はてなキーワード: 動機付けとは
・大戦な。
違うだろw
韓国に対して卑屈なだけだろw
むしろ韓国に対してと同じぐらい他の国に気を使ってるのかよ。
友好的だからこそうるさくない国をないがしろにしてんじゃないのか。
ようやくな。
それもどこでヘタれるかわからないが。
元々俺達が今直接何かをやるなんて話はしてないと思うが。
外務省にだって頭のいい、愛国精神にあふれた人はいるよ。信じてじゃまにならないように、品位を持って、礼儀正しくしていようよ。
あめーよ。
そして民主的な公僕だ。
(15年前なら「愛国心」なんて言ったら「とんでもない!」「右翼!」って言われたんだからな。)
動機付けも泣く監視もなければどんな人材でも必ず仕事をサボる。
それを求めに応じて切り売りして相手国と仲良くもするわ。
政治家も同じ。
「それが重要な仕事ではない」というシグナルを送ればどこまでもサボる。
うるさいぐらいにしつこくせっついてようやく仕事をする。
何の世界でも同じだ。
私的ではあるが
恒常性を維持するという働きは、主に体内で起こる
血圧・体温・血糖値などが変化した場合、それを正常値に戻そうとする事だ
これにより常に同じような体内環境を維持している
心理学においてはこれを一次的欲求の説明に使った
つまり、食・性・排泄等々が充足されていない状態から充足されている状態へと戻そうとする
その為に人は何かしらの行動を行うのであり、そうでなければ行動は生じないというものである
フロイトはホメオタシスの逆にヘテロスタシスがあり、こちらは変化(成長や自己実現)を促すものであるとした
そしてこれが死の欲動に繋がるのだとした
ホメオスタシス、恒常性の維持の機能だけでも自殺は起こるのではないだろうか
死ぬということはつまり、あらゆる精神活動が止まるということだ
もし、自分の持つ処理能力では葛藤や情緒的不安定状態を解消できないとしたら
その時に生じる対処法は概ね不適応だろうが(例えば否認、投影、乖離といった防衛機制)
ホメオスタシスを維持しようとする為に、それを処理する・感受する機能の停止=自殺を選ぶという事だ
通常は、あらゆる防衛機制によりそれを防ぐが
元増田です。
言い方が悪いかもしれないけど、イントロは『その系に注目した動機』を書く場所で、書いて、『動機とその自分がやった個所の結果を端的に(アブストラクトがあればいらない)』かとおもう。
これは、何を動機と呼ぶか、なんですよ。
じゃあ、めーっちゃしょうもない例え話をするよ。
ドラえもんというマンガの研究をした人が、日本のマンガの研究をする意義を述べた後、ドラえもんの研究がどこまで進んでいて、
まだ何を明らかにする必要があるか、と書いたとするよ。
この場合、『ドラえもんの研究がどこまで進んでいて、まだ何を明らかにする必要があるか』は、ドラえもん研究をする上での重要な動機付けですよね。
それがなければ、なぜその論文で行っている実験をしていくかが本当の意味ではわからないはずなんです。
しかし、たぶん増田さんも、うちの教授も、『日本のマンガの研究をする意義』を述べるだけで十分だ、っていってるんだと思うんだよね
これはとてもおかしなことで、明らかになってない部分を詳細に書くことがすなわち細かい意味でも研究の動機づけになってるはずなんです。
そして、門外漢を想定した場合のほうが、より詳細に書くべきなんですよ。
であっていいと思うし、俺だってそこまで冗長に詳細に書かないよ。
今後 学会などで外の教授に読んでもらうときにコレでは重すぎると感じる人がいる。という指摘だと思って受け入れたほうがいいと思う。
学会発表でも簡潔に書くよ。
でも、今回は修論なんですよ。
門外漢が添削してる、とはいえ、同じ研究科の近い分野の教授が読むんですよ?
「背景を詳細に書いたらわかりにくい」なんて、言い換えたら、
「詳しく書かれてると読むのに骨が折れるから読みたくない」とか
「学生の修論なんかこんなもんでいいでしょーってノリで添削しようとするには難しかった」とか
「難解なものは俺は理解できない」とか、言ってるようなもんだと思う。
それか、もちろん、文章が下手、っていうのもあるかもしれない。
だから俺は、学生がイントロが削られた、と言っているのを聞いて、
「じゃあ意義がもっとわかりやすくなるように、削れと言われた部分についてはより詳細に書いてみたらどうだろうか」
なんて言ってもみた。
でもやっぱ、そういう問題じゃないんだよね。
つまりまあ、今回の一番のポイントは、今回が修論だ、ってことだと思うのですよね。
学生が積極的に努力した結晶を、個人的な趣味によって完全否定したことが問題なんです。
これでは学生の、若い人の積極性が育たないし、いいことなんてひとつもない。
学生が明らかに間違っていたり、指導教官の譲れない部分であったら、仕方ない部分もあるよ。
しかし、今回は全体を通して読みもせず、部分だけ見た思い付きで、「んーここ長いし細かいからわかんない、いらない」って否定しているんだよ。
これが許せると思う?
