はてなキーワード: お土産とは
Aと付き合ってく中で発生するストレスを他2人で解消している感じかな。
働いてたら、何かしらのストレスが発生することあるじゃん?辞めたいくらい嫌になる瞬間もあるじゃん?
でもクビになったらそれはそれで嫌じゃん?
そんなとき、週末に友達(not同僚)と遊んだら元気になってまた仕事頑張れるじゃん。コミュニティの違う友達is大事。
そんな感じ。
Aと一緒にいるのは大前提なんだよ。好き嫌いではない。日常の大部分を構成する存在。
そこを嫌いになったらしんどいから、他2人で息抜きしてるの。そしてまたAとニコニコやるの。
Aはいいとこ取りだよなあ。以前、AがAの友達に「お前の彼女、なんでも受け入れてくれるし優しいし責めないよな、本当にいい子だよな。どこで見つけたの?」って言われてたよ。Aは「まあ彼女は俺にべた惚れだから」って返してたよ。
笑ったよ。まあ好きだけどね。
BCがいてくれるおかげで、Aは「本当にいい子」と付き合えるんだから、BCに感謝してほしいくらいだわ。
数股する上で気を付けていたこと……なんだろ……
・ラインの通知は消す
・ラインの相手の表示名はニックネームにする(ゆうすけ→ゅぅ♡ みたいな)
・全員に「あなたが好き」「いつか捨てられそうで怖いわw」「今のちょっと妬いちゃった」「私ばっかり好きでつらい」と言いまくる
・仕事の話を詳細に語っておく。
くらいかな
Aと付き合ってく中で発生するストレスを他2人で解消している感じかな。
働いてたら、何かしらのストレスが発生することあるじゃん?辞めたいくらい嫌になる瞬間もあるじゃん?
でもクビになったらそれはそれで嫌じゃん?
そんなとき、週末に友達(not同僚)と遊んだら元気になってまた仕事頑張れるじゃん。コミュニティの違う友達is大事。
そんな感じ。
Aと一緒にいるのは大前提なんだよ。好き嫌いではない。日常の大部分を構成する存在。
そこを嫌いになったらしんどいから、他2人で息抜きしてるの。そしてまたAとニコニコやるの。
Aはいいとこ取りだよなあ。以前、AがAの友達に「お前の彼女、なんでも受け入れてくれるし優しいし責めないよな、本当にいい子だよな。どこで見つけたの?」って言われてたよ。Aは「まあ彼女は俺にべた惚れだから」って返してたよ。
笑ったよ。まあ好きだけどね。
BCがいてくれるおかげで、Aは「本当にいい子」と付き合えるんだから、BCに感謝してほしいくらいだわ。
数股する上で気を付けていたこと……なんだろ……
・ラインの通知は消す
・ラインの相手の表示名はニックネームにする(ゆうすけ→ゅぅ♡ みたいな)
・全員に「あなたが好き」「いつか捨てられそうで怖いわw」「今のちょっと妬いちゃった」「私ばっかり好きでつらい」と言いまくる
・仕事の話を詳細に語っておく。
くらいかな
もちろん新幹線などセレブな乗り物には乗れないので社用車での移動だ。
20時ごろには撮り終えたが、宿をとるなど贅沢なことは言えないから日帰りである。
先輩が「疲れた。寝たい」と言うので、帰りの運転手は運転歴(正確には免許取得から)3ヶ月の同僚となった。
同僚にできることはないか聞く。「助手席で話し相手となって欲しい」と言われたので、助手席に乗車していた。
はじめは初心者の運転に心臓が慌ただしく鳴っていたが(免許を持っていないヤツが偉そうに申し訳ない)、慎重な安全運転をする人で、すっかり気が緩んでいた。
パンッ
爆発したような音が車の後方から聞こえてきたのは、東北高速道に乗って1時間ほど経ったころ。
何の音か分からずただただ驚いていた私たちなどお構いなしに、車は失速していく。
幸い走行車線(追い越し車線ではない方)を走っていたので、なんとか路肩に寄せた。
「ガス欠じゃねーか」
普段から運転する人には信じられないと思う。しかし、初心者の私たちは(うち一人は免許すら持っていない)運転に気を取られてしまい、ガソリンのランプが点灯していたことに気づかなかったのだ。
といわれた。
