらないと劣化して不味くなる
飲食店では一人が一合しか飲まなくても来店客で一升瓶を空けてくれれば劣化しないが
家庭で一升瓶を空けられる人はそうそういない
もちろん小さな瓶も売っているが割高に感じるし何より家で日本酒を飲むという習慣がそれほど根付いていない
保存・消費に便利な缶ビールや蒸留酒を割って飲むことが増えて日本酒の売り上げは激減している
これは家庭でワインを飲む習慣や飲むのに必要な器具がある程度必要なことが逆に購買欲を高めている
こういう購買の連鎖によってワインは家庭でも飲まれるが、コップがあれば飲める日本酒は逆に購買意欲を下げている
話を戻すがこういったアルコール消費のジャンルは変わりつつあるがアルコール消費量そのものが減っているようなデータは見当たらない
日本酒・生ビールの消費量は減っただろうが蒸留酒(ウイスキー)と家庭用炭酸(ソーダストリーム)を使ったハイボールの消費や
Amazonセールでワイングッズを買いあさった人によるワイン消費量なんかは増加していると想像できる
小沢が主導した小選挙区制が自民大勝の仕組みになっているつまり事実上民主主義の破壊だったと言う話ならまあそうかもなと思うけど
別に野党議員たちも公選法にのっとって参政権を行使しているだけなのに民主主義を妨げたというのは全く意味不明だよね
日本に二大政党制が根付かないのはジャップがそれを望まないから。本当に二大政党制がいいんなら鼻をつまんででも立憲に入れるべきだろう。でも実際は総裁選で新しい総裁に期待とか言ってまた自民に入れるだけ
日本に民主主義が復活しているって(笑)いや俺に自民党総裁選の投票権はないんだが。お前の言う民主主義の民って自民の民?ジミン主主義?
お前の考える民主主義とやらから逸脱していたり元に戻ったりしていた気になっているだけであって実際はずっとジャップなりの民主主義やってただけだよ
自民党は、まがりなりにもこうして選挙を、党内民主主義と党内競争原理を働かせることに成功している。これがかつて一党独裁とは呼ばれたのは、確かに無理もないことではあったが、やはり独裁よりも民主主義に近い制度だったのだろう。
自民党から独立して、独裁政権自民党とは別の選択肢を作って、二大政党制を目指す。
しかし鳩山や小沢が自民を離党したのは、考えてみれば、そもそも党内民主主義に敗北したからであった。民主主義に負けた人が、選挙に不正があったとか主張して、別の政権を作った。中東あたりでよく聞く話だ。これは民主主義の理想を目指す試みではなくて、むしろ民主主義の破壊だったのではないか。
振り返ってみれば、野党民主党が存在した(存在感をまだ強く保っていた)ころっていうのは、今回の選挙のような「○○派が支持したから強い」だの「一般党員票が勝負の分かれ目」だのいった、民主主義めいた話が一切聞かれなかった。
むしろ、外敵たる野党に対抗するために、強いリーダーを求め、一致団結して一切の離反を許さないしそもそも離反も考えない空気が自民党内民主主義を取りまいていたのではないか(内部の空気なんて知らんけど)。
小泉の強さは選挙の強さであった。安倍の強さも選挙の強さであった。安倍政権が長期にわたったのは、ポスト安倍の欠如、つまり安倍でなくなったら野党に負けるかもしれないという不安が原因であった。彼らは強さを大いに誇示して強肩を振るい、それこそ自民独裁を行った。
長期自民独裁下の政権不正に対して、かつてのような、自民党内からの批判はなかった。「自民独裁」の時代は、政治とカネ問題への批判から自民党が分裂して、新党さきがけが成立したりしたのに。外部に新党が根付いていると、批判はむしろ効果を持たなかった。
今日、俺は、日本の民主主義を妨げていたのは実は野党だったのではないか?という疑いを持っている。
民主党系列の政党が、外敵としての存在感を増せば増すほど、自民党は民主主義的性格を失って独裁に偏重してきたのではないか。自民独裁を批判し、自民の外部で第二自民党を運営してきた、元自民議員たちこそが、実は自民独裁の原動力であり、主原因だったのでは?
