はてなキーワード: 織田裕二とは
40台男性。テレビ離れのなか、TVerなどを観てドラマやバラエティを観てる。
三、四年前くらいに仮面ライダーWを後追いで観たくらいには好き。
テレビで放映されて録画していた「帝一の國」を何気なく見返していたら、ヒロインの声が特徴あって、よく見てみれば「3年A組」の学級委員長だった。永野芽郁(ながのめい)。有名な若手女優さんとのこと。NHK朝の連ドラの主役とか。ほへー。
千葉雄大はファイナルファンタジーのオンラインドラマのやつで知った。
志尊淳はNHKのジェンダードラマ?女の格好してドラマやってたやつで知った。
竹内涼真はソフトバンクのCMだな。ドラマで観ていた記憶はない。だけど人望あるキャラクターの演技すごい。
今見てるドラクエドラマ「昨夜はお楽しみでしたね」の主人公はまったく知らない俳優なんだけど、その彼が竹内涼真の側近で帝一の國に居たのに驚いた。
しかもチラッとしか映ってなかったけど、生徒会の会議のときに「今日から俺は!!」の三橋役やっていた賀来賢人もいた気がした。三橋役が初見。奥さんが榮倉奈々なのな。すごい。
帝一の國でいじめっ子役の東郷菊馬をやってる俳優も知らないけど調べてみたら野村周平という名前。知らん。
wikipediaを覗いてみると「森山中教習所」に出演していたという。
テレビ放映していた森山中教習所まだ撮ってあるよ!なんとも言えないいい映画だった!で、見返してみたら、準主役の銀髪のスーツの鉄仮面なチンピラ、賀来賢人だった。びっくりした。
野村周平は観てたんだな。でも見てたけど東郷菊馬とはまったく結びつかんやったわ。すごいですね。
桐島ローランド役の間宮祥太朗は、残念ながらご存じなかったです。
今日から俺は!!に出ていた矢本悠馬、いいね。ガムくんで認知した。「君の膵臓をたべたい」だっけか。
磯村勇斗という人が、今日から俺は!!とこちらも観ていた織田裕二のドラマ「SUITS(スーツ)」、にも出ていたのを途中で気がついたけど、同じ人って感じがしなかった。
中村倫也ってひとも今日から俺は!!で初めて観た。そして初めて「カメレオン俳優」という語彙を知った。
ドラマや映画も興味あるやつだけチラッと観てるくらいなので、だいたいが「今更?」だと思うんだけど、昨日観た「帝一の國」で、本当にゴロゴロと若手俳優が出ていて、それにいちいち顔が指したのでそんなに侵されていた、ということにびっくりした。
まだ未消化のや未放送のが多いがひとまず。
あくまで1話の感想なんで、2話以降どうなってるかは関係なし。
特に気に入ったのは◎、まあまあ気に入ったのは○。
<あらすじ>
インスタントラーメンを発明するらしい。
<感想>
15分では特に良いとも悪いとも。
アラサー安藤サクラは役柄の18歳に見えるとまでは言わないにせよ年齢不詳な感じに頑張っているが、姉のアラフォー内田有紀は素で下手すると安藤サクラより年下に見えるくらい年齢不詳なので、なんだか不思議な感じになっている。
<あらすじ>
<感想>
一人芝居の分量が多い分、説明ナレーションを多用したり、主人公の推理の酷さを本編内でツッコまず予告でメタ的にツッコんだり、かと言って一人芝居を貫くわけでもなく……ならずっと二人芝居にした方が無理がなかったんじゃ。
<あらすじ>
王子様キャラの男達が伝説の王子の座を競う現代逆ハーレムものってことでいいのか?
