はてなキーワード: モラルとは
ヒデェ話だ。アンタのために俺は泣くよ。
隔離した教師や泣いた女子もかつて自分がそういう邪悪に振る舞ったってことをきっと覚えている。
その記憶はモラル観の成長を阻害する。自分の邪悪さを許せるように捻じ曲げる。穴の開いたモラルは友人や周りの人間に影響し、彼らの攻撃を許すように、あるいは悪い人間が好んで寄ってくるような人間関係を形成する。
うまく反省できれば違ってくるが、その場合、増田への後ろ暗さは生涯ずっとつきまとう。
優秀なデバッガーはありがたい。上手く動いているように見える一見キレイなプログラムの構造的欺瞞に光を当てる人々。その悲鳴が社会をデバッグしバージョンアップさせる原動力になる。クソ連中が後悔するような未来を作っていこうと思う。それが未来で女の子の隣に座った誰かを救うから。
インターネットの責任とは言わないけど、ネットのせいで情報に踊らされているアホが増えたよね。
昔はネットがないから調べようにも範囲の狭い調べ方が出来なかったから、TVと新聞くらいで後は人づて、実際に歩いて、くらいしかなくて、そこまでアホが多くはなかった。
今ではほんの少しのデマに簡単に騙されてしまう人が増え過ぎちゃう有様。
それに加えて、たちが悪いのは…ネットの情報に踊らされた挙げ句に自分たちの誤った正義を絶対に正しいと思い込んでしまう人がいるってこと。
ちょっとした話題で「あの人が悪い」なんて書かれたら、事実確認もしていないのにその人を一斉に攻撃し始めるというリンチを平気で行う人たちがいるし、
後で実はその情報は違いましたって話になったら、途端に手のひらを返して「本当は信じてたよ」なんていう人もいれば、それでもまだ誹謗中傷を続けて「でもお前も悪い」みたいな事を言い始めるという。
一般人が簡単に犯罪じみた行為を行えるようにしたというのは、ネットが生み出した最悪の害じゃないかなって思う。
もちろん、ネットは恩恵もあった。知り得なかった情報も調べやすくなったし、過去のニュースや歴史、懐かしいものまでも簡単に閲覧できるようになった。
遠方の地をライブカメラで見ることも出来たりするようになったのも、恩恵だと思う。
だけど、それらの恩恵を台無しにしてしまうくらい酷いのは、一般人による情報の誤認識での誹謗中傷や似非正義かなって。
こういう人たちの救えない部分は『自分たちが絶対に正しく、誤ったことをやっていない』っていう事を本気で思っているって事だと思う。
その結果、有名人の中にもどう考えてもおかしいでしょっていう事を平気で電波に乗せたりする人が現れたりした。
どこかの医者が変な行動をするようになったり。芸能人が大麻はを支持する人がいたりと、この辺も変な正しさを信じて疑わなくなっちゃった人たちだなって。
ネットがなければ、こういう人たちもTVか本くらいしか主張できなくなるんじゃないかなって思うことはたまにある。
先日、捕まった芸能人の保釈の際に謝罪していたら、迷惑YouTuberがしゃしゃり出てきて捕まっていたけど、ああいうのもネットが生み出した悪性腫瘍みたいなものだと感じる。
その上、そいつのTwitterではその行動を絶賛するような頭のおかしい人がかなり居た。これらもネットが生み出した膿みたいなものなんだろうね。
こういう風に悪いところばかり目立つようになってしまって、ネットの良いところって少ないよねって疑問を感じてしまうこともある。
まぁ昔から『良い所よりも悪い所が目立つ』のはある話なんだけど、それにしたって異常な人たちがどんどん増えているのって怖い。
他にも、お店で起こしたバカ行為をTwitterで自慢するようにつぶやいてた人もいたね。ある程度社会的制裁は食らっているようだけど、それでも未だに変わらないで存在している。
ネットってもっと便利で賢い使い方のできるものだと思うのに、一部の人が迷惑行為やマナーやモラルを捨てて行動しているから悪いものに見られやすくなってるのは残念。
今後もどんどん増えるんだろうけど、あんまりこんな事が続くとマイナンバーで紐付けされるような事が起こるんじゃないかなって。
人権がーって喚く人は居ると思うけど、人権も何も人権を無視するような誹謗中傷を行う人が増えてきているじゃない?
