はてなキーワード: 調教とは
ファイトクラブを見た。いろいろ突き刺さる所がある映画だ。内容も、画も古臭さを感じさせない。
やはり暴力とセックスというものは、いつの時代においても色褪せないテーマなのだろう。
現代で北斗の拳を見た時のような、むしろ新しいものを感じる。しかし安易で陳腐になりがちなテーマでもあるが、
男の性という観点から見た、大量消費社会への批判という切り口で、単純な暴力とセックスの話で終わらない事に魅力がある。
「俺たちは広告を見せられて、欲しくないものを買い、買った物に奴隷にさせられる。外に出て闘え」
20年前の映画だ。正直、『大量消費社会への批判』という切り口は古くさすぎて陳腐でもある。
10年前の受験期の評論でよく見たテーマでもあるが(今でもそうか?)
今の時代は寧ろ、精神的なもののつながりを大切にする社会になってる感じはある。
若者は古着屋で服を買い、それぞれのオシャレを楽しみ、車やバイクなんて必要のないものは買わない。
キャンプを好み、自然を愛し、ゲームをするにしても人とのつながりを重視する。平和主義で、アニメやドラマ等の芸術を愛し、しかし引きこもらず、
現実にもしっかり還元する。見えるモノより、見えない人とのつながりや精神的成長を大切にする。批判されていたことを着実に解決した、さながら僧侶である。
正直言うと、この状態には裏がある。その理由は二つだ。一つ目は、よく言われる「若者は金を持っていない」という事。
現代の若者の多くは、中流階級に育てられている。金がないと言っても、実家に帰れば飯は食えるし、車も借りる事もできる。
先ほど僧侶と言ったがまさにそうだ。安定した生活基盤を持ちつつ、毎日平穏に生きる事が出来る。
大量消費社会真っただ中の世代は、実家に行っても車はないし、服も無い。兎に角欠乏していた世代だったので、大量消費をせざるを得なかった世代なのだ。
「若者は金を持ってなく」「親も持ってない」のがデフォルトだった。そこに付け込まれ、広告を見せられ、欲しくないものを買っていた。
「俺たちは広告を見せられて、欲しくないものを買い、買ったものの奴隷にさせられる」
これが正しいなら、現代はどうであろうか。幾分親の世代には失礼だし、恵まれているのに傲慢だとは思うが、「買ったものの奴隷にさせられている」のが今の世代だと思う。
親が金を持ち、子供はその手綱の中で夢を追いかけるよう調教されている。親の持つ車の行ける範囲で動き、親の買ってくれたスマホでソシャゲをし、インスタをみて、
広告欄の隅っこに表示される大して欲しくないものをamazonや楽天で買い、
スマホの中で夢を語る、大して面白くないyoutuberの動画を見て笑い、アプリを使って出会い結婚する。
世間に出回る映画は20,30年前の続編。ポリコレまみれの子供向けに進化して、大して面白くないのに以前買ったからという理由で、有難がって見る。
ネットで見た病名を精神科に買いに行き、医者に言われたように生きる。
権力者が語る夢は本物か。本当に自分が欲しいものは何なのか。目の前にあることが本当にやりたいことなのか。
まず注意いただきたい。
以上気をつけて欲しい。
そもそも推考をしていないただのゲロなので気分が悪くなったらそっとタブを閉じて欲しい。そこら辺は自衛してくれ。
みんな思ったでしょ。
いや別にだから悪いってことではないんだけど、安易に気持ちの問題で強くなるっていうのを連発しすぎじゃないか?(少年週刊誌のバトルものにありがちだが)
ちがうんだ、それは別にいいんだ、私も歳だしそういったことには慣れている。だが今回私が言及したいのはどうして心理描写が曖昧なまま強くなるんだ? 共感できない部分が多々あったということだ。
少し応援されたからと元気になったりしすぎだろうと、いい加減そんなゲームじゃないんだからと、せっかくのボンズ屈指のバトルシーンで映画に入り込んでいた自分が急に覚めてしまったりして非常に残念。
まあ、それもいいだろう。どうせファンタジーだ。
しかし、ヒロアカ原作に関してはファンタジーでも確かにそこにキャラクターたちが生きていて、それがリアルに、まるで自分がその世界で生きているような引力のような没入感が素敵であり、だからずぼらな私も1ファンとして単行本、アニメ、映画を欠かさず見ているのだろう。
キャラを大事にし、そのキャラの迷いやこういうこと考えていてこういうことに重きを置いていて、ストーリ進行時には蚊帳の外にいるときはちゃんと外でモブやってたりする、といったリアルな感じがいいのだ。
たぶんこれは、心理描写のために一時戦闘を中断させたりする、漫画ならではの表現なのかもしれない。映像はテンポだ。リズムが全てだ。わかる。わかるんだ。でもそこを上手に見せれなくてはヒロアカには、いったい何が残るんだ?