<感想>
逆ハーレムに興味なくても楽しめる程度にきちんと馬鹿馬鹿しい。
1話のメインの王子の、死んだ母親から酷い夫の代わりに理想の王子として育てられたという設定はグロテスクな呪いに思えたが、作り手は自覚的っぽく、ヒロインについて心酔する母の生まれ変わりかもなどと多くの女性が引くであろう台詞まで彼に言わせてるあたり興味深い。
14人の王子のドミノ倒しみたいな壁ドンのアイキャッチは絵的には面白いが、王子の、延いては女性の好みの多様性の否定に思える。
<あらすじ>
ざわざわ賭け麻雀。
<感想>
麻雀がわからないとやっぱりもどかしさがあるのと、人生を賭けたドキドキとかべつに味わいたくないなぁというのと。古川雄輝の役も、思い上がった若者が鼻っ柱を折られてスッキリという役割なのだろうがあまり酷い目にあってほしくない。おかやまはじめの追い詰められた小市民役はハマっていたが。
<あらすじ>
<感想>
下世話な面白さは『ブラックリベンジ』同様。夏恋(字面込みで憶えやすい役名だ)って女優がスキャンダルの餌食にならなかったのは都合が良すぎだが。整形前のヒロインの松本まりかの熱演もいいが、悪役平岩紙の「しろなんて言ってないよぉ」「夏恋、頑張って」の言い方がツボ。
<あらすじ>
<感想>
出来あがった実写作品(とあれで言えるかはわからないが)よりも制作過程のアレコレがメインで、テレ東一連の人気役者を使ったドキュメンタリー風ドラマっぽいな。……このシリーズ、わざとらしくて苦手。
『ガラスの仮面』でキャストにド素人集めて上手くいく話があったけど、やっぱり素人は素人だと思った。
<あらすじ>
<感想>
主題歌が『オトナ高校』と同じ高橋優っていいのだろうか。こちらの暗さの方が彼に合っているかもしれんが。
シリアスな分、非現実的な設定が飲み込みづらい。いや、現実にあの法案が通ることはなくても、本音では肯定しちゃうような政治家は結構いそうではあるが。
主人公に真面目に申し上げておくと、恋愛できなくても欠陥品ではないし、合コンの女は酷いが、劣等感を埋める為に結婚を強いられる社会を望むのは相手のことを考えてなくてアウト。
<あらすじ>
だめんずぶったぎってすっきり。
<感想>
うーむ、原作から大きな改変はないけど、原作の面白さが再現されてるかは微妙な感じがする。「もうちょっと聞いて貰えます?」って、ほんと、何故もうちょっと聞かずに話の流れを止めたのだろう。あと現実感がないとすっきり感も薄れるという点で、コメディ的な誇張も注意が必要だと思った。
<あらすじ>
<感想>
原作の海外ドラマは知らない。織田裕二が少々ダーティなのだが、準主役的な子分の中島裕翔もぶっとんだ設定かつ強かさも気の毒さも欠いた微妙な問題児で、感情移入のやり場に困った。
<あらすじ>
<感想>
仕事の能力が低いからといって恋を成熟させる資格がないわけではないが、しかしヒロインを応援したくなる要素が恋敵が悪女であることくらいしかないのはつらい。
<あらすじ>
<感想>
やたら地味な企画だが、『ざんねんないきもの事典』のヒットあたりからの企画だろうか。まったりと楽しくはある。あの宿題は調べるなと言われてもみんなネットで調べちゃうだろうと思ったが。あと動物行動学+人間ドラマって自然主義的誤謬っぽくなりそうと思っていたが、1話は童話のうさぎと亀って動物行動学と関係なかった。
<あらすじ>
高校じゃなく中学の教師と生徒と恋愛もの……って今までにあったっけ?