今日、外部自民亭たる民主党系列は、様々な事件を経て大いに弱体化し、もはや外敵たりえなくなっている。
いま自民党の選挙で問題となっているのは、先日の横浜で起きたような、自民党であることが選挙にマイナスになりかねない事態のこと、党の権威の弱体化に過ぎない。自民がの敗北、外敵たる旧民主党陣営に負けるかもしれないという、危機感があるのではない。もしそうだったら、とっくに今の選挙も、岸田か河野に一本化している。争っている余裕がある。明らかに偏った性能の駒である高市早苗を試すべきか検討する余裕がある。
かつて自民から独立した政党が現れたとき、二大政党制は日本の風土に合わない、という見方があった。
民主党政権が成立したとき、そういう批判的見方は引っ込んだが。
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>"多数決してれば民主主義じゃねーぞ"、"自民党員しか投票しないなら民主主義から遠のいている"
ごもっとも。俺や貴方が大学で使った教科書をそのまま採用するならば、当然あなた方の批判がが正しい。
しかし上述したように俺は二大政党制を疑っている。つまり全国民対象の選挙で投票すれば、それが可能な現実的な政治的選択肢が2つ存在すれば、民主主義が実現する、という考えに否定的である。なぜならば、自分の考えでは、民主主義の実際の効果のうち重要なことは、第一にクーデターに寄らない新陳代謝と自由競争だ。民意の反映は、その結果として起きるのが望ましい(民意の反映の強化が目的であるならば、我々はまず議会制民主主義を否定する必要がある)。
日本に二大政党制を導入しようとしたのは、まず選択肢を2つに絞ることが目的だった。そうすれば有権者に示される選択肢が簡便になり、より多くの有権者が実際的な選択に関与するだろう、という話であった。しかしこの日本で、二大政党制がそのように機能しなかったのは明らかだ。選択肢をシンプルにしたことは、党派性の分断を産んだからだ。選択に関与する有権者を増やしたのではなく、選択にあたって看板しか考慮しない有権者を増やしたのではないか。
というか、はてなーの多くもそうではないか? 投票時に安倍嫌いでありながら自民党議員に投票することを、あるいは安倍支持でありながら立民議員に投票するかどうかを、自分の選挙区で検討しているだろうか? 本当に?
だから民主主義が強いか弱いかで言えば、自民一党のほうがマシだったのかもしれない、という思考だ。思考だけだ。証拠はない。自民が理想だとも思ってない。所詮書きなぐりだ。
自分は、二大政党制を疑っているだけでなくて、そもそも議会制民主主義というものにも強い疑義をもっている。ポピュリズム、党派性の分裂、トランプの潮流とリベラルの悪い意味でのエリート化、そういうものを現状の議会制民主主義は産んできた。別に、だから西欧はダメだとか中国を支持しようとかいう話はしないが。
とにかく、貴方がたの、こいつは教科書の内容も知らないんだろうみたいな批判は受け取れないということだ。
これは、現在の教科書の内容に対する疑義を表明する文章だからだ。
とはいえ、いまでも教科書の内容は妥当であるというような内容の応答は、むしろ読みたいところだ。それを模索して増田に書きなぐっているところがある。それを宣言しておきたくて、追記した。
映画アニメマンガドラマ音楽ありとあらゆるコンテンツが日々あげられ消費されてる
鬼のように広告がついた動画は今も何事もないかのように再生され続けている
違法アップロードと気づいてか気づいてないか分からないがクリエイターに感謝する声、エモいや感動したなどの声、絶賛のコメント
そんな違法動画でどれだけ賛美の声をあげようがクリエイターには一銭も入ってこないのに
万引きした食べ物をこれ美味しいもっと作ってくれないかな〜とやってることは一緒であるサイコパスだ
一番怖いのがこれが当たり前と思ってる子どもたちだ
エンタメは金を払わないでも見られるという思想が根付けば想像できる未来は容易い
エンタメが滅ぶことだ
唯一エンタメ特にアニメなどは海外からいまだ評価され続けている
それがなくなれば日本はなんだ
ただの孤立した島そんな国海外から必要とされるだろうか?自分だったらいらないと思ってしまう
もう十二分に遅いと思うが世代関係なくネットを使うようになった今法規制を早急に進めないと本当に日本は何もない国になるだろう
英語初心者も、ある程度英語を覚えれば、英語話者が読んで感心するようなネイティブの英語を学びたい、と思うのは当然だ。教科書や試験用の英文はたいていは文法理解をメインにしており、多くても数段落の文章で、いわゆる物語やレポートの全体ではないから、それで文章構成の作法を学ぶのは難しい。わずかに学術界むけに英語論文の書き方の参考書があるのと、一般向けの、手間がかかりそうな洋画脚本の対訳本と、その他に文学の対訳書が少しあるぐらいだ。大手出版の英語書は多くは教科書・参考書の類、以前あった文学対訳書が専門の出版社も、もうなくなってしまった。多くの諸国に根付いている英語利用が日本で根付かないのは、何が障害なのか。
Use of English takes root in most of the countries in the world. But it seems not in Japan. What are the obstacles in it?
