はてなキーワード: ありがちなとは
首題のとおり。
知人になんて話せない悩み、葛藤、苦しみをこの場を借りて吐露させていただきたく。
皆さんご存知大規模新興宗教の創◯じゃない方(統一うんたらでもないしオウム関連でもない)の信者家庭の二世として生まれた。
外見はごくごく普通の家庭。
都市部に30年ローンで戸建てを購入し、両親共働き二人兄弟の、なんともありがちな家族像という感じ。
物心付いた頃から頻繁に“支部”に連れて行かれ、同年代の子どもたちと一緒に、時には“御法話”を聞いたり、時には遊んだりしていた。
(もちろんそれ以外にも、一般的な習い事をしたりという、一般的な社会的生活も送っている。)
教団では常日頃から人に優しく、人と仲良く、的なことを教わっていたので、子どもながらに離婚することって信者としてどうなのと思った記憶がある。(ちなみにその後しばらくして教祖も離婚した。わけが分からん。)
無論子どもの意思など関係なく両親は離れ離れになり、今でこそもう何とも思わないけれども、当時とても悲しかったことは覚えている。
ただ、幸い何不自由なく有名私大に奨学金無しで通わせてもらい、誰もが知っている大企業に就職することもできた。
両親の離婚はつらかったけど、何不自由ない、寧ろ人並み以上の生活をさせてもらったことにはとても感謝している。
信者、それもいわゆる宗教二世は恐らく特に、世間が思ってる以上に、新興宗教というものが世間から受け入れられないものであるということをよく理解しているし、世間からの差別にも近い視線に恐怖し、あるいは肩身の狭い思いをしている。(と、思う。稀に堂々と周囲に信仰告白をする人もいるけれども、それはかなり信仰度合の高い一部の人だけだと思っている。)
自分は、自分がこの宗教の信者であるということを死ぬまで他の人には話せないし、話すつもりも全くない。
墓場まで持っていく、とはまさにこのことだと思う。
しかし一方で、この宗教の“教え”については、そんなに間違っていないと思うし、自分の価値観のオリジンとなっていることは認めざるを得ない。
教義としては「愛・知・反省・発展」という4つの要素を常に実践せよということを教え込まれたが、それ自体はまったくもって正しいことだと思うし、そのためか、教団の信者さんたちは皆、優しく、誠実で正直な人ばかりだった。
世間一般的な水準に照らし合わせると、皆がいわゆるいい人だった。
手前味噌ではあるが、自分自身もその要素をある程度は持ち合わせた人間に育ったと思っている。
つまり何が言いたいかというと、信仰のことは一生教団以外の人にカミングアウトすることはできないが、一方で教団を悪く思っているかというと、必ずしもそうではない、ということ。
神の存在(それが教祖かどうかはさておき)や輪廻転生は信じているし、誰も見ていなくとも善い行いを重ねることで死後天国に戻れる、ということも信じている。
かといって教団に積極的にコミットしたいわけでもないので、社会人になってからは教団とはだいぶ疎遠になっているし、いわゆるお布施も直近数年は全くしていない。
でもこんなだから、信者以外の人とは結婚は難しいし(相手方に迷惑をかけるのではないかと思ってしまう)、かといって信者とは結婚したくない。
この先もできる見込みなどない。
自己責任論を突き詰めた結果、自己肯定感が皆無(寧ろマイナス)で奥手な人間が出来上がってしまった。
人生詰んでいる。
いい大学出ていい企業に勤めても、宗教二世という事実が全てを差し引く。
この先何を糧に生きていけばいいのだろうか。
先行きが見えない。
最近教祖様の実子が次々と破門され、しかも教祖様は二回り以上も年下の女性と再婚してたし、教団も組織としてはきな臭くなってきてしまったので、ここいらが潮時なのだろうか。
(ちなみにYouTuberをやっている長男も、破門前はノリノリで教団の映画とか音楽とかやっていたので、破門後の諸言動もあまり信用していない。)
この先どのように自分の人生を全うしていくのか、真剣に再考しなければいけない。
・ルールがわかり始める
↓
・レイアウトを考えるのが楽しすぎて日中そればっかり考えるようになる
↓
どれだけ凝っても、結局は実際に触ることはできない空想なんだと急に気づく
↓
・以後、二度とさわらなくなる
もう挫折しそう
曲もいまいちだしデザインもがんばってるのはわかるけどなんかモドキっぽくてスタイリッシュさを感じない
