はてなキーワード: 矮小化とは
趣旨は上の通り。
自分がオタクだと自認するようになってからこっち、10年以上にわたって、オタク差別けしからんと言い続けてきた。
ここ数年、なんとなくそれに違和感を感じることが多くなってきたけれど、それでもやっぱり言い続けてきた。でも今回はっきりわかった。
オタク差別批判とか、ただの害悪でしかない。もうやめたほうがいい。
差別というのは、権力構造に根差すものであるという話をだいぶ前にツイッターで見た。
つまらない約束事のように映ったけれど、まじめに考えるとこれを踏まえないから、差別を相対化して見せては矮小化や言葉遊びにふけるような態度が出てくるのである。日本人ヘイトだの専用車両は男性差別だの在日韓国人による逆差別だの、差別者以外にとってはおもしろくもおかしくもない大喜利パズルでここ何年かでいったいどれだけ無駄な足止めにいそしんでいたというのか。ちゃんとベースを踏まえてこそ、くだらない袋小路にはまらないで済む。これはちゃんと物理を学んでいない人がブルーバックスくらいだけに目を通しただけで「矛盾」を発見し、相間さんと化すときに似ている。
今まで自分が存在していると思っていたオタク差別は、多分差別ではない。それは、いじめであり、パワハラであり、DVである。
そう視点を変えた方が、いろんなものが整合性をもって見える。中学校時代よくいじめにあっていた同級生は、オタクじゃなかった。正確に言うとオタク「も」いた。
でもそれは、そいつと俺が割と仲が良いから知っていた話で、きっかけは別のところにあった。運動音痴だから足手まといだという扱いだったり、成績がよくて生意気だという扱いだったり、DQN憧れの男の子の彼女だからだったりした。
もちろんきっかけが「オタクだから」というケースもあるんだろう。でも、それはこういったきっかけのワンオブゼムでしかない。それを、民族差別や女性差別と並べるのは、視野が広い人間ではなくただの雑な人間だ。
「差別じゃない」というのは、多分そういうことなのだ。そして、差別じゃないから批判の対象にする必要はないという話では、たぶんない。別の枠組で批判すればいい。
なのにもかかわらず、熱心にじゃああれは差別じゃないんだーという大喜利ばかりをしているツイートばかりが「オタク」から流れてくる。いや、どうしてもそこのところをわかりたくないのかもしれない。
わかりたくないのか、わかろうとしないのか、本当にわからないのか、どれなんだ。
いろいろ、「オタク差別の事例」というのが流れてきた。前なら、そうだそうだと怒りをぶちあげたであろうものがたくさんある。でもそれはどれもこれも、オタク差別の事例ではない。
そういうものを引いて行って、ある程度確実にあったんじゃないかと思えるのは、「マスコミを通じたもの」だと思う。特にバラエティやニュースを通したもの。
それで思い出すのだけど、俺の中高時代はあんまりオタクがいいとか悪いとかいう意識を持つことじたいあまりなかった。今思えば自分の机でいつも小説を読んでいて、たまたまホームページの話になったとき「私も持ってる」と言ったのでURLは?と何の気なしに尋ねたらそれはちょっと……みたいに返してきた女の子なんかはオタクだったんだろう。自分だって漫画は好きだったしオタクだったはずだ、今にして思えば。
じゃあ、そこにどうやってオタクキモイみたいな「偏見」の存在を知らされたかっつーと、漫画だったりインターネットだったり、そして「オタク自身の言説」からなんだよね。
だって、バラエティ番組なんて中二病まっさかり(高校になっても中二だったので)でほとんど見てなかったし。ニュースといってもこの手の話ってだいたいワイドショーである。やってる時間は学校にいるんだから見るわけがない。
金田一少年の事件簿には、小太りですぐキレ気味になる、「オタク」が登場した事件があった。こち亀で、美少女フィギュアを専門とする「色白でアニメ好き」なオタクが登場して、硬派フィギュアマニアのつもりな両津が逃げ出すという展開が「オチ」として機能していた回があった。名探偵コナンのホームズフリークの回は……さすがにこの文脈で語るものではないか(でも動機の酷さは「オタクなんてそんなもんだろう」という共通認識が背後にあるような気がする。知らんけど)。