とまぁ、いろいろと「おや?」と思う点はあるものの、実際の脚本に文句はない。
個性譲渡、別に良い。そもそもデクもそんなこと言ってた(うろおぼえだが)
めっちゃドラゴンボール。すっごいドラゴンボール。髪の毛そんなとげとげにならんでもいいやん。いやいやそんな規模の攻撃受けてふつうそうじゃん、まじ鉄人じゃん。っていうのがほんと何度も出てくる。4日目のカレーの気分だ。「え、また?!」なのだ。
特になにが嫌って言うとだ、個性遺伝した後のバトルだ。爆轟がすぐフルカウルを使えることや100%っぽい力が使えたこともそれ全て含めてワンフォーオールの奇跡って言いたいのかい・・?それは、あまりに投げやりすぎないかい? ヒロアカって、”なんでも個性のせいにしてしまおう”っていうのがなくて、“個性を持ってるからこそこういう悩みがあってそれをどう解決して行こうか向き合う”みたいな葛藤と成長を描く作品なんじゃなかったのかな?
余談だが、私は海外のグロやバトルものの映画でよくある、音楽だけで効果音なしのバトルシーンが大嫌いだ。
馬鹿の一つ覚えと言うと言葉の悪さが際立ってしまうが、まあその表現方法はあまりに使い古されてしまった。
なのでラストバトルの音楽だけですごいバトルを見せられた時、冷めてしまった。映画館でやるんだ。もっと音響を意識して、音速を超えた一撃みたいな表現でも面白かったんじゃないかとか思う。 パッと思い返すのが映画 幼女戦記だが、常にバトルしてて、音があちこちから聴こえてきて自分もその場にいるという臨場感がほんとうに素晴らしい映画だった。
それを、こういってはなんだが1曲に全ての感情を背負わせるのは重荷すぎたのではないだろうか。
私は、そこで完全に映画からリアルの世界に戻ってきてしまった。
(ただこの映画に限っては、ボンズの全力のバトル映像のおかげでまだ見入ることができた。本当に動画がいい。ほんとコマ送りで見たい。ガンダムやAKIRAや攻殻機動隊なんかをよくコマ送りで見た口だ)
少し話が脱線したが、豚カツカレーマーボー天津飯みたいになってしまった可能性はあるか?