発煙筒はアクシデント発生地点よりも50m以上後方に置くよう指示されていたので、ガードレール沿いに走って置いた。
やるべきことはすべておこなった。あとは、JAFを待つのみである。
日帰りの日中撮影だと思いコート1枚しか用意がなかった。寒さが染みる。
することがないので、ただ星を眺めていた。
道の駅でお土産として買った鮭とばを4人で貪りながら、救助を待った。
誰かの提案で、しりとりをすることになった。大人のしりとりは何かのしばりがないと延々と続く。そして、早々に飽きるのだ。
時計を見た。まだ15分程度しか経っていない。寒空の下もう45分待つのは、非常にしんどい。
発煙筒が消えてきた。
カーブで止まってしまっている。発煙筒もない。ハザードの光も弱い。後ろから来る車にとって認識しにくい状況だ。
うつらうつらで運転している人がいたら……あらゆるネガティブな想像が頭のなかに浮かぶ。無理やりかき消す。
そうこうしているうちに、黄色いパトランプが見えた。高速道路の見回りをしている人たちだった。
我々の前で停車したので、ワケを話す。もしかして、助けてくれるかなと期待をしながら。
しかし、彼らにできることはないようだ。あと30分くらい、JAFを待つしかないという。
鮭とばはもうなくなってしまった。冷たさのあまり手足の感覚がなくなる。震えが止まらない。
こんなことなら残っている原稿持ってくればよかったなどと考えていたとき、JAFが到着した。
無事、ガソリンをある程度いれてもらい、最寄りのSAまで同行いただいた。
SAの自販機でホットコーヒーを買った。温かい飲み物が口から胃にながれる。自販機の100円コーヒーがこんなにも旨い。
停車の原因はガス欠。完全に自業自得な話なのだが、もし誰かの役にたてば幸いである。
思いのほか反響があって驚いている。
もう何年も前の話だが、いまだに増田は免許を持っていないし普段車にも乗らないので、車の知識は皆無だと思ってください。
これ、ガス欠関係ないのか。だんだん光が心もとなくなってったんだけど、あれ何だったんですか?教えて偉い人。
>破裂音
2
2日目 午前
ホテルの朝食の後、午前のおやつの蛋餅を食い、猫の村 猴硐→九份に向かうことにした。
まず地下鉄での行き先は台北車站(セントラルステーション)だ。
着いたら、駅周辺を散策する事にした。
すぐ近くに市場があり、その中ではここでも屋台的なものがあった。
台北では其処彼処で料理をして、其処彼処で誰かが何かを食っている。
市場を出ると小雨が降って来たので、近くにあった美術館に入ることにした。
美術館はひんやりして心地いい。
照明を落とした展示室では、赤と青の幻想的な浜辺で艶めかしく肌をさすり合う男2人と、それを覗く小太りな水兵の映像作品が放映されていて、よくわからないけど南国を感じた。
勝手な印象だけど、中華圏の現代アートは男の性を描いたものが多い気がする。
美術館をでたら、むしろ雨は強くなっていたが、3分もしないうちに止んで、強い日差しが古式ゆかしい建築様式の美術館を照らしてきた。
きっと今日もまだまだ暑くなるんだろう。
2日目 午後
台北車站に戻り、台鐵で猫の村として名高い猴硐に向かう。
この途上でも旅の目的の一つがあった。
台鐵弁当だ。
台湾鉄道には日本統治時代からの伝統で駅弁があるそうで、これは蚵仔煎と並んで是非食べなくてはいけないものだった。
どこで売っているのかわからず、改札を通ると、改札のすぐ脇に売店があり、そのまえの待合所で、老若男女が弁当をガツガツ食っていた。
きっと、現地人も食うために生きているし、旅行者もここに何かしら食いにきているに違いない。
排骨(スペアリブ)弁当がイチオシのようだったが、暑さにやられたのか、少し重い気がして、なんだかわからない別の弁当を頼んだ。
でてきたのは、角煮弁当だった。
温かく、蕩けるように柔らかい角煮を口に含んだ瞬間、思わず「うまい」と呟いた。