テキストサイトが一世を風靡していたころ、オタクやオタクに向けられたコンテンツは叩かれる「べき」もの扱いだった。非オタク向けの、スポーツとかファッションを語るページに迷い込んだら叩かれたという話ではない。漫画の感想サイトや、漫画やゲームをメインで扱う日記サイトでの話である。
何を言っているか分からない人もいるかもしれない。例えば、ラブひなやいちご100%やBLACK CATは、軟弱な頭の弱いオタクのためのコンテンツであり、あんなものにゲヘゲヘゆってるオタクマジキモイ。ホイッスルやミスフルやテニスの王子様は腐狙いコンテンツであり、あんなものに(ry そういう話である。この範囲は結構広くて、らんま1/2やH2ぐらいでもオタク向け扱いされることがあった(もちろん、当時これらが連載されてたわけではない。あれってオタ向けの駄作だったよね―みたいな扱い)。
もちろん彼らが持ち上げるコンテンツというのもあったのだが、この文脈で実例を挙げるの風評被害でしかないので避ける。俺の好きな作家や作品も混じるし。
テキストサイトだけではなく、2ch(当時)もそんな感じだった。少年漫画板とかそのへんをよく覗いていたのだが、まあ当該作品のスレは愛読者が集まるのでそうでもないこともあるのだが(そうであることもある)、総合系スレでのオタクコンテンツ叩きはかなり強固だったし、漫画とか関係ないジャンルの板だとなおさらだった。
そういうものにどっぷりつか……もとい接しているうちにオタクというのは叩かれるべき存在であるのだなというぼんやりとしたイメージが自分のなかで出来てきた。これにもう一つ後押しするように影響したのが、自分はオタクだと称する人が、迷惑行為や触法行為のようなものを自慢しながら、「ホラ俺たちオタクだからさ」みたいに語っている文章に接する機会があったのも、ああそういう人がオタクなんだなと認識させられた。
ちょっと話はずれるけれど、当時は、オタクとマニアの違いなんていう言い方があって、オタクはそういう迷惑なものを抱えた側の人間やハマりすぎて社会に順応できなくなっている人間、というような線の引き方もあった。
これは、あくまで俺の話である。だから、他の人がどう偏見を植え付けられたかは、また別の話があるかもしれない。でも、オタク差別を煽ったものとして、「漫画」「インターネット」「オタク自身」という声を、この話でオタク差別に怒っている人の口から出てくるのを見ないのだ。
ここで挙げたのは、知る人ぞ知るみたいなのじゃなく、だれもが知る有名漫画、リドミで上位常連の大手サイト、オタク文化人として今でも名前を出せば通じる、みたいなのばかりを念頭においている(まあ当時のインターネット文化がそもそも、知る人ぞ知るなものでしたけど)。みんな、俺とは違う漫画やインターネットを見ていたんだろうか。ワイドショーやバラエティばかりを見ていた「オタク」がそんなにたくさんいたんだろうか。
本当に不思議なのだ。あそこでこんなオタクへの偏見に満ちた報道があったんですよっ!というようなツイートは大量に流れてくるのに。
これが本当に、ここ数年で疑念として大きくなった末に、今回愛想がつきた一番のポイントなんだけど。
オタクが差別を受ける構造が、あったとする。それは、ネットで語られているほどは大きくないかもしれないけれど。
それで、今、オタクってなんなんですか、と。特にネット上では、強者、抑圧する側、差別を行使する側の「集団」として機能してませんか、と。
腐女子叩きは昔からあったけれど、女叩き、中韓叩き、などは当たり前のように横行している。時々流れてくる、弱者の権利をなんとかして奪ってやろう、人権思想じたいを矮小化してやろう、という意気に満ち満ちたツイッター漫画は誰によって大量RTされているのだろう。俺のところにはだいたいオタクさん経由で回ってくるんだけど。