そうするといくら大半がネットでのマナーを守っていたとしても、そっちが『一部扱い』になっちゃって国は強制してくるかもしれない。
そんな監視が付くような社会になったら、どんどんつまんなくなると思うのにね。今が楽しければ良いみたいな人がいるから困っちゃうね。
こういうのって、いつか解決することが出来るようになるのかな。無理かー。
例えば猫に熱湯をかけたり髭を引っこ抜いた虐待して、最終的に殺すような動画をアップロードするようなチャンネルがあったとして
それで何十万再生も稼いで、広告収入で新しい犬猫買ってきてさらに虐待を繰り返すようなことをしていたら自分は看過出来ないな、などと考えていた。
犬猫を殺す奴は人間にいくぞ、と言うのはよく聞く。何十万の視聴者の中には動画を見て真似する奴が数百人ぐらいはいて、ついには殺人まで発展するような奴が出てくるんじゃないだろうか。
個人的には、実際に事件が起こる起こらないに関わらず、モラルの維持のため社会として許してはならない表現にあたるのではないかと思う。(文化はその文化に属する人間によって常に監視され批判されながら緩やかに変化すべきものと認識している)
「YouTubeで動物虐待チャンネルが大人気」という状況は、特別動物が好きでもないし(むしろ嫌いだ)、野良犬猫なんてさっさと処分してしまえと普段思ってる自分からしても、おぞましいし、受け入れ難い。
と、ぼんやり考えていて、じゃあ人間はどうなんだと思った。例えば痴漢やレ○プを再現したAV。先の動物虐待動画の件から考えると、これらも真似したくなる人間、実際に真似する人間を産むはずだ。R18のものは普段表に出てこないが、再生回数は凄まじい。きっとYouTubeの何十万よりもずっと多い。社会に悪影響かどうかはわからないが、良い影響はないことは確かだ。
しかし、動物虐待動画の件に比べると断然許せてしまう。「いやいや痴漢AVみたからって痴漢はしないでしょ」と言える。多分する奴もいるにもかかわらず。何故だろうか?
人間の方が動物より手を出しにくいから?セックスファンタジーはあくまでもファンタジーで、動物に対する嗜虐心とは根本的に異なるから?
いろいろと理由を考えてみたがどうにもしっくりこない。最終的に行き着いた仮説が、「性暴力AVが既に社会に浸透しているから」である。既に性暴力AVが世の中に浸透していて、それに影響を受けてから受けてないかはわからないが犯罪に及ぶ人間もいて、しかし及ばない人間も大勢いる。既に浸透してしまっているから、これ以上何かが変わることはない。既にそういう結果が出ているのだ。人間は、文化に順応しようとする、そういうものだと言われて育てば耐えられるように出来ている。体罰が当たり前だった時代に生まれた人間は、今の子供よりずっと体罰に対するストレスが小さいだろうし、未だに体罰を支持していたりする。「もしそれらが無ければ」という空想は常人には不可能なのだ。
となると、動物虐待動画が蔓延するという仮定への嫌悪は単に変化への恐怖に過ぎないのかもしれない。保守的に、開国を恐れているに過ぎないのかもしれない。もし動物虐待動画が解禁された世の中であれば、このような嫌悪は全く感じなかったろう。動物虐待動画がYouTubeで人気を得る世界は、動物虐待がほんの少し多いかもしれないし、暴力的な嗜好を持つ人間がほんの少し多いかもしれない。でも、「もし動物虐待動画がなければ」という馬鹿馬鹿しい仮定はされないだろう。
きっと現代日本で、動物虐待動画は是か否かと問えば殆どの人間が否と答えるだろう。それは、現代日本に動物虐待動画が存在しないからだ。人々は文化を保守的に、留まらせようとするだろう。
逆に言ってしまえば、動物虐待も浸透させてしまったものがちである。「インターネットのアングラで共有されていたはずがいつのまにか世間皆の知るところになっている」という状況が現代ではよくある。そういう戦略をとればなし崩しに、開国させられるのだろう。ネットは誰にでも、そしてこっそりとアクセスできる。そして人はアングラが表舞台に出てこないことを望みながら、こっそり覗きに行くことをやめない。そうしてアングラは公然のアングラとして共有され、隠すことべきと知らぬ若い世代によって「抑圧から解放された自由な表現」として表に引っ張り出され、文化として定着するだろう。