当時は時代性とかもあって新鮮に感じた点があったってのを差し引いてもあんまりとがったかんじがない
人の多い街にはできるだけ行きたくないが人に会うために仕方なく出かけた。
雨まで降って最悪な気分だったが用事を済ませた後はせっかくだから少し散歩して帰るかと適当にうろうろ歩いてたらなんとなく気分も良くなってきた。
それにしてもすれ違う人との距離が近すぎる。狭い道が多いので傘の先がすぐにぶつかりあうしやけに外国人観光客が多いのはなぜなのか。
いかにもしょうもなさそうな小さな店の前でアメリカ人だかヨーロッパだか背の高いやつらが行列を作っている。
日本人は誰も並んでない。きっとガイドブックかなにかを見てオススメされていたんだろうお前らそんな店にはなんの価値もないぞ。
もういいやさっさと帰ろうと思ったがコーヒーが飲みたくなったので駅前にあったコメダ珈琲に入った。
店内は満員だったが俺は1人で1人席だけ空いてたので先に案内してもらえた。
雨も降ってそれなりに気温も低かったが湿度がすごいので蒸し暑さがあったのでアイスコーヒーを頼んだ。
右斜め前の席に女が2人向かい合って座っていた。俺の席の角度からは奥の席に座る女の全体が見え、手前に座る女の横顔が少し見えていた。
奥の女は黒髪の長髪でそれ以外はこれといった特徴もない、田舎っぽさが残る素朴な雰囲気の20代くらいの女の子だった。
手前に座る女は茶髪のボブでもう少しオシャレな雰囲気だったが若作りしていて年の頃は恐らく40代くらいに見えた。
2人は友達という感じでもなく黒髪女子が主に話し続けている。興味を失ってしばらく自分の手を見たりしていたんだが、気がついたら彼女らのテーブルにカラフルな箱がいくつも並べられていた。
20個くらいのアクリルでできたような透明度のある四角い箱で、青赤緑黄色様々な色と明るさの違いなどがあった。
おもむろに黒髪女子が無色透明の箱を手にとってしばらく眺めた。
手前の女は「なんでもいいからイメージを言ってみて?」と促す。
黒髪女子はしばらく考えてから「完全な透明、というか、透明すぎてなにもない、なにもないということは全部あるっていうこと」
という平凡でありがちなイメージを口にする。手前の女は「ほ~」と小さめに感嘆の声を上げながらノートになにかメモしている。
青い箱を手にとって「都会、でも静かな、都会って人が多くて騒がしいけど、でも都会って実はすごく静かなんです。」
手前の女はまた「ほぉ~」と小さく感嘆の声を上げながらノートにメモを取る。
なるほど、この女はプロだな、と俺は思った。
黒髪女子のほうはこう、なにかカッコいい感じの事が言いたいという気持ちが出てしまっていてなんとかひねりのある回答を出したいんだが失敗してるという感じ。
途中で話が脱線いて黒髪女子の前カレの話とかもしだすんだが、手前の女はひたすら聞き役に徹している。
その後は好きな箱同士のペアを作ってみてと言われて「私、優柔不断だから時間かかっちゃいますよ~」「ああ大丈夫よ」みたいなこと言っていた。
その辺で俺は飽きてしまったしコーヒーも飲み終わったので席を立って店を出た。
「あらゆるものは実は透明で、脳や目を透してそれに色がついているだけで、見るものが誰もいなければ全て透明なのかもしれない、世界そのものが無色透明になっているのを想像した」
今シーズン私スプラトゥーン3は控えめにって宣言しまくりまくりまくりすてぃーな感じで緩ーくプレイしているんだけど
こないだ凄い人とすれ違っちゃったというか対戦チームにいたというか、
熟練度5つ星のバッジをローラーで3つネームプレートに貼っている人がいて、
この人多分使い慣れて立ち回り凄い人だと思う反面。
私も愛して止まないセブンファイブオーライダーを3か月ずっと持ち続けてプレイしてやっと星5つの熟練度のバッジをもぎ取った苦労は知っているので
相当やり込んでいる人で且つローラー愛に溢れている人なんだなぁって
ローラー大好きなのね!って
私がキルしたときに気の毒だけど傷だらけのローラーなんちゃって!って言いたいところをグッと我慢して山脈に向かってヤッホー!叫びたいところよね。
そのブキ愛に溢れつつやり込みも相当なので、
かなりの立ち回りが凄い人なのよ。
思わずとにかく言葉の意味はよく分からないかも知れないけど凄い自信に満ちあふれていて近寄りがたい強さを持ち合わせているイキフンを醸し出しているのよね。
そんな人初めて見たわ。
熟練度星5つバッジを付けてる人は私以外にたまーに見かけるけれど、