っていうことなんです。
伝わればよいのですけど。
あとついでに。
いえ、これは人類が未だかつて誰も明らかにしていないことです。
『私がわかっていないと思う。』ことでしか無いなら文献調査不足です。
僕ではわからん、すごいことをしているんだろうから、がんばってこの国を引っ張っていってくださいな。ただ、世の中には専門外とかFランもいるんだ。ということは忘れないでね。
これは、研究費調達のための申請書なんかは、まさにそういう書き方をするんですよね。
あと、合コンや、親せきのおばちゃんにたずねられた時も、そんな意識はしますよね。
今回は修論の話なのでー。
元記事
http://yorogame.blog137.fc2.com/blog-entry-513.html
9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高いこの文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
またこれらの考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い蒼井そらが社会の理想と希望について語りながら、性的な事を行う映像を創ることもまた効果的であるといえる。
その理屈を使って、ネット上で論じられる著作権問題を憲法が持つ全体の利益という視点を重視して、多少厳密さを欠いたうえで語るなら、インターネット上の無料コピーは日本人が一般的に思っているほど、あまり悪いこととも言えないという理屈も導ける。
ネット上の無料コピーによる、著作権侵害が違法であるといっても、動画サイトで見るのは良いが、ツールを使って落とすのはよくないとかそういうのは根本的に考えたら些末な問題でやってることは本質的には同じとも云える。それを差異があるように演出しているのはあまり社会を善くするという意味は無いと云う事もできる。なぜなら、どのような方法であれネット上で無料コピーにより著作権を侵害するという行為によって逮捕される人は現状、全然居ないに等しいからだ。なのでこのような違法としていて一部はそれを遵守せよ!と感情的になっているがその視点は近視眼的ということもできる。そういったあまり根本的に考えなていない意見によって脅迫をかけるような同調圧力と化していると思う。全体の利益という視点を重視したら、違法としててもろくに取り締まりもおこなっていないやったもん勝ちみたいな、現状の無料コピーに対する意識というのは不自然です。赤信号は場合によっては無視してもいいという意識は誰でももっているように、無料コピーにしても、目立つ形でやった人間以外ととても運の悪い人以外には、取り締まりなど無いに等しいから、やるのは個人の判断で赤信号を渡ることと似たようなこと。という意識を多くの国民がもっていたほうが国家としては健全だと私は思う。その国民の意識に応じて法を変えれば良い。
そのようなそこの浅いときに、脅迫的ともいえる同調圧力意見というのはネットにはありふれていて、その思考方法を変化させるためにも、国家はどうあるべきかという形を分かり易く国民全員に伝えなければいけないと思う。
(終わり)
日本のメディア間の隔絶について 日本のおけるネットとオールドメディアの最適な関係の構築方法の模索
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネット、TV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、 Permalink | 記事への反応(0) | 04:44
雑多に。
・(全般)論文の書き方:すべての基本。高校生までは起承転結(四段階)だが、大学生以降は序破急(三段階)が普通になっていくので慣れていくこと。
・(全般)プログラミング:すべての基本。言語学や論理学と密接な関係があるので、体得すれば実は論文の書き方に強力に役立つ。
・(全般)健康管理:健康を壊すと普通は勉強ができなくなる。体力と相談してがんばれるだけがんばる。
・(教養学部)教養:東大の特殊なところは、1、2年は教養学部というところに所属するところ。
ここで、広く、できるだけ深く、何でも雑食にガリガリ吸収して、自分なりの知の体系を、藁葺き小屋でもいいから作ることが求められている。多分。
・(文1・法学部)政治学:集団的意思決定に関すること。生臭いが、体得すると選挙や住民運動の時に、偏見に凝り固まった勢力から自由になって、自分の意見を持てるようになる。
・(文1・法学部)行政学:公務員はどう働くか。知らなきゃ公務員になった時にしぬ。公務員になりたいわけではなくとも、学者になったら役所と取引することになるので、彼らの行動様式を弁えておくのも大事。
・(文1・法学部)法学:公務員は何を守って働くか、倫理とはどう違うかなど。知らなきゃ公務員になる以前に試験の段階でしぬ。以下略。
