仏教には「縁起」という考え方がある。この考え方は簡単で、すべての物事には理由があり、自分が何かをしたら、巡り巡って、それが思いもよらない他の事象を引き起こしているかもしれない、という考え方だ。科学的には、バタフライ効果と呼ばれているものと似た考え方だ。今日、蝶が一回羽ばたいたら、それは、遠く離れた土地のハリケーンの原因かもしれない、というやつだ。
仏教は、縁起を大事にする。あなたが生きていることが、巡り巡って、誰かの死に繋がったかもしれない。あなたが道を歩いていたら、道を歩いているあなたを他人が見たことによって数秒、その車の進みが遅れ、その遅れによって、他の人が交通事故で死ぬかもしれない。
この考え方を突き詰めていくと、全ての人間は、誰かの死の原因になっているかもしれない。つまり、私もあなたも、生まれてきた瞬間に誰かの死の原因になっている可能性がある「人殺し」なのだ。だから、真の仏教徒であるならば、「人殺し!」と詰られても、憤ってはいけない。それは、真実の姿であるからだ。我々の社会で、明確に人を死に至らしめるという「意思」を持って人を死に至らしめた人間のみが「人殺し」として処罰されるのは、単に、社会ではそういうルールにしておかないと誰もが簡単に人殺しになってしまって社会が成り立たないからで、本質的には、全ての人間が、誰かの死の原因になっているかもしれない「人殺し」なのだ。社会において「人殺し」となるのは、あくまで「裁くのが能力に限界のある人間だから」という理由で、あなたの行動と他人の死との間の因果関係を、他人が明確に認識できる場合に限定されているだけである。人間を超越した世界では、「人間が認識できる因果関係」という概念は無意味だ。
人間が認識できようが出来なかろうが、因果関係は超自然的な力によって決められていて、そのうち、人間が認識できたものだけが、人間社会では人間の都合によって裁かれているというだけだ。超自然的な世界では、人間社会の都合など考慮されるはずがない。たとえ、人間社会では罰せられなかったとしても、それは社会を成り立たせるための法律のルールによるものであって、仏教的には、全ての人間のすべての行動は、他人の死に繋がる/繋がった可能性があるかもしれないので、全ての人間は「人殺し」なのである。
はぁ? お前逆に仏教徒でなければ人殺しと詰られたら憤っていいって言ってんだけど 怒るべきかどうかの前提条件に仏教徒かどうかなんて関係ねえよ