表現の自由の問題は、単に性的搾取やジェンダーの問題ではなく、文化の革新・保守の問題として広く重要な意味を持つのではないだろうか。そしてどんな(現在の規範からして)アンモラルな表現でも一度浸透してしまえば、その是非を問うことは難しいだろう。誰もがインターネットにアクセスする時代になったことによって、文化の変容はより早く、コントロール不可能になりつつある。この先どうなるのかは検討もつかないが、個人的には過激な表現はメインカルチャーに合流しないで欲しいものだ。
俺は犬猫の権利は認めない方針なので、演技のAVと犬猫の虐待動画の比較は何の違和感もない。俺にとって動物のぬいぐるみをいじめる場合と動物をいじめる場合で異なるのはどれだけモラルに反しているかであって、苦しむ動物がいるかどうかではない。違和感がある人は好きに納得できるものと比べてくれや。
俺にとって動物虐待動画と性暴力AVの共通点は、社会的に逸脱した嗜好を満たすコンテンツであること、で相違点は現社会で許容されてるかどうかだ。なぜなら俺の中では動物には権利が存在しないからだ。
返信
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「犯罪行為を演じてはいるが、現に映っているのは犯罪行為ではない」と「現に映っているのが犯罪行為」というところ(動物にもよる)、R18か否かには違いがありそう
→これはそう。
→そうだね。俺はそう思わないけど君はそう思うんだね。うんうん。どうして許さないかは「人それぞれ」ダネ!
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矢印「AVは納得して撮ってる」はあなたが信じているお約束に過ぎない。個別の事象に関して事実を確認を済ませるまでそれは単なる思い込みであり虚構です。
・「単純影響説」に基づく規制論
→規制論ではないですね。自由精子はこれだから嫌いです。お茶の間でレイプAVも動物虐待映像も流れて欲しくないのは個人的な好き嫌いですね。
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過激でエシカルではない表現があたかも革新であっていずれ許容されていくかのように言ってるけど、むしろ昔は許容されていたような人種差別、性差別表現が倫理的ではないとして受け入れられ難くなってるのが現実なので、性暴力的なフィクションが今受け入れられてても将来的にはマジョリティから拒絶されて消えていく可能性は十分あると思うよ。
→前半同意。ただ性暴力的なフィクションが消える可能性は低いと思う。
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→ だからあらゆる表現は許されてないっつう話ししてるだろハゲ。
その時々の社会にとって「都合の良い表現」が許容されてきただけにすぎない
犬猫の虐待は人間の暴力性を刺激して(それこそ真似するやつが出てくるので)、社会に悪影響を与える可能性がある
ただしレイプ系エロに関しては、性欲のはけ口として一定の秩序維持の効能が見込まれる(欲求不満のオスは暴力的になる場合がある)
・
→動物はモノと同じ感覚で生きていたのでそこに違いを見出す必要を感じていませんでした。どっちでもいいです。
・
AVと比較するならハッピーツリーフレンズやろな。思考実験として議論したいなら非実在生物相手のゆっくり虐待あたりが適切では
確かに。
小町や既婚家庭板のまとめブログへ移住したら?みたいな増田ネタ(anond:20200924185457、anond:20200925062730)に限らず、
ズーーーーーーーーーーーーーーーーっと
傷ついた傷ついた承認しろ承認しろ共感しろ共感しろってやっとるやんけ
過敏な人は自衛をしてSNSやるべきではない。自衛する判断能力が無いと言うなら尊厳の話になると思っているが、
一方で気軽に自身の個性や病状を気にせず、気軽に使えるSNSがあっても良いとは思っている
宗教によらず(告白・懺悔・赦し)、個人のモラルで現実的なコストで作れるかな?