・(文2・経済学部)経済学:財・サービスの一般的な流れに関すること。何で自民党が無駄な公共事業をやったかというと、彼らも決して馬鹿だったわけではなく、ケインズ経済学という思想的根拠があったことが分かる。これだけでも日本では重要。
・(文2・経済学部)経営学:お仕事の要素が入った組織をどう正確に効率よく運営するか。どこの組織に行くにも絶大な力になる。個人で生きていくなら別だが、事業を起こすなら必須。
・(文3・文学部)心理学:記憶と連想が切り離せないこと、情動(感情)や動機付け(欲求)のあり方をわきまえておくと、勉強のときに障害を取り除ける。
すなわち、沢山勉強して沢山思い出して連想することが知識になること、感情や欲求を適切に駆動し、不必要なら安定させること。
ついでに、生命反応や身体や神経や脳から、どのように心が生じるか学ぶのも悪い経験ではない(先に言っとくけど、心と身体の関係について論じる、いわゆる心身問題はまだ結論が出ていないので、深入りは禁物)。
・(文3・文学部)言語学:教養学部でやる外国語と文学部でやる言語学がある(正確には違うけど)。
外国でバリバリ働くビジネス目的と、論文を発表する・資料を原著で読む目的とがある。
長期的にどっちをやりたいかということと合致させた方がいいが、計画的に東大に入った入学者でなければ、よく分からないまま選択して二年間ババ引く可能性が高い。東大のシステムの疑問点だが、何か意味があるのかも知れない。何でこうなってるんだろう。
・(文3・文学部)社会心理学、社会学:人が集まるとどう振舞うかを理解するのは、ミクロ(個人)とマクロ(社会・集団)の関係をわきまえておくときに有意義。
・(文3・文学部)文化人類学、歴史学:昔の人の好みとトラウマ、成功と失敗を学んでおくことが大事。民族的歴史というものもあるので、「あー、日本人は災害時はこう振舞うのか、ではこうすればいいのか?」みたいなことができる。
・(文3・文学部)倫理学:いわゆる道徳・倫理を扱う倫理学にはいろんな学派があるが、それほど倫理学のフォローする領域は広い。
要するに集団のルールというのはどうやって決まるかということを、いろんな出発点(個人主義、生活、健康、生殖やエロス、プライバシー、コミュニケーション、権威、助け合い、暴力などなど)から積み上げているからだろう。
どれも集団生活を可能・不可能にする大事な本質には違いないので、広く浅く吸収していくとよい。(集団主義的なことを言うとあそこでは嫌がられるだろうけど、俺はそういう結論になっちゃった)
・(文3・文学部)哲学など:人間の脳の構造でいろんなものを筋立てして考える。倫理学もそうだが、哲学となると広すぎてちょっと大変。しいて言えば科学哲学とかやってみるといい経験になりそう。
・(文3・教育学部)教育学:教育学部に行く人以外関係なさそうだが、親になりたきゃちょっとかじっておくと後々いい感じになる。
・(理全般、特に理1・理学部)数学物理化学地学生物:文系でも「物質から生命反応が生じる」ということを了解しておくのは悪い体験ではない。
・(理1・工学部)工学:「社会のためにどう計画する?」ということは常に考えておいた方がよい。
・(理2・農学部)農学:別に農学部行く人以外は関係なさそうだが、安く安全に飯が食えるということは大事ですよ。TPP問題とかやりたくなったらどうぞ。
・(理2・薬学部)薬学:農薬や医薬をやりたい人以外には関係なさそうだが、有害物質問題とかやりたくなったらどうぞ。
・(理3・医学部)医学:普通の学生は「ものみんた(誰だ)の野郎! 健康について適当なこと言いやがって! 俺は気をつけよう」というときにのみ有意義。
理3の学生がまじめにやる分にはすごくハードなのでがんばって。
そうでなくても理3は超頭のいい人が入るところだから、超人的な世界で超人的に頑張ることを余儀なくされる。
(2011.03.27 18:37 追記)
twitterで指摘がありましたが、私は文3・文学部卒でして、文3・文学部についてながながと書きすぎました。確かに今読み返すと配分がおかしいね。
そういう意味ではタイトルは釣りですよ。すいませんねどうも。でも130キロあった俺が、3ヶ月で100キロを切ったのでそれを記念して手法を増田に書いてみるぜ。いつもやってるブログじゃ私生活(笑)の事は書いてないのでね。すごく久しぶりに増田を利用するぜ。昔の空気しかしらんからズレているかもわからん。でもまぁ検索でもされて誰かの役に立てばいいと思って書いておくぜ。
道半ばだがね。
その手法とはすごく簡単だ。
この三つだ。
中途半端な動機付けではとてもじゃないが100キロ超まで太らせた奴に決心させることは相当難しい。人によっては恋の力とかそういう途方も無いものをどこからともなく使うリア充もいるらしいがそんなもんがそこらに転がっていれば誰も苦労はしちゃいない。
