はてなキーワード: 設備とは
輸入に頼っているからこそ、政府の緊縮で基礎萌芽研究投資をせず、不景気とフリーハンドの法人税減税で設備研究投資をしない連中のせいで輸入由来のハイパーインフレになるんだが。
マスクの問題こそ、助成金出しまくっての増産により対処しただろ。つまり供給破損には減っている供給を補うことで対策するべきなんだよ。
そして、輸入由来のハイパーインフレ防止は、日本の産業を強くすること。それには政府の基礎萌芽研究投資と、企業の設備研究投資が必要。
政府の緊縮で不景気を温存するのと、企業が貯め込みまくり設備研究投資をしないことの放置のほうが輸入由来のハイパーインフレを起こす。
輸入由来のハイパーインフレ防止に必要なのは、企業が資金調達して設備研究投資をして、政府が基礎萌芽研究投資をして、産業強化して海外に売れるものを作り続けること。
企業が金を貯め込むことの放置と、政府の緊縮を狙う新自由主義が故に輸入由来のハイパーインフレは起きる。現に日本は時々貿易赤字を出すぐらいまで産業が劣化してしまった。
むしろ今みたいな企業が金をため込んで設備研究投資をせず、挙句の果てに政府が緊縮して基礎萌芽研究投資をしない行く末に輸入という供給がなくなって起きるな。
資金の需要(資金調達しての支出、資金不足)と供給(貯蓄、資金余剰)は等しいから、家計、企業が資金余剰で政府が中立なんてものはありえないにも関わらず。
日本も中国の核攻撃を例外なく受け、列島に多くのクレーターが点在するようになった
そんな焼け野原の中、人々は第二次大戦後と同様の、驚異的復興ぉ〜、からのぉ〜、高度経済成長ぉ〜、の再来を夢見た
しかし、復興は遅々として進まず、多くの日本人は日がなギャンブルに溺れるような、喧騒と狂乱の日々を送るようになる
そんな日本人のため中国政府はライフ・サイエンスで馬と女性を遺伝子レベルでかけ合わせた「ウマ娘」を発明、
日本人の多くは働かず、また働き口さえもないため、中国が公認したウマ娘の公営競馬に殺到した
このウマ娘による競馬によって莫大な金が中国共産党政府にもたらされた
そして、木星への無人航行、無人探査を目的とした新しいロケットが開発された
地球の重力を脱するために使用されたブースターは、降下する段階で制御不能という事態に陥った
中国政府は、ブースターはどうせ海に落ちる、地球は水の惑星、ほとんどは海だからね、
モンテカルロ法で海の面積を求めるようなものだよ、と楽観的であったが、
大気圏に突入しバラバラになったブースターの一部は日本のウマ娘による競馬場の一つに落下し、その競馬場は一瞬で消失した
しかし、日本人はそれに抗議することもなく、署名活動なんて無駄だよね、だって日本はもう民主主義ではないんだし、
と刹那で悲観的になっており、それよりも消失したウマ娘に賭けた金を悔いている始末であった
また、ウマ娘のドーピングは正式に認められており、薬物の過剰摂取などによって試合中に突然死するウマ娘も相次いでいたが、
これもまた動物虐待といった抗議デモさえもなく、やはり日本の大衆は掛け金を気にするだけであった
2020年に猛威を振るいパンデミックをもたらした新型コロナとよく似たウィルスがまたしても登場した
しかし、このシン・コロナ、シンコロと名付けられたウィルスは2020年の新型コロナウィルスとはまったく異なる性質のものであった
なんとシンコロウィルスはウマ娘の知能水準を著しく上げる作用があったのである
そして、まるでそれと対称的であるかのように、人類の知能を著しく下げる効果もあったのである
すべての競馬場でウマ娘による一斉蜂起、反乱が起こり、これ以降、ウマ娘は檻の外に、人類は檻の中に入ることになる
これは中国大陸でも、世界中どこでも例外はなく、中国の国民も日本から侵入したウマ娘たちによってみな動物用の檻に入れられ、