それもまた鍛錬して使い込もうかなぁ~って初心忘れるべからずをこの橋渡るべからずと同じ気持ちで思ったわ。
私は軽いローラーが好きでよくカーボンローラーは使うんだけど、
あのインクがたくさん飛んでくる飛距離もでる重いコンダラー級のローラーってあるじゃない、
あれの破壊力凄いわよね。
でも私も重いコンダラー級のハイドラントは使うけど距離置けるからって思ってるけど、
まあ昨日は凄い人見かけたわ!って話しね。
だってアップデートのごとに強くなり続けているっているサブとスペシャルが
サブのラインマーカーの着弾点の塗りが40パーセント広くなりました!って
ラインマーカー投げてみたけど、
想像以上にラインマーカーの着弾塗り面積デカいから笑っちゃうわ。
なのでセブンファイブオーライダーアップデートのたびに強くなり続けているので、
オリジナルのセブンファイブオーライダーもまた魅力アップなのよねー。
使う人多く見かけるようになって嬉しい反面、
それはそれでブキ使用人口が増えるのも嬉しいけどそう言う反面があるのよね。
でも久しぶりに手に馴染んだブキはいいわね!って思った
スプラトゥーン3の話しでした。
うふふ。
完全ペキカン食品にありがちな長期保存可能がゆえあんまり美味しくないってのを払拭できるから、
まあ温めれたら温めて食べるとベターよ。
本当はリアルレモンマジ搾り果汁の方が酸味風味などおよばないぐらい迫力はあるわよね。
なんか風強いときあるけど
春の風なのかしらね一番の。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
他者に踏み込まない優しさと勇気を出して一歩踏み込む優しさというのは別種のもので、どちらも大切なもの。どちらが優れているというものでもない。
と思うのだけれど、ネットのありがちな非モテ叩きみたいなのを見ると、前者の類はただの自分本意な臆病さで、人との密接な関わり合いでは後者こそが大事なんだ。みたいな事が言われている。
こういう社不適評論をシェアして芯を捉えた「禁止カード」だー刺さったわーと卑下してキャッキャするのが流行りのようだが、私は的外れだなと思っている。
まあお説教された通りのような人もいるのだろうけど、そもそもの話として二者択一でないものをそうであるように語っている点が。
ストレートに言えば根本的に非社交的なタイプの人間は、他者への敬意として適度な距離感を重んじるが故にそうあるのではないかと思う。それを嫌われたくないだけの裏返しだ、と一義的に結論づけるのは単なる露悪的な邪推ではなかろうか。インターネットでクソリプを送り散らかすような類の非社交的な子供はこの話から捨て置く。
基本的なスタンスとして適度な距離感を持ち合わせた上、そこで初めて他者に踏み込む勇気があると思う。でなければ、それはともすれば自他の区別が未熟で無神経な人間になりかねない。
差し出がましい真似をして、遠回しにでも苦言を呈されたら「良かれと思ってこうしてあげたのに!」と逆ギレするタイプとはそういうことだ。
個人主義(これを利己主義と読み替える人にはこの文章の意図は一切伝わっていないと思います)が絶対の価値とは言わないけれど、少なくとも今の社会では一定程度支持され基盤となっている価値なので。
まあ一歩踏み込む事だって重要な事なので、どちらも大事な態度。なのだけど、世の中両方のバランス感覚を適度に養ってきた人ばかりでもない。
程度の差はあれ、ドライか無神経かのどちらかに偏りがち。その上でドライな方がマシじゃね、という私の素朴の感覚を個人主義なんか持ち出して理を持たせてみたという訳だ。
や、人は社会の中で生きるんだからサ、そのヌクモリティに囲まれるのがリアリティってもんでサ。慎重にばっかりなっても仕方ないし、もっと他人に踏み込んでいかないと。失敗しながら人間関係を覚えないとサ、みたいな事言う人もいるんだろうけど。
どちらが然るべき態度かと言い争えば水掛け論にしか
ならないし、みんな愛し合って生きようねという事です。まあ皆さんが信じる愛や誠実さの形が異なるので戦争が起きるんですけど。
お絵描きやプログラミングなど、創作系の趣味において、自分が欲しいものがなかったり、あっても不満だったりすると、「自分で作ってしまおう」というのは一番ありがちな動機
自分で作ろうと思った時に選択するツールがアナログ画材なのか、液タブなのか、AIなのかの違いなんてその時点での目的の達成しやすさの違いでしか無いじゃん?