起承転結で、転結はかなりテンポよく進めるのがスタンダードだが、それにしても端折りすぎたように感じた。
見せ場のバトルはほんと多彩に入っていてこれはもう大満足で言うことなしなんだがちょくちょく強敵との対峙で勝てない描写をとことんやりたいが為にどうしてもワンパターンなキャラパワーアップに違和感を覚えてしまって、没入感の減少を感じた。
映画だけでなく、どんなアニメも、漫画も、ゲームも、小説も。 その世界に、私が存在できるかどうかでその作品を好きになるかどうかが決まる。
本作に関してはラストに行くにつれ、私はこの映画の世界と融合できなかった。非常に残念だ。
私は、今作でヒロアカ製作陣に何かお偉いさんからのお達しがあったのではないかとか深く勘繰ったりしたほど様変わりを感じた。
とにかく派手に、とにかく意外性を、とにかく話題性のあるものを! みたいな思いを感じてしまった。
もちろん商業作品なのでそういったことを意識して作るのは当たり前だし、別に反対もしない。だが作品を生かしてくれ。頼む。
ここら辺の違和感の解のようなものは、パンフレットを読んでいて考えたのだが、先生監督脚本の皆が口を揃えて「1作目を超えたかった」と言っていた。(1作目はほんとうに良かった。作品を通して”ヒロアカ”していたし、オールマイトの過去の描写や共闘も原作の延長として受け止めることができた)
大変受けた1作目の後の2作目、3作目と作っていく際にやはり重荷になったんだろうか
パンフレットの対談インタビューを読んで、堀越先生が原作ラストで使うネタ候補の一つ「ワンフォーオールの譲渡」を提供し、制作側もそれに飛びついたような発言がうかがえた(個人の感想だよ)
やっぱり人間が作っているんだなぁと実感したし、これからも応援を続けたい。
(なんだ急に媚びうるのか?)と思った皆様、違うんだ、聞いてくれ。
その作品の感想って好きなところ・嫌なところが入り乱れた上で成されるものじゃないか。
もう間違いないやつだ。ボンズファンにとっては言うことなしすぎて、逆にボンズ色強めな印象で、純粋なヒロアカファンは大丈夫か?とか思ったが、そもそもアニメも体育祭やらUSJやらワンフォーオール戦でアニメ視聴者は調教済みだった。
何度でも見れる。ほんとうによく動くし、戦闘の表現のパターンがすごい。これは良い。ほんとうに良い。
ちなみに私が一番好きなヒロアカアニメシーンは体育祭の轟vsデクの回だ。あの回を見た後そっと忘年のザムドを見に行った(私のボンズを意識して見た初めての作品だ。デビューはハガレンだ)
本作を見た後、一番印象に残ったのが雲やなんかの描写なんだが、すまない語彙力がなくて伝えられない。だがみんなの心にも残ってるでしょ?私は今すごくひそねとまそたんが見たい。映画に何度も行く余裕がないので、今作の空の映像を思い出すべくnetflixでひそねとまそたんを見たい
最高だ。原作やアニメでは活躍の少なくなりがちな1-Aのみんなが余すことなく活躍する。各々の連携や委員長の指示なんかも見れてほんとうに良い。
キャラへの愛がほんとうに感じられたし、この人たちはこういう動きをするのか、と私の記憶の中の1-Aの皆に命が宿ったようだった。
尾白くんはやっぱり弱い印象を持って残念だったが、いつもの8割マシで戦っていた。たぶん。 (私は尾白くんを推している)
青山くん、瀬呂くんなんかもしっっっかりと活躍をしていて、ファン大歓喜だ。次回は砂藤くんにも頑張ってもらいたい。
(この活躍というのがちゃんと戦っていて大変興奮もので、本作で印象深いバトルの一つだ。といっても本作は常に戦っているのでどこからどこまでを一戦と見るかは謎だが)
(無理やりな理由で少し違和感を覚えたが)大人を排除した上での各々のヒーロ像というものがしっかりと見て取れて本作はほんとうに原作の延長線にあるもののように感じた。
「君はヒーローになれる」
もう10年ぐらい会っていない友達を思い出した。
ちなみにお互い男、ちなみにお互いホモではない。
相手は自分をどう思っていたのか分からないけど、自分は彼が人間的にとても好きだった。
その友人とはもうずっと連絡を取っていない。