だから誰にでもできる動機付けをやろう。それは医者に行くことだ。
スポーツマンとかをのぞけば、標準的なアジア系日本人なら、100キロも体重があったらまず確実に病気になってる。
だから医者に行け。できたら肥満症系の専門医がいい。一番なのは糖尿病系の開業医・専門医がいい。
糖尿病なんて関係ないって?そう思うなら以下に思い当たることがないか考えてみることをすすめる。
これな、ほかからみるとのんきな元気な奴に見えるんだが、これに複数思い当たる節があったらこれは糖尿病の可能性があるぜ。
一つずつ説明するとだな…。
そうして病院に行くと「糖尿病ですね」あるいは「肥満症ですね」もしくはその予備軍ですねと言われる事となるだろう。すると近頃は肥満症・糖尿病の治療は非常に体系的になっていて、きちんとダイエットの方法などをアドバイスしてくれる。
またさんざん脅してくれるので、相当でもない限りきっちり動機付けは出来るだろう。
実はこれだけでほとんどダイエットなど成功する。ただ俺がやった方法を後に書いておこう。
まずはこれだ。これに尽きる。食わないというのは量を食わないのではなくカロリーの高いものを食わない。
食って痩せる?そんなことはできっこない。そんなモノはほとんど幻想と言ってもいい。
適正体重内の奴がより理想に近づくために、2キロ減量とかそういうのだったらいいかもわからんが、130のデブが30キロ急いで落とさなければならんとか言うのは無理だ。まず食うな。
これは手で計算しろと言っているわけではない。が、自分に逃げ場ないくらい精密に行うべきだ。そういう点で、ソフトウエアと、キッチンスケールを利用する。
カロリーを記録するという触れ込みのサイトは幾つかある。またソフトウエアでも数千円からプロが使う並に充実したソフトウエアが購入できる。そう言うのを探してもらえばいい。
俺はマッシュルームソフトウエアというところのカロリー計算ソフトを使用している。これはプロの栄養士も使っている比較的高度なものだが簡単な操作で計算ができるようになっていて便利である。クラウドというかASP型の無料サービスもある(ただこちらは時間がかかりすぎる印象があって毎日ぱぱっと行うにはローカルのアプリのほうが良いと判断している)
昔だったら大変だったんだろうが、今は優秀なサービスが多いのでわりと簡単にできる。
具体的な食べ物については、こうして記録していくと自然に自分のライフスタイルの中でカロリーが低く好きなものが出てくる。また自然に嗅覚も付いてくるので、それほど心配する必要ないと思う。
むしろこうでないと、なにか特定の食材に頼ったダイエットをすると必ず無理が出る。いかに習慣化するかというところがキーポイントだからだ。
次がこれだ。よくダイエットというと食事だけで減らそうという奴が出てくるが、原則的にそれは成功しないと思ったほうがいい。(逆に運動だけでももうまくいかない。だから食うな、動けということになる)
よくカロリー計算をすると多少運動をしても全然痩せないのだから運動などしても無駄だという意見があるが、実際のところこれは半分事実で、半分間違っている。たしかにカロリー計算すると純粋にその運動だけで消費されるカロリーはずいぶん少ない。だからそれ自体では大して効果がないというのは事実である。だが半分事実としたのは、実際に運動した効果はその運動による消費以外にも及ぶからだ。人間は少し動くとそれだけで体が活性化される。これは運動の前後でカロリーを消費しやすくなるという効果と、運動することで身体能力が向上して動けるようになってくると言うことである。ここまで計算に入れればかなり違う。
同じく、以前NHKの番組で「『筋肉増で基礎代謝を増やし、それによって減量する』というのは、実際には筋肉増による基礎代謝がふえる量は微々たるものでそれは嘘である」と紹介されたが、これは事実だが誤解されやすい。ここで言われている基礎代謝は学術用語で厳密な意味での基礎代謝だ。一方ダイエットというか肥満症の治療に詳しい理学療法士が言うのは「運動によって基礎代謝が増える」ではなく「運動によって生活代謝が向上する」あるいは「同じ運動でも消費カロリーが増える」ということを指している。ここを取り違えて運動の効果を軽視してはいけない。
この運動も、これもいかに習慣化するかということがポイントだ。だが状況によって手法はいくつかあるしそれが誰にでも当てはまるのはおそらくない。歩くのが好きな奴、自転車が好きな奴、そもそも外に出たくない奴などなど。
だからこれは全く参考にならん人もいるかもしらんし、参考にしてくれる奴もいるかもわからんが俺の手法を書いておく。
以下の道具を用意した。
今の時代に幸いにしてといったらいいか、仕事はあるのはよいのだが帰宅が11時などが連夜続くこともあり、運動を続けるのはなかなか大変である。そこで組み合わせたのが趣味といっしょにするということだ。
