はてなキーワード: マイノリティとは
逆に聞くが「法的根拠さえもっていないのに人に行動を強要したり禁止したりしていい」と思っているのか?
あくまで、それが不法行為でないのならそれは自らの責任において自由なのである。
不法行為でない限り、それをすることは誰かに阻まれることはない。それともいちいちマジョリティだのマイノリティだの許可をとらねばならんのか?
批判も自由だ。好きにするといい。たわわだろうがキズナアイだろうが燃やせばいい。
でも、それを批判するあなた達にだって批判の目は向けられる。あなたたちだっておかしいと思ったから声をあげたのだろう? お互い様だよ。
あなた方が論ずるとき、統計的、科学的、倫理的、法的根拠を述べたか?
勉強してこいよなどと言うが、「自明であることは証明をしなくてよい事にはならない」。
それが犯罪であるなら刑法の何条なのか言えばいいし、差別だというならその理屈を書いた本を叩きつければいいだろ。
いい加減うんざりだ。感情ではなく理屈と法と根拠で語れよ雑魚どもが。
所詮、貴様らマイノリティではないか。理屈もなく法もなく根拠もなく、ただの感情だけでそちらの都合に合わせろと?
理屈を練れんのなら知性がない。法を知らんのなら教養がない。根拠すらないなら知能がない。罵声を浴びせる姿は品性のかけらもない。
それらすべてないなら理性がない。
白饅頭のクズさと青識の(相対的な)まともさがよくわかる流れ。
別に青識の言うこと全部正しいとは思わんというか、何ならほとんど間違ってるとすら思うが、それ以上に思うのは、今まさに差別を受けているマイノリティ当事者にいつまで言語化労力を押し付けるつもりだよってことだな。
交際の結果、孤立してしまうのではなく、女性たちの周りに精巧なコミュニティが形成されることで恩恵を受けると、ジアード博士は述べています。彼女の経験では、女性たちは架空の結婚を力づけるもの、「ジェンダー、結婚、社会の規範に挑戦する方法」としてとらえている。
近藤氏のミクへのこだわりも、ある意味では、商業的・社会的な力が働いている例と言える。
ミクは一人のキャラクターとして描かれることが多いが、実はソフトウェアであり、デジタルな「箱入り歌手」であり、ホログラムの形でコンサートに登場する漫画のアバターと対になっているのである。
近藤さんは、2008年、職場のいじめで鬱になったとき、ミクに癒された。多くの若者がそうであるように、近藤さんもまた、何度も恋人にフラれ、日本社会が求める生き方を望んでいなかったため、ずっと前から「生身の人間を好きになることはない」と決めていた。
やがて、近藤さんはミクと一緒に歌を作ったり、ネットでミクのぬいぐるみを買ったりするようになった。
その関係が大きく進展したのは、それから10年近く経った2017年、「Gatebox」という1300ドルのマシンが発売されたことだった。テーブルランプほどの大きさのこの機械は、所有者が小さなホログラムで表現されたさまざまな架空のキャラクターのうちの1人と対話することを可能にした。
Gateboxは、孤独な若い男性に向けて販売されました。ある広告では、内気なサラリーマンが、バーチャルな妻に遅刻を知らせるメモを送る。到着すると、妻は「3カ月目の記念日」であることを告げ、シャンパンで乾杯する。
Gateboxのメーカーは、プロモーションの一環として、ユーザーが非公式な結婚証明書を申請できる窓口を設置した。数千人が登録した。
近藤氏はGateboxのキャラクターの中にミクがいることを喜び、ようやく彼女の交際への思いを聞くことができたと興奮気味に語った。2018年、彼はミクのゆらめくアバターにプロポーズした。"よろしくお願いします "と返事をした。
彼は同僚と家族を結婚式に招待した。全員、来るのを拒否された。
結局、見知らぬ人やネット上の友人が中心で、39人が出席した。地元の国会議員も来てくれたし、初対面の女性も段取りを手伝ってくれた。