台北の食い物は、不味いものこそなく、むしろ多分ずっと食べても嫌になる事は無いだろうと思うくらいには美味いが、「びっくりするほど」とまではいかなかった。
しかし、別に飯屋でも屋台でもなんでもない、駅の待合所で、遂に美味くてびっくりするものに出会った。
台鐵を乗り継ぎやがて猴硐に着くと、ホームには猫ならぬ、猫耳のついた麦わら帽子を被ったお嬢さんがいた。
ここに来る人は、自らも猫になって来るらしい。
改札を出たらさぞかし猫だらけなのだろうと思ったら、改札を潜る前にすでに1匹、窓際で寝息を立てている。
一枚写真に収めて改札を通ると、其処彼処に猫が。
観光客にすっかり慣れているのか、どいつもこいつも写真を取られようが撫でられようがどこふく風。南国は猫も呑気なもんだ。
カフェに入って一息つく事にした。
大きなテーブルでアイスコーヒーを飲んでいると、4人客が入ってきて、マスターが「席をかわってくれないか?」
いいよ、と窓際席に行くと、椅子の上に寝息を立てた白猫が。
と、少しすると、不意に便意をもよおしてきた。「やっぱエリーさんの言った通りだったかな?」とも思ったが、一昨日の飛行機から寝不足気味ではあったし、正直台北の食に関しては衛生的に完璧といったものは少なかったので、何が原因か特定が難しい。
そんなに深刻な不調でもなかったので、トイレを借りて用を足し、「もっとまずくなったらその時は台北に引き返そう」位で、旅程を続ける事にした。
お土産の猫型パイナップルケーキを買うため、また筆談メモを描いていると、ブレスレットが何処かに行ってしまった事に気付いた。
頻繁にカバンに手を突っ込んでいるうちに外れてしまったのだろう。
少し探したが見つからない。
そうこうしているうちに雨が降ってきたこともあって、諦めて駅舎に向かう事にした。
「山の天気は変わりやすい!」
猫型パイナップルケーキを売っているお土産屋さんのおばさんは日本語が堪能で、結果としてメモは無駄だった。
目当ての品も手に入ったので、駅前を散策していると、「ブーーーーン」という音。
猫の写真を撮りきにて、実に珍しいものをカメラに収めることができた。
まだ日は高い。エリーさんのオススメに従って、猴硐から遠く無い、十分の瀑布を見る事にした。
十分駅に着いたは良いが、急に決めて下調べがないので、滝までの行き方が分からない。
とりあえず人並みに従って歩くと、沢山の人がいろんな国の言葉で天燈を空に飛ばしていた。
十分は、色々な願いが書かれた天燈が宙を舞う事でも有名な村だ。
天燈の翔ぶ界隈を過ぎれば、川沿いの通りに出た。
さあどうしよう。
これに乗れば確実だ。
メモに滝の絵と「十分瀑布」と書いて、運転手のオッチャンに見せる。
すると、呆れたような顔で「歩いた方が早いよ」
そうなのか。
ワンメーターでも乗せて、良い加減な値段でもふっかけりゃ稼げるだろうに、正直というか商売っ気が無いというか。
でもよくよく考えれば、そんな客を乗せるより、ここから直接九份や台北に行く客を待った方が良いのかもしれない。
オッチャンが指差す方向にしばらく歩くと、「十分瀑布公園」に到達した。
渓谷にかかる吊り橋を2つ渡ると、遂に大瀑布が見えてきた。
滝の飛沫と折から降ってきた小雨であたりはビショビショ。
傘をさしてカメラを構える訳にもいかないが、幸い雨ガッパを持ってきていた。
用意周到。エリーさん、そんなに迂闊な男でも無いんだぜ。
飛沫と小雨に濡れながら、十分の瀑布をカメラに収めることが出来た。
さあ九份だ。
2日目 夕方
十分から九份最寄り駅の瑞芳に向かう車内、向かいに座っていた女性2人の親子連れ、娘さんの方が騒ぎ出した。
言葉を聞くと韓国からきたようで、どうもこの列車が瑞芳に留まるかどうかがどうしても気になるらしい。
手元にスマホがあるので調べれば一発なのだが、なぜか地図アプリなどを見ていて要領をえない。
英語でお互い話そうとするも伝わらない。
お姉さんが先程の女の子に聞いた。「あなたは何処から来たの?」「I'm chainese.」大陸の人だろうか?