「公式に迷惑をかけないため」ってのがまず嘘、歴史修正主義もほどほどにしろよって感じなんだが。
あたしはちゃんとしてる、あたしだったらこういうことはしない、みんな(あたし)が不快に思いまーすで学級会してきた結果、面倒な馬鹿と揉めないための予防線がルールのようになっただけだろ。
そもそも、これはオタクのルールじゃなくて、女同士のコミュニティにありがちなルール。自分だったらこうしないみたいなモラルで他の女を縛ろうとするのはね。
ウェブ編集者の中川淳一郎さんが、ついにセミリタイアするという。著書「ウェブはバカと暇人のもの」(光文社新書)から11年あまり。たまに「ウェブはバカと暇人だけのものではない」なんて言い張るジャーナリストを見かけるけど、現実のネットはより一層バカと暇人のものになっている。
「ウェブはバカと暇人のもの」は、終わりのない進化の過程にあるのだ。そこで、肝心の本は倉庫に預けて手もとにないままではあるのだが、記憶をたどりながら(詳細は追って訂正したり肉付けしたりすることを前提に)ざっと書いてみる。いろいろ突っ込んで事実誤認を補正してほしい。
実はウェブ、あるいはインターネットが「バカと暇人のもの」であったのは、中川さんが指摘するよりずっと以前の、それこそネット誕生のころからの性質だった。もちろん、バカと暇人の性質はずいぶんと異なる。
そもそもインターネットは、ロシアからの攻撃に備えた分散型情報ネットワークとして、アメリカで軍用に開発されたものであった。それが、冷戦終結とともに商用活用が検討され、90年代の終わりに民間に開放された。
そのころには、インターネットが将来どのような姿になるか、影も形もなかったのだが、その得体のしれないものに情熱を注ぎ、いまから考えれば信じられないほどレベルの低い機材を使いながら、インフラを整えていった人がいた。
学歴は高いが身なりの汚い若者が、寝る間も惜しんで延々と何やらやっていたのである。傍からは、何をやっているのかまったく分からない、バカなことをしている暇人に思えたのではないだろうか。
商用プロバイダのインターネットサービスが始まったとき、最初に飛びついたのはインテリだった。教養とは、何もないところでの楽しみ方を自ら思いつけることなのである。教養のないやつは、出来合いのエンタメでしか楽しめない。
インターネットを最初に遊び場にした人たちは、学歴は高かったかもしれないが、好奇心と遊び心のある「バカと暇人」だった。
さらにその中から登場したのが梅田望夫さんの「ウェブ進化論」(ちくま新書)だった。要するに「インターネットが世界を変える」という主張で、そこに新しい創造性の夢を抱いた人たちが増えていった。
しばらくたつと、現実世界でイケてない非モテたちが、インターネットを新しい居場所として見出した。ネットは匿名で楽しむオルタナティブな現実となった。
参加者は好奇心が強く、知的水準も低くなかったが、STEP.2のインテリのように自分で居場所を作ったというよりかは、作られた居場所の中で傍若無人な振る舞いをしたバカと暇人といっていいだろう。
典型的なウェブは、2ちゃんねるだ。そこは素姓を隠しながら、ウンコの投げ合いのできるバトルロイヤルなリングだった。
その後、現在に至るまで、匿名での発信に対する批判が跡を絶たないが、ネットが非モテたちの限られた居場所であり、いまもそうであるという歴史を忘れるべきではないだろう。
STEP.3と並行して、一般の人たちがネットに流入してきた。「逝ってよし」だの「半年ROMれ」だの「ggrks」だのという言葉は、何も知らずに2ちゃんねるに入り込んでフルボッコにされた素人たちの存在を証明するものだ。