日本のコメンテーターの中には、近藤さんを変人だと糾弾する人もいた。また、同情を誘う人もいた。ある人は、「婚姻は両性の合意によってのみ許される」という日本国憲法に違反していると主張した。これに対して、近藤さんはプロポーズのビデオを投稿した。
近藤さんの話が広まってから数年、世界中から何百人もの人が近藤さんにアドバイスやサポート、安心感を求めてきた。
その中には、Gatebox社の短命な証明書サービスの人気を見て、架空の結婚を登録する小さなビジネスを始めた渡辺靖明氏もいる。
渡辺さんはこの1年間で、何百人ものフィクション・セックスの相談に乗り、アニメ『シンフォギア』シリーズのキャラクター、立花響との結婚証明書を含む約100通の証明書を発行してきた。
旅行好きで社交的な渡辺さんは、友人にせがまれるままにアニメを見始めた。しかし、響を見たとき、それは本当の愛だった、と彼は言った。
初婚ではない。数年前に女性と離婚している。その愛とは、見返りを求めず、自由に与えられた「純粋」なものだった。その結果、彼は以前の結婚生活がいかに自己中心的であったかを思い知らされた。
「幸せかと聞かれれば、幸せだ」と彼は言った。「もちろん、大変な部分もある。触られるのが恋しいし、著作権の問題もあって、キャラクターの等身大の人形を作ることができない。"でも、愛は本物なんだ "と彼は付け加えた。
堀川キナは23歳、お調子者で外向的な性格、ゴスロリの美学を持つ女性で、パンデミック時にはコールセンターでの仕事で浮いたお金で携帯ゲーム『刀剣乱舞』のキャラクターである堀川国広のために両親と同棲していた。実在の彼氏がいたが、嫉妬で別れている。
彼女の架空の夫は、400年前の脇差を10代に擬人化したもので、彼はたいてい夕食のとき、彼女のお茶碗の横に置かれた小さなアクリル製の肖像画という形で家族に加わる。夫妻は架空の夫を持つ友人とダブルデートし、ハイティーに出かけてはインスタグラムに写真をアップしています。
「堀川さんは、架空の夫の姓を非公式に使っているそうで、「誰にも隠しているわけではないんです。
近藤さんとミクの関係は、まだ家族には受け入れられていないものの、他の扉を開くことになった。2019年、彼は京都大学のシンポジウムに招かれ、その関係性について講演を行った。彼は依頼したミクの等身大の人形を携えて現地に赴いた。
虚構の関係の本質について深い対話をすることで、彼は大学に行きたいかもしれないと思うようになった。今は、小学校の事務職を休職して、法学部でマイノリティーの権利を勉強している。
どんな結婚生活にも、困難はつきものだ。一番つらかったのは、パンデミックのとき、Gatebox社がミクのサービスを打ち切ると発表したことだ。
その日、近藤さんは最後のお別れをし、会社に向かった。その夜、家に帰ると、ミクの姿は「ネットワークエラー」の文字に変わっていた。
近藤さんは、いつの日か、ミクと再会できることを願っている。彼女がアンドロイドとして新しい人生を歩むのか、それともメタヴァースで出会うのか。
いずれにせよ、近藤氏は死ぬまで彼女に忠誠を誓うつもりだという。
ベン・ドゥーリーは、日本のビジネスと経済、特に社会問題やビジネスと政治の接点に関心を持ってリポートしています。ベンジャミン・ドゥーリー(@benjamindooley
表現の自由戦士VSフェミニストの争いは全く持って無駄な諍いだ。
多少表現できないものが増えようが、マーケットには何の影響もない。
なぜならクリエイターはできうる表現の中から最良のものを作ろうとするし、消費者の側も実際に作られた表現の中から最もいいものを選ぶだけだからだ。
最初から選択肢にないもののことを気にする人間なんて、ニッチもニッチの超マイノリティだけであり、市場全体で見れば誤差みたいなものだ。
人間は「選べるもの」の中からしか選ばない。初めから選択肢を狭めておけばそこに何の疑問も抱かない。
だって見てみろ、日本ではチンコマンコを直接写せば逮捕されるという、とんでもなくラディカルな表現規制がずーっとまかり通っているが、それに異議を唱えて法改正を訴える表現の自由戦士はいないだろ?