曲作りたいなら打ち込みかもしれないけれど、モテたいが目的なら自分でギターを弾くじゃん?
手作業の温かみなんて求めてハンドアセンブルで手動最適化なんてせず、コンパイラの自動最適化のほうがよっぽど高度に最適化してくれるじゃん?
今私は交通誘導のおじさんをしてるが、たまにぶっ倒れそうになるだけで特に不満はなかった。
でも最近じんわり膝が痛い。
立ちっぱなしだから膝や腰に負荷がかかる。私は膝にくるらしい。
特にスキルもないまま三十超えちゃったわけだが、転職しないとたぶんやばい。膝が壊れる。
カカシも看板も立ってるから価値があるわけで、私も立てないと価値がなくなる。やばい。
緊急重要な場面に直面すると、テンパってカオナシのモノマネを始めてしまう。
カオナシごっこしてると、最も理解ある相手でも待ってくれるだけで、その場を離れて仕切り直してくれるわけではない。
適職診断みたいなので散々プログラミングがおすすめで出てくる。勉強しようと思って苦戦して、環境構築のところで詰んでるので「helloworld」までいかない。
大体スタートに立てずに数週間苦戦した人間がこの先何ができるねん。
無料でプログラミングのコードの教えてくれるところで、見よう見まねであれこれやってみたが「だからなに?」って感じの話ばっかりで、次全く同じことを要求されても何もできる気がしない。
私はプログラミングがしたいんでなくて、なんか飯の食えそうなものが欲しいだけなんだよな。だから仕事のイメージが一切ないので、自分がプログラミングについてどの程度わからないのかすらわからない。私がプログラミングできると何ができるのかそもそもしらん。暗中模索とは誰が言い出したか良い言葉だ。今の演習が何のために何故やってどこに向かって何ができるのか全くわからんのでやめた。
どうしたら良いのかマジでわからん。私の膝が爆発するまでにどうにかしたいが、何をしたら良いんだ。気ばかり焦るが進んでる感覚になれるものが一つもない。
金はない。
転職サイトでずらずらと候補出てくるが、できそうなものがマジでない。
空いてるところに私を突っ込みたいのはひしひしわかるし、その方針が正しいとは思うのだが、できそうにない。
ほんとにない。
日本の生活保護受給率は20%切ってるらしい。窓口で粘る気力もない私だと、受給できることはなさそうだ。
多少膝に気を使っても後2年は続かないが、続かないからと言ってその後どうしたら良いんだこれ。
どこの何を見ても、テンパってオタオタして何ともならない予想しか立たない。
履歴書みたいなのキチンと書くのもめちゃくちゃ苦痛だから、いくつも用意することもできない。
私のように大手を振って街を闊歩できるタイプの低知能だとどうにもならん。
前に精神科いってwise何とか受けたが、均すとIQ105で平均って出たわ。
いやいや、じゃあ私の低知能はどこから来るんだよ。薬もらったけど下半身おかしくなっただけで何もないからやめた。
どうすんだこれ。
将棋とかで言うと、あと8手とかで詰むの分かってるのに投了できない感じ。
似たような問題に何度も何度もぶつかって、毎回どうにもならなくてここまできてしまった。
死にたくはないが何ともならない感じだけある。
何も身につく気がしない。何なら身につくのかもわからない。
手も不器用で話が上手いわけでもなく、ゴールが見えないと我慢も効かない。最後の資本だった体も限界だ。
どうしたら良いんだこれ。
ほんとに知能に問題がないと仮定したらメンタルの問題のはずだが、テンパりやすいものを治す方法なんか存在しないだろ。気の持ちようなんだし、落ち着くように言い聞かせるのを30年はチャレンジしてるわ。
「テンパってるのでお薬飲みますね」なんてできるかよ。
少子化の話題になるといつも、仕事と子育ての両立が大変すぎるという意見がたくさん出てくる。そんな意見ばかり聞いてると子供を持つことに前向きになれないだろうから、そんな人ばかりでないことをこれからの若い人たちに知ってほしくてこのエントリを書く。
うちは正社員フルタイム共働きで未就学児&小学生の子が3人(9歳7歳4歳)いるけど、毎日余裕があり健康的な生活を送れていると感じるし、独身の友達からも、「子持ちの友人は皆とても大変そうに見えるが、増田は全然大変そうではないね(笑)」なんて言われたりするので、理由を考えてみた。