「ここに日本人もいますよ」シャイな日本人らしく、心の中だけで言った。
2日目 夜
瑞芳に着く頃にはすっかり日も落ちて、九份観光には絶好の時間帯だ。
駅前で張っていた兄ちゃんに「九份」伝えると、すぐに車を紹介してくれる。
タクシーのオッチャンに行き先を伝えると、出発進行。
しばらくすると九份老街に到着した。
中国語は発音がダメ、英語も中学生レベル、日本語だって怪しい。
台湾は人気の観光地だから日本人が沢山いると思ったら、これが意外と会わないもので、むしろ白人の方がよく見かける位だったが、ここ九份ではちょっと歩くとすぐ日本語が聞こえる。
しかし、良い加減、歩き通しで疲れてきて、少し具合も悪くなってきた。
脱水症状かな。
九份ではお茶でも飲もうかと思っていたのだが、人ですごいし、都合よく茶藝館も見つからない。
写真も撮ったし、もう切り上げようか。
ふと茶器の店が目に入ったので入ってみると、幸運な事に、茶藝館が併設だった。
茶藝館では店員さんがお茶の淹れ方を流暢な日本語で説明してくれる。
赤く光る街を見下ろして、ゆっくり金萱茶を飲んでいると、果たして大学生か若手社会人と思しき兄ちゃん3人連れが、賑やかにやって来て、日本語で高山烏龍茶とお茶菓子を頼んでいた。
諦めかけていた目的が果たせたので、会計の際に店員さんに伝えようと思い、「旅行の目的の一つが九份でお茶を飲む事だったんです。」と言ったが、さすがに日本語で複雑な言葉は伝わらないようだった。
説明の日本語が余りに流暢だったので油断したが、あれは決まり文句なのかも知れない。
「最高だ。」
「謝謝!」
俺の母親なんだが、6年ほど前に俺の祖父(母から見て父親)から遺産で6000万ほど入った
遺産相続した時、俺の母親の年齢は62歳。警備員で月に10日ほど働いて数万稼いで、生活保護もらって何とか生きてる状態。
そこにいきなり大金が転がり込んだ。
それでどうしたか?
まず家を買った。
これでまず1100万ほど消えて残り4900万。
俺が貸してた200万を返還させた。一生帰ってこないと思っていたが、これはラッキーだった。
残り4700万。
残り4600万。
住んでた家を引き払って買った家に引っ越した。
残り4300万。
それでも62歳で貯金4000万超ってありがたい状況やん?家具家電新品だから10年は壊れんし、家も無借金でリフォーム済だ。
生活保護期間は国民年金払ってるカウントされるらしく、6万くらいは年金出るらしい。
リフォーム済持ち家、貯金4000万、月に10日くらいは働ける、3年後には毎月6万入る。豊かに暮らせずとも、人生終わりまで何とかなるくらいやん?