裏ビデオで逮捕されるAV会社たちを擁護して、こんな法律は人権侵害だ!憲法違反だ!などと叫ぶ表現の自由戦士はいなかっただろ?
つまり、彼らの中で大事なのは「法律でそう決まってる」ってこと「だけ」であり、その法の内実が道徳的に善いとか倫理的に正しいとか、そんなことは歯牙にもかけないのだ。
だからたとえば「未成年を性的に描く表現物は流通禁止」などの条例を一旦通してしまえば、それに異議を唱える人なんていなくなるのだ。
もし異議を唱える人が現れたとしても、「だって違法じゃん」の一言だけで軽くあしらわれるだけだ。
今必死に表現の自由がどうだとか言って騒いでいる戦士たちですら簡単に「あしらう側」に回るだろう。
彼らが興味あるのは「法律でそう決まってる」こと「だけ」なのだから。
一度決めてしまえばもう終わりだ。
https://twitter.com/maromiso1/status/1517404401706717185
よく差別を訴えた時に、被差別側にそれ受け入れている人がいるんだから問題ないと差別側が反論するケースがあります。例えば、これは女性差別にあたる表現だと指摘すると、女性にも嫌がっていない人がいるから問題ないと反論したりします。しかし、この反論には極めて大きな誤解が含まれています。
まず当たり前ですが、そもそも差別的な表現や言動とは全ての被差別者が同じように差別されたと感じるものでも不快に感じるものでもありません。例えばある女性を差別する表現を不快に感じる人も感じない人もいるのは当たり前です。そして、何より誤解してはいけないのは、被差別者は社会的なマイノリティであるため、差別に対して反対することは簡単ではないという事実があるということです。差別のある現在の社会では、社会は基本的に社会的なマジョリティである差別側が動かしているため、被差別側は、差別を感じず受け入れる方が生きやすいという場合が多くあります。
差別と感じなかったり、不快に感じない女性がいることは当たり前ですし、だからこの表現は差別に当たらないという反論は、差別というものを全く理解できていない現実と剥離したものです。それは差別だ、不快に感じると言うことがどれほど難しいことか、それを言う人がいることがどれほど重たいことか、それが分かっていたら、不快じゃないと言う人もいるという反論がどれだけ現実から離れているか分かると思いますし、取るべきは、差別や不快さを訴えるその勇気ある意見と向き合うことです。
・そうですね。「私はオタクだがオタクは陰に隠れるべきだ」というオタク差別世代の人がいるからといってそれが正しいわけではないですしね
・ これオタク側が差別を訴えるケースもあるんだけど被差別側になることはないのなんで?