趣味、という切り口でみても、オタク文化を愛好する人が自分たちと関係のない趣味なら平気でdisる光景というのはそんなにたぐいまれだっただろうか。インスタ蠅なるイラストが回ってきたことがある。そもそもインスタに投稿するのが趣味になっているような女性を叩くようなツイートが回ってきたことがある。鉄オタは「池沼」「ガイジ」であるなんて言い方もある(「」内は原文の表記を尊重)。ゴルフや車などを老害の趣味だとバカにしていたりもする。そうそう、スイーツ(笑)なる言い回しはいったいどこのどういう人によって流行したんだろうか。「リア充爆発しろ」というフレーズに何げなく込められた、自分と関係ない集団への軽視に、どれだけの人が気づいてたんだろか(だって「爆発しろ」だよ。あの連中、有明に15万人集まったタイミングで奴等爆発四散しねえかなーって非オタな人が言ってそれがそっちの界隈で大好評を博したら、インターネットな皆さんの間でどういう反応が起こるか考えてみたらいい)。
そんなオタクばかりじゃないというのは分かる。というか俺がこういう文章を書いてる時点で分かれ。でも、個の話じゃないのだ。集団としての性質の話である。あれだけ、全共闘や学生運動について冷笑ぶって叩く人が追いのに、そこに気づかないってどうかと思う。あとリア充爆発しろは使ってましたすいません。
それに、そういったところで、こんなふうにちゃんと抵抗して、こんなふうに批判して、中から自浄する動きを作りました、このコンテンツからは離れましたと胸を張って言える事例、どれだけあるんですかね?俺が、ノットオールオタクと言い続けたところで、結局「自分を批判の対象から外してくださいあいつらは関係ない」と逃亡する以外に何の役回りも果たせなかったから、言っているのだ。この記事は違うよなあ~こういう作風は好きじゃないなあ~こういう物言いはよくないよなあ~と個別の案件に不満ごちてみせ、自分は違うと思う、もっというなら思ってみただけで、肝心なところからは目をそらしていたんじゃないか? そう思うんである。
逆に、そこに自覚的になったんだろうな、と思える人も何人か知っている。そういう人は、結局C.R.A.C.やツイフェミのようなところに接近し、そのやり方すべてに同意はしないまでも、見解や思想に共感するようになっていく人がほとんどだ。おそらく今回「オタク差別」に怒っている人は、この人たちを敵であり、オタク仲間と認識していないと思う。
つまり、オタク文化の加害者としての側面を見ないふりするか、オタクに勘定してもらえなくなるか、二つに一つということだ。
C.R.A.C.の野間氏は個人的には大嫌いだし、たぶん単にオタクが嫌いなんだとは思う。でも今回ツイートの応酬を見ていて、残念ながら主張にそれなりに同意せざるを得なかったのは、こういう背景について理解できてしまったからだ。そこで突然くっちゃべられる「オタク差別」。真面目に反差別を考えている人にとっては(多分そこは真面目なんだと思う。この人)、筆算の横棒がミニ定規で引かれていないから×、レベルの見当違い感があったんではないか。野間氏の真意など知らないけれど。
そういえばその昔、本田透の「電波男」に感銘を受けながら読み進めていて、後半のほうで腐女子やフェミニストについてはずいぶん切り捨てたような言及の仕方なのに疑問を持ったことがあった。いや、フェミニストがオタクを差別している、という文脈で批判してるなら理解できるんだけど、そうじゃなかったから。権利意識を持つ女性自体が許せなさそうだった。その後「電波大戦」で喪女についての話題が出たとき、対談相手の竹熊氏がわりと真面目に実態について話したりしているのに、「困ったモンですね」で終えているのを見て、クジャクヤママユを盗み出した同級生を見る眼つきになったのを覚えている。だってそこで語られてる喪女、本田氏が救済しようとしてやまない喪男と違わないのに。
そのあとしばらくは新刊も買って真面目に読んでたの、それもどうよって話だけど。
10年くらい前に、俺たちの麻生なるムーブメントがあった。別に政治家を持ち上げること自体は好きにすればいいんだけど、そこでは当人が積み上げた迷言失言差別発言をすべからく許容し、批判したマスコミへの叩きが横行していた。正直、あの政治家のどこがいいのかさっぱり分からなかった。