<感想>
センセーショナルに思われそうな題材だが、パスワードが盗まれたりとかボヤ騒ぎが起きたりとか、高尚ぶらず普通にセンセーショナルな作りであった。
夏川結衣が池谷のぶえと紛らわしい感じになっているのは役作りだろうか(年相応なだけではあるが)。
<あらすじ>
<感想>
会話劇としてクスリとくるところはあったものの脚本の妙を感じるまでには至らず。男二人の髪型被りに意味はなかったんだな。
<あらすじ>
恋人も社長も同僚も営業先も両親もみんないっぺん母ちゃんの腹の中からやり直してきな!!とぶち切れられない理性の人。
<感想>
いや父親は死んでるし母親は縁切ってるし会社も最後に少し救いが見えたが、それにしてもヒロインの境遇のしんどさに震える。救いが見えたと言ってもタイトルからしてどこまでヒロインが戦えるかわからんし。ぐいぐい引き込まれたのはさすがの野木脚本で、今クールの本命だろうという予想はクオリティ的には全く裏切られてないけど、次回以降の視聴率は大丈夫か。いやここで脱落する方が後味悪いからみんな見続けようぜ。
<あらすじ>
<感想>
主人公に珍名を付けようと思いながら小鳥遊というド定番を選ぶ思考回路の謎。
初回の題材が痴漢冤罪なのはいいとしても、自称被害者は真面目な女子大生「と見せかけて実は」ホステスで金目当ての狂言でしたって世間のバイアスに全乗っかりだな。次回予告でもハニートラップなんて文字が踊ってたのはまあ、次回を見てからコメントすべきかもしれないが。
<あらすじ>
『Pure Soul』とその韓国リメイクの『私の頭の中の消しゴム』は憶えてるがその日本リメイクの『私の頭の中の消しゴム』というのが思い出せないが本作はべつにリメイクじゃない。
<感想>
合理主義的な松岡昌宏と婚約する戸田恵梨香も合理主義っぽいが、癒し系のムロツヨシにほだされていくのかな……と思いきやムロツヨシは捻くれてて、なのによくわからんけど戸田恵梨香が菊地・獣・凛子もびっくりの理性のなさでムロツヨシに突っ走ってて理解不能だったのだが、あれはひょっとしてアルツハイマーの症状として理解不能な感じなの? それとも単に大石脚本のヒロインだから理解不能なの?(『コントレール』の肉食系で済ませられないヒロインを思い出した)
<あらすじ>
大変旨~私は忘れる君を。
<感想>
婚約破棄、小説家、長谷川朝晴、そして忘却……って紛らわしいけどアルツハイマーものではなく、グルメものというあまり興味のないジャンルだが、たしかに美味しそうだし、グルメ以外のパートのコミカルな演出も効いている。
別に邦楽に詳しい訳でも何でもないしあくまで個人的な印象だけど、90年代、00年代、10年代の邦楽の歌詞って、日本社会のジェンダー観の推移を表してるように思う。
90年代の男性歌手は「殴りに行こうぜ!」「やるときゃやれよ男だろ!」「結婚式で花嫁強奪して盗んだ車で逃げる織田裕二!」みたいな、男は強くてなんぼ、という感じ。
女性歌手は「私ってかわいい!」「彼とデート最高!」「失恋して悲しい!」みたいな、とにかくキャピキャピしてる感じ。
00年代の男性歌手は「仲間と一緒に盛り上がろう!」「手を取り合ってラブ&ピース!」「君のことが大好きだよ!」みたいな、ちょっと丸くなって優男系。
女性歌手は「前向いて突っ走れ!」「くよくよしないで頑張ろう!」みたいな、受け身ではなく能動的に行動する女性がかっこいいって風潮。あと「私は神だ」みたいな裸足歌姫系の人も多かった。
10年代の男性歌手は「お父さんお母さんいつもありがとう」「君のことが好きだけどどうしたらいいか分からないよモジモジ」みたいな、優男通り越して草食系な感じ。
女性歌手は「毎日仕事だけど頑張るしオシャレも欠かさない私!」「私は私の生き方で生きていくんだ誰も指図すんじゃねえ!」みたいな、モーレツ系社員の女性版みたいな感じ。
こういうのが多数派になったとは言わないが、90年以前に男性歌手が「お父さんお母さんありがとう」みたいな歌を歌ったり、女性歌手が「私らしく生きるぞ!」みたいな歌を歌っても、受け入れられなかったんじゃないかなと思う。
それってやっぱり、社会のジェンダー観が変化していって、そういう主張が受け入れられるようになっていったということなんじゃなかろうか。
東京でマンション購入か家を建てるか、なんとなく探してみようと思っていた。
不動産の「未公開物件」とやらが見れるサイトに気楽なつもりで登録したんだけど、そこから週末に2~3件ほど営業電話が来るようになった。
登録したサイトの運営会社から来るならまだいいんだけど、どうやらリストがばらまかれる仕組みになっている?みたい。
名古屋とか大阪とか関係ない地域の投資マンション営業電話までかかって来る始末。
ただの文字列だった俺の電話番号に「家を買う可能性がある顧客」って価値が加わったようだ。
根源がどのサイトが全然わかんない。織田裕二がCMしてる会社、城南地域に強いと銘打った会社、あともう1社くらい登録したような記憶があるんだけどなあ。
しかし、そんな信頼できないプロセスで近寄って来る輩に数千万円のお金を預けようと本当に思うのだろうか?
インターネットでも電話でも広告でも、オレオレ詐欺的というか、ステマというか、多少の「騙し」要素がないと顧客から買ってもらえないの?