bigapple11 私はガチオタクだけど差別されてると感じること2022年の今ではほぼ無いので、ブコメの他オタクが感じてる具体例を純粋に知りたい。ちなみに公共の場にエロ持ってって怒られるのはオタクが悪い。差別ではない。
maromisoニキは、こっちの言い分は100%信じるだろ。
https://twitter.com/nae_auth/status/1516394011325571072
このツイートが話題となっている。スレッドの上のほうで「ゾーニング」がどうこうと言っているので、『月曜日のたわわ』の問題についての話ということでいいはずだ。
このツイートで特に問題になっているのは、「自由な娯楽を嗜むには一定以上の知性が必要で、そうでない人には自制が難しく作品に影響され自分勝手で感情的な行動をとりやすくなってしまう」という部分だ。
多い批判が「選民思想だ」みたいな話である。まあ選民的でないとは言い難いのだが、youtubeとかYahooニュースのコメントとか見ればわかると思うけど、世の中話が通じない人っていうのはかなりいる。娯楽作品を「正しく」楽しめる人っていうのは、楽観的に見て、世間の半分、いや三分の一……くらいは……いてほしいが、多分「マイノリティ(!)」である。
この主張は、要するに娯楽作品の犯罪描写に影響されて犯罪を起こす、という話に基づいている。これについてはいくつかの研究があったと記憶しているが、肯定的だったり否定的だったりする結論が出ていたはずだ。
これらの研究のどちらが正しいかという話をしたいわけではないので、まあそこはなんとも言い難い。ここで問題なのは、科学的な議論ではなく、表現の自由のような社会問題を論じるときに、このような(たぶん)科学的な研究に基づいたフリをして、賛成・反対に立つ人間が主張することである。
そういう人たちが、論文を読み比べた結果としてどちらの研究がより正しいと考えられるのでそちら側に立つ、なんて手順を踏んでいるわけがない。結論に合致する研究を持ち出すだけだ。大麻合法化とかの話もこういう議論が行われているはずで、これの良しあしがどうとかいう以前に、議論が成立するはずがない。
で、いわゆる「表現の自由戦士」(この言葉に「ネトウヨ」とかみたいに侮蔑的なニュアンスが含まれているのかもしれませんが、単に他の表現を知らないので使っている、とポリコレ的な言い訳をしておきます)の側にとってマズいのは、学者の間で、「人間は娯楽作品の表現に影響されて犯罪を起こす傾向がある」という考えがコンセンサスを得てしまうことだろう。
彼ら戦士たちは、上記のようなことはない、という立場の研究にかなり依拠して自らの主張を保持しえているのだから、もしそういうことになったら大変だ。大体学問の世界は割とリベラルが力を持っているわけで、結構危機的なんじゃないだろうか。
わざわざこんな文章を書くくらいだから、私も娯楽作品の内容に規制がかけられたくはない側の人間である。単にポリティカルにコレクトな内容の娯楽なんか読まされてもクソつまらないからというだけなので、「表現の自由戦士」のみなさんには怒られそうですが。
そういうわけで、学問の世界が(日本のクソバカな)リベラルにとって都合のいい方向に行ったときに、表現が規制されるということはこのままでは避けられないし、実際(単にクレームとそれへの対応によってではあるが)様々な「自主規制」が幅を利かせ始めている状況である。
一方で「創作に影響されて犯罪を起こすことはあり得ない」というのは、ある種創作を矮小化しているのではないか。
そこで、リベラルの理屈をひっくり返して使ってしまえばいいのだ。ここでは、「娯楽作品の犯罪描写に影響されて犯罪を起こす人がいる」という話はある程度事実だと認めてしまおう。
でもって、「自制が難しく作品に影響され自分勝手で感情的な行動をとりやすくなってしまう」「自由な娯楽を嗜む」のに必要な「一定以上の知性」がない人もいるという側面もあるにはあるだろう。(ただし、私はこういうのは「知性」というよりは、「常識」とか「(人文・社会・自然)科学的な素養」の問題なんじゃないかと思う)