しかし、ウマ娘は女性しか存在しないことに子孫繁栄の危機感を抱いており、彼女らは中国のライフ・サイエンス施設を占拠、
すでにある既存の設備を最大限に活用しウマと男性のキメラ、ウマ息子を発明した
西暦2100年近くになると、すでに地球はウマ人間によって完全に支配されるようになっていた
2050年まで地球の主導権を握っていた人類は、いまや動物園の檻の中である
アフターマンとして地球上に君臨したのはウマ人間(ウマ娘、ウマ息子)であった
ああ、イランね。イランの例を出されたら局面によってはJGPを重視するというのはわかる。
イランは経済制裁で通貨安と輸入困難からのインフレが発生している。たしかに供給由来インフレの局面ではフィリップス曲線は成り立たないから直接雇用に働きかけるJGPのほうがいいね。
だけど、輸入困難のほうが悪いからイランについては核査察を受け入れて輸入困難をやめろという方が正しいと思う。
フィリップス曲線が成り立たない状態にあるときはJGPを使ったほうがいいし、供給不足を抑える制作も併用しなくてはならない。
その他産業劣化からの輸入困難インフレであれば生産力増強の基礎萌芽研究投資、設備研究投資があると思う。これは明治維新時の日本なんかそうだと思う。
だけど経常黒字を出していてとくに供給力に問題ないがデフレってときは、金融、財政、税制で金の量と金の動き両方上げることが必要だ。
僕は新自由主義は金の量に偏重しすぎているため、財政出動や、使ったら減税、貯め込んだら増税のような金の動きを上げる政策もすべきだと思う。
特に政府の緊縮による基礎萌芽研究崩壊、企業の緊縮による設備研究投資をしていないことは、産業劣化を招いての貿易赤字化と経常赤字化を招く。
お前にとっての障害者手帳ってなんなんだ?
障害者手帳ってのは障害者の自立と社会参加の促進を図るための支援策のパッケージの受給証だぞ。
そんでバリアフリー法は「高齢者、障害者等の自立した日常生活及び社会生活を確保すること」を目的として、特に鉄道事業法による鉄道事業者等の公共交通機関に、一般の国民・企業以上に高い義務を課す法律だ。
そしてバリアフリー法は公共交通機関に対し、「公共交通機関を利用して移動するために必要となる乗降についての介助、旅客施設における誘導その他の支援」なんかも行うことを要求している。
お前は「バリアフリー=建物設備」だと考えているようだが、そもそもバリアフリーってのは自立と社会参加の促進を図るための支援全般を指すものなんだから、そのパッケージの一つである障害者手帳はバリアフリー施策の中核だぞ。
違うよ。日本だけバブル崩壊として大規模経済危機が一足先に来たから。
だけど、追って欧米もリーマンショックが起きて、その後の停滞が起きてる。
大規模経済危機を迎えると企業が保身に入り金を貯め込み設備研究投資をしなくなるというどうしようもない特性がある。
新自由主義はさらにそこに金がどう動くかを考えず、金を貯め込む企業や富裕層をバカバカ減税してさらに景気を落とす。消費税のような景気を落とす税金を増やす。
今年もコロナ影響で外出しにくい。もうリモートワークも1年以上やってると自宅の業務環境を
「もうちょっとこうしたいな」がムクムクとでてくるわけです。当方IT系企画職、おっさん、管理職。
去年は会社支給のMBP13に自宅の24インチモニタに接続してたけど設置位置の問題からか非常に使いにくい。
自宅環境は
・24インチ2枚デュアルディスプレイ、Dellの古いやつ
・メインmac mini2018/サブmac mini2011/サブ2win自作PC
・マウスはMX Master複数台愛用、キーボードはメカニカルでショートサイズのやつ。4枚ある。
なんだけど、職場環境を快適に、ということで以下の設備を追加した。
もちろん自腹ね。
・上記に加えて、27インチ2Kモニタ追加(EIZOいいぞ!)