何故か毎週ホームセンターに通って使わない物を買い漁る。
美容整形でフェイスリフト?とかいうのやって、ラスベガスにも遊びに行った。
何か俺にも旅行のお土産とか買ってきてたから、多少の付き合いは有ってさ。
まぁ大金入ったから最初ははしゃぐのも仕方なしと思ってたけど、いつまでたっても落ち着く気配が無い。
それで俺もちょっと言った訳ですよ。
「お前、もう金稼げないのだから、持ってるもの使い果たしたら終わりやぞ。節約せぇや」ってね。
そしたらこう言い返すわけです。「私のお金や、お前が何言おうが関係無い」と。
まぁその通りですわ。俺の金じゃない。
そんでこう言い放つわけです「遺産目当てか?私は使い切って死ぬ。どうせ長生きせんし」と。
そんで当然のように金が無くなるわけですよ。4年位で。
6000万を4年で使い切るのすげーなと思うけど、まぁ使うつもりになったらそんなもんだわな。
使ってる最中に梗塞でもおこしていれば、幸せなまま逝けたかもしれんのに。
ちなみに男は、金がなくなったら出ていった。まぁ金のない婆さんにつきあう必要無いわな。
遺産が無くなる数ヶ月前には深刻さに気がついたみたいで、警備員の仕事増やしたり、外食のランク落としてた。
4000万から100万消えてもインパクトは少ないが、500万から100万消えたら怖いわな。
でも身についた贅沢癖は簡単にはなおらない。月100万使う所をなんとか80万には出来ても、金がある間は月10万生活には戻れない。
俺から見れば月80万使う生活とか意味がわからんし、贅沢出来て結構な事じゃねとしか思わん。
当人は相当なストレスが有ったみたいで、みるみる顔色が悪くなって身だしなみも崩れていった。
調子こいて呼んでたダスキンの家政婦や、毎月行ってたペットのトリミングもやめた。
でもパチンコと外食は遺産が無くなるまでやめられなかったみたいだな。
で、小金持ちの婆さんは、めでたく金無しの婆さんになりましたとさ。
で終わらないわけですわ。
口座に金が有るとクレジットカード作れるやん?
口座に一時期6000万とか有って、持ち家だっつー事で枠100万くらいのカードが有ったらしい。
66歳、警備員、貯金無し、100万を年利15%で借りて利払いだけで年15万。
まぁ無理だわな。
何か自己破産はイヤみたいで、今は月に25日くらい警備員してる。死んだ顔しながら。
給料入ると借金の利息を入れて、余った金でパチンコと外食をして、給料日前は半額になった麺類を買ってきて凌いでるらしい。
パチンコと外食をやめて、借金全部返したら使える金が毎月数万増えるぞと言ったが聞く耳は持ってない。
まぁ俺が見た所によると、遺産を貰う前より無くなった後の方が不幸そうだ。
一時期にでも贅沢出来て良かったねというのが普通の感性だと思うのだが、本人は違うもよう。
俺には理解できないが、金が最初から無いより、持ってたのが無くなる方が厳しいみたいだぞ。
宝くじに当たった人が不幸になるメカニズムを目の前で観察出来たっぽく、貴重な体験だったのでシェアしとく。
お前らも急に大金が入った時には冷静になるんやぞ。
すげー読んでくれてるみたいでありがたい。こんな話、顔出して出来ないしな。
冷静に見えるみたいだけど、当時は俺によこせ有効利用したると思ってたよw
爺さんは貧乏暮らしに見えたんだが、昔商売やってた時に貯めてたらしい。
たまに食うアイスが好きで、俺がハーゲンダッツ持っていったら喜んでたよ。小遣いはびた一文くれなかったけどなw
俺はそんな金持ってるとは全く知らず、爺さんが死ぬ1ヶ月前に入院した時に、銀行から金降ろしてこい言われて残高見てビビった。
「ホンマはお前に残すのが正しいかもしれんが、お前はまだ貯金1000万くらいか。ほなこんだけ入ったら人生狂うから遺言は書かん。」て言われて、300万だけもらった。(生前贈与枠で処理済み)
実際に目の前で狂ってる人見て、ちょっと納得した所も有る。全額欲しかったけどねw
