はてなキーワード: 先入観とは
私も例外にもれず、韓国の国旗や韓国の俳優を見ると悪い印象を持って
しかし私は日本人ではなく。韓国人として生まれた在日韓国人なのです。
このような言葉が自分の中で出てくると言うのは刷り込み以外に考えにくい。
自分の立場を考慮して、韓国には良い面も悪い面もあるはず。それなのにこのような
言葉が最初に出てくると言うのはネットの罵詈雑言に触れすぎたせいのほか考えられない。
本来の私は韓国を好きでも嫌いでもない。良いものは良いし悪いものは悪いと思っていた。しかし
さして疑わない話題ならどうなるか。自分の意思などなく、たくさん触れたものが自分の思考を形作るに違いない。
自分の考えでないものが大量に投入され、長い時間触れているとそれが自分の考えになってしまう。
それは他の増田もきっと同じなんだよ。
一定量を超えた大きな熱量を持つ粘着質な憎しみの投稿が韓国や日本の掲示板やニュースサイトSNSを通じて拡散する。きっと世界中で同じことがある。そして自分の意に反して精神を汚染する。誰かに操られているんだなという印象を持ってしまう私がいる。
自分は結構映画を見る方だが、基本はシネコンで上映される大作ばっか。そこでしか上映しないB級映画の為にミニシアターにも行くが、いわゆるミニシアター系って映画にはまったく興味を持たない
低予算なのは分かるし、アイデア勝負で外れたらとことん面白くないイメージ、オマケにアメリみたいなポワポワした作品ばっかで有名な俳優も出てない先入観がある(もちろん、ここから人気俳優になる可能性は多々あるが)
ミニシアターに足繁く通う層が一定以上居るのは分かるけど、みんなどうしてミニシアター系の作品を観るようになったの?勝手な決めつけだけどサブカル気取りが内容関係なく雰囲気で観に行ってるイメージを持ってる
それでそれは世の中の全部に適用されるんだなって。
「ちょっと辛(から)い」は人によっては「物凄く辛(つら)い」として判定されるかも知れないリスクがある。
その考えていくと「普通」も人によっては「ちょっと辛(つら)い」になるかも知れない。
「甘め」が苦手な人も中にはいるけど、それは「好き嫌い」として処理される。
「辛め」が苦手な人に無理をさせたら、それは「暴力」として処理されるかも知れない。
だからさじ加減が見えない時は「甘め」でとりあえず行くんだ。
でもそれって、「普通」より無難だから出てくる「甘め」はきっと、いろんな形でこの世界に沢山存在するってことなんだろうな。
臆病さから生まれた「甘さ」が世界を包む優しさの正体なのだとしたら、その根底としてて世界を支配しているのは結局のところは「恐怖」なんだ。
目に映る「優しさ」の多くは「愛」ではなくて「恐怖」から生まれているのだろうか。
無難さから生まれたであろう甘いカレーを食べながら憂鬱そうな顔をする僕に、同僚がふと「甘いのは苦手か?」と訪ねてきたけど、それが気遣いをして見せないと社会不適合として扱われることへの「恐怖」から来たのか、彼の本当の「甘さ」から来たのか、それとも、彼にとってはそれが「辛口(かるくち)」だったのか、そんなことも分からない自分への嫌気で頭を一杯にしながら、それがバレないように愛想笑いで「この年になるとカレーって普通は辛いものだって先入観があってさ」なんて少し生意気な返し方をして場を繋いでみせた。
カレーを一皿食べただけなのに、世界がもっとよく分からなくなった不思議な日だった。
それとも、世界のよく分からなさに少しだけ気づいたことで、世界の分からなさが少しだけ解消された夜だったのかも知れない。
とりあえず、「普通」の多様化の中で生き残りたいなら、「甘め」な方が強いんだなってことが漠然と分かったのは、社会適合の役に立ちそうなので備忘録を残す。
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
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最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