・10インチサブモニタ追加、Slack専用、以前は出張多かったのでモバイルモニタ買った。
・イトーキの椅子追加(10万位した、もう清水の舞台からダイブ)
・iMac27インチ追加、会社で使ってない端末を奪ってきた。もちろん会社の承認もらって。
これらをセットアップしたら、業務は5K+2Kモニタですいすい、手元のSlack用モニタでメンション来たら気づく。
テーブルをL字配置にしてるので、プライベート(株とか動画、音楽)はそのまま使える。
もうめっちゃ快適。ただし、目に入る情報量が圧倒的に増えたので首の移動が増えたのと、ワーカホリック感が
https://anond.hatelabo.jp/20210428022710
気味の悪い機械式駐車場を修理されたお話ですが、自分も覚えがあります。
たぶん、フェイクを混ぜて書いておられるのかなと思うので、自分もそれなりに配慮して書きます。
ずいぶん昔の話になりますが、自分の田舎には、田んぼの真ん中に森がありました。
森というと大きく聞こえますが、藪というか、とにかく田んぼの真ん中に大木と複数の木が生えていて、レンガ造りの小さな建物がありました。
それが、自分が大学に進学してしばらくぶりに帰った時には、まず森の部分が無くなっており、レンガの建物だけになっていて驚いた記憶があります。
結構な広さの田んぼの真ん中に、田んぼと田んぼの間にある空間に、レンガの倉庫のような小さな建物だけ残っている。
東北に限らないと思いますが、田舎の建物は手入れをしていないとあっという間に朽ちて廃墟になります。
その建物は何に使っているかわからないのに、いわゆる廃墟や朽ちた感じがなく、誰かが手入れしているのだろうなと思っていました。
田舎は、小さなお社でも手入れをしている近所の人が居たりすると、わりと綺麗だったりします。
線香が挙げてある、蠟燭がついている、石像に前掛けが付けてある。
そういう、誰かの世話がなされている建物や石碑なんかは、それとわかるものです。そのレンガの建物もそうでした。
自分が社会人になった最初の年、そのレンガの建物に、ブルーシートではない、工事用の布のようなものが、鉄管で組まれた足場にかけられていました。
ああ、やっぱり誰かが手入れをしていたのだな、業者を入れて屋根の吹き替えでもするのだろうかと思って見ていたその時、大きな布がめくれて中が見えました。
かなり混乱したのを覚えています。
自分が都会で見たことがある機械式駐車場は、少なくとも5~6台は並んでいて、大きなマンションに併設されていました。
機械式の駐車設備が、1台だけ。上に1台、下に1台が入るようなもの。
この間まで小さいとはいえレンガの建物があったところに、駐車場。
田んぼの真ん中です。軽トラを止めたいならその辺に止めれば良い空間に機械式駐車場。
あまりにも気になったので父に聞いてみたところ、「あそこは昔、焼き場だった。うちの範囲じゃない」とだけ。それ以上は聞けない雰囲気でした。
たしかにおぼろげな記憶をもとに思い出すと、煙突がついていたような気もします。でも、あんなところに焼き場、いわゆる火葬場があるでしょうか。
しかも結構小さい建物だったのです。レンガ造りで、扉が正面に一枚、横には窓があり、反対側は森に遮られていて見えない。
サイズ感的には、いわゆるプレハブ倉庫と同じか、少し大きいくらいです。
その後、その工事が終わった後には、車庫のような建物が立っていて、より奇妙に思ったのを覚えています。
でも、近所の人が誰も話題にも出さず、そこに行く用事もなく、なんとなく近寄りがたい雰囲気もあり、そのまま忘れていました。
ちょうど10年位前だと思います。
田舎に帰省したおり、ちょっと見てほしいものがあるから行ってきてくれないかと父に言われて、ある家を訪ねるように言われました。
その時、飯は家で食うから、晩飯に誘われても断るようにと、念を押されたのを覚えています。
たぶん昔は農家だったんだろうな、というお屋敷でした。伝わるでしょうか。現役の機械はないけれども、家の作りが農家の家。