母親はお盆の墓参りにも最初の2年くらい行っただけで、最近は無視してる。
俺のお盆の恒例行事の一つに、爺さんの永代供養墓にハーゲンダッツ持って墓参りが入ってる。
そんなに仲が良かったわけじゃなく、会うのも年に1回くらいだったけど、300万もらった義理が有るからね。よほど遠方へ転勤にならん限りは続けるよ。
俺が爺さんの口座見た時に入ってた金額は6400万少々。
俺にくれたのが300万
入院費や爺さんが住んでた家の片付けでかかった費用が100万を少し出るくらい
相続税は当時6000万まで無税だったみたいだ。
本当に食えないジジイだな。盆のアイスはスーパーカップにしてやろうかw
2年後の後日譚書いたよ。
バレちゃったから貼っておく。
アニメコンテンツってのは、基本的に一度見れば消化される。見るのに飽きるまでは、いくらでも見れるんだよ。
そもそもテレビ放送だって無料で見れるんだから、コース料理が無料の試食で、帰りのお土産が有料のレストランってとこかな。
試食を飽きさせないために無料のデザートをコック長が個人的に提供しただけ。
そのサービス精神を気に入って、デザートが入っていないお土産がバカ売れしたのだから、損をしたのはテレビ放送に広告を出した企業ぐらいじゃないの?
この流れを理解せずに「勝手に加えたデザートにO-157が混入したら責任とるのは俺だ!」って言ってコックに気の利いたことをさせないなんて言い出す奴がいたら、まあバカでしょ。
メインの料理を作っているのもそのコックだし、デザートの有無じゃなくてサービス精神が大ヒットを生み出したんだから。万が一O-157が混入した時の面倒リスクぐらい取らないと。
きつかった…
悪夢といってもバケモノに追いかけられるとか、高い崖から落ちるとか、乗ってたエレベーターの底が抜けて落ち続ける夢とかではない。
私は勉強が出来ない。これは私一番の…悩みであり弱みであり、身から出た錆だ。
中学受験で志望校へまぐれで受かり、落ちこぼれて今の高校に通い二年生になった今に至るまで、大小様々な悩みはあれどこれまで自分を苦しめているものはないだろう。
なぜ身から出た錆なのかは単純に、勉強が出来ない事に悩みつつもそれを解決しようと勉強してないからである。勉強をしていないならまだしも、長期休みの宿題や課題を出さない。これがいけない。
かつ、私は親を裏切り続けている。何度今度こそは頑張って成績を上げて提出物を出すと言っただろうか、何度欠点の電話に怯える母を、面談の度に恥ずかしい思いをさせてしまっただろうか。ちなみにこれらは現在進行形で続いている。それを何とかしようと真剣に思うぐらいには恐ろしい夢だった。まあこう思う事は初めてではなく、20回目ぐらいだったりするのだが。
そろそろ夢の内容へ移ろうと思う。
通っていた中学校と高校が混ざった校舎の廊下に私は立っていた。対面にいる担任から今学期の成績表を渡される。読まずとも壊滅的な内容だと私は知っていた。特に英語の成績が。担任は母を呼んであると言う。もうこの成績は伝えてあるらしい。
私はふらふらと教室へ戻った。母がいた。実際に最後に見た服装と1年の面談に来て来た服が混ざっていた。まあどちらも似たような格好だったが。彼女は黒に白いレースの縁取りがついた日傘を持ち、赤い口紅を差していて、シックな印象を与えた。この格好をした母と歩くのが好きだった事を思い出した。
母は私を責めた。彼女は怒っていて、呆れていて、悲しんでいた。私は辛くて、自席の机へ目をそらした。小学生の時使っていたうさぎの手提げ(これは母が祖母とふたり、母娘水入らずの旅行先でお土産で買ってくれたものだった)と、それに入った手紙が見えた。
手紙といっても置き書きのようなもので、A4サイズの裏紙に青いサインペンで書かれていた。母のそばを離れて手紙を取るわけにもいかず、手提げから半分程度はみ出した部分しか読めなかった。すぐ会えるとは思っておらず、手紙に気づいてもらえるようわざとそうしたのだろう。