さっき増田で「水道屋をどこで見つければいいのか?」との記事もみたけど、本当に必要としている人に、適切な形で届くような営業スタイルはあり得るのだろうか。営業という行為自体がそもそも間違っているのか?
うふ。
迎えと言っても、
毎日2~3本なって食べられるくらいのが出来るの。
産毛をささっと洗ってとって
丸かじりするのが一番美味しいわ。
取りたて直後で食べるのが
一番美味しいわよ。
でも、
取りたてならではよね!
さらに、収穫する喜びはまた格別高めてくれるわ。
うふふ。
和と洋って感じだけどね。
まあ美味しいんだけど
再春館製薬ばりに
一度工場をバラして組み立てて洗浄して組み立てて生産してでお馴染みの
ランチパックが決めるのよっ!
結局はタマゴの量に納得出来ないので
何の話だっけ?
そう、
ネバーエンディングストーリー的なサンバディネバネバ織田裕二に効く
いや、それをいうならキターだったわね。
結局は今日も元気にやりましょうって話よ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
軽く調べたんだが携帯キャリアの歴史の1つのターニングポイントは1992年。
1つはエヌ・ティ・ティ移動通信網株式会社がNTT本社から移動通信事業を完全に引き継いだこと。
これが1994年にツーカーと共にデジタルツーカー(*1)となり、なお紆余曲折を経て今のソフトバンクになる。
ちなみに1992年以前の携帯CMは電話が持ち運びできるということと問い合わせ番号ぐらいしか伝えていない。
当時のことはあまり知らないがどこもこんなものだったのではないだろうか。
まあ当時はかなり値の張るサービスだったと思うので、
金のことなんか気にせずただただ電話ができればいいという好奇心旺盛な人を取り込めればよかったのだろう。
話は戻るが1992年に今の携帯キャリア3極体制の原型が出来、(*2)
まだまだ携帯電話事業に対して市井の人々の関心が今ほど高くは無かった90年代中期。
業界の中核をなす企業でありながら少々ごたつき気味だったドコモと新興勢力のデジタルホンは、
まずはブランドの認知が早急だと判断したのかインパクトの強いCMを打ち出した。
(当時のCMはみつからなかった)この桑田佳祐が映っている部分が1992~3年ドコモ開始時のCM。
「オギャーっと、ドコモ!」のキャッチコピーでタイアップ楽曲はサザンオールスターズの「シュラバ★ラ★バンバ SHULABA-LA-BAMBA」。
キャッチコピーの語感やシュラバ★ラ★バンバの曲調からバブルの残り香のような勢いを感じるインパクトの強さ。
宇宙人に扮したAV女優が乳丸出しでサザンのメンバーを襲うという、これまた豪勢でインパクトを残すものだった。
現在にいたるまでコンスタントにDocomoのCMに出演していることからも、このCMの重要さは見て取れることだろう。
こちらはデジタルホン系列の関西デジタルホンが1996〜97年に放送した「しゃべるならデジタルホン」シリーズの1つである。
クエンティン・タランティーノがひたすらしゃべり続け「しゃべりタランティーノ」という決め台詞をいうと
視聴者はデジタルホンという携帯キャリアの存在しか頭に入ってこない。
デジタルホン(現ソフトバンク)の初期を代表するCMで記憶に鮮明な人も少なくないはず。
思えばこの2つのCMが昨今の携帯キャリアのブランドイメージの源流なのかもしれない。
著名人が奇抜な格好したりショートコントをやってる携帯のCM、というものの原型は、
それでも1990年代はまだドコモの広末やIDOの常盤貴子や織田裕二などによる爽やか路線が主流だったが、
「IDOはどこにあるの?」というトヨテツのボヤキで幕を開け、
浅野忠信、豊川悦司、永瀬正敏らによって展開されたAu by KDDIの初期のキャンペーンによって、
携帯キャリアのCM=際物なイメージは確固たるものになってしまったのではなかろうか。
(*1):ツーカーの存在はデジタルホンと足並み揃えたかと思えばKDDI傘下に入ったりそれでもJ-phoneのサービス採用してたりとややこしいので割愛したい。
吉田栄作も織田裕二もトレンディドラマに出てくる人はみんな真ん中分けだった。
真ん中分けは誰でも出来る。
だが誰でもやっていいわけではなかった。