東京大学大学院の講義「問いを立てるデザイン」で細胞培養による人工肉に関する様々な課題を取り上げる講義を受けた。講義のテーマは、人工肉を培養する際の技術的な側面と、その倫理的な観点(たとえば、培養した生命を頂くことはありなのか?など)であった。個人的にも、「試験管で培養したお肉はなんか嫌だな〜」といったところである。とはいえ、講義内でも説明があったが、今後も我々が安定してお肉にありつけるとは限らない。世界の人口は増えていくし、その一方で、畜産従事者は減る一方。そこで、お肉を我々が安定的に摂取するための代替手段のひとつが、人工肉というわけである。
一方で、栄養バランスの観点から見れば、タンパク質を摂取できれば良いのであるから、必ずしもお肉に頼る必要はないのかもしれない。
タンパク質を得る一つの例として、個人的に昆虫食に注目している。子どもの頃、祖母に作ってもらったイナゴの炒め物は大変美味しかった記憶がある。何故日本人はイナゴをもっと食べないのか。実は、そこを私は非常に残念に思っている。世界的に見ても、昆虫を食する国はアジアやアフリカに多く存在する。数年前に中国の新疆ウイグル自治区に旅行した際は、サソリの揚げ物を提供された記憶がある(見た目の都合上その時はとても食べられなかった)。
そこで、講義の主要テーマからは(大きく)はずれることになるが、人工肉と同じように将来の我々のタンパク源を担うであろう昆虫食を本文では取り上げる。その中から、日本で昔から食べられてきた我々(私だけ?)に馴染みの深いイナゴ料理について、3種類ほど紹介することとした。
(参考 https://cookpad.com/recipe/4246461)
イナゴの食べ方の定番。少し甘みを感じるものが一般的な様である。ネット上の感想を調べると、サクサクして美味しい、エビの尻尾の様だ、と高評価が並ぶ。Amazonでも購入可能な様である。私も食べたことはない。
その2:イナゴの炒め物
(参考: https://www.muji.net/camp/contents/tech/activity/being/d/d103.html)
イナゴを茹でた後にさっと油でカリカリに炒めたもの。私が子どもの頃食べたのはこれである。「これは天然のかっぱえびせんだ!」と思った記憶がある。目を瞑って食べると、とても美味しい小エビの唐揚げと間違えるはずだ、と自信をもって言える。後ろ足と羽根が固くて美味しくなかったので、予め取り除いてから調理することを勧める。
(参考:https://www.narinari.com/Nd/20130521693.html)
6年ほど前に一部で話題となった昆虫食パスタ。なお、提供していたお店はすでに閉店している。閉店の理由として昆虫食が影響しているかは不明である。
人工肉と同様に未来の食材の一つとして期待される昆虫食のうち、個人的に思い出深いイナゴ料理についてここでは紹介した。周りの友人に「イナゴを食べたことがある」「イナゴは結構美味しい」という話をすると、殆どの場合はドン引きされる。だが、ほんの70年前は普通に我々の祖父・祖母が食べていた食材であるし、日本の伝統料理の一つと言っても過言ではないと考えている。また、世界的に見ても多くの人々が食していることから、イナゴは食材としてポピュラーな存在とも言える。個人的な感覚では、我々が昆虫を食べていることを気持ち悪く思う感覚は、日本人が魚や生卵を生で食べていることを「うげっ」と思う欧米人と似たようなものではないかと思っている。要するに、我々も海外の人からすると気持ち悪いと思う食材を普段から食べているわけである。結局これは、先入観、固定観念がすべてではないかと思う。欧米人が生魚ののった寿司を喜んで食べ始めたのはほんの10数年前と思うし、きっと10年もすると、我々も喜んでイナゴを食べているようになるのではないだろうか。
東京大学大学院の講義「問いを立てるデザイン」で細胞培養による人工肉に関する様々な課題を取り上げる講義を受けた。講義のテーマは、人工肉を培養する際の技術的な側面と、その倫理的な観点(たとえば、培養した生命を頂くことはありなのか?など)であった。個人的にも、「試験管で培養したお肉はなんか嫌だな〜」といったところである。とはいえ、講義内でも説明があったが、今後も我々が安定してお肉にありつけるとは限らない。世界の人口は増えていくし、その一方で、畜産従事者は減る一方。そこで、お肉を我々が安定的に摂取するための代替手段のひとつが、人工肉というわけである。