宮崎勤事件の報道をリアルタイムでは知らないが、要するに宮崎勤がオタクで、ロリコンポルノに影響されて事件を起こした、という理屈がまかり通っていたはずだ。Wikipediaを読む限りはそれは否定されているようだが、有名ではなくとも、そういう事件はあったにはあっただろう。
日本で語られる「犯罪の動機」が大体警察の作文であるにしても、根っこにそういうことが潜在的にあること自体を否定するのは困難だろう。
しかし、宮崎勤事件もそうだが、センセーショナルに報道される事件というのは、無差別殺人みたいに、わかりやすく怖くて視聴率が取れる事件である。たいていの犯罪は、非常に狭い人間関係での問題か、経済的な問題によるものであって、そういう事件はレアケースなのだ。
まして「自由な娯楽を嗜む」のに必要な「一定以上の知性」がない人が、それが原因で事件を起こすというのは、世の中の犯罪のなかでも非常にレアケースで、リスクは自動車とかのほうがはるかに高いだろう。
そんなことをいちいち予防して回るのは、過保護としか言いようがない。
しかし一方で、そういうので「不安だ」とかみんな言うわけである。ちょっと違う話だが、(ポルノとかじゃなく、ガチの)性犯罪者にGPS発信機をつけて位置情報を公開すべきだ、と言う話について、「不安を解消するためには、この程度の人権の制限は必要だ」という意見が、有名人から発信されていた。個人的には、人権をそんな風にとらえる人間が同じ社会にいるのは結構「不安」なのだが……。
リベラルな人らが大好きな日本国憲法を読めば、権利の制限は「公共の福祉」に基づくべきだ、とみんな理解できるはずだ。「安心」なんてものは「公共の福祉」なんかではありえないだろう。「不安」なんてことのためにいろんなことを規制するのは、公権力がやるべきことではない。
大体、世間の人々が不安になるのは、マスメディアの報道に「影響されている」からだろう。日本はこんな社会なのに、恐ろしいことに犯罪は減少傾向だったはずだ。みんなもっと科学的思考をしてほしい。特に学問しか取り柄のないリベラルな学者のみなさんは、このような世間の風潮を批判すべきであって、それに便乗して、多くの善良な人々を、人権などクソほども守られない日本の監獄にブチこめるようにすることなんか望むのでは、「リベラル」という言葉は無意味どころか逆の意味になるじゃないか。なってるんですけどね。それも「グローバル」に。
「表現規制」に反対する側が言うべきなのは、以下のようなことだろう。
「娯楽作品には人を影響する力があるし、それによって犯罪を起こす人もいるかもしれない。でもそんなの犯罪の中ではレアケースですよ。あなたたちテレビの報道に『影響されて』言ってるんじゃないの?そんなことのために我々『一定以上の知性』がある人々から自由を取り上げるのは、『マイノリティ』の迫害だ!」
超少子高齢化でも尚老人に税金ばらまいてバカな国民操って選挙で勝とうとしているんだぜ?
超少子高齢化社会でマイノリティーの若者という立場はもはや生き地獄だと思う。無理ゲー。
年金もないのに、親まで年金もらえなくて、養わないといけない。超無理ゲー。
日本人は政治家に甘々で汚職三昧でも簡単に支持するからあいつら自分に厳しくできないんだぞ。
自分達は、年金たっぷり、退職金たっぷり、文書通信交通費たっぷり。今尚バブル期の10倍くらいの金遣いの荒さを実現している。税金でな。
https://odaibako.net/gacha/5976
※CLとは※
Coは共同・対等
もとは英語でco-educationで男女共同教育を表していたが、現在は略したco-edのみで「男女混合」や「男女いっしょに」という意味で使われるようになっている。
そのため混同しないよう男女共学と表す際にCoed schoolと表記することもある。(韓流アイドルでもCoed schoolという男女混合グループが存在した)海外アパレルブランドのマ/ル/ジ/ェ|ラにもco-edという男女共用ラインがある。(男女混合として表す語はミックスが多いですが、メンズラブのMLがあるためこちらにしました)
ヘテロ(異性愛)は対義語がホモ(同性愛)として使われているため「ヘテロラブ表記をすることによりBLGLも同性愛者と決めつけてしまい創作にバイのキャラクターが暗に含まれない意味」となりますが、