かっこいいやつが真ん中分けをしてもオッケーだが、かっこよくないやつが真ん中分けをしたらお前なんかが真ん中分けするなと言われる状況だった。
俺は真ん中分けする権利をゲットし、真ん中分けする事でモテていた。
いや、真ん中分けはモテなくなった。
真ん中分けしかできなくなった俺の髪は、どう頑張っても真ん中分けになった。
髪の毛のカタログ見たり、美容院で教わっても他の髪型がしっくり来ない。
真ん中でピッチリ分けていたから、無造作という概念が分からず、寝癖との違いが分からない。
「キモ夫」
だ。
理由は真ん中分けだらだ。
来月忘年会がある。
先輩に
「出し物は「しぇしぇしぇのしぇしぇー」やってくれ。」
と頼まれた。
辛い。
それを比較する。フェアじゃない。
どっかで線引きをするというのはわかる。
知った上でやるのが大人だ。
すべてを秒数で判断するというのは判断の難しさを放棄した、アホのすることだ。
子供だとも言える。
だが、そのうちそんな世の中デジタルじゃないことに気づく。
いろんな判断原理を色々知っていく。それを先祖返りしているよう。
ある程度、敢えて固執し、無理をする。それがゆえに限界は突破されるという論もある。
なのに、そこを議論することはない。
それを決着せずにズルズル同じ尺度で競技をやっている。
そんなのみんな気づいている、誰もいわない。
こういうことにきちんと楯突いて議論する、それが大人だ。
織田裕二みたいに煽って、傍観しているようなアホを誰も諭さない。
アホだ。
「『チキンマックナゲット』に異物が混入」、「日本マクドナルドが380億円の大赤字」「時給を1500円以上に上げるべきだというデモ」など、各メディアを通じて批判的な内容のニュースばかり流れている。しかしあえて言いたい。みんなマクドナルドの悪いところばかり見ているのではないかと。
ぼくをここまで育ててくれたのは、マクドナルドのおかげと言っても過言ではない。小さい頃、ハッピーセットを買ってもらえるだけで嬉しかった。CMを見るだけですごくワクワクした。土曜日の午前授業が終わり、家に帰ると父親がたまにバリューセットを買ってきていることがあった。少年野球チームに所属していた際、試合後ごく稀に監督がマクドナルドをみんなにおごってくれた。どれもたまらなく嬉しかった。あの頃の気持ち、みんな忘れているんではなかろうか。ぼくはマクドナルドに対して悪い思い出や印象がほとんどない。マクドナルドはぼくにとって特別なものなのである。
ということで、今日は皆にマクドナルドの良さを再確認していただきたく思い、マクドナルドの良いところだけを書いていく。恋人の悪いところだけ見えてしまって、別れた後に後悔するような、そんな思いはしてほしくないのだ。
ラーメン、オムライス、カツ丼、焼肉……。どんな料理でさえ、「出来立て」は美味いのである。注文を受けてから作ってくれるハンバーガーなどに加え、ポテトなどのあらかじめ準備してあるものでさえ「出来立てをもらえますか」と言えば文句なく対応してくれる。
これぞ「ファーストフード」。時間のない現代人にとっては、注文したものを待つ時間でさえ惜しいものである。「60秒以内に商品が提供できないとハンバーガー無料券がもらえる」というキャンペーンを実施したほどのスピーディーさだ。レジに人が並んでいてもすぐに順番が回ってくることも嬉しい。
昔に比べると多少の値上がりはあったものの、未だにハンバーガーやチキンクリスプなどは「100円」で食べる事ができる。貧乏学生や、パチンコや風俗などでお金を使いすぎた社会人にとっても嬉しい価格設定だ。コンビニでハンバーガーを買うと大体200円前後することに比べると、大変良心的と言えるだろう。
冒頭でも述べた通り、子供の頃親に連れて行ってもらった時や部活の帰り道に友達と食べた時の思い出など、過去を思い返してみるとマクドナルドで培った思い出は日本人ならば誰しもあると思う。そんな過去に浸ることも出来るのがマクドナルドなのだ。
マクドナルドは主要都市の駅前にあることが多いので、友人との待ち合わせ場所に最適である。「渋谷のハチ公」などの誰もが知る有名待ち合わせ場所がない限り、「マックの前」というキーワードは大変便利なのである。