訪ねると、そこのご主人、たぶん70ぐらいだと思うんですが、いわゆる元気なお爺さんという感じの方に、機械を見てほしいと言われたんです。
要は、具合が悪くなった機械があるから見てほしい、自分がやっていたが、ちょっと歳で重いものを持ったりが出来ないから、と。
その時、お茶をそのご主人が直接持ってこられたのが印象に残っています。
田舎なので、お茶とお茶菓子をそこの奥さんが持ってこられるのが普通の地域だったからです。
ご夫婦二人で住まわれているということも、確か話を聞いたように思います。
その見てほしいと言われた機械が、あのレンガの建物のあった場所に立つ、機械式駐車場でした。
まあ、本当は法律に引っかかったりするんでしょうけれども、田舎ではよくあるように、昔ながらのガラスに入ったヒューズを外して、電源を落としたうえで、ふたを開けて中を覗いてみました。
この手のものは、おおむね接触不良や断線、部品が振動で外れた、みたいなものであることがほとんどです。
それを超えたら業者を呼んで治すか、交換するか、です。修理している間中、ぴったりとご主人がこちらの様子をうかがっていたのを今も覚えています。
自分が見た限りでは、いわゆる鉄工所のようなところが作ったような機械で、メーカー品のようなロゴがあるわけでもなく、スイッチも田舎のホームセンターなら買えるようなものでした。
自分の田舎では、別にそう珍しいことでもありません。農家がちょっと工夫して追加の機械を入れるけど、あの家とあの家にしかない、みたいなのは割と普通です。
その時も、接触不良になっていそうなケーブルがいくつかあったので、一回ニッパーで切って、繋ぎなおして、終わり。
念のために機械部分もバラシて油でも差すかと思っていたら、そっちは良いと止められました。
ご主人が電源を入れて、半分ぐらい下がるのを確認したら、急にストップさせて上に戻していました。
ちゃんと最後まで下げないのですか?と聞いたときに、慌てた様子で危ないから外に出ていなさいと追い出され、機械を見させておいて危ないもないもんだと思ったのを覚えています。
あんなに不思議で気になっていた機械式駐車場を間近に見る機会だったのに、印象が薄いのは、ご主人に張り付かれていてちょっと居心地が悪かったことと、
そのあと、執拗に夕食に誘われたからです。その印象が強すぎて、駐車場に何かあったか、今一つ思い出せません。
最初は、世話になったから夕食を食べていきなさい、くらいだったのが、妻が準備して待っているから、せっかくだし、と何故か執拗に誘われたのです。
あまりに誘うので、一言断って家に電話をしたところ、えらい剣幕ですぐに帰ってこいと言われ驚きました。
申し訳ないけれども家に急用があるようなので帰ると伝えると、またあとで夕食を食べに来ないかと言われ、耳を疑ったのを覚えています。
なんとなく胡麻化しながら家に帰ったところ、何をした、何を食べたと聞かれて、ずいぶん変なことを聞くものだ、そもそも晩飯もまだではないかと腹が立ったのを覚えています。
正確に言えば、覚えていないのです。
下げた時に側面に何か描いてあったかどうか、そもそもそんなものを目にしたかも覚えていません。
いまになって思い返すと、あの家には綺麗な三輪車があったような気がしています。
そういえば、客間に通される前にも、アンパンマンか何かの子供向けの玩具があったような気もするのです。
孫のためのものを置いている家は多く、それほど不自然でないので意識していなかったのです。
ですが、青年団のような集まりやお盆のお祭りなどで、そういえばあの家の名前を見た記憶がなく、そもそも息子や娘、孫がいるかもわかりません。
自分に頼んできた経緯もいまいち謎です。よく考えたら別にお駄賃などももらっておらず、自分はただ働きです。
https://topisyu.hatenablog.com/entry/2021/04/28/073000
さんざん学校見学、説明会、文化祭連れてったけど、うちの子はダメだったな。
①晴れた日に、②子どもの趣味・特技に強い学校の説明会・文化祭に連れてったよ?