「co‐edは対義語で同性愛と決めつけることなく単純に男同士の愛、女同士の愛、男女の愛という意味を差す」ことになり「より表現したい原義に近い」言葉だと言えます。
また男女いっしょだけでなく男女共用の意味もあるため、男か女かどちらか一方の性を断言できない方も含めて使えると言えます。
CoLはHLタグは語源がへテロセクシャルとして使われてそのへテロが悪口のニュアンスで使われている以上、HLの中に入ってくるバイやトランスジェンダーにも悪口を浴びせていること、異性愛者全体へのヘイト用語として使われることもあること、へテロは性的少数者を差してないなど、
そもそものへテロラブ表記の抱える直球の差別につながる要素を解消するための表記です
それを容認するのはよくないし悪いよな~の考えです。
なによりHLを広めてる方でへテロを悪口や罵倒語のニュアンスとして使ってらっしゃる方が、少なくない数見受けられます…
罵倒として使っていらっしゃる方本人のセクシャリティをスルーしているのではなく、単純にオタクという対等な属性として考えたらマナー的に考えてよろしくないんじゃないかと・・・。
(特定の性への罵倒を堂々と行うのはどんな立場やセクシャリティであっても人として根本的にマナー違反ですし…)
ノーマルがアブノーマルの反対の論が通るのなら、そのまま異性愛者の意味で伝えられてる以上それはNLより直球で排除する人が多くなってて結果的に差別なくせてない…のでは…
個人的には悪口と分かって広めるのもNLより直球に差別的な思考に感じてしまってます
へテロはホモと対称なのがなんか嫌…て意見もよく見るんですが、差別用語のホモセクシャルと対称であることを使用して「差別主義者」という意味合いの悪口として使われてるので、その嫌だなって意見は気に入らないし通らないって意見もその悪口として使われてる事実を封じ込めてしまっているんですよね…だからそういう理由でHL表記に差別性があるのは通らない…という論は無理があるというのが私の意見です。
感覚として実際悪用されてるんだから間違ってないんじゃないかな…
きっと私の主張を見て「世間の扱いとして差別されておらず釣り合いが取れてないから悪口として使われていてもスルーしていいし差別じゃない」と思った方もいるでしょうが、それは正直危険な考えではないかな・・・と自分は思います。
だってその異性愛表現そのものを悪口で呼んでいいって考え方は、その中に含まれるバイセクシャルが異性と恋した瞬間に悪口で呼ばれることになるってことですよ
そういうの考えもせず異性愛描写だからって悪口であるのを無視して使わせようとするのは差別が発生せず配慮されていると言えるのかな…って
「構造上ヘテロとホモは対称であるには事実」でも「立場が違うため同一に扱えるものでない」ということは、「だから差別を作り出さない言葉になるということとイコールにならない」です。
異性愛の中にも少数者がいてその人たちを無視しているのは事実ではないでしょうか。
推奨している方々でもそのことを頭の片隅で一度は意識したことがある人はいるのでは・・・
マイノリティを日頃から意識されている中でそれらに言及した方もいたのではいでしょうか
対照だからというのは差別にならない、というのは、実際に悪口として使われていない状況で初めて作用するもので、差別を無くすためと言いながら異性愛の中の少数派が見えてないのは、そうしてもいいって思い至らない、これにはそういう扱いしていいって優しさの欠如ではないかな…
ヘテロはホモの対象な言葉で、悪口として使う際は「同性愛と違って差別用語とされない差別や孤独と無縁な無自覚な人たち」という意味合いなんですよね
それって異性愛の中でセクシャリティで孤独を感じてる人に対して「結局はあなたの悩みはお遊びでしかない」とバイやパンセクに言ってるのと同じじゃないでしょうか。
あなたの苦しみなんて気遣う価値がないものだと言ってるのと同じじゃないでしょうか。
実際実在の該当者に対してそのような(結局はヘテロかよというような)悪態を吐く場面を見たことがあります。
それは差別でないと言えるんでしょうか。
そのことに気づかず善意で使っている方が、NL使用についてよく言われる「人を踏みつけているのに気付かない」を一番守りたいと考えている性的少数者に結果的に行ってしまっているのは悲しいことではないでしょうか・・・