当時はオタク系個人ニュースが全盛期。そういったサイトの管理人は、麻生氏を擁護するまとめブログエントリを紹介しては、叩かれていて困ったものですねぇ、正論なのに、というようなコメントをこぞってつけていた。オタク気質の知り合いなども、熱心に自ブログで擁護していた。
あれから10年たった今も、麻生氏は差別発言や侮蔑発言を繰り返している。あれを見ていて思うのは、この人は息を吸うようにハラスメントをする人なんだな、ということだ。それは、昔も同じだった。だから、どこがいいのかさっぱり分からなかったのだな、と腑に落ちたのだが、同時に当時持ち上げていた人たちにとっては、「だから良かった」んだろうかしら、とぼんやりと邪推してしまう。
今回オタク差別について怒っているツイッター主の中に、表現規制反対などをめぐっての発言をしばしばしているアカウントがいくつかいる。いずれもその界隈ではそれなりに大物だと思う。そして、俺のチェックしている反対派がぼんくら揃いなのかもしれないけれど、ヘイトスピーチの言論の自由を唱え、ポリコレで何も言えなくなることを憂い、自分に関係ないところでの言論の自由に興味がないかむしろ規制されることを望み、性差別についての提起が出てくるとそれについて考えるより先に提起者の揚げ足を取って袋叩きにするような人たちが勢ぞろいである。さすがに全部きれいに当てはまる人は少数だけれど。そんな反差別運動(別にあの界隈に限らず、そういう発想自体)が大嫌いな人たちが、当然のように主張しだすオタク差別批判、いったいなんなのか。ただ、差別社会の中で特権階級になりたいだけじゃないのか。
そういえば、これはある程度年配のオタクということになるけれど、昔(主に90年代くらい)のバラエティはこんなにおおらかだったのに、今はポリコレがうるさいせいでつまらなくなった、というような声が時々ある。なぜか、そういうつぶやきをしている人が「昔はオタクをバカにする表現に寛容でよかったなあ」と語っている声を聴かない。今回オタク差別が話題になって、バラエティなどでのオタクの扱われ方という話はけっこう出てきているのに、いない。どこへ行ったんだろう。
オタクと差別、という組み合わせでオタク文化っぽいものを思い返してみると、そんな案件ばかりが、思い出されてくるのだ。
反差別のために立ち上がったオタク、というのはそれなりの数知っている。そういう人はオタクかそうじゃないかを越えたところのつながりで、反差別をやっている。でも、オタク差別けしからん以外の「反差別」がオタク文化の中心的な動きとしてあったところを、見たことがない。差別を煽り、偏見を煽り、強者に諂い(自分たち以外の)弱者を嘲笑する、そんな動きならいくつも思い浮かぶのだけど。
あ、一つ思い出した。(反差別とは少し離れるかもだけど)フリーチベット、フリー東トルキスタン。
残念ながら、反中のダシ以上のものであった記憶はないけど。ああいうの、真面目なチベットや東トルキスタンにおける人権運動家に失礼だったんじゃないか。
こんな「オタク差別批判」に大真面目に同意したところで、反差別には一ミリもつながらなさそう、むしろ後退させる役割しか果たせなさそうである。メディアを通した差別はもうかなり減ってるといわれるし、それ以外のものはオタク差別というくくりより別のくくりで論じた方が有意義でより広い被害を論ずることができるようだ。となるとオタク差別なるものに拘る理由はない。
もしかしたら、こんなことは本田透の2冊目の著書におかしさを感じた時点で、たどり着かなければならなかったのかもしれないけれど。
集中審議 自民、政権擁護に躍起 改ざん内容矮小化もhttps://mainichi.jp/articles/20180319/k00/00e/010/217000c
和田氏は冒頭から「書き換えでどれだけ国民を怒らせ、どれだけ国会を空転させたか」「自民党にも官邸にもうそをつき通した」と財務省批判を展開。改ざんについて「官僚の暴走」と指弾する一方、安倍首相側が財務省に「徹底調査」をさせたことが真相解明につながったとの見解を示し、「政治側が官僚の隠蔽(いんぺい)をこじ開けた」と持ち上げた。