でも彼の趣味は学校外でやることだし、自分のペースでやりたいから、学校内でみんなとやる意味を見出せないようだった。
地元公立中のボロ校舎にも入ったことあるけど、私立のきれいな校舎とか設備とかどうでもいいって感じだった。
クラスメイトと違う中学行きたいって動機で始めたけど、学年上がってクラス替えあってそんな気もなくなったみたい。
だから受験させるの諦めた。私が。「憧れの志望校」もないのにハードな勉強乗りきれんわ。
6年進学時に意向を確認したら、趣味止める気ないし、止めてまで勉強したくないっていうし。
今受験しなくても高校受験あるし、あんたは公立で内申取るの大変そうだけど覚悟あんの?って聞いたけど、まあピンとこないわね。
夫も私も私立一貫校出身で、一貫校の良さ有利さは身にしみて実感してるから、まあホント諦めきれんとこあったけど仕方ない。
今はとりあえず楽しそうに公立通ってるが、どうなることかねー。
我が家は常に家の中が散らかっているので、外部の人を家に上げることについてとてもハードルが高い。
そうは言っても集合住宅なので、定期的な防災設備の点検や排水管の清掃など外部の人が家内に立ち入る機会が、年に数回はある。
そのたびに妻が目を三角にして私と娘に高圧的な清掃の号令をかけて、大騒動になるのだが、こういったイベントを我が家では「黒船が来る」と呼んでいる。
これも結構前の話になる。
「そういえばあの時、どんな気持ちだったっけ?」と思い返す機会があったので、折角なので文字に書き残しておきたい。
そうすれば胸に落ちるものも、もしかしたらだけど多少はあるんじゃないのかな?って感じで。
内容が内容なので、少し長くなるかもしれないけど、お暇な方がいらっしゃいましたら読んでやってください。
あんまり仔細に年月日を狭めすぎるとアレなので、時期は今から7年ほど前。
ちょうど今のような、若干寒さも落ち着いてきたかな?ってぐらいの春頃のお話だと思って下さい。
兄の方がとても優秀だったんで、随分と見劣りはするけれど、俺の通っていた高校のレベルからすれば「まあ頑張ったんじゃないの?」程度の大学へと入学。
その筋のマニアには結構有名な、二郎インスパイアの名店が近くにある登り坂の長い大学ですね。
あれは本当に数少ない良い思い出です。メチャメチャ美味かったな。店狭いし、オッサン怖いし、汚いけど。
オススメは小ラーメン・麺少なめ・ニンニクマシ・アブラマシマシです。
しかし高校まではチャリ通で10分だったところが、電車を乗り継いで1時間半になったのは本当によくなかった。
職場と学校は、絶対に自宅から近い場所を選びましょう。近い場所にないのなら、あなたが引っ越してしまいましょう。(経験則)
そんなこんなで深夜までゲームやらアニメにうつつを抜かしては、中途半端な時間に目覚めて、一限は余裕でアウト。
気付いた母親に叩き起こされて、仕方なく起床。もそもそと着替えて、遅刻前提の移動。
それで素直に大学まで向かえばいいものを、「途中で行くのも面倒くせえな」と地元のカラオケで朝割フリータイムしてたり、本屋で立ち読みしてたり。
入学当初からそんなんだから、とにかく授業内容は良く分からないし、眠くて眠くて仕方なかった。
何よりも人見知りだったもんで、良くも悪くも自由な大学形式の授業とサークル活動に、いまいち馴染めずにいた。
大学は少中高と違って、能動的に働きかけないと友達はできないもんなんです。あの頃の俺に教えてやりたい。本当に。
夢見ていた大学生活は、俺にとってはただの眠気との闘いに成り代わっていたのである……。
そんなんで仲の良い友達も全然いないもんだから、授業サボりまくって、図書施設のビデオ設備で「ロード・オブ・ザ・リング」とか「戦場のピアニスト」とか見てたな。
いや、完全に余談でした。すみません。
とにかく、こんなカスの具現化みたいな大学生活を送らないよう、新入生の皆さんは頑張ってください。
話を戻します。
俺が小学校に上がるぐらいの前に、うちの母親は一度離婚している。だから俺は種親の顔をほとんど覚えていない。
「自分はママとパパと話すけど、ふたりは全然しゃべらないなぁ」とか「やたらと関西の実家に行ったり、親戚の子がうちに来るのはなんでだろ?」とか。
そんなことを子供ながらに思ってたんだけど、今思い返せばそういうことだったんだと。
そんなこんなで気付いたら第一の父親が消えて、俺が小学校二年生ぐらいの時に、新しい父親が来た。
そりゃ向こうも腹を据えて、血の通ってない兄弟二人を抱えるわけだから、多少の上っ面は確保してくるには違いないんだけど。
一緒にお風呂に入れてもらったことが嬉しかったのを覚えてる。そんな第二のお父さんの背中には、ご立派な龍のモンモンが彫られていたけど。
仮初でも、その人は優しくて良い人で、色んな場所に連れていってくれたりした。なんかホテルが多かったな。海ほたるとかもよく連れていってもらった。
多分これまでの人生25年、その人が来てからの数年が一番幸せだったんじゃないかな?