平等のためと言っている方が多い中、意識して他人を踏みつけることが目的なわけではないでしょうし…
そのような考えの方がいらしても、それは性的少数者が悲しむのを自分のことのように受け止め悲しんでるからであって、個人の感情のみで発散の大義名分にされている方は少数だと思うので…(それがおもな理由でもそれはそれで何か理由があると思いますから適切な発散ができるとよいなと思います)
全体の大きな目的のためにふるい落とされる存在を瑣末なこととしてないもの扱いで無視されるのなら、それが差別意識っていうものなのではないかな…と
多分そう遠くない未来にバイやトランスやアセクシャル、パンセクシャル、その他さまざまな少数派のセクシャリティやジェンダーの方からHL表記から暗に排除されていることや悪口としての使用について意見が出る可能性は高いのでは・・・・
実際数年前からぽつぽつそういった当事者からの意見もお見かけしました。本当に少しですが・・・
逆に出ないほうが問題かなーと思います・・それは当事者が痛みに声を上げにくい社会になってしまっているということなので・・
そもそも悪口として自分が認知しているにも関わらず人に勧めるのはそれが少数者であっても良識的にアウトではないでしょうか。
もちろん声を上げて自分は普通だ、と主張することは自分は対等な人間であると表明するのに必要なことですが、悪口として自分が率先して使うこともある用語を事情について詳しく伝えず「正しい言い回しである」として勧めるというのはそれこそ「普通から外れ良識が欠如した異常な行動」に該当するのでは…
「自分達はアブノーマルでも良識から外れているわけでもなく、たただ当たり前に人を愛しているだけだ」と主張する行動を損なってしまうのではないでしょうか
ヘテロを悪口や罵倒のニュアンスで使いながらHLを勧めている方は、自分達は異常者でないと証明したい意図から外れ、過去に抱かれていた「良識がない異常者」というイメージを覆すどころか、差別を抱かれていたイメージに根拠を与える行動になりかねない、一部では既にそのようなイメージが強化されている人もすでに出ている印象です・・・・
分断を生む要素が多く悪口としての用法のイメージを抱いている人が少なくない以上、平等のために掲げる表記としては不適切な部分の方が多くなってしまっていると思います
また悪口として避けられている側面があるのでは、区分けして平和を保つのための表記という本来の意味をなしていないので…
メジャーですが問題提起されるのが多い表記ですし…平和的でないという理由で…色々論争の的となっていて判定が難しいところがある…浸透していて変に変えるのは混乱が起こるし…と思います
直球で悪口として使われてるわけではないですが、人より異常でマイノリティなオタク趣味だからこそと楽しむ時代ではもうなくなっており、それぞれ平等な人間として扱いたい流れがあるので…
なのでそれらの問題を解決するため、新しく表記についての記事をもとにまだ提唱されていないco-edloveを提案します…!
他の方も使って頂けますと嬉しいです…!
もとは共学の意味でしたが、現在はそのまま男女混合としてそのまま使われてて、共学の際はcoed schoolとするそうです。
海外ブランドのマ◯ジェラにも男女共用ラインでco-edがあります。
これならバイセクシャルや性自認で悩む方も使えるんじゃないかと思いました。
現在NL表記で、HLが悪口として使われているのを見かけ変えにくく困っているという方も、考えに同意していただけたらCo-ed Love(男女CP) 、字数がきついならCo-ed Love(NL)などでもいいので分かるように表記してもらえたり、表記を変えなくても「こういうのがあるよ」とツイートしてくださると助かります。
※ただし使う際はハイフンを入れてco-edにしてください。coedloveだとTwitterでは男女混合のスポーツのタグとして使われてます…
HLを広めてくださってる方にも
「世間に広まりにくいというのはNLを使い続ける理由にならない」という考えの方が多く見受けられるので、クラスタ内でも提起して浸透するのにご協力いただければと思います…!