いや、キミらが配置した組織やん。なんのために内閣人事局を作ったん?、ぜんぜん監視できてないやん。つまり内閣の責任やん。アホなの和田議員って
はてブでこのようなことを言ってる人をよく見かける。インテリはてなーに対してはわざわざ忠告することもないのだが、インテリはてなーのフォロワーやワナビーはインテリではないので、ここでちょっと申し上げておいてもいいのではないだろうかと思った。
「またナントカ案件か」思考法において彼らが行っているのは、物事を自動的にパターンA、パターンBといったように振り分けることである。もちろんこういったパターン認識は情報を素早く処理できるというメリットがある。パターンAであればそれへの最適な解答はαであり、パターンBであればそれへの最適な解答はβであるというように。彼らはそれがナントカ案件であると認識した段階ですでに最適解を反射的に出しているわけだ。問題の認識と解答がほぼ同時に行われている。刺激に対して反応が決まっている。
たしかにこれは非常に合理的な判断のように思える。同じようなパターンなら同じような解答が最適になる蓋然性は高い。しかし彼らはその問題が以前の問題と比べてどの程度類似していてどの程度類似していないかについてまったく考えていないのではないだろうか。彼らは自分の思考法の陥穽を十分に理解しているだろうか。
物事というのは細部が重要である。細部の差異を認識し、その都度そこでしか発生していない特殊条件を勘案し、適切に処理できるかどうかに知性の差が現れる。どんなに素晴らしいデザインであっても、設計がその場に適応したものでなければ効果が得られない。「またナントカ案件か」思考法においては細部の差異を自動的に切り捨て、その場の状況に合うかどうかの深慮もなく、決まりきった解答αやβを放り込むのだ。そして「これで万事解決!」そう彼らは思っている。
この思考法を採用している者は物事を分かった気になっているが、正確に言うならば、彼らが分かっているのは物事から細部の差異を切り落としたあとに残った理想上空想上のイメージである。
彼らは物事の正確な認識を避け、「またナントカ案件か」思考法によって情報処理の負荷を軽減し、空想上のイメージに飛びついてそれを現実だと思い込む。そして、いまや現実と同じ価値を持つにいたった空想上のイメージについて彼らは解答αなりβなりを提示して、すべてがうまくいったような気になっているのだ。物事がパターンAそのものであれば彼らの解答αで完全に片がつくだろう。しかし世の中はそれほど単純ではない。それは問題の矮小化、議論の簡略化にしかなっていない。
物事にはすでに用意されたパターンによっては拾いきれない膨大な背景が存在し、その背景の要素同士がさまざまに絡み合って、一つ一つの物事をそのときそこにしか存在しない独特のものにしている。
情報を受け取ったときの第一印象として、パターンAに類似している、あるいはパターンBに類似しているなどと察するのは問題ない。賢い人は一瞬でそういった思考をめぐらせて大体の全体像を把握する。しかしそこで「これはパターンAに類似しているからαをやっておけば問題ない」とするのははてなーに求められる態度ではない。類似したパターンを検索するのは始まりにすぎず、むしろそこからすべての議論が始まって深まっていくはずなのだ。
だがどうもこういったことができない人をよく見かける。「AだからAなのだ。だからαすればよい」などといった態度はどれほど知的な態度だというのだろうか。こういった種類の人間は自分の有するパターンの数を誇っているのかもしれない。「俺は1000のパターンを持っているから現実に対処するには十分であろう」などというように。こういった傾向を「知識オタク」と言えるかもしれない。
しかし実際のところ、彼は1000個のボタンと、そのボタンを押すことによって得られる効果を丸暗記しているだけなのだ。Aを押したらαが出てくる。ただそれが1000個あるだけなのだ。1000個では現実を生き抜くには少なすぎるだろう。それなら1万か、10万か、100万か?