中学に上がる前ぐらいの、それぐらいの間。ホントに幸せだったと思う。ボンボンもボンボンで、当時Xbox360でCOD4のネット対戦してたの俺だけちゃうかレベルで。
俺も兄貴も母親も父親も、心から「家族」を感じてた最後の瞬間だったと思う。
で、俺が中学に上がった頃に、第二の父親が手掛けていた事業が一気に傾いてしまったと。
これは直接見たわけでもなんでもないけど、父親の元同僚の方に聞いた話なんで、間違いないことだと思います。
そっからの酒乱っぷりたるや本当に凄くて、中学生ぐらいになると俺も兄貴も(特に俺は)夜更かしをするようになってるから、
ベロンベロンの状態で帰ってきた泥酔親父に、子供相手に何を言い出すねんみたいな絡み方をされだして。
うわぁ、イヤやな……って、毎日夜になる度に鬱になってたのを思い返します。寝てたら寝てたで起こしにくるし。逃げようないやん。
この一言が本当に忘れられなかった。シグルイのあの人ばりに、(この傷は二度と戻らんな)と泣きながら感じたのを覚えてます。
しかもこれ確か、母親の目の前だった気がするんですよ。なんか二人で揉めてて、俺が仲裁に入るじゃないけど、間に入ろうとしたらこうなったみたいな。
酔うと貯め込んだ本質が出るタイプの人っているじゃないですか。つまりはそういうことだったんだな、と。
それ以降、父親と心を通わすことは一切なくなった。もちろん話したりってことはあるけど、他人みたいなことで。
そんなこんなで、それでも気付いたら中学生になって、高校生になって。
第二の父親は家からはいなくなって、お金だけを入れながら、たまに連絡を取るぐらいの関係になって。
小中校まではすごい楽しかったんですよ。面白い友達もいたし。なんで急に大学でダメになったのか、不思議だなぁ。
母子家庭であんまり余裕のある生活じゃないけど、塾にも行かせてもらって、奨学金も出る。
大学にも行けるんだと思えば、ちょっとぐらいの家庭内のゴチャゴチャがあるぐらいで不幸ぶんなよ、俺よりひどいやつなんて山ほどおるぞと自分で自分を戒めたりもして。
そして母親の様子がおかしくなりだしたのは、このあたりだったと思います。ちょうど俺が大学受験を終えたぐらいの時分。
深夜、お腹すいたなーと思ってリビングに行くと、母親がワインと大き目なビニール袋みたいなんを用意してて、一人で黙々と飲んでて。
で、ちょっとなんか変な感じがして、母親の目から。据わってるって言えばいいのかな。とにかく、明らかに普通じゃないけど、普通を装うとしているのが伝わってくるような、そんな感じで。
無言でいるのも変なので、「なにこれワイン?家での飲んでるの珍しいね、いいやつなの?」みたいなことを訊いた覚えがあります。
うちは父親の件もあったので、母親とはすごく仲良しだったから。
思い返せば、極度のマザコンだったんだと思います。特に兄貴が遠方の大学にいってからは、実家には俺と母親の二人だけだったから。
とにかく変な雰囲気だったから、「お酒家で飲むの初めて見たかも!俺もひとくちもらおっかなぁ」みたいな、おどけてなんとかしようみたいなムーブをした記憶があります。
「いいよいいよ。飲んでみな」と、母親が余裕で許可をくれたことも結構意外でした。酔ってたのかな?分かんないけど。
ド深夜、テーブルライトだけつけたリビングの机、ワイングラス、謎の大きなビニール袋。
なんかすげえヤバイことになってんのかな?と。
なんでだろう、このあたりから薄々感じ取り始めたというか、そんな気がしました。今までにこんなことなかったよな?って。