あんなに好きだったはずなのにいつの間にか疎遠になってしまった。
その頃仲の良かったグループは、最終的にはニートや就職浪人だらけになる本当にどうしようもない奴らの集合体だった。
ふと学校に来なくなり、溜まり場のゲーセンにも部室にも来なくなり、飲み会に呼んでも来なくなった。
2年ほどしてふと憑き物が落ちたように社会に戻り、それから5年ほどしてその頃の友人の1人にたまたま街で会った。
その際、あの頃のグループは半分ほどが連絡が取れなくなっていて、自分もその1人であり、彼もまたその連絡の取れない1人であると聞いた。
それから今日まで5年ほど、偶然合流した自分は残っていたメンバー同士の集まりに時折顔を出している。
5年経っても彼の足取りは掴めない。
年に一度ほど彼の名前でググってみるが、年齢の違う同姓同名の人物しか出てこない。
モテなくて冴えなくて何も特技もないくせに、お手軽に特別な人間であるかのように振る舞いたかった当時の自分たちにとって、エロゲはとても都合が良かった。
友情や愛や人生の素晴らしさを謳った物語を毎日読み進めておきながら、その感想と共に「リア充死ね」「現実はクソ」と語り合った。
あの頃の毎日は本当に酷かった。
だけど、自分の気持ちをわかってくれる人がいるという気持ちを人生で一番強く感じていた時間だった。
モテなくて当然のクズ人間のために作られた心も身体もオナニー出来る物語の存在は自分の心を救った。
「僕はここにいてもいいんだ」の心境である。
自分たちをターゲットにした商品の存在、それを楽しんでいる人間が日本中、ネット中にいることに救われた。
当時一緒にダベりあったくだらない仲間たちだ。
その中でも彼とは本当に馬があった。
馬があうからこそ、お互いに世の中が嫌いでひねくれていて人間嫌いを拗らせていたからこそ、お互いに相手を引き止めきることが出来ないまま離れ離れになったのかも知れない。
彼は姉が好きで、自分は妹が好きだった。
彼はスレンダー系の後輩キャラが好きで、自分はロリ教師が好きだった。
彼はダダ甘の恋愛やストレートな陵辱を好み、自分はSF要素の強い作品と最終的にラブラブになる調教を好んだ。
それでも名作と言われるような作品群に関してはお互いに高い評価を出した。
何だかんだ自分達の頭では評価なんて出来てなくて、互いがよく行く評価サイトの言葉を鵜呑みにしていただけなのかも知れない。
エロゲソングの趣味も若干噛み合わなかったが、それでもやはり名曲や神曲の類はお互いに素晴らしいと認めては口ずさんでいた。
今思うととんでもない迷惑行為だ。
その頃歌っていた曲を久しぶりに聞いた。
少しずつエロゲに興味を失いエロゲソングも聞かなくなっていた為数年ぶりにその曲を聞いた事になる。
曲の歌詞が染み込んできた。
エロゲやキモヲタの集まりの中に篭っていた頃は響かなかった歌詞までが流れ込んできた。
遠くにいる誰かを思う詞、会えなくなった人を待つ詞、あの頃より強くなれた自分での再開を信じる詞、同じ気持ちでいることを願う詞、そういった歌詞を聞きながら今までの人生で色んな人に支えられてきた事が蘇っていった。
その思い出の中に彼はいた。
彼は今どこで何をしているのだろうか。
未だにネットやゲームでダラダラと暇をつぶしている自分と違って脱オタしてちゃんと家庭を持ったのだろうか、今でもニートをしているのだろうか、それとももうこの世界にいないのだろうか、自分とまた会いたいと思っているのだろうか、人生の汚点として二度と顔を合わせたくないと思っているのだろうか。
「今この瞬間、彼も自分と同じように、あの頃好きだったエロゲソングを聞いて、懐かしさを覚えていたりするんじゃないんだろうか」
そう思うと涙が出てきた。
『もしかしたら、そんな事になっている可能性も0ではない』という事が本当に嬉しかった。
自分と同じ気持ちを抱えて生きている誰かがこの世界のどこかにいるかも知れないというだけの事に、こんなにも心が震えるのかと自分でも驚いている。