おそらくそういうことではない。
こういった「またナントカ案件か」思考法によると、完全に未知の問題には対処できないのだ。未知の問題に挑んでいくのが知性というものではないだろうか。
安易な判断を下す前にまずは物事をよく観察し、情報を揃えてみてはどうだろうか。SNSを中心にやっているとインターネットというのは速さが求められがちだが、実は自分のペースで好きなだけ考えることができる空間でもある。
かつてお笑い芸人のおぎやはぎが「一概には言えない」と言っていたことがあるが、まさにこれなのだ。こういった態度にネガティブな印象を持つ人も多いかもしれない。しかし一概に言えないということは何も言えない、言わないということを意味するものではない。むしろ何かを言おうとしている態度である。だから何か言うまで待ってほしいし、十分に待つべきなのだ。
デマ情報、嘘ニュースの拡散が問題になっているが、「またナントカ案件か」思考法ともつながっているのではないだろうか。情報を見た瞬間に「これはひどい」あるいは「これはすごい」と認識し、それですべてを理解した気になってしまう。背景にどういった事情があるのか記事のバイアスはどう評価できるかなどを考慮せずに、あるパターンに類似した情報を、「きっとあれのことだろう!」と自分の中にある既存のイメージに結びつけて理解した気になってしまう。現代のインターネットには速さと同時に短慮がある。あるいはそれは短慮ですらなく、自動化されていて、ほとんどbot化しているとも言えるかもしれない。
「慈悲を強制する=他人の意志を捻じ曲げる」というおかしさに気付いてもらえるだろうか。
犯罪者が突き止めにくい交通手段が通勤・通学の要である以上、状況が修正されるまでは現実に即した対応が必要。増田は男性専用車両も併設されれば満足かな
「現実に即した対応」がなんら関係ない他人に負担をかけ、かつそれが当然という認識がまかり通っていることが問題。
男性専用車両については、謂れのない負担を押し付けあってるだけでなんの解決にもならないから反対。
女性専用車両があるから男性専用車両設置→(女性専用車両を利用しない女性に負担)
ほう。その「平等」と「公平」とやらの正しさは誰が保証してくれる?
「公平」でない「平等」あるいはその逆があったとして、誰がその正しいラインを設定する?