まずさすがに無駄にしたらヤバい金額の運動器具を買う。これはまず第一に動機付けをするということと、きちんとした機械を使うことで故障することなどへのリスクを回避する効果を狙う。
安くても意思があれば大丈夫と言われるかもしれないが、このとき重要なのは、100キロ超の体重にも対応する運動器具など実際には殆ど無く、市販で売っている安価なものを100キロ超の人間が使うといとも簡単に壊れるという点だ。これは単純な話で、力というのは質量×加速度だ。掛け算で効く。そのため同じ運動速度でも体重が大きい奴が使うと運動器具にかかる力が非常に高くなるということだ。おそらく動くだろうという程度で安物を買うとあっという間に壊れる。ここにケチってはいけない。ヘタをすると適正体重の人でもちょっと運動をして筋力が付いてくると壊してしまうようなやわなものも出回っている。
次にパソコンと大型ディスプレイ、マウスとキーボード、そしてネットレンタルDVDの契約だが、これはつまり、趣味である。俺は典型的な消費型オタクである。アニメ、シミュレーション系を中心としたゲーム、漫画、小説を愛する。(これで130キロ超、今でも100キロ、さらに顔面が先天的に不自由だし、服のセンスもないし最近声優にも詳しくなってきたし、きっちり世間一般キモオタの要件を満たしているがまぁそれはそうだとしか言いようがない)
そしてこれらを運動する器具の周りに配置して、ネットレンタルしたアニメを見ながら、シムシティをやりながら、エロゲをやりながら運動するのである。するとかなり時間が早く過ぎる。これにより毎日30分、1時間などあっという間…というのは言いすぎかもわからんが、ずいぶん楽にできるのは確かだ。
運動するぞといって意識してやるのはたしかに重要だし集中するのもいいだろうが、毎日続けることが重要である。だから集中するのではなく、”ながら”で毎日やる楽しいことと一緒にやるのである。
以上のような方法で3ヶ月で30キロ落とし、130キロあった体重が今日100キロを切った。
こうやってかくと怪しげな健康食品や壷系石系の怪しげな広告文句に見えるが、事実だ。
とりあえず30キロ痩せるということは、30キロ分の荷物をおろして歩くようになったのに等しい。一日中歩きまわっても足が痛くならなくなったし、どこにでも行けるようになった。
背が伸びたのも事実だ。正確には伸びたというわけではなく、今まで過大な体重を支えていた背骨や関節の軟骨が伸び、1センチぐらい測定値が伸びた。
また、どうも今まで腹に重たいおもりを積んでいたので自然と前かがみに、姿勢が悪くなっていたのが矯正できるようになった。今まで姿勢をよくしようとしても前についた肉を持ち上げるだけの背筋が必要になるため、かなり困難なことだった。さらに前に向かって体重をかければ、肉がつっかえるようになってそこで体重を支えられてしまうので楽にしようとすると姿勢がどんどん悪くなっていた。これがなくなって姿勢を良くすることが苦ではなくなった。
すると自然と背が高く見えるようになったらしい。これも含めて同僚には「こんなに背が高かったでしたっけ」と言われたりもした。
仕事ができるようになったのも事実だ。今まで夕方になると低血糖になって明らかに生産性が落ちていた。これもなくなった。というか全般に体調がえらくよくなった。
その関連か、血色がよくなった、というか、肌がツヤツヤになった。正確にはふできものができなくなったと言えるし、抜け毛も明らかに減った。
女性には関係ないことに思うし、少々お下品な話であるが、最後にチンコが長くなったことも書いておこう。これは正確には長くなったと言うよりやせたことでチンコ周辺の肉が落ち、露出するチンコの長さが増えたことにより相対的に長くなったように見えるのである。同時に根元がやせた分皮が引っ張られることで若干顔を出すようになった。日本人の大半は仮性包茎である統計もあり特に気にしてもおらず、誰かに見せて使う予定も今のところ残念ながら惑星間に浮かぶ微細な塵一つほどもないのであんまり関係がないのだが、小便をするときに楽になった。同じく、下を向くと自分のチンコが見えるようになったことも書いておこう。実利はあまりないが、男性諸君は分かってくれることと思う。これは地味に自分がやせたのだという実感を感じさせてくれることだった。
ただ体調としてはいいことばかりではない。人間は一ヶ月に落とす体重は、最大で1%以内にするべきなのだそうだ。そうでないと体のバランスがおかしくなる。またリバウンドの危険性が大きくなる。
今回は一ヶ月に1割近く体重を落としている。そのため、体重が減ったことで腰痛が出たり(腰の体内圧力が落ちることで起きるのだそうだ。そのため今はコルセットを付けている)、肉のエプロンというか、余った皮が体の前に垂れ下がってきたり、うまく体のバランスが取れないと感じることもあるが、それはいずれなれると思う。