そして寝て起きたら、横に母親がへたりこんでるんです。体育座りを右斜めに崩したみたいな恰好で。
俺は一瞬、本気で死んでると思った。でも慌てて抱き付いたら、ちゃんと体温も呼吸もしてたので、本気で安心したのを覚えてます。
えっえっ?ってなって、どうしたん?って聞いたら「いや、ちょっと……」みたいなことで、手元を見たらスカーフ?とハンカチを束ねて作ったような、首吊り用の縄?があって。
正直ワインのときから厭な予感はしてたから、メチャクチャ驚いたし、なんで?ってなった。
「それはだめだって、それだけはだめだよ。これからどうすんの?」って泣きながら問い詰めた記憶があります。
人間、本当に近しい人であれば、ちょっとした行動から、「なんとなく自殺しそうだ」というのが分かるものなんだって思いました。
マジでここらへんの記憶が、ずっと頭からこびりついて離れない。身体を下ろした時よりもキツかったかもしれない。
未だに良く分からない。要するに母親は、部屋のドアノブに縄を引っかけて、首吊り自殺をしようとしたんだと。
しかも俺の部屋のドアノブだった。誰のだったらいい、ということじゃないけど。この時には、兄貴はとっくに外に出ていたはずなのに。
首元を見たら、真っ赤っていうか、うっ血したようなアザになっていて、「失敗しちゃった」みたいなことを半笑い、作り笑いで言っていたような記憶があります。
未だに後悔しています。
あれだけ明確に希死念慮を見せていたにも関わらず、なにもできなかった。
母親がこのとき、俺に助けを求めていたのかは分からない。あるいは本当のショックを与える前に、「私は死ぬからね」という予告をしたのかも分からない。
兄にも周囲にも連絡をしなかった自分の愚かしさ。せめて身内だけには言うべきだった。
でも、言ってもどうにもならないんじゃないか、言われた側に負担を強いるだけになるんじゃないかと、どこかで想ってしまっていたのも事実です。
「母親が自殺をするかもしれない。どうか助けて下さい。」この言葉を俺はいったい誰に伝えればよかったのか、いまでもわからない。
救い方があるとしたら、それは俺がどれだけ母親が好きで、愛していて、感謝しているかということを、心変わりするまで何度でもいうことしかなかったんじゃないかと。
ちょっと早めに授業が終わったのか?サボったのか。正直どっちでもいいけど、俺は家に帰った。
なんだかすごい胸騒ぎがしてた。兄も俺も家にはいない。家にいるのは母親だけ。
ただいまとドアを開けた瞬間、やはり自分の部屋の前で、足元に椅子を置いて、スカーフで作った縄を首にかけて、うなだれて扉にもたれかかる母親を見つけた。
凄まじい衝撃と同時に、「やっぱりこうなった」とどこかで思う自分がいた。
首にかけているスカーフは素手では取れなかったので、キッチンからハサミを持ってきて、片方の刃で切り落とした。
抱き抱えた母親の身体は、思い返せば想像よりもずっと軽かった。
「誰か、誰か助けてください」と今までにいったことのような言葉を金切り声で叫びながら、居間の上にあおむけにさせて寝かせた。
兄は大学二年生で、本来なら学生寮にいたはず。この日はたまたま里帰りをしてきて、何かを読みに本屋にいってくるといっていた記憶がある。
もしかすると母親は、この日を待っていたのかもしれない。兄弟が揃う日じゃないと死ねないと思ったのか。分からない。
「ママが首を吊ってた。いま俺が下ろしたけど、意識がない。救急に連絡するから、すぐに帰ってきてほしい」