手紙には「ママちゃんは悲しんでいます」ときれいな字で、というか思い返せば私の字で書かれてあった。母の字は丸っこく、独特なのだが、私は習字に通わせてもらっていたのである程度綺麗な字をしている。
ママちゃん、というのは彼女が私とふたりきりで楽しく話している時にふざけて使う愛称だった。普段怒った母はもっと威圧的で、口汚い言葉を使った手紙を書いていた。
私はここで
ああ、何ということをしてしまったのだろう、と思った。
気づけば母は成績表の入ったファイルを私に押しつけ、廊下を歩き出していた。階段を降りゆくところで私は慌てて追いつき、どこへ行くのかと訪ねた。彼女は履歴書を書きに行く、と言った。私は冗談じゃないと思い、持っていたファイルを踊り場に叩きつけた。中に入っていたプリントが舞い散った。母はどこかへ行ってしまっていた。
私がプリントを集めていると、どこからともなく8歳ぐらいの男の子と女の子が寄ってきて、プリントを拾うのを手伝ってくれた。男の子が私の成績表を見て、お姉ちゃんなのに成績わるーい、と言うので 私はうーん、お姉ちゃん認知症になってるからかも知らんなあ、若年アルツハイマーやわ、と笑って返した。そうすると女の子は じゃああそこにおらなあかんのちゃうん、と指さした。
その先にはステージがあり、私と変わらない年格好の車椅子に乗った人や移動式のベッドに寝たきりの人と共に講演をする大人がいた。私はなんだかぞっとして、あはは、せやな〜とかなんとか言った。
プリントが集まり終わり、最後に成績表を入れるだけになった。そこで初めて成績表を見た。惨憺此処に極めり、といった内容だったが一番は英語だった。1だった。ここでそういえば私、留学したいんだったと思い出した。こんな成績じゃ無理だとも。担任からの欄には、ずいぶんとかっこいいですね、と書いてあった。彼がよく言う皮肉だった。
私はファイルを持って立ち上がり、母を追いかけるべく走り出した。半分泣いていた。私は就職希望なんだからもう成績で取り返しがつかないとか、留学したかったなとか、母に申し訳ないなとかなんとか思いながら。中学校と高校の廊下を走り抜け、職員室の中を突っ切った時に母の背中が見えた。もう少しで追いつく、という時に目が覚めた。
いつもの布団じゃないので混乱した。が、よく思い出せばここはホームステイ先の自室のベッドの上だった。
現実の私は、このままの成績では留学することは出来ないと言われ、学年順位をどうにかこうにか100番上げてニュージーランドへ来たのだった。
怖い夢だった。もう二度と見たくない。その為にも勉強し始めようかな。
さて、今回はそんなアメリカの「原爆を日本に落とす計画」に関してのTシャツです。
すみません、もう後ろの方で、ちらちら見えてるからわかるよね。
これね、サンフランシスコのお土産店で、僕が初めてアメリカに行った時に買ったんだけどね。
酷いよね。
「MADE IN USA TESTED IN JAPAN」って書いてあるんだ。
これね、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフっていうところのお土産屋で買ったんだけどね。
師範学校だから学徒動員にもひっかからず、このまま戦争に行かずに済むのかと思ってたら、
最後の最後の年に徴兵されて、広島の方の兵学校に行かされたんだ。20歳くらいだった。兵学校は、
原爆が落ちるような都心部でなくて山の田舎の方だったから、何とかギリギリ助かったという人間なんだよ。
こんな経験をしてる人って、僕だけでなくてすごく多かったんだよね。
僕と同じクラスの子でも、家族の誰かが戦死したり、身体障害者になってたりというのが当たり前だった。
だから、生まれて初めてアメリカに行って、サンフランシスコっていうすごく明るい街の明るいお土産物屋で、
こういうTシャツを堂々と売っているのを見てめちゃくちゃビックリした。