「実家の近くに住んでいて、何かあったらジジババが助けてくれます🎶」なんて言わないから安心してほしい。実家は両方ともそこそこ遠くて、普段の日常生活で助けてもらうことは皆無。
早速本題に入る。
私の考える、両立余裕ッス!な理由を順番に挙げていく。
①職場が近い
私も夫も、会社は違うが、職場が車で10分程度の距離。その上、夫はほとんどリモートワークでたまに出勤する程度。そりゃ楽だ。子供が小さい間はありがちな時短勤務も不要。
夫はホワイトカラーの頭脳労働でストレスは溜まるが肉体的には目の疲れや肩こり腰痛ぐらい。私はブルーカラーだがデスクワークが多い仕事。帰宅して家事する力が残ってない…というようなことはほとんどない。
妻もDIYや車のメンテをするし、夫も子供の弁当作りやPTAの委員をやる
気付いた方・得意な方がやる方式でうまくいってるのはラッキーだと思う。
④親子ともに障害がない
親子ともに健康で、身体的障害・精神的障害・発達障害がないのはハッキリ言って、それだけで恵まれていると思う。
子供達は主張が激しいので兄弟喧嘩が多く、聞き分けが悪く、性格的にはあまり育てやすい子達とは思わないが、頭も良く、能力的?には育てやすい方だと感じる。
⑤家の近くに手頃な値段の病児保育がある
子供が風邪を引いたり熱を出しても、医師の診察を受けた上で病児保育に預ければ30分の遅刻だけで済む。コロナでない限りは、仕事を休む必要がない。行政の補助金がジャブジャブ入ってるので、費用も一日2500円と格安。赤ちゃんの頃は本当に助かった。看護師さんが診てくれるので安心。
うちの自治体は基本は18時30分まで、延長利用だと19時まで預かってもらえるのだが、他の自治体に住む友人は、小学校の学童の預かり時間は17時までで延長もないから、小学校に入ったら仕事と両立できるかなぁと悩んでいた。
平日は毎日7時に起床(春休みなどの弁当作りがあれば6時半に起床)、用意して、子供を送り、仕事行って、子供を迎え、帰ってきて、晩御飯食べて、風呂に入って、22時〜23時ぐらいに家族皆で寝ている。子供の寝る時間遅すぎ!って思う人多いだろうけど、うちの子たちは皆宵っ張りなんだよなぁ…
職場が遠い友達なんかは、時短勤務しつつ毎日21時には子供と一緒に寝て、朝4時半に起きてると言ってた。
夫も私も、コロナ前は交代で月に1〜2回は飲み会に行ってたので、会社の人との付き合いもそこそこ楽しんでいる。
うちの事例とは逆に、職場が遠かったり、パートナーが家事分担してくれなかったり、子供が発達障害でこだわりが強かったり、だったら仕事と育児の両立は大変だろうことは想像に難くないし、うちがラッキーなだけというのは承知しています。
できれば職場の近くに住め
一部のプログラマ界隈男性が子ども生まれたときに、my new gearのノリで赤子がローンチされたとか言ったり、子供をガジェットに例えて話するの、アレ気持ち悪い
ネタで言ってるつもりなんだろうけど、他者への関心とか優しさがない人ほど言ってるので、人の心がない魔物が人の子さらってきておもちゃにしてる作品見てるときの嫌な気持ちになる
よくないオタクにありがちな、感性が死んでるせいで何でもかんでも既知のミームになぞらえてしか言葉が発せないアレ、独身でやってるなら好きにしろとしか思わないけど、パートナーや子供に向けてやるのやめろよって思う
↑の近況報告を書いてから相当に間が空いてしまったが、実はレッスンは続けていたという。
それでいま再び筆を執ったのは、レッスン再開からちょうど10年の節目ということだけではない。
来月のレッスンから、ようやくメンコン(メンデルスゾーンの協奏曲)に取り掛かれるようになったことが、一番の報告だ。
これについては前のエントリで
全てが順調に行けば、年内にも念願のメンコンに取り掛かれる
と書いたけど、その意味では全く順調ではなかったのだ。
そこら辺の話を、例によって長くなるけど書いていこうと思う。
ちなみにメンコンの前準備としてモーツァルトの協奏曲に取り掛かったのは本当。
全5曲ある協奏曲の中でもかなり難しい第5番を、結局全楽章さらう結果になった。