そして、彼がそうであるのかも知れないのなら、どこかにいる自分とまだ出会っていない自分達と同じような人間が同じことをしている可能性もあって、この世界に60億も人間が居るのなら、自分と同じような生き方をしている人間もそれなりにいるのではないかと思うと、自分がここにいる事が何かの間違いなんかではなかったと信じられるような気がする。
彼は今どこで何をしているのだろうか、幸せに生きているならそれでいい。
ブラック企業で働いているとしても、彼が生きているならそれでいい。
たとえ死んでいても、彼がそれを望みその願いがかなったのならそれでいい。
たとえ事故で死んだとしても、彼がこのクソみたいな世界から抜け出して天国で楽しくやっているならそれでいい。
もしも彼が今でもニートをやっているとしても、それは俺たちの人生において普通にありうる可能性なんだからそれでいい。
もしも彼が今でもエロゲをやっているのならそれは素晴らしいことだ。
もしも彼が今でもエロゲソングを楽しく聞いているのならそれは嬉しいことだ。
まずワイ増田は社会人経験が浅くいやほぼゼロあり学生時代にコンビニバイトだけやってその後ゲイバーで淫夢なホモガキの世話だけやって普通の会社勤めに出た程度である。
そんな程度の浅い学生さんの知識ですまんが経験て役立つのか?と思う。
分かりやすく例えれば「俺はスローロリスの飼育経験が3年もある!」と自信を付けても「あいつたらウチの会社でリス猿の飼育一番下手だよな」とリストラ対処になるかもしれない。
またやわい例を挙げれば、事業でヒゲ熊の調教をやっているベンチャー企業で
・クマ事業立ち上げの古参組が全員退職→10年も地固めしてきた俺の時代だ!→だがヒゲグマ新型の新人にボコボコにされて俺が会社を出て行くトホホ…
あのポスターも、「もっと先輩(献血者)を蔑むような目つきで」書かれていたはずが、リテイクで書き直され、嘲笑う程度の目つきになったんでしょう。
普通の場所に掲示するのを考えて、あえて普通の表情にしたのが間違いでしたね。
可能ならばもっと上から見下ろすような構図で、踏まれている先輩に対して汚物を見るような表情で、少年誌なので鞭とか蝋燭は不可でも、△定規とか丁定規とか黒板消しとか上履きとか靴下とか……
セリフとしては「さあ、今すぐお前の汚らしいマゾブタの血を献血しなさい、ブタッ!、犬っ!」「ブヒーブヒー」「キャインキャイン」なども必要ですね。
献血センターでは、「さあお飲み、わたくしの黄金水(ドクター秩父山)」ならケロタンが獣貫路通ってトラックで買い付けに来て、秋葉原でやってたみたいに、女性の等身大ポスターの股間からレモンジュースが出て、検尿コップで飲める上級者なら、献血コーナーに行列ができて「ただいま1時間待ち」プレイでも、よく調教されたM奴隷なら放置プレイも楽々こなせたでしょう。
ちなみに私の友人は40歳超えのお局様と結婚して、毎朝ご主人様のために朝食をご用意して、買い物や炊事洗濯掃除もしてご奉仕しています。
私がご自宅にお邪魔した時は、お使いを命じられていたレシートを一瞥して、特売100円のパンを買うはずが、山高の138円のパンを買ってしまったのを詰られ、公開プレイとして、ご主人様は椅子に座って背もたれ握って詰問。下僕と私は床板に正座したまま説教を拝聴しておりました。
少年漫画の風呂覗き回、またそれに類する表現への「あれは女性差別だ」「差別じゃない」「二次元と三次元の区別をつけろ」みたいな話題についての記事です。
筆者は「危険性は高いのですくなくとも安易には描くべきでない」という立場ですのでご注意ください。
例え話をします。
漫画で、修学旅行の夜とか部活の新入生歓迎会とかで、「よーしそれじゃあ全員で万引きにしいくか!」っていうお約束回があるとするじゃないですか。
「誰がいちばん高いもの/大きいもの/センスのよいものを盗んでくるか」っていうところでゲーム性もあるし、
どういうチョイスをするかでそれぞれのキャラクターの個性も出せますし、
なによりこう全員で同じスリルを味わい秘密を共有するということで、集団としての団結も高まりそうで、悪くないとおもうんですよね。素人考えですけど。
実在の小売店業者のひとから「そういう展開は配慮してくれ」という意見がでたとして、
「嫌なら読まなければいい」が回答として成立していないことは判りますよね?