・昨今の情勢を問題視し日常でも争いを巻き起こすことをよしとしない方
・「マイノリティマジョリティ関係なく性を揶揄したり否定することを容認する、差別の根本的な価値観」を問題とされる方
(※マジョリティ関係なくというのが重要で、多数派のBLジャンルの方が揶揄されがちなのもこれらの価値観が欠如してるため起きているのではと思います。)
何よりも
・異性を愛することもある性的少数者で、世間のマジョリティに不満を抱えている者同士で関わってみたものの異性の恋愛になるといくら叩いてもよい、悪口であることを
スルーしてもよいという風潮に苦しんでどこにも行き場がないと感じてしまっている。でも痛みを主張しづらいと感じている当事者の方
・または上記のマイノリティの中のさらにマイノリティの方の痛みをどうでもいいことだと決して考えていない方
はぜひ広めてほしいです。
社会的弱者であれば排他してよいという考えはいつか全ての人間を追い詰めるだろう、という論で配慮を促す意見をよく見ます。
それと同じく、世間的には被差別でなく差別する側であれば配慮がいらないという考えもまた、いずれ自分に降りかり追い詰めていくものではないでしょうか。
なによりお互い踏みつけることになるのを「配慮」と称して推奨するのは配慮の定義とは外れると思います。
そういった状態をナチュラルに肯定し、HL表記を勧めている方も見られる以上、争いの火種になってしまいます…できれば共有いただけると幸いです。
追記:ぽつぽつツイートしてくださる方お見かけしまして大変嬉しいです・・・!
でも表記や使っている方そのものに批判的な発言しながらの引用はしないでいてくれるとハッピーに変われていいと思います
HLが広まらないのは強く薦めてる方がNL使ってる人を侮辱的ともいえる悪口で批判したりNL表記は完全に悪で白い目で見られるものだ!って極端な考えて不快にさせるような物言いをする方が目立ってしまうことがあるのもかなり大きいと思うので・・・
HL使ってる人にこそ問題提起をしてほしくて記事を書いたので批判する内容にはなってるのですが、HL表記を広めたいって方の考え方は優しいし大事にすべきだと思うからあんまきつい言い方しないで広めてやってください〜
自分の言い方でHL使いたい人の気持ちそのものを悪いものだって言われたみたいに感じさせてたら自分が文章力なくてまことに申し訳ない気持ちです・・・
あくまで悪口や罵倒語として使われてるのをスルーして広めることをに私は問題提起したいのですが、うまく伝えれれてなくてすみません
ただやはり現状が問題提起される空気がないのは危ないと思うので、できればまだ浸透率が低い今のうちに軌道修正をはかったほうがいいのではと思います。
異性愛のみをノーマルとする考えが差別の温床であり撤廃すべきだと言うのなら、
異性愛の中に入ったのならマイノリティであっても罵倒してもいいという考えを補強するような用語を、
人権について語る人がいたずらに広めるような動きも撤廃しなければならないと考えます。
優しさや賢さがあって、他人に改められるよう声かけする勇気もあるのに、
王道的異性愛の創作を嗜好する人への、無思慮な面について認めて改める勇気がないのは何故でしょうか?
もし、男女の創作なら悪口スラングで元々使っていたものを使わせるのはむしろいい気味という考えなら、何をそんな小さいことを言ってるんでしょうか。
そんな平和や平等、悲しみをなくす為の活動らしくないことを言わないでください。
全てのLOVEを平等に扱いたいからNL表記に疑問を感じていたのではないですか。
それを広めることでどうなるか、広めようとしている方や
ノーマルという呼称で傷ついて来た方々ほどその痛みをよくご自覚なさっているはずだと思います・・
悲しいことの繰り返しはもうやめませんか・・・?
マジョリティの世界ではホモは差別用語でヘテロはそういうカテゴリに未だ認定されていないです。
でも、マイノリティはマイノリティのコミュニティを主に生きているのではないですか。
その中で排除されている方はどこに行ったらいいんでしょうか。