関西と関東は文化が異なるとよく言われるが、マクドナルドもその例である。自分が関東生まれの場合は「マック」と呼ぶのが通例だが、関西生まれは「マクド」と言う。この「マックとマクド」の話のネタだけで、初めての関東と関西の異文化交流が盛り上がるのだ。
マクドナルドは他の飲食店に比べ、融通が効くことが多い。ポテトを買うと、ケチャップが貰えたり、水もタダで貰える。ポテトの塩を多めにして言えば、喜んで対応をしてくれる。ピクルスだって取ってくれるのだ。
「マック」と「Mac」。イントネーションも一緒だ。最新の技術を搭載したPCと名前が似ているということは、マック側からしたらなにも悪いことではないだろう。いい宣伝効果にもなるかもしれない。マックが新商品として「リンゴバーガー」なるものを発表したら、かなりの話題になると思う。でもなぜだか、Macユーザーはマックを利用することが少ない。スタバなんて一文字も被っていないのに。
他のレストランなどに行くと、どれを食べたら良いのか分からなく悩んでしまうことあるだろう。しかしマクドナルドのメニューは昔からレギュラーメニューの変化はそこまでないので、自然に何を注文するかがある程度頭に入っているのだ。ちなみにぼくは「チーズバーガー2つとダブルチーズバーガー」である。この何年も変わっていない。
「マクドナルドは体に悪いもの」というイメージが自然に頭の中にあることにより、例えば昼食にマクドナルドを食べることがあれば、「夕食は野菜を多く摂取しよう」という気持ちが増加するのである。その結果、「マクドナルドを食べると健康になる」という理論があってもおかしくない。
10個の「マクドナルド」の良いところを並べてみた。マクドナルドの良いところは人によって異なるので、皆もよく考えてくれると嬉しい。織田裕二主演の映画で「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ」という名セリフがある。これを置き換えて考えると良いかもしれない。
「弱いものイジメはカッコ悪い!」と正義感を振りかざす、心が綺麗なイケメンになった気持ちで、モスバーガーの席に座り美味しいハンバーガーを食べながら書いてみた。
だけど、安河内先生ですら受験シーズンとか夏期講習とかは普通に休み取ってるのに
なのにレギュラー番組なんか持ってるから、普段予備校の先生って実は暇人なのかと勘繰ってしまいたくなる。
前に織田裕二主演の坊さんがカリスマ予備校講師になるみたいなドラマやってたけど、
だけど、あれがリアルなら林先生、早く東進ハイスクールに帰らないと居場所がなくなっちゃうんじゃないか
ってそればかり考えるようになるし、凄く心配だ。
予備校って僕も受験生の時は二年位(浪人期間含む)通ってたけど、割と暇じゃなかった思い出だった。
それとも人気講師になると、そういう都合が上手く突くんだろうか。
トヨタのリコール問題だが、なにあれ? ちょっとプロとしてあの態度はまずかったと、正直思った。結局トヨタリコール問題は全権が社長に(つまり最も適した対応が出来る人に)委ねられることになり、その後沈静していくと思う。
なので、ちょっとこれを機会に、適切なクレーム対応というのを書いてみたい。
前回はクレーム処理で目指すべきゴールについて書いた。
そこでの結論は、
(クレーム処理の)ゴールは商品に何ら欠陥がないことを証明することではない。お客の中で発生している「理不尽な思いをした」という心をなだめ、そこで発生している問題を解決するところにあるのだ。
と言うことになるのであり、心構えとして、
クレームは商品に発生してるんじゃない、顧客の中で起きてるんだ!
もしクレーム処理をする局面に突入したら、レインボーブリッジを封鎖しながら、ぜひとも叫んで、気合いを入れて乗り切って欲しいところである。
トヨタのリコール問題はABSに問題がないことを告げ、お客を怒らせてしまったところにあることは既に書いた。しかしこのように書くと、なんでもお客さまのいうことが正しくて、それを全面的に受け入れなければならない、と読んでしまう短絡的な人が現れてしまいたいへん困るのである。
もちろん問題がないのであれば、それをあえて「問題がある」という必要はないのは当然だ。ただ、「問題がない」=「問題があるのはお前だ」となってしまうのがまずいのである。
この差が分かるであろうか?