中川さんの「ウェブはバカと暇人のもの」は、こういう現実に対応したもので、3年前に出版された梅田さんの「ウェブ進化論」が仮想敵となった。
中川さんは少年のころにアメリカで過ごし、人間という存在がいかにバカでありうるかということを目の当たりにした。
そして広告代理店で働いたり、ネットでウンコの投げ合いを見たりして、匿名のネット空間で露わになる人間のバカさ加減に呆れたのだと思う。
言い換えると、ここからはネットだのウェブだのは関係なく、リアルの世界のある要素がネットによって視覚化されたという段階になる。ウェブ以前に、人間はバカで暇人なのであって、ウェブはそれを可視化したに過ぎない。
現実の人間は、梅田さんがいうような利口で立派な人ではなく、いかにそう見えたとしても、一皮むけばエロや美人や芸能人に目がなく、匿名のネットメディアでそういうコンテンツがウケるのは当たり前――。そういう身も蓋もない現実をあらためて提示したわけである。
ここまでは、ネットにリアルが侵食してきたときに、匿名という要素が、もともとあった人間の愚かな面を可視化したという段階に過ぎなかった。
次に現れたのが、ウェブあるいはネットが、人間のバカと暇人を加速する段階である。
中川さんの本に「インフルエンサー」という言葉が出てきたかどうか忘れたけど(ブロガーという言葉は出てきたような気がする)、インフルエンサーがなぜ成り立つかというと、そこに集る「バカと暇人」たるザコあるいはハエが存在するからである。
インフルエンサーは、自分に魅力があるから人が集まり、影響力を行使していると勘違いしているが、あれば「バカと暇人」がたかっているだけなのである。
だから「インフルエンサー・マーケティング」とか言ってるけど、そこで捕まえることができるのはウンコに集るハエのみであって、ハエを顧客にするビジネスでしか成り立たない。
試しに見てみればいいが、インフルエンサーの投稿に「なるほどです」「そうですね」「さすが」などと応じている“囲い”たちは、すべからくバカだ。そういうハエどもに集られて喜んでいるインフルエンサーは、ウンコにすぎない。
もうひとつネットが加速したのは、エンタメとしての反権力である。
反権力は、もともと一大娯楽、エンタメではあった。朝日新聞が市場にしていたのも、反権力を生きがいとする人たちであって、新聞の内容も取材によって「問題の真のありか」を突き止めるジャーナリズムとは無縁のものだ。
反権力エンタメ市場は、ツイッターなどのSNSと非常に親和性が高い。中川さんはその点について「非常に意見が鋭いもの」「モラルを問うもの」という言い回しをしていたけど、ダイレクトに「正義」や「義憤」がエンタメになるとは指摘していなかった。
60~70年安保のころからそうだけど、反権力とか義憤をエンタメにするのは、バカと暇人だった。普通の人はそんなヒマもなく働いてるし、正義だけで世の中わたっていけるわけがないことを知っている。
まあ、主義とか理念とかを持ち出して、現実を問題化しなければ生きがいを感じられないというのも、ある種「バカと暇人」な人間の側面なのかもしれない。
ということで、他にもあるかもしれないが、きょうはこんなところにしておこう。
言いたいことは「ウェブはバカと暇人のもの」(タイトルは天才編集者・柿内芳文との共同制作なのだろうけど)には、中川さん以前~中川さん以後の歴史があり、これからも進化を続けていくのだということだ。
昔のオタクは「俺らは日陰者」「とにかく一般人に配慮」「おまいら自重しる」って感じだったよね?
今のオタクは「俺らはマイノリティ様」「とにかく俺らに配慮しろ」「自重しろ?表現の自由の侵害だ!ヘイトスピーチだ!」って感じになってない?