ちなみにこんなことを書いているが、俺の理想体重は70キロである。まだ30キロもある。まだまだ道半ば…より手前だ。運動は体重が減ると自然に負荷が減ってしまう。だからこれからはさらに困難になるだろう。
ただ自分の言うダイエットは、本来理想体重前後にある人が外観的な理想を求めて行うものと異なりかなり痩せやすいと言っていい。その点でそういった苦労しているというイメージのあるダイエットよりかなり簡単だ。
また、それらよりはかなり切実なものだ。
ぜひ100キロ超の諸君、ぜひダイエットをして軽くなろうではないか。俺も頑張るので。
使ってる道具について質問いただいたんで、そのあたりのエントリーも書いてみたぜ
http://anond.hatelabo.jp/20110307112404
他にも何かあれば分かる範囲で答えるぜ
悲しいけれど、この世界は「諦めた」人にはとことん冷たいんだから。
メンタルがボロボロになっても、動機付けが弱くなっても、続けるしかない。
一行前の言葉に必要性を感じないのなら仕方ないけど。
現在大学4年で卒業を間近に控えている。去年の2月から就職活動を始め、これまでに50社受けて全て落ちた。今も続けてる。
志望は全てSE。(←なんで?っていう疑問が多いですがここではひとまず志望理由とか身の程とかは関係ないので書きません)
大学はニッコマの文系で、サークル、アルバイト、ゼミはやってきた。話の題材には困らない。コミュ障ではないし、大手病でもない。
自分で言うのもなんだが、客観的に見て、ひどい欠点がある学生ではないと思う。それでも内定は出てない。
~~~
書類や筆記は大体通るが、面接で落とされることが多かった。
落とされては落胆し、その後冷静さを取り戻して落ちた原因を考えることを何十回も繰り返してきた。
それにも関わらず、相変わらずいつまでたっても面接に落ち続けた。最近、自分が面接で落ち続ける理由は、自分なりに面接に落ちる理由を考え対策しているつもりで、実はただ空回りしているだけだからなのではないかと思うようになった。
選考結果にはフィードバック(企業からの評価、コメント)がない。面接にはもう慣れたが、フィードバックがないせいで自分が落ちた原因が分からないまま何も改善されることなく就職活動をしてきたのだと思う。
大学にはキャリアセンターというものがあるが、そこで面接の練習をして問題点を指摘してもらえば良かったのかもしれない。しかし自分の中に、たかだか面接のために練習なんてしていられるかという気持ちがいつまでたってもある。これは自分の弱みなのだろう。
~~~
こういうニュースを受けて、昨今の学生はメンタルが弱いな、と思う人はたくさんいると思う。
自分も、就職活動が始まる前は、たかだか就職活動で気を病むなんてどうかしてる、と思っていた。
今では、そうは思わない。自分が今精神的に崖っぷち、とまではいかないが崖の付近まで来ているからだ。
最近、就職できないことがなぜこうも人の心に悪い影響を与えるのか考えるようになった。
1まず、前述したように、選考結果にはフィードバックが無い。学校のテストの様に、間違えたところの原因を追及して改善してということがしづらい。これは非常に気持ちが悪く、回数が増えていくと、まるであり地獄の中にいるような気分になる。
2また、面接を何十回と重ねて失敗し続けると、人の心というのはそれに対する動機付けが弱まる。心にネガティブな印象が刻まれ続けるので、だんだんと足が重たくなってくる。
やがて、不可能なのではないかと判断するようになる。なってしまう。頭の中ではいつか内定にたどり着けるだろうと考えることはできるが、面接に落ち続けることによるインパクトの前ではそのような考えはあまり意味がない。
3そして、人(自分)は自分の価値を相対的に判断しようとする生き物だということ、あるいは人は嫉妬する生き物なのだということを強く感じるようになった。
日本人の新卒内定率が氷河期に入って2割ほど落ちたところで、世界的に見るとかなり高いままだ。おまけに正社員やらホワイトカラーやら贅沢するなという声があがることがある。自分も、そういう声を聞いて、確かにと考えたこともあった。恵まれない人がたくさん存在するのに、自分は贅沢だなと思った。
内定率が下がっている中で、内定にたどり着く人は確かに存在するということ、その数というのも決して少なくはないということ、自分は考えようによっては現時点で平均以下でなのであること。自分の感情(自分の価値)は自分のごく身近な人間によって規定されてしまうのだと理解した。
社会的な欲求を満たすということ、あるいは社会的な承認を得るということはこういうことなのかと思って、疲れを感じるようになった。
~~~
最初に、自分はこれまで50社受けたと書いた。1年間で50回外出すれば7日に1社受けたことになるが、1つの会社につき訪問数が1回だったり3回だったりするので大体何日間就職活動に費やしたかはわからない。理系学生と違って研究室などはなく、単位も取れていたので、フルで就職活動をすれば100弱はいったのではないかと思う。