楽章の合間にいくつか他の曲を挟んだ(ベートーヴェンのロマンスとか、クライスラーのロスマリンとか)ものの、モーツァルトに取り掛かってから現在までの7年の多くの時間は、モーツァルトに費やしたと言っていい。
こう書くと、曲のボリュームから言えば「時間かかりすぎやろ」と思うのが普通だろう。
確かに今思えば自分が先を急ぐあまり、少なからず荷が勝ちすぎる曲だったのは否定できないが、それでもここまで時間がかかった理由としては十分な説明ではない。
荷が勝ちすぎた曲だったことは前提として
という2点が大きいので、それぞれ説明しようと思う。
幼少からヴァイオリンを習っていた、いわゆる「アーリー組」の読者諸兄ならほぼ全員通ってきた道だと思うが、ヴァイオリンのレッスンというのは基本的に
ことで、「曲を弾ける」ようにしていく。
でもこれ、言葉を選ばずに言えば「先生の劣化コピー」を作っているに過ぎないわけだ。
もちろんそうやって一曲仕上げる際に得たノウハウを、他の似たような楽曲に応用できればいいが、学習者にそこまで耳やセンスが育っている保証はどこにもない。
実際、「よくわからないけど先生の言う通りに弾けるようになったからいいや」で済まし、結果「お前先生がいないと何も出来ないのか」みたいに、解釈力が全く育たないまま放置されている人は非常に多い。
何よりこうしたお仕着せまがいの教え方は、学習者が難しいことを前向きな気持で克服するのに必要な「憧れ」をしばしば忘れさせ、嫌々お稽古ごとコースに陥らせるわけで。
そしてモーツァルトのような、奏者への要求レベルが相当に高い曲をやる頃になるとそのレクチャーというか諸注意は微細を極める(それこそ音符単位)ため、
「もういいです勘弁してください!」
(それを踏まえると辞めることを許されない、プロを目指す子達がどんな気持ちでヴァイオリンをさらっているかは、想像を絶するものがある)
「自分が弾きたい音で弾く=弾けるようになるまで絶対に妥協しないことを基本にしなさい」と。
そのうえで
「増田さん、その解釈に基づく演奏でステージに上がったら恥かくよ(変人ショーになってしまう)、なぜなら(以下説明)」
「その部分が無味乾燥に聞こえる時点で解釈が足りてないと思う」
「それだと増田さんの弾きたい音は出ないから、これをこうする練習をしましょう」
という、クラシック=最上のものと定義される音の有り様を、懇切丁寧に教えてくれた。
お陰様で、モーツァルトの協奏曲5番は「本当に難しい」と思ってはいてもモーツァルトを嫌いにはならなかった。
気がつけば音楽に対する集中力と解像度は飛躍的に上がったし、なんなら
「アニソンやボカロみたいなポピュラー楽曲のカバーでありがちな、ポルタメントや過剰なトリル/アクセント/ビブラートに頼らない、あくまで上質なクラシックの弾き方で弾いて喝采を浴びてみたい」
みたいな新しい夢も出来た。
時間はかかったけど、その分より大きな高みに登っていける基礎体力は間違いなくついたと思う。
結局、能力に大きなばらつきがあることが先生はもちろん自分自身も、諸々の見通しを大いに誤らせる結果になった。
何に苦しんだかというと
これだと親指以外の4指を自由に動かせないのを無理やりコントロールする=コントロールできるまで途方もない練習量が要求される。
なのでこれ以上難しい曲に取り組むのであれば先がない(最悪弾けないまま体を壊しリタイヤ)という、致命的な問題だったのだ。
これについてはヴァイオリン以外の、逆上がりや二重跳びができないのはもちろん、ボール投げもバレーのサーブもヘボかったりとかも踏まえると、もう間違いなく自身の神経発達に問題があると確信させられた。
結局、なんとか「左指がデフォで緩んでいて、他の4指の力の入り具合に連動して自然に屈曲するように力が入る」動きを無意識にできるようになったが、もしこれが体得できなかったらと思うと、今でも怖くなる。
他に楽器を常に鎖骨の上に置く、右肘が後ろに逃げないよう腕を重力に任せて落とすといった基礎もツッコまれたが、どちらも10日程度頑張ったら治ったので軽症で済んだ。
なお、今もメンコンの最初の方だけしかさらえていない。納得できる音が出ないので先に行けないし、先を見ても意味がないからだ。
こうやって一歩ずつクリアしていけばいいと思えるくらいには落ち着いた。
正直とても難しいけど楽しい。