もし、男性なら、ただの強者の論理。女性でも、すべての人が戦える者と考えないこと。性別で戦っている人なら、社会が成熟してなくてすみません。
そして、このブコメの愚かなところは、すべての男性が強者だと思っていること。
男性はもはやそれだけでは強者足りえず、女性も女性というだけでは弱者ではない。
逆に女性専用車があって困ったことがあるのだろうか。自分は別に困らないし、正直センシティブな人はそっちに行ってくれた方が、冤罪リスクが減るのでありがたいなと。
乗り換え時に困ることはしょっちゅうだし、そもそも困る困らないの問題ですらない。
これは「男女平等」か否かの問題で、そして現状は平等ではない。
あと、女性専用車両で冤罪リスクは全然全くこれっぽっちも減らない。
センシティブな女性がセンシティブなまま一般車両にも入ってきて、男性のみ負担を強いられているのが現状。
社会のあるべき姿としては戦うなんてことしなくても安心して過ごせる空間だ。
男性が捨て置かれてるからって女性も同じに落ちろなんて意見に賛同できん。男性も弱いから守って欲しいと声を上げるのが洗練された社会。
ならば今すぐ男性に、競争も戦いもない社会を授けて見せろと言いたいブコメ。
男性が捨て置かれているのに、女性がさらなる要求を続けてるのが現状。
とりあえずもう一回貼る。女性が痴漢されてる女性を助けようとしたら痴漢の男にカッターで切られて流血沙汰になったっていう記事
もうこの手の論にはあきた。
私や大半の男性は、女性を痴漢もしなければカッターで斬りもしない。
一緒にしてもらっちゃ、困るし怒る。
貴方はカッターで斬られた被害者に乗っかって利益を得ようとする卑劣漢に過ぎない。
気持ち悪い
私は痴漢も強姦もしない。にも拘らず、一緒くたにされて迷惑している。
そして、「一緒くたにしている」行動の主体はあなた方。だから私はあなた方に怒りを向ける。
それは性犯罪者に向ける怒りとは種類も質も異なるもので、両立している。
とりあえずこの人が何らかの理由で女に恨みを抱いて拗ねてることだけはよくわかった。でもきっとフツーの顔して誰かの隣にいる。それは私かも。怖い。
でも、あなたみたいに社会への問題提起を「恨み」「拗ねてる」と矮小化して考えもしない屑が隣にいるとしたら、私は怖いね。
✕「女性は弱く守るべき存在」、◯「被害者や弱者は守られるべき存在」/俺は女性だからって弱いとは限らないし被害者や弱者に男性もいるぜと思ってブコメしたんだがわかってないなこの増田
出たよ出たよ、話を話者の恨みつらみだと決めつけて矮小化して勝利宣言あげる詭弁スタイル
面倒事を避けてその場で適当に話合わせることと、そのクソ上司が出世の鍵と睨んで取り入ろうとすることは絶対繋がることじゃないよって言ってんの
同僚が上司の意のままにめんどくさい仕事を引き受けたりしていればそれは腰巾着だけど、増田の話読んでもそんなに意欲的な人物とは断定できなかったからさ
にしてもトラバちまちま読んで同意が得られなければ怒って噛み付くような奴は、増田のいう腰巾着以下の存在じゃないの?
だいたい本人のいないところで悪口いうって点ではセクハラ上司と増田はやってること似たようなもんよ
ブクマやらトラバで自分の嫌いな人間が罵倒されていくのを見て自分の正しさを確認したかったんだろうけど
今更そんなことしても何にもならないよね?
別に撒き散らしてもいいけど、それで批判されるのは仕方ないとこあるんじゃないの?ネガティブな話なんだから
じゃあせいぜい似たようなクズ同士で仲良く騒いでいてください
いわゆるオタクコミュニティ、特に女性向け界隈なんかでは「みんなが好きなもの(この場合では何かのコンテンツなど)を尊重してなにかの悪口は絶対言わないようにしよう」みたいな風潮あるよな。それ自体は極めて道徳的で素晴らしいと思う。みんながそれを守れたらいいよな。でも実際ヒトは好き嫌いってものがあるわけで、みんながみんな好きになるなんてものは存在し得ないわけだ。そしてつい「これ嫌い!」って言いたくなる瞬間もある。そこでどうするかって言うと単純に「嫌い!」とは言えないから、その何かが倫理的、もしくは道徳的に間違っているのではないか、あるいは「ルール」に反しているのではないか、というふうにあくまで「善意の指摘」という形に変えてそれを否定するようになる。