就職活動初期の昨年冬頃に比べたら、春、夏と季節が変わるにつれて確実に足が遠のいていった。前述した様に、落ち続けることで動機付けが弱まってしまったのだろうと、自分を分析する。
もし今自分が人事、あるいは面接官を担当していた場合、めげずに年間100社弱周ることができる人を採用するだろう。この無間地獄で自分をコントロールし続けることができる人を、誰よりも尊敬したいと思う。
追記
今朝はてなを開いて驚きました。一通りブックマークコメントを読みました。
みなさんありがとうございます。
こんな本を見つけて借りて読んでしまったわけだけど
>>「努力と成果の相関がもはや信じられない」リスク社会において、それでもなお「努力と成果の相関を信じることのできる」人々が社会的リソースを獲得する可能性が高い。反対に将来の予測が立たず、努力が水泡に帰す可能性が高いというリスク社会の実相をリアルに見つめている人々の方がむしろ選択的に社会の下層に降下してゆくことになります。
まことに奇妙な話なのですが、リスク社会とは、そこがリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け、あたかもそれがリスク社会ではないかのようにふるまう人々はたくみにリスクをヘッジすることができる社会なのです。
>>そして、リスクの少ない社会階層に属する人々は、当然ながら、日々の実践を通して「努力は報われる」ということを確認し、それによってますます努力することの動機付けを強化し、リスクの多い社会階層に属する人々は、「努力は報われない」ということを骨身にしみて味わい、ますます努力することの動機付けを失う。このフィードバックが極めて短絡的に日本社会を階層化した原因である。僕はそう考えています。
つまり要約すると、
・リスク社会を認めない者は上位に認める者が下位に降下していく。
じゃあ自分が上に行くにはどうすればいいのか?
結局こうなるんだよなあ・・・・
箱庭系なんて、まさにゲーム性をソーシャルで補ってる例だと思うけれどね。
本当に庭を造るもの(大昔に結構流行った)から、農場、城、町とか様々だけれどさ。
例えば「国盗り」で追加された、城下町を作るゲームは、リアルの移動がメインだよね。
その「移動」に動機付けするのが、住民が増えたりしますよ、と言う奴。
住民の数でパーツを置ける範囲が増えるんだが、その移動結果の住民増加数を、金で買うアイテムで一時的に上げたりできる。
はてさて、こういうのって、「ゲーム」なのかね?
大昔の庭を造るのもそうだけれど、足しげく通って(アクセスして)、水をあげたりすると立派な庭が出来たりする。
ソーシャルに繋がって、他人に庭を公開したりするわけだけれど、これらの場合「ゲームがしたい」のだろうか?
「人付き合い」や「移動」がメインで、ゲーム(と呼べるか怪しいけれど)は付属物だよね。
儲けるツールとして、ソーシャルゲームはよく出来ていると思うよ。
でもそれは、メールや掲示板と一緒で、繋がったり旅行したりする事の付帯物であって、メインではないよね。
原点回帰とは呼びたくないし、ゲームとしては退化だと思うけれどな。
労働のインセンティブを金でなく時間にシフトしたらいいんでね?
って話だろこれ。どこをどう読めばそうなるのか理解に苦しむ。脳の具合が大分悪いんじゃないか?
今夜はぐっすり寝て、たまにはダラダラした方がいいぞ。
例えば、9ヶ月稼動(週休一日)→三ヶ月休暇のローテで給料は安く固定。
休んでる間も雇用保険他の社会保障費は継続。ってのなら双方に旨みが発生するかもしれない。
もちろん待遇は正社員扱いでそう簡単に解雇はなし。休みの間はアジア圏でマンションでも借りて暮らしなさい。
みたいな感じだと、結構動機付けになる上に労働力を安価に得られるのではなかろーか。
ホワイトカラーの中層以上でもこれに魅力を感じる人はそこそこいるかもしれないね。
ま、この働き方が増えて来ると内需にボディブロー炸裂だが、それはそれとして。
こういう繰り返しに生きるってのも、結構多くの人にとって悪くないだろうね。
戦う男の子の物語には、倒すべき相手がいる場合が多い。倒すというと威勢がいいが、身も蓋もない言い方をすると殺しだ。強敵を倒して成長する、と書くと綺麗だが、人を殺して成長すると書くと、大変物騒だ。だが、無論殺人そのものに、そういった力があるわけではない。
殺しには動機がいる。「暴力は、正統な理由がなければ退屈である。」と、ヒッチコックもいっている。ただ、登場人物の動機を「アイデア1000本ノック」のようなもので作ったとしても、観客がそれを納得するかは別である。納得しないモノを出しても駄目なのだ。
船戸与一によると、冒険小説における納得できる殺人の動機は、大別して三つだという。「生体の保存」「任務遂行の目的あるいは手段」「復讐」。「生体の保存」は、殺らなきゃ殺られる、というやつ。「任務遂行の~」は、プロの殺し屋や軍人などに多い。