「ある日普通に暮らしていた女性が、通り魔に理由もなく殺される」
痛ましい事件だと思う。個人間の怨恨などが理由でなく、ただ目についたから標的にされたという理由のない殺人。
異常な人間が異常な事件を起こして犠牲者が出た。これまでなら、そう思えていたんだと思う。
ただ、今はそう単純に割り切れなくなってきた。
その理由は、通り魔が所謂「弱者男性」と呼ばれる社会的弱者側の存在だったからだ。
通り魔殺人は異常者(男性)が女性(弱者)を殺傷する卑劣な事件だと、これまではそう割り切れていた。
だけど、この事件は追い詰められた「弱者」が恵まれていそうな「強者」を妬むルサンチマンから発した事なのではないか?そういう考えが浮かんでしまった。
こういう考え方は少し前まで一般的だった。或いは今でも多くの人の頭に根付いているかもしれない。
それまで合同で体育を学んでいた子供達は、ある日女子と男子で別れるようになる。スポーツは男子と女子で競技が別けられる。重量がある物は男性が持って当然である。
「女性は男性と違って力が弱い存在である。だから強い男性が女性を守ってあげなければいけない」というマチズモを多くの人間が信じていた。
だが近年その幻想が崩れてきた。江戸時代には300kgの米俵を女性が運んでいたし、太古の時代人間は男性も女性も関係なく狩人として食料を確保していた。
創作の世界でも、「女性はただ守られるだけの存在ではない」と男性に混じり戦うヒロイン達が増えてきた。女性は決して男性に劣る弱い存在ではないと、意識改革されてきたのだ。
男性は家から出て働き、女性は家の中を守る物。そういう考えはやはり一昔前までは一般的だった。
父親は一家の大黒柱として収入を得るため働き、家族は父親に感謝する。父親が家計を支えているため家庭内で一番偉い存在であり、母親は父親の言う事を素直に聞くのが正しい姿である。
この父家長制と呼ばれる制度の影響で、男性と女性には上下関係が存在するという意識が当然のようにあった。しかし近年その考え方は少しずつ変わって来ている。
女性の社会進出が進む、女性は男性の経済力に頼らなくても自分の収入だけで生活出来るようになったのだ。それに伴い「家庭」という概念もじわじわと薄れてきた。
未だに女性の平均収入は男性の7割ほどと深刻な男女格差は残っているが、個人単位で見れば男性より優秀で収入も平均以上である女性もそれなりに見られる。
「女性」というだけで守られ養われるべきであると扱われてきた性別の人々は、今では弱者と侮って良い存在などでは決してないのだ。
女性は従来思われていたほど肉体的に弱い訳でも無いし、経済力もグングン付けてきている。精神力は言わずもがな、である。
という事を頭に置いて通り魔殺人という痛ましく残酷な事件を考えてみると
幸せそうな人(女性)を見て殺したいと思った異常者(弱者)が恵まれた物へのルサンチマン(妬み)から起きた殺傷事件という見方も出来るのではないだろうか。
苦しい生活をしている人が幸せそうな人を見て「自分はこんなに辛いのに何であいつは…」と思ってしまうように、強者側である事は時にそれだけで嫉妬の対象になる理由になる。
こんな事を書きながらも、結局自分は従来のジェンダー観に則って
だと思っている。
その一方で、「女性というだけで弱者と思う事は絶対に間違っているし、後先考えない事件を起こすような男性は豊かでない環境に居る可能性も高い」という考えが頭の片隅を過ぎっている。
仮に幸せそうな女性と不幸せそうな男性の二人が居たら、果たしてどちらが「強者」でどちらが「弱者」なのだろう?と、こんな事を考えてしまうのは自分の価値観が少しずつ変わって来ているからなのだろうか…。
今ちょうど「映画のターン」。元々ネトフリ、フールー、アマプラを契約しっぱなしなので毎日仕事が終わってから2本くらい流しっぱなしにしている。知り合いからは「理解できない」って言われがちだけど、個人的に「同じ映画を何回見ても楽しめる派」なので、本数には困らない。
ホラー、アクション、ミステリ、サスペンス何でも見る。日本の映画も海外の映画もチャンポンで見るけど、ネトフリがネトフリ作品っていう「売れた」ってフィルターを取っ払った作品をどんどん流してくれることで「海外でも売れてない作品はあってそのクオリティは正直たいしたことない」ってことを教えてくれた。洋画にもゴミはいっぱいある。買い付けられないだけなんだな。