なんかね、ブラックジョークというにしては(笑)、ちょっと酷いなと思ってたんだけどね。
これ着る機会あるかどうかわかんないなぁと思いながらも、一応買ってみたんだよ。
一応買ってみて、SF大会とかに持って行ってみた。
さすがに着るのが怖いから、「こういうTシャツ持ってるんだ」って話したら、やっぱ真面目な人はね、
「やめろよ」とか言うんだよ。
でも、当時、1970年代後半のSF業界というのは、本当にあらゆる価値を相対化することが正しいという
すごく大きな流れがあった。
例えばね。堀晃さんっていうSF作家がいて、この人、書くものはハードSFなんだけど人格は本当に
デタラメという人なんだ。
かんべむさしさんと一緒に2大ちゃらんぽらん大阪SF作家だったんだよね。
ただし、かんべむさしさんの方は書くものはちゃらんぽらんなんだけど、人格は大真面目なんだけど(笑)
で、人格がちゃらんぽらんな堀晃さんは大喜びして、「それどこで売ってるの?」って、欲しがってくれたんだ。
でも、人格はまじめなかんべむさしさんには「そんなもの絶対に着るな!っていうふうに言われてしまった。
小松左京さんはどちらかというと喜んでくれた。
ということで、当時のSF界でも作家ごとに反応が違ってたんだよなぁ。
なぜこんなにSF作家の反応を覚えているのかっていうと、20歳くらいの僕にしてみれば、SF作家というのが、
その人たちがどう感じているのかというのを自分の価値観にしようとしていたんだよね。
今言いながら、めちゃめちゃ恥ずかしいんだけどさ(笑)。
かんべむさしさんが怒っているから、やっぱりいけないのかなとか。
そんなふうに、もうホントに、ワナビー君の恥ずかしい奴だったんだ。
筒井康隆さんにはすごい冷たい目で、「原爆ごときで過激ぶるな!ガキめ!」というような感じで
見られてしまったんだよね。
で、この間、捨てられないTシャツコーナー用に、「Tシャツどんなのがあるかな?」って掘り返したら、
これが出てきたわけ。
やっぱりその頃から30年以上たった今だから、それぞれの人の意見がわかるなぁ。
怒る人の意見もわかる。
そういうのは笑っていいかもしれないけど、人前で笑うもんではないっていう人の意見も分かる。
あと、堀晃さんの「いやそんなもんをTシャツにして売っているっていうアメリカ人の感性が面白いじゃん。」
というのもわかる。
なんかねぇ、いろんな人の意見がわかるようになったなぁって。
でも、逆にわかんなくなったのが、筒井康隆さんの「原爆ごときで過激ぶるな!ガキめ!」
「なんでお前、人のことをそんなに言えるんだよ!」(笑)って。
今に至るまでの筒井康隆の人生で(笑)、「お前そこで怒っちゃいけないんじゃないかな」って思いました。
という思い出のあるTシャツでした。
同じSFファンのポール・アレンによって、今朝、インディアナ・ポリス号が発見されたと報道されたのも
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「岡田斗司夫という時点で読むに値しない」という人もいるだろうし、別に読みたい人だけ読めばいいと思うのだが、
「日本の大半のウヨク(愛国主義)とサヨク(相対主義)は皆インチキだよな」というか
上記の引用で「アメリカ憎し」の感情に飲み込まれたら、またそれも違うと思う
それにサイコパス側面がアメリカの全てとは言えない、感情に流される側面というのも存在するのが現実だ
宮崎駿がアメリカを嫌う理由も分からなくはないし、「この世界の片隅に」がアメリカで上映された意義というのも
非常にあったと思うし(米国人が例え理解出来なくても)、反対に、日本に対する拘束具としての平和憲法に甘えて
自立しようとせずに、こういう目に遭わせたアメリカ自身に守られている立場に甘んじる日本というのも確かにある
あれだな、アメリカで講演する日本人が、上記のTシャツを着ていったら、どういう反応をするか?という社会実験が
見たい気分はあるな