クレーム処理とはお客さまに対話の機会を提供する事であって、どちらが正しいかを議論すること、ではないのだ。
昨今、ちまたにお客さま至上主義という言葉があちこちに溢れている。
お客さまによいことはなんでもしようという立場を取ることは、たいへん危ういというか、ほんとうに理解しているのだろうかと訝しがって眺めてしまう。
これには論点が3つある。
1.利益になるなら/なったならお客さまによいことはなんでもしよう。
(ただし、コストが合う範囲で)
2.お客さまの言うことはなんでも聞く(ただし聞くだけ)という態度は改善点を呼び込みやすくなる。
3.わたしたちは、お客さま至上主義に最適化した事業を構築した。
1.の論点は非常に分かりやすいと思う。お客さまの言うことを聞きはするが、それは利益の出る範囲でしかやらない、と言う観点だ。たとえばそのお客さまが既に商品を購入していて、そのアフターケアとしてお客さまの言うことを利益が出る範囲でやるのであれば、それは当然に当たり前の事だ。また、そのお客が見込み客として将来利益を生む源泉となるのであれば、当然に営業活動の一環としてやるべきだろう。
しかし、こうみてくれば、当たり前の観点で、利益どころか損害になるお客はわざわざ大事にする必要はないし、単にたかるだけのDQNなら、放り出して、塩でもまいて、二度とのれんをくぐらせないぐらいの覚悟は必要になる。問題は、そのお客が利益になるのか、ならないのかの見極めであり、当然に利益になりそうなお客と、損害になりそうなお客ではこちらの態度を変える。問題はその目利きとしてのお客を見る目であり、逆に言えばすべてのクレームは金にならないと考えるのは、商売人失格と言える。
2.の論点は別の要素も含むので、若干説明が難しい。基本的にクレーマーは、問題点を改善し二度とそのような理不尽な思いをしないこと、そして、その理不尽な思いをしたということにたいして、なんらかの手当をしさえすれば大抵引き下がるものなのである。そのなんらかの手当が、菓子折であるか、おいしいお茶と1時間の会話であるか、懇切丁寧な初動対応であるかは、お客によって変わってくる。しかし、少なくとも精神的な苦痛を受けたので慰謝料を払えというレベルで迫られるのは、よほど対立が激しくなって、大喧嘩に発展させてしまった場合か、相手がDQNな場合だけだ。
また、この論点は、こちらの改善点がお客さまの観点から見えてくる、という部分でも重要である。クレーム処理は懇切丁寧にお客さまが遭われた状況をお聞きするだけで、解決することが多い。そしててきぱきと問題の解決をしてあげる事で、安心するものなのである。
この点は後ほど書く。
3.の観点は、かなり特殊なケースでありレアケースとして、まれに無差別的お客さま至上主義を導入して成功する例があるという話だ。
お客さま至上主義を掲げる企業として有名な所と言ってどこが浮かぶだろうか?
真っ先に思い浮かぶのが世界最大の小売りチェーン、ウォルマートであるが、このウォルマート流の「顧客は常に正しい」をそのまま導入してしまおうとすると、たいへんな目に遭う。なんといってもウォルマートは、この顧客至上主義に特化して、自社のあらゆるものを構築しているのであるから。
ウォルマートでは、顧客からの返品はいつでも受け付けているが、その返品はそのままサプライヤーへ送られ、この損害はサプライヤーが受ける。つまり、この顧客によいサービスでウォルマートは一切の損害を受けない。
また、非常に安い賃金で従業員を雇い、徹底的にマニュアル化された顧客対応をする。
ウォルマートは、経営方針から、会社のシステム、社内ルールに至るまで、すべてを顧客至上主義に特化しているのである。これを、なんの備えもない普通の企業がまねたからと言って、損失を出してしまうだけに違いない。もしくは最下層の従業員にしわよせが行くだけになる。
日本の企業であればディズニーランドを運営するオリエンタルランドだろうか。
しかし、オリエンタルランドも、その顧客サービスはあの管理しきられたディズニーランド内のみでおこなわれている。たとえばディズニーランド内のゴミをせっせと拾う話は有名だ。ゴミ1つ落ちていない状況を作ることによって、お客にゴミを捨てにくい状況を作るのだという。同じように、ディズニーランドではDQNのような乱暴なお客が出にくいように、楽園的な雰囲気を維持している。それが抑止力になり、顧客至上主義を展開しても、お客が無茶なことを言い出しにくい環境を作り上げているのだ。