ただ、売れた邦画と売れた洋画だと圧倒的に売れた洋画のほうがクオリティが高い。もう圧倒的。
その前は『日本のドラマ』のターンが来ていて、日本のドラマをいっぱい見ていた。アマプラとフールーは日本のドラマの取り揃えが結構よくていい。まぁ、日本のドラマだけなら日本の放送局が組んでやってるサブスクがあるのでそっちを契約したほうがいいんだろうけど、「映画のターン」と次の「洋ドラのターン」の時には完全に死んでしまうことを考えるとちょっとね。
これも同じのを何回も見たりする。一話完結であることが好ましい。けっこうながら見をするので全部ちゃんと見てないといけない作品だと途中で「あれ?どうなってたっけか」ってなるから。こういう時に「毎週1話」って形式は悪くないなって思う。次の話が来るまでいろいろ情報を整理する時間があるのは別に悪いこっちゃない。
その前が「洋ドラのターン」。洋ドラをいっぱい見た。洋ドラのいいところは無駄にシーズンがクソ長い作品が多くて毎日毎日続きを見続けられること。個人的にはクリミナルマインドとかクローサーみたいな一話完結モノが好き。恋愛系は正直ちょっと価値観が違いすぎてあんまり……って感じ。ライトゥーミーの第一期はマジで名作だからミステリサスペンス好きは見て。二期はゴミ。
あと、洋ドラを見ると日本のドラマは安っぽすぎて見られないみたいな意見をよく見るけど確かに「金かけてないなー」とか「脚本の質悪いなー」と思うことも多いけど、『お母さんのカレーライス』みたいなもんで作品自体のクオリティは低くても「日本の風土に根付いた作品」ってだけで視聴ストレスが低く、理解が容易いという利点があって、この「安心感」は割と何物にも代えられない。
その前が「無料動画のターン」。具体的には「Youtube」「ニコニコ動画」みたいな、投稿動画ばっかり見る時期。YoutuberからアニメゲームのMAD、Vtuberのまとめ、歯石取り、整体、ゲーム実況、フィットネス、MCバトル、ナショジオ、声優ラジオ、料理等々、マジで何でも見る。あなたにオススメみたいなのの中から面白そうなの順番にザッピングしていく。圧倒的ジャンク感。
ただYoutubeを見てるとニコ動時代と違って「その道のプロが新たなマネタイズの一環としてやってる」動画がめちゃくちゃ増えてるなって感じがする。歯石取りとか整体とかはまさにそうで、これまではテレビの特集とがあったときに稀に見られた、くらいのものが普通に見られてしかもたくさん再生されてる。時代は変わったもんだ。あ、歯石取りは結構グロなので注意してね。
そんな中でもいまだに昔ながらのゲーム実況とかMADを作ってる人もいて、いいぞもっとやれって感じで見てる。ただゲーム実況は昔みたいに大スケールの長編は見れなくなったな。年取ったってことか。
その前が「アニメのターン」。日本のアニメはいいぞ。涼宮ハルヒの憂鬱による「深夜アニメ革命」以降の「アニメが円盤でマネタイズできる」時代の作画クオリティが異常に上昇した後のアニメはやっぱり見ごたえがあるし、前時代的にやってるワンピースみたいな「いかに作画枚数を抑えられるか」みたいなアニメも趣がある。昔のアニメマジで動かないからね。そのセル画何秒スライドするねーんみたいな場面がめっちゃある。息詰まる演出だ。
新旧ちゃんぽんで見ていると気付かされることは多い。昔のアニメのほうが作画も演者も「太い」と感じることが多くて、今のアニメのほうが作画も演者も「繊細」だなと感じることが多い。毛筆習字とペン習字に近い。昔のほうが骨太で個性があるけど荒くて、今のほうが繊細で小回りが効くけど個性は薄い。最近の声優は演技が下手って言う人が多いけど当時のアニメ見返したらわかるけど、今のベテランも新人時代の演技は今の新人に比べたら明らかに雑。雑だけどパワフル。どっちがいいと感じるかは人それぞれ。僕はどっちも好きです。
一番好きなアニメは「アイドルマスターゼノグラシア」ですが、なんとフールーで見られます。
そしてその前が「映画のターン」。これで一周する。テレビがないのでテレビのターンはないです。
だいたいこれが2か月くらいの間隔でローテーションする。そのターン中は基本的にそればっかり見るので、1周してる間に新作が結構溜まってる。やったぜ。