露悪さが増してきた気がする
インモラルな言動を公の場で発散することを厭わない狂ったオタクに毎日遭遇する
LOの漫画をTwitterで無断で公開した件とか特に笑えない
しかもLO側の理念に共感するフェミが苦言を呈したら「LGBTはいいのにロリコンはダメなのか!LGBTとロリコンの違いを言ってみろ!俺らを差別するな!」って反論してたのはドン引きしたよ
もはやどっちが表現の自由を守ってんのかわかんないよね
自分もオタクだけど、最近はオタクに後ろから撃たれることが多くなってきてしんどいよ
不況のせいなのかコロナのせいなのかSNSのエコーチェンバーで狂ってしまったのか
なんなんだろうね
模様替えできる人。これは課題を放置せず改善を試みたり、新しいものを取り入れたり、慣例でやってたことを見直したりできるセンスだと思う。
ゴミの分別、捨て方を守れる人。モラルもそうだけど、分別されたものがどう運ばれどう処理されるのか、回収日を守らないとどうなるのか。後を想像して本質的に守るべきラインを考える能力が大事。
そういう、人として信頼できる人が好きだ。
オッ 覚えててもらえて嬉しいよ。
うーん。私の書き方が悪かったのかも。
「女性を雑に扱うキャラクターが悪役として書かれる、そういう表現はフェミニズム的価値観による要請が形をとったものだと言える」というのは全くその通りで、そこに異論は無い。
そうじゃなくて、例えば、ブクマとか見てると、フェミニズム的価値観を使って表現を規制することに、フェミニズムと関係ない理由で同調を示す人間がいるわけじゃん。
そんな感じで、社会はフェミニズムの思想を実現できないことの危機よりも、「物語ばっかり読んで」る人間への危機感の方を強く覚えてると思うんだよね。
それを「親の叱り」と書いてしまったのは誤解を与えてしまったかもしれない。親でない人間でも同じで、元増田で言いたいのは「マンガばかり読んで!」の方。社会では、「物語ばっかり読んで」る人間への危機感が強いってことが言いたい。
そして、それを増田は「モラル」と書いたけれど、私は内面化された「モラル」というより、単に私欲に近い考え方だと感じる。
私欲の部分を強調するなら、社会の人々は「社会には無駄な物語なんか捨てて、私を含む社会のために働け!」くらいのことを危機感として感じてると思うんだよね。
だから、「フェミニズムは社会そのものとは無関係」という話ではなくて、社会の人々がフェミニズムとかの社会思想に、私欲のために乗っかってることが、表現のためにも、それ以上に、社会思想的にも批判すべきだと思うわけ。
まとめると、社会の人々が表現規制に賛成する目的は、表現規制で物語から読者を「行きて帰りし」させて、私を含む社会のためにこき使いたいだけってこと。
それらの書き込みにはたしかに中身がない。自分が正しいと思っている相手に向かって、ただおかしいとか阿呆とか寝言などと言っても、ナルホドそうなのかとはならない。なぜそう思うのか根拠を示す必要がある。そうして初めて説得力が生まれる。
二値論理でモデル化できる範囲の世界観なら、「真でないものはすべて偽」とはいえるだろうね。
「逆は真」で言いたいことは解りやすい。その種の論理の誤りに陥る人はたしかによくいる。でも論理学を最初に習うのは理系の大学一年だぜ。自閉症の症状とはいえないでしょう。抽象より日常的なものに例えられた方が理解がはやいって説もある。必要に応じて噛み砕いて説明するべきだ。
常識人にはモラルって形で言動を強制する機能がインストールされているから、お願いは実質的に命令として働く場合がある。それはそのとおり。しかし増田よ、そこまでわかってるなら「焼き殺せば済んだんだろうが…」がただの空想以上に酷い意味を持つことは当然理解してるよな? 焼き殺したいがその責任は取りたくない・世間様の圧力を使って脅したい・コミュニケーション障害は殺すに値する… その短い文章に、アンタの意気地が無いが意地の悪い小心が、残酷な支配欲が、命を軽く見る価値観が、多様性と連帯への無知が、同調圧力への屈服が、表れてしまっている…
インターネットに文章を書くことのリスクは、自分自身の人格の証拠が残ってしまうこと。それが筆者自身にフィードバックすることだ。俺はこういう奴なんだって認識したまさにそのとき、人は「そういう奴」になる。Be careful.