もし手軽にディズニーランド気分が味わいたいのであれば、Apple Storeを訪れてみてもいいだろう。確かに店員は親切にしてくれるのではあるが、店内は店員であろうと顧客であろうと親切で上品に振る舞わなければならない雰囲気に満ちあふれている。
このように、顧客至上主義を唱えて成功する企業は、同時に顧客がめちゃくちゃなことを言わないような、幾重もの施策を打ち、まるで要塞のように守られた環境で、その顧客至上主義を実現しているのだ。
もし一介の一社員がそれを1人でおこなおうとすればどうなるか。
それは、経営の問題であって、全社的にそれが上手く回るように取り組むのであればわかるのであるが、たった1人でおこなおうとして、出来る代物ではないのだ。まず、ここを押さえておきたい。
クレーム処理とはどんなものかと聞かれて非常に的確な言葉は、危機対応であると思う。自社のサービスを受けていたお客さまが理不尽な思いをする。そのときの危機対応を的確にすることが出来るか、これが的確なクレーム処理が出来るか否かであると思うのだ。
しかし、そのような危機というのは、頻繁に発生してもらっては困るものである。
たとえば、スーパーにやってきて買いものをしたら、その牛乳から異臭がする、腐っているのではないか。
このようなクレームが入ったとする。
しかし、よく考えてみれば分かるように、そんなことが頻繁に起こっては小売業失格であるし、だいたい洗練された鮮度管理を徹底した売り場でそのような事が起こるはずもない。それでもこういったクレームは必ず、ちらほらと発生する。
この場合、大抵その原因はそのお客の勘違いであるのだ。
店側に問題があることはほとんどない。
けれども、どうであろうか。お客さまはそう思い込んでいるのだ。牛乳が腐っていると。
このとき、クレーム対応者はこう思うとよい。
これはお客さまからの抜き打ちテストだ。
もし万が一、そのような事態が発生したときに、そのお店の人間は適切な危機対応が取れるであろうか、それをお客はテストしているのだと。それは避難訓練みたいなもので、もし万が一が危機が起こっても、そのお店は的確に対応できるとお客さまを納得させる、これをゴールとして考えるのだ。
お客さまは、普段はそのお店で信頼して買いものをしている。
すくなくとも卵が腐っているかもしれないとびくびくしながら買い物をしていないことは間違いないと思う。しかし、あるとき、ひょっとしてと、その信頼が揺らぐときがある。そしてお客はそれをお店に突きつけてみるのだ。
ほんとうに、このお店は鮮度管理がしっかり出来ているのだろうか、と。
もし、この危機対応テストで、いや、腐ってませんよ? などと言ったら、お客さまは確実にテスト結果に落第点をつけるだろう。そして、もしほんとうに腐っていても、同じように言い訳をするのであろう、と思い込み、店の信頼はがた落ちになる。
初動としてどんな対応がいいのだろうか。
こんなのはどうだろう?
「ちょっと、この牛乳腐ってるんじゃないの? 変なにおいがするのだけど」
「はい、変なにおいがしますか。不快な思いをさせてしまいたいへん申し訳ありません。当店は鮮度管理は行き届いておりますので、そのようなことがあるとはにわかには信じがたいのですが、万が一と言うことがございます。たいへんお手数ですが、いつお買いになられたのか、などをお聞かせ願えますか? 至急調査したいと思います」
この対応のポイントは、お客さまが変なにおいがしたという不快な思いに対してのみ謝罪している、という所だ。まずお客さまの主観を一切否定せず、主観的に不快な思いをした点にはのみ謝罪している。牛乳が腐っているとはみとめておらず、万が一があるので、調査したいと切り返している。
顧客にしても、このケースはでは牛乳が腐っているかどうかはどうでもいいのである。
顧客がみているのは、ほんとうにこの店は大丈夫なのか? と言う部分なのである。
このような観点でトヨタのリコール問題を振り返ってみると、トヨタはこのお客さまの抜き打ちテストに落第してしまったために、何か問題があっても嘘をつくに違いないと思われてしまったところに敗着がある。
クレーム処理は危機対応の抜き打ちテストみたいなもので、そんな危機にどう対応するかがみられているのである。牛乳が腐っているかどうかはどうでもいいのである。
(つづく)