一方で、栄養バランスの観点から見れば、タンパク質を摂取できれば良いのであるから、必ずしもお肉に頼る必要はないのかもしれない。
タンパク質を得る一つの例として、個人的に昆虫食に注目している。子どもの頃、祖母に作ってもらったイナゴの炒め物は大変美味しかった記憶がある。何故日本人はイナゴをもっと食べないのか。実は、そこを私は非常に残念に思っている。世界的に見ても、昆虫を食する国はアジアやアフリカに多く存在する。数年前に中国の新疆ウイグル自治区に旅行した際は、サソリの揚げ物を提供された記憶がある(見た目の都合上その時はとても食べられなかった)。
そこで、講義の主要テーマからは(大きく)はずれることになるが、人工肉と同じように将来の我々のタンパク源を担うであろう昆虫食を本文では取り上げる。その中から、日本で昔から食べられてきた我々(私だけ?)に馴染みの深いイナゴ料理について、3種類ほど紹介することとした。
(参考 https://cookpad.com/recipe/4246461)
イナゴの食べ方の定番。少し甘みを感じるものが一般的な様である。ネット上の感想を調べると、サクサクして美味しい、エビの尻尾の様だ、と高評価が並ぶ。Amazonでも購入可能な様である。私も食べたことはない。
その2:イナゴの炒め物
(参考: https://www.muji.net/camp/contents/tech/activity/being/d/d103.html)
イナゴを茹でた後にさっと油でカリカリに炒めたもの。私が子どもの頃食べたのはこれである。「これは天然のかっぱえびせんだ!」と思った記憶がある。目を瞑って食べると、とても美味しい小エビの唐揚げと間違えるはずだ、と自信をもって言える。後ろ足と羽根が固くて美味しくなかったので、予め取り除いてから調理することを勧める。
(参考:https://www.narinari.com/Nd/20130521693.html)
6年ほど前に一部で話題となった昆虫食パスタ。なお、提供していたお店はすでに閉店している。閉店の理由として昆虫食が影響しているかは不明である。
人工肉と同様に未来の食材の一つとして期待される昆虫食のうち、個人的に思い出深いイナゴ料理についてここでは紹介した。周りの友人に「イナゴを食べたことがある」「イナゴは結構美味しい」という話をすると、殆どの場合はドン引きされる。だが、ほんの70年前は普通に我々の祖父・祖母が食べていた食材であるし、日本の伝統料理の一つと言っても過言ではないと考えている。また、世界的に見ても多くの人々が食していることから、イナゴは食材としてポピュラーな存在とも言える。個人的な感覚では、我々が昆虫を食べていることを気持ち悪く思う感覚は、日本人が魚や生卵を生で食べていることを「うげっ」と思う欧米人と似たようなものではないかと思っている。要するに、我々も海外の人からすると気持ち悪いと思う食材を普段から食べているわけである。結局これは、先入観、固定観念がすべてではないかと思う。欧米人が生魚ののった寿司を喜んで食べ始めたのはほんの10数年前と思うし、きっと10年もすると、我々も喜んでイナゴを食べているようになるのではないだろうか。
会社で働いている全世代の中で、若手時代に最も仕事にかけている時間が短くなっているのは、働き方改革の名のもと残業時間が減っている現代の若手だろう。
たくさん働けばいいということではもちろんない。過剰労働は精神を病むし、疲れすぎていては進捗も実務による成長も鈍化する。
しかし、残業時間の削減による副作用もあることは十分に認識されてないように感じる。
例えば、一つの仕事を覚えるのにかかる時間が同じなら、仕事をする時間が以前より減るのだから、覚えるまでの期間が長くなるのだ。これを理解していない周囲からすれば、覚えの遅い人に見えるだけに、能力が劣って見えるに違いない。
ついでに、覚えが遅くならないのは、先輩が仕事していない時間が圧縮されたか、教える生産性が上がったか、その人が優秀だったかなどいろいろ原因が考えられる。
また、若手の間は残業で稼いでいた人も多いだろう。今の若手はそれが全てなくなってしまうのだ。人によってはぞっとするのではないだろうか?