小売店業者のひとは「こどもたちが影響を受けかねない」ことを懸念しているのであって、一読者としての快不快の問題ではまったくないので。
「こどもが漫画をそこまで鵜呑みにするはずがないだろう」とか、
「こどもが影響を受けることはあるかもしれないがそれは表現者が負うべき責任ではない」とかなら回答としてわかります。
それで、
「万引き回も風呂覗き回もどちらもジャンプで描かれるべきでない」の、この二者の主張なら首尾一貫してて理解できるんですが、
「万引き回は駄目だが風呂覗き回は許されるべきだ」っていう意見は個人的にはちょっとよくわからないんですよね。それってどういう線引きなんでしょう?
性犯罪軽視の価値観を交えずに説明するの、すごく難しいんじゃないかとおもうんですが。
「いや、風呂覗きをしたキャラはきちんと殴られたりして制裁を受けている。犯罪を推奨するのではなくむしろ戒める内容だ」っていうひとは、
小売業者さんに「いや、このキャラは殴られている。警察沙汰にも出禁にもなっていないが、決して犯罪を推奨してはいない」って反論して納得してもらえるか考えてみてください。
わたしは無理だとおもいます。たんこぶ出来たって3コマもあれば消えますもん。
というかジャンプの現役読者なら、こういう風呂覗き的な表現が事実がんがん淘汰されつつあること、みんなわかっているのでは……?
ハンター、ハイキュー、鬼滅、ネバーランド、アクタージュ、呪術あたりは絶対やらない作風、
逆に明らかにやりそうな作風っていうとワンピースとサムライ8くらい?
チェンソーマンは微妙なところですけど、あの漫画はものすごく懇切丁寧に筆を尽くして「この漫画のキャラクターの倫理観は最悪です!!!」って描写してるし、
もし風呂覗き回をやったとしても批判されるような描き方にはならなそうな気はします。
風呂覗きを娯楽として描くからこどもへの悪影響を心配されるのであって、きちんと倫理観最悪なものとして描かれるならそういう心配はされないはずなんですよね。
「ゼルダの伝説 夢をみる島」で泥棒をすると以後ずっと「どろぼー」って呼ばれるのとだいたいおなじ感じ。
またマキマさんは何回も繰り返し「キスやおっぱいそのものがエロいんじゃなくて文脈や気持ちが伴ってこそのエロさですよ」っていうことをデンジに調教してくれてるので、
そこを理解しないと分かりあうことは出来ない。
あなたが上司に対して「コイツ全体のことなんて何も考えてないんだろうな」と不満を持つ時、上司は上司なりに今手元に揃った材料を元に何かしらは考えている。
部下も、同僚も、取引先も、それぞれがそれぞれの経験や得られる情報を元に様々な判断を行った結果を出力している。
それに対して「何も考えずに適当にコレを出してきただろ」と考えてしまうのはよくない。これは自分の精神衛生上の問題だ。
ましてや態度に出すのは最悪と言える。これは社会通念上の問題であり、それもかなり多くの分野において厄介な問題を無数に巻き込んでしまうたぐいのものだ。
人間は考える葦であると言ったのが誰だったか、生きるだけで精一杯でそんなことすら思い出せなくなってきたが、その中で少しだけ分かってきたことがある。
人間という生き物はよほど肉体的な条件反射、無条件反射を他としては、考えることなしに出力を弾き出すことは不可能に近いのだ。
皆何かを考えている。それぞれが必死になって。
もしもそれで導かれた答えが考えなしのソレとしか見えない時、足りないのは彼ら彼女らの考える力や意思ではなく、時間や情報の方であることを真っ先に思いつくようにしなければいけない。