ロボットアニメを頭に浮かべる。
受け売りだが、ロボットの設定を凝りまくる場合、殺しの道具、ピストルやナイフに凝る事に似ている。「いかにして相手を殺すか?」という事であるが、「なぜ殺すか?」については、ロボットそのものからは見えてこない。
ガンダムのアムロは、最初は「復讐」だった。ほんっとに最初だけだけど。次は「生体の保存」、ついには「任務遂行~」になった。エヴァのシンジ君は、強いて言うなら「生体の保存」だが、疑問である。廻り(ネルフ)が無理やり「乗せちゃえ!」という感じだったので、動機なき殺人、という気も、しないでもない。そのせいか、あまり成長もしなかった。
ただ、動機が「殺らなきゃ殺られる」だったとしても、殺る側の動機だって必要だ。昔は「地球を侵略しに来たのだあ!」などで済んだのだが、今ではそうはいかない。なんせ我々は進歩したのだ(ホントか?)。殺る側の動機を考えてみる。「俺は悪い宇宙人だから」「戦争だし、軍人だから」「考えた事もない」「システムがそうなっているから」「そういう決まりだから」あまりパッとしたものが浮かばない。
少年の物語には、「あいつ気にいらねぇからブッ潰す!」とか、「強くなりたい!」という、ものすごくわかりやすい動機がある。が、ロボットアニメの場合、軍隊と結びつく事が非常に多く、「強くなりたい!」という理由でミサイルぶっ放したとしたら、見ているお客さんがどう思うのか、何となく想像はつく。
凸凹軍対○×軍があって、凸凹軍に主人公やヒロインがいて、ライバルが○×軍にいる、とする。戦争で軍隊に居るのだから、戦闘には事欠かない。とりあえずの理由もある。軍隊にいると、色んな年齢や人種の人達に会えるし、遠くの場所だって移動できる。宇宙に行ってもおかしくない。が、軍隊組織やロボットを事細かく描くだけでは、「いかに殺すか」だけで終わる。エヴァの後、敵の姿をハッキリと描かないアニメがあったが、戦いの理由がぼんやりしているというのは、危険である。主人公の動機がなければ、「しかたないよね、戦いだし。人を殺してもさ」。これがテレビの放送に耐えられるのか、私は知らない。(物語内の)個人の動機と、環境や状況を混同してはいけない。「人を殺してみたかったから殺した」と答える者は、いつまでたっても大人になれないのではないのかと思うが、そういう事を語るのは、専門家ではないので荷が重い。「成長成長って、そこまでしてなぜ大人にならなければならないの?」という問いが浮かぶ。これは「では、子供のままでいいのか?」とセットで考える必要がある。戦いを経験すると必ず成長する、という決まりはない。ロボットアニメの主人公は、成長しなければならないという決まりもない。決まりはないが、「最新ロボを操縦している少年は、幼稚なままだった」という姿を観客に見せる作り手は、おかしいと思う。黒い笑いを描きたいのなら別だが。
「戦う男の子」「戦わない男の子」「戦えない男の子」 こう並べてみると、男の子の物語は、選択肢がほとんど無い。冷遇されているといってもいいし、戦ってりゃなんとかなるという、ある意味甘やかされてきたともいえる。なぜ十代の少年が、巨大ロボットに乗って敵を殺さねばならぬのか、という事を考えると、「戦う男の子」が、非道く揺らいでいるように見える。ふと考える。巨大ロボットのバックには、軍隊や国家がある場合が多い。作る上では設定上、そうすると助かるのだろうが、十代の成長物語を描く上では、もう時代に合わないのではないか。戦う男の子の目的地が、戦う男になる事しかないとするのなら、ロボットアニメにおける主人公の成長の定義は、いまだ戦中といっていい。生意気な態度をとり、戦いに悩んだとしても、それらは国家のお墨付きの中で、である。最新型のコックピットの中で、である。愛国的であるが、単なる戦闘馬鹿ともいえる。「ロボットを作った『ナントカ研究所』の面々が、よってたかって主人公を一人前の男に仕立て上げる物語」でも、昔はよかったのかもしれない。だが、90年代にもなると、庵野監督をもってしても、動機付けすることは不可能になった。一人前の男にする事も出来なくなった。一人前の男とは何かすら、わからなくなった。深く設定を作ってしまったばかりに、動機があいまいでも、なんとかなってしまったのが皮肉である。
ロボットアニメに出てくる十代の主人公が持つ、殺しの動機。大人の職業軍人などが主人公なら、また話は別なのだろうが、今ではそれは怪しいものとなった。巨大ロボアニメは、以前と比べて人気は落ちたというが、それは分かる気がする。それとも、緻密な世界観だが、動機なき殺人者達が蠢くその世界で、観客は満足するしかないのだろうか?
最後に、ここまで読んでくれたあなたへ。この文章は「今のようなロボットアニメで少年を描くのは、もう無理ではないのか?」と、短く書けばこれで済む話である。こんな珍論、最後まで読んでくれてありがとう。。