と言って、すぐに電話を切った。兄は「わかった」とだけ言っていたような気がする。
家の場所を伝えて、どうか助けてくださいというと、すぐに救急車と救助隊の方々が来た。
俺は人命救助の方法とかがまったく分からなくて、もしかすると心肺蘇生とか、胸骨圧迫とか、本当はいろいろなやりかたがあって、
待っている間にそれができていれば、母親を助けられたんじゃないかと思う。
でも本当に現実を現実として受け止められてなかった。頭がヘンに冷静だったのは、「こんなことになったけど、きっと助かるよな」と無根拠に信じ込んでいたからだと思う。
ハサミで深く切った指から血が流れていることに気付いた。痛みはまったく感じなかった。
俺「こんなんなっちゃったな」
兄「俺、これからどんな顔して顔あわせればいいかわかんないわ」
俺「そうだなぁ」
こんな会話を、兄弟で悠長に会話していたのをハッキリと覚えています。
ここまではすごくハッキリ覚えているのに、ここから先があいまいなのが不思議で、不思議で。
確か夜の病棟に運ばれて、「自意識が戻る可能性はない」と言われたこと以外は、実はほとんど覚えてないんです。
翌日の病室の面会で、意識のない母親を前に過呼吸になるぐらいに泣いてしまったことを覚えてます。
そして「自意識が戻る可能性はありませんが医療を続けますか?」というような旨を医師の方に伝えられて、「もういいです」と伝えたことは覚えてます。
そしてずっと病院に居るわけにもいかないから、家に戻って、母親のいない家で過ごして。
三日後か四日後、電話の連絡で「お母さんは亡くなりました」と同僚の方から連絡をいただきました。
母親の死に目に会わなかったのは、自分にとって幸運だったのか、不運だったのか、未だに分からずにいます。
わからない、本当に今でもわかりません。
あのワインの日から、自分に何が出来たかをずっと考えています。
間違いなくサインとなっていたあの日、ちょっとでも行動を起こす勇気が自分にあったのなら、もしかすると母親は今も生きていたのかと。
それは「愛され技術」しかなく、家庭の共同経営者のスキルがないからでは。恋愛までは愛され技術が役に立つけど、家庭ってそれだけじゃダメだから。女性でも家事やらなきゃ離婚されたりズルズル家庭崩壊するし、ヒモ男でもメンヘラ女でも経済的に依存するなら主婦主夫にクラスチェンジしなきゃね。
前に不動産バトル番組(お客の希望をきいて手持ちで最強の物件を出し合うやつ)見てたら、専業主夫の夫婦がいてなかなかいい感じだった。ただ「主夫です」って紹介されるだけじゃなくて、メインで家の設備について色々質問してて奥さんも「キッチンは彼の担当なので」って感じで家事に関わる設備のチェックは任せてたからガチなんじゃないかと思った。
というのもうちって大家やってんだけど、一般住宅貸すのって基本奥さんにアピールするのが一番なんよね、決定権あるから。それは奥さんの方が威張ってるってことじゃなくて、奥さんの方が家事担当する場合が多くて、結局家事担当者が管理しやすい家にするのがみんなの幸せなのよ。家事の能率悪くなるとみんなが困るから。で、くだんの専業主夫さんは、うちにファミリー向け物件を見に来る奥さんたちそのままのキビキビした現実的目線で家を品定めしてた。だから、たぶんヒモの言い訳としての専業主夫じゃなくて、ちゃんと家政担当なんだろうなって思ったわけよ。ああいう男性なら専業主夫でも幸せ一家になれると思うよ。