しかし、若手はそれが現実のものとなっている。大企業は先んじて制度が変わってきているし、中小企業を今後その波に飲まれるだろう。
(もちろん、サビ残だったという人が絶対現れるだろうが、そういう人は、ブコメなどで反応する前にまず労基に相談したほうがいいでしょう)
上記2点が若手特有の働き方改革の副作用となっていると感じる。
単なる愚痴ではあるが、今の若手はこういう人が結構いるんじゃないかと個人的に思っている。
まだまだ仕事の負荷がかかっても大丈夫な、手持ち無沙汰な状況なわけだ。
うちの会社に限ったことかもしれないが、部下の残業時間を一定時間に収めないと評価が下がることから、早く帰るように言われるようになっている。
これは、働き方改革を残業時間の削減と定義からと推定できるが、これは私のような持て余している人とは相反する考えに基づいている。と、同時に働き方の多様性を認めていないし、経営層が自身が若手のとき、どのように稼いでいたかを完全に忘れている配慮の無さを嫌でも感じるものだ。
更に、定年延長をして、退職までの給与総額を変えずに、昇給ペースを緩やかにすれば、定年に近い人ほど得をする。そして、若手ほど損をする。
しかも、残業時間の削減と定年延長によって昇給ペースが落ちる傾向は一時的なものではない。
総労働時間は長期に渡る単調減少になっているし、年金支給時期の後退に伴う定年延長の懸念は2000万円問題のように不安が増大していることから、根強く残り続ける、というより悪化することは間違いないと言ってもいいだろう。社会保険料の値上げが拍車をかける懸念もある。
こうなれば、若手社員の実質賃金は下がり続けるのが当然である。
更に、子供を産めない理由が収入の不安であることも主因なのだから、働き方改革が出産世代の若手に最も負担を担わせて少子化を加速させているという論理が立ってくる。消費意欲の減退は言うまでもない。
で、どうすれば若手社員の収入が減らないようになるかというのは、私の中では2つある。
上げてみたものの、現実的ではないことは承知している。なぜなら、働き方改革の名目でコストカットを目的にしていたのだから、これではコストが減らないのだから。
そこで、もう一つ考えてみた。残業時間削減と定年延長をセットにして定年延長で損をするのを若手ではなく定年間際の社員の収入を減らすことで全世代の負担を均等にして逃げ切らせない形になるようにボーナスの増額で調整すればいいのではないか。
もちろん、定年間際の経営層は反発するだろうが、定年間際でも経営層は少数だし、ホントに会社のことを考えているかのリトマス紙になるので、提案としては悪くないと思う。
しかし、これにも問題があって、この提案の場がなかったりする。
御用組合のような実質、経営層の犬になってる労働組合はもみ消してしまうだろう。
はてなでも瞑想はよく話題になるし、自分も興味あってたびたび試すのだけどなかなか期待していたようなところまでは行けなかった。
意識の俎上に載せるものを限りなく小さくするというコンセプトはわかりやすいのだが、実際にはなかなかうまくいかない。
これは何か根本的に間違えてるんではないかと考えて思い当たったのが、あのみんながよく思い浮かべる瞑想の本の表紙にありそうな涼しそうな顔。あれが先入観なんじゃないかと思った。
そもそも意識の俎上に何も載せないということは人間性が限りなくゼロに近づくということだ。
あんなに理性的なきれいな顔をしているわけがなく、きっと相当やばい感じの顔になっているはずではないか、ということでその方向で試してみたら前より全然うまくいった気がする。