これが一部から「学級会」なんて揶揄される所以とも言える。ここでよく考えて欲しいのは、その指摘の正当性などは置いておいて、それが好きな人がどう思うか、ということだ。ある人は自分が倫理的に間違っているモノに良い感情を抱いてしまった、なんて自責の念に駆られるかもしれない。一方でそのような大変に複雑なステップを踏まずに「これ嫌い!」という「個人の嫌悪の表明」であれば、「まあ好きな人も嫌いな人もいるだろうな」というように納得することができるだろう。つまり、不文律を気にして遠回しに否定しようとするほうがむしろ、誰かをより傷つけているかもしれないのだ。「実際に問題があるのにそんな個人の好みの問題に矮小化して語れって言うのか!」なんて思う人もいるだろう。もちろん、この種の指摘を全て否定しているわけではない。しかしこのような風潮がより議論や対話を複雑化させているのは明白だ。タイトルではすこし語弊を招きかねなかったかもしれないが、もちろん特定の人種や宗教の信者などへの嫌悪までもを許せと言っているわけでもないし、いちいち好きな人に嫌い嫌いとわめきにいくのを許せとも言っていない。言うなれば「ピーマンが嫌い!」と言う人に、「その発言は全てのピーマンが好きな人と生産者の人格を否定しているぞ!」なんて詰らずに、「嫌いな人もいるよね」と、「個人の嗜好の違い」を私たちは受け入れられるんだってのに気付こうという話だ。
でも、その呪いを掛けられる側も、単なる被害者からの呪いと理解すれば共感もできるし親身にもなれる。
問題は、WEBでそれに乗った周囲の馬鹿が、これは呪いじゃなくて正しい愚痴だささやかな願望だとか正当化・矮小化しながらさらなる悪意をぶつけてくること
これは正しい非難なんだから殴られろと雑にやってくる無関係の馬鹿に反発して「怒り狂う」人間も当然ながら出現する。
作品を観るときに自分が男だか女だか腐だとかそんな妙な自意識を持ち出す必要が本当にあるだろうか?
ずっと観ているが、おそ松さんは一貫してアバンギャルドな表現をし続けていると感じる。なかなかそういう作風のものが他にないから、いつも興味深く観させてもらっている。なに受けを狙っているだとか、そういう穿った見方を払拭するくらいに多様な切り口でショートショート的な作り方をされていて、合成や宇宙海賊のようなSFの切り口にしろ、実松さんやイルカのようなドキュメンタリー/ハートフルストーリーのような切り口にしろ、結局はギャグとしてまとめていても風刺やパロディ、寓話的要素を詰め込む作りになっている。映像表現的にも多彩だ。それをみるに、この作品はクリエーターたちの創造力が発露される場となっているように感じる。そういう作品は観ていて気持ちがいいし、よい作品だと思う。
それを見る側の卑小な自意識によって、なに向けだとかに矮小化して、それでもってつまらないと断ずるなど、笑止千万というところだ。昨今、インターネット上の貧相なコミュニケーションに晒されているうちに、ずいぶんと傲慢な思考をする鯉になっている人間がたくさんいるように見受けられる。たとえば自分が絵を描くとき、それを鑑賞してくれる人のために受けをねらって描くのだろうか?そういう部分がないわけでもないが、それ以前に、まず自分の内に描きたいという思いがあるから描くのだろう。例えそれがビジネスであったとしても、その根本的な順序を違えていると創作なんてものは出来なくなる。おそ松さんという作品は、とりわけそうしたクリエイティブの欲望に忠実で居続けようとする思想性を帯びた作品であるように思う。その点で、誰に媚びているわけでもない作品であり、媚びているように見える部分は多分に風刺表現なのだ。
私たちは創作を見せてもらっている側であって、創作する側も、さきほど絵描きで例えたように、人間である。その人その人達の創作姿勢を汲み取ろうという親和的な姿勢なくして、見せてもらっている側が楽しむことなど到底できない。それはどんな作品についても言えることだが、その基本的なことを忘れて、自分の好きな要素だけ食べようとパクパクと口をあける鯉になっていないか、そのせいで認知が歪んでいないか、謙虚に自省する機会をすべての人が持つべきだと思う。